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傷ついた心を癒す

NO. 3104

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1908年8月6日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年7月19日、主日夜の説教


「主は……心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」。――イザ61:1


 これは、主イエス、神のキリスト、メシヤが、ナザレの会堂で読み上げ、こう云われた際のことばの一部である。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」[ルカ4:21]。

 誰にでも起こらないとはいえない最悪の災難の1つは、その霊が傷を負うことである。「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」[箴18:14]。海洋中のありったけの水より千倍も船に損害を与えるのは、船内に入ってくる水である。苦難が心の中に入り込むとき、他のあらゆる苦難は嵩を増すように思われ、日常生活の普通の試練さえ耐えがたくなる。おゝ、神よ。もしできますなら、人生の戦いの中で全く傷つき果てるという、恐ろしい苦しみから私たちをお救いください!

 それでも、この大いなる災難と密接に関連しているのが、最大の霊的祝福の1つ、すなわち、罪ゆえに傷ついた心である。また、時として、肉体的な悲しみ、精神的な苦悶、あるいは、物質的な苦難から生じた霊の傷が、心の深い悔恨に至り、それがこの上もなく神に受け入れられるものとなることもある。しばしば神は、低い形の患難を聖別し、それがより高い形の霊の傷に資するものとなるようにしてくださる。私は、霊的に傷ついた心の描写をあなたに示そうとは全く思わない。むしろ、ありとあらゆる種類の傷ついた心に話しかけたいと思う。この聖句には、傷ついた心について特に何の描写もされていない。ただ、キリストのこの宣言があるだけである。「主は……心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」。そこには、その宣言を霊的に心傷ついた者に限定するような何の形容語句もない。そして私は、この聖句の中にないものをそこに挿入したいとは思わない。このように何の区別も分け隔てもせずに済むことがさらに喜ばしいのは、そうしたものがあった場合、それは悩む者に自分の内側を見つめさせることにしかならないだろうからである。果たして自分の心は霊的に悩んでいるかどうかと。そして、それこそ私が、そうした人々に見つめさせたくない所なのである。むしろ私は、そうした人々が自分自身から目を離し、傷ついた心の《癒し主》イエス・キリストを見てほしいと思う。霊的な経験や性格を描写することは有用なこともある。だが、残念ながら、それと同じくらいしばしば、それによってあわれな罪人の目は自分自身に向けさせられるのではないかと思う。だが、その人の希望は、その目が十字架に上げられたお方に向けられることにある。自己を見つめる人は、へりくだりへと至らされる見込みが高い。だが、すでにそのようにへりくだらされている場合には、この主の命令の出番なのである。「地の果てのすべての者よ。主を仰ぎ見て救われよ」*[イザ45:22]。

 I. それで、何の区別もせず、むしろ、すべての心傷ついた人に対して語ることとして、私は第一にこう指摘したいと思う。すなわち、《神は実際に、心の傷ついた人々を覚えておられる。というのも、彼らを癒すためにひとりの救い主を遣わしておられるからである》

 この単純な指摘は、霊において傷つき、意気阻喪している人々にとって大きな慰めとなるはずである。なぜなら、そうした人々は普通、「私たちのことなど誰も気にかけてくれないのだ」、と非常に云いがちだからである。私たちが苦難に陥ると、誰もが私たちを避ける。私たちが浮かれ騒ぎをしていると、十分に私たちとともにいて陽気にしているのに、私たちが悲しんでいると、私たちには全く同情しない。人は、私たちの喜びの時には一緒に踊ってくれるが、私たちの希望の墓場まで私たちに付き添い、そこで泣いてくれようとはしない。まるで燕のように、夏には私たちとともにいるが、冬には私たちを見捨ててしまう。また木の葉のように、太陽が私たちとともにあるときには青々と繁っているのに、冬が近づいてくると色あせて、しなびてしまう! それでも、愛する心傷ついた方々。かりにあらゆる人があなたを捨てるか忘れるかしても、神はそうなさらない。神の目はあなたを見ており、神の心はあなたに同情しており、神の手はあなたを救い出すことができる。あなたは今、友なき者ではないし、これから友なき者になるとしたら、それは、すべての慰藉の神が死んだ場合しかない。そして、そのようなことは決してありえない。

