HOME | TOP | 目次

伝道者の一所見

NO. 3072

----

----

1907年12月26日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1864年12月25日、主日夜


「事の終わりは、その初めにまさ……る」。――伝7:8


 一部の翻訳者たちは、この箇所をこう読む。「の終わりは、その初めにまさる」。また、疑いもなく、私の話をお聞きの多くの方々も、その意見に全く首肯するに違いない。あなたは私たちが話を始めるときには辛抱強くしようと努めるが、「最後に」、という一言を私たちが発するが早いか、目をきらめかし始める。この長たらしい億劫なお勤めも、じきに終わると思うからである。そして、もしそれが話を聞く側について云えることだとしたら、私はこう認めよう。時としてそれは、話をする側についても云えることがある、と。話し手は、時として、話を始めることが困難であること、また、徳を建て上げるように話し続けることがさらに困難であること、だが、話を切り上げることがさほど困難ではなく、むしろ、ぜひともそうしたいと思うことに気づく。よろしい。疑いもなく、多くの若い説教者は、自分が初めて話をしようとした時のことを思い出せるであろう。いかにその話の最後の方が、最初の方よりも気分が良くなったことか。高所に張った縄の上を歩く若い軽業師が、震えながら足を踏み出し、おずおずと一歩また一歩を運び、ついにその危険な務めの最後に達するように、若い説教者は腰を下ろすことを喜ぶものである。話の終わりは、その初めにはるかにまさる。

 私は、それが正しい説明だとも、適切な翻訳だとも思わないが、それは大きな真実である。というのも、ある人が有害なことを話すとしたら、その人が話を終えるのは良いことだからである。その人が、その根も葉もない危険な話を続けるよりは、話をやめる方がまさっている。また、もしある人がすぐれて能弁な使節であって、伝えるべき良い知らせを持っているとしたら、その知らせを伝えて、自分の任務を全うした方が良い。今や、あなたは一段上に上ったことになる。あなたは1つの真理を受け取ったのであり、その真理によって魂を養われることができる。ならば、それを受け取っている方が、受け取らないでいるよりもまさっている。それゆえ、終わりは初めにまさるのである。

 この聖句は、この通りにではなく、多少塩味を効かせた上で受け取らなくてはならないと思う。この言葉は、絶対的にではなく、相対的に正しい。「事の終わりは、その初めにまさ……る」。これは正しい。さもなければ、聖書にそう書かれてはいないであろう。だが、この真理は何にでも当てはまるわけではなく、事と次第を分けなくてはならない。確かにこのことは、神の秩序に従って起こる一切のことについては正しい。それを神が始め、神が終わらせてくださるとき、あるいは、それが神の指示によって始められ、神への恐れによって行なわれ、神の臨在のもとで終えられるときにはそうである。そうした場合、終わりは、その初めにまさると云える。だが、この聖句をあらゆる場合において、絶対的に、何の分け隔てもなく正しいとしてはならない。しかしながら、少々塩味を効かせた後なら、ソロモンにふさわしい金言だと思う。

