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知られざる深さと高さ

NO. 3068

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1907年11月28日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1861年、主日夜


「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』」。――ルカ23:34


 私たちの前にある光景を適切に描写するには、この言葉を口にしたのと同じくらい雄弁な舌が必要である。キリストは、――《王の王》でありながら、罪人たちのための悲しみに満ちた《身代わり》でもあられたこのお方は、――裸にされていた。あざける兵士たちは、無意識のうちに、このよう告げた聖書を成就していた。「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」[ヨハ19:24]。主は荒々しく地面に投げ出され、その足と手は、十字に組み合わされた木の上で引き伸ばされた。乱暴な手が、残酷な釘をつかんだ。重い槌によって、断固たる打撃が加えられた。主は今や十字架刑の肉体的苦しみを知り始めた。ご自分に激しい苦痛と極度の屈辱を味わせている人々の顔を見下ろしたが、非難や復讐の言葉はおろか、不平さえ一言ももらさず、囁くようにこう祈られた。「父よ。彼らをお赦しください」。――私を殺す者たちを。私を裸にした乱暴な男たちを。私の手を釘づけ、私の足を貫いた残酷な男たちを。――「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。

 兄弟たち。十字架上のキリストのおことばは、その表面に見受けられる以上に深い意味を有している。それらは、主の永遠のいのちの聖句であった。決してただのことばではなかった。聖書のいかなる言葉も人間の私的な考えから出て来たものではないのと同じように、十字架上の《救い主》のいかなることばも、代々の時代の後でもその力や意義深さを失いはしない。そのとき云われたことを、主は今も云っておられる。そのとき云われたことは、一度、ある文章の中でぽつんと発された言葉でしかなくとも、時代という時代を駆け抜けて、時の中でも永遠を通じても、神を説き伏せる文章である。「父よ。彼らをお赦しください」は、死んでいくひとりの人の祈りであったが、そのまま消えていく祈りではなかった。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」は、じきに閉ざされようとしている唇の訴えだったが、沈黙する運命にある訴えではなかった。それは今日も、イエスがカルバリの上でご自分の十字架から最初にささげられたときと同じくらいはっきりと聞こえている。

 この聖句は、私には非常に深遠なものと思われる。私は今晩、それを測りきわめようとは思わない。むしろ、それは、いずれの何からの説教のために取っておき、今夜はただ、その2つの部分だけを検討したい。深みをかき回すレビヤタンのようではなく、表面をかろやかに舞う燕のようになりたいと思う。

 この聖句の中には2つの事がらがある。罪の知られざる深さ、――「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」、と、あわれみの知られざる高さである。それは、キリストの死にいく際の訴えに明らかに示されている。「父よ。彼らをお赦しください」。願わくは、神の御霊の与えてくださる力に応じて、私がその双方を述べている間に、神がその祝福を授けてくださるように!

