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偶像礼拝が断罪される

NO. 3071

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1907年12月19日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年9月6日、主日夜


「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」。――Iヨハ5:21


 この言葉によってしめくくられているのは、神に霊感された《書》の中でも最も神秘的で、最も単純でありながら、最も崇高な書の1つである。それゆえ、自然と、この《書簡》の結びとなる節には非常な重みがあると期待されて良いであろう。これは、ヨハネがここまで書いてきた事がら全体の実際的結論であると思われる。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」。この《書簡》は、特に愛の芳香を放っている。読むにつれて、これが非常に繊細な、優しい人によって書かれたと悟らざるをえない。だがしかし、この愛に満ちた筆者がその最後の言葉をこの《書簡》に書き記すときには、この勧告でしめくくっているのである。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」。愛がその完全な形にあってこのように語っている以上、私たちはそれが発しているこの指針に喜んで真剣な注意を払おうではないか。ヨハネが、ここまでのこの《書簡》において、大きく書き記してきたのは、イエスの愛に関してであり、それも当然であった。その愛について彼は、他のいかなる人よりも良く知っていたからである。だがしかし、イエスに対する愛に関して書き終えたとき、彼は強い警戒心にかられた。どうかして、彼の宛先の人々の心が、愛しい彼らの魂を《愛するお方》からそらされてしまうといけないと思ったのである。このお方こそ、彼らの愛情すべてを受けるに値するお方である。それゆえ、彼らに対する愛だけでなく、イエスに対する愛によっても、彼はその手紙の結びをこのように意味深長な言葉とすることとなったのである。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」。

 I. 私の第一の所見は、《ここで、私たちが語りかけられている呼び名》についてである。「子どもたちよ」。

 ヨハネが、文字通り小さな子どもたちに対して語りかけていたつもりだとは思わない。また、彼が単に、ある特定の種別の信仰者たちに対してのみ語っていたとも思わない。恵みにおいて非常に幼く、それゆえ、キリストにある成人とは対照的に「幼子」と呼ばれる人々が対象であったとは思わない。むしろ、彼は自分の宛先の、信仰者たちの全集団に語りかけていると思う。そして、彼らを通して、キリスト教会全体にこう語りかけたのである。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」、と。

 これは、最初に、深い愛情による呼びかけである。キリスト《教会》は、キリスト者たちの愛の家である。それが常にあるべき姿をしているときには、1つの家庭であり、「信仰の家族」[ガラ6:10]である。そこでは、神ご自身が御父であり、主イエスが《長兄》であり、すべての成員が兄弟である。――全員が同等で、全員がキリスト・イエスにあって1つで、全員が残りの人々に仕えることを求め、キリストにある兄弟姉妹の全集団のしもべとしてかいがいしく働いている。この《書簡》を書いたときのヨハネが確かにそうであったような、年老いた使徒が、自分よりも年下の主の家族たちを見回し、彼らを「子どもたち」と呼んだとしても、それは全く自然きわまりないことと思われる。そして、彼が主をいかに親しく知っていたか、また、何にもましていかにイエスを見て、いかに自分の栄化された主の足元に倒れて死者のようになったか、また、いかにイエスの刺し貫かれた御手を上に置かれて引き起こされたか[黙1:17]を思い起こすとき、――また、いかに彼が7つの喇叭の鳴り響くのを聞き、7つの鉢がぶちまけられるのを見たか、いかに彼が天に1つの開いた門を見、かの栄光の都の土台を数え、その中で黄金の大通りを見つめ、天の立琴の調べを聞いたかを思い出すとき、――これほどの精神と心を有し、これほど神にあふれた、このような人物が、自分の残りの兄弟たちを眺める際に、何の自己中心の念もなく、彼らを「子どもたち」とみなしたことに私は驚きはしない。それは、年老いた聖徒たちの口からしばしば出て来るはずだと思える、親しげで、慈愛に満ちた口調である。いずれにせよ、もし私たちの用いる表現がヨハネのそれと正確に同じではないとしても、このような表現で示された愛は、私たちひとりひとりの心の中で燃えているべきである。父親が自分の子どもたちを愛するように、牧師は自分の群れを愛すべきであり、教師は自分の学級を愛すべきである。そして、その人は彼らに向かって、「私の子どもたち」、というような言葉で語りかけて良いであろう。