 「事の終わりは、その初めにまさ……る」。現実世界のいくつかの情況は、このことを例証するであろう。その初めと終わりをくらべてみよう。種を蒔く人が、その一握りの貴重な種をかかえて、じめついた霧雨の降る朝に表に出る。無駄に種を残しておくことは絶対に避けたいからである。だが、それを蒔く際には、激しい風が顔に吹きつけ、寒気が頬をこわばらせる。その人は、文字通り「涙とともに種を蒔く」[詩126:5]と云えよう。それゆえ、その初めは決して心地よいものではない。それから収穫祭がやって来る。微笑みかける娘たちと喜ばしげな若者たちが歌声をあげ、踊りを踊る中、畑の作物は無事に倉に収められる。それが事の終わりである。誰しも収穫期が種蒔き時にまさっていることは見てとれると思う。あるいは、ある人が長旅に出発する。一本の杖を手に持つ。向こうの険しい岩山を登る準備をする。嵐がやって来るだろうが、嵐を乗り越えて前進しなくてはならない。雨で増水した小川がいくつもあるだろうが、それをすべて越えて行かなくてはならない。勇を鼓して、あらゆる難関を乗り越える。だが帰って来たときには、健康的な運動をふんだんにこなした後である。向こうの険しい岩山を登りきり、小川という小川を越え、嵐を物ともしなかった。そして今は赤々と燃える暖炉のもとにやって来て、腰を落ち着けて体を休めるのである。旅は終わったのだ。「事の終わりは」、とその旅人は云う。「その初めにまさるものだ。骨の折れることもあったが、今やその骨折りも和らいでいる。それは過ぎ去ったことで、今は休んでいられるのだから」。あるいは、渠門が開き、河へ引き出されるときの新造船を見るがいい。旗また旗が翻り、誰もがこの、東印度諸島への大胆な航海に乗り出す者たちに向かって歓声を上げている。しかし、その河を再び遡上して来て、貨物を満載したまま船渠に入る際のこの船を見るがいい。また、その船長に問うてみるがいい。彼は希望峰を通過する際の荒天や、イベリア半島を離れる際の嵐を覚えており、自分はこの河を下っていくよりも、上ってくる方がずっと嬉しく思えると告げるであろう。成功した航海の後で、貨物を積み込んだ船とともに帰港するとき、彼は神への感謝とともに、こう云うであろう。「事の終わりは、その初めにまさる」、と。もう1つの情況だけ述べよう。ある軍隊が戦争に出撃する。あなたは彼らを心楽しく眺められるだろうか? あなたがたが街路に群がり、自分の町の大通りを行進する彼らに向かって歓呼の声を上げることは私も知っている。そして、まことに、母国の戦闘を戦うために出撃する精強な勇士たちを見るのは心沸き立たされる光景である。だが、この勇敢な人々のうち何人が戦場に死んで横たわることになるか、また、いかに僅かな人々しか帰国しないかを思うとき、確かに、ごく控えめに云っても、それは心楽しい光景ではないはずである。しかし、この勇敢な人々が、戦闘の嵐と破壊を免れて自らの生国に帰還するとき、また、再びこの街路を通り過ぎるとき、この人々は――見物人はそうでなくとも――戦争の終わりは、その初めにまさると感じる。かつてある人が云ったことだが、良い戦争などいまだかつてあった試しがなく、悪い平和などあった試しがないという。そして、私はその人がたいへんに正しいと信ずる。平和は、それ自体で計り知れない祝福であり、戦争は、それ自体で――義戦であるか否かに関わらず――この上もなく恐ろしい災害である。ならば、あなたが目にしているものが、畑に出た種蒔き人であろうと、旅行に出かける旅人であろうと、海淵に乗り出す航海者であろうと、戦いに出撃する戦士であろうと、あなたは進んでこう思うのである。「事の終わりは、その初めにまさる」、と。私が、こうした4つの情況を示したのは、現実世界の事がらから、より霊的な事がらに目を向ける際に、それらを用いたいと思うからである。

