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剣と驟雨

NO. 3088

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1908年4月16日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年12月3日、木曜日夜


「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。――万軍の主の御告げ。――牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける」。――ゼカ13:7


 私たちがこの箇所を理解していることは確かである。というのも、私たちの主イエス・キリストがそれをご自分に適用しておられるからである。「あなたがたはみな」、と主は弟子たちに云われた。「つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから」[マコ14:27]。私たちがキリストに言及しているかもしれないと思う旧約聖書の聖句を考察しているとき、常に望ましいのは、新約聖書における聖霊の何らかの宣言か、この場合のように、《主人》ご自身の口から出た何らかの証言によって、それが確定されることである。

 私にとって、この箇所を何にもまさって良く例証していると思われる描写は、かつて私たちの主のしもべたちのひとりから聞いたものである。彼は、天で群雲を集めつつある暴風雨を描写した。暗闇が深まり、やがて雷鳴と稲妻がやって来て、嵐が大地を揺り動かした。彼は目の前に聳え立つ1つの山を見た。その頂は天に向かって高く突き出している。その麓には、山かげに覆われた1つの部落があった。嵐はこの山の上方に集中しているように思われた。それが、この自然力の戦いの中心だった。神のすさまじい砲撃によって、その高い頂は割り砕かれて、粉微塵になるかと思われた。下にある部落は比較的平穏だった。ほんの少し優しい雨粒がそれに落ちかかり、その田畑を肥やしていた。そして、この例話を示した人は云った。「その頂こそ、神のキリストであり、御民の《身代わり》また《保証人》たるイエスである。私たちに代わって立つこのお方の上に、エホバの御怒りという暴風雨は余すところなく炸裂する。それは、あわれみと恵みとの柔らかな雫を、主が苦しんでくださった者らの上に降らせるためなのである」。

 そうした観点からこの聖句を眺めるとき、私たちが見てとるのは、第一に、この暴風雨の雷鳴である。「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。――万軍の主の御告げ。――牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行」く。それから見てとるのは、柔らかく優しい驟雨である。「わたしは、この手を子どもたちに向ける」。そこには、第一には戦争の雰囲気がある。けたたましい機銃音や、大砲の轟音が響いている。それから、安息と喜びの調べが伴う平穏さがある。

 I. まず第一に、《この恐ろしい嵐を眺めよう》

 そして、最初に注意したいのは、それが降りかかった《犠牲者》である。この聖句によると、剣が目を覚まして攻めるべき《お方》は、神によって、「わたしの牧者」、と呼ばれていた。また、さらに、「わたしの仲間の者…… ――万軍の主の御告げ」、と描写されている。それゆえ、私たちに代わって苦しまれたイエスは、牧者の職務を務めていると思われる。主は神によって任命された牧者、羊の世話をするよう神によって派遣されたお方なのである。主イエス・キリストのこの職務について詳しく語ることは、今回の私の目当てではない。ただ、このことだけ、あなたに思い起こさせることにしよう。ヤコブが、ラバンのために羊の番をしていたとき、自分にまかされていた群れ全体に責任を持っていたように、神はご自分の選びの群れを、かの「羊の大牧者」[ヘブ13:20]、イエスの御手に預けられた。それで、主は彼らについて責任を負うお方となっているのである。彼らは、再び数を数える主の御手を通り過ぎるようになり[エレ33:13]、主はその御父にこう仰せになるであろう。「さあ、わたしと、あなたがわたしの手に賜わった羊たちです。わたしは、あなたがわたしに下さったすべてのうち、ただのひとりをも失いませんでした」[ヘブ2:13; ヨハ18:9参照]。ご自分の羊を最後まで守ること、また、彼らを導き、ついには天国の丘の上で横たわらせること、その途中で一頭たりとも失われないようにすること、それがキリストの職務である。愛する方々。キリストとその民との間にあるこの関係に歓喜しようではないか。私たちは、羊がそうありえるのと同じくらい弱く、愚かで、欠けに満ちている。だが、私たちには、私たちを完璧に理解できるひとりの《羊飼い》がおられ、その方が私たちを愛し、私たちの中の最も小さな者をも最後まで保ってくださるのである。

