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不必要な恐れ

NO. 3098

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1908年6月25日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年6月11日、木曜日夜


「あなたは、何者なのか。……あなたは…… 一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか」。――イザ51:12、13


 物事が私たちに影響を及ぼす度合が、しばしばその価値と不釣り合いなものとなるのは、それが身近にありすぎるためである。例えば、月は、太陽に比べれば非常に小さな、取るに足らない天体だが、それが世界における潮の干満その他の多くの事がらに及ぼしている影響力は、太陽のそれよりもはるかに大きい。それは単に、月の方が太陽よりもずっと地球に近い所にあるという理由だけからである。来世は、現世よりも無限に重要であるし、私たちも、心の内奥では、目に見える一時的な物事のことを、目に見えない永遠の物事に比べて些事でしかないとみなしているものと私は希望している。だが、往々にして、重要ではない物事の方が、はるかに重要な物事よりも大きな影響を私たちに及ぼすものである。それは単に、地上の物事の方がずっと私たちの身近にあるからにほかならない。天国は、地上のいかなる喜びにもまして無限に望ましいものだが、はるか遠くにあるように思われる。こういうわけで、こうした束の間の喜びの方が、現在の所は、ずっと大きな慰めを私たちにもたらすことがありえるのである。神の御怒りは、人の怒りよりもはるかに大きく恐るべきだが、時として同胞たる人間の渋面や叱責の方が、神の怒りを思うことにもまさる効果を私たちの精神に及ぼすものである。これは、一方のものが遠くにあると見受けられるのに、このからだの中にある間の私たちは、互いに非常に近く接しているからである。さて、愛する方々。時として起こることだが、不滅の霊が考えに入れる値打ちなどほとんどないようなものが、日ごとに私たちを心配させ、憂慮させることがある。この聖句が云い表わしているように、私たちは、何らかのしいたげる者に怯え、彼を絶えず恐れる一方で、私たちの味方であられる全能の神を忘れてしまう。神は、永遠に生きており、あらゆる人々と一切の物事を支配しておられるというのに関係ない。私たちがこのようにふるまう理由は、私たちが神のことを、あたかも遠く離れているかのように考えている一方で、しいたげる者は自分の目に見え、その脅かしの声は自分の耳に聞こえるからである。私は今回、神の御手の中にあって、神の民の思いを現在の苦悩からそらす手段になりたいと思う。そして、確かにずっと遠くにはあるが、それでも、より強力な影響を精神と心に及ぼすべき喜びと慰めへとその思いを向けたいと思う。それらには、本物の偉大さが内在しているからである。

 I. まず第一に、私が語りたいのはこの点である。――すなわち、《善良な人々がいだいている多くの恐れには、実は根拠がない》

 「あなたは…… 一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか」。この節の意味は、おそらくこうであろう。このしいたげる者は、決してやって来たことがないため、彼らは一度も彼の憤りの力を感じたことがなかった。それと同じように、神の民の多くは、絶えず数々の災難を案じているが、それらは決して彼らに起こらない。それで彼らは、それらを恐れることによって、現実にそれらが彼らのもとにやって来た場合に耐え忍ばなくてはならないだろうよりもずっと大きな苦しみを耐え忍んでいるのである。その想像によると、彼らの途上には数々の川があり、彼らはそれらをいかにすれば歩き渡るか、泳ぎ渡ることができようかと心配している。実は、そのような川など存在していないのに、そうした川のことで動揺し、苦悩しているのである。私たちの古い諺に、「橋の所に来るまで、それを渡るな」、つまり、取り越し苦労をするな、と云われる。だが、こうした臆病な人々は絶え間なく、自分の愚かな空想の中にしか存在していない橋を次々と渡っているのである。彼らは、想像上の短剣で自らを刺し貫き、想像上の飢饉で自らを飢えさせ、想像上の墓地に自らを葬りさえする。私たちはあまりにも奇天烈な生き物であるため、おそらく現実にわが身に降りかかる打撃よりも、決して降りかかりもしない打撃によってずっと激しく痛めつけられるのであろう。神の鞭も、私たち自身の想像力ほど鋭くは私たちを打ちすえない。私たちの根拠のない恐れは、私たちの主立った拷問者である。もし私たちが、われとわが身に苦痛を招くのをやめられるとしたら、この世のあらゆる兆候は十分に軽くなるであろう。しかしながら、いやしくも神から教えられている者、また、キリストを信じる信仰を与えられている者が、これほど咎重く、それと同時に、これほど痛ましい習慣に陥るとは、残念なことである。やって来てもいない、そして、決してやって来ることもない、しいたげる者を恐れることはない。