 I. 今晩、この一般原則を用いて、まず第一に、《あなたの種々の後悔を和らげ》させてほしい。

 今年も、ほとんど過ぎ去ってしまったも同然である。ということは、1864年がじきに過去のこととして数えられなくてはならなくなるのである。ある人はこう云っているかもしれない。「あゝ、今年をもう一度やり直せたならどんなに良いことか! 私は善を施す多くの機会をみすみす逃がしてしまった。あるいは、そうした機会を捕えたときでさえ、自分で望めたほど忠実には私の神に仕えてこなかった。《教会》と、世界と、私の神に奉仕すべき年を、また一年、残してしまった。私に預けられたタラントをまた1つ浪費してしまい、私の主なる《主人》のために用いるべきものがそれだけ少なくなってしまった」。さて、愛する方々。この年が過ぎ去ったことを悔やんではならない。むしろ、あなたにとってそれは、あなたがキリストにある信仰者だとしたら、祝うべきことである。真面目に、沈黙のうちにこの件について思い巡らすとき、あなたはこの年をもう一度やり直したいと思うだろうか? 今年、あなたにはいくつか悲しいことがあった。あなたは、いましがた述べた船乗りのようである。あなたはいくつかの嵐を越えてきた。風雨にさらされてきた船員よ。あなたは今年しのいできた嵐という嵐をもう一度経たいのだろうか? あなたは覚えているだろうか? この船が暴風雨のためにすさまじく押しまくられていたあの夜を。あるいは、岩礁に叩きつけられたあの時を。だのに、同じことを繰り返したいのだろうか? 私には、あなたが頭を振って、こう云っているのが見える。「いいえ。神に感謝すべきことに、私たちはあの嵐を切り抜けてきました。しかし、もう二度とご免です」。では、キリスト者たち。あなたが今年の間受けてきた数々の損失や、十字架や、苦しみや、別離を思うとき、あなたは今年が過ぎ去ることに何か後悔を感じられるだろうか? あなたがたはひとりひとり、こう云うに違いないではないだろうか? 「神に感謝します。嵐の後悔は終わり、私はもうあのような暴風雨を忍ばなくとも良いのですから」、と。

 この一年の間、あなたはいかに多くの罠から逃れてきただろうか? 振り返ってみるとき、あなたは、こう注目せざるをえないではないだろうか? あなたの足はたわみそうで、あなたの歩みは、すべるばかりだった[詩73:2]、と。時として、罪がほとんどあなたの足元をすくってしまい、この世がその罠でほとんどあなたをとりことし、悪魔があなたの命取りになる場所を傷つけそうになった。あなたは、自分の航路のすぐそばにあった岩礁や、自分があやうく逃れてきた流砂のことを覚えている船員のようである。あなたは、そのような危険をもう一度冒したいのだろうか? 船員よ。あなたは、あのような干潮時にもう一度、あの浅瀬の上を越えたいのだろうか? あるいは、あの岩のそばを、ほとんど船体をこすりそうになりながら、不快なしかたで吹き流されたいのだろうか? 「いいえ」、と彼は云う。「ああした数々の危険を逃れてきた私は、それが終わっていることに感謝しており、二度と再びそれらを味わいたいとは思いません」。そして、あなたも感謝しているではないだろうか? キリスト者よ。誘惑のもう一年が永遠に過ぎ去ってしまい、サタンが今年あなた目がけて射てきた矢は永遠になくなってしまっているのである。私たちが受けたこの刀傷は、命取りのものとなりかねなかったが、二度と再び恐れる必要はない。それらは、なくなってしまっている。そして、それらがなくなってしまっていると私が云うとき、それは、それらが与える害とそれらが傷つける力が永遠に過ぎ去っていることも含めているのである。

 しかし、この件には別の面もある。今年あなたは、いかにおびただしい数のあわれみを享受してきたことか! いかに神は私たちにいつくしみ深くあられたことか!

   「汝があわれみを 神よ、ことごと
    のぼる我が魂(たま) 眺め見るとき、
    その光景(すがた)にて、我(われ)を忘れん、
    驚異(まどい)と愛と 賛美(ほめうた)に」。

