HOME | TOP | 目次

果報な日!

NO. 3073

----

----

1908年1月2日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1865年1月1日、主日夜の説教


「きょうから後、わたしは祝福しよう」。――ハガ2:19


 思うに、私がこの約束を読み上げるや否や、あなたの心は躍り上がり、自然とあなたはこう云うことであろう。「主よ。きょうをその日としてください。――この一年の最初の日、しかも主の日を――この日を、格別に特別なしかたであなたが私を祝福をし始める最初の日としてください!」 神の祝福は、その被造物が受けることのできる最も貴重な賜物である。それを奪われることは、その最悪の惨禍である。地獄とは何だろうか? 神の祝福の来ることがありえない場所である。天国とは何だろうか? 神の祝福が混ぜ物なしに絶え間なく享受されている場所である。私の神よ。あなたの祝福と天国のどちらかを選ばなくてはならないとしたら、私は、天国にいながら――そのようなことがありえるとして――私の神から祝福されないままでいるよりも、むしろあなたの祝福を選んで天国を出ることの方を選びます。被造物の最高の至福は、その《創造主》によって祝福されることである。また、神の子どもの最高の至福は、その御父の祝福を自分の頭と心の上に受けることにほかならない。

 ある意味では、愛する方々。神がいつご自分の民を祝福し始めるかは判然とさせることができない。もしあなたが、あらゆる日々をさかのぼり、何の日もなく、ただ、《年を経た方》[ダニ7:9]おひとりしかいないとき、また、何の時もないとき、永遠だけしか存在していなかったときへと戻るとしたら、あなたは《神性》の会議室の中で、神がご自分の民を祝福しておられるのを見いだすであろう。もし私が永遠の中に、ある一日を仮定できるとしたら、それについてこう云えるであろう。「この日から後、エホバはご自分の民を祝福することになるのだ」、と。イエス・キリストが人のからだで現われたとき、それは、あなたや私が生まれる前のことであったが、それでも私たちはこの《書》の中に記されていた。そこには、キリストの肢体のすべてが記されているのである。そして、主がそのみ頭を垂れて、「完了した」、と云い、霊をお渡しになったその日から[ヨハ19:30]、1つの水路が開かれた。天来の聖定から生じた、かの恵みの奔流のための水路である。そして、格別にこう云えるであろう。その日から後、神は私たちを祝福し始めたのだ、と。あなたや私が生まれたとき、私たちの顔が空気に触れ、また、私たちの目が開いて光を見たその瞬間から、種々のあわれみは私たちを待っていた。優しい母親が私たちをその胸に受けとめてくれた。親切な父親が私たちの弱さと幼少期の必要物を供してくれた。私はこう云って良いであろう。揺りかごの頃から主は、「きょうから後、わたしは祝福しよう」、と云ってくださったのである。しかし、私たちの中のある者らには第二の誕生日がある。私たちが、死からいのちへ、暗闇から光へと移った日である。幸いな日よ! 私たちは決してそれを忘れることができない。幸いさにおいて、それは、私たちが顔覆いなしにキリストの御顔を見てとる日に次ぐ日である。私たちの存在の中でも最も幸福な日は、十字架の上にかかって、私たちのもろもろの罪の罰を負っておられる御姿を私たちが見た時であった。まことに私は、十字架の根元に立つとき、また、イエスがそこで初めて私と出会ってくださった日を思い出すたびにそう云えるであろう。そのとき主は私にこう仰せになったのである。「きょうから後、わたしは祝福しよう」、と。

 しかしながら、ここで時間を取って考えたい気がする一切の時と時期を見送ることとし、私は本日の聖句を用いて、第一に魂を追い求めたいと思う。その時はやって来る。今晩でさえ、神がそうした人々を祝福される時は来る。それから私は、これを個々のキリスト者のために用いたいと思う。願わくは彼らにも同じことが当てはまるように! それから私は、この聖句をこの教会全体に当てはめたいと思う。願わくはこの教会がこの約束の祝福を実現できるように!

