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神に導かれる人々

NO. 3078

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1908年2月6日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年3月15日、主日夜


「私はすぐに、人には相談せず」。――ガラ1:16


 パウロの回心は、私たちの聖なるキリスト教信仰が真実であるという証拠の1つである。現世に関する限り、彼は、キリスト者になることによって何も得るものがなく、失うべきあらゆるものがあった。一個の偉大なラビから、貧しい漁師たちの仲間になった。その漁師たちの従っていた《お方》など、彼らよりも貧かった。だが明らかにパウロは狂信者ではなく、一時の衝動に我を忘れるような者では全くなかった。頭脳明晰で、思慮深く、論理的であった。それゆえ、彼の回心は、何かきわめて異常な力によってもたらされたに違いない。そこには、少なくとも彼にとっては、圧倒的な証拠があったに違いない。彼の信じたことが真実であり、彼がその後半生をさささげつくした信仰の形が真実であると示す圧倒的な証拠が。

 キリスト教の真実さについての貴重な証拠を私たちに供するだけでなく、パウロは私たちに、彼自身の人格によって、キリスト教の力を、最も尋常ならざるしかたで実地に示してくれた。いまだかつて彼ほどキリストの霊に全くとらえられていた人はひとりもいない。彼は、びっこを引き引き天国に入る程度の恵みしか持たない、か弱い聖徒ではなかった。むしろ、霊的な運動競技者であった。暗闇の諸力と格闘し[エペ6:12]、自分の前に置かれている競走[ヘブ12:1]を我慢強く走り続けていた。「神ご自身の満ち満ちたさまにまで……満たされ」[エペ3:19]ていた。実際、「主にあって、その大能の力によって強められ」[エペ6:10]ていた。彼は、その生来の熱情をもって、キリストの御国の進展に打ち込んだ。その生来の熱情は、神の御霊によって聖められ、彼を主の勇猛果敢なしもべとしていた。愛する方々。私は、私たちもパウロと同じような者となることを願う。私は、彼の鎖さえ受け入れたいと思わないであろう。彼は、アグリッパ王にこう云ったとき、それを受け入れていた。「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」[使26:29]。しかし、私たちは、自分たちの内側で彼のような人格を完全に発達させることができたとしたら、彼の鎖さえ喜んで身に帯びようとするであろう。

 パウロは、――自分の前に天からキリストが現われ、個人的に語りかけてくださったことによって回心し、過去を深く悔やみ、イエスを全く自分の主なる《救い主》として信じた上で、――バプテスマを受けるや否やすぐさま彼独自の道へと進み出した。人々から何を依頼される必要もなかった。というのも、自分の任務を直接天から受けたからである。それゆえ、「ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」[使9:20]。

 本日の聖句でパウロは云う。「私はすぐに、人には相談せず」、と。彼は、善良な人々とさえ、自分が何をすべきかについて相談しなかった。そうする理由などあったろうか? キリストの御名で署名された任命書を有していた彼が、なぜ自分の任務に人々からの副署を必要としたろうか? 彼は自分の親族にも相談しなかった。彼らが何と云うかは分かりきっていたからである。彼らは、彼のことを無類の馬鹿者だと思ったであろう。立身出世の見込みをことごとく投げ捨てて、迷信という迷信の中でも最も卑しいものと彼らの考えるものに従うというからである。すでに述べたように、彼はキリスト者になることによって一切のものを失い、何も得るものがなかった。だが、彼は喜んでガマリエルの弟子である、議会の一員から、天幕作りで口を糊する者に身を落とし、イエス・キリストの福音を伝える一介の巡回説教者になろうとした。彼は、それなりに安楽で贅沢な境遇から、貧困と厳しい労苦へと身を落とした。――安全と平和から、痛烈な迫害、そしてついには殉教の死へと身を落とした。そして、現世の事がらについては何の得もしないと知りながら、それにもかかわらず、平静に、また熟慮の上で、キリストの奴隷となるべく自らを引き渡した。そのキリストが天から彼に語りかけ、ご自分に仕えるよう彼を召されたのである。