私たちの中で瑞西を、あるいは、その他の、見るに麗しい風光明媚な国々を旅したことのある者らは、そうした風景をこれまで一度も見なければよかったとは決して思うまい。全く逆に、この目がそうした晴れやかな眺望という眼福を得たことを喜んでいる。そして、あなたもまた、キリスト者よ。神の数々のあわれみを目にしてきたことを悔やむことなどありえず、むしろ、神に感謝するであろう。そうした種々のいつくしみを受ける特権が与えられてきたことを。さらに、一年が過ぎ去ったことを悔やむべきではない別の理由もある。いま私が語りかけているのは、老年になりつつある一部の人々である。あなたの思いには、これほど多くの歳月が過ぎ去ってしまったことに対する後悔がきざしがちである。それは私も承知している。だが、主にある私の愛する兄弟姉妹。そうする場合あなたは、それほどの年季を積んだ信仰者にはふさわしくない愚かさのそしりを免れないだろうと思う。ジョン・バニヤンが描き出すところの、キリスト者が進んで行く様子を取り上げてみるがいい。バニヤンやによると、あの基督者は、《天の都》へのその巡礼を始めたときは、自分にのしかかる重荷を背負ったまま、恐れのあまり両手をもみ絞りつつ走っていた。《滅亡の都》で滅ぼされてしまうのを恐れていたからである。それから一日も旅しないうちに、彼は首まで《落胆の沼》につかり、泥の中でのたくらなくてはならなかった。これが巡礼の初めであった。だが、その終わりを見るがいい。彼はかの川のもとにやって来て、その中に足を浸した。それは、凍えるように冷たくはあったが、彼を押しとどめることはできなかった。その川の真中に至ったとき、バニヤンは彼をどのように描写しているだろうか? 向こう岸から天使たちが彼を手招きするのである。彼がベウラの木立の中をそぞろ歩いていたときに、この流れを越えてその澄んだ甘やかな声が聞こえさせていた、当の天使たちがである。そして、今や彼は向こう岸に達した。自分の一切の罪や、疑いや、弱さや、限りあるいのちを後に残し、肉体から離れた彼の霊は天界の国を上って行く。そして、天使たちが彼に付き添い、彼を黄金で敷き詰められた都の、真珠の門へと導いてくれるのである。おゝ! 霊的人生の終わりは、その初めに無限にまさっている。《落胆の沼》と《天の都》を対比してみるがいい。人としての知性があれば必ずや見てとれるであろう。いかにその終わりが、その初めにまさっているか、いかに無限にまさっているかを。

 次のような情況も、同じ点のさらなる例証として取り上げてみよう。モーセは、その霊的生涯の初めにおいては、エジプト人を殺して、砂の中に埋める姿が見られる。――さながら、熱心さではち切れんばかりだが思慮のほとんどない若いキリスト者のようである。そこに、彼の公的な経歴の初めがある。そして今、私には百二十歳の老人が見える。足どりは確かで、眼光の鋭さ明瞭さは鷲のようで、すっくと立って民に話をしている。彼が乳母のように両腕で抱きかかえてきた人々である。そして、そうし終えると彼は、自分の親しいしもべヨシュアと、他のすべての人々を後に残して、ピスガの頂きに登り始めた。彼はその峨々たる岩山の頂点まで登り切ると、身を乗り出して、《約束の地》の全景を見渡し始める。エルサレムとシオンの棕櫚の木々を見てとり、ベツレヘムに視線を漂わせる。はるか彼方の青い海、また、レバノンの良い地がちらりと目に入る。そして、彼が見ているうちに、光景という光景が互いに重なり合い始め、神の御顔を目にする。神ご自身が下って来られ、彼の霊は口づけとともに取り去られるからである。彼のからだに関して云うと、それは誰も知らない所に埋葬された。だが、彼の霊に関して云えば、それは永遠に神とともにある。まことに、モーセの場合、終わりは初めにまさっていたし、このことは、モーセと同じ単純さと信仰によって神に信頼を寄せる、あらゆる神の人について云えるはずである。

