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心励まされる話題に関する率直な話

NO. 3101

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1908年6月16日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました」。――ヨナ2:7


 聖徒たちの経験は、《教会》の宝である。神の数々の約束を試し、証明してきた、神のあらゆる子どもたちは、それが真実であると証言するとき、いわば、自分の剣と槍とを宮の城壁に吊り下げているのである。そして、そのようにして、主の家は、「兵器庫のために建てられたダビデのやぐらのよう」になり、「その上には千の盾が掛けられていて、みな勇士の丸い小盾」[雅4:4]なのである。その「羊の群れの足跡」[雅1:8]に、他の人々も励まされ、天上の牧草地へとその後を追って行くのである。先立つ聖徒たちの世代のすべてが生き、かつ、苦しんできたのは、その経験によって私たちを豊かにするためである。古の時代の聖徒たちの経験が、これほど私たちに役立つ1つの理由は、このことである。――彼らは私たちと同じような人であった。そうでなかったとしたら、彼らの苦しみから私たちが教えを受けることはできなかったであろう。彼らは、同じ数々の試練を忍び、同じ数々の約束を、同一の神の御前に訴えていた。この神は、いかなる程度や度合においてもお変わりになっていない。だから、私たちは安心してこう推論できるのである。彼らが訴えによって得たものを、私たちも、同じ環境に取り囲まれたとき、獲得することができるのだ、と。もし人間が異なっているか、約束が変えられているか、主がお変わりになっているとしたら、いかなる古代の経験も、私たちにとって無駄話でしかないであろう。だが、今や、試練の日に何が信仰の人に起こったと聖書に書かれていようと、私たちは、同じようなことが自分にも起こるものと結論する。そして、神が御民を助けて、解放しておられるのを見いだすとき、私たちは知るのである。神はなお今も、私たちのために強い者として現われてくださるであろう、と。あらゆる約束がキリスト・イエスにおいて「しかり」となり、それで私たちが、この方によって「アーメン」と云い、神に栄光を帰する以上[IIコリ1:20]、そうである。契約は変わっていない。それは、永遠の丘のように堅く保たれている。それゆえ、この説教者は、あなたをこのヨナの経験へと差し向けても全く安全であると感じている。そして、その数々の教訓を、あなた自身に対する実際的な導きとするよう招きたいと思う。

 この聖句の教訓は、第一に、神の子どものために用いたい。それから、第二に、覚醒し、目覚めさせられた罪人のために用いたい。

 I. 《本日の聖句は、主を恐れる者たちに明白な関わりを有している》。というのも、ヨナはそうした者だったからである。彼は、その一切の過ちにもかかわらず、神の人であったし、自分の《主人》への奉仕から逃げ出そうとしたが、それでも彼の《主人》は決して彼をお捨てにならなかった。神はご自分の怒りっぽいしもべをその務めに引き戻し、その中で彼に誉れを与えてくださった。それで、彼は信仰者たちの間で眠っており、栄光に富む報いをいま待っているのである。

 では、聖徒たちの状況について考えてみるがいい。私たちの前に述べられているヨナの場合によって神の子どもは、自分がいかなる苦境に陥ることがありえるかを見てとるであろう。――彼の魂は、自分のうちに衰え果てることがありえる。

 ヨナは確かに、この魚の腹中にあって非常にすさまじい状況にあった。だが、おそらく、その立場そのものよりもずっとどす黒かったのは、彼自身が思い返す様々な事がらであったろう。というのも、良心は彼にこう告げただろうからである。「悲しいかな、ヨナよ。お前がここにやって来たのも自業自得だ。お前は神の御前から是が非でも逃げ出そうとした。お前の高慢と自己愛ゆえに、あの大きな町ニネベに行き、お前の《主人》の使信を伝えることを拒んだからだ」。悲惨に追い打ちがかけられるのは、人が自分にしかその責任はないと感じるときである。もし私が苦しむことが避けられないとしたら、私は不平を云えないであろう。だが、もし自分でこうしたすべてを、自分自身の愚かさゆえにもたらしたのだとしたら、その胆汁の中には二重に苦々しいものがある。ヨナは、今や自分にはどうしようもないことを思い返したであろう。今や意地を張っても何にもならない。今の彼の居場所では、拗ねることも、強情になることも自由にならなかった。たとい自分の腕を伸ばそうとしていたとしても、そうはできなかった。彼は地下牢に監禁されており、そこでは手足と同じくあらゆる感覚が封じられていた。そして、彼の独房の閂を彼の手は引き抜けなかった。彼は海の真中の深みに投げ込まれ、水にそののどまで絞めつけられ、海草がその頭にからみついていた[ヨナ2:3、5]。彼は自分ではどうすることもできない状態にあり、神から離れている今、それは絶望的だった。

