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適切な合言葉

NO. 3097

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1908年6月18日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「主よ。お助けください」。――詩12:1 <英欽定訳>


 これは、ダビデの祈りであった。それがささげられたのは、特定の状況下においてである。彼は、幾度となく不実な裏切りを味わってきた。ケイラの町をペリシテ人から救い出せば、その場所から逃亡せざるをえなかった。さもなければ、ケイラの人々が彼を敵のサウルに引き渡していたであろう。ジフの荒野に行けば、たちまちジフの人々がサウルのもとに走り、彼を裏切った。祭司アヒメレクからいくばくかの助けを受ければ、居合わせたドエグが、すぐさま王に通報に走った。その放浪状態にあるダビデに対しては、誰もが裏切り行為をするかのように思われた。それゆえ、彼は、何の信頼も置くことのできない人間たちから全く目を引き離し、こう叫んだのである。「主よ。お助けください」。

 今からしばらくの時を費やして、まず第一に、この祈りそのものに多少の注釈を加えよう。それから、それが用いられて良い時について、二、三の示唆を示すことにしよう。そして、しめくくりに、その答えを期待すべき、ある程度の励ましを述べよう。

 I. 第一に、《この祈りそのもの》についてである。

 すぐさま与えられる印象は、その短さである。「主よ。お助けください」。たった二言でしかない。しかも、その一方は、祈りそのものというより、その祈りの向かう先である。これは短さの極みである。「主よ。お助けください」。しかしながら、そうしたすべてにもかかわらず、この祈りは、その内容の充実ぶりと、汲めども尽きせぬ示唆の豊かさとにおいて、決して短すぎるものではないと云える。私たちの祈りが短いとしても、それは欠陥にはならない。また、私たちの公の嘆願、特に祈祷会におけるそれにおいては、短くすることは目指すべき美徳だと思う。ジェイ氏が自分の説教に関して云うところ、それをいくつかの点で卓越したものにするには、非常な苦労が伴うことを彼は知っていたという。「だが」、と彼は云った。「私にも達せられる1つの美質があることは分かっていた。短さである。それゆえ、私は説教をあまりにも長すぎないようにした」。実際、祈りは説教にすらまさって霊的な勤めであるため、長引かされてはならない。注目に値することは、――あなたが覚えているとしたらだが、――ヨシュアの腕は彼がアマレク人と戦っている間重くなることはなかったが、モーセの手は彼が丘に登って祈っている間に重くなったということである[出17:12]。それは、祈りが戦うことよりも霊的な勤めだからであり、その結果、霊が私たちのより弱い部分である以上、そこでは、ずっと早めに弱さを感じるのである。ならば、自分の祈りを良い形で祈ってから、さらにもう一度それを祈ることはしないようにしよう。むしろ、神の御前にふさわしい言葉数の少なさによって自分の願いを云い表わしたら、自分の嘆願を閉じ、次を誰か他の兄弟に引き取らせよう。これが短い祈りである。

 あなたは見てとらないだろうか? 愛する方々。あなたがたの中で、「私は時間がないので祈っていないのです」、と云っている人々は、大きな虚言のそしりを免れないということが。時間の欠けなどではありえない。「主よ。お助けください」。何と、このような祈りをささげるには一秒そこらで済む。それは時間の欠けではない。心の欠けであり、意欲の欠けである。人々が祈ることについて語るのを聞いていると、まるで毎朝毎晩、一時間かけなくては祈れないかのようである。その時間を得られれば非常な祝福であることは認めよう。確かに清教徒たちのように、毎朝、静思の時のために一時間を確保し、晩にも同じようにできれば良いとは思う。だが、これは絶対に必要なことではない。あなたがた、労働者たちはこう云ってはならない。「私たちは時間がなくて祈れません」、と。何と、仕事の中であれ、行き来する最中であれ、もし神があなたに祈りの心を与えておられるとしたら、あなたは自分の魂を神へと掲げ上げているであろう。祈りの小銭を身につけるのは良いことだと思う。この祈りは、私たちの小銭にたとえたい。一部の立派な人々について云われてきたのは、彼らが、人中で語ることができないということである。彼らは、立ち上がって、用意してきた講話を語るときには、非常に大きく徳を建て上げるように語れたが、一般の人前ではいかなる人の徳を建て上げることもできなかった。ある人に云わせると、そうした人々は、黄金を持ってはいても、それがみな金塊なのであった。貨幣に鋳造されてはいなかった。彼らは、それを社会で流通するような形にすることができなかった。よろしい。さて、私たちは祈りの金塊を持っていなくてはならない。必要とあれば集中して何時間も神と格闘するためである。だが、天に向かって1つの思想を矢のように射る祈り――御座をちらりと一瞥し、涙に濡れた言葉を置くこと――という、鋳造された貨幣の小銭を持っていることもまた良い。短くはあるが、この祈りを身につけるよう、私はあなたに勧める。そして、これを今晩も、明日も、一生の間、用いることである。「主よ。お助けください」。