 あなたの一切の後悔を和らげるには、これで十分だと思う。こうした年月が過ぎ去ったことを悔やむ代わりに、それを神に感謝し、喜ぶがいい。

 II. さて今から私は、この一般原則を用いて、《あなたの不吉な予感を押しとどめる》よう努めたい。

 あなたがたの中の多くの人々は、闇の中にいるかもしれない。――その闇にはさわれるほどである[出10:21]。あなたは、神が愛の神であり、あなたのことを気遣っておられるという真理を受け入れることに非常な難しさを感じる。しかしながら、あなたはまだ初めの方にしかいない。――《摂理》の道の初めである。あなたのあわれな信仰は、自分が忍んでいる種々の苦しみによって、今にもよろめかんばかりであり、不信仰がかもしだす一万もの予測があなたの魂を疑惑と恐れで満たしている。だが、こうしたすべての終わりは、初めにまさる。多くのキリスト者たちは、その霊的生活の初っ端において、それ以後のいかなる時よりも多くの試練に受ける。「人が、若い時に、くびきを負うのは良い」[哀3:27]。今は太陽が雲の陰にあるからといって、常にそうあると考えてはならない。日食が起こるとき、「お父さん、太陽が消えちゃうよ」、と云うのは幼児であろう。子どもしかそのようなことは云うまい。いかなる大人もそう考えはしないであろう。あなたの、ずっと成熟した経験によって、あなたの不信仰の子どもっぽさを矯正するがいい。神が御顔を隠しておられるのは、じきにそれをより明瞭に示すためにほかならない。終わりは初めにまさる。あなたはこれまで何度も、早朝から霧と雨に閉ざされた日を見てきたではないだろうか? そうしたとき、私たちは辛抱強く、熱心に上天気になるのを待ち続ける。だが、なおも雨粒は途切れることなく降りしきる。風の吹く方を眺め、雨の降る方を眺め、期待をこめて眺め、恐れとともに眺めるが、雨粒はひっきりなしに降っており、それが途切れることなどまるでありそうもないと思われる。だがしかし、正午になるまでに、私たちは太陽が明るく輝くのを目にし、鳥たちがずっと甘やかに歌うのを聞く。そして、雨上がりの素晴らしい天気となる。その午前を、あなたのあわれな、疑いつつある、悩める魂にとって、あなたの人生がこれからどうなるかを示す予言として受け取るがいい。あなたはその目で見てとるはずである。終わりが初めにまさることを。

 もう1つの情景を例証として取り上げ、この点を後にすることにしよう。あわれなヨセフが、自分の女主人に中傷されている。彼の人格は深刻な誹謗を受けており、彼はポティファルによって留置場に入れられる。彼は囚人であり、囚人として暮らさなくてはならない。だがしかし、ヨセフがエジプトの高位に上ることができたのは、ひとえに彼がその地下牢に投ぜられたためであった。あなたは、「負けるが勝ち」でなくてはならない。また、黄金のように燃える石炭の中に入れられて精錬されなくてはならない。だが、じきにあなたがそこから出てきて、その黄金のように純粋なきらめきに輝くときには、このことを知るはずである。「事の終わりは、その初めにまさ……る」、と。

 III. さて今、この聖句のこの単純な言明を用いて、《私たちの信仰の励み》としよう。

 感覚の道は、あらゆるものをいま得ようとする。信仰の道は、あらゆるものを神の時に得ようとする。世俗の人は現在に頼って生きる。キリスト者は未来に頼って生きる。信仰が常に大きく強められるのは、私たちが神のみことばに従って、現在の見かけよりも、自分の生き方によって生み出されるものに目をとめる場合である。それが、私たちの生涯を始める時に経験するあらゆる苦闘と落胆を埋め合わせるのである。神があなたをこれほど確実に御国にあずかる者となるよう召してくださった以上、あなたはこの現世の快楽を放棄しなくてはならない。あなたの主なる《主人》を眺めるがいい。その初めを眺めるがいい。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]。思い出すがいい。あのゲツセマネにおける血の汗を、ガバタにおけるすさまじい鞭打ちを、ゴルゴタの山における非命の最期を。これが初めである。その終わりが見えるだろうか?

   「かつて茨を かぶりし頭(かしら)
    いまや栄光(さかえ)の 冠いだきぬ」。

この猛き《勝利者》は、その凱旋戦車の車輪に死と地獄をつないで引きずっておられる。御父の御座に上っては、人々と御使いたちの歓呼の中で永遠に着座され、彼のあらゆる敵どもをその足台とされる。これが終わりである。あるいは、むしろ、これが終わりの初めである。というのも、千年期の壮麗さと、再臨と、イェスの御足元に投げかけられる永遠の誉れ、これらが終わりだからである。いかにこの栄光に富む終わりは、悲しみに満ちた初めにいやましてまさっていることか! 「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」[Iヨハ4:17]。あなたは、飼い葉桶を受け取らない限り、決して御座を受け取ることはない。十字架を受けない限り、決して栄冠を戴くことはない。蔑まれ、のけ者にされない限り、決して受け入れられ、王とされることはない。泥の中を踏み渡らなくては、決して黄金の舗道を歩くことはできない。ならば、元気を出すがいい。キリスト者よ! この真理を、あなたの魂の間近な支えとするがいい。「事の終わりは、その初めにまさ……る」。