 神の子どもたちは、同様の状況に至らされていながら、だがしかし、神の変わらざる心にとっては愛する者であることがありえる。彼らは貧しく、困窮しており、何の助け手もいない。いかなる声も同情の言葉を彼らにかけず、いかなる腕も彼らを助けはしないであろう。最上の人々も、最悪の立場に至らされることがありえる。あなたは決して種々の環境によって人格を判断してはならない。金剛石は磨き車の上で手荒に扱われ、何の変哲もない玉砂利は小川の中でのんびり過ごしているかもしれない。極悪人が地の高所によじ登ることが許されている一方で、最上の義人は金持ちの門の前でやつれて、犬たちをお供にしている。えり抜きの花々は、ごく往々にして、もつれあった茨の中に生える。茨の中の百合の花[雅2:2]について聞いたことがない者がいるだろうか? 真珠はどこに宿るだろうか? 大洋の暗い深みが、泥濘と難破船の間にそれを隠しているではないだろうか? 見かけで判断してはならない。というのも、光の相続人たちが暗黒の中を歩き、天界の血を引く君主たちがごみの山の上に座すことがありえるからである。神に受け入れられている人々は、非常に非常に低い所へ至らされることがありえる。ヨナのように。

 さらに指摘したいのは、神のしもべたちの心は、時として自分のうちに衰え果てることがありえる、ということである。しかり。完全に衰え果てることがありえる。そして、それは、まず、新たにされた罪の感覚によってである。この件において、私の舌が私の経験より先走ることはないであろう。私たちの中のある者らは、何年もの間、自分の赦罪と義認とを全く確信してきた。神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んできたし、御父および御子との交わりを有して、御子イエス・キリストの血がすべての罪から私たちをきよめてきた[Iヨハ1:7]。私たちはしばしば自分の心が踊るのを感じてきた。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]との確信によって、そう感じてきた。私たちは十字架の根元に立っては、自分のもろもろの罪の記録がその木に釘づけられているのを見てきた。それは、それらが完全に免責されているしるしであった。だが、今この時の私たちは、不安に満ちた疑心暗鬼に苦しみ、不信仰によって低くのしかかられているかもしれない。私たちの信仰がよろめかされ、それゆえに、昔のもろもろの罪が私たちに立ち向かい、私たちの平安を脅かすこともありえる。そのような時期に、良心は私たちの数々の短所を私たちに思い起こさせるであろう。それを私たちは否定できず、サタンはこうした短所の天辺を越えて吠え猛るであろう。「どうしてお前が神の子どもだなどということがありえるのだ? もしお前が上から生まれたなら、どうしてお前はそのように行なうことがありえたのだ?」 そのとき、もし一瞬でも私たちが十字架から目を離すなら、もし証拠となるしるしを求めて自分の内側をのぞき込むなら、自らの内なる数々の腐敗という身の毛もよだつ泥沼がかき立てられるであろう。そして、真っ黒な記憶の数々と暗黒の予感が魂に注ぎ込まれるあまり、私たちはこう叫ぶはずである。「私は完全に失われている。私の希望は偽善なのだ。私に何ができるだろう? 何をすれば良いというのだろう?」 請け合っても良いが、そのように心がじたばた騒ぎ立てているときには、キリスト者の魂が自分のうちに衰え果てても全く不思議はない。鯨の腹中のヨナは、その目を用いることはできなかったが、その必要もなかった。また、その腕や足を用いられなかったとしても、それらに用はなかった。それらが全く動かなくともどうということはなかった。だが、彼の魂が衰え果てること――これこそ、まさに恐怖であった! 私たちもそれと同じである。私たちの他の精神機能は、そうしたければ眠り込んでも良い。だが、私たちの信仰が微弱になり、私たちの信頼がよろめくとき、事は非常に厳しくなる。しかしながら、私の兄弟。このような状態にあるとき、自らを偽善者と評価してはならない。というのも、多くの勇敢な十字架の兵士たちが、個人的な経験によって、この暗黒の感覚がいかなるものかを知っているからである。

   「サタンの強き 誘惑(まどわし)の
    日々、汝れ責苦(せ)まば いかにせむ?
    また汝が罪深(あ)しき 性向(こころね)の
    狼狽(うろたえ)汝れを 満たすとき?
    汝れ、征服(か)ちうべし、
    《小羊》の 贖い給う血によりて。

