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知ることと行なうこと

NO. 3092

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1908年5月14日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年5月17日、主日夜の説教


「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。――IIコリ8:9


 今回に限り、前置きをなしにして、私たちの主題に直行して良いであろう。この聖句が語っているのは、第一に、私たちが知っているあることである。そのことについて、しばし思い巡らした後で語りたいのは、私たちの知っているこのことゆえに、私たちが当然なすべきいくつかの事がらである。

 I. まず第一に、私があなたに語りたいのは、《あなたが知っているあること》についてである。

 聞くところ、人々は自分がすでに知っていることを何度も何度も告げられることを好むという。もしあなたが彼らに、彼らが知らないことを告げると、彼らはあなたに耳を傾けるかもしれないし、傾けないかもしれない。だが、彼らの知っていることを告げると、確実に興味をいだくであろう。もし私が、地方出の友人たちのひとりか二人の郷里の町について告げるとしたら、そして、その町の目抜き通りでつい先頃起こったことに言及するとしたら、確かにその人は、目が私に釘付けとなり、耳を澄まして私の言葉を聞くに違いない。「あゝ!」、とその人は云うであろう。「私はその町を良く知っています。土曜日の午後には、そこにいたばかりです」。よろしい。さて、私が今から語ろうとしているのは、あらゆるキリスト者たちが非常に慣れ親しんでいることであるため、私はそれを彼らが確実に知っていることとして言及して良いであろう。彼らが何を知っていようがいまいが、私はこの場にいるに全員にこう云って語りかけることができよう。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています」、と。愛する信仰者たち。あなたは、このことを知らなかったとしたら、キリストを信ずる信仰者にはなれなかったであろう。この知識を得なかったとしたら、信仰を持てなかったであろう。あなたが、今あなたの魂が全くより頼んでいるイエス・キリストを知らなかったとしたら、あなたが回心することは不可能だったであろう。あなたがこのことを知っていることは、あなたの信仰告白そのものの本質的部分であり、それゆえ、私たちは、あなたがそれを知っているものとみなしたい。あなたが他の何を知らなくとも、――そして私は、いくつかの教理はまだあなたが理解するには高すぎるか深すぎるだろうと思うし、ある種の経験にあなたはまだ達しておらず、いくつかの恵みをまだあなたは意識的に享受していないと思うが、――あなたは確かに「私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。

 あなたはまず、「主は富んでおられた」ことを知っている。私たちの信ずるところ、主は無限に富んでいたし、永遠に富んでおられた。というのも、主は「まことの神よりのまことの神」[ニカイア信条]であられたし、何者も富にかけては、無窮の富を有する神とはくらべものにならないからである。神は、そのみこころのままに天と地を創造することがおできになかった。また、キリストについて私たちは明確に、「万物は御子にあって造られた」[コロ1:16]、と告げられている。「主は」その本質的な《神性》において「富んでおられた」し、ご自分が造られた聖なる存在たちのささげる敬意において富んでおられた。ほむべき霊たちの大軍が主をあがめていた。主権と力が、主のみこころに沿うことを自らの最高の栄誉とみなしていた。天国が天国であるのは、主がそこにおられるからである。「万物は御子にあって成り立っています」[コロ1:17]。それゆえ、万物は主の栄光を反映させているのである。私たちは、イエスを単なる人間であると考える人々にはくみしない。神はほむべきかな。私たちは、それほど馬鹿ではない。私たちは、人々の中の最上の者にさえ、自分の救いをかけたりしない。しかしキリストは神であられる。主は、「神のあり方を捨てることができないとは考え」[ピリ2:6]なかった。主は確かに幸福において富んでおられた。主が御父のふところにまだ宿っておられた間、一度でも苦痛に刺されたり、1つでも思い煩いをいだいたことがあったとは考えられない。主は聖であるのと同じくらい幸福であったに違いない。私たちは「主は富んでおられた」と云うが、それは結局貧弱な表現である。というのも、人間の言語はいかに主が富んでおられたかを全く表現できないからである。主は、富んでいる以上であられた。偉大である以上であられた。《神》であられた。――その言葉が意味しうる一切のものであられた。私たちはそれを知っている。それに何の異論もない。というのも、「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。『キリストは肉において現われ……た』」[Iテモ3:16]からである。

