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二重の忘れな草

NO. 3099

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1908年7月2日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年7月5日、主日夜の説教


「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。――Iコリ11:24


 ある人々は、主の晩餐を天来の儀式と考えていない。そうした人々は、それが聖書のどこで命じられているか分からないと云う。他の人々の考え方を理解しようと努力することなど、私は、とうの昔に放棄している。というのも、そうした考え方の中のあるものは、あまりにも独特の原理原則によって構成されているため、聖霊ご自身によって表現された形の真理すら、人によっては御霊が語られたのとまるで正反対のことを意味するものと理解せざるをえないからである。さて、私にとって、主の晩餐を守るようにとの主の命令は、あまりにも平易で、はっきりしているため、私の持ち合わせよりもずっと巧みな手練手管によらなくては、キリスト者として、この聖餐式をないがしろにしたまま生活することを正当化できない。私は、他の人々によってでっち上げられてきた多くのことを重々承知している。だが私は、この章に記されているほど平明な天来の戒めを無効にできるような三段論法だの、議論だの、理屈だのを自分では作り出させない。「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」[Iコリ11:23-25]。もし私たちがこれを行なうこと、また、キリストを覚えてこれを行なうことが主の意図にもとることだとしたら、何を主は意図しておられたのだろうか? 私には、それこそ主が実際に意図されたことであることは非常に平明で、はっきりしていると思われる。だとすると、この戒めは非常な力強さとともにキリスト者たちのもとにやって来る。というのも、これはありうべき最高の権威に立って発されているからである。キリストを覚えてこれを行なうよう私たちに告げているのは使徒パウロではない。《主人》ご自身が、「わたしを覚えて、これを行ないなさい」、と仰せになっているのである。究極の厳粛さが十戒に属しているのは、それがシナイ山上で神ご自身によって発布されたからである。そして、それに劣らぬ重みが私たちの前にある命令には伴っている。それは神の御子ご自身によって発されており、この方は真実にこう云うことがおできになったからである。「わたしと父とは一つです」[ヨハ10:30]。

 また、やはりこの命令に、常ならぬ厳粛さが派生していると思われるのは、それが与えられた状況によってである。もし律法の発布を特別に厳粛なものとしていたのが、「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたから」[出19:18]であったとしたら、私はあえて云いたい。この平明な、はっきりとした命令、「わたしを覚えて、これを行ないなさい」、が与えられたことは、それに劣らぬほど厳粛である、と。なぜなら、それが与えられたのは、「主イエスが、渡される夜」*だったからである。世界史上、他のいかなる夜が、主にとって、また、主を信じる私たちにとって、これ以上に尊厳あり、これ以上に厳粛なものでありえようか? その夜、主は弟子たちとともに、これを最後とゲツセマネに行かれたのである。私の主よ。この命令は、このように特別の時にあなたから与えられたものである以上、もし私が本当にあなたの弟子だとしたら、いかにしてそれを無視することなどできましょうか? イエスを信ずる私たちの中の誰ひとりとして、主のこの命令に常習的に不従順なまま生活しないようにしよう。

 もう一言だけ、前置きとして語らせてほしい。すなわち、この命令は、明らかにただ一度の折だけのために発されたものではない。というのも、これはコリント人への手紙の中で使徒パウロによって引用されており、彼はこの意義深い言葉をつけ足しているからである。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」[Iコリ11:26]。それゆえ、この命令は《再臨》まで有効なのである。そして、キリストご自身がこの地上に再び現われるまで、主の受難のこの記念式は私たちの前に絶えずあるべきなのである。

 I. 私が第一にあなたに思い起こさせたいのは、《このようにキリストを記念する必要》についてである。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。

 こうした必要が存在するのは、最初に、私たちの忘れっぽい記憶のためである。記憶は、他のあらゆる精神機能と等しく、《堕落》によって損壊されている。それは、善よりは悪の方をずっと良く保持しており、あなたがたがみな知っている通り、恩を受けたことよりも、害を受けたことの方をずっと容易に思い出す。しかし、人間の心の深い堕落性を実によく示しているのは、私たちが私の主を忘却する確率の高さであるに違いない。私たちは、しばしばこう歌ってはこなかっただろうか?――

