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先駆け

NO. 3102

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1908年7月23日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年7月16日、木曜日夜の説教


「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり」。――ヘブ6:20


 ユダヤ教の大祭司は、一年に一度、幕の内側に入り、そこで民を代表したが、決して彼らの先駆けではなかった。というのも、いかなる者も彼に続いて至聖所に入りはしなかったからである。彼が幕の内側に入ったからといって、別の人間が入ることを許されたわけではないし、彼が出て来たとき幕は再び閉じて、彼にとってさえもう一年間、そして他のあらゆる者たちにはいついかなる時も、至聖所に秘められた栄光を包み隠してしまった。そのため、アロンであれ、彼の家系の他のいかなる大祭司であれ、決して先駆けとして入ったと呼ばれることはできなかった。他の多くの場合と同じく、ここでも私たちの主イエス・キリストは、大いなる《原型》として、あらゆる予型たちをはるかに凌駕しておられる。彼らは、いわば主の衣のすそを表わしてはいたが、主の大祭司職の栄光に富む威光と完全性を明らかにすることはできなかった。

 さらに、この《先駆け》という称号は、私たちの前にある箇所に独特のものである。キリストがご自分の民の《先駆け》であるという事実は、聖書の他の言葉の中に、また、この書簡の中では何度も何度も見いだされるであろう。だが、ただこの箇所においてのみ、イエス・キリストが幕の内側に御民の《先駆け》として入られたという、そのものずばりの表現がなされているのである。

 さて、特有で独特のことは、普通、好奇心と注意をかき立てるものである。そして、もし私たちの主イエス・キリストに関して何かが独特で無二のことであるとしたら、主ご自身が独特で無二のお方である以上、私たちは、自分にできる限り綿密に調べ、私たちの精神と心のすべてを傾けて、それを考察すべきである。

 I. まず第一に語りたいのは、《先駆けとしてのイエス・キリストに関して与えられている名前》についてである。私たちの主は時として《先生》、《メシヤ》、《人の子》など語られているが、ここでは単にイエスと呼ばれている。「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり」。

 私は、なぜこの名称が選ばれたか知っているふりはしないが、少なくともこうは示唆できよう。イエスは、主の敵たちが蔑んでいる名前である。――ナザレのイエス、「ナザレ人」と、主の最も熾烈な敵たちは今日に至るまで叫び立てている。キリストという名には、常に幾分かの敬意が込められている。主を唯一のキリストである信じていない者たちでさえ、一種のキリストを期待してはいるからである。一種の天来の油注ぎを受けた《お方》、一種の、神から遣わされたメシヤを。しかし、「イエス」は主の個人名である。ベツレヘムで生まれた、マリヤの《息子》、その誕生前に御使いからこう云われた《お方》の名である。「その名を《イエス》とつけなさい」[マタ1:21]。この「ナザレ人」こそ、「《先駆け》なるイエス」であり、そのイエスという名前こそ、主の敵たちに歯ぎしりさせ、主に反抗する言葉や行動を取らせてきたものである。まさにパウロがアグリッパ王に告白した通りであった。「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました」[使26:9]。その名によって主が幕の内側で知られることをこそ、主の敵たちは忌み嫌うのである。彼らは、その名によって、主がそこに《救い主》として、《ヨシュア》として、ご自分の民の《エホバ-イエス》としておられることについて語る。そして、その名によって私たちは、主を私たちの《先駆け》として知るのである。

 さらに、イエスは単に主の敵たちによって憎まれている名というだけでなく、主の友たちにとって最も愛しい名である。その響きの何と妙なることであろう! あなたも知る通り、わが国の賛美歌作者たちは、このことを大いに強調するのを喜びとしている。ドッドリジ博士はこのように書いた。――

   「イェス、われ愛さん、汝が麗しき名を、
    わが耳に、そは 妙なる調べ。
    われ、そを高く 響かせまほし、
    あめつき共に 聞きうるごとく」。

そしてチャールズ・ウェスレーはこう歌っている。――

   「イェス! その御名に 恐れ失せ、
    われらが悲嘆(なやみ) ひたとやまん。
    そは罪人の 音楽(しらべ)にて
    いのちと健康(いやし)、平安(やすき)なり。
   「イェスよ、その御名 すべてにまさらん、
    地獄(よみ)にて、地にて、天空(おおぞら)にても、
    御使い、人は、その前に伏し、
    悪鬼(まら)ら恐れて 逃げ散りぬ」。