 愛する方々。私たちがやはり知っているのは、主が富んでいたのに、「貧しくなられ」たということである。私は単にあなたが完全に熟知していることを告げているにすぎないが、こう思い出すことであなたの精神を再び元気づけるがいい。キリストは貧しくなられたあまり、他のどの幼子とも同じように布でくるまれた。主は《無限者》であられたのに、貧しさのあまり馬小屋に泊まらなくてはならなかった。宿屋には主のいる場所がなかったからである[ルカ2:7]。後になると、主は貧しさのあまりご自分の国から追放されて、エジプトに難を逃れなくてはならなかった[マタ2:13-15]。主は、貧しさのあまり、ナザレのつましい大工の仲間としてふさわしい者となられた。貧しさのあまり、公生涯に入ったときに、その衣服は一般の労働者の衣で、上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった[ヨハ19:23]。狐には穴があり、空の鳥には巣があったが、主には枕する所もなかった[マタ8:20]。主は、貧しさのあまり、ご自分の日ごとの糧を、ご自分につき従い、様々な入用を用立てている慈悲深い女たちの慈善に頼っていた。千の丘の家畜らも主のものであったが[詩50:10]、主はスカルの井戸辺に座り、ひとりの貧しい女に、「わたしに水を飲ませてください」[ヨハ4:4]、と仰せになった。しばしば主は、倦み疲れと飢えの意味を知っておられた。そして、主が生きれば生きるほど、主の貧しさは厳しくなっていった。そしてついに、主は最も同情を必要とするときに、友もなく取り残された。――主が法廷の前で糾弾されているとき、とりなす者はひとりもいなかった。その場の全員が主を死罪にしようと決意していた。その後、主は身を覆う襤褸切れ1つなしに、死ぬために連れ出された。そして主は、死んだときには、愛ゆえに主に墓を貸した人に恩義をこうむった。他のどこにもキリストの貧しさのような貧しさはなかった。というのも、それは単に外的なものであるだけでなく、内的なものでもあったからである。主は、私たちの罪を負ってはいたが、あまりにも貧しくなられたために、ご自分の父の御顔の光を失わなくてはならなかった。お持ちだった一切の名声を無にして、嘲りと恥辱の見世物となられた。私たちの恥ずべき罪が主に負わされたからである。向こうの恥ずべき十字架上の主を見るがいい。その多くの傷に注目するがいい。その断末魔の叫びを聞くがいい。そして、あなたがたがその壮大なみじめさの光景を凝視する間、思い出すがいい。主が富んでいたのに、これほど貧しくなられたことを。

 私は、さらにあなたが知っている別のことを思い起こさせなくてはならない。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」。私は、あなたがたひとりひとりが――もしそれが真実であれば――こう云ってほしいと思う。「私のために、私への愛ゆえに、イエス・キリストは天にある御座を離れ、カルバリの十字架上で死んでくださったのだ」、と。できるものなら、この場に他の誰かがいることは忘れ、ただこの真理を自分のものとして噛みしめるがいい。イエス・キリストはあなたを愛して、あたかも他の誰ひとり生きていなかったのと同じくらい、あなたのためにご自分をお捨てになったのである。あなたのためにこそ、ゲツセマネで汗した際に、主のほむべき額からあの血糊の滴は注ぎ出されたのである。あなたのためにこそ、主はあの恥ずべきユダの裏切りの口づけを忍ばれたのである。あなたのためにこそ、主のほむべき両肩はむき出しにされ、残虐なローマの鞭打ちを受けたのである。あなたのためにこそ、主の両手は紐で縛られ、茨を冠された額は兵士たちに殴られ、傷ついた御顔はいやというほど彼らの忌むべきつばきで覆われたのである。あなたのためにこそ、栄光の主が「虫けらで……人間では」[詩22:6]なくなり、「さげすまれ、人々からのけ者にされ」[イザ53:3]たのである。確かにあなたの中にある何物も、それほどの苦しみに値することはありえなかった。それでも、すべてはあなたのため、また、私のためであった。私は、たった今、私自身に向かって話しているかに思えた。そして、喜んで説教をやめ、座り込んで涙したい気がする。キリストがこうしたすべてを私のため身に負ってくださったことを。主がそうしてくださったと私は確信しているからである。しかし、愛する兄弟姉妹。あなたも思い出さないだろうか? あなたのために主が貧しくなられたことを。あなたがたひとりひとりは、想像の中で、十字架の根元に立って云うがいい。「この苦しみはみな私のためなのだ。また、あれほどの愛と優しさに満ちた頬が汚され、傷つけられたのは私のためだったのだ。この聖い両手、また、この残虐に締めつけられた両足は、――主の生き血を流しているこれらは、――私のためにこの聖なる大水を流し出したのだ。このからからに干上がった喉、この十字架の衝撃ゆえにばらばらに外れてしまった手足、――何にもまして、主の魂の深甚な苦悩、『ラマ・サバクタニ』と叫ばせたほど、知られざる苦悶、――これらすべては私のためだったのだ」、と。聖霊なる神に願うがいい。キリストにある愛する兄弟姉妹。これらすべてをあなたの魂に書き記してくださるように、また、「これらはみな私のためだったのだ」、と感じさせてくださるようにと。