 I. さて第一に、愛する方々。この聖句が明らかに示すところ、《人間の不義には、知られざる深さがある》。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。

 ことによると、あなたは私にこう告げるかもしれない。キリストはこうした意見を、ご自分を殺そうとしている人々、ご自分のことを神の御子とは知らずにいた人々に当てはめていたのだ、と。もし彼らが主をメシヤと知っていたとしたら、「栄光の主を十字架につけはしなかった」[Iコリ2:8]だろうからである。また、彼らに対してはこう告げることができたであろう。「あなたがたは、信じていないときに知らないでした」[Iテモ1:13参照]のだ、と。確かに、それがキリストのことばの直接的な意味であったことは認めよう。だが、私がすでに確言したことに立ち戻ると、このことばは全人類について真実であると思う。私たちの中の誰かが罪を犯すときは常に、何をしているのか自分では分からないでいるのである。誤解しないでほしい。この世のいかなる人といえども、善悪の違いをわきまえるに足るだけの知覚を有していないことはない。人間の生まれつきの良心の上にさえ、神の律法の多くが刻み込まれているため、その良心は責めたり、弁明したりしている[ロマ2:15]。私はいかなる種族の叢林地土人も、いかなる部族の土着民も、「腹の底まで探り出す……主のともしび」*[箴20:27]を全く失っていることは到底ありえないと思う。彼らは、弁解の余地がない[ロマ1:20]ほどの知識は有している。それで、もし彼らが滅びるとしたら、それは故意の罪によって滅びるのである。だが私は、最初にこう認めなくてはならない。良心は、広く行き渡っている種々の慣習によってあまりにも盲目になりすぎること、長く続いた習慣によってあまりにも無感覚になること、絶対的な無知によってあまりにも邪悪なものとなることがありえるため、人々は罪を犯しながらも、何をしているか自分で分からなくなることがありえる、と。ある人々の場合、識別力がその座を離れてしまっているかもしれない。そうした人々は、何らかの道徳的判断に関する限り、狂人になってしまっている。大手を振って罪を犯す。ことによると、当のその罪を義であるとさえ評価するかもしれない。自分たちのぞっとするほど忌まわしい行為を、神に受け入れられるいけにえとみなすかもしれない。しかしながら、この場にそのような人はいないと思う。聖書が開かれ、福音が宣べ伝えられ、神の御霊が臨在しておられるこのような国においてはそうである。私は、このような集会に向かって、そのような意味で分かっていないものとして語りかける必要はない。もしあなたが罪を犯すとしたら、話をお聞きの方々。光と知識に背いて罪を犯すのである。自分が誤っていると分かっていながら罪を犯すのである。呪われた物と分かっていながら、呪われた物に触れようと手を差し伸ばすのである。あなたは知って罪を犯すのであり、ひどく鞭打たれることになるであろう。《主人》の心を知りながら、そうしなかった以上そうである[ルカ12:47-48]。しかし、それでも、全人類については、彼らが罪を犯すとき、「何をしているのか自分でわからない」ことは、それにもかかわらず真実である。できる限り手短に、また、説得力をもって、いかにしてこれが事実であるかをあなたに示させてほしい。

 私たちの中の誰が、罪の真の意味と性質を十分に分かっているだろうか? 私は、罪がいかなるものであるかについて、ある程度までは、あなたに描写できる。だが、兄弟たち。私たちの中の最も光を受けた者らでさえ、罪の極度の罪深さのすべてを分かっているかどうかは疑問だと思う。罪人よ。私はあなたに対して特に話しかける。あなたは、自分が、罪を犯すとき、神を馬鹿呼ばわりしていることを知っているだろうか? あなたは、神の律法が自分にとって最善のものではないと云っている。神は過ちを犯したのだ、自分に幸福をもたらしもしないことを行なうよう自分に求めているのだ、と云っている。あなたは神を馬鹿だと呼んでいる。それは、何でもないことだろうか? あなたは、自分が罪を犯すとき、神を嘘つき呼ばわりしていることを知っているだろうか? 神は罪が苦く、よこしまなものだとあなたに告げている。あなたは云う。「いいや。罪は甘美だ。快楽だ。いずれにせよ、自分にはそういう味がする」。あなたは《永遠の神》を嘘つきだと非難している。それは、何でもないことだろうか? あなたが罪を犯すときは常に、あなたは神を暴君だと呼んでいる。あなたは、事実、神がむごく、いいかげんな法を与えたと公言しているのである。そのようなものを神は与えるべきではなかった。自分はそれを破ろうと決心している。なぜなら、それらが自分の幸福とならず、――自分の慰めを押し進めないからだ。では、これは何でもないことだろうか? これが、――知恵に満ちた神を馬鹿と呼び、真実な神を嘘つきと呼び、善にして寛大な神を暴君と呼ぶことが何でもないことだろうか?