 キリストの宣言が心の傷ついた人をやはり元気づけることになるのは、そうした人々はしばしば、自分の状況が手の施しようのないものだと結論づけるからである。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「たとい私に友がいるとしても、その人には私を助けられないだろう。私の状況は助けようのないものなのだから。たとい私に五十人の友人がいたとしても、その人々は、私が患っているような精神的病をどのように看護すれば良いか分からないだろう。私が助かるには、もう手遅れなのだ」。しかし、聞くがいい。愛する心傷ついた方々。あなたも、主にとって難しすぎることがあるなどとは云わないであろう。絶望の中にあるあなたには云いたいことが多々あるだろうが、それでも、神も自分を助けることはできないなどとまでは云わないであろう。神こそは夜を朝に変え、吠え猛る海を静め、嵐に手綱をかけるお方である。ならば、神に何ができないだろうか? あなたは、神にも助けられないほど見放された状態になることはありえない。全能にとっては何の困難もありえないし、いわんや不可能なことなどない。それゆえ、あなたの耳にこう囁かせてほしい。あなたにはまだ希望があるのだと。というのも、あなたには真の友がおり、その方はあなたを助ける力も意欲もお持ちだからである。

 このことが、なおもあわれな意気阻喪する者を慰めるはずなのは、その人がしばしば、神は自分に敵対しているに違いないと結論するからである。「私がこのように悲しい精神状態にあるからには」、とある人は云うであろう。「私は《いと高き方》に忌み嫌われているに違いない。神は私をご自分の矢の的にし、私めがけて射かけているのだ。そしていたく私を傷つけているのだ。神は私の杯を、苦みを混ぜた悲しみで満たし、それを私の口に押しつけて、私にそれを飲み干させようとしている。神は私を全く忌み嫌い、私を御前から投げ捨てておられるのだ」。そうではない。そうだとしたら、かの大きな鐘があなたの弔鐘を鳴らして良い。だが、本日の聖句によると、主はご自身の御子イエス・キリストを遣わし、心の傷ついた者を癒させようとしておられる。神は決してあなたの敵ではない。さもなければ、あなたを癒すために御子をお遣わしにはならなかったであろう。あなたは、マノアの妻が夫に何と云ったか覚えていないだろうか? 彼は彼女に云った。「私たちは神を見たので、必ず死ぬだろう」。だが彼女はそれよりも賢く、こう答えた。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のいけにえと穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、いましがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったでしょう」[士13:22-23]。そのように私たちもあなたに云うのである。あわれな心の傷ついた人たち! もし主があなたを滅ぼすつもりだとしたら、なぜ主はご自分の御子を遣わし、心の傷ついた者を癒させようとされたのだろうか? また、何のために福音が送られたのだろうか? また、なぜあなたはこの場にいて、優しく懇願されているのだろうか? なぜ主は、あなたのように悩める魂に対する深い愛の計画があると請け合われているのだろうか? 私の信ずるところ、あなたはこれから心の喜びのあまり躍り上がることになるであろう。その立琴を柳の木々[詩137:2]から取り上げ、タンバリンを持ったミリヤム[出15:20]のように、自分の恐れていた、だが二度と永久に見ることのないエジプト人たちについて喜ぶことになるであろう。

 II. 私たちがこの聖句に見いだす第二の真理の中にも、大きな慰藉がある。すなわち、《神は、心の傷ついた人々のためにうってつけの助け主を遣わしておられる》。キリストは云われる。「主は……心の傷ついた者をいやすために、《わたしを》遣わされた」、と。