 I. 第一に、私はこの聖句を用いて《魂を追い求める》ことにしよう。

 私は今も覚えている。私の心が激しく真剣に神を求めており、私の決してやむことのない願いと私の日ごとの叫びがこうであったときのことを。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」*[ヨブ23:3] そして私は主にこう尋ねるのが常であった。「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、私に聞いてくださらないのですか? いつまで私はキリストの御顔をむなしく求めなくてはならないのですか?」 このことによって私は、いま同じような状況にある他の人々への同情心を覚えるものである。あなたは長いこと休み場を捜してきたが見つからない。あなたは倦み疲れ、重荷を負っている。そして今晩こう云っている。「神はいつ私を祝福してくださるのだろうか? いつ私はキリスト・イエスにある御父の御顔を見る特権にあずかれるのだろうか? いつ私の罪が赦されていることが分かるのだろうか?」 私の愛する兄弟姉妹。神は、その御顔を御民にお示しになる時期をご存知である。その時期は、それが到来したときには、確かにあなたに慰めをもたらすであろう。キリストについてこう記されている。「主は……サマリヤを通って行かなければならなかった」[ヨハ4:4]。そして、あらゆる選ばれた罪人にとっても、それと同様の必然がある。恵みの日が来なくてはならない時がある。キリストにお目にかかり、キリストを通して救われることになる時がある。その定められた、喜ばしい時はまだあなたのもとにやって来ていない。私は、それが今晩やって来るように祈るものである。

 もしあなたが、それがいつやって来る見込みが高いか知りたいというなら、それを予測できるいくつかのしるしを示させてほしい。

 あなたが自分の心に神の愛の囁きを聞く可能性が高いのは、あなたが肉に対する一切の信頼を捨ててしまった時である。もしかしたら、あなたは、いま現在、自分自身の種々の祈りに、ほのかに依存しているかもしれない。あなたは、自分の洗礼だの、自分の堅信礼だの、自分の教会通い、または会堂通いだのに信頼するほど愚かではない。だが、あなたの内側には、次のような反逆的な思いがひそんでいる。自分が聖書を読むことには、あるいは、自分が涙を流して悔い改めていることには、あるいは、自分から発している何か他のことには、何がしかの効力があるのではないか、役に立つ部分があるのではないか、と。さて、覚えておくがいい。あなたがキリストの満ち満ちた豊かを知りたければ、キリスト以外のあらゆるものの空しさを知るのでなければならない。人によって織り上げられた一切のものを神は解きほぐすであろう。永遠の救いという件において、人間的な精力が築き上げることのできるあらゆる棒きれや石は、エホバの御手によって引き抜かれなくてはならない。というのも、キリストだけがその家を建てるのでなくてはならないからである。主が建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい[詩127:1]。私は云うが、このことは、ごく些細な問題かもしれない。だが私は切に願う。あなたが、この古いパン種をひとかけら残らず追い払うことを。あなたがキリストを進んで唯一無二の頼りとして受け取ろうとし始めない限り、キリストとあなたの魂は決して一致できないからである。そして、もしあなたが他の何かにより頼む心を僅かでも持ち合わせているとしたら、キリストは決してあなたにとっての《救い主》となることはできない。このことに注意するがいい。

 あなたを祝福する時がやって来るのは、おそらく、あなたと、あなたの一切の罪とが明確に分離するようになるときであろう。それこそ、かくも多くのあわれな罪人たちを厄介な状態に引き留めているものである。なぜなら彼らは、多くの罪を放棄してはいても、なおも秘蔵の罪を1つ手元にかかえているからである。しかし、罪人よ。キリストを愛し、あなたの罪をも愛するということはできない。私もあなたが、外側にある、からだの罪すべてを捨て去ることに何の異存も全くないことは承知している。だが、何らかの世俗性、何らかの貪欲、何らかの小さな罪と手を切ることを、あなたはいやがっているかもしれない。だが、こうしたあらゆる罪を断固として殺さなくてはならない。さもなければ、決してあなたの御父またあなたの神と和解させられることはできない。悔い改められていない1つの罪、また、あなたが今ふけっている、また、喜びとしている1つの罪が、あなたの魂の前で天国の門を閉ざしてしまうことは、あなたが不品行や姦淫や殺人の中で生きている場合と同じくらい確実である。あなたの心はあらゆる罪を憎まなくてはならないし、あなたの心はあらゆる聖潔を愛さなくてはならない。このことが実現するとき、その日から後、神はあなたを祝福してくださるであろう。