   「万(よろず)の呻き 汝れ襲い、
    内と外より 悩ませど
    汝れ忘れぬと 主のたまい、
    地獄(よみ)と罪より 汝れ救わん。
    主(きみ)の真実(まこと)は
    恵みのことば 成し遂げん。

   「いまは苦悩(なやみ)の ともないて
    茨(とが)れる道を 歩むとも
    主の右の御手 汝れ守り
    神国(みくに)へじきに 至らせん。
    ならば、賛美(たた)えよ、
    贖い主の 大御名を」。

 同じように私たちの魂が衰え果てるのは、長々と引き続く苦痛か、苛烈な試練が見込まれる際である。あなたは、まだその冷酷な痛みを感じてはいないが、それがやって来ざるをえないことを重々承知しており、その見込みにおののき震える。「臆病者は千度死ぬ」ということが真実であるように、私たちは、ただ1つの患難に怯える中で千もの試練を感じる。しばしば兵士は、戦闘のただ中にある時の方が、その争闘が開始される前よりも勇敢である。襲撃を待つことは、神経をすり減らされる務めである。猛攻撃の衝突でさえ、それほど大きく忍耐心を試すものではない。告白するが、肉体的苦痛が見込まれるとき、私は、内側で気力が萎えるのを感じる。一瞬でもそのことについて考えると、身裡で気分が悪くなり、心挫けてしまう。そして、愛する方々。もしもあなたの魂が、目の前にある困難か逆境のゆえに気が遠くなるとしても、何か奇妙なことが起こったわけではない。願わくはあなたに知恵があって、ヨナと同じことを行なえるように。――主を思い出すことである。――というのも、そこに、また、そこにだけ、あなたの大きな力があるからである。

 やはり真のキリスト者が衰え果ててしまうのは、現実の悲しみという圧力との関わりにおいてである。心は長く耐えていられるかもしれないが、その圧力が何箇月も何箇月も続くと、往々にして屈してしまいがちになる。絶え間なく水滴が落ちれば、石でさえそれを感じる。終日のそぼ降る雨は、重い雫の通り雨よりも、からだを濡らすものである。人は始終貧しくしていたり、始終病んでいたり、始終中傷されていたり、始終味方がいないままであったりすると、時としてこう云いたくなるに違いない。「私の心は衰え果て、倦み疲れている。いつ夜が明けて、影が消え失せるのだろうか?」 もう一度云うが、いかにえり抜きの神の選民といえども、苦い悲嘆と重い苦悩が長くとどまっていると、逆境の日にたやすく衰え果ててしまうことがありえるのである。

 同じようなことは、勤勉に奉仕に携わっている熱心なキリスト者たちにも起こってきた。現在のところ何の成功も見られないときが、そうである。全く報いの得られない土壌をずっと耕し、水の上にパンを投げることばかり続けていて、何の結果も得られないと、多くの真の心は内側で血を流しながら衰え果ててしまう。だが、これは、非常に往々にして私たちの忠実さの試験となる。高貴なことは、ノアのように一生の間、嘲弄と非難と不信仰のただ中で説教し続けることである。だが、誰もがそうできるわけではない。私たちの中のほとんどの者は、成功によって自分の勇気を保たれる必要がある。そして、私たちが自分の《主人》に最も勇躍してお仕えするのは、即座に結果が見られるときである。そうした種類の衰え果てた心の者たちが、私の同輩兵士たちの中にはいるであろう。現在は全く勝利を収めていないからといって、自分たちの戦いの武器を今にも下に置こうとしている者たちである。私の兄弟たち。ぜひ戦場から逃亡しないでほしい。むしろ、ヨナのように主を思い出し、その王家の軍旗のもとになおもとどまってほしい。

 このような問いかけがなされるかもしれない。なぜ、また、いかなるわけで、このようにキリスト者たちが衰え果てる様々なしかたについて詳しく説明しなくてはならないのか、と。答えよう。私たちがこのように事細かく語ってきたのは、若いキリスト者たちの間に非常によく見受けられる1つの誘惑に対処するためである。すなわち、このような試練を受けている自分は異常な者なのだと思い込んでしまう誘惑である。「私のように頭をうなだれ、手を弱らせ、全く打ちひしがれてしまった人が他にいるなどとは思えない」、と。そうしたほのめかしに耳を傾けてはならない。というのも、それは全く真実を欠いているからである。衰え果てることは主の軍勢に非常によく見受けられることであり、勇猛きわまりない主の兵士たちが、何人もその犠牲となってきた。ユダ族の英雄ダビデその人でさえ、戦いの日に疲れきって、ひとりの戦士が救助に来なければ、危うく殺されるところであった[IIサム21:15-17]。気の弱りに屈してはならない。それと激しく戦うがいい。だが、それと同時に、それに打ち負かされるようなことがあっても、あなたの信頼を投げ捨ててはならない。また、自分が神から拒絶されたとか、致命的に堕落したものと評価してはならない。