 私たちの《救い主》のあらゆる名称、――それらはみな私たちにとって尊く、特定の時期には、その1つ1つが特有の魅力を有しているが、――そのどれ1つとして、この「イエス」というほむべき御名ほど甘やかな調べを響かせるものはない。なぜかというと、これが私たち自身の名、すなわち、罪人という名に答えるからだと思う。その名は、それを覆うため、ご自分の民をその罪から救ってくださる方[マタ1:21]の名を必要とする。「私は罪を犯しました」というこの告白の響きは、葬式の鐘の響きに似るが、「イエスは私を救ってくださる」という言葉の調べは、結婚式の鐘の音に似ている。そして、私が罪人である限り、イエスという名は常に私の魂にとって旋律で満ちているであろう。旧約時代の聖徒たちにとって、やがて生まれる次のようなお方について読むのは慰められることであった。「その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」[イザ9:6]。そして今も、私たちはこうした威光ある響きを繰り返すことを喜びとしている。だが、私たちが静まり落ち着いている瞬間に、また、特に意気が消沈し阻喪している際に、立琴が最も甘やかな音を響かせるのは、そこから次のような曲が奏でられるときにほかならない。「イエス、イエス、《イエス》」、と。そして、私にとって非常に心楽しまされる考えは、これこそ私たちが天国においてさえ最も良く思い出す名前だということである。主は、私たちの《先駆け》なるイエスとしてそこに入られた。それでウォッツ博士は、こう歌ったとき間違ってはいなかったのである。――

   「主、イェスと天(あま)つ 琴は鳴るらん。――
    わが愛、イェスと 諸霊(みな)ぞ歌わん!
    イェスは、われらが 喜ぶ生命(いのち)、
    甘く鳴らせり、数多(さわ)の諸弦(おごと)を」。

 II. さて私があなたに示したいのは、《いかなる意味でイエスは私たちの先駆けであられるか》ということである。

 ここで用いられている言葉は、前を走っている者、馬車の前を走る者、先駆者、先達、先行する者、を意味する。これらの用語は、ここで用いられたギリシヤ語を正しく解釈するであろう。それで、これはまず、前に行って宣告、あるいは、宣言する者を意味する。ある戦闘が戦われ、勝利が収められた。勝者側の軍隊に属する、ひとりの足の速い若者が全速力で町へ向かって走り出す。市門を大急ぎで走り抜け、市場に達すると、集まっていた人々にこの喜ばしい知らせを宣告する。「わが国の勝利! わが司令官は月桂冠を冠せられた!」 その若者が、勝利した軍勢の先駆けである。やがて全軍が戻って来て、勝利を得た軍団が街路を練り歩くことになり、すべての目が帰還する英雄たちを賞賛とともに認めることになるであろう。だが、これは戦場から最初に到着して、勝利を報告した者である。その意味で、イエス・キリストは、ご自分の勝利を天で報告した《先駆け》であられた。あなたも良く知る通り、主は、それよりもはるかに大きなことをされた。というのも、主はその戦いをたったひとりで戦い、国々の民のうちに主と共にいる者はいなかった[イザ63:3]。だが、主はご自分の勝利を天で報告する最初の者となられた。十字架の上で主はサタンおよび暗闇の全勢力と対決し、そこで彼らと戦い、彼らを打ち負かされた。そして勝者の叫びを上げられた。「完了した」[ヨハ19:30]、と。誰がその勝利を天で報告すべきだろうか? どこかの迅速に羽ばたく御使いが、あの十字架の上空を舞いながら、そのすべてが意味しうることに驚嘆していた多くの御使いたちの中のひとりとして、一閃の炎のように飛びかけては、真珠の門をくぐり抜け、「主は成し遂げられました」、と云うべきだろうか? 否。イエスご自身が、ご自分の勝利を、また、ご自分が死んでくださったすべての者たちの永遠の安泰さを最初に宣告するお方でなくてはならない。いま御使いたちは、この良き知らせを天国の街角街角で喧伝している。だが、主こそ、それを真っ先に保証したお方であられた。主が高い所に上り、多くの捕虜を引き連れたとき[エペ4:8]、また、幕の内側に入って、死者の中からの《長子》として御父の前に立ったとき、また、ご自分の威光ある臨在によってすべてが完了したことを言明したとき、また、ご自分の選民すべての義認を宣告したとき、その宣言において、主は私たちの《先駆け》であられた。「完了した」という、この栄光に富む真理を最初に宣言したお方であられた。