 ある人々がキリストによる平安を決して手に入れることがないのは、彼らが十分に真剣にそれを求めていないからである。「私は祈ってきました」、とあなたは云うであろう。「それも真剣にです。私は呻いてきました。叫んできました。葛藤してきました」。しかり。あなたが時にはそうしてきたことは私も承知している。だが、あなたの真剣さは、起こったりやんだりの発作的なものであった。天国の門は、キリストを本当に信ずるすべての人々に対して開かれている。だが、彼らはいかにして叩くべきか、また、いかに何度も何度も叩くべきかを知っていなくてはならない。あなたの魂が、

   「われ、など否を 受けうべき、
    イェスを頼みに 訴えおるに」――

このように云える点に達するとき、そのとき、あなたが拒まれることは決してないであろう。おゝ、魂よ。あなたが逃れたいと思っている地獄について考えてみるがいい。それはあなたのまどろんでいる霊を奮い起こさせないだろうか? それから、あなたがあずかりたいと思っている天国について考えてみるがいい。このことによって、あなたの怠惰な魂に火がつけられないだろうか? さあ、ぜひ少しの間でも、あなたがいかなる状態、状況にあるかについて、また、時と、永遠と、死と、天国と、地獄について思い巡らしてみるがいい。そのようにして、あなたの魂に奮起させ始めるがいい。もしあなたが冷たく、祈りを愛していないとしたら、神があなたを祝福されることはないであろう。だが、あなたの魂が敬虔な熱狂主義に至るとき、その日から後、神はあなたを祝福してくださるであろう。

 思うにあなたが祝福を全く確実に受けることになるのは、あなたがそれを喜んで神のしかたで受けようとし始めるときである。あなたがたの中のある人々は、非常に深い罪の確信を感じるまでキリストを信じようとしない。もし神が身をへりくだらせて種々の夢であなたに警告を与えるなら、あなたは神のみもとに行くであろう。もしあなたが、何らかの紋切り型のしかたで救われたいと心に決めているとしたら、また、イエス・キリストがある特定のしかたでご自身を現わしてくださらない限り決してキリストを信じようとしないのであれば、あなたの祝福の日がやって来るまでには長くかかるであろう。だが、あなたの魂が、「もし私がイエスを仰ぎ見ることさえできるなら、私はあの経験、この経験を求めはしません。主よ。ただ私をお救いください。ただ箱舟の中にだけ私を入れてください。そして外にいるあらゆる者に臨もうとしている破滅から逃れさせてください。そうすれば、私の魂はそのむら気や、種々の願いや、高ぶった意志を打ち捨てて、あなたの御名を、あなたの恵みがなさったことゆえにほめたたえるでしょう」、とそう云うとき、また、あなたの心が神の前で、さながら印章の下の封蝋のようになり、天来の御手がそれに押しつけようとするいかなる刻印をも喜んで受けようとするとき、そのとき神はこう云われるであろう。「きょうから後、わたしは祝福しよう」、と。

 すべてを一言で要約すると、――もしこの場にいる罪人が、自分の魂の中で、「まことに、私はキリストを今晩受け入れ、キリストにより頼みます。私は自分が他のどこにも逃げて行けないことがはっきり分かります。それで私は、この千歳の《岩》の裂け目に飛んで行き、そこに隠れ場を見いだします」、と云っているとしたら、今晩から後、神はあなたを祝福してくださるであろう。もしあなたの信仰がキリストに、また、キリストだけに基を置いているとしたら、行くがいい。あなたの多くの罪は赦されている。また、あなたは受け入れられた魂となっている。そして、死も地獄も、あなたをあなたの御父の愛から引き離しはしない。言葉に尽くせない喜びをもって喜ぶがいい。というのも、数々のあわれみの長い列が、代々とこしえにあなたのものとなるからである。