 また注意するがいい。キリストがあなたのために貧しくなられたように、それは「あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるため」だったことを。もしあなたが今、自分は富んでいると考えるとしたら、それはあなたの考えを一変させることであろう。あなたは、たった今、泣きたい気分になったと思う。キリストがいかに貧しくなられたかを私が語ったからである。では今は歌いたい気分になるがいい。私はあなたに、いかにあなたが富んでいるかを思い出させるからである。あなたは、あなたに転嫁されたものゆえに富んでいる。というのも、イエスが有されたこと、行なわれたことはみなあなたのものだからである。その比類なき義はあなたのものである。もし信仰者なら、あなたはすでにそれをまとっている。また、そのようにして、美しい白亜麻布の衣を着せられている。それは、いかなるさらし屋[マコ9:3]にもできないほどの白さである。主の贖罪はあなたのものである。主の尊い血はあなたの咎をすべて洗い流したし、あなたは今や雪よりも白くなっており、すべてを見通す《お方》の目の前でもしみのない者である。

 あなたには他の種類の富もある。あなたの内側にある富である。キリストのいのちが、あなたのための主の死のゆえに、あなたの中にある。聖霊は、あなたの中で働いて、神のいのちがあなたの内側にあるようにしておられ、あなたは決して死ぬことがありえない。むしろ、キリストが生きておられるので、あなたも生きるに違いない。あなたは、今晩非常に貧しい服装をしていて、財布の中には硬貨数枚しか入っていないかもしれない。だがロシア全土を治める皇帝も、また、これまで生きていたすべての皇帝たちも、あなたほど富んではいないのである。彼らもまた、あなたが所有しているすべてのものにあずかっていない限りそうである。というのも、「すべては、あなたがたのもの」[Iコリ3:21]であり、誰も「すべてのもの」を越えたものは持てないからである。

   「この世は汝がもの、来たる世もまた。
    地は汝が住まい、天、汝がふるさと」。

星々が瞬き出すとき、できるものなら数えてみるがいい。というのも、天のすべての栄光はあなたのものだからである。また、星々を越えた、果てしない至福の領土がみなあなたのものである。単にきょうか明日だけ、「すべては、あなたがたのもの」なのではなく、むしろ、永遠の代々を貫いてあなたのものなのである。太陽のともしびが燃え尽き、月が血に変わるとき、それでもあなたは、終わりのない神のいのちのように長く生き続け、あなたの神のすべての栄光があなたのものとなる。あなたは今の自分がいかに豊かであるか、また、永遠においていかに豊かになるかを悟ろうとするとき、心そのものが歌うではないだろうか?

 さて、この点に立ち戻るがいい。あなたが豊かになるのは、キリストの貧しさを通してである。あなたがこれほど高められているのは、主があれほど低く引きずり降ろされたからである。あなたが満たされているのは、主が空にされたからである。あなたが生きているのは主が死なれたからである。あなたが自分の数え切れないほどのあわれみを考えるときには、思い出すがいい。その1つたりとも血のしるしをつけていないものはないことを。あなたの持てるすべては、《愛する方》を通してあなたのもとにやって来ているのであり、この方はあなたが富む者となるために自ら貧しくなられたのである。