 2つの例証をあなたに示して、この点を後にすることにしよう。あなたには、そこを這っている青虫が見える。何と見下げ果てた見かけをしていることか! どこかへさっさと除き去ってしまいたくなる。それが、事の初めである。だがあなたには、日光の中で華麗な翼を広げて、釣り鐘型の花から蜜を吸っている昆虫が見える。幸福感といのちに満ちている。それが、事の終わりである。あの青虫は、あの芋虫は、あのうじ虫は、そう云って良ければ、あなた自身である。そして、あなたがそうした存在として得々としているそのとき、死という蛹に包まれる。だが、あなたが死後どのような者になるかは分からない。私たちが知っているのは、せいぜい、キリストが現われるとき、私たちが「キリストに似た者となる」ということどまりである。「なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」[Iヨハ3:2]。キリストに似た者となることに満足するがいい。初めは青虫、芋虫であったものが、キリストのように、主の現実の御姿において目覚めるとき、満ち足りる[詩17:15]のである。

 また、あなたには、そのごつごつした見かけの金剛石が見える。それは宝石細工人の磨き車の上に置かれている。彼は、慎重にそれを回転させ始め、そのあらゆる面の切削を始める。それは多くを失う。――自らにとって貴重と思える多くを失う。では今、それが見えるだろうか? 国王が戴冠しようとしている。宝冠がこの君主の頭に載せられ、喇叭の喜ばしい音が響きわたる。その宝冠から、燦然たる光を放つものがある。それは、先ほど宝石細工人によって切削されていた、まさにあの金剛石である。あなたは、キリスト者よ。あえて自分をそうした金剛石になぞらえてかまわない。というのも、あなたは神の宝石類の1つだからである。また、今は切削工程の時だからである。あなたはそれを耐え忍ばなくてはならない。勇気を出すがいい。つぶやいてはならない。信仰と忍耐に、その完璧な働きを行なわせるがいい。かの王冠が「世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない」[Iテモ1:17]お方の上に置かれる日には、一筋の栄光の輝きがあなたから発されることになる。というのも、あなたはそのお方のものとなっているからである。「あなたは、わたしのものとなる」、と主は仰せられる。「わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる」*[マラ3:17]。

 IV. もう少し辛抱してほしい。次のこととして私は、本日の聖句を適用したいと思う。《行動を促すため》である。

 明々白々なことだが、終わりに達したければ、初めがなくてはならない。それゆえ、この聖句は私たちひとりひとりにこの問いを投げかけているのである。「私は、すでに始めただろうか? 神は私に対して事をお始めになっただろうか?」 初めは暗く、陰鬱かもしれない。だが、明るい終わりを迎えたければ、そうした初めがなくてはならない。その初めに、多くの快楽を犠牲にすること、また、友人たちを捨て去ることが伴うことは私も承知している。――人の呼ぶところの「快楽」と「友人たち」である。だが、天国にいる神の聖徒たちとともに終わりを迎えたければ、地上にいる、貧しく苦しめられている神の家族とともに始めなくてはならない。果たして今、神が事をお始めになる人がここにいるだろうか。もしあなたに対して神が事をお始めになるとしたら、それはほむべきことであろう。だが、あなたにとって、それよりもはるかにほむべきことは、神が事を終えられるときであろう。今晩あなたが聖霊によって導かれて、信仰によってあなたの目でキリストを仰ぎ見るとしたら、それはほむべきことであろう。御座の前の御使いたちが、あなたの回心ゆえに、きょうの降誕祭の喜びをひとしお高めるほどにほむべきことであろう。そうした考えについて私が間違っていることがありえるだろうか? 私たちの主イエス・キリストは、いなくなった羊を見つけた羊飼いについて、こう仰せにならなかっただろうか? 「帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め」、(天国におけるキリストにとって、友だちや近所の人たちとは、御使いたちでなくて誰であろう?)、「『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」[ルカ15:6]。天国で、彼らがいや高い声を、いやまして喜ばしい歌によってあげるのは、罪人たちがその迷いの道から立ち返るときである。果たして今晩は、あなたがたの中のある人々にとって「初め」の時とならないだろうか。おゝ! もし神の御霊が今あなたに自分が罪人であると教えておられるとしたら、もしあなたが自分が失われ、損なわれている者であると感じているとしたら、私はあなたに思い起こさせなくてはならない。カルバリの十字架上には、ひとりの血を流す《救い主》がかかっておられることを。また、――

