種蒔きと刈り取り
NO. 3109
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---- 1908年9月10日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年8月16日、主日夜の説教「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」。――ガラ6:7
ルターの『ガラテヤ人への手紙注解』と、カルヴァンの注解でこの箇所を調べてみると、この学識ある講解者たちがふたりとも、この箇所は、教役者たちに対してその信徒たちが金銭的に援助する際の待遇に言及したものだとしていることが分かる。彼らは、非常に適切にも、6節と7節のつながりを指摘している。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」。パウロの時代には、このような命令の必要があったと思うし、今もそうした必要はある。その当時、福音を聞いている人々の中には、説教者を扶養するために気前良く貢献していた者らがあり、使徒は彼らのささげ物は良い種を蒔いているようなものだと云うのである。その報いとして、神は彼らにあふれるほどの収穫を与えてくださるであろう。だが、他の者たちは乏しいささげ物しかせず、それゆえ、それに比例した僅かな報いしか得られないであろう。
しかし、私の確信するところ、使徒はそれよりも広い範囲のことを考えており、この言葉は1つの一般的な原則を表わしているのである。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」。それで私は、この講話の最初に当たって、次のことをあなたに思い起こさせたいと思う。すなわち、私たちの現在の人生は、考えられる限りきわめて重要なものである。というのも、この羽根の生えた一刻一刻には永遠の問題がかかっているからである。私たちの現在の行為は、取るに足らない事がらではない。それらによって、私たちの永遠の運命は決定されることになる。私たちの行なう一切のことは、ある程度までは、永遠によって刈り取られるものを蒔いているのである。
I. それで私が最初にあなたに注意してもらいたいのは、本日の聖句が私たちに告げるところ、《神は軽くあしらって良いお方ではない》ということである。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」。
ある人々は、建前はともあれ、実際上は、次のように主張することによって神を軽くあしらっている。すなわち、美徳に対する報いなどなく、罪の対する罰などないのだ。1つの結果が、すべての人に同じように起こるのだ。人格をいかに高潔なものとしようと、いかに下劣なものにしようと、私たちはみな同じ所に行くのであって、そこで忘却の中に眠ることになるのだ。あるいは、たとい何らかの来世があるとしても、それは私たち全員に共通のものとなるのだ。事実、死後に関する一切の問題は、まるで取るに足らないでしかなく、全くの無関心をもって遇して構わないのだ、と。
しかし、愛する方々。そうではない。この世には全知全能にして、遍在の神がおられ、この方は宇宙の道徳的《統治者》であられる。このお方は、ご自分の律法が破られた場合、罰を与えずにすますお方ではない。ご自分の御名が二の次にされ、ご自分の福音が蔑まれ、ご自分の御子が拒絶された場合、ただですますお方ではない。このお方は人類の種々の行為について極度に敏感であられる。このお方は、花崗岩や鋼鉄でできた神ではない。ご自分がお造りになった者たちの行為も、言葉も、想念さえも注意しておられる。そして、もし彼らが最後まで悔悟しないままだと、イザヤの時代に仰せになったように、遅かれ早かれこう云われる。「わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう」[イザ1:24]。