 私はこの点について十分に語ったと思う。祈るがいい。あなたがた、祈りの力を理解している人たち。神がこの素朴で、弱々しい言葉を用いて、幾人かの捕われ人を慰め、彼らの枷を解いてくださるようにと。

 II. そして今、私は《神の民に》目を向け、彼らに二言三言語りかけようと思う。

 今晩、この集会の中には、キリスト・イエスにあって自分が祝福されていることを知っている多くの聖徒たちがいる。だが彼らは霊的生活のより高い状態を慕って思いを焦がしている。彼らは、より深いキリストとの交わり、よりキリストに似た者となること、その他を欲している。愛する方々。あなたは、いつこのえり抜きの愛顧を受けられると期待できるか、いつ自分が御父の御顔の光の中を歩めるようになるか知りたいと欲している。答えよう。あなたの霊が全く神のみこころにゆだねられたとき、その時から後、神はあなたを祝福してくださるであろう。私の主の《みこころ》を《王の王》の満ち足りたしもべの意志とすることは至難の業である。この場に立ち上がって次のように歌うことはたやすい。――

   「汝れ、われを呼び わが宝をば
    捨てよと召さば、――そはわがものならず、
    われただ渡さん、汝がものを。
    『汝がみこころの なさせ給えや!』」

しかし、あなたが愛児の死に顔をのぞきこむとき、あるいは、愛する妻、または、愛する夫、または、あなたの魂で愛する兄弟か姉妹を墓に葬らなくてはならなくなるときにそう云うことは、それほど容易ではない。私たちは、「汝がみこころの ならせ給えや」、と云うが、神のみこころがなされつつあるときには、必ずしもヨブの言葉にならって、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]、とは云わない! キリスト者である人が炉の中にいる場合、その人が、「いつこの炎は弱まるのだろう?」、と問うている間は、そこから出てくることは期待できない。しかし、その人がそうした環境にあっても、「主のみこころがなりますように」、と云えるようになるや否や、その火は過ぎ去るであろう。それは、その金属がしかるべく溶融され、金滓が消え去ったしるしである。そのとき、そこには《精錬主》のかたちが見える。――その心は神の御顔を反映して、こう云うのである。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」[マタ26:39]。

 愛する方々。嘘ではない。私たちのみじめさは、私たちの利己的な心の根底に生えてくるのである。利己的な思いが始まるところで、悲しみも始まる。そして、利己的な思いが死ぬところで、嘆きも死ぬ。私が何のことを云っているか分かるだろうか? もし私たちの魂が完全に何もかもエホバの意志に明け渡すとしたら、私たちは決して何も失わない。すでにすべてを明け渡しているからである。もしも私たちが、古の清教徒のように、こう云えるとしたら、私たちは決してつぶやかないであろう。「私は常に自分の意のままにしてきた。なぜなら、神が私を助けて、ご自分のみこころを私の意志とさせてくださったからである」。次のように云うことができた乞食は、健全な心の状態であることが分かる。ある人が彼に云った。「お前に良い一日があるように祈るよ」。そこで彼は答えた。「お祈りいただきありがとうごぜえやす。ですが、あっしはいつだって良い日を過ごしておりやす。あっしには、どんな日も同じくれえ良い日でやす。神様があっしとともにおられますんで」。「そりゃそうだが」、と彼と話をしていた人は云った。「お前だって、他の日よりも嬉しく思える日はあるだろうが」。「いいえ」、と彼は云った。「ありやせん。どんな日も神様を満足させておりやす。そして、神様が満足なら、あっしも満足なんで」。ひとりの人が、あるキリスト者の老婦人に云った。「もしもあなたが生きるか死ぬかを選べるとしたら、どちらを選びます?」 彼女は答えた。「私は全然選ぼうとは思いませんわ」。「ですが、かりにどうしても選ばなくてはならなくなったとしたら?」 「そのときは、私に代わって神様に選んでいただきたいと思いますわ」。見ての通り、彼女はなおもその選択を避けて、それを主にゆだねているのである。あなたの心がそのようになるとき、そのとき、その日から後、神はあなたを祝福してくださるであろう。