 さて今、兄弟たち。今から注意したいのは、聖徒たちの頼りである。ヨナは、ひどい苦難の中にあったとき、私たちにこう告げている。「私は主を思い出しました」。主の中には、衰え果てた心が思い出すべき何があるだろうか? すべて、あるではないだろうか? そこには、まず主のご性質がある。それを考えるがいい。悲しみで衰え果てているときには、主が非常に憐れみに富み、同情に満ちておられることを思い出そう。主はあまりにも重くは打たず、支えることをお忘れにならない。それゆえ、私は主を仰ぎ見て、こう云おう。「私の《父》よ。私を粉々に砕かないでください。私は風雨に打たれた、あわれな帆掛け船なのです。貪欲な波浪からなど、到底逃れることができません。あなたの荒々しい風を私に吹きつけないでくださる。むしろ、多少の凪を与えて、目指す港に行き着けるようにしてください」。主のあわれみが大きいことを思い出すことによって、私たちは衰え果てた心から救われるはずである。

 それから、主の御力を私は思い出すであろう。たとい私が自分で自分をどうにもできない難局にあるとしても、主は私を助けることがおできになる。私は緊急事態と非常な困難をかかえているが、主にそのようなものは全くない。非常事態だの苛烈な圧力を感じる時期だのは神にはない。神にはいかなることも可能である。それゆえ、私は主を思い出そう。もしもその苦難が私の無知ゆえに生じているものだとしたら、私はどの道を取るべきか知らなくとも、主の知恵を思い出そう。私は主が私を導いてくださると知っている。主が間違いを犯すことはありえないことを思い出そう。そして、自分の道を主にゆだねて、私の魂は勇気を出すであろう。愛する方々。神のあらゆる属性は、信仰の目には慰藉で輝いている。《いと高き方》のうちには、次のように云える者を落胆させるものが何もない。「私の《父》よ、私の神よ。あなたに私は私の信頼を置きます」。この方を信頼した者のうち、誰ひとり恥を見た者はなかった[詩22:5]。それゆえ、もしあなたの魂があなたのうちで沈み込んでいるとしたら、神のご性質、ご性格、そして種々の属性を思い出すがいい。

 主のご性質を思い出したなら、主の数々の約束を思い出すがいい。衰え果てる魂について、主は何と仰せになっているだろうか? 他に考えつけなければ、次のような聖句について考えてみるがいい。――「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」[ヘブ13:5]。「あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように」[申33:25]。「主に信頼して善を行なえ。そうすればあなたはこの国に住んで、まことに養われる」[詩37:3 <英欽定訳>]。「主は……正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」[詩84:11]。こうした調子で先に進み、約束について語り始める場合、何時間もかけなくては、数々のこの上もなく偉大で尊いことばについて詳述できないであろう。だが、私たちはこれらを言及するだけとし、この一握りの落ち穂を、どこかのあわれなルツに拾わせることにする。あなたの魂が衰え果てるときには、1つ約束をつかんで、それを信じ、主にこう申し上げるがいい。「仰せの通りに行なってください」、と。そうすれば、あなたの霊はたちどころに息を吹き返すはずである。

 次に、主の契約を思い出すがいい。この「契約」という言葉は、それを理解する者にとって、何と壮大な言葉であろう! 神はご自分の御子と契約を結ばれた。御子は私たち、主の民を代表しておられたのである。神は云われた。「わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」[イザ54:9-10]。まことに、私たちは善良な古のダビデとともにこう云うことができる。「わが家は、このように神とともにはないが、それでも、彼はとこしえの契約を私に立てておられる。このすべては備えられ、また守られる」[IIサム23:5 <英欽定訳>]。他のすべてが崩壊するときも、聖霊の力によって、契約のあわれみ、また、契約の約束にすがりつくがいい。そうすれば、あなたの霊は平安を得るはずである。