他の人々はこう思いみなしているように見受けられる。すなわち、たとい未来や、永遠の報いや罰があるとしても、――現世で蒔いたものの刈り取りがあるとしても、――単に口で告白していさえすれば、救われるだろう、と。彼らはこう想像しているように見える。もし自分たちが、時たま、「感謝します!」、と云って自分の《造り主》にお愛想を云ったり、形式的な祈りを二言三言口にしたり、はなはだしく放縦な生き方をせず、そこそこ上品な生活をしていさえすれば、それで神の要求を満足することになるだろう、と。これほどひどい考え違いはありえない。いと高き天におられる神は自ら完璧にきよいお方であり、その完璧な律法は神ご自身も同然であって、神がその義なる律法を堕落した人の意志に順応させることなどあるはずがない。神があなたの存在の、上っ面だけの敬意を受け入れるなどと思い描いてはならない。神はあなたの心と、魂と、知性と、力とをご自分のものとしない限り満足なさらない。いかなる人も、神が要求しておられる心の明け渡しや心からの奉仕を他の何かで代用させて神を欺けるなどと考えてはならない。
他の人々はこう思っているように見える。すなわち、キリスト教信仰の告白をしていれば、それ十分である、と。彼らの考えによると、もし教区教会か、非国教会の会堂に出席し、キリスト教団体や博愛的な諸団体に定期的に寄付をしていれば、自分たちに要求されていることはそれで尽きるのだ、と。彼らはそのようにして神を――シナイの山頂にやって来られた神、また、そこで雷と稲妻の最中から十戒をお与えになった神を――侮っているのである。だが、神は、キリスト教信仰の単なる告白で満足なさることはない。自分が本当は感じてもいないことを告白するのは、自分の罪を増し加えるだけであり、偽善的な告白は自分の罪をよりはなはだ重いものとすることである。神はあなたの、心のこもっていないいけにえを、また、あなたの無意味な言葉や、むなしい文句の数々をお受けになるだろうか? 否。神は単なる外的なキリスト教信仰の形式や種々の儀式によって侮られるようなお方ではない。
他の人々は、自分が死に近づいたとき、形式的なお追従を云うことによって、神をかつぐことができると想像している。ある人が死にかけている。すると、たちまち叫び声が上がる。「教会の先生を呼んできてくれ!」 彼らはしばしば、非国教会の教役者を呼びにやる。自分たちが彼の牧会する場所に一度も出席したことがなくとも関係ない。そして彼らはこう想像しているように見受けられる。私たちが、その枕頭に連れて来られたときには無意識になっているだろうようなあわれな人間に対してさえ、何らかの種類の魔術によって奇蹟を行なうことができる、と。もしその人がその時までにキリストに信頼を置いていなかったとしたら、いかなる者もその時その人にそうさせることはできない。それでも、その人の友人たちは真夜中に私たちを呼び出しては、私たちがその人のために何かをできるものと想像しているのである。私は今、あなたがた、定期的に福音を聞いており、それゆえ、ずっと良く物を知っている人たちに対して語っているわけではないが、こうした意見は非常に広くいだかれている。だが私は、いかなる司祭的な力を有していると考えられることも真っ平御免である。私には、あなたがた、キリストにある兄弟姉妹が有している以上に、ひとかけらも余計な力は有していない。私はただの福音の説教者であって、あなたがたの中の誰からであれ福音の使信を喜んで聞くであろう。定命の人間から神聖な油注ぎが分け与えられることがありえるなどと触れ込むのは冒涜的である。あなたは自分で悔い改め、自分で神に立ち返らなくてはならない。私があなたに代わってそうすることはできない。あなた自身の種蒔きこそ、この件において、あなたをほむべき刈り取りに至らせなくてはならない。それは決して、いわゆる「司祭」に、あるいは、福音の教役者にさえ、あなたの代わりに種を蒔かせて得られる何かではない。
II. さて、第二に私があなたに思い起こさせたいのは、《神の道徳律法は、神ご自身と同じように、軽くあしらって良いものではない》ということである。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」。