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり」――

ということを。そして、あなたが信仰によってこの方を垣間見た瞬間に、この良き始まりがあなたのもとを訪れるのである。しかし、おゝ! その終わりを描き出そうなどと試みることは、むなしい空想であろう。そのとき、贖い出されたあなたの霊は、御使いの護衛団によって上天へとかかげ上げられ、永遠に美しくされ、あなたの主なる《救い主》イエス・キリストの御前で、永遠のいのちと喜びに満たされるのである。願わくは神がそのように今晩、あなたがたの中のある人々に事を始めてくださるように。

 V. さて今、しめくくりに、――《この聖句は、最も厳粛な問いかけを発している》。そして、私たちひとりひとりに対するその問いかけとはこうである。――もしも私の人生が今晩、終わりを告げるとしたら、私の終わりは初めにまさったものとなるだろうか? 冒頭で私はこう云った。本日の聖句には少々塩味を効かせなくてはならない、と。そして、ここで私はその塩を用いなくてはならない。物事によっては、初めが一番良くて、終わりが最悪というものがある。向こうで、罪人の宴会が開かれている。山ほどの料理を持ってこい。脚付きの杯をきらめく葡萄酒で満たせ。一気に飲み干して、陽気に歌いまくれ。洋胡弓もあれば、立琴もある。会席者たちは立ち上がっては、大声をあげ、歌っている。しかし、私は何を目にするだろうか? 夜が過ぎ去るにつれ、また、しののめの光が窓から流れ込んで来るにつれて、「わざわいのある者はだれか。……血走った目をしている者はだれか」[箴23:29]。まことに、こうした宴会の終わりは、初めよりも悪い。また、かの不潔な病気の病棟は、かつては美しかった者たち、ことのほか見るに麗しかった者たちの廃物を、人々が掃き寄せる所だが、まことにその中では、この教訓を学ぶことができる。場合によって、終わりは初めより悪い、と。用心するがいい。あなたがた、売春婦の家に通う人たち。さもないと、あなたは、事の終わりが初めよりも無限に悪いことに気づくことであろう。そこに踏み入らないように、あなたの足を押さえておくがいい。さもないと、あなたは、屠殺人のもとに行く雄牛のようになるか、さらし台に向かう重罪犯のようになるであろう。そして、もしその歩みが、最後には、誰しも知るほど初めよりも悪くなるとしたら、それと同じことは、あらゆる罪の歩みについて云える。貪欲な人がその金銭をかき集めている様子を見るがいい。その初めを眺めるがいい。彼は自分の金を株式に投資し、自分の債券を振り出し、借金の担保を取り、家屋や街路に自分の名前をつける。では、その終わりを見るがいい。この老人はやせ衰え、病弱になる。うなるほど財産があるのに、救貧院で死ぬことになるのではないかと恐れている。そして、正気が戻ってくる合間合間に、考えを巡らし、自己というものについて悟るとき、そこには、このぞっとするような思念が伴っている。「わしはお前たちと別れなくてはならないのだ。わしの宝物たち。お前たちすべてと別れて、母なる大地へ戻らなくてはならんのだ。最初に生まれ出たときと同じ裸になってな」。こういうわけで、見ての通り、時と場合によっては、事の終わりの方が初めよりもはるかに悪くなるのである。