   「ダビデの――われらの――主と、かつて
    1つの契約(ちかい) 結ばれぬ。
    堅く確かな その約定(くだり)、
    薄れ行かざる その栄光(さかえ)。
    聖き三一(みいつ)の 神、署名(かた)めん、
    互いに愛しつ、時以前(いにしえ)に。

   「永遠(とわ)の丘のごと 堅くある
    この御契約(みちかい)ぞ 耐久(もちこた)えん。
    その力ある 断言(いいきり)は
    あらゆる祝福(めぐみ) 確かにせん。
    破滅(ほろび)、自然界(あめつち) 揺するとも、
    その一点一画(ひともじ)も 変わりなし」。

 また、私たちは、主を思い出すとき、過去の折々に主が私たちに対して何をしてくださったかを思い起こすべきである。私たちの中の誰かが疑いや恐れに陥るとき、私たちは実際、非難されて当然である。というのも、主は決して私たちに、主を疑うべき機会をお与えになったことがないからである。主は、いま私たちがくぐり抜けつつある苦難よりもひどい苦難の中にあっても私たちを助けてくださった。私たちは主の真実さ、主の御力、主のいつくしみ深さを、今よりもずっと重い度合で試したことがあった。そして、激しく試されたにもかかわらず、それらはまだ一度も私たちを失望させたことがない。それらは、積年の負担に耐えてきたし、もろくなりつつある兆しを全く見せていない。ならば、なぜ私たちは疑いをいだくのか? 多くの聖徒たちは、主の真実さを五十年、六十年、あるいは七十年にわたってさえも証明してきた。そうした後で、いかにして彼らは疑う心になれるのだろうか? 何と! あなたの神が、七十年間も真実であられたというのに、あなたはもうほんの数日も神を信頼できないのだろうか? 神があなたを七十五年間も運んでこられたというのに、あなたは、自分が荒野にとどまるもうほんの数箇月の間も、神を信頼できないのだろうか? 古の日々を思い出すがいい。神があなたの救助に来て、大水の底からあなたを引き上げ、あなたの足を巌の上に置き、あなたの歩みを確かにされた[詩40:2]ときの、その御心の愛と、御腕の力とを思い出すがいい。神は、今なお同じ神であられる。それゆえ、あなたの魂があなたのうちに衰え果てるときには、主を思い出すがいい。そうすれば、あなたは慰められるであろう。

 このように私はあなたに、聖徒の苦境と、聖徒の頼りとを示してきた。ここで注目したいのは、いかに彼の祈りがかなえられるかである。ヨナは、神を思うことで大きな慰めを得たため、祈り始めた。そして、彼の祈りは、海の中で溺れることも、魚の腹中で窒息することもなく、彼の頭にからみついていた海草のとりことされることもなかった。むしろ、電光のように駆け上り、波浪を通り、密雲を通り、星々を越えて、神の御座へと達した。そして、その答えは返信のように下りてきた。何物も、真の祈りを滅ぼしたり、引き留めたりすることはできない。御座へのその飛翔は、迅速かつ確実である。聖霊なる神が私たちの祈りをしたため、子なる神が私たちの祈りを提出し、父なる神が私たちの祈りをお受け取りになる。では、《三位一体》すべてがこのことにおいて私たちを助けてくださるからには、祈りに成し遂げられないことが何かあろうか? 私がいま話しかけている人々の中には、非常に苛酷な試練の下にある人がいるであろう。――それを私は確信している。――そうした人々には、こう願わさせてほしい。ぜひこの約束を自らのものとして受け入れてほしい、と。そして、私は聖霊なる神がこれを彼らの心に銘記させ、彼らのものとしてくださるよう祈るものである。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」[ヘブ13:5]。あなたが自分の期待を裏切ろうと、神は決してあなたの期待を裏切ることをなさらないであろう。あなたが疲れようと、神は決して疲れることなく、たゆむことがない[イザ40:28]。あなたの叫びを上げるがいい。そうすれば、神はその御手を上げてくださるであろう。膝まずくがいい。あなたは、そこにいるとき最も強くなる。あなたの密室に赴くがいい。そうすれば、それはあなたにとって天国の門にほかならなくなるはずである。あなたの神に、あなたの悲嘆を告げるがいい。それは、あなたにとっては重くとも、神にとっては軽やかである。板挟み的な苦境は神の知恵にとって全く単純なものとなり、困難は神の強さの前では消え失せるであろう。おゝ、これをガテに告げるな。イスラエルが神に信頼できないなどとは。アシュケロンのちまたに告げ知らせるな[IIサム1:20]。永遠の御腕によりかかる者たちが、苦難によってうろたえることがありえるなどとは。エホバが陣頭に立っておられるとき、おゝ、イスラエルの者どもよ。なぜ恐れることなどありえよう? 「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」[詩46:7]。いかなる人の心がひるんで良いだろうか? あるいは、いかなる魂が衰え果てて良いだろうか? 「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい」[ヘブ12:12]。心の弱々しい者に云うがいい。「強くあれ、恐れるな。神はあなたとともにおられる。神は夜明け前にあなたを助けられる」[イザ35:4; 詩46:5参照]。