 これが仕上げの一筆である。使徒は云う。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています」。私はすでに、主が富んでおられたこと、貧しくなられたこと、あなたをご自分の貧しさによって豊かにしておられることを語った。だが、私たちが決して忘れてならない点は、恵みによって主がそうするよう仕向けられたということである。主は、御父に関する限り、いかなる強制も受けずに天からやって来て、私たちを滅びから贖ってくださった。そして、私たちに関する限り、主はやって来て私たちを救うべき何の義理もなかった。あなたは尋ねるだろうか? 「ならば、なぜ主はそうされたのですか?」、と。あゝ、それは、あなたが主に尋ねなくてはならないだろう事がらの1つである。私はただ1つの理由しか知らない。そして、それは、「罪過の中に死んでいたこの私たちをも愛してくださったその大きな愛」[エペ2:4-5 <英欽定訳>]である。この引用句は自然と次の質問を示唆する。「しかし、なぜ主は私たちを愛してくださったのでしょう?」 それも主に尋ねなくてはならない。そして、あなたがその質問を主に尋ねるとき、あなたは主を見上げなくてはならない。そのとき、あなたは見てとるであろう。主が私たちを愛されたのは、主が愛のきわみだからである、と。

 II. あなたがたは主の恵みを知っている、と使徒は云う。私たちに対する主の恵み深さを、また、私たちを祝福しようという主の意欲を、また、いかに主が強制されてではなく全く主ご自身の恵み深さからのみやって来ては、私たちを救おうとしてたくださったかを。私は、この話題について、これ以上は詳しく語ることをせず、《私たちが知っていることゆえになすべきいくつかの事がら》について語ろうと思う。この知識を槌のようにして、何本かの釘を打ち込みたいのである。

 もしあなたが主イエス・キリストの恵みを知っているとしたら、愛する方々。どうなるだろうか? 最初に、当然あなたは主を信頼すべきである。「何と」、とある人は云うであろう。「私はあなたが聖徒たちに向かって説教していると思っていましたのに」。その通りである。「ですが、それは罪人たちに対して与える勧めですよ」。しかり。それは全く正しい。というのも、イエスを信頼して、救われるようになること、それこそ罪人たちが行なうよう命じられていることだからである。しかし、私は同じ勧告を、罪人たちと同じように聖徒たちにも与えたいと思う。私たちは、救われているとしたら、イエスを信頼している。それは分かっている。だが、私たちは、真にしかるべきほどに主を信頼しているだろうか? 主は私たちに、ご自分の愛について、思い描ける限り最も確実な証拠を与えておられる。いかにして私たちは常に主の愛に信頼し、その愛について全き確信を感じ、その愛に全くよりかかり、その愛が完全に自分のものであるとの全き確信のうちに生きていないのだろうか? つまり、こういうことである。あなたは時として《懐疑城》に入ることはないだろうか? あなたがたの中のある人々は、最近、何か金銭上の困難についてやきもきしたことはないだろうか? あなたは先日、何か些細な家庭上の問題に思い悩んだではないだろうか? 確かに、いいかげんに全くあなたの主を信頼して良い頃である。かりにある妻がその夫に向かって、「私はこのことが怖いの、あのことが怖いの」、と云うとしたら、彼は彼女に云うであろう。「しかし、大事な君。君はぼくのことを信頼していないのかい? ぼくは君に、十分にぼくの愛の証しを示してこなかったかい?」 さて、いかなる地上の夫が自分の花嫁に対して示してきた愛の証しにもまさるものをイエスは私たちに対して示してこられた。それは、私たちが主を全く、完全に、絶えず、何があろうと動揺することなく信頼するためである。私たちに何が起ころうと、「イエスのもとに 忍び行く」ことは私たちの習慣となるべきである。――決して一瞬も重荷をかかえこまず、それを主の足元に持って行くこと、決して思い煩わず、決して苛立たず、決して信頼をなくさないことである。むしろ、主が富んでおられたのに、私たちのために貧しくなり、私たちを富ませてくださった以上、最低限私たちに行なえるのは主を信頼することである。そうしないのは主に対する侮辱であると私には思われる。そして、主はこの場にいるご自分の愛する子どもたちひとりひとりにこう囁かれる。「わたしがあなたのためにこれだけのことを行なったからには、わたしにもたれて安らうがいい。その痛む頭をわたしの胸にもたせるがいい。もはや、一千もの気がかりな懸念でそれを悩ませてはならない。むしろ、わたしがあなたを愛していること、あなたのために死んだこと、また、あなたにそうした一切の苦難を乗り切らせることを信じるがいい。それゆえ、そのすべてをわたしにまかせるがいい」。願わくは神があなたを助けて、この最初の教訓を学ばせ、心を尽くして主に信頼させてくださるように!