 いま私が詳しく語りたいのは、万軍の主ご自身によって、キリストがいかなるお方と描写されているかである。「わたしの仲間の者」。私たちは決して、私たちの主イエス・キリストの真の人性を否定したいとは思わない。その人性について語るとき、何の間違いも犯さずにいられるとは限らないが、私としては、完全にして厳密な意味での人性を描写せずに終わる間違いの方が、その描写をあまりにも押し進めてしまう間違いよりも、ずっと頻繁に起こっていると思う。イエス・キリストは私たちが感じるように感じたし、私たちが苦しむように苦しんだし、あらゆる点において私たちが誘惑されるように誘惑をお受けになった。主は、そのからだについて人であり、その魂について人であられた。主は私たちと同じように生まれ、幼少期から少年期に成長し、「ますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」[ルカ2:52]。主は、私たちが事を分けて考えるように考えられた。だが、《堕落》が私たちの識別力に与えた邪悪な偏向はお持ちにならなかった。主は私たちが生きるように生きられた。ただ、生来の堕落性ゆえに私たちのもとにやって来ている、悪への傾向をお持ちにならないだけであった。純粋な人性に含まれている、あらゆることにおいて、キリストは私たちと1つであられた。罪は人性の最初の理想形の中に存在していなかったし、キリストの中にも存在していなかった。「キリストには何の罪もありませんでした」*[Iヨハ3:5]。私は切に願う。決してイエス・キリストを高く持ち上げすぎて、主の人性をあなたの人性とは違うものにしてはならない。主をあなたに同情できないようなお方としてはならない。というのも、そうするとき、あなたは主に共感できなくなるからである。そして、次のこととして、あなたは主を愛せなくなるであろう。主を信頼できなくなるであろう。そして、主のもとに来て、主と交わりを持つことができなくなるであろう。愛する方々。信じるがいい。主があらゆる点において、あなたの罪だけは除き、あなたと同じようであられたことを。主には、あなたが持っているような種々の弱さがあった。――罪深い弱さではなかったが関係ない。主はあなたを悩ますのと全く同じような痛みや苦痛を感じたし、あなたの霊を苦しめる抑鬱や意気消沈を受けられた。しかり。私たちの代わりとなられたお方は、一個の人であられた。律法の要求によると、律法を侮辱したのと同じ者が、その恥を雪がなくてはならなかった。そして、実際にそうされた。というのも、マリヤの《子》が身をもって私たちの肩代わりとなってくださったからである。第二のアダム、《人》の真の代表者は、そこに立って、生ける正義に対して、私たちを代表する最初のアダムが背負った負債の完全な支払いを行なわれた。

