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ある物を捜していて別の物を見つける

NO. 3075

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1908年1月16日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。そこでキシュは、息子サウルに言った。『若い者をひとり連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。』……三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか」。――Iサム9:3、20


 サウルは父親の雌ろばを捜しに出かけ、その捜索には失敗したが、王冠を見いだした。彼は預言者サムエルに出会い、サムエルによって神の民イスラエルを治める王として油を注がれた。そして、それは、強情な子馬を見つけるよりもはるかにまさることであった。この一風変わった事件を考察しようではないか。ことによると、それは馬鹿な雌ろばを扱っていても、王室にふさわしい高貴な思想を私たちにもたらすかもしれない。

 I. 私たちが第一に指摘したいのは、このことである。――《注目するがいい。いかに神の摂理の手が、小さな事がらを導いて偉大な問題に至らせるかを》

 このサウルという男は、預言者サムエルの行く手に置かれなくてはならない。いかにして出会わせれば良いだろうか? あわれな荷物運搬用の動物が、直接の手段となるのである。その雌ろばがいなくなる。それでサウルの父親は彼に、召使いをひとり連れて捜しにゆくよう命ずる。その雌ろばは、さまよううちに東西南北どこにでも行くことがありえた。というのも、逃げ出した雌ろばのでたらめな意志など、誰に説明がつけられようか? しかし、人間的に云えば、たまたまサウルは自分がラマの近くに来ていることに気づいた。預言者サムエルが今にも彼に油を注ごうと待っていた場所である。いかに小さな事件に、最大の結果が左右されうることか! 歴史の旋回軸は、顕微鏡でやっと見えるようなものである。

 こういうわけで、私たちにとって何よりも重要なことは、いかに小さな取るに足らないことも、最も耳目を驚かす出来事と同じくらい摂理の神によって取り計らわれているということである。星々を数えるお方は、私たちの頭の毛をも数えておられる[詩147:4; マタ10:30]。私たちの生と死は予定されているが、私たちの座るのも立つのも[詩139:2]予定されている。十分に強力な知覚機能さえ有しているなら、私たちは、通り道の石ころ一個一個の上にも、地球の回転に見られるのと同じくらい明確な神の御手を見てとるはずである。私たち自身の人生を眺めるとき明らかに見てとれるように、多くの折々では、最も小さな砂粒一個が秤を大きく傾けてきた。ある行動の針路と別のそれとは髪の毛一筋しか違っていないように思われたのに、その髪の毛一筋だけで、私たちの人生の流れは決められたのである。フラヴェルは云う。「種々の摂理を観察しようとする者が、何の摂理も観察せずに長いこと過ごすことはない」。摂理は神の指として見られて良い。単に国々を揺り動かし、歴史の頁に目もあやに描かれてしかるべき出来事ばかりでなく、日常生活の小さな事件、左様。埃の一粒一粒が動き、露の一滴一滴がゆらぎ、一羽の燕がひらりと舞い、一匹の魚が飛び跳ねることにおいてもそうである。

 II. しかし、そうしたことが、今あなたを招いて考察させたいことではない。私たちの趣旨はこうである。――サウルが雌ろばを捜しに出かけて王冠を見つけたように、《恵みという件においては、多くの人が自分では捜していなかったものを見いだしてきた》

 これはイザヤ書の尋常ならざる聖句である。「わたしは……わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた」[イザ65:1]。時として、神の主権の恵みの輝きが現わされるのは、それを全く考えもしていなかった人々の上においてである。そうした人々は、どこから見ても、全く心の備えをしていなかった。この人々が畑に隠されていた宝に出くわしたのは、自分の耕作地のことしか考えていないときであった[マタ13:44]。そうした人々が井戸のかたわらでイエスに出会ったのは、自分の水がめを満たそうとしかしていないときであった[ヨハ4:7]。こうした人々が《救い主》の喜ばしい知らせを聞いたのは、単に自分たちの羊の群れのことしか気遣っていないときであった[ルカ2:8]。