 ならば、見るがいい。愛する悩める方々。いかにうってつけの《助け主》を神があなたのもとに遣わしておられるかを。というのも、神があなたに遣わされたお方は、ありとあらゆる種類の悲しみをも知悉しておられるからである。一部の人々は、どれほど努力しても他の人々を慰めることができない。なぜなら、自分で何の苦難も受けたことがないからである。何不自由ない生活しかしてこなかった人が、この上もなく険しい道を歩んできた人に同情することは難しい。たとい、その成功者が同情しようと努めても、それは非常にぎこちないものになるであろう。それは、看護婦として一度も訓練を受けたことのない者が、病人のために枕を整えようとするようなものであろう。そうした人々は常に私たちの枕にゴツゴツしたしこりを作る。特に自ら一度も病人になったことのない人はそうである。しかし、いま友がいま苦しんでいるのと同じ病気にかかったことがある場合、それによって、彼の枕頭に立つあなたにいかなる同情心が授けられるかは驚くほどである。「馬鹿云え!」、と強い人はあわれな苦しめる人に云うであろう。「君は神経質すぎるのだ。精を出して活動するよう努めるがいい」。それは、しばしば苦しめる者に対して発しうる最も残酷な言葉の1つとなる。しかし、同様の経験を経たことがあったとしたら、その人は全く別の口調を用いる。その人は、強い人にとっては馬鹿げたことも、弱い人にとってはそうでないことを知っており、他の人々であれば、ただ苦痛に追い打ちをかけるしかないところで、自分の言葉を加減し、励ます。心の傷ついた人たち。イエス・キリストはあなたの苦難をみな知っておられる。というのも、同様の苦難が主の受ける分だったからである。茨があなたの枕の中には見いだされるが、それよりも鋭い茨が主のほむべき額に突き刺さったのである。それだけではない。主はあなたの悲しみと同じく、あなたの誘惑をも知っておられる。また、あなたの悲しみに特有の誘惑、また、非常にしばしば大きな罪を引き起こすことになる誘惑も知っておられる。

 何よりも良いことに、傷ついた心の《癒し主》として、神が選ばれたのは、自らも心傷ついたことのあるお方であった。イエスの死因が、心張り裂かれたためであったことは決定的に証明されていると思う。主の死に先立つ症候群をごく丹念に調べてみれば、その結論に至るように思われる。主は、ダビデにすら不可能だったような力を込めて、こう仰せになることができた。「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます」[詩69:20]。この心傷ついた《救い主》が、心の傷ついた罪人たちの《癒し主》なのである。キリストは、ご自分の御前に悲しみがとどまることを許そうとはせず、それを和らげようとされる。あなたも、主が地上におられたときしばしばこう云われることに気づいてきたに違いない。「しっかりしなさい」[マタ9:2; 14:27; マコ6:50; ヨハ16:33]。あるいは、「安心しなさい」[マタ9:22 <英欽定訳>; ルカ8:48]、と。主は、悲嘆に暮れた心のそばを通り過ぎることができなかった。立ち止まり、ご自分の御力を出してそれを癒さなくてはならなかった。そして、主は今もその頃と変わっておられない。主はなおも、心の傷ついた人々、また、心の打ち砕かれた者、魂の砕かれた者[詩34:18]を思いやってくださる。そして、私たちの日常の普通の悲しみにおいてさえ、私たちに同情してくださる。

 やはりまた、こう云わせてほしい。おゝ、あなたがた、心の傷ついた人たち。神があなたの心を癒すために遣わされたお方は、すでに他のおびただしい数の人々を癒してこられた。私たちは、老練な医師を好むものである。私の知っている、ある非常に腕のいい外科医は、見かけが若いというだけで長いこと、あまり多くの患者を集めることができなかった。人々は、からだを癒すことに経験を積んだ人を好むのである。そして、経験は、魂の癒しのためにも同じくらい価値がある。イエス・キリストは何百万もの傷ついた心を癒してきたので、あなたの心を癒すすべも知っておられる。その疾患がどこにあるか、また、いかなる治療法を適用すれば良いかを知っておられる。