 次に注目すべきは、この呼び名では、大いに良いものが示唆されているということである。ヨハネは自分の宛先の人々を「子どもたち」と呼んでいる。――神の子どもたちという意味であり、彼は彼らを「小さな子どもたち」と呼んでいる <英欽定訳>。さて、キリストにあっては、小さな子どもたちであることさえ良いことである。というのも、これは新しい誕生が起こったことを示しているからである。もしそれが私たちについて云えることだとしたら、私たちはいま罪のうちにある人間ではなく、キリスト・イエスを信じる信仰によって神の子どもたちとなっている。聖霊によって新生させられるとは、何と値もつけられない特権であろう! 祭司的な儀式による、いわゆる「新生」は、それが起こっても、成人であれ子どもであれ、その儀式が執り行われる前と同じく新生されていないままである。だが、聖霊による新生は、対象となる人の性質を全く変えてしまい、その人に新しい心とゆるがない霊を授ける。この貴重な特権を有することは、天国のえり抜きの賜物の1つを有すること、――実際、他のあらゆる祝福を享受するために欠かせないことである。それで、この「子どもたち」という呼び名がいかに卑しいものでありえようと、それは大いに良いものを示しているのである。キリスト・イエスにある小さな子どもであることは決して小さなことではないからである。幼児がするように、「アバ。父」[ロマ8:15; ガラ4:6]、と舌足らずに語れること、また、神の家族の他の全員とともに、「天にましますわれらの父よ」、と云えることは決して小さなことではない。

 「子どもたち」というこの呼び名は、やはり、その名で正しく呼ばれる人々の謙遜さを示唆している。小さな子どもは高慢ではない。高遠な事がらに余計な口出しをしたりしない。父親の足元に座るか、母親の胸に抱かれるかしていることに満足する。そして、キリスト者たちは、新しく生まれ――上から生まれ――ている以上、小さな子どもたちのようになる。さもないと、天の御国に入ることはできないであろう。彼らは、かつては非常な大人物であった。だが、今は非常に小さくなっている。一時は、自分自身の見当において大きくなっていくにつれ、自分が本当に成長していると思っていた。だが、今の彼らは、最高のしかたで成長しているとは、小さくなりつつあるときであると理解している。成長しつつあるキリスト者は、自分たちを無とみなすが、全く成長したキリスト者は、自分たちを無以下と考える。そして、自分自身を「すべての聖徒たちのうちで一番小さな」[エペ3:8]者と考えているとき、実際には敬虔な人生において順調に進歩しつつあるのである。自分自身の評価においてますます小さくなることは、正しい種類の成長である。自然界では、子どものあり方から大人のあり方へと育っていく。だが、霊的には、大人のあり方から子どものあり方になっていく。それでも、謙遜さを増していくとき、私たちは、実際には下の方に成長するのではなく、上の方に成長しているのである。

 さらに、この呼び名は、教えられやすさを示している。小さな子どもは学校へ行くものである。そして、恥とも思わずに一文字一文字を習う。大人がそうすることはまれであり、特に霊的な事がらにおいてそうである。大人たちは、硬い偏見で覆われており、知る必要のあることならみな知っていると思っている。だが、本当に知っていることは僅かしかなく、その僅かすら間違っている。だのに、そうしたものがあるからといって、真に学ぶ必要のあることを教わりたがらないのである。まことに幸いなのは、神との関係において小さな子どもである人である。私は本当にこう信じている。ごく往々にして、偉大な知識は、そして特に科学や哲学の知識に大いに通じていることは、人々の道に立ちはだかり、最も学ぶ価値のあることを学ぶ妨げとなるものだ、と。私は決して無知を賛美するつもりはない! それでも、霊的な事がらにおいては、「哲学」だの、「まちがって『霊知』と呼ばれる」[Iテモ6:20]ものだのにくらべれば、ずっと大きな賛美を無知に帰して良いと思う。幸いにして賢明だったのは、御使いたちの訪れを受けて、キリストの誕生についての賛美とお告げを受けた羊飼いたちであった。というのも、その単純素朴さによって彼らは、真っ直ぐにベツレヘムへ行き、生まれたばかりの《王》を見いだしたからである。しかし、あの賢者たちは(星の現われによって導かれた点では、やはり幸いだったが)、その知恵そのものによって間違いを犯したと思われる。というのも、エルサレムに行って、こう尋ねたからである。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか?」[マタ2:2] そして、そのために一時、道に迷うとともに、ヘロデに《聖き幼子》イエスのいのちを狙わせるきっかけを与えてしまった。いみじくもアウグスティヌスは云う。「羊飼いや職人たちがしばしば天の御国に入る一方で、賢者や学者たちは道を求めて手探りしている」。真に知る価値のあることはすべて知るがいい。だが、いくら知識を得ても、幼子のような霊を持ち続けるように気をつけるがいい。それがなければ、いかなる知識もほとんどあなたの役に立たないであろう。結局において、賢者と呼ばれる人々と、ごく僅かしか物を知らない人々との間には大した差がないのである。というのも、人間の中で最も賢い人々もごく僅かしか知っておらず、真に賢ければ、自分が僅かしか知らないと知っているからである。