 耕されていない土地に天の雨は降ってきた。恵みは頼まれもしないのにやって来た。聖書には、このことを示す数々の象徴がある。私たちの主とその使徒たちによって行なわれた奇蹟がそれである。ひとりの青年が死んで、埋葬されるために運び出されていた。その棺台の回りには、泣いている母親と親族たちがいた。そのとき、ナザレの預言者イエスは町の門に入って来るところであった。だが、どこを見ても、会葬者の誰かが主の御手による奇蹟を求めたとは書かれていない。彼らには、主が死人をよみがえらせると期待するだけの信仰がなかった。その青年は、本人が死んでいた以上、イエスの奇蹟を行なう御手による助けを乞い求める可能性など絶対になかった。しかし、イエスは介入し、かついでいた人々に立ち止まるよう命じた。彼らがそうすると、求められも頼まれもせずにイエスは云われた。「青年よ。あなたに言う、起きなさい」[ルカ7:14]。すると、彼は起き上がり、母親に返された。多くの青年たちは、同じような窮状の中にある。自分の罪過と罪との中に死んでいる[エペ2:1]。キリストの介入が彼によって求められることはない。彼は、自分の低い状態に身震いすることがない。それを理解してさえいない。完全に死んでいる以上、自分の破滅した状況について無感覚なのである。《贖い主》は主権的に介入し、聖霊は暗くされていた良心に光を注ぎ込み、その人は恵みを受けて、新しい霊的ないのちを生きるようになっている。自分が一度も求めなかったいのちを。

 それと同じ性格をしていたのが、ガダラ人の間にいた二人の悪霊つきから悪霊を追い出した奇蹟であった[マタ8:28]。この場合、この不幸な男たちは悪の霊に動かされて、自分たちを放っておいてほしいと《救い主》に懇願した。同様のことが、あの片手のなえた人を回復させた奇蹟[マコ3:1-5]、大群衆の給食[マタ14:15-21; 15-34-38]、マルコスの耳の癒し[ルカ22:50-51]である。こうした場合、俊足のあわれみが、嘆きの叫びを追い越していた。

 使徒時代から、もう1つの場合を取り上げてみよう。極度に足がなえた、ひとりのあわれな乞食が、ある日の朝、宮の「美しの門」へといざって行き、毎日お決まりの場所に座を占めては、その絶え間ない叫び声を上げ始めた。あわれないざりの男を、少々のお恵みでお助けくださいというのである。そこへペテロとヨハネが祈るために宮へとやって来た。彼は疑いもなく二人に目をとめたが、自分を癒してくれるよう二人に願おうとは決して思い浮かばなかった。彼は施しを求めた。その手の平にローマの小銭を何枚か落としてやれば、その施し物に満足していたであろう。しかし、ペテロとヨハネは、彼が求めもしなかったものを与えた。彼らは彼に命じたのである。ナザレのイエスの名によって、立ち上がって歩け、と。すると、彼は躍り上がって立ち、その疾患から解放された。そのような解放など期待していなかったが関係ない[使3:1-8]。

 こうした数々の象徴は、同種の恵みの事実によって解釈できよう。キリストが、個々の人々と出会って、彼らを救われたのは、しばしば彼らがキリストを求めていなかったときであった。マタイがイエスを求めてもいなかったときに、主は彼が税金を取り立てていた台を離れ、ご自分について来るようお命じになった[マタ9:9]。ザアカイの場合も同様である。彼はキリストが説教する方の道に向かって行ったが、その動機は純然たる好奇心であった。「彼は、イエスがどんな方か見ようとした」[ルカ19:3]。ユダヤ全土を沸き立たせていたこの人物がいかなる種類の人であるか知りたがったのである。ヘロデを震え上がらせ、死人をよみがえらせたと噂され、あらゆる患いを直したと知られているこの人物は誰だろうか? 金持ちの取税人ザアカイは物見高い男である。何としてもイエスを見なくてはならない。しかし、1つ困難がある。――あまりに小男なのである。群衆の頭越しに眺めることはできない。だが、向こうにいちじく桑の木があるので、その時ばかりは、少年たちの真似をして、そこに登ることにする。見るがいい。いかに注意深く彼が密生した枝々の間に身を隠しているかを。というのも、金持ちの隣人たちから、そのような場所にいる自分を見つけられたくなかったからである。しかし、キリストの目はこの小男の居場所を見破り、その木の下に立つとイエスは、尋ねられも、求められも、期待されもしないまま云われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」[ルカ19:5]。そして、すぐにこの恵み深いことばがキリストによって語られた。「きょう、救いがこの家に来ました」[ルカ19:9]。このタバナクルにおいても、それと同じしかたで数々の恵みの行為がなされてきた。男たちも女たちも好奇心からここへやって来る。――どこかの根も葉もない話か、偏見に満ちた精神の悪意ある中傷によって作り出された好奇心からである。だがしかし、イエス・キリストはそうした人々を召して、彼らは主の弟子となり、かつ、私たちの心暖かな友人となってきた。最も思いも寄らない新兵たちのある者らは、私たちの最も優秀な兵士たちとなってきた。彼らは嫌悪とともに始めたが、強い熱意とともに終わることになった。あざ笑うためにやって来たが、祈るために後に残った。これらの座席の数々は、作り話の不思議にまさって驚嘆すべき、「恵みの浪漫」による多くの出来事を告げることができるであろう。