 非常に短いということに加えて、これは非常に時宜にかなっていた。時宜にかなった祈りをするのは良いことである。というのも、最もうまく行く祈りとは、危急の折から発する祈りだからである。それは、さながら順風のように、魂を御座へと追いやる。単なる人間的な作文から出た定形的な祈りの最悪のものは、吊しで売られている既製服に酷似していると思う。それは、あらゆる人に似合うように作られているが、めったに誰にも似合うことがない。定型的な祈りは、事の性質上、時宜を得ないものとならざるをえない。最上の祈りとは、私の現在の状況のために適合させられ、私の現在の感情によって強められ、私の現在の信仰によって熱望させられ、それ以外のしかたでは叫べないような言葉遣いで私に叫ばせ、それ以外には申し立てられないような約束を申し立てさせるものである。私は、他の何も願うことができず、今している以外のいかなる様式でも求めることができない。それが時宜にかなった祈りである。見ての通り、ダビデは裏切られ、欺かれてきた。へつらいの唇と、欺きに満ちた心[詩12:2]に出会ってきた。自分の時代のあらゆる人が廉直からそれて行くことに気づいた。それで彼は、ただちに、こうした、あらゆる点で水漏れしている壊れた水ためから目を離し、かの偉大な《泉》――その冷たい流れから水を飲むことができる泉――に向かって叫んだのである。「『主よ。お助けください!』 人々は私の助けになりません。被造物に関する限り、私は八方塞がりです。今こそあなたの出番です。おゝ、恵み深い《お方》よ! 人の弱々しい腕が折れている以上、あなたの《全能者》御腕を差し伸ばしてください。『主よ。お助けください!』 お助けください。お願いします!」

 この祈りの何と明確なことか! 多くの多くの祈りは、人の耳には聞こえても、云い表わされた後では、何が求められていたのか、とんと分からない。もし誰かがあなたに、「あの兄弟は何を祈り求めていたのですか?」、と尋ねるとしたら、あなたは考え込んで、こう云うであろう。「実はよく分かりません。彼は、『主よ。私たちを祝福してください!』、とは云いましたが、具体的にどんな祝福を願っていたのか、見当がつきませんでした」。私たちの愛する兄弟たちの多くは、その経験を物語ることによって、また、恵みの諸教理のちょっとした解き明かしによって、私たちの徳を高めてくれる。それ以外の形でも、非常に徳を高める、しかるべきあり方をしている。だが、それらは、祈りとしては非常に場違いである。主はあなたの経験をご存知である。恵みの諸教理をご存知である。そうした事がらについて、あなたから知らせてもらう必要はない。だが、この祈りは要を得ている。「主よ。お助けください」。この人は自分が欲するものを知っており、それを願い求めている。その人が願い求めているのは富でも、健康でも、長命でもない。助けを求めているのである。その人は、必死の努力を要する重量挙げに直面しており、自分の荷を持ち上げることができない。それで叫ぶのである。「主よ。お助けください」、と。それは一言だが、その一言はすぐさま直接に要点を突く。要を得た祈りを祈ることができるのは、何というあわれみであろう! ダビデは云った。「朝明けに、私は私の祈りをあなたに向けます」[詩5:3 <英欽定訳>]。さて、一部の学者たちによると、そのヘブル語はこうだという。「私は私の祈りを整列させます」。「軍曹が、これから教練しようとする兵士たちを一列に並ばせ、整列させるように、また、最高司令官が彼らを大部隊に編成するように、そして、その他のいくつもの場合にそうであるように、私も、私の数々の願い事をしかるべき順序にし、それをあわれみの蓋の前で大部隊として整列するであろう。そのようにして、私は示すであろう。自分が、ぞんざいな精神から出た、粗雑で、未消化な思念を口にしているのでも、厳粛な言葉を軽率に舌に上せているのでもないことを。むしろ、私に考えを巡らさせ、にもかかわらず私を種々の感情で満たし、目的と願いをもって私の魂からやって来ること、また、私自身、その目的と願いが何であるか分かっていることを神に対して語っているのだということを」。おゝ、堅く立って、種々の嘆願を方向づけるようにしようではないか。――短く、だが、時宜にかなった、直接的な嘆願を!