 近頃のある人々は、自分たちが賢すぎるため、神がご存知のことよりも、あるいは、そのみことばで私たちに啓示してくださったことよりも多く知っていると云わんばかりでさえある。そうした人々は、裁きの座に着いては、神ご自身をも自分たちの前に呼びつけ、召還し、その種々の審きを再審理し、神の神であると公言する! このように「賢い」人々は、時代の中でも最も軽々しく物事を信じ込みやすい馬鹿者どもである。私は、カトリックが主張する種々の奇蹟を信じるあわれな人々を憐れむ者だが、今では、そうしたイカサマを信じられる者たちよりも倍増しで愚かな者たちがいると考えるようになった。すなわち、この驚嘆すべき世界――「初めに」[創1:1]神が創造された世界――の中のありとあらゆる所で目にできる驚異的に美しい姿形へと、無生物がひとりでに変わっていったのだと教えようと努める者たちである。こうした「賢い」者たちをこそ、愚者の宮廷の中央にある尖塔の上に置くがいい。そして、これまであった中でも一番大きな道化師帽をその頭にかぶせるがいい。キリストを信じる信仰者たちのことを軽々に物事を信ずる輩だとして彼らがあざけるとき、私たちは彼らに自分を顧みよと告げて良い。彼らほど物を軽々しく信ずる徒輩はいないからである。そして私たちは、なおも小さな子どもたちのように神の《書》のもとに来ようではないか。神の御子が私たちの心にお語りになる一切のことを、神の御霊によって喜んで教えられようとする者としてそうしようではないか。

 そしてまた、小さな子どもたちには信仰もある。いかに大きな程度の信仰を子どもたちが普通は有していることであろう。また、小さな子どもたちの信仰をもてあそぶ者のいかによこしまなことであろう! 実際、恥知らずなことは、乳母だの他の者だのが、小さな子どもたちに、愚にもつかない話や下らない物語を告げて、それを本当のことだと信じ込ませることである。私たちは、小さな子どもが年長者を信頼する信仰について、非常に気を遣い、害が及ばないように真剣に守るべきである。そして、決して子どもたちの信ずる心を弱めるようなことをしたり云ったりすべきではない。小さな子どもたちには、非常に美しい信仰がある。特に、自分の父親の言葉に関する場合はそうである。彼らは、父親が云うことは真実だと知っている。自分の父親が嘘を云おうとするなどという考えをはねつける。神に対しては、そうした種類の子どもたちになろうではないか。何と仰せになろうと疑うことなく信ずる子どもたち、なぜどうしてそうなのか尋ねることなく、喜んで、自分たちにはまだすべてが理解できないと、また、私たちがしなくてはならないのは自分の《天の御父》がお告げになることをみな盲目的に信ずることであると云われて素直に従う子どもたちになろう。もしも語っておられるのが神だとしたら、その仰せを信じ、小さな子どもの信頼をこめて云うがいい。「私の父は、嘘を云うはずがありません」、と。