 しかし、この聖句は、実はキリストの《神格》を明瞭に描写している。「わたしの仲間の者…… ――万軍の主の御告げ。――」。これは、何と驚異的な描写であろう! 人ではあるが、それでも、「わたしの仲間の者…… ――万軍の主の御告げ。――」なのである。「仲間の者」と翻訳された言葉は、同伴者、朋友、秘密を打ち明けられる親友、同等の者を意味する。私は、それ以下の言葉では、その完全な意味を表現できない。キリストは、神の仲間の者であられた。「ことばは神とともにあった」[ヨハ1:1]。「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった」[箴8:30]。キリストは神の朋友であり、御父が絶えず完全な交わりによって話を交わしておられたお方であった。キリストは、神の秘密を打ち明けられる親友であられた。御父が行なわれた一切のことをご覧になっていた。それゆえ、それを私たちに知らせることがおできになった。主はまた、御父と同等であられた。それで私たちは本日の聖句を越えて、主は神と1つであったと云うことさえできる。というのも、主はそう主張して、こう云われたからである。「わたしと父とは一つです」[ヨハ10:30]。人々がいったんキリストの《神性》を疑うや否や、彼らが主の人格をそしるためならどんなことでもしようとするのも全く不思議ではない。私は先日、私たちの《救い主》の誕生について、とてもここで繰り返すべきではないようなことが語られるのを聞いた。だが私はそれを聞いて云った。「しかり。その通りだったに違いありませんな。もしキリストが真に神でなかったとすれば」、と。主の誕生の神秘は、もし主が《いと高き方の御子》でなかったとしたら、声をひそめて語らなくてはならない問題となるに違いない。そして、主の生涯そのものも、(これは主の聖なる御名に対するこの上もない畏敬とともに云うものだが)、もし主が神の御子でなかったとしたら、厚顔無恥な詐欺行為であった。というのも、主はご自分が神の御子だとはっきり主張されたからである。しかし、愛する方々。私たちはキリストが《いと高き方の御子》であること、「まことの神よりのまことの神」[ニカイア信条]であることを確実に知っている。そして、私たちの魂の内側におけるその御力において、主は私たちにとってそのようなお方であられる。主は私たちのために、他のただの人間が決してできなかったことを行なってくださった。そして私たちは、時間と永遠とのための自分の一切の希望を主にかけている。この《お方》こそ、私たちを完全に救うことがおできになるのである[ヘブ7:25]。主は神だからである。主は実際、《永遠者》の「仲間の者」であられ、私はこう考えることを喜んでいる。私たちの身代わりに立ち、私たちに代わって苦しまれたお方は、人ではあっても、ただの人ではなかった。それは、幼子となった《無限者》であった。人となった神であった。それは罪人に成り代わることで、そうでなければありえなかったほどの、無限の価値を贖罪に持たせるためであった。神こそ、私たちのもろもろの罪を、十字架についたご自分のからだで負われたお方であられた。それで使徒は、天来の霊感の下で、エペソ教会の長老たちに向かってこう語ったのである。「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧しなさい」*[使20:28]、と。このような表現は、正当なものでなかったとしたら、このような関連で用いられはしなかったであろう。それで、私もそれを用いることにしよう。私の神こそ、私のためにカルバリで血を流したお方であられた。それは、私が神とともに永遠に生きられるようにするためであった。おゝ、いかなる慰藉がこの真理にはあることであろう。私たちに代わって打たれたお方は、確実きわまりなく人であったのと同じく、まぎれもなく真実に神であられたのである!

 では私はこのようにして、あなたの前で、この嵐の驚くべき《犠牲者》を表わしてきた。

 さて、次に考えたいのは、この方が忍ばれた数々の苦しみである。それらについて、この聖句はこう云う。「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め……よ」。では、剣によってこの方は打たれたのである。キリストの上に何にもまして重く落ちかかった懲らしめの鞭は、罰の剣であった。主は私たちのために懲らしめられた。というのも、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし……た」[イザ53:5]からである。だが、それ以上に、鋭利な、刑罰的な剣は、いのちそのものを要求した。私たちの《救い主》に対して、最も致命的な武器が用いられた。主は単に悲しみのあまり死ぬほどに[マタ26:38]なるだけではなく、現実に死ななくてはならなかった。愛する方々。その剣はきわめて斬れ味の良い鋭利なもので、主の魂そのものにさえ切りつけた。私はこうした偉大な諸真理をごく単純に語っている。というのも、ここには弁舌の精華を披瀝する機会は何もないと思うからである。だが、もし私たちがしかるべき者であったとしたら、私たちはこう思うとき非常に深く感動すべきである。完璧きわまりない人の子が、また、この上もない栄光に富む神の御子が、罪に対する天来の復讐の剣を身に受けられたのである。それが鞘から抜き放たれたのは、このお方に対して用いられるためだったのである。おゝ、エホバの愛する方よ。あなたが血を流さなくてはならなかったのですか? あなたが――万人よりも美しいあなたが[雅5:10]――あなたが――すべてが愛しさそのものであるあなたが[雅5:16]――死のちりの中へと引きずり込まれなくてはならなかったのですか? おゝ、真昼の太陽のような御顔よ。あなたが暗闇の中に覆い隠されなくてはならなかったのですか? おゝ、夕星よりも明るい御目よ。あなたがたがまずは涙の大水で消し去られ、その後、死の真夜中で封印されなくてはならなかったのですか? そうでなくてはならなかった。犯罪者たちのための剣、大逆罪に復讐するための剣、神の御前に罪がある限り長く黙ってはいない剣、――その剣がその鞘から飛び出しては、自らキリストの心臓を鞘にして収まらなくてはならないのである。