最初に、自然界ではそうである。たとい神が人の行なうことを観察せずにいることが可能だったとしても、人が行なうことは、それ自体で、刈り取りが土壌に対して行なうのと全く同じことをその人に対して行なう力に満ちている。そして、その人は、まさに自分が蒔く通りのものを、いつの日か、あるいは、現世でなくとも永遠において、確実に刈り取るであろう。もしある人が自分の畑に大蒜を蒔いて大麦を刈り取ろうと期待するとしたら、いたく失望するであろう。毒麦を蒔くとしたら、いくら麦を収穫したいと祈っても、それは得られないであろう。神は決して自分の法を変え、毒麦が麦をならせるようにはなさらないし、今後も決してそうされないであろう。種蒔きこそは、今も、そして将来も、常に刈り取りの父である。
このことは、摂理においても同じである。ある人が怠け者で、自分の務めをおこたっているとする。働いていてしかるべき午前中に眠っている。自分の業務を遅々として進めず、無頓着である。ならば、その必然的な結果として、状況は悪化の一途を辿り、じきに破産ということになる。彼は自分が種を蒔いた通りに刈り取りをするのである。別の人は様々な肉の罪にふけっている。それで、その人がすっかりからだを壊してしまい、全身がみじめさの巣窟となってしまうとしても、誰も驚かない。別の人は賭博に走り、全財産を浪費するため、遅かれ早かれ乞食に身を落としてしまう。その人は自分が種を蒔いた通りに刈り取るのである。もしある人が酔いどれだとしたら、彼が呑み込む毒は、いかに頑健な体質をしていたとしても、遅かれ早かれ影響を現わすであろう。
自然界や摂理における場合と同様、神の一般的な道徳的統治においても同じことが云える。ある人自身の良心が彼に、自分の行なうことはやがて自分のところにやって来るだろうと告げていないだろうか? また、たといある人が自分の良心をなだめて寝つかせようとしても、時折それは目を覚まし、その雷鳴でその人を揺り動かし、落ち着かない気持ちにさせる。《いかなるわけで》恵みを有さない人々は、ひとりきりでいることに耐えられないのだろうか? それは、良心が彼らを揺さぶり、未来について考えさせ、現在自分たちが耐えているよりも大きな悲惨さを恐れさせるからである。例えば、かりにこの法則を逆転させることができ、私が今あなたにこう云えたとしよう。「あなたは好きなだけ罪を犯して構わない。いかなる悪い結果も生じないであろう」、と。これほどの恐慌と恐怖を撒き散らす宣告を何か考えつけるだろうか? 何と、社会構造そのものが、そうした物事のあり方の中では粉砕されてしまうであろう。かりに私が、「気前が良く、高潔であることには、けちくさく、悪徳にまみれていることにまさるものが何もない」、と云わざるをえないとしてみよう。何と、それは、いずこかに存在するかもしれない美徳の最も小さな火花をさえ消失させるに十分であろう。しかし、私たちがそのような不道徳的なしかたで語る必要はない。種々の行為と、言葉と、想念さえもお審きになる神がおられる。そして、「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」[ガラ6:8]。私たちの究極的な《上訴裁判所》である神のみことばは私たちにこう告げている。来たるべき大いなる刈り取りの時に、キリストは「麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」[マタ3:12]、と。未来を予告している黙示録は云う。「数々の書物が開かれ……死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」[黙20:12]。おゝ、あなたがた、陽気で、楽天的で、軽薄な人たち。このように語っているのは私たちではない。これは神の御霊の宣言なのである。すなわち、死後には審きがやって来る。また、その審きの座に、あなたがたは全員現われなくてはならず、あなたの人生の中で行なわれたもろもろの行為について、あなたがたはみな審かれ、あなたがたの人生がいかなるものであったかによって、あなたがたの永遠の運命は決定するのである。
III. ここから私は第三に注目したいことへと至らされる。すなわち、《悪しき種蒔きは悪しき刈り取りをもらたすことになる》。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」。