 ある人々をそれよりも悩ませるのは、人への恐れである。それこそ、まさに本日の聖句で言及されている事例である。「しいたげる者の憤り」。彼は非常に苛酷な男で、無情で、思いやりがなく、高慢で、押しが強く、厳しい。それで彼らは、彼のことを恐れている。それに加えて、彼は激しい気性をしており、筋の通った話し合いができず、激情にかられやすいため、彼らは単にこのしいたげる者を恐れているだけでなく、「しいたげる者の憤り」をも恐れている。彼のような種類の人間に、あなたはどう対処して良いか分からない、あるいは、いかにすればその目を逃れることができるか分からない。たとい彼から逃げ出しても、彼は憤りにまかせて追いかけて来る。あなたが平静にしていても、あなたの忍耐によって彼は静まらない。そして、彼に抵抗すれば、彼の憤りはその分だけ大きくなる。それこそ、この折に主が論じ合っている人々の恐れていた、しいたげる者の性格であったと思われる。そして、私たちの知っている一部の信仰者たちは、もしも自分の良心が適切であると命ずる通りに行なったとしたら、これこれの有力者が何をするだろうかと心配している。彼は、自分たちを農園から追い出すだろう。あるいは、自分の店は彼からの引立てを失ってしまうだろう。ことによると、そのような気遣いをしているのは、キリスト教信仰を憎んでいる親族のいる若者かもしれない。この強力な親族が何をするか想像もつかないのである。あるいは、そのしいたげる者とは、気まぐれな雇い主であって、もし彼の労働者たちがその命令に厳密に従わなければ、――たといそうした命令がたまたま間違ったものであったとしても、――彼らはその勤め口を失ってしまうであろう。彼らは何箇月も失職することになりかねず、彼らとその子どもたちは飢えることになる。彼らは、「しいたげる者の憤り」ゆえに自分たちに臨むだろう試練と苦難との長い見通しを思い描く。さて、時として、この種の恐れには根拠がある。というのも、人々は自分の同胞に向かって実際に非常に威張り散らすようなしかたでふるまい、自分は自由な見解をいだいていると語っている当の人間こそは、通常、この上もない迫害を加えるものなのである。もし私がキリスト教信仰に対する敵を有さなくてはならないとしたら、それは、そう公言する公然たる偏狭頑迷の人であってほしい。だが、あなたがたの「自由思想家」だの、いわゆる「広教会派の教会人」だのは御免である。というのも、こうした人々ほど大きな憎しみをいだける者はいないからである。また、全く何の信条も持っていない、自由主義的精神を愛する人々は、ある程度の原則を有していて、彼らほどくねくねと曲がりくねれない者たちをことのほか軽蔑することを自らの特別な義務と考えるからである。疑いもなく、今なお、キリストに対して真実な人々は、残酷なあざ笑いという試練を忍ばなくてはならない。社交界では「冷遇」されるであろう。別の階級では、きつい言葉が投げかけられたり、粗野な冷やかしを浴びせかけられるであろう。キリスト者たちは、人のしいたげを受けることを予期しなくてはならない。それは常にそうであったし、これからも変わらないであろう。もしあなたがこの世のあり方に背を向け、事実上この世をその誤りゆえに非難するとしたら、この世はそれを恨むであろう。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう」[ヨハ15:19]。

 しかし、結局において、この件については、必要以上にずっと多くのことが考えられているではないだろうか? というのも、「そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか?」 私の知っている若いキリスト者たちは、あの人この人のことを恐れていて、自分の良心に基づく確信をあえて率直に口にすることができない。そして、ついに勇気をかき集めてそうすると、彼らに反対するだろうと予期していた人が全く好意的に接してくれることに驚くのである。その妻は、教会に加わりたいという願いを夫に向かって口にすることを恐れていた。だが、それを耳にするとき、彼は自分も行って教役者の話を聞こうと考えるのである。ある人とその細君が教会に加入しにやって来た時のことを私は覚えている。彼らは互いに、自分が経験したことを相手に話すのを恐れていた。だが、二人が互いに他の入会候補者と一緒にいるのを見いだした晩、彼らは非常に驚かされた。相手のことを恐れるどころか、互いにこの上もなく喜ぶ理由を見いだしたからである。二人は、相手もまたキリスト・イエスにあるということを見いだし合ったとき、自分たちが結婚をやり直したかのようであると云った。だが、二人は両方とも、相手がキリスト教信仰に強硬に反対していると思っていたため、このように互いに発見し合うまで、自分が回心したことをあえて口にできないでいたのである。ことによると、愛する方々。あなたも、この二人と同じくらい恐れる必要はないかもしれない。進み続けるがいい。すると、行く手に立ちはだかっている巨人は影法師でしかないことが分かるかもしれない。あるいは、たとい本当に巨人であっても、神はあなたを助けてそれと戦えるようにし、あなたを圧倒的な勝利者[ロマ8:37]としてくださるであろう。