 主がお遣わしになったのは、また、あなたを慰めるそのみわざにおいて落胆することも、苛立つこともないお方でもあられる。私たちは時々、嘆き悲しんでいる人を慰めようとしても、その人が慰められようとしないと忍耐をなくし、善よりも害を施すことになることがある。良い意図をもって、病んだ思いを元気づけようとした多くの人々は、その患者に対する自分の忍耐のなさゆえに、新たな傷を負わせてしまうことがあった。だが、イエス・キリストは、「無知な迷っている人々を思いやることができる」[ヘブ5:2]。主は我慢し、忍耐し、乳母が自分にまかせられた子どもたちに対するのと同じくらい、また、はるかにまさって優しくあられる。主はあなたの罪をあなたから押し出し、それからあなたの悲しみをあなたから取り去ってくださる。さもなければ、それに耐えられる恵みをあなたにお与えになる。心の傷ついた者の《癒し主》としてイエスのようなお方は他にひとりもいなかった。ある人々のことを、他の人々は常に喜んで信頼しようとする。そして、他の者らが大きく信を置く人になるということは非常に深刻な問題である。なぜなら、あなたの心は、あなたの回りにいるあらゆる人の苦難を扱う、一種の共同荷受事務所のようにならざるをえないからである。そして、イエスの心は、可能な限り最も大きな規模でそのようなものなのである。もしも、この場に主がその肉体的な臨在をもっておられるのを見ることができたとしたら、あなたはこう云うであろう。「この《お方》こそ、私が自分のすべての苦難を告げることのできる方だ」、と。あなたはこの方について何と記録されているかを知っている。この方は、「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』」[マタ8:17]。あなたは、いつでもイエスのもとに行ってかまわない。主は常に喜んであなたの悲しい物語を聞いてくださる。いつでもあなたの種々の困難を解決することがおできになる。いつでもあなたの数々の苦悩を和らげることがおできになる。これはあなたを慰めるはずである。だが、私がそうすることはできない。私は、キリストと同じ意味では、心の傷ついた者を癒すように遣わされていない。私が遣わされているのは、主の御手にある器としてである。だが主がそのみわざを行なわなくてはならない。主だけがそうおできになるからである。

 III. この事実によって私は、この聖句からの第三の思案に導かれる。すなわち、《このうってつけの助け主は、神ご自身の任命によって、心の傷ついた者を癒してくださる》

 この《お方》が遣わされているのは、いかにしてあなたの心が傷ついたかをあなたに告げ、そのことであなたを叱るためではない。男の子が溺れかけているのを見て、背が立たないような所まで泳いでいった軽率さについて説教を垂れた男子教員とは違う。多くの人々はそのようにふるまう。もし誰かが貧困のきわみにあると、そうした人は云う。「あゝ、お前はいつも贅沢をしていたのだ」、あるいは、「お前はあんな投機にはまりこむべきではなかったのだ。自分の友人に恩義を施そうとして、あんな証券に手を出すべきではなかったのだ。今や、お前は自分の愚劣さの報いを受けなくてはならないのだ」。多くの人々は、あなたがその穴に落ちるべきではなかったとあなたに告げることは全くできるが、彼らのお説教は、私たちがあなたを助けてその穴の中から出させた後まで取っておく方が良いと思う。使徒ヤコブが私たちに告げるところ、神は「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」[ヤコ1:5]。そして、心の傷ついた者にとって祝福なことに、イエスは彼らを無代価で癒し、彼らの罪や愚行のゆえに彼らをとがめて叱ることはなさらないのである。