 ここまで私たちが見てきたのは、小さな子どもたちと呼ばれることは良いことだということである。だが、この件には、私たちが忘れてならない別の面があると思う。この呼び名、「子どもたち」には、弱さも暗示されているからである。――私たちはみな、せいぜいそうした者でしかない。小さな子どもたちは非常に惑わされやすく、私たちもそうである。私たちは全員、他の人々の影響を感じ、時には自分で告白したいと思う以上にそれを感じていることがある。そして、異常なことといえば、おそらく、この世のいかなる者にもまして他の人々によって影響されている人々が、自分自身、他の人々に影響を与えている人々だということである。指導者たちは、しばしば最も人によって導かれている。それゆえ、私たちは細心の注意を払う必要がある。私たちのように、偶像礼拝者たちの群れに取り囲まれている者たちは、みな、あまりにも彼らの模範によって揺さぶられがちである。だからヨハネは告げるのである。「小さな子どもたち。あなたの回りにいる者たちによって悪に引き込まれてはならない。この点で男らしくし、たとい孤立しようと、あえて正しいことを行なうがいい。堅く立ち、男らしくふるまうがいい。風まかせに吹き流されることなく、不動の強い岩のように立っているがいい」。小さな子どもたちには、この弱さもある。一般に彼らは、目に見えるものを必要とする。彼らに物を教える方法として、絵や模型を用いる手法にまさるものはない。そうした傾向は、霊的には私たちの中にも明らかである。私たちには、種々のしるしや象徴を渇望するものがある。おびただしい数の人々は――キリスト者である人々でさえ――何かしら自分たちが目にできるものを欲する。荒野にいたイスラエルのように、彼らは云う。「私たちに先立って行く神を、造ってください」[出32:1]。もしも何らかの目に見える形の神を持てないと、何らかの儀式か、礼典か、何か純粋には霊的ならざるものを欲する。女の子がお人形をほしがり、男の子が揺り木馬をほしがるように、霊的な事がらにおいて小さな子どもたちである者たちは、目で見、手で触れることのできる何らかの品物をほしがるように思われる。おゝ、私は願う。私たちが霊的なものを信じ、神の啓示だけで満足し、かの2つの、キリストが私たちにお与えになった大いなる象徴――主の2つの儀式――以外にいかなる象徴物も必要としないことを。また、その2つをさえ、その適正な地位から離したり、いわんや、私たち自身で飾り立てた何事かをそれらに押しかぶせたりしたいと願わないことを。むしろ、霊であられるこの方を、霊とまことによって礼拝し[ヨハ4:24]、かつ、受け入れられるしかたで神を礼拝すべき道を教えてくださる恵み深い御霊の恵みに自らをゆだねていることを!

 また、小さな子どもたちには、非常に限られた視界しかない。小さな子どもを地面に降ろして、何枚かの割れた皿と、ちょっとした泥と一緒にしてやると、面白がって延々と過ごしているであろう。その子には、やがて自分が成長して大人になることも、自分の父親のように働いて生計を立てるか、大企業を経営するかしなくてはならないことも思い浮かばないように思われる。ある面では、そのような子どもであることは、大きな祝福である。だが、残念なことに私たちは、霊的な意味で、あまりにもそうした子どもっぽさに陥ることが多い。私たちは、現在に熱中するあまり、ちょっとした苦難でもあると、その苦難が何年も続くかのように心を悩ましてしまう。多少の落胆に出会うと、そのことを気に病み、自分を待ち受けている天国のことも、すべてを支配しておられる神のことも、常に私たちの側近くにおられる《天来の慰め主》のことも、悪から善を引き出す、過つことなき知恵のことも忘れ果てているかに思われる。私たちが観察する領域は、あまりにも限られており、私たちはあまりにも《現在》に捕われすぎており、時間の深淵を越えて、彼方の麗しい栄光の国に目を向けることをしない。そこでは、夜が明けており、暗闇は永遠に飛び去ってしまっているのである。小さな子どもたち。あなたがたのこの霊的な弱さゆえにこそ、使徒は云っているのである。「偶像を警戒しなさい」、と。