 このことについては、別のことも云うべきである。――それは、正しい狙いがつけられていた。詩篇作者は明らかに、真っ直ぐ神を見つめていた。彼は、「主よ。お助けください」、と云う。迂回して行くような祈りではない。こう叫ぶのではない。「聖人たちよ。お助けください。私のためにとりなしてください! ほむべき《処女》よ。私のために嘆願してください!」 それは、「主よ。お助けください」、である。御座へと彼は直進する。種々の第二原因や人間的な助けの戸を叩くことは決してしない。「一直線にまさる走り方はない」。彼は自分の神のもとへと一途に走って行く。どこかに摂理的な助けはないか、自分のために友人が起こされはしないか、何らかのしかたで救い出されはしないか、などとあちこち探して回ったりしない。むしろ、こうである。「主よ。私は他の一切のことをあなたにゆだねます。ただ、あなたご自身がやって来て、私のわざをお引き受けになってください。重くのしかかってくる所に、あなたの御腕を差し込んでください。この車輪にあなたの肩をおかけください。これは私の力を越えており、私はあらゆる被造物から全く目を離し、あなたに向かいます。『主よ。お助けください』」。これは、狙いどころの良い祈りである。彼は、自分がどなたに対して語っているか知っていた。愛と真実、力と知恵とに満ちた《お方》にである。そして、それで彼はたちまち云うのである。「主よ。お助けください」、と。

 また、やはり間違いなく気づかされるのは、この祈りがその中に弱さの告白を含んでいるということである。人が、助けを叫び求めるしたら、――少なくとも、ダビデのような心をした人が助けを叫び求めるとしたら、――そこにはその必要があるのである。ダビデは力を尽くして苦闘してきたが、自分の力がこの任に堪えないことに気づいている。彼は、あらゆる所を見回して助けを探してきたが、何の助けも見いださない。そこで、自分自身が全く無であり、むなしい者であることを感じながら、すぐさま神に目を向ける。祈りが悔い改めという油に浸されているとき、それが必要の感覚漬けになっているとき、それは良いことである。いかなる祈りにもまして効果的に神に訴える祈りは、むなし手をもって御座の前にやって来る祈りである。もしあなたがたが自分の水差しの中身を満たしたままやって来るとしたら、空っぽになった水差しを持って帰るであろう。だが、もし自分の水差しを空っぽにしてやって来るとしたら、一杯に満ちた水差しを持って帰るであろう。「主は……権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました」[ルカ1:52-53]。主よ。私を助けて、常にむなし手の乞食として、あなたのあわれみの御座へと来させてください。私が両手一杯に満ちた、喜ぶ聖徒として御前を去ることができるように!

 だがしかし、弱さの告白とともに、ここには、奮励努力しようとする決意もあると思う。「お助けください」、という言葉そのものに、彼がただじっと何もしないつもりでいるのでないことが暗示されている。私たち自身の個人的な救いの件においては、あらゆる働きは、私たちに代わって主イエス・キリストによってなされる。「完了した」[ヨハ19:30]。だが、キリスト者としての奉仕や、キリスト者としての労苦という件においては、私たちに代わって事がなされはしない。私たちは、内側に新しいいのちを持つ者として、「恐れおののいて」[ピリ2:12]自分自身の救いを達成することが期待されている。私たちを救ってくださった《お方》が私たちに期待しておられるのは、私たちが巡礼としてこの競走を走り、戦士としてこの戦いを戦い、農夫として畑を耕し、神とともなる労働者として城壁を築き、ありとあらゆる一般的なしかたで神のために働くことである。さて、もし私が、「主よ。お助けください!」、と叫ぶとしたら、それは私が奮励努力するつもりであることを意味する。あなたが、どっかとあぐらをかいて、「主よ。お助けください」、と云ったきり、働きを求めて出かけて行かずにいる権利は何もない。主はあなたを助けてくださるであろう。――しかり。あなたを助けて、監獄か救貧院へ連れ込まれるであろう。だが、他のいかなる種類の助けもあなたは得ないであろう。あなたにからみつく罪があるとき、あなたには、腕組みをしたまま、こう云っている権利は全くない。「よろしい。私は、主が私を助けてこれに打ち勝たせてくださることを希望します」、と。主はあなたを助けてださるであろう。だが、この古い格言を思い出すがいい。それは真実だからである。「神は、自ら助くる者を助く」。主があなたに、あなたの剣で罪を打つよう教えておられるとき、主もやはり打ってくださるであろう。主はあなたとともに働かれる。あなたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なってくださる。決して私たちのうちに働いて、私たちの肉的な傾向に従って眠り込ませ、まどろませるのではなく、私たちのうちに働き、「みこころのままに……志を立てさせ、事を行なわせてくださる」[ピリ2:13]のである。私たちは、行ないによる救いを差し出しはしない。だが、救いによる行ないは差し出す。私たちは、行ないが人を救えないことは承知している。――だが、救われている人が良い行ないを生み出すことも承知しているのである。ならば、私が、「主よ。お助けください! 主よ。お助けください!」、と祈るとき、そこでは、こう暗示されているのである。もしこれが、神への奉仕において私に何かが行なえる場合だとしたら、私は、神が与えておられる力を活発に行使し、その上で神にまかせてより頼みましょう、と。