 次に、「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています」。それゆえ、二番目のこととして、主を愛するがいい。「でも、私は主を愛してますよ」、とある人は云うであろう。そうだろうか? 「ええ」、とあなたは答える。「愛しています」。よろしい。かりに主が今の瞬間にこの場に来られたとして、また、あなたの会衆席の所に来て、ペテロに云われたように、「あなたはわたしを愛しますか?」、と云われたとしたら、あなたは、「はい」、と答えるだろうか? 「ええ」、とあなたは云うであろう。「私はペテロが云ったように云います。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります』[ヨハ21:17]、と」。では、主があなたにこう仰せになったとしたらどうか。「あなたは、きょう、わたしに対するあなたの愛を証明するために何をしてきましたか?」 あなたは何と答えられるだろうか? かりに主がこう仰せになるとしたらどうであろう。「わたしは、この日の行動をあなたの愛の見本とみなすことにしましょう」。あなたは主がそうなさることに異存ないだろうか? もし主が、「わたしは、昨日の行動を取り上げましょう」、と仰るとしたら、残念ながら、この場にいる人々の何人かは、こう云わなくてはならないのではないかと思う。「愛する《主人》よ。決してそのようなことはなさらないでください。私たちは、あなたを愛していると希望しています。ですが、おゝ! 私たちにより多くあなたを愛する恵みをお与えください。というのも、私たちは、今まで生きてきたような生き方を続けることができないからです。聖霊によって、私たちをぜひお助けください。今と違ったしかたで生きられるようにしてください」。キリストにある愛する兄弟姉妹。私は、キリストに対するあなたの愛が単に名ばかりのものではなく、あなたの最も愛する者たちに対する愛と同じくらい現実のものになってほしいと思う。否。母がその子に対して、また、花嫁がその夫に対していだく、最も細やかな愛情をもはるかに越えて、実際の行動に表われるものになってほしいと思う。あなたはそのようにイエスを愛しているだろうか? 何と、キリストがあなたのためにしてくださったことと、あなたがキリストのためにしてきたことをくらべてみるがいい。あなたは、キリストのため何をしてきただろうか? 願わくは私たちが決して自分の母親の愛をたたえることをやめることがないように! 愛しく、ほむべきは、私たちを生んでくれ、他の誰にもできなかったようなしかたで私たちを養い、気遣ったくれた婦人である。だが、もしイエスがやって来て私たちを永遠の死から贖わなかったとしたら、また、私たちの母親の愛すらも越えて大きな愛を私たちに示してくださらなかったとしたら、私たちのこの定命のいのちは、私たちにとって呪いとなっていたことであろう。愛する方々。もしあなたが、あなたの父母への愛があなたの心の中に湧き起こるのを感じるとしたら、――そして、私は確かに、あなたが歴とした人間だとしたらそうなるものと確信しているか゜、――いやましてイエス・キリストへの愛であなたの魂を燃やし、また、満たすがいい。あなたがたの中のある人々には子どもたちがおり、その子たちのためなら、あなたは喜んですべてを犠牲にするであろう。よろしい。私たちは、あなたの妻、あなたの子どもへのあなたの愛を疑いはしない。だが、イエスへのあなたの愛を、そうした愛と同じくらい、また、それにもまさって実際の行動に表われるものとするがいい。ゲツセマネとゴルゴタの記憶にかけて、私はあなたの最上の愛をキリストにささげるよう訴えたい。そして、私は切に願う。主のほむべき御霊があなたを強いて、喜んでそれを主にささげさせてくださることを。