 II. この指摘によって至らされるのが、本日の主題の第二の部分、すなわち、《私たちに向けられている警告》である。「偶像を警戒しなさい」。

 私は、あなたがたにこう云う必要はないと望んでいる。ありとあらゆる種類の、目に見える偶像を警戒しなさい。というのも、そうしたものをあなたは、私と同じくらい忌み嫌っていると思うからである。だが、この現代には、偶像の宮がほとんど至る所に建立されつつある。建てているのは、わが国の儀式尊重主義に立つ教職者層であり、無知なアフリカ人の物神崇拝と肩を並べるような形の偶像礼拝がこの国に舞い戻ってきている。というのも、彼らは、一片のパンから1つの「神」をこしらえては、自分たちの偶像を礼拝した後で、それを食べるからである。――エリヤが浴びせかけただろうような憎まれ口によってしか、適切に描写できない過程である。もしエリヤが、この現在のバアルの祭司たちの真中に、かつてその原型の間で立ったように立つことができたとしたらであるが。愛する方々。彼らのあらゆる偶像を警戒するがいい。それらにも、またそれらのいわゆる「司祭たち」にも敬意を表してはならない。奇妙なことは、人々が開かれた聖書を持ち、それを読むことができる今、私たちの先祖たちが忌み嫌った、また、その薄暗い信仰の光の時代においてさえ、彼らの祖先たちが耐えられなかっただろう古の偶像礼拝が私たちのもとに復帰しているということである。あなたは、それに一瞬でも耐えられるだろうか? むしろ、それに対する抗議を真剣きわまりない、個人的なしかたにおいて、毎日唱えるがいい。そして、この叫びを、偶像礼拝者たちと入り混じっているいかなる人たちに対しても鳴り響かせるがいい。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ」[IIコリ6:17]。神は確かにこの国を、また、あらゆる国を罰されるであろう。こうした、あるいは、他のいかなる偶像が据えられる場合にもそうである。

 しかし、あなたがたに対して、愛する方々。私は別の偶像について語らなくてはならない。最初に、自分自身を礼拝することを警戒するがいい。悲しいかな、いかに多くの人々が、このはなはだしい罪に陥ることか! ある人々は、食卓における放縦さによってそうする。そこには、いかに多くの大食、また、特に暴飲があることか。それは、まさしく暴食と酩酊と呼ばれてしかるべきものである! 信仰を告白する一部のキリスト者たちは、ことによると、決して酔っているとみなされはしないかもしれない。だが彼らは、ほんの一口ずつ、ちびちび飲んで行っては、ついにそのたがを全く外すことまではしなくとも、見る者にこう疑問を呈させることになるのである。果たしてこれまで、そうしたたがなど少しでもあったのかどうか、と。信仰を告白するキリスト者たちが、このように自宅で耽溺できることは、哀れと云って良い。というのも、もしも彼らが労働者たちのように居酒屋から家に帰らなくてはならないとしたら、彼らがほとんど真っ直ぐ歩くこともできないことはたちまち明らかに悟られ、この悪習慣が治されるかもしれないからである。破廉恥なことに、このような罪は、神の《教会》の中にさえある。そして、それが知られている以上、私はあなたがた全員に強く云うが、愛する方々。決して暴食にいけにえをささげたり、酒神(バッコス)に御神酒を注ぎ出したりしないよう気をつけるがいい。というのも、もしもそうするなら、あなたは自分が自分自身の腹を礼拝する偶像礼拝者であること、神の愛があなたの中に宿っていないことを証しすることになるからである。

 他の人々が自分自身を礼拝するのは、怠惰な生き方を送ることによってである。そうした人々は、行なうべきことを何も持たないようにしており、そのことは非常に徹底して行なっているように見える。くつろぐこと、それこそ、そうした人々が何らかの関心をいだく主たることである。彼らは快楽から快楽へ、見世物から見世物へ、虚栄から虚栄へと飛び回る。その姿からすると、現世は、まるで、蝶々が花から花へと飛んで回っていて良い庭園でしかないかのようである。真剣な働きがなされなくてはならない領域でも、永遠のためのきわめて重要な務めが成し遂げられるべき領域とも思われない。こうした怠惰な人々のように、むなしい生き方によって自分自身を礼拝してはならない。