 キリスト者として、私たちが大きな祝福を期待できるのは、神に仕えるために自分のすべてをささげるということを、もはや口先だけではなく、現実に行なう時である。そのときには、その日から後、神は私たちを祝福してくださるであろう。云うまでもないことであろうが、何にもまして神に受け入れられるささげ物とは、私たちにとって最も高価なものである。あのやもめのレプタ[マコ12:42]が尊かったのは、それがレプタだったからではなく、彼女のあるだけ全部だったからである。古のことわざは云う。「気前の良い人は、手が汗ばむまで物を与える」、と。そうした類の人は多くはない。真の気前の良さが始まるのは、手にこたえ始める時である。私たちが私たちの神なる主に与えたものによって、何らかの犠牲が引き起こされる時である。私は今晩、自分のあり方すべて、自分の持てるものすべてが私の《主人》のものであると感じているだろうか? 本当に私はこう云えるだろうか? もしも痛みと貧困の人生が主の栄光を現わすとしたら、私は痛みと貧困の中で生きることを願う、と。また、もし私の死がより主に誉れを帰すとしたら、私はすぐさま喜んで健康と慰安を離れて、死の剣による一打ちを受けたい、と。あなたはこう感じているだろうか?――

   「群れの小羊(ひつじ)の 一頭(ひとつ)といえど
    われ養うを 見下さず、
    いかな敵(かたき)の 面前(まえ)にても
    御国を訴(つ)ぐを われは恐れじ」。

あなたは、今晩も再び、あなたの神に対してあの厳粛な臣従の宣言を行なえるだろうか? あなたが最初にキリスト者のもとに来たときに行なったあの宣言を。――

   「成し遂げられぬ! 大いなる取引(わざ)
    われは主のもの、主はわれのもの。
    主われを引きて、われは従い、
    魅せられ告白(い)わん 天つ御声と」。

もしもそうできるとしたら、この日から後、神はあなたを祝福してくださるであろう。

 ある特定の時期に、神はご自分の民に新たな祝福をよみがえらせてくださる。時としてそれは、彼らが特に祈りに携わってきた後である。思うに、あなたがたはみな、自分の人生の中に何がしかの――こう呼んで良ければ――名所旧跡を有しているであろう。自分の霊的な経歴の出発点として、また、格別な霊的愉悦の時期として引き合いに出せる時点のことである。例えば、そのような日について、あなたがたの中のある人はこう云えるであろう。「私はキリストとの甘やかな交わりを持ちました。私の魂は、主のまなざしに見つめられて恍惚となりました」。よろしい。さかのぼればその日以来、あなたは格別な愉悦の時期を受けてきたと感じる。さて、私が今晩希望しているのは、この聖餐卓において、私たちがそうした時期に恵まれ、それと同じように明日も個人の祈りにおいてそのようにされることである。とあるスコットランド高地人が自分の救いについて疑いをいだき始めた。しかしながら、彼は疑いの中に安住していることはできなかった。むしろ、高い山の頂上に登り、そこで一晩中、祈りの格闘を続けた。また、その静思の時に心を奪われたあまり、翌日も一日中そこにとどまっていた。だが、その時以来、彼は決して種々の疑いに悩まされることがなくなった。その山頂における彼とサタンの大格闘は、彼の疑い恐れの時期を永遠に終結させたかに思われた。そして、その時から明瞭な輝きが彼の上にとどまり、それは彼が故郷に取り去られるときまで続いた。私たちも、何らかの時期をキリストとの交わりを求めるために取ることは良いであろう。というのも、そうした時、主は私たちを祝福してくださるからである。

