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キリストの血による自由

NO. 3106

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1908年8月20日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年8月2日、主日夜


「あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕われ人を、水のない穴から解き放つ。望みを持つ捕われ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと」。――ゼカ9:11、12


 今朝、私が努めて示そうとしたのは、契約の血が流された結果、また、その契約がそのように成就した結果、イエス・キリストは墓という獄屋から連れ戻され、自由にされ、いと高き天にある、言葉に尽くすことのできない栄光へと高く上げられたということであった。そのとき私が示したところ、イエス・キリストはご自分の民全員の代表者であられる。――すなわち、主が自由にされたとき、彼らも事実上、自由にされ、主が栄光の中に戻られたとき、主はそこへ彼らの《代表者》として行かれ、彼らの名代として天の所を所有されたのである。それは、いずれ時が来たとき、主がおられる所に彼らもいるようになるためであった[ヨハ14:3]。今朝、私は、私たちの主題のふさわしい適用を行なう時間がなかったが、私たちにとって幸いなことに、別の聖句がここにある。ずっと古い聖句だが、しかし、もう1つの聖句の後に続くのにうってつけの聖句である。それで私は今それを用いたいと思う。

 イエス・キリストは墓の束縛から解放されている。そして、私があなたに思い起こさせなくてはならないのは、第一に、この契約の血によってすでに自由にされている、他の捕われ人たちがいるということである。第二に、まだ契約の血によって自由にされていない他の人々がいる、ということである。それから、しめくくりとして二言三言、彼らの解放の隠れた理由――契約の血――を称えたい

 I. まず第一に、愛する方々。私たちが注意しなくてはならないのは、《ある人々が、すでに契約の血によって自由にされている》ということである。

 ここから私たちが考察するよう導かれるのは、どこで彼らが捕われ人となっていたか、また、何に対して捕われ人となっていたかということである。この聖句の中で告げられているところ、彼らは「穴」にいた。そこに、神の民はみな一度はいた。あなたも知る通り、東方の人々は、必ずしもわざわざ牢獄を建てはしなかった。空の井戸か、自分たちの穀物を隠すのによく使われていた所、あるいは、地下の使われていない貯水池が、牢獄代わりにされたのである。あわれな捕われ人は綱で引き下ろされ、その穴や井戸の口を大きな石で覆われ、そこに彼は死ぬまで放置されるのである。一般に、そこは悪臭のひどい汚い場所で、生きながらの墓場のほか何物でもなかった。その深く、不潔な穴の底にある石の上に腰かけている、あわれな虜囚の立場こそ、生まれながらの人間の状態である。その人が真実に自分の真の立場を感じるよう目を覚まさせられたとき、その人は、これこそ自分のいる場所の生き写しであることに気づく。その人をその立場につけたのは、神の律法である。その人は自分が律法を破ってきたのを感じる。また、律法が自分を罰さなくてはならないと感じる。そして、良心はその人の回りに花崗岩よりも硬い巨大な壁を建て、脱出路を見つけようとしても、その人には1つも見つからない。その人は、全世界を《審くお方》が不義を忌み嫌うに違いなく、罪を罰するに違いないと悟る。それに加えて、罪がその人をその牢獄に入れている。というのも、その人は、部分的にでも覚醒されてからこのかた、自分の罪について嘆き悲しんでいながら、罪をやめられないからである。それは、クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を変える[エレ13:23]のと同じくらい無理な注文である。井戸の口に置かれた大きな石のように、その人の、罪を犯しがちな傾向と、腐敗した種々の行為とは、その人を閉じ込めている。その石を持ち上げることはできない。その人は、自分自身の邪悪な願望や堕落した心に捕えられており、それと同時に、法により拘禁されている。天の《最高裁》からの令状により、天来の正義という役人たちによって留置されている。