 疑いもなく、ある人は云うであろう。「私はそうした人たちとは違います。私は放蕩したり、貪欲に駆られたりしてはいません」。よろしい。最善の状態にあるあなたを取り上げてみよう。ここにあなたの初めがある。あなたは、体裁良く礼拝所に出席している。あなたがやって来るのは他の人々がやって来るからであって、あなたの心が神と正しい関係にあるからではない。これが、あなたの初めである。それから二、三十年は、あなたは今と同じように行なっていることが許されるだろうと思う。外的に恵みの手段に携わることが、告白となる限りは、キリスト教信仰を告白しているであろう。だが、そこには心がこもっていない。あなたの終わりを示しても良いだろうか? 口をつぐみ、静かに、音を立てずに入って来るがいい。私はあなたに、あなた自身と同じような人の臨終の床を示さなくてはならないからである。そっと、その人を見つめよう。その人をうるさがらせてはならない。じっとりとした汗が、その人の額に浮かび、その人は目を覚まして叫ぶ。「おゝ、神よ。死がこれほどつらいものとは!」 その人は家族に云う。「教役者を呼びにやったかい? ……あゝ、もう来ているのか」。教役者がやって来る。すると、このあわれな男は云う。「先生。死ぬときが来たようです」。「希望はありますか?」 「何もないとしか云えないのです。私は、私の神の前に立たなくてはならないでしょう。おゝ、私のために祈ってください!」 彼のために、真摯な熱心さをこめて祈りがささげられる。そして、救いの道が、もう一万回目にもなるが、彼の前に差し出される。だが、その縄をつかむ前に、彼が沈んでいくのが見える。この光景をさらに描き出しても良いだろうか? 私は、この指をそのまぶたに置くことができる。というのも、それは現世では二度とものを見ることができないからである。しかし、その人はどこにいるのか。その人の真の目はどこにあるのか? キリストは、あの金持ちについて云われた。「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると」[ルカ16:23]。そして、この人もそれと同じである。だが、なぜこの人は、それより前に目を上げなかったのか? それは、あまりにも福音を聞くのに慣れすぎてしまい、福音の下で魂が眠り込んでしまったからである。今やその人は眠ることができない。「苦しみながら」。地獄には何の眠りもない。おゝ、もし眠りが、地獄に堕ちた者たちの住まいに入り込むことができるとしたら、それはいかなる祝福であろう! 悲しいかな! もしあなたがたの中のある人々がそこで自分の目を上げることになるとしたら、いかなる光景をあなたは目の当たりにすることか! 現世であれば、このタバナクルでうたたねして目を覚ました場合に目にするのは、熱心にあわれみの言葉に耳を傾けている人々の顔また顔である。だが、来世であなたが最初に目を上げたときに見つめることになるのは、これまで見たこともないほどの苦痛によって損なわれた幾多の顔立ちであろう。そして、もしあなたが彼らにそのすさまじい悲嘆との理由を尋ねるとしたら、また、なぜ苦悶が灼熱した鋤の刃のように彼らの頬に深々と畦をえぐってしまったのか尋ねるとしたら、彼らはあなたに告げるであろう。何も尋ねる必要などない、じきに自分でその理由を思い知るのだから、と。私には、それを描き出せない。《救い主》ご自身のことばをして、この戦慄すべき真理をあなたに告げさせよう。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」[ルカ16:24]。この言葉には、身の毛もよだつような意味がある。願わくは、あなたが決してそれを、エホバの御怒りという赤い光によって、はっきり説明することにならないように!

   「罪人、求めよ、御恵みを、
    汝れは御怒(いかり)に よく耐えじ。
    飛べよ、十字架(き)の上(え)の 逃れ場へ、
    そこにて得よや、救いをば」。

 この、一年最後の安息日が閉じる前に、私は祈るものである。願わくは主が、あわれみのうちに下り、まだキリストを受け入れていない者たちを訪れてくださり、そうした人々について、真にこう云えるようにしてくださるように、と。「事の終わりは、その初めにまさ……る」。神がそれを許し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

----

伝道者の一所見[了]

-

HOME | TOP | 目次