 ある人々には別の種類の恐れがある。――自分たち自身が何らかの反対を受ける恐れではないが、彼らは、《教会》と真理が人々の反抗によって全く破壊されてしまうことを恐れている。あなたは何度となく気がついたことがあるではないだろうか? 何らかの科学的発見と思われるものによって、あるいは、何らかの教理的な過誤と見受けられるものによって、諸教会の間に一種の恐慌が走ることを。ひとりのキリスト者が別の信者に出会うと、いま起こりつつあることについて、おっかなびっくり語り始めるのである。「前のご時世は、今よりもずっとよござんしたなあ」、といった具合で彼らは口を切る。だが、今や新しい1つの危機がやって来ています、いかにすればそれに対処できましょうか? 何年か前には、不安げにこう尋ねられていたものである。「こういった地質学上の数々の発見には、どう対処したら良いのでしょうか?」 だが、今ではそうしたものについてほとんど聞かなくなっている。たとい聞くとしても、それらについて悩むことはない。その後、コレンゾー博士がある特定の計算をすると、それが臆病な人々にとっては非常に恐ろしいものとなった。また、ハックスレーが、私たちは猿から下ってきたとか上ってきたとかと証明しようとした。だが、今や彼らの理論にかまいつける者などいるだろうか? それでも、私の出会う神経質な人々は、《科学》というこの暴君の憤りを大いに恐れ、それが完全に私たちを滅ぼしてしまうのではないか云うのである。だが、それがこれまで真理に逆らって何をしてきただろうか?

 今の時代、あなたも良く知っているように、非常に多くの人々が信じているのは、《儀式尊重主義》の蔓延によって、ラティマーが点火したともしびが吹き消されてしまい、私たちがみな暗闇の中に残されるか、少なくとも、ローマで作られた蝋燭以上のもので照らされることはなくなるだろうということである。私は、最も恐ろしい時代の到来を予言する数々の雑誌を絶えず受け取っている。それらによると、私たちの中のある者らは疑いもなくスミスフィールドで生きながら炙り焼きにされるだろうという。よろしい。私も悪魔が非常に激しく吹けることは知っている。だが、神のともされたともしびを彼が吹き消せるとは信じていない。いわんや、すでに千八百年間も燃えていた福音の太陽を吹き消せるはずなどない。悪魔よ。お前にできる限り激しく吹きつけるがいい。だが、決してこの光を吹き消すことはできないであろう。むしろ、それは、時の終わりまで、なおも輝き続けるであろう。お前は、その光を曇らせる一片か二片の雲を吹きつけることはできるかもしれないが、光そのものはこれまでと変わりなく輝くであろう。

 もしかすると、あなたが暮らしている場所には、新しい教理的な過誤がやって来ているかもしれない。ある人々は、人間が大猿の一種でしかないとか、キリストを信じている者たちだけが不滅なのであって、その他の者はみな最終的には消滅してしまうだろうとかいう発見をしている。多くの人々がその教理によって非常に恐れおののかされているが、それは、あまりにも卑しむべきものであるため、聖書を学んでいるいかなる者も驚かされはしないと私は信じている。それは非常に小綺麗なおもちゃで、多くの人がそれで楽しく遊ぶであろう。ある程度の時間が経てば、別の綺麗なおもちゃがやって来て、彼らはそれで遊ぶであろう。そして、そうしたことが連綿と続いた後で、ついにキリストご自身がやって来て、こうした一切のおもちゃを叩き壊し、ご自身の《教会》を、かの壮大な昔ながらの真理へと立ち戻らせられるであろう。人間や悪魔どものいかなる攻撃にもかかわらず、立ち続けているであろうその真理へと。しかし、愛する方々。あなたや私は、こうしたいかなる事がらをも恐れる必要はない。結局において、神の箱舟について私たちが恐れおののく理由などどこにあるだろうか? 皆無である。この教会のいかなる会員も、このようなしかたでめそめそ愚痴を云い、福音が死んでしまうなどと云うべきではない。この天地は滅び去るだろうが、主のことばは永遠に持ちこたえる。主が、ご自分のこのほむべき《書》の中で宣言しておられることは、永遠を通じて堅く立つ。