 キリストにある兄弟姉妹。あなたがたの中の多くの人々は、その穴の中にいた時のことを思い起こせよう。私はそこに何年間もいたときのことを覚えている。そして、おゝ、そこから引き出されたとき、それは、私にとっていかに幸いな日であったろう! 罪の確信というその穴、それは身の毛もよだつ恐ろしい場所であった。地獄の外にあるもので、何にもまして恐ろしいのは、良心を覚醒させられていながら、神と和解させられていないこと、――罪を見てとっていながら、《救い主》を見てとっていないこと、――致命的な病気とそのすべての厭わしさを眺めていながら、良き《医者》に信頼しておらず、自分の疾患の癒される希望がないことである。現世で忍びうる一切の悲惨さの中で、これはその頭株の1つである。

 このあわれな捕われ人は、穴の中に閉じ込められ、そこから脱出できなかった。何の慰めも見いだせなかった。この聖句によると、それは、何の水も入っていない穴であった。私はマメルティヌスの地下牢を見たが、それは一個の穴と形容されて良かった。最初の部屋に入るには狭い穴を通らなくてはならず、それから次の狭い穴が、その部屋の底から第二の部屋に続いていた。だが、その下の地下牢で、パウロが幽閉されていたと云われるものの床には、絶えずボコボコと湧き出ている泉があった。その水を私は飲んだ。――これまで飲んだ中で最も冷たく、清新で、澄み切った水であった。そこには、少なくとも1つは慰めの元があった。というのも、その恐ろしい地下牢の息詰まるような暑さの中に、少しは水があったからである。だが、私たちが、自分自身の罪により、また、天来の正義により、穴に閉じ込められていたとき、そこには何の水もなかった。あなたは覚えているだろうか? 人間的な種々の儀式という水ためから飲もうとした時のことを。それは塩水で満たされていて、あなたはそれが渇きを満足させるよりも、増し加えるものであることに気づいた。次にあなたは、自分で行なう義の水と考えたものを飲もうとした。だが、あなたは砂漠の砂の上の巡礼のようであった。人を欺く蜃気楼を見る――清流と透明な泉が目の前にある。だが、それらを飲みに進んで行くと、そこには灼熱の砂漠以外に何もない。私たちの中のある者らは、しばらくの間は、自分で自分の救いを成し遂げようという徒な望みによって騙され、惑わされていた。だが、それはみな何にもならず、私たちはなおも水のない穴の中にいた。おゝ、そこには何とおびただしい数の悪魔の手下どもがうろついていて、この穴の中にいる、あわれな魂たちをたぶらかそうとしていることか。穴の中でも水が調達できるし、そこにとどまっていて差し支えないと思い込ませるのである。――赦されもせず、更新されもしていないまま、真の慰めを享受できると! しかし、それは埒もない話である。否。それ以上に、致命的な迷妄である。自分の咎を悟り、神の御怒りの雷鳴を恐れながら、その御子の死によって神と和解させられていない魂が真の慰めを見いだせるとしたら、地獄で水を見いだすこともできよう。イエスがやって来てもたらされた生ける水を有していない限り、そうした魂はまことに「水のない穴」にいる。

 そして、愛する方々。私たちの奴隷状態には、それよりも悪い点がある。それは完全に希望のないものである。というのも、私たちは、単にその穴の中に短時日の間、閉じ込められているだけでなく、死ぬまでそこに閉じ込められているからである。ある人が深い穴に投げ込まれ、その口が石で覆われるとき、また、その人を捕えた人々が何の食物も水も与えないとき、その人はそうした厳しい取り扱いが何を意味するかたちまち悟る。もし彼らがその人を生かしておくつもりがあるなら、少なくとも彼のため、パンの皮と水差し一杯の水は降ろしてやろとするであろう。しかし、私たちがいた穴には何の水もなく、私たちは、「ただ、さばきと……激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」[ヘブ10:27]のを感じた。私は知っている。朝に目を覚まして、自分が地獄にいるのではないかと思い惑うことがどういうことかを。また、夜には、いま眠れば永遠に至るのではないかと恐れて眠れなくなるのがどういうことかを。人がそのような状態にあるとき、その人は人生にほとんど生きる価値などないと感じ、ヨブとともに、ほとんどこう云うことができるであろう。「私のたましいは、むしろ窒息を選び、私の骨よりも死を選びます」[ヨブ7:15]。

