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幸福の探求

NO. 3105

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1908年8月13日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂


「多くの者は言っています。『だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。』主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」。――詩4:6


 これは、聖霊の豊かな力添えがあれば、私たちの状態を試す試金石として役立つ聖句である。見るがいい。ここには2つの種別の人々がいる。多くの者は、この世の良い物を慕いあえいでおり、少数の者は信仰の目を自分の神に向けて、神がその御顔の光を自分たちの上に照らすことを乞い求めている。

 I. まず、悲しみとともに、また、心を探り求めながら、《多くの者》について思い巡らそう。――私たちが、そうした数に入っていることが分からないか震えおののきながら、そうしよう。

 「《多くの者》」。この二言の回りに、いかにおびただしい数の思想が群がっていることであろう! この百万都市、この人口の多い町、この大きく広がった国、この島、諸処の王国、帝国、大陸、世界。すべてが、百の門を持つテーベから進発する軍隊のように、この二言、「多くの者」の言及によって飛び出して来るように思われる。ここで私たちが見るのは、骨折り仕事をしている百姓と、押し出しの良いその大地主であり、腕利きの職人と格幅の良い商人であり、廷臣と王であり、若者と老人であり、学者と無学者であり、その全員がこの一言の中に寄せ集められている。

 そして、この人間の魂の広壮な集まりをなしている全員が、異口同音に1つの叫びを上げており、1つの方向に動いている。このように考えるとき、信仰深い者は涙して良い。というのも、彼らの叫びは《自我》であり、彼らの行く先は《罪》だからである。そこここに、選ばれた少数の者がいて、この大きな潮流と戦ってはいる。だが、大勢は、大群衆は、今なお、ダビデの時代と同じく、思い描いた良い物を求めては、自分たちの狂気の驀進を続けつつあり、その無益な探求の実として失望と、死と、地獄を刈り取っている。おゝ、話をお聞きの方々。あなたは死んだ魚のように流れに浮かんでいるだろうか? それとも、抑制の恵みにより、選民のため備えられた至福へ向かって前へと、また、上へと引き寄せられつつあるだろうか? キリスト者であれば、私は切に願う。立ち止まって、あなたを違う者としている恵みをほめたたえてほしい。もしあなたの心が神と正しい関係にあるとしたら、あなたがこう告白するであろうことを私は知っている。自分の中に本然的に良いものが備わっているのではない、と。というのも、あなたの友人であるこの説教者と同じように、疑いもなくあなたは、内側にある強い傾向について呻かされているからである。その傾向はしばしばあなたを誘惑し、この世が行なっている追求に加わらせようとし、「湧き水の泉」[エレ2:13]から離れて、壊れた水ためへと向かわせようとする。それゆえ、あなたは、この説教者と声を合わせてこう歌うであろう。――

   「ただ恩寵(めぐみ)にて われ従いぬ。
    余の者なおも 進み行き、
    われも生来(もと)より 選(と)りし道にて、
    災厄(まが)つ国へと 至らさるるも」。

では、私とともに来て、この世の悪と愚かさを眺めるがいい。彼らの決してやむことのない叫びに耳を傾けるがいい。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」。

 最初に、その官能的な性格に注意するがいい。「だれかわれわれに良い目を《見せて》くれないものか」。この世が願うのは、見えるもの、味わえるもの、手で触れることができるものである。信仰の種々の喜びを、この世は理解しない。私たちは、天来の恵みゆえに、見えるところによって歩んではいない[IIコリ5:7]。だが、あわれな地上の子らは、目に見える、現存する、地上的な種々の喜びを有さなくてはならない。私たちには、目に見えない割り当て地、不可視の相続地がある。種々のより高くを感知する力があり、より高貴な歓喜がある。私たちは、何か肉的な見世物師によって、束の間の操り人形を自分の前で踊らせてほしいとは全く思っていない。私たちは「麗しい王」を見たことがあり、「遠く広がった国」を霊的に眺める[イザ33:17]。この世の子らを憐れもうではないか。彼らが水を探している場所は、水のない所、塩地、乾燥地である。あわれな近視眼の人のため、熱心にとりなそうではないか。その人が「上からの知恵」[ヤコ3:17]と、天来の照明という目薬を得られるように。そのようにして、もはや下界に自分の幸福を求めるのでも、時間と官能に属する物事に楽しみを探すのでもなくなるように。

 気をつけるがいい。話をお聞きの方々。あなたが同じ迷妄に苦しまないようにするがいい。常に祈っているがいい。あなたが官能の縄張りの中で狩りをして、あなたの情愛を地上的な物事に結びつけるようなことがないように。というのも、確信して良いが、この世の薔薇はとげで覆われており、その蜜の巣が割り開かれると、あなたは、あなたを刺す数々の記憶で取り巻かれるが、一滴の甘味も受け取れないからである。ひとりの聖なる詩人の言葉を忘れず心に銘記しておくがいい。――