 先駆けという言葉の第二の意味は、この所有するという意味に見いだされるであろう。というのも、キリストが天国に行かれたのは単にご自分の民が救われたと宣告するためだけでなく、彼らのために天国を所有するためでもあったからである。代表者として、主は、ご自分が死んでくださった者たちに代わって天の所を所有しておられる。キリストは、私たちの永遠の相続財産の購入代金をすでに支払っておられた。私たちは、まだそれを自分のものとしてはいないが、主はそれを取得された。私たちに代わって取得された。選びの民全員は、彼らの《契約のかしら》なるお方のうちに一括されており、主がそこにおられる以上、彼ら全員も主にあってそこにいるのである。ある町の公民たちが、彼らの議員によって下院に座席を占めているように、私たちは、私たちの代表である私たちの《指導者》によって天の所に座っている。このお方は、私たちに代わってそこに座っておられるのである。主は、ご自分の民に代わって、古の人々がよく云った占有物権を持っておられる。天のあらゆる栄光を所有しておられる。なぜ天国は今晩、私のものなのだろうか? それは、そこが主のものであり、主がお持ちのすべては私のものだからである。愛する方々。なぜ永遠のいのちはあなたのものなのだろうか? 何と、それは、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」[コロ3:3]からである。そして主は、天国であなたに代わって永遠のいのちと、それに伴う一切の喜びと祝福とを有しており、主がそれらを享受しながらそこに座しておられるのは、それらが主のものであり、あなたのものだからである。あなたは主と1つである。それで主は、その意味で、あなたの《先駆け》なのである。

 またキリストが《私たちの先駆けであられるのは、私たちに先行しているという意味》でもある。《先駆け》は最初に行き、他の者たちは後で来なくてはならない。もし後から誰かが駆けて来ないとしたら、その人は先駆けではない。バプテスマのヨハネが来たとき、彼はキリストの先駆けであった。もしキリストが彼の後においでにならなかったとしたら、バプテスマのヨハネが来たことはか無駄だったであろう。イエスが天国への《先駆け》であられる以上、こう確信するがいい。主が《先駆け》となってくださっている者たちは、しかるべき時に、主に続いてそこへ行くことになる、と。聖徒たちが天で数々の栄光を有することになる最上の保証は、キリストの栄光がそこにあることである。彼らがそこにいることになる最高の証明は、《主が》そこにおられることである。というのも、主がおられる所には、主の民もいることになるに違いないからである。私はイエス・キリストが私たちの《先駆け》であられると考えるのを喜んでいる。なぜなら、主のうちにあれほど力強く働き、主を先に駆けさせた強大な恵みは、やはり主の民全員のうちにも働き、彼らを後から駆けさせ、やがて彼らも主がいま享受しておられるのと同一の安息に入ることになると確信するからである。

 そして、もう一言云えば、キリストが幕の内側で私たちの先駆けであるのは、主がそこに私たちのため場所を備えに行かれたという意味においてである。私は、天国を私たちのために用意するために何が必要であったか知らない。だが、かつて何が必要だったにせよ、今やそれは必要ない。というのも、天国は、キリストがそれを備えに行かれたとき以来、私たちのための用意ができているからである。私たちは時として、私たちが来るとは予期されていなかった家へ行くことがある。私たちの友たちは、私たちに会えて嬉しがっているが、私たちには準備の大騒ぎの音が聞こえ、私たちを迎える用意をするために、これほどドタバタさせてしまうくらいなら、ほとんど出かけてこなければ良かったと思うほどであった。しかし、天国の門前で、予期せぬ来客が待たされることは決してない。彼らは私たちのことを見張っており、待ち受けている。彼らはいつ私たちがそこに着くか知っており、キリストはご自分の待ちに待たれた、また大いに愛されている者たちのために、万端を整えておられる。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」[ヨハ14:2]、とキリストは弟子たちに云われた。そして、その場所を主はすでに備えられた。私たちは未知の国に入り込む必要はない。というのも、その新しい世界がいかに栄光に富むものであるにせよ、そこに最初に入る人はその土地を震える足で踏みしめるであろうからである。そこに何を見いだすか分からないからである。新世界を発見する一個のコロンブスとなることは勇敢なことであった。だが、それより幸いなのは、何百年も前に発見され、文明が私たちのあらゆる必要を満たすものを供してくれている国に行くことである。キリストは天国のコロンブスであられた。そして、そこを、ご自分に続いてそこに来る私たちのため用意のできた所へと備えてくださった。私たちは、自分の順番が来たとき、いやまさってすぐれたその国へと移住するのである。