   「ゲツセマネをば いかに忘れん」。

だが、私たちは実際的にはゲツセマネを忘れてきたし、ゲツセマネが不断に私たちの記憶の上に描かれていたとしたら、行なったであろうようなことを私の主に対して行なうことを省いてきた。しかり。私たちは、自分の最も真実な《友》、私たちの最も愛する方、私たちの魂の喜びなるイエスを忘れがちなのである。私たちは実際に主を忘れており、そして、こう思うとき自らへりくだるべきである。キリストは、私たちがいかに忘れっぽい愛人となるかを知っておられ、それゆえ、私たちにこの愛の印を、この二重の忘れな草を与えてくださったのだ、と。

 また、この命令のための必要は、私たちの子どもっぽい状態という事実の中にも存在していないだろうか? キリストにある私の愛する兄弟姉妹。私たちはまだ、いずれそうあるべき姿に達していない。私たちは、あらかた、まだ未成年の段階にある。私たちは神の子らであり、御国の相続人ではあるが、現在のところ、後見人や管理者の下にある[ガラ4:2]。さて、子供向けの本には、挿絵があってしかるべきである。私たちは完全な幼児ではない。どこかしらは成長しており、一部のキリスト者たちは、自分が大きくなりすぎたので、挿絵など必要ないと考えている。だが、イエスは、私たちが多くの点で、小さな子どもたちか大きな子どもたちであることを知っていたため、聖書の中に2つの絵を挿入し、それを私たちに与えてくださった。なぜなら、主は私たちが、まだ成人しておらず、まだ自分の全財産を獲得できるようにはなっていないことを私たちに思い出させようとされたからである。その2つの絵とは、信仰者たちのバプテスマと、主の晩餐である。私は子どもであるゆえに、私にはなおも象徴や印がなくてはならない。というのも、これらは、私の精神にとって、単なる言葉よりもずっと強力だからである。

 また疑いもなく、この2つの儀式、特にこの儀式が残されたのは、私たちがまだ肉体のうちにあるからでもある。私たちはなおも物質主義につながれている。まだ純粋に霊的になってはいないし、なっているふりをしても何の役にも立たない。一部の善良な人々は、人から動かされるまでじっと座っている。それは、もし私たちに何の肉体もなかったとしたら、賞賛すべき礼拝の形であったろう。だが、私たちに肉体がある限り、霊的なものと物質的なものには何らかの種類のつながりがなくてはならない。そのつながりが、いかに少ないとしてもである。キリストはそれを2つ作られた。それで十分だが、決して多すぎはしない。というのも、覚えておくべきことに、やがて来たるべき時に、物質そのものが引き上げられて、霊的なものと再結合されることになるからである。「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」[ロマ8:21]。そして、あたかも物質的なものを蔑むべきではないと、また、触れたり見たりできるあらゆるものを、それゆえに汚れたもの、霊的な精神の考察に値しないものと考えるべきではないと私たちに教えるかのように、私たちの主は私たちに、私たちが身を洗うことのできる水を与え、地の産物であるパンと葡萄酒をお与えになった。それらは、まだ地上的である私たちに、来たるべき時を待ち望ませるためである。そのとき、地は、《堕落》によって塗りたくられた泥濘を振るい払い、新しい地として、その新しい天と、純粋な碧空の下にあって、生ける神の聖なる宮となるのである。