 否。兄弟たち。神は、その驚くべき恵みによって、単に予期していなかった私を救ってくださったばかりでなく、ご自分の恵みに敵対していた人々、また、ご自分の御国に激しく反抗してきた人々の救いのためにさえ、身をへりくだらせて介入してくださった。あの物語を読むがいい。永久にその魅力を失わないだろう物語、その主人公をタルソのサウロという物語を。回心の恵みにとって何と異様な対象であろう! 彼は、聖徒たちを狩り立てて、死に至らせようとしていた。できるものなら彼らを根絶やしにしようとした。イエスに従う者たちに対して、その血を煮えくり返らせていた。彼らについて穏やかに話すことができなかった。激怒に狂っていた。彼らにわめき散らしている彼の言葉を聞くがいい! 「何だと? こいつらは父祖たち、パリサイ人たちの伝統に反対しようというのか? もし奴らが増え広がるのを許しておければ、われわれの聖人たちや、その重大な意見には何の敬意も払われなくなってしまうだろう!」 彼は彼らを迫害して絶滅させたいと思う。エルサレムの中だけでなく、ダマスコにおいてもである。だが、日ならずして、この福音を憎んでやまない男は、その福音の力に心を動かされ、キリスト教界がこれほど勇敢な擁護者を得たことは二度となかった。何物も彼の情熱に水を差したり、彼の熱心を消すことはできなかった。彼は迫害され、鞭で打たれ、三度難破した。――だが何物も彼をその主に仕えさせずにおくことはできなかった。何とこの機関は完全に逆転したことか。だがしかし、それが進む速度は如実であった! 彼が最もキリストに烈々たる憎しみをいだいていたとき、そのときこそ彼の転回点であった。あたかも、暴れ馬となり、今にも断崖から飛び降りんばかりとなっていた馬が、突然、何か強大な手でその馬勒をつかまれ、それを臀部にくらわされ、闇雲に突き進みつつあった破滅から、最後の瞬間に救出されたのと同じように、キリストが介入して、このタルソの反抗者を自滅からお救いになったのである。

 もう1つの例は私たちの前に最も生き生きとしたしかたで立ち現われている。それは、ピリピの看守の場合である。彼は、《救い主》を求めて、回心するようには見えなかった。彼はパウロとシラスを受け入れると、彼らの足に足枷をかけた。――無慈悲な行為の上乗せである。彼らが奥の牢から脱出できるはずもなかったから、足枷をかける必要などなかった。疑いもなく、彼は上役たちを喜ばせたいと思い、使徒たちに軽蔑を感じていた。当時の看守は、通常は兵士たちであり、ローマ軍における野営生活は実に荒っぽいものであった。明らかに彼の性質は、福音が育つ土壌としては火打ち石のように非常に硬いものであった。しかし、1つの地震が起こり、獄舎が揺れ動く。神秘的な地震である。というのも、獄舎の扉がその蝶番から外れ、囚人たちの枷が解けてしまうからである。看守は身震いする。そして、詰まる話がイエスを信じて、バプテスマを受けるのである。信仰を持った彼の家族とともにである。彼は使徒たちを自宅の食卓に招き、もてなし、ピリピにおける神の《教会》の最初の会員のひとりとなる。福音がその力をもってやって来るとき、できないことがあるだろうか? そして、それがやって来ることのできない場所があるだろうか? それは、この瞬間にも、別の獄舎を訪れ、別の看守を救うことができるではないだろうか? 今の彼の思念が全くそうした方面に向いていなくとも関係ない。