 しかし、いま、愛する方々。私はもう一歩進んでこう云わなくてはならない。もしあなたが、あなたに対する私たちの主イエス・キリストの恵みを知っているとしたら、私は、あなたの愛の証拠として、さらにこのことを要求したい。すなわち、あなたの日ごとの奉仕を主にささげることである。パウロはコリント人たちにこう書いている。マケドニヤの貧しいキリスト者たちは、エルサレムにいる貧しい聖徒たちのために、非常に気前の良い寄付を行なった、と。そして、彼は、コリントにいるずっと金持ちの兄弟たちが、困窮する人々への助けとして応分のものを与えることを望んでいる。彼は、そうすべきであると告げる代わりに、それを彼らに対してこのように云い表わしている。「あなたがたは、知っているはずである。いかに、イエス・キリストが、富んでおられたにもかかわらず、あなたがたのために無償で貧しくなられかたを。それは、あなたがたが富む者となるためであった。さて、主のゆえに、同じ精神で、ユダヤにいる、あなたの困窮している兄弟姉妹のために行動するがいい」。

 この原則が、いかにして私に、また、あなたがたの中のすべての人々に影響を与えるか説明させてほしい。キリストにある私の愛する兄弟姉妹。それはこのことを意味する。――あなたのために死なれたがゆえに、イエスを賛美するがいい。誰かから促されて、イエスに対して従順になるようであってはいけない。自発的な愛は、自発的な愛を受けるに値する。あなたは、義務に追い立てられる必要があってはならないし、それをは義務というよりは喜びとするがいい。イエスが御父に対してこう云われたのと同じようにである。「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします」[詩40:8]。あなたは私たちの主イエス・キリストが行なわれたすべてのことにおける主の恵みを知っている。あなたが行ななくてはならないすべてのことを、同じ自発的な恵み深さをもって行なうがいい。すなわち、それを無理矢理に行なわされる必要などなしに行なうがいい。いかなる蜜よりも甘い蜜は、蜂の巣から勝手に滴ってくる蜜である。そして、いかなる奉仕よりも甘やかな主イエスへの奉仕は、信仰者が自発的に主におささげする奉仕である。

 あなたがイエスのために何を行ないたいか考えてみるがいい。主は、遠い昔に、あなたのために何を行なうことになるかお考えになり、それを考えることは主にとって大きな喜びであった。いま、あなたがイエスのために何ができるか考えるがいい。あなたは、時々、愛する友の誕生日が近づきつつあるとき、自分が何をするか知っていよう。あなたは色々と考えを巡らす。計画を立てる。そして自分に向かって云う。「私は何を贈り物にしようか? どんな手筈にすれば驚かせることができるだろうか?」 私があなたに望むのは、こうしたしかたで、自分が主イエスのためにできることについて考えを巡らすことである。あなたは自宅に、高価な香油の入った石膏のつぼを持っているだろうか? ならば、それをあなたの愛の贈り物として主のもとに持ち出すがいい。確かにあなたはキリストに半端物をささげたりしないではないだろうか。「まさか」、とあなたは云うであろう。「私は主に自分の持てる最上のものをおさささげします。私がただ望むのは、それがその一千倍も良いものであることです」、と。イエスがあなたのために貧しくなられたとき、それは主がお持ちのすべてを主に失わせた。では今、あなたにとって損失となる何かを主のために行なうがいい。というのも、主は十分にそれを受けるにしかるべきお方だからである。おゝ、私たちのほむべき《救い主》よ。私たちはあなたに口づけや、涙や、口先だけをささげようとは思いません。そうです。私たちは自分を切り詰めます。自分を否定します。計画を立て、骨折り仕事をします。そして、あなたにおささげます。私たちの心の深奥にある情緒、私たちの精神の最上の思想、そして、私たちのからだの最も厳しい労苦を費やす何かを! 私たちが十分に持っているすべての中から、私たちはそのえり抜きのもの、最上のものをあなたのために選びます。私たちの愛する主なる《主人》よ。