   「大地(ち)も 全空(おおぞら)も
    つゆも楽しみ もたらせじ。
    雫(しずく)も喜び、与ええじ、
    主よ、汝がともに おらざれば」。

 次に注意してほしいのは、その見境のない性格である。「だれかわれわれに《何か》良いものを見せてくれないものか」<英欽定訳>。未回心の精神は、何の見識も働かさずにその選択を行なう。1つの良いことは、別の良いことと同じくらい望ましいのである。人々はここでは容易に寛容さを許す。人を酔わせる杯は、大酒飲みにとって「良いもの」であり、情欲にふけることは快楽に夢中の人々の目的であり、黄金は鉱夫の神であり、名声や権力は野心家の選ぶものである。ほとんどの人々にとって、これらはみな、それなりに「良いもの」である。たとい道徳的に良いと見られてはいなくても、それらは禁断の木の実のようにみなされており、それに口がつけられていないのは、罰のためでしかない。真の嫌悪によって忌み嫌われているわけではない。おゝ、話をお聞きの方々。あなたには、どんな良いものでもあなたに適するわけではないと見てとるだけの見識があるだろうか? 「堅固(かた)き喜び、永久(とわ)の楽しみ」を選んできただろうか? また、時の珍味はあなたにとって味気ないものだろうか? あなたは、刺草からも毒草からも食物を集めることのできる蜂のようではない。「シャロンのサフラン」があなたの選ぶ花であり、「谷のゆりの花」があなたにとっては美のきわみである[雅2:1]。もはや、あなたは《何か》良いものをと願うことはできない。というのも、あなたは唯一のもの、ただ1つ良いものを見いだしてしまっているからである。そして、《そのお方》のうちにこそ、満ち満ちた豊かさがあり、あふれるほどの豊かさがあるため、あなたは常にこう歌うのである。――

   「神はわが すべてを足らす善にして
    我れが割り当て わが選び。
    神にて広き 願い満たされ、
    わが力みな 喜べり」。

 この問いの利己的な性格によくよく注意するがいい。「だれか《われわれに》良い目を見せてくれないものか」。ここで、この世のあわれな人間は、自分と仲間たちのためには求めるが、神のためにも他者の益のためにも求めていない。彼には神への何の恐れも、何の愛も、何の畏敬もない。自分の納屋が満載になり、自分の財布が膨れ、自分のからだが養われ、自分の官能が満足させられさえすれば、大いなる《造り主》と恵み豊かな《与え主》は忘れられて良いのである。神がいるかいないか、あるいは、神が礼拝されているかいないかなど、彼に何の関わりがあろうか? 彼にとっては、ウェヌスも、梵天も、ウォドンも、エホバも、みな同じように神なのである。生けるまことの神[Iテサ1:9]など彼にとってはどうでも良い。他の人々がキリスト教信仰を奉じることに文句は云わないが、彼にとって、それは退屈な苦行となる。あるいは、たとい彼が外的にはキリスト教を信仰するふりをしていようと、彼は宮の中のギブオン人でしかなく、「たきぎを割る者、水を汲む者」[ヨシ9:21]なのである。その礼拝においても利己的であり、その賛美や祈りにおいても利己的である。

 しかし、愛する方々。私たちはもはや自分を愛する者ではないと思いたい。私たちは神をあがめる者になっており、純粋に感謝の念から、喜びをもって神の御座の前で拝礼している。今の私たちは自己を第一には置かない。自己の滅却、自己の死を経験したいと願う。私たちは自分の種々の願望を天来の愛という祭壇の上に置くことを学んでいる。そして今や、ただ1つの情熱が私たちの諸力を集中させており、真に私たちはこう叫ぶ。――

   「主はわが光、いのち、気遣い、
    ほむべき望み、天(あま)つ褒美(たから)ぞ。
    いかな情熱(おもい)に まさりて愛し
    わが手足と胸と 両眼(まなこ)にまさる」。