   「エホバ、剣(つるぎ)に 覚醒(さ)めよと命(つ)げぬ、
    おゝ、キリストよ、そは汝れを攻めん!
    汝が血は、燃ゆる 刃を消しつ、
    汝が心臓(むね)はその 鞘(さや)となるべし。
    すべては我がため、我が平和(さち)のため。
    いまや剣は 我れには眠れり」。

そして、そのときあなたは注目するであろう。この聖句の言葉遣いそのものが、その苦しみの鋭さを示唆していることに。「剣よ。目を覚ませ」*。あたかも、神の剣がそれ以前には眠っていたかのようである。だが、聖書を読めば分かるように、パロとその軍勢は葦の海で滅ぼされ、アマレクは主の御前から断ち切られ、カナン人たちはその生国から根絶され、セナケリブの大軍は一夜のうちに殺された。そのとき、主の剣は目覚めていなかったのだろうか? しかり。それは、単に、いわば眠っている最中にピクリと動いたようなものでしかなかった。天来の正義という剣は、その鞘の中で身じろぎていたが、神の寛容はそれを押し戻していた。だが今や神は、それに向かって大喝される。「剣よ。目を覚ませ! 今こそ、お前の眠りを終わらせよ。人間の罪は何度となくお前を驚かせてきかが、わたしは、お前に云ってきた。『眠り続けよ。わたしの忍耐が完全に働きを終えなくてはならないのだ。だから待て』、と。だが、今や、お前の鞘から飛び出して来るがいい。剣よ。というのも、お前の《犠牲》がお前の前にいるのだ! この者は人間の罪を一身に背負って出て来ている。この《犠牲》をお前は打つべきである。なぜなら、この者の上に、主はその民すべての咎を負わせたのだから」。それは、私には恐ろしいことと思える。私は、それについて考えたこと、感じたことを表現できない。この神の復讐の剣が、――振り上げられればいついかなる時にも私たちを打って地獄に送り込むであろうこの剣が、――目を覚ますように命じられなくてはならないのである。すなわち、その通常の鋭利さを越えて研ぎすまされた上で切りつけ、切り倒し、叩き切せと命じられなくてはならないのである。そして、キリストがその鋭利な刀身の前にさらされたときに、まさにそのことを行なったのである。主の肉体的な苦しみ、主の精神的な悲嘆、そして主の霊的な苦悶は、いかなる筆舌にも尽くしがたいものである。神の無限の正義がはっきりと覚醒したとき、また、この上もなく厳格に行動したとき、私たちの主がいかなるものに耐えなくてはならなかったかは、ある程度までは推測できるかもしれないが、完全に思い描くことはできない。

 さらにまた注目するがいい。というのも、これがこの云い回しをさらに強めているからだが、この剣を目覚めさせているのは、神ご自身の御声なのである。私には想像できる。ノアの時代に世界が腐敗し、罪に満ちていたときに、神の剣に向かって上がった叫びを。そのとき、人の罪は声高に叫んだであろう。「剣よ。目を覚ませ!」、と。私には理解できる。イスラエル人がエジプトで残虐な奴隷状態にあったとき、彼らの呻きと涙とが、「剣よ。目を覚ませ!」、と云ったことを。私には想像できる。あのカナン人たちの云いようもないほど忌み嫌うべき所業が、「剣よ。目を覚ませ!」、と叫んでいたことを。私には、あなたや私のもろもろの罪すらもが、こう云っているのが聞こえる気がする。「剣よ。目を覚ませ!」、と。それでも神は、そうした古のすさまじい時代においてさえ、その剣が完全きわまりない程度まで目を覚ますことをお許しにはならなかった。また、信仰者たちの場合には、全くそれを許されなかった、というのも、神は、「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない」[詩103:10]からである。しかし、とうとう神はお語りになった。神が、万軍の主が御口を開いてこう云われた。「剣よ。目を覚ませ!」 今やその剣は目覚めなくてはならない。それを呼んだのが神だからである。そして、神ご自身が、天来の正義の剣にご自分の御子を打つようにお命じになるとき、神はその打撃の1つ1つがいかなるものであるかを、私たちにはできないようなしかたでご存知なのである。「しかし、彼を砕いて、痛めることはエホバのみこころであった」*[イザ53:10]。ローマ人による鞭打ちの傷は恐ろしいものであった。だが、御父によって傷つけられることは、はるかに熾烈であった。ユダヤ人も異邦人も、御父ほど主を痛めつけることはできなかった。それこそ、主をこう叫ばせた、最も激烈な苦悶であった。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」[マタ27:46] そのように、神こそはこの剣を目覚めさせたお方であり、神こそはこの《牧者》を全能の力で打ったお方だったのである。それは、もしキリストもまた全能のお方でなかったとしたら、完全にキリストを破滅し去っていたであろう御力であった。私たちの詩人は、こう云ったとき正しかったと思う。キリストは、――