 私が第一にあなたに示したいのは、信仰が行動するために必要な根拠は、神の命令だけだということである。それさえ得られれば、信仰は人と相談する必要がない。第二のこととして、あなたに努めて示したいのは、この原則を実際的に私たち自身に適用すべき範囲である。そして最後にあなたに示そうと思うのは、この原則が壮大なものであって、私たちの最上の判断にとっても好ましいものと思われるということである。

 I. 第一に、《信仰が行動するために必要な根拠は、神の命令だけである》

 信仰者たちには、人と相談する必要がない。私はこの真理の例証として、あらゆる時代の善良な人々に言及することができよう。例えば、ノアがいる。彼は神から、ゴフェルの木の箱舟を造るよう命令された。――彼と、彼の家族、そして、地の上のあらゆる獣、鳥、這うものを何匹かずつ収容できるだけ大きな箱舟である。これほど巨大な箱舟を乾いた地面の上に造るというのは、馬鹿げた考えではなかっただろうか? それでも、ノアは、その頃生きていたいかなる人とも相談しなかった。むしろ、こう書かれている。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった」[創6:22]。

 それから、アブラハムについて考えてみるがいい。彼は、自分の生まれ故郷、自分の父の家を出て、神が示す地へ行くよう、神から命令された。すると、こう書いてある。「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた」[創12:4]。さらに先に進むと、――彼の生涯の中には、あの記憶すべき重大な折があった。彼の子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう、神から命令されたのである。アブラハムはサラと相談しなかった。彼は、母親の情がいかなるものかをあまりにも良く知っていたため、それを引き裂こうとは思わなかった。それに彼女はこう云ったであろう。「いいえ、あなた。そんなことをしてはいけません」。それで彼は彼女に尋ねることなく、朝早く、ろばに鞍をつけ、たきぎを用意し、神がお告げになった場所への三日の旅に出かけた。彼は、イサクとも相談しなかった。このようなしかたで、死ぬことになっていたとしか思えなかったイサクとさえである。そして、イサクが彼に、「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」、と云ったとき、彼の父は意味ありげな答えを返し、ほとんど絞り出すようなしかたでこう云った。――「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」[創22:7-8]。彼は、血を分けた息子とも相談しなかった。さもなければ、父親としての彼の方が信仰者としての彼に打ち勝ってしまっていたであろう。だが、息子をいけにえとしてささげるよう神から命じられていた通りに、彼は刀を鞘から抜き放つと、愛し子イサクを殺そうとした。――これは、人の忠告や承諾を求めなくとも、信仰がいかに大きなことをあえて行なえるかを示す、赫々たる実例である。

 また、思い出すがいい。いかにモーセが、イスラエルを奴隷の家から導き出すようにとの天来の命令に従ったかを。確かに彼は身近な人と相談したりしなかったに違いない。エジプトの富が彼の足元にあったからである。ことによると、パロの王座がまもなく彼によって占められることになっていたかもしれない。だが、彼は、「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と」[ヘブ11:26]みなした。そして、きらびやかな将来を捨てて、蔑まれていた神の民とともに荒野に出て行った。

 ダビデのことも思い出すがいい。彼には、助言を与えようとする者たちが何人もいる中で、自分の敵である暴君サウルが眠り込んでいるかたわらに立ったことが二度もある。二度目の折に、アビシャイはダビデに云った。「どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません」。しかし、ダビデは彼に云った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう」[Iサム26:8-9]。彼はよく知っていたのである。善良な者は、たとい最良の結果が得られるだろうと思っても、悪しき行動を行なうべきではない、と。それで彼は人とは相談せず、ツェルヤの子によって罪に至らされないようにした。また、ダニエルのことも考えるがいい。《王》以外のいかなる者にも祈願をしてはならないという勅令が署名されたとき、彼は、この状況下で自分がどうすべきかを人と協議しただろうか? いかにすれば自分の良心を満足させつつ、命拾いできるかについて、自問自答したり、他の人々と相談したりしただろうか? しなかった。エルサレムに向かって窓が開いている自分の家に帰り、いつものように、そこで日に三度、神に祈っていた[ダニ6:10]。獅子の穴が彼を待ち受けていたが関係ない。やはりまた考えてみるがいい。あの三人の勇敢な青年たち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのことを。ネブカデネザルが、自分の黄金の像を拝まなければ火の燃える炉の中に投げ込むぞと云ったとき、彼らは答えた。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません」[ダニ3:16]。彼らの唯一の必要は、いかなる結果を招こうとも神に命じられたことを行なうことであった。彼らは人と相談せず、自分たちの神の命令に従った。