 II. よろしい。さて、《この祈りを用いるための、いくつかの心得》である。「主よ。お助けください」。

 いくつかの品物は、それに添付されている札書きによると、いかなる気候でも長持ちし、いかなる時にも役に立つという。同じことが本日の祈りについても云えると思う。この祈りは両刃の剣である。これは、一千もの異なる用途に用いることのできる品である。これは、最も重宝する祈りである。何にでも効く。あらゆる場合、あらゆる時に用いてかまわない。その1つか2つを取り上げてみよう。

 現世の種々の状況により、あなたは困難に巻き込まれることがある。愛する方々。思うに、あなたがたの中の多くの人々は、摂理に関してしばしば苦難に陥る。あなたは働き、あらゆる人々の目から見て正直なしかたで、生活の糧を得ようとする。しかし、誰も壊滅的な不幸の予測は立てられない。時として職が失われ、別の折には他の人々の悪事によって、そこそこの境遇から窮乏へと引き落とされるであろう。時として病があなたを襲い、あなたは体が不自由になるかもしれない。一千ものしかたで、あなたは、自分が摂理的な問題において助けを必要としていると感じさせられることがありえる。さて、愛する方々。あなたは今日、友人を探して町中をとぼとぼ歩いてきたかもしれない。何通もの手紙を書き、あらゆるつてを頼って訪問し、あなたの地上的な希望の最果て近くまで行き着いてしまっているかもしれない。私は、あなたがこの聖所を去る前に、この祈りをささげてみるよう提案したい。「主よ。お助けください」。これを用いるがいい。充当するがいい。あなたの信仰とあなたの感情に応じて、これを展開してみるがいい。例えば、このようにである。――「主よ。お助けください。あなたは、あなたのしもべエリヤを烏たちによって養われました。また、あのやもめの一握りの粉、つぼの油を尽きさせませんでした。『主よ。お助けください』。私は奇蹟を期待しませんが、奇蹟が私にもたらすだろうものと同じ助けを期待します。そして、それが通常の摂理の運行においてやって来るのを期待します。たといあなたが天から御手を差し伸べて私を救ってくださらないとしても、そのときには、何らかの通常の手段で私お助けください。しかし、あなたが計らってくださらなければ、手に入らなかったはずの通常の手段でお助けください。『主よ。お助けください』」。これは実に驚嘆すべきことであり、私たちの人生のほとんどが証明していることだが、急場における主は何といつくしみ深くあられることであろう。あなたが、「もはや、私については何もかもおしまいだ」、と云ったまさにそのとき、それこそ主があなたを救出しに姿を現わされるときである。あなたの希望が、墓の中のラザロと同じく、単に死んだばかりか、それ以下のものであったとき、――というのも、マルタはこう云ったからである。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」[ヨハ11:39]。――そのときでさえ、キリストが姿をお現わしになると、あなたの一切の状況と、あなたの一切の慰めには復活があり、あなたは再び喜べるようにされたのである。