 II. さて、私たちはこの主題を全く変えなくてはならない。神の民に語りかけてきた後で、私たちが話をしたいと非常に熱心に願っている人々は、主が愛のご計画を有しておられるが、まだ明らかに姿を現わしていない人々である。《罪人は、神が彼を取り扱うためおいでになるとき、ヨナと同じ苦境に陥れられる》。彼の魂は自分のうちに衰え果てる。それが何を示すだろうか?

 それが示すのは、私たちにとって大いに喜ばしい多くの事がらである。ある人の魂が自分のうちに衰え果てるとき、明らかに、そうした人々の無頓着さはなくなっている。その人は常々、物事を軽くとらえていた。そして、その日その日で陽気にしていられさえすれば、天国だの地獄だのについてなぜかまいつけることなどあっただろうか? 説教者の度重なる警告も、その人にとっては大言壮語でしかなく、その真剣さは狂信であった。だが、今やその人は一本の矢が自分自身の腰に突き立っているのを感じる。そして、罪が現実のものであると分かっている。それは、その人にとって事実、1つの悪であり、苦々しいものとなっている。今やその苦汁がその人自身の唇に押しつけられており、その人は自分自身の血管を毒が流れているのを感じる。その人の心は自らのうちに衰え果て、その人はもはや無頓着にしてはいない。これは、説教者が決して小さくない進歩とみなすものである。

 その人が衰え果てることによって、やはり示されるのは、その人がもはや自分を義とすることはない、ということである。かつてその人は、自分が他の人々と同じくらい善人だ、ことによると、やや上回っているかもしれない、と希望していた。そして、その人に見える限りにおいて、その人は、あらゆる点で聖徒たちと同じくらい、すぐれた人間であった。彼らは自分がイエス・キリストにより頼んでいると語るかもしれないが、その人は自分の力で働いていた。そして、自分のきちんとした習慣によって、最上の信仰を告白するキリスト者たちと同じくらい良い地位を来世でかちとろうと期待していた。あゝ! だが、今や神がその人を取り扱っており、日の光をその魂に射し込ませておられる。そして、その人は見てとっているのである。自分の金銀が腐っていること、また、自分の上等の亜麻布が不潔で、虫の食ったものであることを。その人は発見しているのである。自分の義が不潔な着物[イザ64:6]であり、自分が、律法の行ないよりもすぐれた何かを頼りとしない限り、滅びるしかないということを。これは、それなりに良いことである。罪人のうちに、自分を頼む思いがもはやなくなっているとき、そこには見込みがある。人間性の最悪の部分とは、自分自身の救いのためには指一本あげられないくせに、何もかも行なえると考えていることである。また、その唯一の場所が死の場所でしかなく、それが埋葬されるとき、それはあわれみであるというのに、その同じ人間性は、その高ぶりのあまり、できるものなら、自らの贖い主となろうとするのである。神が人間の良心をご自分の燃える矢の的となさるとき、たちまちその人は自分のいのちがもはや自らのうちにはないこと、自分に何もできないことを感じ、こう叫び声を上げる。「神さま。私をあわれんだください」。おゝ、福音の両刃の剣が、私たち霊的な自己信頼をことごとく切り殺し、十字架につけられた《救い主》の足元で、私たちをちりの中にはいつくばらせるなら、どんなに良いことか。