 時として、真に敬虔な人々だけに臨む別の恐れは、ことによると、結局、自分は恵みから転落して滅びてしまうかもしれない、ということである。何らかの誘惑がやって来て、自分の弱点を見いだし、自分を転覆させてしまうかもしれない。この船は、ここまでは順調に――それなりに揺さぶられたり、危機に遭ったりしつつも――航海してきた。だが、もしや、それは岩礁に激突し、完全に粉々に碎けてしまうかもしれない。彼らは、自分がいかに弱くもろいか、また、いかに多くの誘惑に取り巻かれているか知っている。悪魔はいかに陰険で奸知に長けていることであろう。この世は、その多くの魅惑によっていかに強力なことであろう。ダビデは、自分がいつの日かサウルの手で滅ぼされてしまうだろうと恐れたが、こうした恐れに満ちた魂たちは、何か新しい人生の局面を迎えるたびに、あるいは、何か新しい試練に遭遇するたびに、結局、恵みが自分たちの必要には不十分ではないのか、自分がみじめな末路を迎えるのではないかと恐怖する。私はその恐れを知っている。私たちの間で、それを感じたことのない者などいるだろうか? 自分自身の心を正直に吟味して、そう感じない者がいるだろうか? だが、愛する方々。そこには、神の真の子どもを悩ませるものは何1つない。もし私たちのキリスト教信仰が、私たち自身が何かを得たり行なったりするといった宗教だとしたら、それは滅び去るであろう。それがなくなるのは早ければ早いほど良い。だが、もし私たちのキリスト教信仰が神によって与えられるものだとしたら、私たちは知っているのである。神はご自分の与えたものを決して取り戻すことなく、その恵みによって私たちの中で働き始めたとしたら、決してそれを未完成のまま放り出すことはなさらない、と。この契約の基礎が行ないにあるとしたら、それは無効になるであろう。それが私たちに依存しているとしたら、確実に破綻するであろう。だが、それが「萬具(よろず)備りて鞏固なる永久の契約」[IIサム23:5 <文語訳>]である以上、無効になることはありえない。その約束が、偽ることのない[テト1:2]神の約束である以上、神は最後まで確実にそれをお守りになるであろう。それゆえ、私たちはこの不安を背負い込むべきではない。むしろ、単に日々油断せず道を進み続け、へりくだりつつ主イエス・キリストの保持し給う御力により頼み続けるべきである。そのようにするとき、私たちは自分が結局は無事に天国に行き着いたことに気づくであろう。

 また、私たちの知っているある人たちは、金銭上の問題において、自分たちのもとにやって来る欠乏の恐れに苦しんでいる。ある人は云う。「貧困という巨人が確実に私を捕えることでしょう! 私は、自分を支えるのに十分な生活費の貯えがないのです」。私の知っているある人々は、自分自身の葬式のために十分な備えがないというだけの理由で怯えている。まるで、それが何らかのしかたで片がつかないかのようにである。生きている人々が、確実に死者を葬るよう面倒を見るであろう。私の知っている他の人々はこう云う。「もし私が職を失ったら、もしこれこれのことが起こるとしたら、もし誰それが死ぬことになったら、どうしたら良いのでしょう?」 あゝ! そして、もし私たちが自分に想像できる一切の「もし」について心配するとしたら、確かに心配の種が尽きることは決してないはずである。だが、キリスト者よ。この世についての、あなたの頼みの綱はどこにあるのだろうか? あなたはそれを人間に置いているのだろうか? ならば、あなたが恐れに満ちていても不思議はない。だが、なぜあなたは、自分の魂をゆだたところに、あなたのからだもゆだねないのだろうか? もしあなたが自分の不滅の霊の《救い主》となっていただくようイエスを信頼しているとしたら、朽ちて行く物事における、このあわれな肉体の《供給主》としてもイエスを信頼できないだろうか? 神は烏を養ってくださるのに[ルカ12:24]、あなたを養おうとはなさらないだろうか? 今の瞬間まで、宇宙の糧食供給は決して破綻したことがない。むしろ、無数の生き物が神の御手から、自分たちの必要とするものを受け取ってきた。ならば、神があなたを忘れる見込みがあるだろうか? 神はこれまで一度もそうされたことがなかった。あなたのパンは与えられ、あなたの水は確保されてきた[イザ33:16]。なぜ神が今までのなさり方を変えて、ご自分の愛する子どもを飢えさせることなどあるだろうか? 「おゝ、ですが!」、とあなたは云うであろう。「ケリテ川[I列17:7]は涸れたではありませんか」。しかり。だが、その川が涸れたとき、神はご自分のしもべエリヤをツァレファテに遣わし、そこにいたやもめ女が彼を養うことになったのである。1つの扉が閉ざされれば、別の扉が開く。また、1つの泉が涸れれば、どこか他の所から水が沸き立つ。手段は変わるかもしれないが、手段の神は変わられない。神はあなたの必要を満たされるであろう。あなたのしかるべき場所に立ち、自分の義務を果たし、神のみこころに従うがいい。そうすれば、神があなたの期待を裏切ることはないであろう。むしろ、もはや決して恐れがあなたのもとにやって来ない所へあなたを無事に導いてくださるであろう。