 あなたがたの中のある人々は、聖書を学んでいる。あなたの困難は金銭上のものではない。あなたは日々、この尊い《書》の頁をめくり、それを理解したいと願っている。だが、いくつかの困惑させられることに悩まされている。この中には、理解するのが困難なことがあり、あなたははっきりとした明確な真理に達し、真の知識を知りたいと欲している。あなたに提案させてほしい。愛する兄弟。熱意をこめて注意深く聖書を学んできたとき、また、善良で恵みに満ちた、また神によって教えられてきた人々の意見や判断を追求してきたときには、そうしたすべてにこの祈りをつけ足すことを決して忘れてはならない。「主よ。お助けください。主よ。お助けください」。祈りによって聖書から得られるものは、他に何によって得られるものよりも多い。ある清教徒が、他の人と教理上の問題について議論したとき、彼は非常に流暢に、かつ力強く語るのが見られたという。自分の相手が語るときには、彼は覚え書きを取る姿が見られた。そこで、ある人がその覚え書きを見せてほしいと頼んだところ、そこには何と書かれていたと思うだろうか? それは、ただ、このような言葉だけであったという。「もっと光を、主よ! もっと光を、主よ! もっと光を、主よ!」 それこそ、覚え書きを取る最上のしかたである。より多くの光を求める叫びである! 突如、火打ち石のように硬く思われたその聖句は、あなたがこう祈ったときに、聖霊の指の一触れで大きく開くであろう。「主よ。お助けください」。

 この祈りは、内なる争闘に携わっている人々に適している。聞くところ、一部のキリスト者たちは、内なる争闘があることを信じないという。兄弟よ。気をつけるがいい。さもないと、あなたは、他のいかなる人々にもまして、それを立証せざるをえなくなるかもしれない。私がきょう耳にして思い起こさせられたのは、私たちのある折の経験が、別の折の経験といかに異なっているか、ということである。愛する主のしもべであったのは、善良なハリントン・エヴァンズ氏である。――彼は、ことによると、まさに説教者の鑑であったかもしれず、キリストについて非常に甘やかに語った人である。だが、ひとりの兄弟がきょう、私に告げてくれたところ、彼はエヴァンズ氏がこう云うのを聞いたのを覚えているという。自分は、キリスト者がこう祈るのをひどく好まない。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]。彼は云った。「私は、それを好みません。聖徒は赦されているのです。確かに罪は犯すでしょうが、それでも徹底的に赦されているのです。ですが、この祈り、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』、には、一種、鎖がガチャガチャいう音がしています」、と。「ですが」、と私にその話をしてくれた人は云った。「私の思い違いでない限り、エヴァンズ氏の墓碑にはこの言葉が記されていたのですよ。『神よ。かくなる罪人のわれをあわれみ給え』、と」。つまり彼は、かつては鎖がガチャガチャいう音だと思ったものを、結局において、この上もなく尊く慰めに満ちた祈りとみなすようになっていたのである。そして、私たちの兄弟たちのある人々も、時には尊大になって、「私は、罪の告白などしません」、と云うことがある。それは残念なことである。兄弟よ。あなたは自分の背中に当てる樺の枝鞭を作りつつあるのである。そして、請け合っても良いが、じきにそれを受けることであろう。神の子どもにとって何にもまして安全で、何にもまして聖書的で、何にもまして真実な立場とは、最初の時と同じく、なおもイエスにしがみつき、なおも罪のために嘆き、罪人としてのあなたのためになされた贖罪を喜ぶ立場にほかならない。告白せざるをえないが、私は普通、罪人としてキリストのもとに行くときに得られるほどの慰めを、聖徒として近づくときには得ることができない。私の数々の証拠はしばしば、いざという時に役に立たず、そうしたとき私は、一切の証拠を求めることをあきらめて、一目散に、何の証拠もなしに、もう一度、罪人の《救い主》としてのキリストのもとに走り行き、清新な喜びと平安を信じる中に見いだすのである。願わくは私たちがそのような心持ちの中に保たれるように!

 あなたがたの中のいかに多くの人々が、今晩、争闘の影響を受けていることか! あなたは善と悪のどちらに軍配が上がるか見当もつかない。内側には争闘と戦闘が繰り広げられつつある。さながら、取っ組み合いの戦いが行なわれているかのようである。あなたの心の土壌は、敵軍の駆けめぐる馬蹄によって引き裂かれている。あなたは思う。「私は結局、滅びてしまうのだ」、と。そうした戦いの時にある兄弟たち。姉妹たち。ここに、あなたのための祈りがある。「主よ。お助けください。主よ。お助けください」。この生まれたばかりの赤子をして、古い人に勝利させてください! 生きた火花が、その炎を生かし続けられるようにお助けください。今や大水がそれに対抗して注ぎ出されているのですから! かの竜[黙12:4]に男の子を呑み込ませないでください! 「主よ。お助けください」。お助けください! 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:24]。主よ。私をお助けください。そうすれば、私はこう歌うでしょう。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」[ロマ7:25]、と。