 また、私の信ずるところ、多くのキリスト者たちの生涯においては、ある特定の行為を行なったときから、新たな霊的いのちが生じてきた。自分ひとりの秘かな事がらを打ち明けたくはないが、私自身にはそうした日があった。私に一種の新しいいのちが生じた日である。ことによると、愛する方々はそうしたものをほとんど知らないかもしれない。だが、私はある安息日の夕べを思い起こす。その時期には、何週間にもわたって、《学校》の支援募金が二、三ポンドにしか達さず、そこには養わなくてはならない二、三十人の青年たちがいた。私は手元の持ち金をすべて払い尽くしてしまい、私の知る限り、翌週の支払いができる金銭はどこにもなかった。その日の夕べ、私は、物質的な事がらにおいても神を信じる信仰によって歩むことを学んだ。それ以前には、それほど完全には学んでいなかった教訓である。まさにその晩、私はここから出て行き、私の後ろに座っていた兄弟たちのひとりにこう云った。「今やぼくの銀行は枯渇してしまったよ」。「いいえ」、と彼は云った。「あなたの《銀行家》は永遠の神であられます。神が枯渇することは決してありえませんよ」。「それはそうだが、結局のところ」、と私は云った。「ぼくは、からっけつなんだよ」。「それでも」、と彼は云った。「あなたの神を信頼することはできないのですか?」 私たちはそのとき卓子の上に載っていた手紙を開封した。彼も私も全く知らぬまにそこにあった手紙である。そこには二百ポンドが入っていた。その匿名の贈り主が誰であったか私には全く分からず、おそらく最後の審判の日まで分からないであろう。その瞬間から今に至るまで、私はその件において神を信頼してきた。そして、よく聞いてほしい。私は、あれこれのことで基金が不足しているのを見いだすことはあったが、本当に金銭が不足したことは一度もなかったのである。というのも、それが必要とされるときには常に神がそれを送ってくださったからである。私はこう考えてきた。あの晩以来、私の天の御父はその働きをご自分の御手の中に置かれ、こう云われたのだ、と。「この時から後、わたしは祝福しよう」、と。

 あなたがたの中のある人々は、十分な収入があり、非常に裕福にしていたが、その一切があなたから取り上げられ、あなたは漂流しているように思われた。しかしそのとき、生まれて初めてあなたは信仰によって生きることを始めた。そして、たといそれが、いわゆる手から口への生活でしかなくとも、あなたは、それ以前に得ていた以上の祝福をその中で得ているのである。そしてあなたは、確かに以前ほど金持ちではなくとも、非常に大きな内なる慰めと、良心の平安を得ているため、あなたはあの日から後、神が自分を祝福しておられると感じてきた。もしこの場にいるキリスト者の誰かが、信仰と感覚との中間で愚図愚図しているとしたら、私はあなたにその鎖を断つように願いたい。世的な人々はあなたに云うであろう。「現状でよしとしておけよ」、とか何とか。だが、この世で最高の思慮は子どもとなることであり、最高の知恵はこの世が愚かと考えることなのである。「真っ直ぐ走る者こそ最高の走者である」、とひとりのドイツ人が、自分の神により頼んでいた際に、その著書の1つで語っている。そして、それはまことに真実である。あちらこちらへと飛び回り、「これこれのことは本当でしょうか?」、と尋ね歩くよりも、真っ直ぐにあなたの神のもとへ行くがいい。単純な義務の道筋において、また、信仰の聖なる道において、そうするがいい。その方路を取るがいい。そうすれば、「きょうから後」、と主は云われる。「わたしは祝福しよう」。