 これは、あらゆる時代を通じて信仰の規則であった。それが古代ローマ時代の迫害期における殉教者たちの規則であった。彼らは自分たちが円形演技場で殺されかねないことを――「ローマの娯楽(なぐさみ)に 屠殺(ほふ)られ」*1かねないことを――知っていた。だが、そう知りつつも、あえて自分がキリスト者であると告白した。それは、メアリー女王時代における、私たちプロテスタント教徒の父祖たちの栄誉であった。彼らは、キリストのために喜びとともにスミスフィールドに赴いて火刑に処された。そして、その牧師たちのひとりがいみじくも云ったように、「若き者共は出て行き、他の者共の焼かれるを見た。そして、わが身の番が来たときの道を学んだ」。彼らは実際、そこに立つ道を学んだとき、人に相談することはなかった。獣を拝み、自分の額にその刻印を受ける[黙14:9]くらいなら、進んで焼かれて灰になろうとした。この精神は、今なお真の信仰を鼓舞している。神の命令は、信仰にとって十分な根拠である。信仰は人と相談しない。

 やはりあなたに思い起こしてほしいのは、もし私たちが、神の平易な命令を越えた別のものを求めるようなことがあるとしたら、実質的に私たちは、その命令そのものを受けつけていないのだということである。神はあなたにある特定のことを行なうよう告げておられるが、あなたは云う。私はまず自分の助言者や友人たちと相談しなくてはなりません、と。ならば、それはこういうことだろうか?――神に従うべきか否かを、定命の人間があなたに告げるべきである、と。それは、人をあなたの神とし、生けるまことの神を拒絶することとなろう。かりに、そのように相談した結果、正しいことを行なわないよう助言されるとしたら、また、あなたがその助言に従うとしたら、あなたは自分の責任を免れるだろうか? 確かにそうはならない。それはなおもあなたの上にあるであろう。天来の命令があなたに下るなら、あなたはそれに従うべきである。他の人々からどう助言されようが関係ない。そうした助言を求めること自体、神の権威を軽くあしらうことである。自分の利益ゆえに、正しく行なうのをためらうのは、神に対する反逆である。かりにあなたがこう云うとしよう。「それは、明白に私の義務だが、私の損となるではないか」。――よろしい。では、どうするのが良いだろうか?――あなたは、損失をこうむるだろうか、罪を犯すだろうか? 罪を犯すことを選ぶとしたら、あなたは明確に、自分自身の利得をあなたの神とするのである。というのも、あなたの魂の中で最高の位置を有するものこそ、結局、あなたの神だからである。あなたは、何の権利があってこのように尋ねるのだろうか? 「そうした奉仕は私の得になるだろうか? 私の目的にかなうだろうか? そうすることで私に何か良いことがあるだろうか?」 こうした問いは、《いと高き方》への反逆の真髄そのものを含んでいる。あなたの神に従うことによって、あなたが全く何の得もしないとしたらどうなるだろうか? そうするようあなたに命じているのは、あなたの《造り主》であり、《保護者》なのである。その方に従うことを通してあなたが一切のものを失うとしても何だろうか? 全世界を損じても、あなた自身の魂を失うよりはましでないだろうか? というのも、あなたの魂を買い戻すのに、あなたは何を差し出そうというのか?[マタ16:26参照] 自己利益と神の権威を両天秤にかけるという考えそのものが、あらゆる誠実な人々にとって、むかつかされることたるべきである。