 私たち自身、同様の場合と出会ってきた。数多くの古い物語が今も伝えられているが、その真実さは疑えないものである。その1つに出てくるひとりの人は、それまで一度も礼拝所に集おうとはしなかったが、歌声に惹かれて中に入ってきた。歌だけは聞くことにしよう、と彼は云った。だが、「信心ぶったお説教など一言も」聞くまいとして、その指を自分の耳に突っ込んでいようとした。彼はそうしたよこしまな予防措置を取り、しばらくの間は効果的に耳門[バニヤン、『聖戦』]を塞いでいたが、その門は小さな敵によって強襲された。というのも、一匹の蝿が彼の鼻にとまったからである。彼は、それを払いのけざるをえず、そうするために指を外したとたんに、教役者が云ったのである。「耳のある者は聞きなさい」[マタ11:15; 13:9, 43; ルカ14:35]。彼は聞いた。みことばは彼の魂を刺し貫き、彼は回心した。

 これは私が全く良く覚えていることであり、この物語の主人公はまず間違いなくこの会衆の中に出席しているだろうが、ある非常に異様な回心がニューパーク街会堂で起こった。ひとりの人が、日曜の夜に一杯やるための酒類を手に入れるために安酒場に行くのを常としていたが、その会堂の扉の回りを群衆が取り巻いているのを見た。彼は中に立ち寄って、どうにかこうにか桟敷席の最上段に辿りついた。まさにそのとき私は、彼が座っている方角を眺め、――自分がなぜそうしたのかは分からないが、こう述べたのである。その桟敷席にひとりの人がいるかもしれない。ここにやって来たのは、いかなる健全な動機からでもない。その証拠に、そのかくしには酒類の瓶が突っ込まれているからである、と。この表現の異様さがその人を打ち、説教者がこれほど正確に自分のことを描写したことに飛び上がって、彼はその後に続いた警告に注意深く耳を傾けた。みことばは彼の心に達し、神の恵みが彼と出会い、彼は回心させられた。そして今の彼は神を恐れながら、へりくだった歩みをしている。

 こうした事例は、少しも珍しいものではない。ホイットフィールドやウェスレーの時代にはまれなものではなかった。彼らがその《日記》の中で告げるところ、ある人々は、このメソジスト派伝道者たちに投げつけるための石をかくしに入れてやって来たが、その敵意は、《ダビデの子》の石投げから出た一個の石によって打ち殺されたという。他の人々は騒ぎを起こそうとしてやって来たが、騒ぎが引き起こされたのは彼らの心の中においてであり、それは彼らがイエス・キリストのもとに行き、キリストのうちに平安を見いだすまで決して鎮めることができなかった。神の《教会》の歴史には、尋常ならざる人々の回心がちりばめられている。彼らは、回心させられたいと願ってもおらず、恵みを求めてもおらず、恵みに反抗さえしていた。だがしかし、永遠のあわれみによる介入の腕によって打ち倒され、熱心に、また、敬虔に《小羊》に従う者へと変化させられたのである。

 III. その事実を確立したので、これからは、私たちの思念をこの問いかけの回りで巡らせて良いであろう。《それについて何と云えば良いだろうか?》

 こうした、主権的な抑制の恵みの行為について、私たちは何と云えば良いだろうか? 何と、最初に私たちはこう云うであろう。見よ。神の恵みがいかに無代価なことかを。それは、地に降りる露に似て、人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない[ミカ5:7]。それは、あばら屋を照らす日光に似ている。それを中に入れるよりは、閉め出しそうな煤けた窓硝子を通して射し込んでいる日光である。また、水夫たちが望むか否かにかかわりなく、索具の間を唸りながら吹き抜ける風に似ている。神はご自分のあわれむ者をあわれみ、ご自分のいつくしむ者をいつくしまれる[ロマ9:15]。その理由は、罪人の中にあるいかなる善良さがあるためでも、被造物の中でいかなる準備がなされているためでもなく、ひとえに神がそれを望み、救いをもって人々を訪れてくださるからにほかならない。神は救いを作り出すに力強いお方であるあまり、他のいかなる腕の貢献を待つこともなさらない。むしろ、被造物が最も死んで、最も腐敗しているそのときに、神の生かす恵みはやって来て、救いの栄光すべてを自らのものとするのである。