 私がしばしば嘆いてきた事実は、この2つの儀式――バプテスマと主の晩餐――が、迷信という汚れた鳥が卵の産み落とす巣となってきたことである。だが、主は、これらを制定されたとき、それを予見しておられた。こうした難点にもかかわらず、それでも私は、こうした物質的な象徴によって私たちが主に近づけることをしばしば喜んできた。主のからだは物質的であったし、今も物質的である。主の血は真の血であったし、主は処女により、まことの肉と血をもってこの世にお生まれになった。しばしば疲れ、事実、私たちと同じような人、まことの人であったし、カルバリの上で死なれた。――決して幽霊でも、神話でも、歴史上の夢でもなく、私の兄弟姉妹。私があなたのからだをつかめるのと同じように、私の手でつかむことができただろう《お方》であった。また、あなたや私の手に釘が打ちつけられたとしたら感じたのと同じように、その御手を刺し貫いた釘を感じた《お方》である。それゆえ、私たちは決して浅薄な祝宴のもとに来ているのではなく、パンと葡萄酒による真の祝宴のもとに来ているのである。そのパンと葡萄酒によって私たちは、私たちのために死なれたのが真のキリストであったこと、このあわれな、私たちにとってはこれほど現実のからだが、やがてついには、カルバリの十字架上の主のあの大いなる犠牲によってきよめられ浄化されることになることを感じさせられるのである。

 こう示唆することで愛がないと思われたくはないが、主の晩餐が私たちに与えられたのは、他の理由のためでもある。ある人々はこう云ってきた。「われわれに、この記念は必要ない。というのも、われわれは講壇上の教役者から主について話を聞き、そのことによってキリストについて考えることができるからだ」。しかり。あなたは教役者の話を聞くことができる。だが、一部の教役者たちからあなたは何を聞かされるだろうか? 多くの多くの場合、あなたが聞くのは、ほとんど何の善も施さないようなものであろう。というのも、近頃の多くの伝道牧会活動に欠けている唯一のことは、かの偉大な中心的真理、すなわち、イエス・キリストの代償的犠牲だからである。地上における伝道牧会活動を頼りにすべきではない。というのも、それらのほとんどは、徐々に、それが開始されたときの忠実さ、真剣さ、熱心さから後退していくからである。歴史上、人間的な牧会伝道活動が原初のきよさを完全に保っていた事例はほとんどない。だが、キリスト者たちが集会を持ち、キリストの死の記念としてのこの儀式を守れる所ではどこでも、彼らは常にキリストの死に対して、生きた証しを保持し続けてきた。たとい牧会伝道活動が沈黙させられようと、あるいは、教役者たちがその熱心を失おうと、そこには常にこの記念の式があった。キリストを覚えてパンを裂き、葡萄酒を注ぐことがあった。

 おそらく誰かが云うであろう。「しかし、確かに教会は常にキリストを記憶にとどめていくはずですよ」。悲しいかな、悲しいかな! 地上で組織されたキリスト教の栄光そのものたるべきそのこと、それは、ごく頻繁に地上における主たる悪の代行者の1つとなってきた。それゆえ、私は、教会の儀式ではない、あるいは、教役者の儀式ではない、1つの儀式ゆえに神をほめたたえるものである。この現在の礼拝式が終わったときには、あなたがたの中の誰ひとりとして、私が主の晩餐を執行するのだなどと勘違いしていないでほしいと思う。私がそのような大それたことを行なうなど絶対にあってはならない! しかり。あなたが、あるいは、私たちが聖餐卓のもとにやって来てパンを裂き、杯を飲むのである。そして、私たちがともに集うのは、ある特定の見解を有する一教会としてではなく、ただのキリスト者として、私たちのために死なれた《救い主》を「覚えて、これを行なう」ためである。あなたは、どこであれ好きな所で、二、三人のキリスト者たちが集まることができる所であれば、パンを裂いてかまわない。もしあなたが真にあなたの主を愛しているとしたら、このことを行なうのは頻繁であればあるほど良い。「これを飲むたびに……これを行ないなさい」[Iコリ11:25]は、自らを司祭と称するほどの不遜さ、厚かましさを有する者たちによって執行される儀式に関して、何らかの教会組織に向かって語られた命令ではない。むしろ、あらゆる所にいるすべてのキリスト者たちに対して、何の曜日や場所の指定もなく与えられた命令である。――天の青空の下であれ、納屋の中であれ、あるいは、もし彼らがたまたまそこに滞在しているとしたら、酒場の中であれ――彼らの主の裂かれたからだを覚えつつ一片のパンを裂き、彼らのために注ぎ出されたその尊い血を互いに愛により覚えつつ杯を飲むべきなのである。そして、よく聞くがいい。たとい牧会伝道活動が崩れ去るようなことがあるとしても、――つまり、私たちが通常、叙任された地上的な牧会伝道活動であると考えているようなものが、――また、諸教会が崩れ去るようなことがあるとしても、それでもキリストに忠実に従う者たちは見いだされるであろう。――地の果てまで狩り立てられ、攻撃されているかもしれないが関係ない。そして彼らは、キリストを覚えてパンを裂き、杯を飲むであろう。そして、そのようにして、かの喇叭が鳴り響いて主の再来を告知するときまで、イエスが受肉されたこと、死なれたこと、そしてイエスを通して私たちが御父に近づけることが覚えられるであろう。