 これは、神の真の子どもである多くの人々が引き入れられる立場である。――彼らはみなが同じように試みられるのではない。というのも、みなが同じように罪について敏感な者にされるわけではないからである。ある人々の場合、信仰は、他の人よりもずっと早くやって来る。しかし、多くの人々はこのように閉じ込められていたし、そうした人々について、今この聖句はこう云うのである。「あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕われ人を、水のない穴から解き放つ」。この云い回しに注意するがいい。「わたしはあなたの捕われ人を……解き放つ」。それが祝福である。――私たち、主イエス・キリストを信ずる者は、もはや獄中にはいない。私たちは契約の血に信頼している。それゆえ、今や私たちには何の枷もかけられていない。何の石壁も、何の鉄格子も、何の良心の恐怖も、何の罪の確信も今の私たちを恐れさせることはない。主がこう云われたからである。「わたしは……もはや、彼らの罪を思い出さない」[ヘブ8:12]。今このタバナクルにいる何千人もの人々は、かつてはこの牢獄にいたが、今はそこから出ており、こう云うことができるのである。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」[ロマ5:1]。

 私たちがこの穴の外にいるのは、正当な権利としてである。私たちは法に反して脱獄したのではない。私たちは外にいる権利を有している。なぜなら、私たちを監禁する元となった負債がみな支払われているからである。私たちを牢獄に投じる原因であった罪のための完全な贖罪が成し遂げられているからである。すでに完全な償いがなされている。主の民全員の罪がいかに広大なものであろうと、また、無限にして変えられない正義の要求ほどに莫大なものであろうと関係ない。神のあらゆる子どもは、恵みによるばかりでなく、正義によっても救われている。もしも、《救い主》が《身代わり》として立ってくださった何らかの魂が、天来の正義の剣によって死ぬようなことがありえるとしたら、それは永遠の不正義となることであろう。しかし、そうしたことは決してあるはずがない。

   「刑罰(むくい)を神は 再請求(もと)めえじ。
    まず我が流血(ちなが)す 保証人(みうけ)より、
    さらに再び わが手より」。

しかり。私のほむべき《救い主》は、――

   「完全(また)き贖罪(あがない) 主は遂げて、
    払いたまえり 一銭(きわみ)まで、
    御民のいかな 負債(おいめ)をも。
    神の瞋恚(いかり)も 我れ受けじ、
    汝が義にわれは かくまわれ
    汝が血この身に 降りければ。」。

 しかし、愛する方々。私たちが自由にされているのは、権利によってばかりでなく、大能によってでもある。というのも、私たちのために私たちの自由を買い取った同じイエスは、それをしっかりと私たちに結びつけてくださったからである。あのぞっとするような牢獄の壁を、主はご自分の、刺し貫かれた両手で打ち倒された。私たちを囲んでいた、あの暗闇の真っ黒な影を、主は、私たちの義の《太陽》[マラ4:2]としての、その栄光に富む現われによって追い散らしてくださった。《解放者》なる主こそ、ご自分の民を自由にしてくださったお方である。それゆえ、もしあなたが彼らに属しているとしたら、あなたがた、解放された人たち。あなたがたの喜ばしい歓呼によって天を引き裂くがいい! 契約の血により、あなたは、この全能の「《壊し屋》」によって自由にされた。この方こそやって来ては、あなたの牢獄の壁を壊し、あなたを、「ほんとうに自由」[ヨハ8:36]にしてくださったのである。

 そして、愛する方々。あなたはいま永遠に自由である。主はこう云われたからである。――「わたしはあなたの捕われ人を……解き放つ」。そして、神が牢獄から解き放つとき、誰が私たちをそこへ送り戻せるだろうか? 神が、「光よ。あれ」[創1:3]、と云われるとき、誰が暗闇を創造できるだろうか? 神が私に、「自由になれ」、と仰せになるとき、誰が私を再び鎖でつなげるだろうか? ペリシテ人たちが、あわれな盲目のサムソンの回りに群がったように、たとい地獄の全軍勢が私を取り囲もうとも、私の魂はダビデとともに云うであろう。「彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう」[詩118:11]。キリストがある人を自由になさるとき、それは一時的な自由ではない。一月や一年しか保たないものではない。むしろ、キリストの解放奴隷たちは二度と再び奴隷にされることはない。その尊い血によって贖われた以上、その贖いは一時的ではなく永遠である。