 さらに、人間と相談することは、キリストのご人格に真っ向から反している。主が苦しみを受け、殺されると語られたとき、人間は、ペテロという人格を通して主を叱責した。だが、主は彼に云われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」[マタ16:23]。ある折にイエスは弟子たちにこう云われた。「もう一度ユダヤに行こう」。彼らは主に云った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか」[ヨハ11:7-8]。それでも主は、そこへ行く任務を受けたと感じた所へ勇敢に赴かれた。主の人生は、自己否定と自己犠牲の一生だった。主の規則は、「からだをいとえ」、ではなかった。むしろ、これが主の規則であった。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」[ヨハ12:24]。主はご存知だったのである。ご自分が犠牲にならなければ、主は神の栄光を現わすことができない、と。それで、もしあなたが主のようになりたれば、あなたは肉の欲のために心を用いてはならない[ロマ13:14]。肉の安逸や情欲を満たそうとしてはならない。むしろ、主のように喜んで苦しみを忍ばなくてはならない。主のように非難に甘んじ、神のご栄光のため必要とあらば、主のように死ぬことにすら甘んじなくてはならない。

 私が一般に見いだすところ、人々が他人に相談するときには、義務をないがしろにし、主を捨てることになるのが普通である。パウロが人に相談していたとしたら、おそらく決して使徒にはならなかったであろう。私は切に願う。愛する方々。あなたが、このように云う恵みを持てるようにと。「私の《主人》の命令は、私の唯一の法です。私の《主人》は、私にこれこれのことを命じておられます。それが私の云い条です。たとい人々が、そうすれば馬鹿を見ることになると云おうと、たとい私に向かって無分別にもほどがあると云おうと、たとい彼らが私を牢屋にぶちこんで、死に至らせることにさえなろうと関係ありません。太陽が《全能者》の命令で輝くのを拒み、地球がその地軸上で回転するのを拒み、あらゆる自然がその《造り主》の法則に反抗するようなことがない限り、キリストの血によって贖われた神の人が、キリストに従うことをあえて拒むなどということはありえません。たといいかなる命令を与えられようと関係ありません」。

 ここで私は、この壮大かつ心探られる原則を離れることとする。信仰は、その行動について、神の命令以外の根拠を必要とはしないのである。

 II. さて、第二に私があなたに示したいのは、《この原則を実際的に私たち自身に適用すべき範囲》である。

 まず最初に、私の判断するところ、これは、すでに知られている私たちのあらゆる義務に当てはまる。私はいま、未回心の人々に向かって語りかけてはいない。回心したと告白しているあなたに向かって語りかけている。あなたは自分は救われています、自分自身の行ないにより頼んではいません、と云う。それは結構。私も、あなたに対して、恵みによる救いという《聖書的な》教理を、これまでずっと説教してきた。だが、これから私があなたに示したいと思っている1つの実際的な原則は、その教理と分かちがたく結びついているのである。それは、こうである。――あらゆるキリスト者は、その義務として、すでに知られたあらゆる罪を、いかなるものであれ捨てなくてはならず、そうする際には、人に相談してはならない。多くの信仰告白者たちは云うであろう。「この方針は、《聖書的な》基準からすると間違っている。だが、社会的には長いこと大目に見られてきたことである、否、正しいとさえ定められている」、と。しかし、社会が最後の審判の日にあなたを審くのだろうか? もしあなたが、えせ信仰告白者として地獄に落とされるとしたら、社会はあなたをその底知れぬ所から引き出してくれるだろうか? もしあなたが最後に天国の門の外にいることになるとしたら、社会はあなたの永遠の損失を補填してくれるだろうか? おゝ、神の人よ。あなたと社会に何の関係があろうか? キリスト者たちは不敬虔な人々の間から出て行くべきである。そして、日々自分の十字架を負い、キリストについて行くべきである[ルカ9:23]。キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て行くべきである[ヘブ13:13]。この世と同じようにすることが、あなたと何の関係があるだろうか?