 また注意するがいい。キリストが遣わされているのは、傷ついた心に治療薬をもたらし、それを私たちに塗らせるためではない。ある人がひどい傷を負い、その人の傷を癒すだろう軟膏があったとしたら、その人はそれをつけなくてはならない。だが、かりにその傷がその人の手の届かない所についているとしたら、その人は云うであろう。「ここには軟膏があるが、それが何の役に立つだろう? どうすれば、それをつけられるというのか?」 その人は腕を折ってしまい、それは包帯で巻かれるべきである。「そこに包帯がある」、とその人は云うであろう。「だが、私がどうして自分の腕に包帯を負けるだろう? 私は誰かにそうしてもらわなくてはならない」。私は一度、ある老船長と一緒にいたときのことを思い出す。彼は思い悩んでいたため、私は彼に神の数々の約束について告げていた。すると彼は云った。「しかり。そうした約束は、川縁にあって、船を係留できる大きな杭みたいなもんですわ。人は綱をつかんで、輪を作らにゃなりません。ですが、たいへんなのはそれを杭に引っかけることですわい。それができさえすれば、船を停めることはできましょうが」、と彼は云った。「わしには、その輪っかを杭に引っかけられんのですよ。そこにはいくつも約束がありますが、わしにはそれがつかめんのですよ」。私たちはあまりにも弱く、虚弱なために、主イエス・キリストは単にやって来てその軟膏をもたらすだけではなく、主が来られたのは「心の傷ついた者をいやすため」であった。神のことば全体の中で最も壮大な箇所の1つは詩篇147:3、4だと思う。「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。主は星の数を数え、そのすべてに名をつける」。これは大きく身を落とすことと思われないだろうか? 星々を整列させていたお方が、あわれな打ち砕かれた心の上に身を屈め、その傷をふさいでくださるのである。それでも神は、ご自分の御力を明らかに示すことと同じくらい、ご自分の恵みを明らかに示すことを喜びとされる。それで分かるであろう。愛する心の傷ついた方々。イエス・キリストが心の打ち砕かれた者を癒すためにやって来られた、すなわち、あなたにその数々の恵みの慰藉をもたらし、それをあなたに当てはめてくださるために来られたことが。また、この目的のために、本日の聖句が見いだされる節では、神である主の霊がキリストの上にあると書かれているのである。なぜなら、神の御霊こそ、みことばを心に適用するお方であり、それゆえ、神の御霊は主イエス・キリストの上に置かれているのである。それは、主がお語りになるとき、そのみことばに力が伴うためである。それで、愛する方々。私たちに遣わされている《救い主》は、その上に神の御霊が注ぎ出されており、それゆえ、有効にお語りになる。――閉ざされた耳にではない。というのも、主はその耳を開き、その耳を通して真理を真っ直ぐ魂に伝え、そのようにして私たちにその祝福と力を分からせてくださるからである。

 この非常に重要な点については、ただ次のことを除き、もう詳しくは語るまい。主イエスが心の傷ついた者を癒すとき、主はそれをあまりにも栄光に富むしかたで行なわれるため、以前そこにある苦難が多ければ多いほど、後にそこにある喜びは大きくなる。ことによると、この世にいるいかなる人々もまして幸せなのは、かつては最も悲しんでいた人々かもしれない。誰よりも大きな喜びを有している人々がいるとしたらそれは、滅びの穴と泥沼から引き上げられ、今ではその足を巌の上に置き、その歩みが確かにされている人々、また、その口に、新しい歌、「われらの神への賛美」を授けられた人々であろう[詩40:2-3]。