 別の恐れは(そして、これを言及して最後にするが)、死の恐れである。神の民の間にいる一部の者たちさえ、あえて死ぬことについてはほとんど考えることができない。彼らにとって、自分が死ななくてはならないということは、陰鬱な必然であり、それについて全く不必要な心配と悩みを感じている。だが、愛する方々。もし私たちが神との完璧な平和を有しているとしたら、死ぬことを恐れるべきではない。私の知っているある人々は、むしろ移されたいと考えているが、私はそうならない方を好む。もし私が明日の夕べに戸外を歩いているとして、そのとき、火の戦車と火の馬とが立っていて、それが今にも私を天に上らせようとしているのを見たとしたら、私は、家に帰って寝床の上で死んで行くよりも、火の戦車に乗り込むことの方にずっと大きく悩むはずである。もし私の主また《主人》が、ご自分のお戻りになる時まで私を生かしておき、私の死を妨げることをお選びになるとしたら、主のみこころがならんことを。だが、御霊はこう云われるのである。「主にあって死ぬ死者は幸いである」[黙14:13]。だから、その幸いさに満足しようではないか。しかし、一部の善良な人々の思いの中には死への恐れがあり、彼らは必ずしもそれを振るい落とせるとは限らない。だが、愛する方々。その中には何もないのである。もしあなたがキリストにある者だとしたら、あなたは死ぬことについて全く何も知ることはないであろう。私は、キリスト者たちが死において何かを感じるとは信じない。たといそこに苦痛があるとしても、――そして、しばしば苦痛はそこにあるが、――それらは死の苦痛ではなく、生の苦痛である。死は、彼らの一切の苦痛を終わらせる。彼らは、地上でその目を閉じて、天国でそれを開く。この定命のからだという煩わしい土くれを振るい落としており、自分が一瞬のうちに、《いと高き方》の御座の前で、肉体から離脱したものとなっていることを見いだす。そこで、復活の喇叭が鳴り響く時まで待つことになるのである。その後で、彼らは自分のからだをもう一度着ることであろう。自分たちの主のからだと同じように変えられ、栄化されたからだを。愛する方々。死へのそうした恐れを取り除くがいい。というのも、それがキリスト者の中にあるのはふさわしくないからである。信仰者の心は、復活でありいのちであられる主イエス・キリストに堅く据えられているために、生きるにしても死ぬにしても、あるいは、主が来られるまで待つにしても、主のみこころのままに自らをその《天の御父》にゆだねているのである。