   「受肉(ひと)なる神の 力限(かぎり)を忍びぬ
    十全(また)きちからもて、そをふりしぼりて」。

 さて、この嵐について語る中で、第三に注意したいのは、それが、この《犠牲者》とともにある者たちに及ぼす驚くべき効果である。「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行」く。弟子たちは、《救い主》に苦しみがまさに近づきつつあることに怯えていた。彼らは、主が園で祈っている間でさえ眠気を感じた。そして、主が捕縛されたときには、腰抜けのように逃げた。その何人かは、こっそりと後戻りしては、審きの間にいる主を見にやって来たが、そのひとりなど三度も主を否んだし、彼らの中の誰ひとりとして、主の裁判の際に、主とともに立つ勇気を持ち合わせてはいなかった。私たちは彼らを非難できるかもしれない。だが、彼らのふるまいの中には、――彼らに弁解の余地を与えるものではないにせよ、――少なくとも、私たちがいかに彼らに似ているかを示せる姿がある。彼らは主の苦悶に驚かされ、主の悲嘆に驚愕したのだと思う。主のような《お方》が、あのような嘲りと屈辱をもって扱われ、あのような恥ずべき死に至らされることがありえたということに呆然となったのだと思う。彼らは主を《いと高き方の御子》と信じていた。そして彼らは、いかにして主がそのように苦しまされることがありえるのか理解できなかった。そして私は、罪がイエスに負わされるのを見たとき、告白しなくてはならないが、その悲嘆に驚愕し、呆然とし、圧倒されてしまった。そして思った。もし自分があの弟子たちのように苦悶しつつあるキリストとともにいたとしたら、彼らとともに散り散りになっただろう、と。主の仲間の者であったお方が、私たち、あわれな地上の虫けらに代わって苦しみを忍ばれるなど、私たちの理解の埒外にあった。願わくは私たちが神から恵みを与えられ、たといそのことを聞いて呆然とするとしても、もう一度、主の下に集まり、ひとりひとりが、トマスとともに、「私の主。私の神」[ヨハ20:28]、と云う者となるように。そして、それからは、生においても死においても、何が来ようと、主にすがりつけるように。

 II. 私はこれ以上は何もこの大嵐について述べるまい。というのも、次のことを語る間、もうしばし忍耐強く注意していてほしいと思うからである。それは、《その後で続いた、ほむべきあわれみの驟雨》である。「わたしは、この手を子どもたちに向ける」。

 このあわれみの驟雨はどこに降るだろうか? 「小さい者たちの上に」<英欽定訳> である。この云い回しはどういう意味だろうか? これは、愛情をこめて、いとおしむ名前である。私たち、子どもを持つ者らは、自分の子どもたちについて語るのを愛する。そして、キリストを《長兄》とする家族の父親である神は、私たちをご自分の小さい者たちと呼んで、いかに私たちを愛しているかをお示しになるのである。愛には、その対象を小さい者として語ろうとする傾向がある。あなたも知る通り、私たちは人をいとおしむ小さな言葉をこしらえては、それを自分の愛する者たちに当てはめるものである。そのように、神はご自分の子どもたち――ご自分の民――を、その小さい者たちと呼び、ご自分の御手を小さい者たちの上に向けると仰せになるのである。神にくらべれば、私たちはみないかに小さな者であることか! 私たちは、神と関係して言及される価値すらない。私たちは、小さな蟻たちが、ちっぽけな麦粒を動かそうとして骨を折り、力一杯引っ張っている様子について語る。だが、蟻たちは私たちに向かってこう云うことができよう。「私たちは、あなたとくらべて全然小さくなどありませんよ。あなたが、私たちとあなたの両方を造られた大いなる神と対置されたとき、いかなる者であるかとくらべればね」。神は万物を満たしておられ、その神とくらべるなら、私たちは無よりも小さい。ならば、神がその御手をご自分の小さな者たち、私たちのように取るに足らない無である者の上に向けてくださることを知るのは、いかに甘やかなことであろう。このようにきのう生まれ、きょう生きているかと思うと、明日が来る前にはいなくなる者たちに。単なる花々であって、咲いても、すぐにしおれて枯れてしまう者たちに! おゝ、神よ。いかにあなたはいつくしみ深くも、私たち、これほど小さな者たちについて考えてくださることでしょう!