 もしあらゆる回心者が通常の恵みの手段を通して導き入れられるようなことがあるとしたら、私たちは回心のことを、特定の定まった諸原因の必然的結果とみなし、そうした外的な手段に何か神秘的な効力があるとみなすことになるはずである。だが、神がこの祝福を全くそうしたものとは無縁の多くの人々にお授けになるとき、神はこう示しておられるのである。神は手段を用いても用いなくても、事を行なうことがおできになり、神にとって大変すぎる務めはないのだ、と。神の御腕は全く短くなっていないため、その長さを補うために何の手段を用いる必要もない。また、主は全く力を失っていないため、その欠乏を補うために私たちに訴えざるをえないようなことはない。神は、それがみこころであれば、ほんの一言で一国を回心させることおできになる。そうお選びになるなら、――神は人間の心の強大な《主人》であられるため、麦の穂が夏の風に揺れるのと同じくらいたやすく、ご自分の聖霊の神秘的な衝動の前に、あらゆる心を屈させることがおできになる。なぜ神がそうなさらないのか私たちには分からない。それは、神が秘めておられることの1つである。だが神は、いかなる予想をも越えて際立った、また、明確なしかたで働くとき、私たちに1つの証拠を与えてくださるのである。いかに神がご自分の望みのままに、天の軍勢と下界の住民たちとの間で働くことがおできになるかを示す証拠である。おゝ、神の恵みの何と豊かで、無代価で、力強いことか。――その豊かさは、それを求めていなかった者たちにさえやって来るほどである。その無代価さは、それが人間の側の備えを待つことがないほどである。その力強さは、定められた時が来るとき、そう望んでいない者をさえ望ませるほどである! 兄弟たち。ともに心からこの神の恵みをたたえようではないか。それは義の賜物によって支配し、私たちの神なる主が召してくださるあらゆる者のうちに、永遠のいのちを得させる[ロマ5:21]のである。

 これについて、さらに何と云えば良いだろうか? 私たちはそこから、次のような慰藉に満ちた推論を引き出すであろう。もし主がこのように、ご自分を求めていない者たちによって見いだされる[ロマ10:20]としたら、いかにいやまして主が、ご自分を求める者たちによって見いだされることは確実なことか! もし神が願いもしなかった者の目を見えるようにしてくださることが知られているとしたら、いかにいやまして神はこう叫ぶ者たちをそうしてくださることか! 「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」[ルカ18:38]。もし主が、ご自分を憎むサウロを救われたとしたら、いかにいやまして主は、こう叫ぶ者に耳を傾けてくださることか。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]。もし神が無頓着で好奇心にかられていたザアカイを召したとしたら、いかにいやましてあなたがた、いま真剣に、また、熱心に話を聞きながら、こう云っている方々にお語りにならないだろうか? 「おゝ、神が私に語ってくださるならどんなに良いことか!」 かりにある人が、自分の戸を開き、通りがかりの乞食に向かって自発的にこう呼びかけるとしたらどうだろうか? 「さあ、可哀想な方。ここで一息ついてください」。何と、ならば、執拗に懇願している者が助けも受けずに追い戻されることはないではないだろうか。