 II. 私が第二に注目したいのは、このことである。《ある種の恐れは、私たちがあえてそれを問いただそうとすれば即座に死んでしまう》

 あなたは、この聖句が1つの問いであることに着目しただろうか? 「あなたは、何者なのか。……あなたは…… 一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか?」 私の愛する方々。あなたは自分の数々の恐れを問いただしたことがあるだろうか? 私は、あなたのことを云っているのである。向こう側にいる落胆嬢、また、心配氏よ。あなたは、自分の恐れを問いただしたことがあるだろうか? もしないとしたら、今それを試問するがいい。矢継ぎ早に尋問するがいい。かりに、しいたげる者を恐れているのが神の《教会》だとしたら、《教会》はこう尋ねるがいい。教会が恐れなくてはならないような、しいたげる者がどこにいるのか? それは教理的な過誤だろうか? よろしい。《教会》は、かつてアリウス主義によって蹂躙され、あたかも異端者たちがキリストの《神性》という教理を殺してしまったかのように見えた。だが、主はご自分の豪胆なしもべアタナシオスを引き起こしてくださり、じきにアリウス主義は総崩れにさせられてしまった。キリストの《教会》は、自らくぐり抜けてきた一切の争闘の傷跡をほとんど感じていない。教会を破滅させようと脅かしたものは、決して教会を本当に傷つけたことはない。むしろ、教会はその炉から一段と純粋なものとなって出て来た。迫害について云えば、それは概して、聖徒たちが迫害されればされるほど生き生きと成長すること、また、殉教者たちの血が《教会》の種子であることを証明してこなかっただろうか? かりに再び殉教者の時代がやって来るとしよう。かりに再び異端の時代がやって来るとしよう。よろしい。《教会》は以前もそういう時代があった。だが、それらを越えて生き延びてきた。この壮大な老船は、今まで幾多の暴風雨や嵐をくぐり抜けてきたが、円材1つ失ったことはなく、帆布にかぎ裂き1つ作ったことはない。ならば、なぜいま教会が恐れることがあろうか?

 さらに、また問うがいい。「そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか?」 すると、この答えがやって来る。それは神の支配下にある、と。あなたの最強の敵サタンでさえ、そうである。――神が彼を創造したのであり、神が彼を支配しておられる。神はお望みのままのことを彼に対して行なうことがおできになる。それから、あなたが恐れているその貧困について云えば、それは神がお許しにならない限りやって来ない。そして、それが本当にやって来るとしても、主はそれを緩和することがおできになる。あなたは、自分の最愛の子を失うのではないかと恐れている。だが、あなたがその子を失うとしたら、それは主がその子をお取りになるのである。あなたは、自分の特別の友人がすぐにも取り去られるのでないかと恐れて心配している。だが、その人が取り去られるとしたら、主がその人を取り去られるに違いない。何をあなたは恐れているのか? あなた自身の死をか? この善良な老ジョン・ライランドの詩句を歌うことを学ぶがいい。――

   「疫病(えやみ)や死すら わがそば駆けん、
    みむねの時まで、われ死せざらん。
    一本(ひともと)の矢軸(や)も 当たるあたわじ、
    愛の御神が よしと見ざらば」。

 さらにまた主はこうお問いになる。「そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか?」 あたかも、それがすぐになくなってしまい、それを探しても無駄になるかのようにである。ある人はあなたをしいたげている。よろしい。彼は死ぬことになる。すぐにそうなるかもしれない。今あなたを心配させている悩みは、一瞬のうちに消え去るであろう。この人生に関する限り、すぐにではなくとも、それでも、あなたが天国に行き着くときには(そして、そのときはまもなくやって来るであろう)、あなたの試練はいかに短い間に過ぎ去ってしまったと思われることか! 「今の時の軽い患難は」、と使徒は云う。「私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」[IIコリ4:16]。あなたは、自分の悩みについて心配し、そのことで絶えず気を揉んでいる。だが、この聖句はあなたにこう問うているように思われる。「それがどこにあるのか?」 それは流星であって、天空を閃き駆けては、なくなってしまう。あなたの種々の苦難に、このような問いを投げかけてみるがいい。そうすれば、それらはすぐに消え失せるであろう。

 あなたに、もういくつか問いを発したい。あなたは、自分を脅かしている1つの大きな苦難を恐れている。よろしい。それは、あなたをキリストの愛から引き離すだろうか? もしあなたがその問いに答えられないとしたら、あなたに代わってパウロに答えてもらおう。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」[ロマ8:38-39]。あなたは、敵たちによって中傷されていると云う。だが、キリストがそうした中傷をお信じになるだろうか? 彼らは、あなたの人格をおとしめようと努めている。だが、あなたの主がその分だけあなたを軽く見るようになられるだろうか? 《主が》彼らの嘘八百によって欺かれるだろうか? あなたは、友人たちから見限られていると云う。だが、彼らがイエスを連れて行き、イエスにあなたを見捨てさせるだろうか?