 同じ原則は、キリストへの聖別という義務にも当てはまる。あらゆるキリスト者はキリストだけのために生きるべきである。私たちのあり方のすべて、また、持てる物のすべては、キリストに属している。事実、パウロはこう書いている。「あなたがたは、もはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだと霊とをもって、神の栄光を現わしなさい」*[Iコリ6:19-20 <英欽定訳>]。よろしい。ならば、他のキリスト者たちがこの命令にどう従っているかを見いだすために人と相談してはならない。というのも、今どきの信仰を告白するキリスト者たちの脈拍は病弱であって、キリスト教は悲しいほど不純なものになっているからである。しかし、私の同輩のキリスト者たちが何をしているかなど、私と何の関係があるだろうか? もし彼らがしかるべきあり方をしていないとしたら、それは、むしろ、私がずっとキリストに身をささげるべき理由とならないだろうか? もしも他の人々が聖所の秤で量られて、目方が足りないことが分かったとしたら、それは私も目方が足りないと分かって良い理由になるだろうか? 私はあなたがた、今この場にいる神の民に命じる。主イエス・キリストに対する完全な聖別に、努めてどこまでも肉薄するがいい。決して、「私は、私の教役者と同じくらいは善良ですよ」、と云ってはならない。あなたは私よりもはるかに良くなる必要がある。決して云ってはならない。「私は、これこれのキリスト者と同じくらい善良ですよ」、と。おゝ、方々。もしあなたがたが自分たちの間でくらべ合いをしているとしたら、それは賢くない。キリスト者たちの唯一の模範はキリストご自身である。

 人に相談しないというこの原則は、キリストに対する私たちの奉仕にも当てはまる。私たちの知っている一部の教役者たちは、その「召し」を常に給与の額で左右されている。そうでない者らは、キリストのためのその働きが、体裁の良い社会で行なわれるかどうか、また、それが比較的、軽くて容易な務めかどうかで左右されていると聞く。もしそれが《貧民学校》の働きだったり、極貧の人々の間で労苦し、そのため何の功績も認められないものであったりすると、彼らはそうした種類の奉仕を一顧だにしない。そして、もしそこに非常に大きな骨折り仕事が伴うと、彼らはそれが自分たちの手に負えないと感じる。だが本当の困難は、それが人の気にくわないということにある。おゝ、十字架の兵士たち。あなたは、手軽な任地にいない限り、あなたの《王》のために戦おうとしないような者に成り下がっているのだろうか? 女王陛下の兵士たちは、自分たちが向かうよう命令された土地が暑いか寒いかなどと問うまで待ちはしない。そして、キリスト者たちもそれと同じであるべきである。安楽で快適にしていられる所にしか行けないような、張り子の虎になってはならない。否、むしろ、ご自分の血で私たちを買い取ってくださったお方の御名によって、こう問おうではないか。「これは、キリストのための奉仕として、私があってしかるべき領域だろうか? ならば私は、それに精を出そう。いかなる代価を払うことになろうと関係ない」。

 ことによると、いま私が話しかけている兄弟姉妹たちの中には、こう云う人たちがいるかもしれない。「私は自分がキリストへの奉仕に召されているという気がします。ですが、私は、私の友人たちと相談して、彼らが賛成するか反対するかを見てみるつもりです」。それは、おそらくあなたの奉仕が始まるより先に、それに終止符を打つであろう。あることを誰もが賢明であると考えるまで行なおうとしない人が善をなすことは決してない。もし神があなたをご自分のための何らかの働きに召しておられるとしたら、ただちに力を尽くして取りかかるがいい。というのも、もしあなたが立ち止まって、善良な人々にさえ相談を持ちかければ、十中八九、彼らには、あなたの有しているような信仰がないであろう。あるいは、たといあるとしても、彼らは率直にあなたに告げるであろう。私たちはあなたの召しの判定者ではない、と。私は、それがあなたに対する神の召しかどうかを決めることはできない。それについては、あなたが自分で判断しなくてはならない。そして、もし神があなたを何らかの働きに召しておられると感じるなら、行ってそれをするがいい。