 もし私が求道者の立場にあるとしたら、いま私たちが前にしている主題によって大きな励ましを受けるはずである。私は云うであろう。「イエスはこのように、飢えも渇きもしていなかった者たちを召し、彼らを福音の饗宴へと導いておられるのだろうか? ならば、私が――あわれな、飢え渇いた罪人である私が――この両手をもみ絞りながらやって来て、こう申し上げるとしたらどうだろうか? 『おゝ、あの方が私にいのちの水を飲ませてくださるなら。おゝ、あの方が私をその恵みの祝福で養ってくださるなら』。確かに主は、私を受け入れてくださるであろう」、と。元気を出すがいい。あなたがた、へりくだった悔悟者たち。主の御心は、あなたを空しく追い返されるままにするには広すぎる。この励ましによって、今この瞬間、このひそかな祈りを囁くがいい。「おゝ、神よ。主よ。恵みの《与え主》よ。あなたの恵みを、いま求める私たちに与えてください!」 何と、愛する方。あなたはすでに恵みを有しているのである。さもなければ、恵みを求めはしないであろう。まず恵みが最初にあなたのもとにやって来て、あなたに恵みを求めさせなくてはならないからである。感謝するがいい。救いはあなたの家にやって来ているからである。死人はいのちを切望しはしない。死体の冷たい手足には、いのちを求めてもがくもの、健康を痛いほどに願うものは全くない。神は愛をもってあなたを眺めておられる。イエスを仰ぎ見て、生きるがいい。

 この教理について、他に何を云えば良いだろうか? 他にもう1つのことを云いたいと思う。――今後、私たちは決していかなる人についても絶望しないであろう。もし主イエス・キリストがタルソのサウロを召されたのが、彼が激怒に燃えている最中であったとしたら、いかによこしまな者であれ、希望に満ちた祈りが及ばない所にいる者はいない。愛する母親よ。あなたの男の子はあなたの心を引き裂いている。あなたは何年もの間、その子のために涙してきた。その子は今やはるか彼方におり、あなたが最後に聞いた消息はあなたの魂を傷つけるものであり、不信仰は、「もうあれのために祈るのはやめろよ」、と云った。あゝ! それは悪魔の助言である。母に向かってわが子のために祈るのをやめよと命ずるのは、その子がまだ地獄の外にいる限り、良い使者ではない。天来の力に信頼し、なおもあなたの男の子のために祈るがいい。主がその子をこれからどうされるか誰に分かるだろうか?

 あなたの教区にひとりの男が住んでいる。悪態をつき、あらゆる点で悪人である。あなたは一度その人に、やって来て福音を聞くよう頼もうと思ったことがあるが、あなたはこう云った。「何の役にも立つまい。彼はそれをあざけるに決まっている」。それがどうして分かるのか? 最もありえなさそうな心の中にも射し込むこと、それこそ恵みの誇りなのである。神の選びの愛は、多くの場合、大変な愚か者たち、非常な罪人たちを選んできた。少なくとも、神の民が自分のことをそう考えていることを私は知っている。私はずっと、あなたの子どもについて決して絶望してはならないと云ってきたが、もう一度あなたに云う。――もしあなたに不信心な、あるいは、迫害する、あるいは、俗悪な家族がいるとしても、あなたも相手も生きている限りは、彼らの回心のために労し、彼らのために涙し、祈ることはあなたの務めである。おゝ、兄弟たち。もし回心前の私たちの中のある者らの生活が知られていたとしたら、善良な人々は私たちの救いの可能性を否定していたであろう。もし私たちの心の中の秘密のすべてが書き記されていたとしたら、ある人々はこう云ったであろう。「この人の場合、望みはない」、と。しかし、あわれみは私たちを救った。それゆえ、あわれみは誰であれ救うことができる。いかなる場所についても、こう云ってはならない。「このような悪の巣窟では、私は何の善を施すこともできない」、と。決して云ってはならない。「あの作業場は俗悪すぎて、キリスト教信仰について語ることができない」、と。おゝ! あなたには分かっていない。――分かっていない! 神の後ろ盾があるなら、もしも地獄に墜ちた者たちを救うことが可能であった場合、あなたは地獄へ行って、そこで説教し、キリストのための戦利品をかちとることができるであろう。いかなる人をも悪人すぎるとか、よこしますぎると考えることなく、労苦し続けるがいい。神はいかなる場合にも驚くべきことを行なうことがおできになるからである。