 そして、神はほむべきかな。その自由は本当の自由である。もしあなたがキリスト者であるとはどういうことかを知り尽くしていて、真の福音を信じており、その美しさを曇らせていないとしたら、また、自ら古い奴隷のくびきを負ったり、ユダヤ教をキリスト教に混ぜ合わせたりしていなければ、また、人間的な種々の儀式を持ち込んで自分を締めつけられた、枷にかけられた、人間の奴隷としていなければ、――もしあなたが主の自由人だとしたら、そのときあなたは、「ほんとうに自由」である。「ああ、主よ」、とダビデは云った。「私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました」[詩116:16]。聖潔を愛し、いつも主を恐れて[箴23:17]歩んでいる者こそ、唯一、真に自由な人である。神の恵みが自由にしている者が自由人であり、その他はみな奴隷たちである。いかなる地上の権力も、魂に真の自由をもたらすことはできない。恵みが、恵みだけが、契約の血によってそれをもたらすのである。そして、その自由がやって来る所では、いかなる形の束縛も人を奴隷にできない。その人は、どこかの残虐な主人に所有され、鞭で打たれながら働かされているかもしれない。だが、その魂は自由である。その人はじめじめした、暗い地下牢に閉じ込められているかもしれない。だが、その人はそこでも歌うことができる。その人以前の他の人々がそうしてきたように。――

   「牢獄(ひとや)をなすは 石壁ならず、
    鉄の格子も 檻(おり)ならじ」。

私は、この心そそる主題についてこれ以上詳しく語ることができないが、神のあらゆる子どもたち、この偉大な《解放者》によって自由にされているあらゆる人々に願いたい。キリストの自由人のように行動し、生きてほしい。――自分の主人の鞭を恐れながらへいこらし、うずくまりながら生活するのではなく、自由人がするように、真っ直ぐに――この言葉の双方の意味において――歩くがいい。ご自分のしもべの自由を買い取るために、ご自分の最も尊い血という測り知れないほどの代価を払ってくださった主の御前でそうするがいい。願わくは主が恵み深くもあなたに許してくださるように。「いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちが、神の栄光を望んで大いに喜んでいられる」*[ロマ5:2]ことを!

 II. 第二に、そして手短に云うが、《他にもまだ、契約の血によって自由にされるはずの人々がいる》。そうした人々の何人かは、私が堅く信ずるところ、今晩、自由にされるであろう。今は、主がその人々を救って、永遠に自由にしてくださる恵みの時である。そうした人々は、この場に来たときにはそれを知らなかったが、主には愛のご計画があった。そうした人々をご自分の御霊によって動かし、一時間かそこら前に、この祈りの家にやって来させるご計画があった。

 今から自由にされることになる人々に対して、私はこう云わなくてはならない。生まれながらに、あなたは私が描写してきたような状態にある。ことによると、あなたは毛ほどもそれに気づいていないかもしれないが関係ない。あなたは水のない穴の中にいる捕われ人である。もし心において新しくされていないとしたら、あなたは神から遠く離れた、霊的に危険で、荒廃した、惨めな状態にある。だが、愛する魂たち。新しく生まれたことのない、あなたがた、すべての人々について当てはまる、1つの心励ます真理がある。すなわち、あなたは捕われ人ではあっても、望みを持つ捕われ人なのである。福音が宣べ伝えられている所どこにでも、罪人たちにとって希望がある。それを聞く者は誰でも、希望を奮い起こしてかまわない。私は今、単に外的に道徳的な人々についてのみ語っているのではない。むしろ、この場所に迷い込んできたあらゆる人々、また、これまではなはだしく罪を犯してきた人々――酔いどれや、悪態つきや、遊女や、人間の中でも最悪で、最も卑しい者たち――について語っているのである。あなたは、自分のもろもろの罪の捕われ人である。だが、あなたは望みを持つ捕われ人である。というのも、あなたは、罪から自由にしてくださる《お方》の手の届くところにいるからである。私たちがあなたに宣べ伝えている、主イエス・キリストは、ご自分の民をその罪から救ってくださる[マタ1:21]。そして、私は切に願う。主が、人を解放するその御力すべての豊かさをもって、あなたのもとに来られ、あなたを今のこのとき、あなたのもろもろの罪から自由にしてくださることを。