 「おゝ、ですがキリスト者の人々は、私の計画に水を差すのです!」 しかり。それは日常茶飯事である。だが、だからといってあなたが主のわざを行なうことをやめさせられるべきではない。ダビデの兄エリアブが云ったことを思い出すがいい。「私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう」。私は常にダビデの答えの慎ましさを賞賛してきた。「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか」[Iサム17:28-29]。彼は陣営に父親から遣わされて来たのである。もう少し後になると、彼にはさらに正当な理由ができた。サウルの前に立った彼の手には、あの巨人の血みどろの頭があったのである。もし神があなたに、ご自分のため何らかの働きを行なうよう命じられるとしたら、人に相談することなく、行って、主の強さによってそれをするがいい。多くの高貴な意図は、委員会によって絞め殺されてきた。多くの栄光に富む企画――福音をまさに地の果てで携えて行く手段となったかもしれなかったもの――が握りつぶされて来たのは、臆病な相談役たちが、そんなことは実行できないと云ってきたことによってであった。だが、もしも試みられたとしたら、神はその働き手たちによって事をなし、大きな成果が上がっていたことであろう。だから、行くがいい。おゝ、神の人よ。神が行なえとあなたを召しておられる働きへ。人に相談してはならない!

 次のこととして、この原則は、あらゆる必要な犠牲に当てはまる。時として私たちは、キリストとその御国の進展のために数々の犠牲を払わなくてはならない。例えば、ある人々は、もしも神に回心するとしたら、その仕事において数々の犠牲を払わなくてはならない。今晩ここにいるひとりか、二人の人々は、かつて酒場の主人であった。だが、回心したとき彼らは、真っ先に機会をとらえてその仕事から足を洗った。それは相当に大きな犠牲を意味したが関係ない。彼らは朗らかにその損失に甘んじ、今やここに曇りない良心をもって座っている。これは、彼らが正しいと信じたことを行なわなかったとしたら、到底できなかったことである。この場にいる他の人々は、常々日曜の商売によって生計を立てていた。だが、彼らは、キリストのものとなったとき、進んでキリストのためにそれを手放した。彼らが、自分たちの手放したのと同じだけの金額を取り戻したとは思わない。だが、彼らには大きな心の平安があり、彼らはその損失について完璧な満足を感じている。なぜなら、彼らはそれが全く正しいと信じていたからである。あらゆるキリスト者は、このように動かなくてはならない。一瞬たりとも、事の利得や損失について考えてはならない。神が神であられる以上、いかなる代価を払ってもお仕えしなくてはならない。

 時として、しかしながら、キリストに従っていく者たちには、金銭以上の損失が伴う。――友情の喪失である。今なお世では、キリストへの献身ゆえに別離がなされる。不敬虔な親たちは、回心したわが子を自分の家から叩き出す。親しかった友情はぷっつり切れる。影響力の大きい、用いられる立場は、キリストと福音のために放棄されなくてはならない。「私はどうすれば良いのですか?」 キリストを捨てなければ、途方もない損失をこうむらせるぞと脅された人はそう問う。父を、母を、夫を、あるいは、妻を、そして他の一切のものを去らせても、あなたの永遠の益がかかっているお方を去らせてはならない。この方がこう云われたことを思い出すがいい。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」[ルカ14:26]。ある人々はこう感じる。もし自分がキリストに従う者となるとしたら、自分は名望や立場を失うだろう、そして、それには耐えられない、と。これまでもある人々は、この教会に加入した後で、自分たちの属する貴族社会で冷遇される目に遭い、私のもとに来て云うのだった。「私たちの以前の友人たちは、もはや私のもとを訪ねて来も、彼らの家に招いてくれもしません」。そこで私は答えてきた。「神に感謝すべきかな! ならば、あなたは、彼らの下らないお喋りによってさらされかねない誘惑の道から逃れることになるでしょう」。彼らは、やがて、それが実に真実であった、それは良いことだった、と云うようになった。しかし、最初のうち、それは忍びがたいことであった。キリストにある愛する兄弟姉妹。正しいことを常に行なうがいい。そのため何が起ころうと、キリストのため徹底的に事を行なうがいい。まことに私はあなたに云う。キリストによって最終的に敗残者にされる者はひとりもいない。キリストのために、自分の持てるすべてさえ投げうてる人の受ける利益は大きい。