 見ての通り、私はほとんど、このほむべき奉仕へとあなたを急き立て始める寸前まで来ているが、それは私が意図していることではない。私が目指しているのは、それとは全く正反対のことである。主イエスは、ご自分の民が、彼らを促す教役者など全くなしに――社会からの回状など何もなしに――あるいは、彼らの半ギニーを求めて玄関で呼ばわる徴集人などなしに――ご自分のために何ができるか考えている姿を見るのをお喜びになると信じる。あなたは、これこれの教会に属しているからといって、キリストのために何かをしなくてはならないのだと想像してはならない。確かに、そのような必要はあるが、あなたはこの問題を、それとは全く違った形にすべきである。「私は、私のために貧しくなられたあのお方のために何かを行なう特権を得ても良いだろうか? そして、もしなすべきことの中で、他の奉仕よりも卑しいもの――他の奉仕よりも目立たず、認められることなく、名誉にならないもの――が何があるとしたら、それが私の持ち場ではないだろうか?」 キリストを真に愛する者たちは、喜んでその御足を洗い、それを自分の髪の毛で拭うであろう。主のみかしらに油を注ぐ、より高い働きをむやみに欲しがらず、むしろ、御足に油を注ぐことを許されるだけで満足するであろう。イエスのためのことなら何でも、これが私たちの座右の銘でなくてはならない。私たちは、主が私たちのため、いかに無償で貧しくなられたか知っている。私たちも、まさにそれと同じように無償のまま、自分を生ける供え物として神にささげようではないか。それこそ、私たちの霊的な礼拝である[ロマ12:1]。

 私は、この1つのことをつけ加えなくてはならない。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。では、行って、あなたにできる限り、主にならうがいい。もしあなたが、誰か困窮している人を見たなら、情け深くするがいい。キリストが情け深くあられたからである。もしあなたが罪人に出会うなら、パリサイ人がしかねないように、相手に背を向けてはならない。むしろ、あなたにできるすべてのことでその人を助けてやるがいい。というのも、キリストは、ご自分にできるすべてのことであなたをお助けになったからである。たとい、その魂をキリストへと獲得するため多大な苦労を払わなくてはならないとしても、喜んでその苦労を払うがいい。なぜなら、キリストはあなたを救うためにあれほど多くの苦労を払われたからである。ひとりの善良な兄弟が、先日私に、ある男の子についてこう云った。すなわち、残念ながら、私たちは決してその子に多くのことを行なえないのではないかと思う、なぜなら、あの子は根っこそのものが非常に腐っていますから、と。私は云った。「あなたもそれと同じですよ」。「あゝ!」、と彼は答えた。「私はそうした意味で云ったのでは全然ありませんよ」。「そうでしょうな」、と私は云った。「ですが、私はそういう意味で云ったのですよ」。アダムの息子、あるいは、娘である人は、根本が腐敗している。そして、私たちがみなその源泉から出て来た以上、私たちはみな腐っている。誰についても決してこう云ってはならない。「あの人は、私がどうこうするには悪い人すぎます」、と。最悪の者を最初に選ぶこと、これこそキリスト教の真骨頂であり、私たちはいかなる人をも、決して相手が死ぬまで、全く絶望的とみなすべきではない。その人のからだに息がある限り、地獄の悪鬼全員がその人の中にいるとしても、主イエス・キリストの中には、彼らの全軍勢を逃げ去らせるだけの力がある。そして、私たちは主の御名によってそうした悪鬼たちを攻撃すべきである。イエス・キリストは私たちを救ってくださった。他の罪人たちの救いも可能であるに違いない。

 キリストにある兄弟姉妹。私があなたに願うのは、どこにいようと、キリストについて他の人々に告げることである。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています」。だが、他の人々はそれを知らない。あなたがそれを知らされたのは、それを他の人々に知らせることができるようになるためである。私たちは、また1つの安息日の終わりに近づいている。それで、キリストのものであると告白しているあなたを吟味するために、1つか2つ質問を発させてほしい。あなたは、きょうイエス・キリストについて話をしただろうか? きょう、誰かとその魂についての話をしただろうか? 「先生。私は聖書学級にいて、みことばを学んでいました」。それは正しい。だが、あなたはきょう、誰かとその魂について真剣に取っ組み合ったことがあっただろうか? 私の信ずるところ、それこそ、公の宣教活動を実行できないあらゆる人にとって、魂をかちとる最上の方法である。また、教役者たちにとってさえ、最上の方法である。神が本当に私たちをかき立てて人々をつかませるとき、私たちはすぐに彼らが救われるのを見るはずである。私は、自分にできる限り直接心に突き入れるような話をしようと努めている。だが、私はこう自覚している。すなわち、自分の同胞たちをつかんで、彼らに個人的に語りかける人、彼らの危険について彼らに告げ、イエスを信頼するよう彼らに懇願する人こそ、確実に彼らに対して祝福となる人である、と。あなたはそれをしてきただろうか! あなたがたの中のある人々には子どもたちがいる。あなたはその子たちひとりひとりとともに祈ったことがあるだろうか? 「おゝ、ありますとも」、とあなたは答える。私はあなたがそう云えることを嬉しく思う。愛する兄弟。だが、残念ながら、ある人々はそう云えないのではないかと思う。ことによると、あなたには全く不敬虔なしもべ仲間がいるかもしれない。あなたは、優しく愛情込めて、相手の魂について話し合ったことがあるだろうか?