 それから、さらにまた、主が愛する者らは、彼ら自身のみなすところにおいても小さい。そして、この聖句の約束は小さい者たちに対するものなのである。「わたしは、この手を小さい者たちに向ける」。――その美点において小さい者。しかり、あえて誇れるような何の美点も持たない者。――善であることを行なう、生来の力について小さい者。だが、生来、何の力も持たず、自分がキリストを離れては無力で何の望みもない者と感じている。――あなたは、小さすぎるあまり、恵みの布でくるまれ、力の腕で抱きかかえられ、永遠の愛の胸乳によって養われ、一生の間、神によって育まれ、守られ、保たれ、保護される必要のある小さな者である。というのも、あなたは自分では何もできないからである。よろしい。もしあなたが自分の小ささを感じているとしたら、ここには、まさにあなたのような者のための約束がある。「わたしは、この手を小さい者たちに向ける」。あなたがた、強い者たちは自分で自分の面倒を見るがいい。できるものなら。あなたがた、自分自身の生まれながらの強さを誇っている者たちは、好き勝手な所へ行くがいい。あなたがた、富んで、豊かになった者たちは、自分の持ち物を喜ぶがいい。だが、私の《主人》は、飢えた者を良いもので満ち足らせ[ルカ1:53]、貧しい人を芥から引き上げ、高貴な者とともに座らせてくださる[Iサム2:8]。このようにして、神はその御手を小さい者たちに向けてくださる。そして、幸いなことよ。あなたがた、主のあわれみの的となっている人たちは。

 次に、そのあわれみの《与え主》について考えるがいい。「わたしは、この手を小さい者たちに向ける」。ならば、神ご自身こそ、――この《牧者》を打ったのと同じ万軍の主こそ、――その御手を小さい者たちに向けてくださるお方なのである。愛する方々。この方は打つことに力強かっただろうか? ならば、この方は救うことにも同じくらい力強いのである。神は御子を全能の打撃で打たれただろうか? ならば、神は私たちを全能の愛で祝福してくださるであろう。おゝ、このことについて考えてみるがいい! この《牧者》を打った御手が、今や別の方向を向いており、だが同じ力をこめて、羊たちを祝福するのである。ならば、私たちの受けている恵みは、いかに公正なことであろう! 神の右の御手は剣を振るい、それによってご自分の愛する御子をお打ちになる。だが、御子を打ってから、神はその剣を抜き取られる。そして、同じ無謬の正義の御手が今や契約の賜物の数々を分配するのである。というのも、いかなる神の子どもが受けている祝福も、みな神から正当に――それがあわれみの賜物ではないかのように――やって来るからである。というのも、キリストが私たちのため死なれ、私たちの負債をすべて支払ってくださったとき、私たちがキリストにあって義と認められることは至当なことでしかなくなるからである。主が私たちに成り代わって、完璧な義をささげ、私たちのための贖罪を完成してくださったとき、私たちが「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]るのは、至当なことでしかなかった。いま神の御民に来ているあらゆる賜物は、天来の正義そのものが賛成するようなしかたでやって来ている。否、それ以上に、それが来ないとしたら不正となるものとして来ている。キリストを私たちに代わって打った右の御手は、いま小さい者たちに向けられているのと同じ右の御手である。おゝ、正義とあわれみがこのように恵みの契約において結び合わされているのを見るのは、何とほむべきことであろう! このような状態にあると見いだされるのは、いかに栄誉あることであろう。神ご自身の王たる御手が、今や私たちの防護となっているのである! しかり。主よ。私は、あなたの正義の曲げられない性格を、あなたの愛する御子の死において学びました。そして、主が血を流して死ぬのを見たとき、私の魂はちりの中に砕かれ、私はあなたの峻厳さゆえに恐怖させられました。ですが、今や私は知っています。あなたのような《お方》は、ご自分の御子を打つことにおいて、ご自分の一切の厳格さにおいて正しくあったのと同じように、あなたのような《お方》は、あなたの選民全員に愛の満ちた心遣いを行なうことにおいても正しくあられます。それゆえ、私の霊はあなたにあって歓喜します。神から正義という属性を取り除けば、神の他のあらゆる属性を神の民にとって確実なものとするものを取り去ったことになる。だが、あなたの見ている、無限の正義の神であられる《お方》が、ご自分の御手をあわれみによって私たちに向けてくださる神でもあられることを見てとるとき、この件全体には1つの甘やかさがある。これ以外のしかたでは、私たちに感知できなかっただろうような甘やかさである。