 II. さて第二に、あなたに示そうとさせてほしいのは、《この記念が、意図された目的のためにいかにふさわしいものか》ということである。

 キリストにある愛する兄弟姉妹。この儀式は、それ自体、キリストの死をふさわしく記念するものである。十字架像は、キリストの死を私たちの前にとどめておく手段であると示唆されたかもしれない。だが、それがいかに偶像礼拝の象徴そのものとなり果てたかをあなたに思い起こさせる必要はないであろう。私の知る限り、キリストを記念するいかなるものにもまして豊かな示唆に富み、全く賞賛に値するのは、キリストが制定されたものである。これは、それ自体として賞賛に値する。というのも、ここには生命の糧たるパンがある。――霊的に「まことの食物」[ヨハ6:55]たるキリストの肉にふさわしいしるしである。主の受肉の事実は、私たちの心にとって最も滋養分の多い食物である。私たちは主を、人間の肉で覆われた神として信じている。また、その偉大な真理、その驚異に満ちた事実は、パンが私たちのからだにとってそうであるのと同じくらい、私たちの魂にとって食物なのである。さらに、この記念行事においては、裂かれたパンがあり、私たちに代わってキリストが苦しみを忍び、引き裂かれたことを指し示している。そのパンそのものが、最も適切な苦しみの記念である。それは、畑の鋤跡に蒔かれ、そこに埋められた麦ではなかっただろうか? それが生え出るや霜に痛めつけられ、荒々しい風に吹きまくられ、ありとあらゆる気候の急変を忍び、雨によって濡れそぼり、太陽によって焼きつけられ、鋭い鎌で刈られ、脱穀され、挽かれ、練られ、竈に入れられ、1つ1つが十分に苦しみの型となるような、無数の過程を経たのではなかっただろうか? 受肉した神の苦しんでいる肉体は、私たちの魂のための霊的な食物であるが、私たちは、それを食べない限り、私たちを養うものにはならない。そして、この象徴的なパンは単に裂かれるだけでなく、食される。――私たちが信仰によってイエスを受け入れること、また、主に頼り、主を私たちの新しい霊的いのちの栄養として受けとることの意義深い型である。こうしたすべてを越えて教えに富むものが何かありえるだろうか?

 それから、そこには、「ぶどうの実で造った物」[マタ26:29]たる葡萄酒がある。見ての通り、そこには2つのしるしがある。なぜなら、この2つが死を表わすからである。からだの中の血はいのちであり、からだの外にある血は死である。それで、この2つの象徴は、杯の中にある葡萄酒と、その向こうにあるパンとして引き離されている。――これらは合わせて死を指し示している。水は用いられなかった。というのも、水は、別のしかたで、信仰者のバプテスマという他の儀式において適用されていたからである。また水では、このお方を記念するには淡泊にすぎ、微かにすぎたことであろう。このお方を豊かな生き血は、人々の足で踏みしだかれ、酒ぶねからあふれ流された葡萄の実の赤い果汁による方が、はるかに良く示すことができた。この葡萄酒は、贖罪の犠牲の賞賛に値するしるしである。人々は食物と同じくらい飲み物を必要とする。こういうわけで、両者が聖餐卓の上に置かれ、魂のまことの食物であるキリスト全体を示しているのである。あなたは、霊的食物を求めて《教会》のもとに行く必要はないし、霊的飲み物を求めて他のどこに行く必要もない。むしろ、あなたが必要とするすべてを、あなたはイエスのうちに見いだし、それを十字架につけられたイエス、犠牲とされたイエス、あなたの代わりに、代理として、あなたに成り代わって殺されたイエスのうちに見いだすことができる。確かに、こうした象徴そのものが、キリストの死を思い起こさせるものとして最も意義深く、ふさわしいものである。