 IV. 私の第四の指摘はこうである。《イエスがお用いになる塗布剤は、心の傷ついた者たちそれぞれにうってつけのものである》。それぞれの場合を手短に取り上げてみよう。

 一部の傷ついた心は、ダビデのように、はなはだしい罪に陥った聖徒たちの心である。神が私を救い給わんことを。神があなたを、私の兄弟たち。救い給わんことを。神があなたを、私の姉妹たち。救い給わんことを。生ける神に対する大きな罪を犯すにまかされることから! しかし、もし私たちがそのような罪を犯すことがありでもしたら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者[Iコリ15:19]である。というのも、それは、あれほど大きな天来の愛とあわれみに背いて罪を犯すこと、また、あれほど明瞭であふれるほどの天来の光に背いて罪を犯すことだからである。今晩、この場にやって来た人々の中には、神の子どもでありながら、突如として大きな誘惑によって引っくり返され、それに屈してしまっている者がいるかもしれない。兄弟よ。私はあなたが弁解しないことを知っており、私があなたの弁解をするよう望んでもいないことを知っている。罪は、極度に苦々しいものであり、あなたは生きている限りその苦さを味わっていなくてはならないかもしれない。だが、それにもかかわらず、絶望してはならない。主はいたくあなたを懲らしめるであろうが、あなたを死に引き渡すことはなさらない。主イエスは、あなたの折れた骨を継ぐすべをご存知であり、あなたはダビデが詩篇51篇でしたように、今やこう祈ることができる。「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう」[詩51:12-13]。主イエスが、このように傷ついた心に普通お塗りになる塗布剤はこれである。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」[イザ44:22]。主は悔悟する魂に請け合ってくださる。彼のあらゆる過ちと愚行にもかかわらず、主は彼をなおも永遠の愛で愛しておられ、その愛が彼を見放すことはない、と。これは、大きな罪に陥ったことを通して傷ついた心にとって、ほむべき香膏である。

 他の者たちは、何か1つのはなはだしい罪に陥ってはいないが、ことによると、それより悪いことを行なってきた。彼らは次第に信仰を後退させ、ついには天来の事がらを全くないがしろにするようになっている。そうした人々は、そのことについて落ち着かないものを感じる。というのも、神の御霊が、そうした人々に自らの陥った状態のみじめさを悟らせておられるからである。あなたがたの中のある人々は、以前は田舎に住んでおり、小さな村の教会の会員であった。また、主への奉仕において非常に熱心であった。だが、あなたはこの邪悪なロンドンに上京し、自分の隣人たちが礼拝所に行かないことを見いだすと、あなたがたの中の多くの者らはほとんど神の家に出席しなくなる。そこにいる善良な婦人たちは、不敬虔な男と結婚し、自分の夫を喜ばせるために、次第に種々の外的な儀式から離れて行き、少しは神への愛を残しているため、密室の祈りやみことばを読むことをやめてはいないものの、非常に低い所に落ちてしまっている。聖霊がこうした人々に自分の罪深い状態を確信させるとき、その心が傷つけられるとしても不思議はない。そうした人々は心傷つくべきであり、主をこれほど悲しませ、主の道から後退してしまったがゆえに激しく悔い改めるべきである。しかし、もし私がいま語りかけている人々の中に誰か信仰後退者がいるとしたら、その人にこう思い起こさせてほしい。主イエスが遣わされたのは、「心の傷ついた者をいやすため」だったのである。あわれな信仰後退者よ。あなたの初めの愛[黙2:4]に立ち返るがいい。あの時は、今よりもあなたは幸せだったからである[ホセ2:7]。

 こうしたものとは別に、他の傷ついた心がある。ある罪人たちは一度も回心したことはないが、罪の感覚ゆえに心が傷ついている。彼らは、意識的には一度も神の子どもであったことはないが、今や目覚めさせられて、自分たちの危険、自分たちの失われた状態を見てとっている。私は、この会衆の中にいる、まだ回心していないすべての人々が、心傷ついていてほしいと思う。主がそうした人々の心を傷つけられたとき、彼らに福音を宣べ伝えるのは容易な務めである。それは、旺盛な食欲をした人々に食事を供するようなものである。そうした人々は、肉の切り分け方だの、その食事を盛り付ける皿の模様だのにいちいち文句をつけはしない。また、自分たちの前に出される食物に選り好みをしない。というのも、「飢えている者には苦い物もみな甘い」[箴27:7]からである。おゝ、あなたがた、大いなる罪人たち。イエス・キリストは、あなたをいかにして赦すべきかをご存知である! いかにしてあなたの心に次のような聖句を突き入れるべきかをご存知である。――「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」[マタ12:31]。――「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18]。――「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。あなたでさえも、そうである。おゝ、あなたがた、罪人たちの中でも最悪の人たち!