 それで、しめくくりに私が注意したいのは、神の民のもとにやって来るこのあわれみとは何かということである。「わたしは、この手を小さい者たちに向ける」。すなわち、「わたしの同情の手を向ける。以前には、彼らの罪により、わたしは彼らを遠のけていた。だが、今やわたしは、彼らの《牧者》を彼らに代わって打ったので、彼らに近づこう。彼らとともにいるようにしよう。彼らに触れよう。彼らの神となろう。そして、彼らをわたしの民としよう。わたしの手を、同情に満ちた親しみによって彼らに向けよう」。

 「わたしは、この手を彼らに向ける」。すなわち、「わたしの力の手で彼らを守る。何者かが彼らを攻撃しに来ても、わたしがこの手を伸ばして彼らを危険から守ろう。否、それ以上に、わたしは彼らをわたしの手の中に取り上げ、何者にもそこから彼らを奪い去らせないようにする。わたしは、彼らをわたしのひとみのように守る。わたしは、わたしの羽で彼らを覆い、わたしの翼の下に彼らの身を避けさせる。わたしは、この手を小さい者たちに向ける。そのようにして、かつての彼らは守る者がなかったが、わたしの全能の力がありとあらゆる種類の危険から彼らを守るようにする」。

 「わたしは、この恵み豊かな手を小さい者たちに向ける」。神の御手は豊かな手であり、神はご自分の豊かさをその小さい者たちに与えてくださる。そして、彼らの口を良いもので満たしてくださる。神はその御手を開き、生きとし生けるものの必要を満たされる。そのように、確かに神はキリストが《身代わり》として死んでくださった、この小さい者たちをないがしろにはなさらないであろう。

 次に、「わたしは、この恵みのわざを行なう手を小さい者たちに向ける」。あたかも私たちが陶器師のろくろの上にあって、まだ半分しか形作られていない器であるかのようにである。だが神は、その御手を私たちに向けてくださる。すでに神はあることを私たちに対して行なわれた。そして、さらに多くのことを行ない続け、最後には私たちを完璧にしてくださるであろう。すでに、神の選びの民はみな、ある程度までイエス・キリストのかたちにされてはいる。だが、主はその御手で私たちに働きかけ続け、ついには私たちがキリストそっくりになるようにしてくださる。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています」。というのも、絶えず私たちに働きかけ続けている神ご自身の御手が私たちをそうするからである。そして、そのとき、「私たちはキリストのありのままの姿を見る」からである[Iヨハ3:2]。このことを思えば大きな喜びがあるではないだろうか?