 あなたがこの牢獄内にいるにもかかわらず、あなたには天来の命令が与えられている。「とりでに帰れ」。もしあなたが自分の罪からの自由を――罪の咎からも罪の力からも――獲得したければ、あなたはイエスに目を向けなくてはならない。この方こそ、とりことなっている罪人が目を向けなくてはならない《とりで》なのである。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「この穴は、まことにぞっとするほど恐ろしいものです」。それは私にも分かっている。だが、主イエス・キリストはやって来て、その口から石を転がしどけてくださった。そして、あなたを見下ろして、主はこう云っておられる。「わたしに目を向けよ。あなたの唯一の《とりで》なるわたしに。あなたがた、望みを持つ捕われ人たち。わたしに目を向けさえすれば、あなたには望みがあるのだ」。「ですが」、とあなたは云うであろう。「私たちは回り中を見渡しましたが、何の慰藉も見いだしません。誰も私たちの魂のことなど気遣っていないのです」。天には、あなたの魂を気遣っておられる《お方》がいる。そして、それゆえにこそ、このお方はやって来て、あなたに告げておられるのである。あなたがたの中で最悪の者にも――最もかたくなな者にも――最も絶望的な者にも――望みはある、と。主はあなたに命じておられる。命がけで逃げるがいい、後ろを振り向いてはならない、この低地のどこででも立ち止まってはならない[創19:17]、むしろ、この《とりで》に達するまで進み続けよ、そこなら、必ず来る御怒りがあなたを追っているときでさえ安全になれるからだ、と。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」[Iテモ1:15]。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」[ルカ19:10]。この方に目を向ける者は誰でも生きる。その人がいかなる者であろうと関係ない。

 「ですが、私は虚弱なのです」、とある人は云うであろう。ならば、あなたの虚弱さから目をそらして、主の強さを見るがいい。「ですが、私はあまりにも罪深いのです」、と別の人は云うであろう。ならば、あなたの罪深さから目をそらして、主の血を見るがいい。――その契約の血こそ、どす黒い罪人を洗って吹きだまりの雪のように白くしてくれるのである。あなたは自分自身にも、人間の司祭にも、自分自身の行ないにも目を向けるべきではない。あなたの祈りや、涙にさえ目を向けるべきではない。こうしたすべては罪に満ちており、神の御前であなたを受け入れさせるためには無価値である。しかし、主イエス・キリストは神聖であられる。だから、主に目を向けるがいい。また、主が行なわれたこと、特に十字架上における主の大いなる贖罪の犠牲に目を向けるがいい。というのも、もしあなたが、真摯でへりくだった信仰によってそれに信頼するなら、あなたは確実に救われるからである。

 福音におけるこの望みの宣言は、現在のこの瞬間のためのものである。主はそれについて何と云っておられるだろうか? 「わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと」。あなたは非常に年老いつつある。だが、「きょうも」、あわれみはあなたに告げ知らされている。あなたは、ことによると、この安息日の前半分を浪費してきたかもしれない。だが、「きょうも」あわれみはあなたに告げ知らされている。あなたが礼拝所に来ることはめったにないが、あなたは今晩ここに来ている。そして、「きょうも」あわれみはあなたに告げ知らされている。あなたは神を非常に怒らせてきたため、神から捨てられてしまったと思っている。よろしい。あなたはたぶん、あなたの限度一杯まで行き着いているであろう。だが、「きょうも」神は、あなたへの望みはまだあると告げ知らせておられる。イエスのうちに蓄えておられる望みはまだあるのである。イエスの上に、神はあなたの必要とする一切の助けを積み上げておられる。