 III. さて私はこの質問に答えたいと思う。《私たちの先駆けであるキリストは、何に入っておられるのか?》 主は幕の内側で私たちの先駆けであられる。それはどこにあるだろうか?

 よろしい。最初に、それは、私たちの一切の希望が据えられている所である。私たちの希望は、目に見えない、神秘的で、霊的で、崇高で、不変で、天来の事がらに据えられているが、それはキリストが今おられる所にある。パウロが私たちに告げるところ、私たちの魂の錨は、「幕の内側にはいるのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり……ました」[ヘブ6:19-20]。

 幕の内側はまた、可能な限り最も神に近い場所でもある。古い経綸の下で、ある人が幕の内側に入ることを許されるのは、すさまじく厳粛なことであった。招かれもせずにそこに入ろうなどとする者はみな、瞬時に滅ぼされてしまったであろう。その幕の内側に立つことは、喜ばしく、この上なく幸福なことであったが、それでも途轍もない責任が伴っていた。だが、愛する方々。あなたや私は、そこにおいて、可能な限り最も神のそば近くに立っている。なぜなら、キリストが私たちの先駆けとしてそこに行かれたからである。主が私たちの《先駆け》となっておられるのは、単に、私たちが二十年か三十年のうちに、あるいは、死ぬときにはいつでもそこに入れるようにするためではなく、私たちがいま大胆に、ご自分の入られた天の所に入れるようにするためである。主がおられる所に、私たちも行くべきである。よろしい。ならば、キリストがそこに、御父のそばにおられ、――

   「愛の人なる、磔刑(あげられ)し主(きみ)」――

としてある以上、私たちは、自分に行く権利のある所に入ることを恐れないようにしよう。非常に悲しいことに、私たちの中のある者らは、祈るとき、幕の内側にあえて入ろうとしない。外庭でさえ、私たちにはあまりにも聖なる場所に思える。祭司の庭に入ろうなどとするとしたら、私たちはみな震えてしまう。しかし、兄弟たち。私たちは幕の内側へと入ることが許されているのである。というのも、イエスがそこにおられ、ご自分のもとに来るよう私たちに命じておられるからである。ある程度の聖なる馴れ馴れしさを、敬虔な人は、神の御前で享受して良い。神をあなたの御父として知ること、また、子どもが父親に対して大胆になれるように神に対して大胆になれること、これはほむべき特権である。その愛の大胆さは、それに値するためではなく、神が愛してくださるがゆえに持てるものであり、自らをまさにちりの中にへりくだらせはする一方で、そこにおいてさえも神の御足をつかみ、神にすがりつき、その神との近しさを喜ぶものである。イエス・キリストがいま私たちの《先駆け》として幕の内側におられることは、私たちにとって底知れぬ喜びのもとではないだろうか? 私たちは日々、主が常におられる所に行ってかまわないのである。これが、神の子どもが祈る際の正しい立場である。その人はシナイの麓に立っていてはならない。いかなる汚れた場所にも立っていてはならない。むしろ、贖いの蓋に血が注ぎかけられた所、イエスの尊い血によって近づけられた場所に行かなくてはならない。

 やはり思い出そうではないか。キリストが行かれた、この神に近い場所は、じきに、はるかに高い意味における神との近さを意味するようになることを。「幕の内側」におられるキリストにまさって、神に近くある者など考えられない。その近さにおいて、主は私たちの《先駆け》であられる。もし私たちが信仰によって真に主のものだとしたらそうである。これは素晴らしい考えではないだろうか? 私たちはこう考えていたかもしれない。この《仲保者》が享受している驚異的な神への近さには、このお方だけがあずかれるのだろう、このお方はそれほどまでに至近におられるのだから、と。だがそうではない。主ご自身がこう云っておられる。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」[黙3:21]。これは単に、私たちがキリストの栄光を見ることになるというだけの真理ではない。むしろ、この地上におられた間でさえ、主はこう仰せになった。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。……わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」[ヨハ17:24]。――あたかも、彼らが完全にその栄光を見るには、ご自分がおられる所にご自分とともにいるしかない、というかのようである。主がいかなる栄光の高みに赴き、いかなる喜びの絶頂に上られても、主はそこにご自分の民の《先駆け》として行っておられる。