 また、この問いの空しさに注目するがいい。「《だれか》われわれに良い目を見せてくれないものか」。木霊が答えて良いであろう。「誰か?」と。その幸運な発見者はどこに住んでいるだろうか? この途方もない値打ちの真珠に偶然出くわした人は? あゝ、罪人よ! あのバアルの祭司たちのように、もう一度呼ぶがいい。というのも、聞く者も答える者もいないからである。古代の牧歌的な詞藻の数々へと赴き、それらが虚構であることに気づくがいい。快楽主義者の神酒を味わい、それが胆汁であることに気づくがいい。羽根布団に横たわり、惰弱さの生み出す弱々しさを嫌悪するがいい。富で身を囲み、それが心痛を和らげることにおいて全く無力であると思い知るがいい。左様。王冠を頭に戴き、王の頭の落ち着かなさを嘆くがいい。あの知恵の伝道者のように、すべてを試し、快楽の宮殿のあらゆる飾り箪笥を開け、その宝物殿を隅から隅までかき回すがいい。念願の良いものは見つかっただろうか? あゝ、否! あなたの数々の喜びは、泡ぶくのように、触れれば消えてしまった。あるいは、学童の蝶々のように、それを捕えた一撃によって叩き潰されてしまった。

 ここで立ち止まり、現世的な喜びの空しさを悟るがいい。あらゆる恵みの御霊に懇願するがいい。地上の安ピカ物の虚ろさをあなたの魂に明らかに示してくださるようにと。地をつかむがいい。すると、クォールズが云い表わしたように、「Tinnit inane」、――それが音を立てるのは、それが空っぽだからである。この世を軽蔑し、その玉飾りを安く見積もるがいい。その宝石類を人造宝石のように評価し、その堅固さを夢まぼろしのように評価するがいい。こうするときに快楽を失うと思ってはならない。むしろ、クリュソストモスの言葉を思い出すがいい。「富裕を軽蔑せよ。さすれば、あなたは富者となろう。栄光を軽蔑せよ。さすれば、あなたは栄光に富む者となろう。危害を軽蔑せよ。さすれば、あなたは勝利者となろう。安息を軽蔑せよ。さすれば、あなたは安息を得るであろう。地上を軽蔑せよ。さすれば、あなたは天国を得るであろう」。

 ここであなたや私は、この愚かしい大群衆の概観のしめくくりとして、ボナヴェントゥラによって語られた、3つの教訓を学んで良いであろう。「罪に定められている者らの数多さ、救われる者たちの少なさ、移ろいやすい物事のはかなさ」である。

 II. ずっと幸いな光景が今や私たちを待ち受けている。向こうにいる一団の人々は、その常々の発言が、多くの者の問いかけとは大きく異なっている。こうした人々は《少数の者》である。道徳家や形式尊重主義者たちが信じるほど多くはないが、それと同時に、《頑迷固陋》がその偏狭さによってみなすほど少なくもない。というのも、神は、バアルに一度も膝をかがめなかったその数千人を隠しておられるからである。

 こうした人々は良いものを追い求めない。すでに見いだしているからである。問いを発するのではなく、祈りを囁く。定命の者らに問い合わせるのではなく、自らの神にこの懇願をささげる。「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」。

 この言葉の敷居そのものの上で少しとどまり、敬虔に天来の探りを願い求めようではない。これが自分の祈りであるという思い込みによって欺かれるといけないからである。この言葉を私たちの不浄な唇の上に軽々しく乗せないようにしよう。自ら求めて罪に定められることになってはいけない。ことによると、話をお聞きの方々。神の御顔の光が今すぐあなたの上に照らされたなら、あなたの心は神からあまりにも遠く隔たり、神への憎悪であまりにも満たされているため、その光がたちまちあなたを滅ぼすかもしれない。というのも、思い出すがいい。神は「焼き尽くす火」[ヘブ12:29]だからである。

 しかしながら、もし良心の答えと内なる証しが一致して希望を与えるなら、私たちの神の光を眺めようではないか。

 というのも、最初のこととして、それは和解された御顔であるからである。「あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました」[イザ12:1]。「あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う」[イザ54:9]。イエスを信じる信仰者たちに対する神の怒りは永遠になだめられている。彼らはキリストの義において完璧きわまりない者となっているため、神は彼らのうちに何の罪のしみもご覧にならない。その「目はあまりきよくて、悪を見」[ハバ1:13]ないお方であるが、神はあわれな罪人たちを愛情深く眺めてくださる。そして、私のキリスト者たる兄弟姉妹。あなたに対して神がいだいておられる感情は混じりけのない愛以外の何物でもない。あなたの栄光に富む状態について考えてみるがいい。和解されている! 愛されている! 子とされている!