 では、何を神はきょうあなたに告げておられるだろうか? 何と、神は二倍のものをあなたに返すというのである。これを注意するがいい。神は二倍のものをあなたに返してくださる。あなたは大きな罪を犯してきた。だが、神はその二倍の罪を洗い流すための二倍のあわれみをあなたに与えてくださる。しかし、あなたの心は二倍もかたくなである。では、神はあなたに、それを柔らかくするために、ご自分の聖霊の二倍の割り当てを与えてくださるであろう。しかし、あなたは二倍も罪に陥りがちなものを感じている。ならば、神はあなたに与える新しい心に、二倍もその律法を書き記してくださるであろう。しかし、あなたは非常に意気阻喪している。ならば、神は、あなたに二倍の慰めを与えてくださるであろう。しかし、あなたは祈りにおいて非常に弱々しく感じると云う。ならば、神はあなたに二倍の強さを与えてくださるであろう。しかし、あなたの信仰は非常に微弱である。ならば、神はあなたにそれを増す二倍の恵みを与えてくださるであろう。おゝ、魂よ。もし神があなたにあなたに必要なすべてのものを与えると仰せになるなら、それであなたは満足すべきである。だが、神があなたに二倍のものを――あなたのもろもろの罪すべてにとって二倍のものを――与えると仰せになるならば、それは何と驚くべき恵みであろう! もしあなたがある罪を蓄えておくなら、神は二倍のあわれみを蓄えてくださる。別の罪を蓄えるなら、神はもう2つ分のあわれみを蓄えてくださる。「あゝ!」、とあなたは云うであろう。「ですが、私は永遠に罪を蓄え続けることができます。それらはそれほど数多いのです」。だが、私たちの主は永久永遠にあわれみを蓄えることがおできになる。というのも、あなたの罪がいかに多くとも、それらは数え切れるが、神のあわれみは無数だからである。私はあなたの罪が数え切れることを知っている。というのも、それらはみなある本に書かれているからである。だが、神のあわれみを一冊の本に書き記すことはできない。それは全く数え切れない。神のあわれみはあなたの罪よりも広大無辺に大きい。ダビデはこの偉大な真理をつかんで、こう祈った。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください」[詩51:1]。罪人たち。私はあなたに告げるが、もしあなたが失われるとしたら、それはあわれみが欠けているためではないであろう。もしあなたのもろもろの罪があなたを滅ぼすとしたら、それは契約の血にあなたのもろもろの罪を洗い流す力がないためではないであろう。もしあなたが破滅するとしたら、それはイエス・キリストにあなたを救うことができないからではないであろう。では、それは何故だろうか? あなたが主イエス・キリストを信じなかったためである。というのも、「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]からである。