 IV. しめくくりに、非常に簡潔に注意したいのは、《こうした事がらについて何と云うべきではないか》ということである。

 先に、こうした尋常ならざる回心について何と云うべきかは告げた。――私たちは、神の恵みの無代価さと主権を見るべきである。それを私たち自身のために求めるよう励まされるべきである。また、他の人々の回心について希望すべきである。しかし今、私たちは何と云うべきではないだろうか? 1つのこととして、私たちが云うべきでないのは、このことである。――「ならば、私はじっと座ったままでいよう。そうすれば、神の恵みが私のもとにやって来るかもしれない。私は求めも、祈りも、願いもすまい。たとい私が全く無関心でも、恵みは私を訪れることがありえるのだから」。さて、話をお聞きの愛する方々。もしあなたが自分の霊的な怠惰のためにそのような弁解をするとしたら、そのような覆いが薄すぎて、自分の裸を隠せないことに気づくであろう。あなたには、もっと分別があるはずである。ある人が突然、遺産を得るか、投機によって、たまたま大金持ちになったとする。ならばあなたはこう云うだろうか? 「私は、自分の店を開けておくのはやめよう。仕事をやめよう。二度と勤めには出まい。ロビンソンの奴は一千両をつかんだのだ。私も家にじっとしていよう。そしたら、同じ巡り合わせになるかもしれない」。否。あなたは知っているはずである。世間で突然に富を得たといういかなる実例も、それはこの規則を証明するだけでしかない、と。財産を得たいという者は、それを定められたしかたで見いださなくてはならない。そのように、こうした神の尋常ならざる介入の例はみな、あわれみを得たい者はそれを求めなくてはならないという規則を証明するのである。「主を求めよ。お会いできる間に」[イザ55:6]。これこそ、不変の規則である。そして、確かに神はご自分を求めていない者たちのもとにおいでになるが、それでも、この規則が有効であることに変わりはない。

 あなたは知らないだろうか? あなたが悔悟しないままとどまっている間、あなたの魂が罪に定められていることを。ある人々はこの恐ろしい危険を冒してきたが、命拾いしてきた。だからといって、あなたが同じことをする何の理由になるだろうか? 私が聞いたことのある、ひとりの人は毒を飲んだが、近所の医者の処置が迅速だったため、胃洗浄器により命をとりとめたという。だからといって、あなたが毒を飲み込む理由になるだろうか? 罪の中を突き進みつつある一部の人々のいのちが、摂理によって保たれているからといって、あなたが神に反抗し続ける理由になるだろうか? ひとりの英国人水夫の話を聞いたことがある。彼がある外国の港にいたとき、外国人たちは、とある王族に敬意を表するために、登桁礼を行ない、その曲芸をしていたという。それで、わが同国人は、英国人に何ができるか見せるために、帆柱の天辺に登ると、そこで逆立ちをしてみせた。突如、船が急に傾き、彼は転落した。だが、幸いな摂理によって、彼は落ちていく途中で一本の縄をつかみ、安全に甲板に降り立った。「そら」、と彼は云った。「お前たち。こんなふうに落っこちることができるか、やってみろよ」。この挑戦に応じる者がひとりもいなかったことに、あなたは驚くだろうか? 馬鹿でもなければ誰がそのような実演の真似をすることを引き合うことと考えるだろうか? そこここに、重大な危険を冒しながらも、天来の恵みの介入によって、自らの愚行の結果から救われる者がいるからといって、あなたがそうした危険を自ら冒すべきだという何の理由になるだろうか? 神がそのように介入なさることは、誰にも疑うことはできない。だが、それでも、神の主権の規則はこうである。「主を求めよ。お会いできる間に」。そして、主の民は日々こう叫ぶのである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。イエス・キリストの功績に信頼するがいい。そうすれば、あなたは救われる。私たちの福音は、「じっと座し、天来の介入を待ちなさい」、ではなく、こうだからである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。