 これは全くの自明の理と思われるかもしれないが、しかたのないことである。ある種の真理には、いかなる寓意物語も、例話も、立派な文章も示すことができない。真理そのものがあまりにも栄光に富んでいるため、それは百合の花に化粧を施し、純金を金色に塗ってそれらを飾ろうとするような具合になってしまう。私たちはそう試みてはならない。むしろ、真理をそのままにしておいて、神の御霊にそれをあなたの魂に適用していただかなくてはならない。そして、それを行なう前に私は、ここまであなたの前に示そうと試みてきたこの真理から引き出されるいくつかの実際的な推論に言及しようと思う。

 キリストにある愛する兄弟姉妹。最初の推論はこうである。――私たちひとりひとりは、努めて自分の信仰に、キリストとの私たちの近さを悟らせるようにしよう。思い出すがいい。確かにあなたは不完全で、か弱くて、悲しんではいても、イエス・キリストと1つなのである。あなたはそれを教理としては受け入れている。だが、私はあなたがそれをいま事実として悟ってほしいと思う。もしあなたに金持ちの友人がいて、自分が所有している一切のものに、あなたを同等にあずからせてくれたとしたら、あなたは、たといまだそれを所有するに至っていないとしても、こう考えるであろう。「私は日々の糧のために慈善に頼らなくとも良いのだ。私の金持ちの友人が、彼自身と同じくらい私を金持ちにしてくれたのだから」、と。さて、それがいかなる喜びをあなたに与ええようとも、あなたがキリストと1つであり、キリストがあなたと1つであられると考えることは、それよりはるかに大きなものをあなたに与えるべきである。あなたが苦しんでいるとき、キリストは、ご自分の神秘的なからだの一肢体において苦しんでおられる。また、主がお喜びになるとき、主はご自分の喜びがあなたのうちにあること、また、あなたの喜びが全きものとなることを望んでおられる。主はあなたをめとっており、あなたが主ご自身のみならず主の富をも取ること、また、主があられるあり方のすべて、主がお持ちのものすべてをあなたのものとみなすことを意図しておられる。もし聖霊があなたにこのことを悟らせてくださるなら、それはあなたの魂をあなたの内側で躍り上がらせることであろう。そして、主をほめたたえ、その聖なる御名を賛美するであろう。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」[雅6:3]。否、それ以上に、私はこの方のからだの部分なのである[エペ5:30]。私たちの利害は1つである。というのも、私たちは1つであり、上の天の所におられるキリストは、そこにいる私自身でしかない。というのも、私は主のうちにあり、じきに現実に、文字通りに、主がおられる所にいることになるからである。私は今、私の《代表》また《先駆け》としてそこにおられる主のご人格のうちにあるからである。