 また、大きな苦難によって傷ついた心がある。私の知っているある人々は、ただ金儲けのためだけに生きていたが、そこへ突如として恐慌か、市況の転換がやって来て、一切合財を失ってしまった。さて、もしこの場にそのような人がいるとしたら、愛する方よ。生ける神の御前で私はあなたに命じる。絶望してはならない。というのも、キリストは今なお生きており、「心の傷ついた者をいやす」からである。もしあなたがイエスに信頼しさえすれば、来たるべきときに、あなたは自分が破産したことで神をほめたたえるであろう。そしてあなたは云うであろう。「金持ちだったときの私は、ただこの世のためだけに生きていました。ですが、私は貧乏へと引き下ろされ、そのときキリストを自分の《救い主》として仰ぎ見ました。そして、キリストにあって私は、永遠に私のものとなる底知れない富を見いだしました」、と。一部の富者にとって非常なあわれみとなるのは、彼らの黄金の神々がみな毀たれ、生ける神を仰ぎ見させられ、神にその信頼を置かされることであろう。

 さらに、ある心は厳しい死別を通して傷つけられる。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「私は二度と目を上げることができないでしょう。私は心底から愛していた夫を失い、私の愛する子どもも世を去ってしまったのですから」。「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「私の心の愛しい者は私から取り上げられてしまった。私の地上の望みはみな葬られてしまった。私はもはや二度と喜べないであろう」。そうだろうか? ある《お方》は、まさにあなたのような傷ついた心をお癒しになる。というのも、この方はかつて墓場で涙を流したことがあり、そこで哀悼者たちを慰めたからであり、あなたの死別でさえ、あなたの善となることをあなたにお示しになるからである。あなたが誰を失ったにせよ、主はあなたに教えておられる。そうした喪失は、あなたをよりご自分に近づけるためであることを。また、あなたの心の愛のすべてが、それをみな受けるに値する唯一のお方に集中するのをあなたが見いだすようになるためであることを。しばしば主イエス・キリストはご自分の民をあまりにも愛するため、彼らに対してねたみを覚えられる。それで、彼らが他の者たちをしかるべき限度を越えて愛しているとき、主は彼らがそのように愛している者たちを取り去り、彼らの心のすべてをご自分のものとして持てるようになさる。そして、私たちはそれを高い栄誉と考えるべきである。キリストは私たちのことを大切に考えてくださるあまり、私たちの心のすべてをご自分ものとしたいと欲しておられるのである。

 それに加えて、一部の傷ついた心は貧困や抑圧によって砕かれる。婦人たちは、非常な重労働をしても、ごく少ない賃金しか受け取れず、彼女たちが得るものは、ほとんどからだと魂を合わせておけないもののように思われる。彼女たちは朝から晩まで縫い物をし、縫い物をし、縫い物をし、ついにはその頭が、日々の貧しさの苦痛のただ中で、絶え間なく骨折り仕事をしているためグルグル回り出すかのように思われるまでとなる。よろしい。愛する方々。主はいかにすればあなたを霊的に富ませ、あなたの魂に喜びを満たすべきかをご存知である。そして、あなたはあなたの貧困の中でさえ満足し、襤褸を着ていてさえ、神への賛美を歌えるようになるであろう。