 さらに注意してほしいのは、あなたがキリストに回心している場合、この原則が、あなたの信仰の告白にも当てはまるということである。非常にしばしば、本当にイエスを信じている人々の中のある人々は、自分の信仰を、主の定められたしかたで公に認めることをおろそかにする。新約聖書の教えの中で何にもまして平易なことは、キリストを信ずるあらゆる信仰者には、バプテスマを受ける義務がある、ということである。まず自分をキリストにささげた後で、神のみこころに従って自分をキリストの《教会》にささげること、これはあらゆるキリスト者の義務である。さて、私の愛する方々。あなたの《主人》のみこころを行なうがいい。人と相談してはならない。

 この件については、あなた自身とも相談してはならない。というのも、もしそうするならば、自我はこう云うだろうからである。「なぜそんな面倒なことをする必要があるのか? そんなことをしたら、お前は、必要もないのに大きく目立ってしまうではないか。ことによると、お前は最後まで持ちこたえられないかもしれない。罪に陥り、キリスト御名に泥を塗るかもしれない」。自我はこのように理屈を云うであろう。だが、そのような理屈とあなたは何の関係があるだろうか? もしも兵士たちが戦いの日に、敵をめがけて銃剣突撃するよう命令されるとしたら、彼らは、立ち止まって、そのような方針の危険について考えてはならない。あるいは、なぜ自分たちの指揮官はそのような命令を下すのだろうかと問うてはならない。《王》なるイエスの全兵士たちについても、全く同じでなくてはならない。そして、確かにそれは、あらゆる真のキリスト者にとって同じことであろう。あなたはキリスト者だろうか? また、あなたの主は、ご自分に対する信仰を告白するようあなたに命じておられるだろうか? ならば、前に進み出て云うがいい。「主のみこころに従い、私は自分の口で告白します。なぜなら、私は心で主を信じているからです」。おそらくある人は云うであろう。「もし私がそうするなら、両親を悲しませることになります」。必要もなく誰かを悲しませてはならない。だが、もしそれがキリストのために必要なことだとしたら、あらゆる人を悲しませるがいい。そして、あなた自身、最も悲しむがいい。あなたが正しいことをするからといって彼らが悲しむことを悲しむがいい。別の人は云うであろう。「バプテスマを受けることになったら、私の立場は非常に居心地の悪いものになるでしょう」。ならば、居心地の悪い状況にあっても、キリストがあなたたとともにおられることに慰めを見いだすがいい。「しかし」、とある人は云うであろう。「私は、いかにして私が今バプテスマを受けられるか分かりません」。それはあなたの義務だろうか? ならば、使徒がこう云っていることを思い出すがいい。「私はすぐに、人には相談せず」。ロンドンに来る前に、私が田舎で説教していたとき、聴衆のひとりに、何年もの間キリスト者であると告白していた人がいた。教会に加入することについて彼に話をするたびに、彼は云うのだった。「信じる者は、あわてることがない[イザ28:16]のですよ」。それに対して私は答えた。「よろしい。もしあなたが今すぐやって来るとしても、確かにあなたはあわてたことにはなりませんよ」。それから私は彼に、その箇所であわてると言及されているのは、恐れて臆病にあわてることであると努めて説明してから、こう云った。ずっと適切な聖句は、この言葉である、と。「私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」[詩119:60]。