 これが最初の実際的な思想であり、二番目はこうである。――愛する方々。主はあなたの《先駆け》だろうか? ならば、主の後を駆けるがいい。先に述べたように、誰かが後に続かなければ先駆けなどという者はありえない。イエスは私たちの《先駆け》であられる。それで、私たちは主の後駆けとなろう。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、主は私たちとあまりにも違いますよ」。この真理の美点は、主が私たちと違ってはいないことにある。というのも、主は私たちと同じような人であられたからである。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」[ヘブ2:14]。確かに主のうちには何の罪もなかったが、それでも他のすべての点において主は私たちと全く同じようであられる。そして、主が駆けるための代償は、私たちが駆けるための代償と同じであろう。しかり、それ以上である。というのも、主の競走は私たちのそれよりも格段に至難のものだったからである。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」[ヘブ12:4]。それゆえ、「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」[ヘブ12:3]。あなたの路は十字架に満ちているかもしれないが、それらは主が負われた十字架のようなものではない。あなたは死別に苦しんできた。しかり。そして、「イエスは涙を流された」[ヨハ11:35]。あなたは貧困に苦しまなくてはならない。そして、主には枕する所もなかった[マタ8:20]。あなたはしばしば蔑まれている。そして、主もまた「さげすまれ、人々からのけ者にされ」[イザ53:3]た。あなたは中傷されている。だが、人が家長をベルゼブルと呼んだとしたら、その家族の者に悪口を云ったとしても何の不思議があるだろうか?[マタ10:25] イエス・キリストは、あなたが駆けなくてならないのとまさに同じ競走をお駆けになった。完璧にお駆けになった。そして、主のうちにあって、幕の内側に入るまで、また、そのように決勝点を越えるまで主を駆けさせたのと同じ力は、あなたが同じ点に達するまであなたを助けて駆けさせるであろう。主があなたの《先駆け》であり、この競走をすでにお駆けになった以上、あなたもそれを駆けて、やはり賞を得ることが不可欠である。勇気を出すがいい。兄弟たち。永遠にほむべき御霊の力によれば、何事も私たちのあわれな人間性にとって難しすぎることはない。キリストが勝利者となっておられるように、私たちも勝利者になれる。罪の襲撃は撃退できる。キリストがそれらを撃退されたからである。聖霊は、――私たちのいわゆる――「あわれな人間性」を、より高貴で善良なものへと引き上げることができ、それを神のキリストの人間性に似たものへと変容させることができ、最後にはその人間性の中に、きよさと聖潔が完璧に住めるようにしてくださる。兄弟姉妹。あなたの前に幕の内側に入られた、この大いなる《先駆け》の後を行くがいい。そして、この方の後に従う最上の道は、あなたの足をこの方の足跡に入れることである。決勝点に達するには、あの道でもこの道でも変わりないように思えるかもしれないが、最上のキリスト者とは自分の《主人》が踏みしめた通り道以外の道を願わない者である。私が願っているのは、――おゝ、それを実現できたならどんなに良いことか!――「小羊が行く所には、どこにでもついて行く」[黙14:4]ことである。「これこれは本質的ではありません、また、これこれはなくてもかまいません」、などと云うことなく、むしろ、《主人》ご自身のように、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」[マタ3:15]、と云うことである。良い文章は、小さな言葉1つ1つにかかっていると思う。もしあなたが、ある人の手紙を一読だけでさっと読みたければ、その人は、読みやすい字を、止めや撥ねに気をつけてながら一文字一文字、よく似た字も区別がつくように書かなくてはならない。おゝ、キリスト者よ。この世の人々の目には、この文字と、信仰者のイロハの間には、ほとんど全く違いがないように見えるかもしれない。だが最善のことは、あらゆる点であなたの《主人》について行くことである! そうすることで何の害ももたらされないが、ごく僅かな締まりのなさからも、多大な害悪がもたらされる。あなたの大いなる《先駆け》から離れずついて行くがいい。犬が主人の後を追うように、主の踵にぴったりくっついているがいい。キリストがお駆けになったのと全く同じように、聖霊があなたを助け、あなたの前に置かれた競走を、「イエスから目を離さないで」[ヘブ12:2]、忍耐強く駆けさせくださるように。

 次に云わなくてはならないのは、このことである。私たちの主を強烈に愛そうではないか。主は天へ行かれたが、ご自分ひとりだけのためにそこに行かれたのではない。主は、ご自分の持てる一切のものを、ご自分の民と分かち合う習慣を強く身につけていたため、栄光のうちに入られた今もその習慣をやめてはおられない。主は云われる。「わたしがここにいるのは、わたしの民のためである。わたしが十字架の上にかかったの彼らのためであったし、わたしが御座の上に着いているのは彼らのためである」、と。驚嘆すべきことに、主に与えられる報いさえ、主はご自分の愛する者たちと分かち合われる。というのも、主がお持ちのもののうち何1つ、主は自分ひとりのものにしておかないからである。主が私たちを取り上げてご自分のものとされたとき、それは私たち、主の民にとってほむべき婚礼の日であった。というのも、その天的な賜物のすべてを主は私たちに授けてくださったため、今や主にはご自分の民と共有しておられるもののほか何もないのである。私たちは、「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」[ロマ8:17]である。ならば私たちは、ご自分とご自分の持てるすべてを私たちに与えるほど私たちを愛してくださったお方を大いに愛さなくてはならないではだろうか? さあ、私の冷たい心よ。もしお前を暖めるものが何かあるとしたら、確かにそれはこのように真実で、情け深く、不変の、忠実な愛の思想である。今、しばし思いにふけるがいい。静かに思いにふけるがいい。あなたの魂によって主を思い描くがいい。主の御足のもとに来て、それに口づけするがいい。そして、もしあなたに高価な香油の入った石膏のつぼがあるとしたら、それを割って開き、主に注ぎ出し、あなたの愛と感謝のささげものの芳香で家中を一杯にするがいい。