 そして、この儀式全体は、キリストの死の最もふさわしい記念である。なぜなら、主の晩餐はどこででも祝うことができるからである。いかなる地方にもパンと葡萄酒はある。人々の間のいかに貧しい人であっても、こうした素朴な象徴を食卓に供えられないことはない。銀の杯と皿を有するのは端正なことかもしれない。だが、それは確かに必要ではない。どんな杯や皿でもかまわない。人は、その奇妙な教会用語の中で、いわゆる「司祭たち」が用いる「聖餐杯」や「聖体拝領皿」について語る。だが、それらはどんな材質のものでもよく、いかなる種類の卓子でもかまわない。「白亜麻布」の敷布は上品だが、欠くべからざるものではない。ただ卓子とパンと葡萄酒があれば、必要なすべてがある。そして、もし五、六人の敬虔な農民たち、手織の服を着た女たち、野良着を着た男たちが洞窟の中、あるいは、大きく広がった山毛欅の木の下に集まるとしたら、彼らは「主が来られるまで」キリストの死を告げ知らせることができる。しかし、あちらの男性用婦人帽子業の展示会や、彼らの「祭壇」、また、鐘や、人々が膝まずいて行なうビックリ箱礼拝――というのも、それ以上に良い呼び名を私は考えつけないからだが――、これらはみな純然たる偶像礼拝である。それは全然キリストの記念ではない。それは悪魔の記念であろう。また、彼がいかに真のキリスト教を教皇制にしてしまい、キリストを御座から追い出し、無謬と自称する人間を据えたかを記念することであるだろう。しかし、真の信仰者たちによって、キリストを覚えてパンが裂かれ、葡萄酒が注ぎ出されるとき、そこで主の命令は従われるのである。

 主の晩餐がふさわしい記念であるのは、それを頻繁に祝うことができるからでもある。あなたは、好きなだけ頻繁にこのパンを裂き、この杯を飲むことができる。高価な儀式は、時たまにしか執り行なえないが、この儀式はそうしたければ朝にも夕にも、週日に毎日行なっても、ごく僅かな費用しかかからないであろう。この経綸の終わりまで、パンと葡萄酒が不足することはないであろう。また、自分たちの主の食卓のもとに出て、そのことにより、神の御子にしてマリヤの子であるイエス・キリストがカルバリの十字架の上で死んだこと、「悪い人々を神のみもとに導くため、正しい方が彼らの身代わりとなった」*[Iペテ3:18]ことを心に覚え続けようとする、恵みに満ちた、十分な数の男女に欠けることはないであろう。私は敬虔に感謝する。私の主にして《主人》が、これほど安価で、これほど手軽で、これほど質素でありながら、これほど意義深く象徴的なものによって、私のため、また、すべての御民のために死なれたご自分の死を記念するようにしてくださったことを。

 III. さて第三に、また、ごく手短に語らせてほしいのは、《この記念式が託されたのがいかなる人物たちだったか》ということである。誰がキリスト「を覚えて、これを行な」うべきだろうか?

 よろしい。最初に、もしあたなが本日の聖句の前後関係を眺めるなら、あなたは彼らが主のみからだをわきまえる人々であることに気づくであろう。つまり、この食卓のもとに正しく出てくる人々は、このパンとこの葡萄酒がキリストの裂かれたからだと流された血の型であり表象であることを理解しているのである。また、彼らは受肉したキリスト、十字架の上で死んだキリストが自分たちにとって非常に尊いお方であることをわきまえる、霊的な知覚力をも備えている。私は、この食卓のもとにやって来る多くの人々が、ひとりひとりこう云えるだろうと信頼している。「あゝ、私は知っています。主がいかに尊いキリストであられるかを! 主は私の喜び、私の希望、私の楽しみ、私のすべての《すべて》です」、と。来て、迎(い)れられるがいい。あなたがた、そのように主のみからだをわきまわることのできるすべての人たち。私は、あなたがそうできると分かる。この聖餐式があなたに与える喜びによって、また、それを食するとき、あなたの霊的な味覚に残される甘やかさによって分かる。あなたは確かにやって来て良い。というのも、あなたには、主のみからだをわきまえることのできる霊的感覚が備わった霊的いのちがあるからである。しかり。あなたはやって来て良い。否、それ以上に、あなたはやって来なくてはならない。というのも、あなたの主なる《主人》が云われたからである。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」、と。