 この祈りは、あなたがたの中でも、まさにいま自分の苦しみによって神に誉れを帰したいと願っている人々に適していないだろうか? あなたは最近、病に陥っている。ほとんど寝たきりになってしまっている。そして、自分がやがて忍耐を失うことになるのではないかと心配している。私は、年老いた人々が時としてこのような恐れに悩まされることを知っている。もし自分が虚弱なまま長生きするとしたら、気難しく、怒りっぽくなってしまうのではないかという恐れである。疑いもなく、それは老齢の悪徳である。よろしい。そのような危機にあるとき、愛する方々。老いていようと、若くあろうと、この祈りはあなたに適したものであろう。「『主よ。お助けください。主よ。お助けください』。私の痛みが増し加わるとしたら、私をお助けください!」 これは、火刑柱に縛られて死に行く聖徒たちの祈りである。いかにしばしば、この祈りが彼らの唇から飛び出してきたことか! 炎が彼らに躍り上がろうとしていたとき、彼らは祈ってきた。「『主よ。お助けください』。私が焼かれるのをお助けください! 私を助けて忠実であらせてください。私の《主人》に背を向けるようなことがないようにしてください! 『主よ。お助けください』。いま私は、被造物に耐えうる以上の苦しみに耐えなくてはなりません。主よ。私をお支えください!」

 この祈りが、それに劣らず当てはまるのは、あなたがたの中の、苦しんではいないが、働きつつある人々である。私たちの中のほとんどの者らは、キリストのために働いているものと私は思いたい。では、なぜ私たちは、この「主よ。お助けください」という祈りなしに自分の働きに出かけるようなことをすべきだろうか? そして、私たちがその働きの渦中にあるときも、成功を収めることを期待したければ、この「主よ。お助けください」という願いがなおも立ち上らなくてはならない。そして、その働きをなし終えたとき、一日をしめくくる甘やかなな夕べの祈りは、こうである。「『主よ。お助けください』。私の働きを立たせてください。『主よ。お助けください』」。私は、この祈りをあなたに与える。教会内の私の兄弟たち、長老たち、青年たち、監督たち、そして執事たち。あなたがた、この群れの若い者らを教えている兄弟姉妹たち。あなたがた、教会内の各学級で労苦している人たち。あなたがた、街路で伝道している人たち。あるいは、みことばを宣べ伝えながら各地を行き巡っている人たち。今から後は、これをあなたの祈りとするがいい。「『主よ。お助けください』。私たちを助けて福音を、忠実に、また、完全に宣言させてください。そして、魂をあなたのもとに導く手段とならせてください」。

 実際、私には、この祈りが適していない所があるかどうか見当がつかない。そこにいるメアリーは、母親の屋根の下を離れ、今まさに新しい勤め口へと向かおうとしている。そして、彼女はこう考えている。「今の私には、ご主人様がどんなお方か分かりません。でも、私はキリスト者です。ですから、召使いとして、キリスト教がどのようなものか示したいと思います」。メアリー。私はあなたがそのような願いをいだいていることを嬉しく思う。さて、その新しい勤めに就く前に、こう祈るがいい。「『主よ。お助けください』。お助けください! 私はこれまで、決してしかるべきあり方ばかりしてきたわけではありません。必ずしも、私の主なる《主人》に誉れを帰していませんでした。ですが、今あなたが私を助けて、神なる私たちの《救い主》の教えを、あらゆる点で飾らせてください」。また、そこにいる愛する兄弟は、ことによると、とても若く、まさに新しい労働の場に入ったばかりかもしれない。それは、彼にとって新しい労働である。彼は心をこめて行なっているが、まだ完全には理解できていない。そして、彼は神の栄光を現わすようなしかたで、それを行ないたいと望んでいる。よろしい。ならば、兄弟よ。家を出るまえに必ずこう云うようにするがいい。「主よ。お助けください。お助けください。主よ。そして私を支えてください!」

 そして、この祈りは、ローマカトリック教がこの国の全土に舞い戻りつつある今の時勢において、私たちが一丸となって、取り上げなくてはならないものであると思う。「この危険な時代には、にせ預言者たち、魔術師たちがはびこって、人々をそのけばけばしい儀式や、絢爛な見世物で罠にかけようとしています。私たちは抗議し、みことばを宣べ伝えます。ですが、助けてください。ルターの神よ! 私たちを助けて、この竜に致命的な打撃を加えさせてください! 助けてください。カルヴァンの神よ! 私たちを助けて、福音の旗をもう一度広げさせてください! ツヴィングリの神よ。私たちを助けて、試練の日に堅く立たせてください! 『主よ。お助けください』。英国をローマ教皇に再び踏みにじられる運命から救うことができるのは、ただあなたの右の御腕しかありません。来てください。そして、あなたの聖徒たちを、この彼らの試練の日に救い出してください。『主よ。お助けください。聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました』」。