 ある人々が自分自身を礼拝するのは、自分のからだを入念に飾り立てることによってである。その人々の最初にして最後の思いは、「何を着ようか?」[マタ6:25]である。この偶像礼拝に陥ってはならない。

 それから、ある人々は、自分の富を偶像とする。金銭を得ることが、そうした人々の人生の主たる目的であるかに見える。さて、キリスト者である人が勤勉に仕事することは正しい。キリスト者は、現世の物事に携わる勤勉さにおいて誰にも引けを取るべきではない。だが、真実このように告げられるときには、常に残念である。「誰それは、年を追うごとに金持ちになっていますが、けちん坊にもなってます。彼は、今の半分しか財産がなかったときより少ない額しか献金しません」。私たちは、時折こういった人々に出会うことがあった。比較的貧しかった頃にはギニー金貨を献金していたのに、金持ちになると、シリング白銅貨しか献金しないという人である。

 その理由はこうである。彼は、シリングの財布を持っていたときには、ギニーの心をしていた。だが、ギニーの財布が手に入ったときには、シリングの心しかなくなってしまっていたのである。だが、財産が大きくなるにつれて、心が小さくなっていくのは、常に残念なことである。覚えておくがいい。愛する方々。もうほんのしばらくすれば、あなたは自分の持ち物をみな残して行かなくてはならないであろう。そうしたすべてを本当に楽しむのでない限り、それを持っていて何になるだろうか? また、それを真に楽しみたければ、それをあなたの《救い主》の足元に置き、主の栄光のために用いる以外ないではないだろうか? 不正の富[ルカ16:11]からこのように得られる楽しみは、私が耳にしたことがある他のいかなるしかたにもまさって、ずっと長続きするものであるに違いない。これが、それを試してみて、その通りであると証明した人々の証言である。私は、あなたがたの中の誰も金の子牛を礼拝しないだろうと望みたい。

 ある人々は、自分の携わっている職業を礼拝する。そうした人々は、自分の魂のすべてを自らの技術か、自分の特定の職種に没入させる。それが何であれ関係ない。ある意味において、そうすることは正しい。だが、私たちが決して忘れてならないのは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」[マタ22:37]。これが大切な第一の戒めだということである。このことが常に第一の地位を占めなくてはならない。

 ここで、非常に微妙な点に触れさせてほしい。ある人々は、自分の最も愛する親族や友人を偶像にしている。人によっては、自分の子どもたちを偶像にする。ひとりの善良な人の物語を読んだことを覚えている。その人は、わが子を取り去ったことで決して神を赦すことができないかのように思われた。その人は、とあるクエーカー教徒の集会に座って、頭を垂れて悲しみに沈んでいた。だが、彼の解放のときがやって来たのは、ひとりの姉妹が立ち上がって、こうした言葉を発したときであった。「本当に、あの子たちは偶像だと分かりますわ」。そして、彼女は腰を下ろしたという。このよな集会は、しばしば必要とされている。だが、そうした必要があるのは残念である。自分の子どもをも、妻をも、夫をも、決して偶像にしてはならない。というのも、彼らをキリストの位置につけることによって、あなたは実はキリストを怒らせ、彼らをあなたから取り上げさせることになるからである。好きなだけ彼らを愛するがいい。――私は、ある人々には今よりもずっとその子どもたちを、その夫を、その妻を愛してほしいと思う。――だが、常に、彼らに対する愛し方は、キリストがあなたの心の中で第一の位置を占めるようなものとするがいい。

 私たちが礼拝しがちな偶像の一覧目録は非常に長い。ヒンドゥー教徒には、何百万もの偶像のがいると云われる。だが、心に形を取るだろう種々の偶像礼拝の一覧表を作るには、長い時間がかかるであろう。とはいえ、ほんの一言で、あなたにこう云わせてほしい。――思い起こすがいい。神はあなたの全存在に対する権利をお持ちだということを。あなたの情愛において至高のものとなるべきものは、あなたの主を除いて何物もなく、何物もありえない。そして、もしあなたが何かを、あるいは、何らかの理想を礼拝するとしたら、それが何であれ、あるいは、もしあなたの神を愛する以上にそれを愛するとしたら、あなたは偶像礼拝者であり、この聖句の命令に逆らっているのである。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」。だから、トップレディとともに神に祈るがいい。――