 本日の聖句が取られた箇所の直前の章で告げられるところ、ここにやって来る人々は、そうすることにおいてキリストとの交わりを有しているべきである。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。……肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。……いや、彼ら[異邦人]のささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです」[Iコリ10:16-21]。それで、私にはこう思われる。供え物を食べたユダヤ人が、いずれにせよ祭壇の神と名目的には交わりを有していたように、 また、悪霊の杯を飲む異教徒が、それによって悪霊と交わりを持ったように、主の食卓のもとに来る者はみな、自分が主との交わりのうちにあることを進んで公言する者たちでなくてはならない。神はあなたの神だろうか? キリストはあなたの《救い主》だろうか? あなたは自分がイエスの弟子であり、神の子どもであることを公言するだろうか? するとしたら、この食卓のもとに来て、迎(い)れられるがいい。だが、もしそうしないのなら、後ろに下がるがいい。あなたにはここにやって来る何の権利もないからである。来るとしたら、あなたは自分に祝福ならぬ呪いを招くであろう。しかし、あなたがたの中の、イエスの血に信頼しているあらゆる人々、あなたがたの中の、キリストがあなたの救いのすべてであり、あなたの願望のすべてであるあらゆる人々、あなたがたの中の、イエスに対する信仰によってエホバを自分の御父を呼ぶあらゆる人々、あなたがたの中の、その御子の死によって神と和解させられたあらゆる人々は、この食卓のもとに来て、天地の神、また私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの御父との交わりを持つがいい。だが、それ以外の何者もやって来てはならない。私が常に残念に思うのは、人々が、回心していなくとも何らかの益を受けられるかのように、聖餐式のもとにやって来るように促されることである。というのも、イエスを信ずる信仰者となっていない限り、聖餐卓のもとにやって来る者が何らかの益を受けられる可能性は万が一にもないからである。神がこの儀式を彼らの回心のために祝福してくださることもありえるが、事の性質上、それはきわめて見込み薄なことである。というのも、彼らは主の命令に真っ向から従っていないからである。彼らはそこにいる何の権利もない。また、彼らは、イエスを信じるまで、へりくだって離れている方が、ずっと祝福される見込みが高いであろう。それから彼らにはやって来る権利があるようになるであろう。主の愛によって与えられる権利が。

 IV. さて、最後に、《この儀式の目的を実行しよう》

 主の晩餐は、私たちにイエスを思い起こさせるためのものである。私は今からは説教するつもりはない。私は、できる者にこの聖句を実行してもらいたいと思う。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。あなたがたの中の多くの人々は、あなたの主なる《救い主》を覚えて、この食卓のもとに来ようとしている。この方がどなたか、何をなさったお方か思い出すがいい。主を覚え、あなたの心の目の前に今「悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]お方として立っていただくがいい。私はあなたの想像力には訴えない。あなたの記憶に訴える。あなたは知っているはずである。――

   「古けく古き 物語、
    イエスとその愛の物語」

を。それをいま思い起こすがいい。主が死なれたことを思い出すがいい。というのも、それこそ、ここであなたが特に思い出すよう命じられていることだからである。私が会ったことのあるひとりの人は、キリスト者であったと思いたいが、私にこう云った。「私の望みは、栄化された《救い主》にあります」。だが私はその人にこう云わずにはいられなかった。「私の望みは、十字架につけられた《救い主》にあります」、と。十字架につけられたキリストこそ、私たちの一切の希望の土台である。というのも、キリストは、まず死ななかったとしたら、よみがえることがありえなかったからである。もし主がささげるべきご自分の血を携えていないとしたら、主の訴えに何の価値があるだろうか? 人々がキリストの死を見下しているとしたら、《再臨》に関する種々の観念によってさえ脇道にそらされてはならない。キリストの再臨を喜ぶがいい。また、それを切に待ち望むがいい。だが、私たちの希望の基が十字架につけられたキリストにあることは覚えておくがいい。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」[Iコリ1:23]。そして、私たちがそう宣べ伝えてきたように、あなたがたは信じてきたのである。それで、誰によっても、罪人の代理として苦しみをお受けになるキリスト・イエスに対するあなたの信頼からそらされてはならない。――