 III. 《答えを期待させる励まし》として、ここで、二言三言しめくくりの言葉をあなたに語らせてほしい。

 「主よ。お助けください」。私たちは、主が未来にそうしてくださると期待して良い。なぜなら、過去にそうしてくださったからである。あなたは、自分の回心の時を覚えている。

   「我れ、かの日より 多くの時日(とき)経て
    あまた変化(うつろい) 目の当たりにせり。
    されど今まで 支えられなん。
    かく我れ保つは 主ならずや」。

あなたは今まで多くの助けを得てきた。愛する方々。あなたが自伝を書くことになった場合、もし天来の摂理が行なったあらゆる介入を思い起こせるとしたら、また、それを書き記せるとしたら、それは異様な物語となるであろう。時々、私は自分についてそのように思う。それでも、そうなるかどうかは確信が持てない。というのも、私たちの物語は非常に良く似通ったものとなると思うからである。私たちはみな、神のいつくしみと恵みとについて告げることになるに違いない。「私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます」[詩65:5]。私たちは、自らのうちに死刑宣告のような審きを受けていたが、死人の中からのいのちのような救出を受けてきた。数滴の苦いよもぎはあったが、大量の乳と蜜があった。私たちの魂は、ここにエベン・エゼル[Iサム7:12]を立ててきた。また、ヨルダンの岸辺にもう1つ立てることを期待する。そして、終わりまで、こう歌うのである。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」[詩23:6]。私は悪魔があなたに何と云うか知っている。彼はあなたにこう告げている。今やお前は常ならぬ立場に着いている。それで、確かに以前は神もお前を助けただろうが、これは新しい試練なのだ。道なき荒野なのだ、と。よろしい。ならば、「主のあわれみは朝ごとに新しい」*[哀3:23]。新しい苦境では、新しいあわれみを受けるであろう。私たちの神は、「きのうもきょうも、いつまでも」[ヘブ13:8]同じであられる。だが、そのあわれみの各段階は、私たちの悲嘆の段階と同じくらい数多い。神はこれまであなたを助けて来られた。ならば神のもとに行くがいい。そうすれば、神は再びあなたを助けてくださるであろう。

 このことを考えて自分の慰藉とし慰めとするがいい。契約の神としての神が、真摯なキリスト者としてのあなたと有しておられる関係によって、必然的に神はあなたを助けないわけにはいかない。あなたには子どもがある。その子が首まで沼地にはまっていて、今にも生きながら泥に呑み込まれそうになっている。だが、その子は、「お父さん、お父さん、助けて!」、と叫んでいる。さて、残忍な心をした、どこかの通りがかりの人間なら、その叫びに頓着しないかもしれない。だが、あなたはその子の父親なのである。その子の叫びに抵抗することはできない。「何と! 私の子どもを助けないだと?」 何と! この場にいるあらゆる人は、助けようと思えば助けられるはずのわが子を滅びるままにしておくことができるなどと思われたら、自分の人間性を侮辱されたものと感じるはずである。しかり。あなたは愛の翼に載ってでもいるかのように飛んで行って、わが子を助けるであろう。もし私たちが、悪い者ではあっても[マタ7:11]、自分の子どもたちを助けようとするとすれば、なおのこと、天におられる私たちの御父は、どうして私たちを助けてくださらないことがあろう!

 さらに、神は別の関係によっても私たちと結び合わされている。「あなたの夫はあなたを造った者」[イザ54:5]。この場にいる既婚男性の誰でも、自分の妻が窮地にあって自分を正面から見つめて、こう云っていると想像してほしい。「あなた。大変な事になったの。心が張り裂けそうなの。私を助けて」。彼女が二度頼む必要などあるだろうか? 私たちの中のある者らは、この言葉をすでに学んでいる。「夫たちよ。……自分の妻を愛しなさい」[エペ5:25]。そうした者たちの妻は、二度と頼む必要があるまい。そして、確かに神は最高の夫であられる。もしも私たちの心が、自分の魂とキリストとの間の結婚の絆を感じることができさえするなら、キリストが、私たちの涙と私たちの叫びに応えてくださらないのではないかと恐れる必要などない。キリストは仰せになるであろう。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」[イザ41:10]。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」[イザ43:2]。この考えを詳しく述べても良いが、あなたは自分で思い巡らせるであろう。神は、その関係によって必然的に私たちを助けざるをえないのである。