 ことによると、私が話をしている人々の中には、今や自分を義とする思いを全く捨て去り、自分を頼む思いを全く放棄してはいながらも、それでも、まだキリストとその救いをつかんでいないがゆえに、衰え果てている何人かの人がいるかもしれない。「私は信じようと努めてきました」、とある人は云うであろう。「ですが、そうすることができないのです」。私も、自分が信じようとして苦労していたときのことを良く覚えている。奇妙な云い回しだが、実際そうだったのである。私は、信じたいと願い、信頼したいと切望したとき、自分にそれができないことに気づいた。キリストの義によって天国に行く道は、私自身の義によって天国に行く道と同じくらい困難なものと思われた。シナイによって天国に行くのも、カルバリによって天国に行くのも大差ないように思われた。私には何もできなかった。悔い改めることも、信じることもできなかった。私は絶望のあまり衰え果て、まるで自分が福音にもかかわらず失われ、キリストが死なれたにもかかわらず永遠にエホバの御前から放逐されるに違いないかのように感じた。あゝ! あなたもこのような状況に至っているとしたら、私は遺憾には思わない。信仰の扉に至るための道は、自分に絶望する門を通ることである。自分の最後の希望まで滅ぼされるのを見るまで、あなたは決してあらゆる事がらのためにキリストを仰ぎ見ることをしないであろう。だがしかし、そうしない限り、決して救われないであろう。というのも、神は、あなたには助けを与えず、ひとりの勇士にだけ助けを与えられた[詩89:19]からである。その勇士とは、罪人たちの唯一の《救い主》、イエスにほかならない。ならば、ここには、罪人の苦境が記されている。そして、あえて私は呼びたい。これは、非常にみじめな者ではあるが、非常に祝された者である、と。そして、私が心から願うのは、あらゆる未回心の人がこのような、自分の魂が自分のうちに衰え果てる状況に至らされることである。

 さて、福音を聞くがいい。それに耳を傾けるがいい。そうすれば、あなたがたは生きる。あなたにとって救いの道は、ヨナが取った道である。彼の魂が衰え果てたとき、彼は主を思い出した。私は、生ける神によって切に願う。いま主を思い出してほしい。そして、何を思い出すべきかと尋ねられたとしたら、あなたに二言三言で告げるであろう。神の御子、罪人たちの《救い主》なる主イエス・キリストを思い出すがいい。咎ある者に代わって苦しまれたこの方を思い出すがいい。確実に知るがいい。この方の上で神が、ご自分の民のもろもろのそむきの罪を罰されたということを。さて、イエスのようなお方の苦しみには、もろもろの罪をきよめ去る力があるに違いない。この方は神であられる。だが、もし死ぬことを意図されるとしたら、その死には、ご自分によって神に近づくすべての人々を、完全に救う[ヘブ7:25]ことのできる功績があるに違いない。あなたは、今この瞬間に、神の御名によって命じられている。あなたの魂を、あの十字架に釘づけられた御手にゆだね、あなたの人生を、あなたが生きるためにご自分の魂を注ぎ出されたお方にあずけよ、と。あなた自身の力では、絶望するのが当然である。だが、この方の御名を思い出し、それにゲツセマネとゴルゴタの名前を合わせ、この方の一切の苦痛と、悲嘆と、云い知れようのない苦悩とを思い出すとき、――これらを信仰によって思い出すとき、今この瞬間にもあなたのための救いがあるはずである。いま聞こえたのは、あなたのため息だろうか? 「おゝ! ですが、私の内側には何も良いものがないのです」。ならば、知るがいい。主イエスのうちにある一切の良いものは、あなたのためのものなのである。では、それを求めて主のもとに行くがいい。「ですが、私はふさわしい者ではありません」。主はふさわしいお方である。ふさわしさを求めて主のもとに行くがいい。「ですが、私はしかるべきほどに感じていません」。主は、しかるべきほどに感じられた。あなたが感じるべきすべてのものを求めて主のもとに行くがいい。もしあなたが、あなた自身の錆びついた一銭銅貨を持って行くなら、神はそれをお受けにならないであろう。あなたの腐った贋金を混ぜ合わせるなど、イエスが無代価であなたに与えてくださる尊いオフィルの黄金を侮辱することにしかならないであろう。あなたの不潔な着物など消え去るがいい! あなたは、それをキリストが織られたしみ1つない衣に加えようとするのだろうか? 金滓であり糞土であると、使徒は私たちの最上の行ないのことを云う。もし私たちが、それらを私たちの《贖い主》の功績に隣り合わせようなどとあえてするとしたらそうである。イエスのほか何者も救うことはできない。イエスを思い出して、生きるがいい!