   「われらが決して 受けぬため
    主は受け給いぬ、御父の憤怒(いかり)を」。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。これが十字架上のキリストからの呼びかけである。覚えておくがいい。あなたの一切の希望が、十字架上にかけられ、そこで死なれたお方の上にかかっていることを。覚えておくがいい。主が死なれたとき、あなたも主ともに死んだことを。というのも、「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」[IIコリ5:14]。そして、今やあなたは、「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思」[ロマ6:11]わなくてはならない。私は切に願う。主を覚えて、あなたの心が暖まり、あなたの愛があなたの内側で燃えるようにするがいい。主を覚えて、主に仕えようと決心し、必要とあらば主のために死のうと決心して、この食卓から離れるようにするがいい。

 主を覚えて、主の御民全員のことも思い出すようにするがいい。というのも、主はたったひとりに対して、「これを行ないなさい」、と仰せになったのではなく、「わたしを覚えて、これを行ないなさい」、は主の民全員に対して云われており、これを行なうには、少なくとも少人数の集会が必要だからである。主を覚えて、あらゆる戦闘の教会が、また、勝利の教会もまた、あなたの心の回りに集まるように思われ、天と地にあるキリストの全《教会》と交わるように思われるるようにするがいい。イエスを覚えて、主があなたとともにいると感じ、また、主の喜びがあなたの魂に入り、あなたの喜びが満たされるようにするがいい。主を覚えて、あなた自身のことを忘れ、あなたの種々の誘惑を忘れ、あなたの心労を忘れ出すようになるがいい。主を覚えて、主があなたを思い出し、あなたのためにその栄光に帯びて来られる時のことを考え始めるがいい。主を覚えて、主に似た者となり始めるがいい。主を凝視して、この山から下りてよこしまな世に再び出て行くときも、自分の主にお会いした栄光によってあなたの顔が光を放つようにするがいい。私は、長期にわたって安息日にこの食卓から離れていたことはなかったが、それでもここに再びやって来たいと切望している。というのも、数名のキリスト者の友人たちを集められる所でならどこででも、キリストを覚えてパンを裂くことは、私の絶えざる習慣だったからである。知っての通り、私があなたがたとともにいるときには、私は決して、週の最初の日に私の《主人》の食卓に欠席しようとはしない。どうしても余儀なく妨げられる場合を除き、そうである。そして、あなたも、私がいま有しているのと同じくらい鋭い欲求をもってやって来ることだろうと思いたい。そのとき、この饗宴には何の蓄えの欠けもないであろう。願わくは主が、ご自分によって私たちを大いに養ってくださるように!

 この場に、この食卓のもとにやって来てはならない多くの人々がいるとは何と残念なことであろう。そうした人々がまだ決してキリストを信頼していないからである。たとい今のあなたにとって主イエス・キリストを愛し、信頼することが何でもないように思われるとしても、覚えておくがいい。もしあなたがその状態のまま死ぬとしたら、やがて来たるべき日のあなたにとって、かつて起こった中で最も身の毛もよだつほど恐ろしく思われるのは、あなたがキリストへの愛も信頼もなしに生きて、死んでいったこととなるであろう。願わくは神があなたを救ってくださるように! 今イエスを信じるがいい。そうすれば、あなたは、いま救われる。主にあなたの身をゆだねるがいい。そうすれば、主はあなたをお捨てにならないであろう。そのように、主があなたを祝福し給わんことを。その愛する御名のゆえに! アーメン。アーメン。

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二重の忘れな草[了]


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