これは、ある種の罪の現在の結果のうちに見ることができる。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り」。この「肉」によって意味されているのは、私たちの腐敗した人間性であり、この書簡の5章19節で言及されているようなもろもろの罪である。そこには、こう記されている。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」。こうしたものが、「肉の行ない」である。
その箇所を詳細に講解するつもりはないが、手短に、ここでは4つの種別の罪が言及されていることを示したいと思う。最初に、パウロは種々の情欲の罪に言及している。姦淫は、最も神聖な絆を侵害するものである。不品行はからだを汚すものである。汚れは、秘められており、他者には知られていないが、神には徹底的に知られている種々の肉的な想念や、肉的な言葉、また、肉的な行為である。好色は、「社会」が断罪しはするものの、しばしば実践している外的な汚れである。こうした事がらのいずれかを行なっている者は、自分の肉のために蒔いているのであって、確実に「肉から滅びを刈り取」る。あなたがた、真のキリスト者である人たちは、もちろん、こうしたすべてを憎むがいい。ユダが云っているように、「肉によって汚されたその下着さえも忌みきら」う[ユダ23]がいい。また、こうした事がらが、魅力的な物語に仕立て上げられているような、あらゆる書物をも憎むように心がけるがいい。というのも、たとい軽い気持ちでそうした書物を眺めるだけであっても、――いわんやそれらを読むとしたらなおのこと――あなたの心の全体が汚染されずにはいられないからである。しかし、使徒がここで列挙しているような罪を実際に行なっている人々について云えば、神が完璧な憎悪をもって憎んでおられるものを、彼らが愛し続けている限り、救われることができるなどと夢見てはならない。
使徒の暗黒の目録に記された次の罪は、偶像礼拝と魔術である。偶像礼拝は、第二戒によって禁じられている。「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」[出20:3]。礼拝において、いわゆる「祭壇」、あるいは十字架、あるいは何らかの聖人像や聖人画、あるいは本物の、あるいは空想上の「聖なる」遺物、あるいはそういったいかなる種類の事物の前ででも拝礼することは、純然たる偶像礼拝以外の何物でもないが、おびただしい数の人々がこの大罪を犯し続けている。そうすることで神に仕えていると考えているのである。これほどはなはだしくはないが、やはり罪深いものである1つの形の偶像礼拝がある。――私たちが神を愛する以上に自分自身を愛すること、あるいは、自分の妻、夫、子ども、父親、母親、姉妹、兄弟を愛することという偶像礼拝である。
それから使徒は魔術に言及している。これによって意図されているのは、あらゆる本物の、あるいは、見せかけ上の悪霊、あるいは、死人との交信である。交霊占い、降神術、また、こうした種類の一切は、「神の国を相続する」ことを願うあらゆる者に対して絶対に禁じられている。
それから続くのは三番目の悪の一団である。それは、気質の罪という項目に分類できるであろう。「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、殺人」<英欽定訳> ――キリスト教的な愛と調和しない、一切の種類の行為や、感情のかたちである。もしあなたが本当に肉のために種を蒔くことを願うとしたら、こうした事がらを自分のものとしさえすれば良い。――もしあなたが議論好きな精神に屈し、いがみ合いを助長し、憎しみやねたみに満たされ、他の人々が自分以上に良い思いをすることに耐えられず、彼らをあなたと同じ水準に引きずり降ろしたいと願うとしたら、――また、もしあなたが感情の激発に屈したり、陰口にふけったりするならば――というのも、それが党派心だからだが――、あなたは肉のために蒔いているのである。こう云うことは嘆かわしいことだが、こうした悪しき事がらは私たちの回り中にあふれている。だが、おゝ、神の人たち。こうした一切の事がらに近づかないようにするがいい!