 「よろしい」、とある人は云うであろう。「私は教会に加入することを延ばし延ばしにしたいとは思いません。それと同時に、完全にこの世を捨てることもできないのです」。ならば、教会に加わってはならない。私たちは、今なおこの世に心を残している者たちが教会にいてほしいとは思わない。世にとっても教会にとっても、非常に有害なのは、その2つにともに加わろうとする者たちである。もしあなたがキリストのものなら、この世を捨てなくてはならない。だが、なぜあなたはそうすることをためらうべきだろうか? この世はむなしく、風を追うようなもの[伝1:14]でしかないではないか! あなたはキリストがこの世よりも無限に好ましいことに気づくであろう。というのも、キリストのうちにあなたは有することになるからである。――

   「堅固(かた)き喜び 尽きぬ宝を」。

 III. 手持ちの時間は尽きてしまったが、最後の点について長々と語ることはあるまい。――《この原則は、私たちの最上の判断にも好ましいものと思われる》

 これは、私たちが他の人々に下す判断である。私たちは中途半端の人間を好まないではないだろうか。そして、自分の主義主張のため喜んで苦しみにも甘んじようとする人々を見るとき、彼らを重んじ、尊敬する。よろしい。ならば、他の人々が、その心底では私たちを重んじ尊敬することができるようなしかたで行動しようではないか。

 この原則は、私たちが死に臨む際に、好ましいものと思われるであろう。私は、今まさに死のうとしている非国教徒の父親が息子にこのように云ったなどという話を一度も聞いたことがない。「息子や。お前も知る通り、わしは非国教徒になった。そして、それを理由に農地を失ってしまった。お前は国教会に行った方がよいぞ。そして、教区牧師や地主様の覚えをめでたくするがいい」。私は死にかけているキリスト者がその妻にこのように云ったなどという話を一度も聞いたことがない。「なあ、お前。安息日にわしらの店を閉めてしまたのは、わしらにとって大損害だったな。それで、その分だけお前に遺してやるものが少なくなったわい。そして、今では馬鹿なことをしたもんだと残念だよ」。否、否。私は、そのようなことを誰かが云うのを一度も聞いたことがなく、聞くことになると夢見たことさえ一度もない。私は死にかけているキリスト者がこう云うのを一度も聞いたことがない。「私は主の御国の進展のためにあまりに多くをささげてしまった。キリストへの奉仕にあまりに激しく働きすぎてしまった。実際、随分と無分別なことをしてきたものだ。そうしてしかるべきほどに自分のことも考えれば良かった」。おゝ、否! 彼らが悔やむのは常にそれとは逆のことである。自分を最も否定してきた人々は、常に、自分たちがもっと多くを行ない、もっと多くをささげれば良かった、キリストのゆえにもっと大きな苦しみを受ける特権にあずかりたかったと願うのである。

 そして最後に、これは、あの最後の大いなる日における私たちの判断であろう。私たちはこう思うであろう。キリストに従い、キリストゆえに損失を忍んできたことは正しいことだった、と。だが、人に相談したことによって安っぽく去ってしまったことは、そのとき私たちにとって、これまで耳にしてきた中で最も卑しいこと、愛の《王》に対する反逆、死んでくださったキリストに対する裏切りと思われるであろう。地上でキリストに忠実だった人々は、天でキリストの栄光にあずかり、そこで永久永遠にキリストとともに住むことになる。ならば、もしあなたが本当にキリストを信じているとしたら、大胆に進み出て、それを告白するがいい。

 もしあなたが主イエス・キリストを愛していないとしたら、用心するがいい。主がその鉄の杖をもってあなたに立ち向かい、完全にあなたを滅ぼすことにならないように。願わくは主が、その恵み深い御霊によって、私たちすべてに、ご自分を信ずる信仰を、また、ご自分に対する忠誠を与えてくださるように。その愛しい御名のゆえに!――アーメン。

 


(訳注)

*1 バイロン卿、『チャイルド・ハロルドの巡礼』(第四篇、第141連)[本文に戻る]

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神に導かれる人々[了]



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