 次に、それは元気を与える御顔である。優しい友の微笑みは私たちに力をつけて義務に向かわせるものである。賢者の承認のこもった一瞥は、試練にあるとき私たちに勇気を与えるであろう。だが、神の顔つき、天におられる私たちの御父の微笑み、それは莫大な聴衆の拍手喝采にもまさる。あるいは、一帝国分の賞賛者たちの歓呼にもまさる。神の慰めがありさえすれば、私は人々の野次に十分に耐えることができる。私の頭がイエスにもたせかけられていさえすれば、私は安逸や苦難によって邪魔されることも恐れない。私の神がその微笑みの光を、また、その承認の一瞥を常に与えてくださるなら、それで私には十分である。来るがいい。敵ども、迫害者ども、悪鬼ども、左様。アポルオンそのひとよ。というのも、「神なる主は太陽であり、盾」*[詩84:11]だからである。お前たち、密雲が群がって私を取り囲んでも、私は内側に1つの太陽をかかえているのだ。凍りついた《北方》の風が吹きつけようと、私は燃える炭火を内側に有しているのだ。しかり。死が私を殺しても、私には別のいのちがある。――神の御顔の光のうちにある光である。

 別の甘やかで尊いことを考察するのを忘れないようにしよう。それは独特の御顔である。それは、この事実による。すなわち、それは、それを見つめる者をご自分に似た者へと変質させ、変化させるものである。私は美を凝視していても、私自身は奇形の者かもしれない。光を賞賛しても、暗闇の中に住んでいるかもしれない。だが、もし神の御顔の光が私の上にとどまるなら、私は神に似た者となるはずである。神の顔つきの特徴が私の上に浮かぶようになり、その種々の属性の大いなる輪郭が私のものとなるであろう。おゝ、不思議の鏡よ。このように見る者を麗しくするとは! おゝ、賞賛すべき姿見よ。その不完全さをかかえた自我を映し出すのではなく、見場の良くない者たちを完璧な姿にするとは! 願わくは、愛する方々。あなたや私がイエスを、また《神格》のあらゆる位格を固く見据えるあまり、私たちの聖からざるものが取り除かれ、私たちの堕落性が克服されるように。幸いな日よ。私たちが主に似た者となるときは。だが、その唯一の理由は、そのとき、「私たちがキリストのありのままの姿を見る」*[Iヨハ3:3]ことであろう。おゝ、私たちが人間の微笑みや恩顧を眺めることがより少なくなり、天の尊重と注意を顧みることがより多くなるなら、いかに私たちは、今の自分のあり方からはるかに前進することであろう! 私たちのちっぽけな霊はその身丈において巨大になり、私たちの虚弱な信仰は、恵みによって桁外れに強くなるであろう。私たちはもはや誘惑に翻弄される者でも、自分の腐敗の云うなりになる者でもなくなるはずである。おゝ、私たちの神よ。私たちの愚行と私たちの罪のただ中にあって、私たちは強い願いとともにあなたに目を向け、叫びを上げます。「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください!」

 私たちの短い、だが教えに富む黙想のしめくくりとして、ただ1つ注意したいのは、神の御顔は変わらないということである。その光は変化するように思えるかもしれないが、その御顔は同じである。私たちの神は不変の、光を造られた父[ヤコ1:17]であられる。神はいま愛して、将来投げ捨てるようなことはなさらない。決して神の愛は始まったのではなく、決してやむことがありえない。それは永遠からあり、永遠まで至る。時の間の事がらは変わりやすい。明白に、また、絶え間なくそうである。だが、永遠の事がらは常に同じである。神がご自分の子どもたちを忘れたり捨てたりすることがありうるなどとという忌まわしい示唆を取り除くがいい。おゝ、しかり! ひとたび愛を放った御顔が、いま御怒りで曇っていることはない。愛情であふれた心が、いま怒りに満ちていることはない。私のもろもろの罪がいかに大きなものであったにせよ、それらは神の愛ほど大きくはない。私の信仰後退というやすりが、神のあわれみという鎖の黄金の環を分かつことを許されはしない。もし私の恵み深い主であり《救い主》なるお方が、私の名前は常にシオンの子らの間に記載されていると私に保証してくださったなら、「闇の諸力(ちから)」も「永久(とわ)の線」を消すことはできない。行くがいい。あわれな、サタンの召使いよ。お前の辛気くさい仕事に従事するがいい。行って、肉的な楽しみという、あてどない鬼火を求めるがいい。だが、私には確かな喜びがある。お前には手の届かない、実質のある幸いがある。話をお聞きの方々。もしあなたが多くの者をあわれみ、少数の者に加わってこう歌えるとしたら、それは良いことであろう。――

   「返れや、わが魂(たま)、安きへと。
   汝が大祭司(おおねぎ)の 功績(いさおし)は、
   汝れが自由(すくい)を 買い取りぬ。
   霊験(ちから)ある血に ただ頼り、
   恐るな、神から 追放(お)わるるを、
   イエス汝がために 死にたれば」。

 

幸福の探求[了]

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