 私は主に切に願う。あなたが十分な理由、十分な恵みを与えられて、あなたの永遠の利益が、主イエス・キリストを信ずるかどうかにかかっていることを知らされるように、と。あなたは、行って、何らかの義を紡ぎ出す必要はない。あなたは、そうすることをことのほか好んでいるが、むしろ、来て、キリストがすでに織り上げてくださった、しみ1つない衣を受け取るがいい。あなたは、自分自身の贖い代の金銭を持って来る必要はない。あなたが、どれほどそうしたいと願っても関係ない。むしろ、あなたはキリストの尊い血によって買い取られた、また、信仰を有するあらゆる罪人に無代価で差し出されている自由を受け取るべきである。というのも、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」[ヨハ3:16]だからである。私たち、悪臭のする穴から逃れ出た者たちは、できるものなら、あなたをも脱出するよう誘いかけたいと思う。私たちは、私たちの楽しんでいるほむべき自由を、あなたにも享受してほしいと切望している。愛する子どもたち。あなたは自分の父母の後をついて福音の自由へと向かいたくはないだろうか? 愛する夫たち。あなたは、自分の妻の胸で脈打っている聖なる喜びを経験したいと願わないだろうか? 善良な妻たち。あなたはあなたの夫のキリストを自分自身のキリストとして持ちたくはないだろうか? 兄弟たち。あなたは自分の妹たちのが、あなたなしに天国にいることになるのを望むだろうか? あなたは、永遠のいのちの数々の祝福を彼女たちと分かち合いたくはないのだろうか? おゝ、私たちがみなともに今キリストのもとに行くことができるとしたらどんなに良いことか! というのも、結局、神が私たちのために何をしてくださったとしても、聖徒たちはなおも罪人だからである。それで、私たちはあなたの水準に下って、ひとりひとりが何らかの、まだ一度もキリストのもとに行ったことのない、あわれな同胞の罪人の手を取って、いま一緒に行き、主を仰ぎ見ようと努めるであろう。そこにはカルバリの十字架がある。《救い主》がそこにかかっておられる。おゝ、ほむべきイエスよ。私たちは、あなたのうちにあるもののほか、何の希望もありません! そして、私たちが一緒に連れて来た、このあわれな魂たちを、主よ。彼らを助けて、まさに今、あなたを仰ぎ見させてください。私たち自身が、遠い昔にあなたを仰ぎ見たのと同じように! 彼らの目を、私たちの目が明るくされているよりも明るくしてください。そして、願わくは彼らが、あなたを仰ぎ見るとき、このことを見てとらせてください。――

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり」。――

彼らのためのいのち、まさに今このときの彼らのためのいのち、罪の死からのいのち、断罪からのいのち、すぐさま受けることのできるいのち、あなたの御傷を一瞥するだけのいのち、あなたを単純に信ずることによるいのちが! あなたは茨の冠を戴いておられます。そして、それは私たちには、あなたの思念のすべてが茨で垣根を設けられ、それらが罪人たちに据えられているように思われます。また、あなたの両手は大きく広げられています。あたかも、あなたが決してそれを閉じることなく、むしろ、それを常に広げたまま掲げておき、あわれな罪人たちを迎え入れようとしているかのようです。また、あなたの御足は固定されています。あたかも、あなたの前に来てひれ伏すあらゆる者を常に恵み深く受け入れようとしているかのようです。そうです。そして、あなたの愛しい心臓が、あの兵士の槍で開かれているのは、さながら咎ある魂があなたの心底にある愛情へと至る道を開かれているかのようです。イエスよ。私たちはみもとに参ります。生ける神の御霊よ。この建物一杯の罪人たちと聖徒たちを引き寄せ、私たちひとりひとりがこう云えるようにしてください。――

   「ひとつの泉 そこにあり
    インマヌエルの 血に満てり。
    あまたの罪人 飛び込みて
    咎よりことごと 放たれん」。
   「われ信ず、かくわれ信ず、
    イェスのわがため 死に給いしを。
    木の上(え)に血潮 流しまつるは、
    罪よりわれを 解放(と)くためなるを」。

 III. そして最後の言葉は――ごく手短なものとするが――、《この契約の血を称える》ものとなるであろう。

 あなたがた、すでにイエスを信じている人たち、また、今その食卓に近づこうとしている人たちに、こう云わせてほしい。――聖餐式に赴く際には、この契約の血について考えようではないか。もし私たちがキリスト・イエスにある自由人だとしたら、それはイエスの血が私たちの自由の契約を批准したためである。それは、神がその血を見て、私たちを解放してくださったからである。出エジプト記にあるあの美しい節をあなたに思い起こさせてほしい。これまで私が一再ならず説教したことのある節である。過越の子羊の血は、知っての通り、全イスラエルの家々のかもいと門柱に注ぎかけられるべきであった。そして、神はそれについて何と云われただろうか? こう云われただろうか? 「わたしは家の外にあなたが立って、その血を仰ぎ見ているのを見るとき、あなたがたを救おう」。否、神はそうは仰せにならなかった。むしろ、云われた。「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」[出12:13]。根本的には、神がイエスの血をご覧になることこそ、贖われた民が救われる理由なのである。そう考えることを、いかに私は喜ぶことであろう。その血を私が信仰によって見ることは私に平安を与えるとはいえ、それでも、その私の目がかすむようなことがあるときも、私の救いは危うくならないのである。というのも、神の御目はかすむことなく、常に御子の血に据えられているからである。神聖な凝視によって、御父は、この上もない満足をもって御子の犠牲を見渡される。そして、その血をご覧になるとき、神は私たちをその御子ゆえに容赦してくださる。