 「しかし」、とある人は云うであろう。「私は主を思い出そうと努めてきました。ですが、私のもろもろの罪を赦してくださることについて主を信頼することはできても、私の心はかたくなすぎるのです。誘惑は多すぎ、善である一切のことについて私は弱すぎるのです。それで、やはり私は絶望しているのです」。ならば、もう一度聞くがいい。主を思い出すことである。今この時に、聖霊を思い出すがいい。イエスがいと高き所に上られたとき、聖霊が与えられた。そして、聖霊が呼び戻されることは決してない。聖霊は、今この集会の中におられる。そして、聖霊のうちにこそ、内に巣くう罪に対抗する希望がある。あなたは自分が祈れないと苦情を漏らすが、御霊は弱い私たちを助けてくださる[ロマ8:26]。あなたは信じることができないと嘆くが、信仰は神の賜物、また聖霊の働きなのである。柔らかな心、悔悟した心持ち、ゆるがない霊、――これらはあなたのうちにおられる聖霊の働きである。あなたには何もできないが、聖霊はあなたの中で一切の働きを行なうことがおできになる。かの刺し貫かれた愛しい御手に自分をまかせ切るがいい。そうすれば、聖霊の力があなたの上に臨むはずである。新しい心があなたに与えられ、ゆるがない霊があなたのうちに入れられるであろう。あなたは主のおきてを学び、主の道を歩むようになる。信仰者が必要とすることのありえる一切のものがその人には供される。おゝ、救われたいと切望している若者よ。イエス・キリストの救いは、あなたの場合にぴったり適している! おゝ、求道している魂よ。神が永遠におられるところに住むのにふさわしい者となるために、あなたが何を渇仰していようと、それはみな持つことができるし、求めさえすれば得られる。というのも、それはみな恵みの契約によって供されているからである。また、もしあなたが主なるイエスを思い出し、聖霊を――思いを更新してくださる《内住者》を――思い出すとしたら、あなたは元気づけられ、慰められるであろう!

 それでも、天の神聖な《威光》の、もうひとりの《位格》を忘れないようにしよう。――御子と御霊と同じように、御父を思い出すがいい。そして、御父を思い出す助けを私にさせてほしい。震えている罪人であるあなたは、神を厳格な方とも、峻厳な方とも考えてはならない。神は愛であられるからである。あなたは喜んで救われたいだろうか? 神は、それよりもなおも喜んであなたを救ってくださるであろう。あなたは今晩、あなたの神のもとに立ち返りたいと願っているだろうか? 神はすでにあなたと出会っておられ、あなたに来よと命じておられる。あなたは罪赦されたいだろうか? 無罪放免の宣告は、神の口から出かかっている。あなたは、きよめられたいだろうか? 贖罪の血の泉は、神のあわれみで満ちており、その御子を信じるすべての者たちのために満たされている。来て、迎(い)れられよ、来て、迎(い)れられよ! 子どもは喜んで赦されるが、御父はそれ以上に喜んで赦してくださる。エホバのわななくあわれみの情は、ご自分のエフライムを御胸にひしと抱きしめることを切望している。今すぐに神を求めるがいい。あわれな魂たち。そうすれば、あなたがたは、神が厳しくも冷たくもないこと、むしろ、恵み深くあろうと待ちかまえ、いつでも赦そうとしておられる、あわれみを喜ばれる神であることが分かるであろう。もしあなたがこのように神を――御子を、御霊を、御父を――思い出すことができるとしたら、あなたの魂はあなたのうちに衰え果てていても、あなたは心励まされることができよう。

 そして、そのようにして、しめくくりに私はあなたに命じる。もしそのような状況にあるとしたら、ヨナの模範を見習い、天に1つの祈りを送り込むがいい。というのも、それは、神の聖なる宮にまで届くからである。ヨナには何の祈祷書もなかった。あなたにも、祈祷書など必要ない。聖霊なる神は、一トンもの重みの祈祷書の中からあなたがかき集められるよりも、ずっといのちに満ちた祈りを、あなた独自の五、六語の中にこめることがおできになる。ヨナの祈りは、その語句ゆえに傑出していたわけではない。魚の腹中は、精選された名言のための場所でも、長たらしい演説のための場所でもなかった。私たちは、彼が長い祈りをささげたとも信じない。むしろ、それは彼の心からそのまま沸き上がり、真っ直ぐに天へと飛んで行った。それは、激しい願いと魂の苦悶という強力な弓によって射られた。それゆえ、《いと高き方》の御座へと急行した。もしあなたがいま祈りたければ、自分の言葉を決して気にしてはならない。祈りの魂をこそ神は受け入れてくださる。もしあなたが救われたければ、あなたの密室に行き、主が聞き届けてくださるまで、膝まずいたままでいるがいい。左様。今あなたがいる所で、あなたの魂を神の御前に注ぎ出すがいい。そうすれば、イエスを信じる信仰によって、あなたは即座に救いを与えられるであろう。

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心励まされる話題に関する率直な話[了]

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