 私は、ここでこのことをつけ足すべきだと思う。すなわち、私たちの主がカルバリで打たれた後、ペンテコステの日がやって来て、数千人が《教会》に集められた。そして、その点において神の御手は、小さい者たちに向けられ、彼らを集め入れたのである。そのように私は、神がなおも選びの民を有しておられることで、神の御名をほめたたえる。神は、彼らをその全能の、恵み深い御力の御手によって集め入れようとしておられる。なぜなら、神は彼らの身代わりとしての、また、彼らに成り代わってのキリストを打たれたからである。そして、この場にいるあらゆる罪人に関する私の望みは、この真理に存している。すなわち、イエス・キリストは、ご自分の血で買い取った民を有しておられ、その多くの者らはまだそのことを知らず、彼らの中の無知な者たちは、今なお囲いの外側に伏しているのである。だが、彼らをも主は導き入れてくださり、1つの群れ、ひとりの《牧者》となるであろう[ヨハ10:16]。私たちがあなたがた、まだ回心していない人たちに福音を宣べ伝えるのは、これが理由である。すなわち、神は、罪人の代わりにキリストを打たれたので、その御手を小さい者たちに向けると約束しておられる。そして、私はあなたがそうした者たちのひとりでいることを望んでいるのである。神がその全能の恵みの御手を置いて、導き入れてくださり、永遠にご自分のものとされる人々のひとりであることを。

 おゝ、回心していない人たち。この聖句から学ぶがいい。《救い主》にとって私たちの罪を背負うことがいかに大きな代償であったかを! 主は神の剣によって打たれなくてはならなかった。神のひとり子であっても、他の者らの罪を負ってそうされなくてはならなかった。もしあなたが永久永遠にあなた自身の罪の罰を負わなくてはならないとしたら、あなたはどれほどのものを失うことになるだろうか? それを思って震えおののくがいい。そして、できるものなら、その問いに答えてみるがいい。キリストは、十字架の苦悶を予期する間でさえ、大粒の血の汗を流された。では、もしあなたが、自分自身の罪ゆえに永遠に苦しまなくてはならないことがいかなることかを知ることができたとしたら、あなたもまた、今この瞬間に大粒の血の汗を流すことになるとしても異常ではないであろう。赦されないままで生ける神の手に陥ることは、すさまじいことである。それゆえ、用心するがいい。あなたがた、自分の罪がまだ赦されていない人たち。あなたについては今まで眠っていたあの剣が、その鞘から飛び出して、あなたの心臓を刺し貫くようなことがあってはいけない。もしあなたが悔悟しないままであれば、それは飛び出さざるをえないし、飛び出すであろう。もしキリストがあれほどのことを他の人々のもろもろの罪のために苦しまなくてはならなかったとしたら、いかにあなたは、あなた自身のもろもろの罪の重荷があなたに負わされるとき、苦しむことになるであろう! 見るがいい。罪人たち。あなたのために唯一の平和の道を。それは、あなたに代わって苦しんでおられるイエスによるしかない。神に対するあなたのもろもろの負債を、あなたは決して支払えない。しかり。その百万分の一も支払えない。だが、キリストは、ご自分を信ずるすべての者の負債を支払われた。あなたは、自分のために何の贖いも行なうことができないが、イエスに信頼するすべての者は、その贖いを自分のものとして申し立てることができるのである。おゝ、願わくは神の無限のあわれみがあなたを動かして、まさに今のこの時、キリストに信頼させてくださるように。そして、それがされたとき、あの正義の剣は、あなたに関する限りは、鞘に収められるであろう。また、神はご自分の恵み深い御手をあなたに向けて、今よりとこしえまで祝福してくださるであろう。

 あなたがた、キリストによって救われている人たちについて云えば、自分がキリストにどれほどの恩義をこうむっているか見るがいい。主が苦しまれた呻き1つ1つのゆえに、主を愛するがいい。主がお耐えになった苦痛1つ1つのゆえに、主を愛するがいい。あの鋭い剣が死に至るまで刺し貫いたがゆえに、主を愛するがいい。そして、あなたが主を愛する以上、主のために生きるがいい。また、主を愛する以上、主をほめたたえるがいい。また、主を愛する以上、主の御国が来たるように祈るがいい。また、主を愛する以上、主の命令を守るがいい。また、主を愛する以上、あなたが生きる限り、日ごとにますます主に似た者となるがいい。あなたが行って永遠に主とともにいるようになる時まで。愛する方々。神があなたを祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

 

剣と驟雨[了]



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