   「踏めよ偶像(まがかみ)、汝が御足にて、
    その勝利をば、帰せよ、汝れにぞ。
    罪をわが主に 服させ給え、
    御霊の両刃(もろは)の 剣にかけて」。

 この点に関する私の所見をしめくくるに当たり、愛する方々。私はあなたにこう云いたい。――あなたの信仰という件においては、その時々の偶像を確実に警戒するがいい。私たちの中のある者らは、相当長生きしてきたため、この世の偶像が何回も交替するのを見てきた。現今の、一部の自称キリスト教会における偶像は、「知性主義」、「教養」、「現代思想」である。どんな名前をつけていようと、それがキリスト教会の内部にある権利はない。というのも、それは、キリストに属するものをごく僅かしか信じていないからである。さて、私はヴォルテールやトム・ペインといった、徹底して正直な不信心者に対しては一種の敬意をいだいている。だが、私が全く何の敬意も感じないのは、神学校に行ってキリスト教の教役者になる訓練を受けながら、その後キリストの《神性》や、回心の必要性や、悪人の罰その他の――キリストの福音を完全に告げ知らせるためには欠かせないと私には思われる――真理を疑うのは自由だと云い立てる者どもである。そうした者は、誠実さについて異常な見解を有しているに違いない。それと同じことが云えるのは、ある教役者が講壇に立って人々に語りかけていながら、その人々がいのちよりも大切にしている諸教理のいずれかを自分が信じていないと意識している場合である。だのに、彼は、自分の不信仰について弁明するよう要求された瞬間に、こう叫ぶのである。「迫害だ! 迫害だ! 頑迷偏狭だ! 頑迷偏狭だ!」 ある押し込み強盗が私の寝室の扉の外にいるのを見つかって、警官が来るまで捕えられていた場合、彼は私のことを非常に頑迷偏狭だと思うかもしれない。それは、私が財産を彼によって盗まれないようにしたからであり、彼の自由を妨害したからである。それと同じようなしかたで、私は、ある人がやって来て、私自身の講壇から、私のいのちよりも大切にしている諸真理を盗み出そうとするのを許そうとしないからといって、頑迷偏狭だと呼ばれているのである。私は、その人が行って自分自身の見解を、自分の自腹を切って、どこかよそで発表する自由を有することに何ら否やはない。だが、私をだしにして、また、私の会衆の真中でそうさせるわけにはいかない。この人々を私が集めているのは、神を礼拝し、聖書で啓示されている通りの真理を告げ知らせるためだからである。この時代の偶像を警戒するがいい。というのも、それが入り込むことを認めるのは、いかなる教会にとっても死の先触れだからである。ユニテリアン主義は、この、いわゆる思想の自由が常に向かう所だが、寄生虫的な種類の宗教である。それは、他の諸教会のいのちを食い物にして繁栄する。木蔦が樫の木にまといつき、そこから生命力を吸い出すのと同じである。この木蔦がその致死的な働きを始めるのを見つける所では常に引き剥がそうではないか。嘘ではない。私の兄弟たち。この世はともあれ、キリストの《教会》は、こう学ぶべきなのである。最高の教養とは、天来の恵みによって涵養される心であり、最も真実な科学とは、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方であり、最高の思想またあらゆる形而上学の中で最も深遠なものは、十字架の根元で見いだされるものである。また、単純に、また熱心に、昔ながらの福音を宣べ伝えている人々、また、昔ながらの通り道に堅く立っている人々こそは、最も確実に勝利をかちとるだろう人々なのである。人が、自分によってか、仲間の罪人たちによってか建造されたひ弱な帆船で、舵もなく、舵輪のそばにつく水先案内人もなしに航海するときには、漂流したあげく、岩礁に叩きつけられ粉々に打ち砕かれてしまう。だが、主により頼み、主を自分の《水先案内人》にしている者たちは、他の者たちが難破した岩礁に近づくことなく、安全に平安の港へと導かれ、そこで永遠に安らぐことになる。