 ことによると、私が語りかけている中の、ある者たちの心の傷は、人生において不誠実な一歩を取ったことによって、全く見捨てられ、何のよるべもなくなっていることから成っているであろう。奇妙な人々がこのタバナクルにはやって来て、奇妙にも神は私の言葉をそうした人々の所へ向けてくださる。時として私は、自分の髪の毛が逆立ったに違いないと感じることがあった。ある礼拝の後で、自分が告げたばかりの指摘について、それが、人々の心の秘密を暴き出し、彼ら自身の経歴を、まるで預言者が彼らに語ったかのように見てとらされたと告げられたときのことである。私は預言者ではないし、預言者の仲間でもない[アモ7:14]が関係ない。この場にはある人がいるかもしれない。ロンドンにやって来て、この混雑した町で雲隠れしようとしている人である。この青年は、二度と郷里で姿を見られたいと思っていない。彼は云う。「ぼくの唯一の望みは、誰からも忘れられることです。ぼくは、できるものなら地の果てに行ってしまいたいものです」。戻って来るがいい。私の若き友よ! あなたの父母のもとに戻って来て、彼らの痛める心を喜ばせるがいい。というのも、あなたにはまだ希望があるからである。あなたは非常に低く引き落とされているが、あなたはまだ上ることになるであろう。まだ人になるであろう。そして、それよりも良いことに、あなたはキリスト者になるであろう。また、主に仕えるようになるであろう。あなたには希望がある。というのも、あなたの傷ついた心を癒すことのできる《お方》がおられるからである。そして、あわれな堕落した婦人よ。あなたも、今どこにいようと、また、誰ひとりあなたに親切な言葉をかけず、誰もが町通りであなたの脇を恥じながら通り過ぎて行くとしても、遊女の傷ついた心さえも癒し、彼女たちをあわれむ方がおられる。それゆえ、完全に絶望に駆られてはならない。何にもまして、わが身を手にかけてはならない。というのも、私が神からの使者として遣わされているのは、あなたに向かってこう宣言するためだからである。キリストは心の打ち砕かれた者を癒し、彼らの傷を包んでくださるのだ、と。おゝ、惨めさの子たち。あなたがもはや惨めさの中にいる必要はない! あなたのもろもろの罪は、あなたの悲しみの根源である。それで、もしあなたがイエスのもとに行き、あなたのもろもろの罪を赦してさえいただくなら、あなたの悲しみはすみやかに消滅するであろう。あなたにはなおも負うべき荷があるであろう。だが、もしあなたが赦されているなら、その荷はあなたの肩に軽く乗り、それから翼に変じ、あなたを助けて、あなたの神のもとに上らせるであろう。たといあなたが死と契約を結んでしまっているとしても、また、地獄と同盟してしまっているとしても、主は仰せになる。「あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない」[イザ28:18]。確かにあなたは巨人絶望者の地下牢のどん底にいるが、イエスは鉄の棒をへり折り、囚人たちを自由になさるであろう。ただこの方を――人の子、あなたの《兄弟》、だが、《いと高き方》の御子を――信じるがいい。この方の足元にひれ伏すがいい。というのも、それはあなたのために刺し貫かれたからである。その全能の御手を仰ぎ見るがいい。というのも、それらはあなたのためにかつて十字架に釘づけられたからである。あなたのあわれな傷ついた心を、かつてあの兵士の槍で刺し貫かれた心臓へと持って行くがいい。そして、この上もなく甘やかな安らぎをイエスのうちに見いだすがいい。私は、絶望とはどういうことか分かっている。私は、若い頃、罪の確信の下にあったときに、その苦々しさのいくばくかを知った。だが、私の魂の暗黒と嵐のただ中で、かのベツレヘムの星を見た日以来、そして、特にカルバリのキリストを仰ぎ見た時以来、すべては私にとって良いものであった。それで私はあなたに云う。あなたがた、人生という暗い嵐の海の上にいる、あわれな、帰る所のない浮浪者たち。仰ぎ見るがいい。というのも、そこには、「輝く明けの明星」[黙22:16]が輝いているからである。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」。たとい罪人のかしらにとってもそうである[Iテモ1:15]。この方を仰ぎ見るがいい。あわれな、暴風に揺られている船員たち。そうすれば、この方はあなたを安全に平安の港に導いてくださるであろう。神があなたを祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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傷ついた心を癒す[了]


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