 III. さて今しめくくりに私が考えたいのは、《あらゆる教会》が神のこう云う御声を聞く時があるということである。「きょうから後、わたしは祝福しよう」。

 私の信ずるところ、教会は、それが祝福を得ようと決意するや否や、この御声を聞くであろう。しかしながら、教会をそうした状態にするのは困難なことである。私の知っている一部の田舎の教会では、教役者たちの努力がまず間違いなく無駄になっている。それは、その会衆のためというよりは、その教会のためである。私の同労教役者たちは時として私にこう云うことがある。「私は祈祷会を開こうとしてきましたが、彼らはやって来ようとしないのです。何らかの霊的な集会を持ちたいと思いましたが、ひとりの老執事がこう云いました。『私たちはそのような会を開いたことがありませんし、今そうしたものを開くつもりもありません』。私は近郊を福音化するために、彼らに何かをさせたいと思ったのですが、彼らはそうする余裕がないと云いました。彼らには、その教会の働きを維持できるだけのものがあるのに、そうしようとしないのです」。さて、そうした教会は決して祝福を期待できない。だが、私の信ずるところ、この教会においては、私たちは心を1つにしている。そして、その1つの心とはこのことである。――私たちは、神が天の窓を開いて、祝福を私たちに注いでくださるまで神の御前で訴えるつもりである。私たちは、ひとり残らず、この件に関してはこう感じている。私たちは、契約の御使いが私たちの切望するものを与えてくれるまで彼と格闘するであろう、と。また、私たちはこうも感じている。キリストは、より多くの宝石がご自分の燦々ときらめく宝冠にはめこまれるまでは、決して満足なさらないだろう、と。よろしい。私の信ずるところ、もしこれが真実だとしたら、まさに今晩から後、神は私たちを祝福してくださるであろう。

 神がご自分の民を確実に祝福してくださるのは、あらゆる人が自分にはなすべき何かがあり、それを行なうつもりだと感じるときである。こう云ってはならない。「私の兄弟はこれこれのことを行なうべきです。また、私の教役者はあれやこれやを行なうべきです」、と。もちろん、あなたは、そうしたければそう云うこともできるが、それは祝福を受ける道ではない。あらゆるキリスト者の主たる務めは、自分自身の個人的な責任に存している。私の聞いたことのある、ある人は、何らかの募金がなされていた日曜日に献金箱の脇を通りかかり、どのくらい出しますかと尋ねられて、こう云ったという。「私がいくら出そうと、誰にとっても何ほどのものでもありません」。別の人はこう思ったという。確かに彼の出すものは、まことに何ほどもないだろう、と。さて、世の中のある人々は、彼らが行なうことにおいて、それと程度が同じである。彼らは誰に対しても何の善も施さない。彼らは自分のために生きている。そして彼らが死ぬとき、彼らの一生は純然たる利己的なものとなっているであろう。こうした人々は、教会にとって祝福というより呪いである。だが、兄弟姉妹。もしあなたがたひとりひとりが、自分の埋めるべき隙間を有しており、それを埋めようと決意するとしたら、また、もしあなたがなされるべき何かを悟り、神の御名においてあなたがたひとりひとりがそれをなすとしたら、そのときには、この時から後、神はあなたを祝福してくださるであろう。

 そして、確実に祝福がやって来るのは、祈りの力強い流れがあるときである。そして、まさに今のこの教会にはそうした流れがある。私が希望するのは、明日の晩、私たちが特に祈りのために集まるときにも、そうした流れがあることである。私は希望する。ひとりひとりが甘美な香を満杯にし、聖なる祈りの立ちのぼる香炉を手にしてやって来ることを。兄弟姉妹。私たちは密室において、より祈らなくてはならない。ことによると、ここで私たちは失敗しているかもしれない。私たちは時がよくても悪くても熱心に祈らなくてはならない。――祈りのため、時が悪いなどということがありえたとしたらだが。そしてそれから、私たちがここで祈祷会にともに集まるときには、そこには格闘の時がなくてはならない。――聖なる格闘によって確かに祝福を神からかちとらなくてはならない時がなくてはならない。愛と一致が支配するとき、また、教会員それぞれが互いに助け合っているとき、また、1つに結ばれた教会全体が魂の回心において神の栄光のほか何も求めていないとき、そのときには祝福がやって来るであろう。私は預言者でもなければ、預言者の子でもないが、あえて予言しよう。このように幸いに始まったこの年、この教会には、大いなる祝福があると。私たちは過ぐる年を祈りの屍衣でくるむことによって閉じた。この年には賛美の翼を与えるであろう。だが、それでも御霊の訪れを求めて祈り続けるであろう。そして私たちは確かにそれを得るであろうし、主の御名には栄光が帰されるはずである。

----

果報な日![了]

HOME | TOP | 目次