 私たちが他の人々の魂をないがしろにするのは、私たちが、しかるべきほどには、キリストのことを――富んでおられたのに、私たちのため貧しくなられたキリストのことを――悟っていないからである。もし私たちかこのことを本当に、知ってしかるべきほどに知っているとしたら、私たちはキリストゆえに他の人々を気遣い始めるはずである。本日の聖句を書いたパウロは、何と奇妙な男だったことか! その回心の後で、彼は自分にできる限り世界中を行き巡ってはイエス・キリストを宣べ伝えた。人々は彼を石打ちにし、投獄した。だが、獄から出されるや否や、彼は再び宣べ伝えている。彼は手首を鎖でつながれ、囚人としてローマに送られたが、機会がありさえすれぱ宣べ伝え続けた。なぜ彼がそうしたか分かるだろうか? 私の信ずるところ、それは、ある日、彼がダマスコへ向けて馬を打たせていたとき、非常に異常なことが彼に起こったからである。イエス・キリストが天から彼に語りかけ、彼は地面に落ちた。起き上がったとき、彼の全存在はあまりにもねじ曲げられていたため、それ以上非常に奇妙なものとなってしまった。兄弟よ。私は今晩、あなたが一度もそうしていなかったとしたら、そのような、天から下ってこられるキリストの、鮮明な光景を得てほしいと思う。角のある雄牛の間の飼い葉桶に横たわり、ほぼ三十年の間、無名で過ごし、それから、その短くも素晴らしい公的活動の後で、あなたのもろもろの罪を十字架上でご自分のからだに負われたお方の姿を。私があなたに望むのは、あなたがパウロのようなしかたで主をみなしてほしいし、あなたが生きている限り、決して克服できないだろうようなしかたでねじ曲げられることである。私は、時としてそのようにねじ曲げられるのを感じてきた。思い起こせば、私が最初に主を見た日がそうであった。そのとき私は、まるで自分が何かキリストのため異常なことができるかのように感じた。それは人から、「あの男は、何と狂信的な愚か者だろう!」、と云われかねないことであった。私は、主イエス・キリストを愛していないあらゆる人から狂信的な愚か者と思われたいと思う。そして、兄弟たち。残念ながら私たちは、ひとえにキリストを愛していなさすぎるがために、人々からこれほど結構な扱いを受けているのではなかろうか。私は、自分たちがそうしたねじ曲げを強く感じるあまり、今からは「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは」[Iコリ2:2]、何も知らないようになってほしいと思う。そして人々が私たちについてこう云うようになってほしいと思う。「彼らは何と奇妙な人々であろう! 彼らはキリストのために火だるまになっているかのようだ。主の家を思う熱心が彼らを食い尽くしているかのようだ」、と。私はあなたに、そうした種類の男にこそ、なってほしいと願う。そうした種類の婦人にこそ、なってほしいと思う。そして、もしあなたがすでに、あなたの救いのための熱心で燃え尽くされた、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っているとしたら、あなたもまた、主の栄光への情熱で完全に燃え尽くされるのが、きわめて公正であろう。願わくは私たち全員が、この時からとこしえまでそうであるように!

 もしこの場に、このイエスを――私たちのためにご自分をお捨てになったイエスを――愛していない罪人がいるとしたら、私はパウロが書いたことを云いはすまい。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください」[Iコリ16:22]。すなわち、主が来られるときには呪われよ、とは云うまい。むしろ、こう云おうと思う。罪人よ、覚えておくがいい。もしイエスの恵みがあなたを救わないとしたら、イエスの正義があなたを滅ぼすであろう。そして、もしあなたが主の最初の来臨によって救われないとしたら、主の再臨によって罪に定められるであろう。では、神がそうならないようにしてくださるように。そのあわれみのゆえに! アーメン。

 

知ることと行なうこと[了]



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