 私たちの中の多くの者らは、これから聖餐卓の回りに集まり、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの死を記念しようとしている。この儀式によって私たちは種々の偶像を警戒するようになるはずである。というのも、もし偶像という偶像が消え去る所がどこか1つあるとしたら、それは十字架の根元だからである。信仰によって、あなたの主にして《救い主》なるお方を仰ぎ見るがいい。主はその呪われた木にかかっておられる。

   「見よ、主のみかしら、御手と御足を
    悲しみ恵みぞ こもごも流る!
    いまだかくなる 恵み悲しみ、
    いばらの冠、世にぞありしか?」

その後であなたは、自分の心の情愛を何らかの偶像に与えられるだろうか? キリストが、あなたの最も暖かい愛を夢中にさせるため、いかなる地上の魅力も、主からあなたを誘い出せないではないだろうか? あなたは、いわば主の釘によって釘付けにされていないだろうか? あなたの心は主の槍によって刺し貫かれていないだろうか? あなたは、キリストとともに十字架につけられているため、この世はあなたにとって死んだものとなっており、あなたはこの世に対して死んだ者となっていないだろうか? 思い出してみよ。キリストはご自分のために生きただろうか? 肉のために、いかなる蓄えを用意し、その情欲を満たそうとしただろうか? 主の全生涯は、自己否定と自己放棄のそれではなかっただろうか? いかなる偶像を主は据えたりしただろうか? いかなる対象に対して主はご自分の人生をささげただろうか? 主は名声を求めただろうか? 地上的な名誉や栄光のために労しただろうか? 富を積み上げただろうか? この世の人に対して、「私を褒めそやせ」、などと云っただろうか? 人々の渋面によっても、へつらいによっても、ご自分の目的からそらされただろうか? そうでなかったことは承知の通りである。では、あなたがた、主の血によって洗われている人たち。主に従うがいい! おゝ、あなたがた、主の御名によって呼ばれている人たち。いかなる種類の偶像礼拝によっても、その御名を異邦人たちの間で冒涜してはならない! もしラケルがその父親の偶像をらくだの鞍の下に入れて隠していたように[創31:34]、あなたが自分の偶像を隠していたとしたら、それを引き出すがいい。すべてを明るみに出し、十字架の根元で木っ端塵に打ち砕くか、モーセが兄アロンの造った金の子牛をそうしたように[出32:20]粉々にすりつぶすがいい。おゝ、イエスよ。あなたがおられる所で、あなたご自身以外の何者かを礼拝できる者などどこにいるでしょうか? もしイエスが来て、あなたの家にお泊まりになるとしたら、あなたの子どもは、今のようにあがめたてまつられてはいないであろう。もしあなたが主のありのままの姿を見る[Iヨハ3:2]としたら、主があなたの心の内側で統治なさることを認めずにはいられないはずである。よろしい。今そのようにするがいい。信仰によって、あなたが主を見つめている今。また、こうした主の裂かれた肉体とその血との愛しい記念品が食され、あなたが主を思い出す際に、あなたの一切の偶像を打ち捨てるがいい。あのエペソ人たちがその魔術の本をかかえて来て、焼き捨てたように[使19:19]そうするがいい。――「私たちを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげに」[エペ5:2 <英欽定訳>]なったお方をたたえて、そのほむべき大虐殺を行なうがいい。クーパーとともにこう歌い、この祈りをあなたの心の奥底から、あなたの主のもとに立ち上らせるがいい。――

   「わが知るいかな 愛(いと)し偶像も
    ――よしその偶像 いかなものたれ――
    その玉座より 引きもぎ離し、
    ただ汝れのみを 拝させ給え。

   「かくてわが歩(みち) 主に近くあり
    平穏(やす)く静けし わが心根(おもい)。
    かくも清浄(きよ)けき 光照るみち
    われを導く 《小羊》の方(え)と」。

 神があなたを祝福し給わんことを。そして、もしあなたがたの中の誰かがキリストから離れて生きているとしたら、それは、あなたを主から引き離す、愛しい偶像のためかもしれない。そうだとしたら、今すぐイエスのもとに来ることによって、あなたがその束縛から解放されるように。主の愛しい御名のゆえに! アーメン。

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偶像礼拝が断罪される[了]

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