 しかし、それから、愛する方々。この契約の血を賞揚すべきは、それを私たちが見ることによって、私たちに平安がもたらされるからでもある。私たちが、自分のためにイエスは死なれたのだと悟るとき、私たちの魂には平安が生まれる。この点で私は、あなたが私と似ているかどうか分からないが、時として私は、自分の永遠の安泰という事実を、いわば当たり前のようにみなすことがある。だが、そこへ厳しい病か、深い霊の抑鬱がやって来て、死に真っ向から直面しなくてはならなくなり、過去の罪の感覚が生々しく私の前に立ち起こる。そして、そのときほむべきことは、もう一度十字架の根元に立って、そこにかかっているイエスを仰ぎ見、こう云うことである。――

   「わが信仰は 手を置きぬ
    汝れが尊き みかしらに。
    悔いる思いを もちて立ち
    われはわが罪 告白(あらわ)さん」。

そして、私がこの主題を思い巡らしているうちに、意気消沈はなくなり、痛みは忘れ去られ、私は云うのである。「しかり、しかり、しかり。私は安泰だ。私はイエスの尊い血によって救われている。私は真実に主を愛しているし、その愛しい御足の前にひれ伏したい。悔い改めと感謝との涙をこもごもに流したい。――私が罪を犯してきたゆえの悔い改めと、私がこのように恵み深い《救い主》によって自分の罪を取り除かれているがゆえの感謝をもって」。キリストにある兄弟姉妹。この血を神がご覧になるがゆえに、それを賛美しようではないか。また、私たちもそれを信仰によって見ているがゆえに、賛美しようではないか。

 また、その血を賛美すべきは、私たちがそれに本当に信頼しているとき、それは私たちに自由を与えるからである。もしあなたが契約の血から遠ざかるなら、あなたは奴隷状態に陥る。だが、それに近くにいるならば、あなたは自由である。祈りにおいては、この血を申し立てるように心するがいい。というのも、それこそ、この聖句で語られている「二倍のもの」を得る道だからである。もしあなたがより多くの恵みを必要としているなら、そのためにこの血を申し立てるがいい。神の宝物庫内のあらゆる小箱を開くであろう1つの護符がある。そして、それは契約の血である。あなたがイエス・キリストの贖罪の犠牲を申し立てるなら、拒絶されることはありえない。天の門を、あなたの手にある真紅の印で叩くがいい。そして神は、イエス・キリストを愛しているのと同じくらい確実に、――そして、神はキリストを、私たちが1つになって主を愛する以上に愛しておられるが、――その御子の偉大な犠牲に栄誉をお授けになり、あなたに向かってこう云われる。「あなたの願望とあなたの信仰の通りになるように」、と。一部の説教者たちはイエス・キリストの血について説教することができないか、説教することをしない。それで、私は彼らについてあなたに1つのことを云わなくてはならない。――決して彼らの話を聞きに行ってはならない! 決して彼らに耳を傾けてはならない! 血を中に含んでいないような宣教には、いのちがない。「血はいのちだからである」[申12:23]。そして、死んだ宣教は誰にも何の善も施さない。贖罪の犠牲が省かれている場合、人々にとってずっと良いことは、キリスト抜きの、血を抜きにした福音が宣べ伝えられている場所がみな焼け落ちてしまうことであろう。というのも、贖罪の犠牲はキリスト教の魂であり、いのちであり、精髄だからである。それを信じれば、あなたは救われる。だが、そこから遠ざかる人は、平安といのちと安全が決してやって来ない所をさまよっているのである。《全能の神》があなたを祝福し給わんことを。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

キリストの血による自由[了]

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