 あなたは、敵たちが八方手を尽くして自分を破滅させようとしていると云う。だが、彼らに天来の約束の数々を破壊できるだろうか? 主は、ご自分の羊たちに永遠のいのちを与えると約束しておられる。彼らは、その約束をあなたから取り上げたり、無効にしたりできるだろうか? 彼らはあなたに渋面を見せるかもしれないが、あなたを天国から閉め出すことができるだろうか? あなたを脅かすかもしれないが、恵みの契約の効力をなくすことができるだろうか? 永遠の事がらが安全である限り、私たちは他の事がらが神のみこころのままにやって来たり、去って行ったりするにまかせて満足していて良いであろう。

 さらに、誰かが、神のお許しにならないことをあなたに対して行なえるだろうか? そして、もし神がそれをお許しになっているとしたら、何らかの実害があなたに及ぶことがありえるだろうか? 「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」[Iペテ3:13]。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことが働いて益となることを、私たちは知っています」[ロマ8:28 <英欽定訳>]。ならば、あなたが真に主のものであるとしたら、いかにして何かがあなたの害となるように働くことがありえようか? 神が祝福される者たちを、誰かが呪えるだろうか? あなたは、あの愚かな人々のように、魔女の呪いだの、邪悪な者があなたにかける呪文だのを恐れているのだろうか? バラムでさえこう云っているのである。「まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない」[民23:23]。バラクはバラムを呼び出して手助けをさせようとするかもしれない。また、二人は連れ立ってイスラエルを眺め下ろし、彼らを呪いたいと願うかもしれない。だが彼らには、神が祝福された者たちを呪うことはできなかった。もし地獄の悪鬼全員があなたの家を満たし、あなたに危害を加えようとすることがありえたとしても、あなたが恐れたり、おののいたりする必要はない。マルチン・ルターの友人たちが、ヴォルムスに行こうとするルターのことを心配したときに、ルターが恐れおののかなかったのと同じである。むしろ、ルターはこう云った。「たとい家々の屋根瓦と同じほど多くの悪魔たちがいようと、私は神の御名によって、そやつら全員に立ち向かうであろう」、と。そして、あなたも同じことを云って良い。たとい地上がことごとく武装して回りにひしめき、地獄が群がり立ってこの世と手を組み、あなたに立ち向かおうとも、あなたはそれでもこう云うことができる。「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」[詩46:7]。また、《いと高き方》の御名によって彼らを非難し、彼らをことごとく敗走させることができる。あなたとともにおられる方が、あなたに立ち向かう一切の者たちよりも力があるからである。

 III. さて、最後に、キリストにある愛する兄弟姉妹。もしこうした恐れに根拠がないとしたら、また、もし多少の問いでそれらが追い散らされるとしたら、私は打ちひしがれているあなたにこう訴えたい。《あなたを、この隷属の状態から解放してくださるよう神に叫ぶがいい》、と。

 もしあなたの恐れに何のいわれもないとしたら、何でもないことのために自らを苦しめて何になるのか? そして、もし神が実際にあなたとともにおられるとしたら、あなたは、自分の心配や恐れによって、神の誉れを汚していないだろうか? ある幼子が母親の腕に抱かれていながら、そこは安全ではないと絶えず不安にしているとしたら、あなたはその子のことをどう思うだろうか? その子が、母親に寄せている愛ある信頼には何か欠陥があるかのように見えないだろうか?

   「イェスに安けく抱(いだ)かれて」

あなたは、こう云えるであろう。――

   「むしばむ煩労(うれい)免れぬ」。

主は、あなたがおまかせしたものを守ることがおできになる。だから、もしあなたが主を信頼しないとしたら、あなたは実は主の誉れを汚しているのである。軍の司令官は、争闘に向かって行進しつつある自分の兵士たちが蒼白になり、震えているのを見るとき、内心でこう云うであろう。「私の兵どもは、奴らの指揮官の面汚しだ」。では、あれほど良くあなたを防護することのできる《指揮官》を有しているあなたは怖じ気づこうというのだろうか? 神の軍隊の中で臆病の霊が許されて良いだろうか? 私たちの救いの《指揮官》が、びくついた軍隊を率いて、暗闇の諸力との戦いに赴いて良いだろうか? 私は時々こう思うことがあった。今の時世に対する、また、これから自分たちがどうなるかということに対する神の民の恐れについて耳にするとき、確かに彼らは《王》が私たちの真中にいること、私たちを取り巻く火の城壁となっていること、私たちの中の栄光となっておられること[ゼカ2:5]を知らないのだ。もし神が私たちの《防護者》また《守護者》であることを知っていさえしたら、彼らが今のように打ちひしがれていることはありえないだろうからだ、と。