 神のあらゆる態度がここには関わっている。なぜなら、それらはご自分の民を助けると誓わされているからである。かりに神が彼らを助けなかったとしよう。そのとき敵は、神にはそれができないのだと云うであろう。それは、神の御力に対する非難となるであろう。あるいは、仇は、神にはそうする気がないのだと云うであろう。それは、神の愛に汚名を着せるであろう。そして、神の数々の約束を考えると、それは神の誠実さに傷をつけるであろう。神ご自身が私たちを今の私たちの状況に導き入れたのであり、もし神が私たちをここから救い出さないとしたら、それは神の知恵に傷をつけ、敵は云うであろう。神は、自分でも操縦不能な所に船を向けたのだ、と。しかし、そのようなことは決してありえない。だから、神を信頼し、恐れずにいるがいい。あなたのいのちは安泰である。神は、その子どもたちを最後まで保ってくださる。

 しかし、愛する方々。神は私たちを助けてくださる。私たちには、神が与えておられる約束がある。これを聖書の中に注目することは非常に美しいことである。1つの祈りがある章の中にあるとき、次の章には1つの約束がある。それはまさに、その祈りに対応するものである。その約束は活字であって、その祈りは非常にしばしばその活字から刷られた複製であるとも云えよう。これを聞くがいい。「主よ。お助けください」。続いて、これを聞くがいい。「わたしがあなたを助ける」[イザ41:13]。あなたは、このような約束があるのを知っていよう。「わたしがあなたを助ける」。あなたは、「主よ。お助けください」、と云い、神は、「わたしがあなたを助ける」、と云われる。キリスト者よ。あなたはあなたの神を信じるだろうか? 「わたしがあなたを助ける」。あなたは神を信じるだろうか? あなたは、あえて神を疑うことなどすまい。よろしい。ならば、頭を上げて、その涙を拭うがいい。その重い心をもう一度持ち上げるがいい。あなたのその鈍い心に歌い出させるがいい。あなたは助けを求めた。また、神は助けを与えると約束しておられる。事はなっている。帰って行くがいい。あなたの神を喜び、いかに神がこう云っておられるか思い出すがいい。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」[詩37:4]。

 こうしたすべてを私はキリスト者たちに向かって語ってきた。だが、もし私たちに時間があったなら、この祈りを罪人の唇からも云わせる余地や機会がふんだんにあるであろう。多くの点で、これは罪人に適している。「主よ。お助けください」。私には罪の重荷があります。それを私から取り去ってください。「主よ。お助けください」。私には、かたくなで強情な心があります。それを溶かしてください。「主よ。お助けください」。私は盲目です。足なえです。病気です。ここで、あわれみの門に横たわっています。「主よ。お助けください」。おゝ、罪人よ。もしあなたが、魂の底からこのように祈るなら、また、それをイエス・キリストの血によってささげるなら、あなたは助けを得るに違いない。私は切に願う。今晩、寝床に行く前に、また、まどろみの中であなたの目を閉じる前に、ぜひとも心からこの祈りをささげてほしい。「主よ。お助けください。主よ。お助けください」。そして、答えをいただくまで、毎朝この祈りとともに起床し、毎晩この祈りとともに床に就くがいい。そして、その答えを得たときには、なおもこれを別の姿、別の形にして祈り続け、嘆願し続けるがいい。死の時においてさえ、あなたはなおもこう嘆願して良い。「主よ。お助けください」、と。かのヨルダン川が増水してあなたの顎まで来るときも、なおもこう云って良い。「主よ。お助けください」。かの御座に達するまで。また、私はほとんどこう云うところであった。そこにおいてすら、人はこう云って良い、と。「今や、主よ。私が欲する助けは、もはや、あなたを賛美するための助けだけです。おゝ、私を助けて、あなたを賞揚させ、あなたをほめたたえさせてください! 私により多くの熾天使の火と、御使いの舌をお与えください。私を助けて、メシヤの御名への賛歌を歌わせ、その恵みの光輝を代々限りなく賛美させてください」。では、あなたを、この祈りとともに残して行こう。「主よ。お助けください」。願わくは主があなたを助け給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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適切な合言葉[了]

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