 最後に、キリストが私たちの《先駆け》として天に行かれた以上、私たちはキリストを信頼しようではないか。私たちは、主がその競走を駆けていた間も、主に信頼できたはずだと思う。では、確かに、主がその競走に勝たれた今は主に信頼できるに違いない。キリストが地上に来てお宿りになる前に生きていた、神の聖徒たちは、主が駆け始める前から主に信頼していた。使徒や他の弟子たちは、彼らのあわれなかすかなしかたで、主が駆けておられた間、主に信頼していた。では、その競走が終わり、主が私たちに代わって栄光にお入りになっている今、私たちは主に信頼すべきではないだろうか? もしある人が、「私はこれこれのことをしよう」、と云う場合、もしその人が忠実な人で、自分の云うことを行なえるとしたら、私たちは彼を当てにする。だが、彼がそれを行なったとき、彼を当てにしないのは恥ずべきことである。もしキリストが今晩ここに来られ、それまで一度も死んでおらず、私たちに向かって、「あなたがた、あわれな失われた者たち。わたしはあなたを救おうと思う」、と仰せになるとしたら、私たちは主を信じるべきではないだろうか? もし主が、「わたしの愛する子どもたち。わたしは来て、ある競走を走り、あなたのためにそれに勝つつもりだ」、と仰せになったとしたら、私たちは、「主イエスよ。私たちはあなたに信頼します」、と云うのではないだろうか? よろしい。主は今晩ここに肉体的には臨在しておられない。彼方の天上におられる。あなたは、主がその頭に冠を戴いているのが見えないだろうか? そこで主は栄光のうちに座しておられる。。無数の御使いたちが主の前にひれ伏し、智天使と熾天使が日夜、主を賛美し、人々の間から贖われた者たちは歌っている。「ほふられた小羊は尊ばれるにふさわしい方です」[黙5:12 <英欽定訳>]。罪人よ。あなたは主を信頼できるではないだろうか? 「キリストは……ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」[ヘブ7:24-25]。あなたは主に信頼できるではないだろうか? 主は幕の内側にいて、私たちのために訴えておられる。ご自分によって神に近づくすべての者のため訴えておられる。また、ご自分の民を、やはりそこに来て訴える模範として立てておられる。主がそこにおられる以上、私たちはみな主に信頼できるではないだろうか? あの死につつあった強盗は、主の御手が十字架に釘づけられていたとき、主を信頼した。私たちは、主の御手が主権の王笏を握っている今、主を信頼できるではないだろうか? あの死につつあった強盗は、人々が主を嘲り、その舌を突き出して主をののしっていたときに主を信頼した。私たちは、天と地が主の栄光の威光で満ちている今、主を信頼できるではないだろうか? 確かに私たちはそうしなくてはならない。イエスよ、《主人》よ。もし私たちがこれまで一度もあなたにより頼んだことがなかったとしたら、そうするための恵みをいま私たちにお与えください。そして、私たちの中の、すでにあなたに何年もの間より頼んできた者らについて云えば、おゝ、私たちの魂を愛する、愛しく、頼りになる、尊く、忠実な《友》よ。確かに私たちは、行ないとは縁を切りました。私たちはあなたの胸にいだかれています。否、それ以上に、あなたの心そのものの内側にいます。ですから、私たちは安全に違いありません。そこでは誰が私たちを害せましょう? あたなはこう云われました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることが……ありません」[ヨハ10:27-28]。こうした確信とともに、ここを立ち去ろうではないか。私たちの《先駆け》の後に続き、その方がおられる「幕の内側」に達しては、永遠にその方が「行く所には、どこにでも」ついて行こうと決意しながら。アーメン。

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先駆け[了]

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