それから最後に、パウロは食欲の罪に言及している。「酩酊、遊興、そういった類のもの」である。というのも、酩酊には暴食を含めなくてはならないからである。この長い暗黒の目録にある罪のいずれかを犯す人はみな、肉のために蒔いており、御霊のために蒔いてはいない。そして、人が肉のために蒔くとき、何がその刈り取りとなるだろうか? 「肉から滅びを刈り取」る。――腐敗と、腐れと、死である! 罪人が蜜のように甘いと考えた罪は、彼にとって毒草となる。この世にいる多くの人間たちは、罪の中で生き続け、ついには罪がそれ自体の罰となってしまっている。そして、たといこの世でそうならないとしても、来たるべき世ではそうなるであろう。
罪が完全に達するとき、それは何と恐ろしいものとなることか! たとい決して消えない火など全く何もなく、決して尽きることのないうじなど全く何もないとしても、悪人たち自らが作り出す地獄にまさるものは必要ないであろう。そこでは誰も彼らを支配せず、いかなる世論も彼らを抑えないのである。悪魔を彼らとともにおらせる必要もない。ただ彼らを放置しておき、彼らのよこしまさに何の歯止めもかけずにおくだけで良い。私は、地獄そのものでさえ、こうした罪人たちがたちまちなり果てるだろうようなものを越えるだろうとは到底想像できない。
あゝ、愛する方々。もしあなたが罪の中で生き続けるとしたら、あなたは、いつの日か目を覚ましたときには、あなた自身の咎の結実が、そのすさまじい極悪非道さをことごとく現わしたものに取り囲まれているであろう。四方八方から、あなたが肉のために蒔いたものの実りが真っ向からあなたを睨みつけ、神はあなたの手に鋭利な鎌を持たせて、あなたに仰せになるであろう。「ここを刈り取れ! そこを刈り取れ!」 あなたは云うであろう。「私にはできません」。だが、あなたがそれを蒔いた以上、あなたがそれを刈り取らなくてはならない。そこには、あなたにとって何と恐るべき悲惨さがあることであろう。だが、それは単に、あなた自身の罪が熟成したものでしかなく、あなた自身のそむきの罪が完全に発達したものでしかないであろう。そして、そのすさまじい刈り入れは、あなたに耐えられる限度を無限に越えているであろう。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」。過日やもめの喉を締め上げて、そのなけなしの家具数点を運び去った男は、彼女の涙をためた顔を未来永劫眺めることになる! 同胞の人間を罪へと誘った男は、彼女の青ざめた、悲しみに打ち沈んだ顔を永久とこしえに見ていることになる。彼はそれから逃れようとするであろう。だが、そうすることはできないであろう。そうした描写が、この場にいる誰かに当てはまるだろうか? また、その人は、私の言葉の中で私が非常に当てつけがましいと不平を云うだろうか? それこそ私がしていることであり、私の意図することである。それは、彼らが自分の大きなそむきの罪について悔い改めて、十字架上のイエスを仰ぎ見て、手遅れにならないうちに自分のもろもろの罪に対する赦しを受けるようになることを希望してのことなのである。
IV. しかし今、最後に私は、それよりも良いことを告げることにしたい。すなわち、《良い種蒔きは良い刈り取りをもたらす》ということである。
私にはある人がこう云っているのが聞こえる。「しかし、それは行ないによる救いではないでしょうか? あなたは救いが全くイエスを信じる信仰による恵みから出ていると宣べ伝えているのではないのですか?」 しかり。もちろん私はそうしている。だが、それでも良い種蒔きが良い刈り取りをもたらすことは真実なのである。しかし、いかなる種類の種蒔きを私は意味しているのだろうか? 何と、この節で言及されている種蒔きは、本日の聖句の直後に続いている。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」。人が肉のために蒔くとき、そうした人々は自分を欺いている。というのも、その肉とは、自分の古い堕落した性質であり、そのような種蒔きは悪でしかありえないからである。だが、良い種蒔きとは、別の《力》の影響下で種を蒔くことであり、別のしかたで種を蒔くことである。事実それは、使徒が云っているように、「御霊のために蒔く」ことにほかならない。