 さらに、私たちは決してこう云うべきではない。「なぜ他の人々を救うのに手段を用いるのか? 神はご自分のみわざを行なうことがおできになるのだ」。兄弟たち。このようなことを語るとき、人は常に悪い心の状態にある。その人は自分が筋の通らないことを云っていると承知しており、ただ、自分の怠惰さを弁解し、自分の良心をなだめるためにそうしているにすぎない。私たちは魂をかちとるために労苦すべきである。というのも、人々は媒介的な手段によって神のもとに導かれるからである。神が何の手段もなしにお救いになるように見えるところでも、事のすべてを明らかにできるとしたら、手段が用いられたことが分かるであろう。例えば、サウロの回心を取り上げてみよう。あなたは尋ねるであろう。「彼の場合どんな手段が用いられたのですか?」 私たちには分からない。だが、おそらくは殉教の死を遂げたステパノが、自分の敵たちのために祈った際は、この青年が恵みによって召されるための二義的な原因だったのかもしれない。いずれにせよ、彼もステパノのとりなしに含まれていたのであり、その祈りはサウロのために神のもとに立ち上り、天国で力を振るったのである。それから、さらに、サウロが上から捕えられた後のことを眺めるがいい。アナニヤがやって来て、彼の目を開かなくてはならなかった。それで、その場合においてさえ、以前の祈りという媒介的手段、また、以後の教導という媒介的手段があったのである。

 同じことが、突如として回心した多くの人々について云えよう。もしかすると、その前に四十年もの間、息子のために祈りを積んだ末に天国に行った母親がいたのかもしれない。祈りは長持ちし、何年もその芳香をとどめているからである。そして、こう云わせてほしい。たとい父親や母親がその回心のために一言も祈らなかったとしても、ことによると、ひとりの祖父が祈っていたかもしれない。祈りには何百年も続く力があるからである。そして、ひとりの曾祖父の祈りが、その曾孫の回心の媒介的手段であったのかもしれない。祈りの効力には果てがない。善良なリッポン博士はしばしば、講壇上での祈りの中に、このようにその魂を注ぎ出すのが常であった。すなわち、自分が牧師をしているこの教会を神が祝福してくださり、このタバナクルの教会員たちが、自分のとりなしによって引き下ろされる祝福の相続者となるように、と。ならば、祈り続けるがいい。あなたの祈りは、もう五世紀経ってからかなえられるかもしれない。あなたのそうした祈りは、キリストが来られるまで保管されるかもしれないが、その後、何らかのしかたで効力があるであろう。

 こういうわけで、見ての通り、私たちが何も媒介的手段がないと思うときも、実は見る目さえあれば媒介的手段があるのである。こうした尋常ならざる事例は、決して私たちが罪人たちをキリストへと導くために行なうことのできるすべてを行なうべきでない理由として用いられてはならない。神のみわざは、そうした場合には、私たちを落胆させる代わりに、私たちの側の行動を刺激すべきである。神が働いてくださるからといって、私たちはじっとしているべきだろうか? 否。むしろ、神が働いてくださるから、私たちは神とともに働く者となろうではないか。それは、私たちを通して直接的、間接的に、神の目的が果たされるためである。かりに今、ある特定の戦闘の帰趨が、全くその将軍の手並みにかかっていることが知られていたとしよう。両軍は全く均衡しており、すべては司令官の戦術にかかっているに違いない。だからといって、その兵士たちは、こう結論するだろうか? 自分たちが弾を込めたり、射撃したり、剣を抜いたりする必要はないのだ、だって一切は司令官次第なのだから、と。否。むしろ、司令官が働き、彼の軍隊も彼とともに働くのである。私たちもそれと同じである。一切のことは神にかかっているが、私たちは神が用いる道具である。私たちは神のしもべである。それで、神が私たちの背後におられるがゆえに、勇気と熱心をもって前進しようではないか。結果は確実である。神が私たちの《助け手》なのである。

 私はあなたに命じる。私の兄弟姉妹たち。神が、偉大な驚異を行なうお方である事実によって元気づくがいい。あなたの学級に行くがいい。あるいは、その他の何であれ、あなたが労している所に行くがいい。希望の歌を朗らかに歌いながら、また、完全な確信に満ちた祈りをささげながらそうするがいい。魂を救わなくてはならないと感じるとき、魂は救われるものである。私としては、罪人たちがイエスのもとに導かれない限り幸せになることはできない。罪人たちを導かなくてはならない。聖霊は、そうならない限り私たちを休ませないであろう。私たちが罪人たちを導くのでなくてはならない。そして、神にその誉れを帰さなくてはならない。アーメン。

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ある物を捜していて別の物を見つける[了]

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