 それに、あなたがた、心配の霊に捕われている人たちは、しばしば他のキリスト者たちを悲しませている。世には、他にもあなたと似たような者たちがおり、その人たちはあなたと接触することによって、ずっと悪くなって行く。あなたの愚痴は、罠となる。時折、私が出会うキリスト者たちは、自分をみじめにするような説教を聞くことを好んでいる。少し前に私が受け取った手紙にはこう書いてあった。差出人は、この場にやって来て、信徒たちがいかにも朗らかそうな様子をしているのを見るや否や、自分は試練を受けている神の民の間にいないことが確実だと感じたという。それで、彼はここを出て、ほんの十五人か十六人しかいない小さな場所に行った。そして、心の腐敗に関する善良な、深い経験に裏打ちされた説教を聞いて、居心地良く感じたという。私としては、次のような聖句を好んでいる。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」[ピリ4:4]。私たちには、たくさんの苦難や試練がある。そして、もし私たちがそれらについて心配したければ、いつでもそうしていられるであろう。だが、そのとき、私たちには苦難にはるかにまさる喜びがある。だから、私たちの賛歌は、私たちの吐息をしのぐのである。私たちには良い神がおられ、この方がこう約束しておられるのである。私たちの力は、私たちの生きるかぎり続く、と[申33:25参照]。

   「などて王子(みこ)らが
    嘆きの生涯(ひ)過ごさん?」

「あゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、この世は、獣のほえる荒地[申32:10]なのです」、と。しかり。もしあなたが、その中で吠えるなら、それは吠え返すであろう。だが、もしあなたが歌うなら、それも歌うであろう。この古代の約束を思い出すがいい。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる」[イザ35:1]。

   「ならば、わが歌 あふれさせ、
    いかな涙も かわかさん。
    インマヌエルの 地を行軍(ゆ)きて、
    高き美(うま)し世へ 向かうれば」。

 そして、さらにまた、あなたはこう思わないだろうか? 鈍重で、しょげた、愚痴ばかりの霊は、未回心の人々にとって大きな妨げである、と。もし彼らがそのような状態にあるあなたを見いだすとしたら、彼らは云うであろう。「この人の宗教は、大してこの人の役に立っていないね」。この世の子らはしばしば、キリスト者たちほどこの世でみじめにしている人々はいないと云う。それは彼らの大間違いだと私は思うし、彼らは本当には私たちのことを知っていないのだと思う。というのも、もし彼らが私たちの中の誰かのことを知っていたとしたら、彼らは私たちが、自分を抑鬱しかねない数多くの事がらにもかかわらず、朗らかな精神をしていることに気づくだろうからである。あなたがた、キリスト者たちの中の誰ひとりとして、この世の子らに、キリストがひどい主人だなどと云わせてはならない。私は、骨と皮ばかりの馬を乗り回したいとは思わない。この馬は主人から麦をたくさんもらっていないようだ、と噂されるだろうからである。私は、自分の家の中に、年中その手をもみしぼり、涙をためてばかりの目をした召使いをかかえていたいとは思わない。訪問客は云うであろう。「あの子の女主人は口やかましい女ですよ、そうに決まっていますとも」、と。そして、もし信仰を告白するキリスト者たちが常に悲惨で、不幸な状態にあるように見受けられるとしたら、人々は確実にこう云うであろう。「あゝ、彼らが仕えているのはひどい主人だ! キリストの道は苦しい道であり、その通り道はみなみじめさと悲惨さなのだ」、と。罪人よ。それは真実ではない。むしろ、真実はこうである。「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために」[詩97:11]。そして、私たちが熱心に願うのは、あなたがやって来て、その真実さを自分で証明することである。イエスを信じるとき、あなたは完璧な平安を、また、何物も打ち滅ぼせない至福を得るであろう。地上では小さな天国を得て、天上では大いなる天国を得るであろう。あなたは、自分の種々の苦難をあなたの神のもとに持って行き、そこに置いてくることができるであろう。そして、あなたは喜びの歌を歌いながら行進して行くであろう。永遠の楽しみがある、かのほむべき場所に至るまで。

 願わくは神があなたを祝福し給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。

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不必要な恐れ[了]

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