まず、私たちは別の《力》の影響下で種を蒔かなくてはならない。御霊のために蒔くことは、私たちの種蒔きを、完全に人間的な功績といった考えの上に上げてしまう。御霊のために蒔く者は、神の御霊によって導かれ、指導されている。――罪を悔い改めるように導かれ、イエスを信じるように導かれ、新しいいのちへと導かれ、聖潔へと導かれ、聖化へと導かれる。それゆえ、その人は自分のうちにあるいかなる良いものについても、それを自分の手柄にしはしない。それはみな、聖霊によってそこに植えつけられたものだと分かっているからである。あゝ、話をお聞きの愛する方々。もし私たちが良い収穫を得たければ、私たちは自分自身のために蒔くことをやめて、御霊のために蒔かなくてはならない。そして御霊は、キリストの十字架の根元で、その助けを求めるすべての者たちに無代価で与えられる。イエスはご自分の弟子たちに云われた。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」[ルカ11:13]。願わくは、神の御霊があなたの上に降り、あなたを促してこう祈らせてくださるように。とうか自分を真に御霊のために蒔く者としてください。どうか自分が心において新生し、生き方において新しくされるようにしてください、と。というのも、そのときあなたは確実に「永遠のいのちを刈り取る」ことになるからである。
私たちは、別のしかたでも種を蒔くべきである。ユダヤ人たちがカペナウムでイエスに、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」、と尋ねたとき、主は答えられた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」[ヨハ6:28-29]。もしあなたが御霊のために蒔きたければ、それこそあなたが最初になすべきことである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。キリストが永遠のカルバリの十字架の上で成し遂げた、かの大いなる贖罪のみわざの上に基を置いているとき、あなたはいのちにあって新しい歩みを始める[ロマ6:4]ことになり、あらゆる事がらにおいて神のみこころに従おうとし始めるであろう。そのようにして、あなたは「御霊から永遠のいのちを刈り取る」ことになる。
この書簡の5章22節、23節で、使徒は私たちに「御霊の実」がいかなるものかを告げている。まず、「愛」である。あなたは、愛に満ちた精神を有していない限り、本当には救われていない。二番目に、「喜び」である。キリスト者たちは喜ばしい朗らかさを披瀝し、いかに彼らが幸いであるかを、回りのあらゆる人々に見てとらせるべきである。三番目に、「平安」――争いとは反対のものである。四番目に、「寛容」――怒らされる時にも有する忍耐である。五番目に、「親切」――他者に対する思いやりである。六番目に、「善意」――人が誇りとすべきいかなる聖い善行でもなく、他の人々が見てとり、賞賛できるような「善意」である。七番目に、「誠実」――当てにできること、他人との約束を守り、人々にあなたの口にした約束が証書も同様であることを見てとらせることである。八番目に、「柔和」――やたらと出しゃばらず、簡単には怒りをかき立てられないことである。九番目に、「自制」、――あらゆる情動を統御することである。これは食物や飲物だけに限らず、他のすべてについて関してそうである。
さて、もしあなたがこのように御霊のために蒔くとしたら、あなたは「御霊から永遠のいのちを刈り取る」であろう。使徒は、あなたが永遠に存在し続けることを刈り取ることになると云うのではなく、永遠のいのちと云っており、この2つは全くの別物である。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。それは、愛と喜びの完成である。あなたはそれを有することになり、イエスの血潮のきよめの力を通して、連続した聖潔と美徳の段階を上ることになる。そして、いつかそのうち、あなたは罪の腐肉の最後の痕跡をも投げ捨てることになるであろう。そして、肉体から離れたあなたの霊は、太陽よりもきよいお方の燃えるまなざしの前で踊ることになる。そして、やがて「主は、号令……のうちに、ご自身天から下って来られ」「Iテサ4:16」、あなたの贖われたからだが、あなた自身の愛する主また《救い主》のからだと同じようにきよくなってよみがえるであろう。それは朽ち果てることがありえないからだである。罪の痕跡が何もないからである。それから、あなたの完璧にされたからだと魂と霊とは、この地上で、千年期の栄光のもとにあって、イエスとともに勝ち誇って統治するであろう。そして、その後あなたは、これから現わされることになる栄光の中で、満ち満ちた「永遠のいのち」を有することになる。こうした誉れのすべてがあなたに与えられるのは、あなたがそれに値するからではなく、神の無代価の、主権の恵みゆえである。それは、ただ神の御霊が宿っておられる人々に対してだけ与えられる。それゆえ、彼らは、その生き方において、あの性格の聖さを明らかに示すのである。それが「なければ、だれも主を見ることができません」[ヘブ12:14]、とされる聖さを。
願わくは主が恵み深くも、私たちすべてにその聖霊を与えてくださり、私たちがみな天国で相会っては、永遠に別れることがなくなるように。私たちの主イエス・キリストのゆえに! アーメン。
種蒔きと刈り取り[了]
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