 しかし、あなたの罪にはそれをも越えたことがある。人は、罪を犯すたびに、神の冠に一撃をくらわそうとするのである。そうした人々は神に王でいさせようとせず、《神性》の王冠に向かって自分の手を――自分のよこしまな手を――振り上げて、できるものなら、神の頭からその冠を叩き落とそうとするのである。罪の云い草はこうである。「神などいるものか!」 そして、罪人が罪を犯すそのたびごとに、彼は神を駆逐しようとするのであり、彼の目当てと意向は《永遠者》を押しとどめ、《王の王》をご自分の宇宙から追い出すことにある。これは、何でもないことだろうか? これが、何でもないことだろうか? このことさえも、いかに貧弱な説明であるとはいえ、罪を極度に罪深いものとするではないだろうか? まことに、私たちが罪を犯すとき、私たちは何をしているのか自分で分かっていない。私は、この集会の中のある人が、平然と立ち上がってこう云うなどほとんど信じられない。「私は神など屁とも思わない。私は全力を尽くしても神をその王座から追い払うつもりだ。左様。神の存在を抹消してやるつもりだ」。だがしかし、罪人よ。あなたが悪態をつくか、嘘を云うか、神の律法を何らかのしかたで破るとき、事実あなたはこうした一切のことを行なっているのであり、私はあなたが何をしているか自分で分かっていないと云えると思う。

 では、この万華鏡をやや動かして、この大いなる厳粛な真理について、別の見方をしてみよう。私たちの中のある者らに自分のしていることが分かるのは、罪を神の御前における忌まわしさによって判断する場合である。生きている人間の中で、神がどれほど罪を憎み、忌み嫌っているか分かっている者はいない。あなたは、醜いひきがえるをひどく嫌うかもしれない。あるいは、よこしまな思いに屈して、自分の敵を憎み、その敵が打ち殺されない限り生きていけないかもしれない。だが、そのひきがえるに対するいかなるいとわしさも、敵に対するいかなる憎しみも、罪に対する神の嫌悪と憎悪ほど徹底したものではない。罪のあるところ、神の究極の憎しみと、怒りと、瞋恚がある。神はそれに耐えられない。その御目は、燃え上がることなくその上にとまることができず、その御手は、常にそれを打ちのめして死なせることを切望している。何と、眺めやるがいい。方々。神には、ひとりのえり抜きの大天使がいた。――栄光に富む存在で、その翼は旭日の光箭のようで、その姿は雪を戴く山の高嶺に似て、その麗しさはさながら花々に覆われた美しい野であった。だが彼が罪を犯したとき、神は彼をも、彼に従って反逆した御使いたちをも容赦することなく、地獄に投げ落とし、彼らを「大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められ」[ユダ6]た。御使いであるからといって、一個の御使いさえ救われることはない。御使いとしての姿、熾天使としての声、智天使としての飛翔をもってしても、罪の汚れの付着したサタンとその軍勢が救われることはできなかった。ならば、いかに神は罪を憎んでおられるに違いないことか!

 神は、世界を造られたとき微笑んで、「これは良い」、と仰せになった。明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ[ヨブ38:7]。世界は非常に良いものであったし、神ご自身の心が、この新しく造られた世界を見て喜んでいたからである。しかし、アダムが罪を犯したとき、神はエデンを容赦されなかった。それがいかに美を極めていたとしても関係なかった。そして後に、人の不義が熟し切ったときには、この地球そのものを容赦することなく、大水がその深い暗闇の中から隆起し、雲がその束縛をはじき飛ばし、地表が洪水で覆われるようにお命じになった。というのも、「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」[創6:6]からである。

 否。もしも神がいかに罪を憎まれるかをずっと明確に見てとりたければ、罪が神ご自身のひとり子、神の愛する御子の上にいかに臨んだかを見てとろう。罪が御子の上に臨んだのは、御子ご自身の何らかの行為によってではなく、御子が私たちの不義をご自分の上に引き受け、それゆえに、そむいた人たちとともに数えられた[イザ53:12]からであった。では、その御父は御子を容赦されただろうか? とんでもない。御父は御子をその杖で打ち、鞭で打ち、ご自分の剣を心臓に突き刺された。神はご自分の愛する者のいのちを犬[詩22:20]に引き渡された。そして、「レマ、サバクタニ?」[マタ27:46]は、神が、いずこにあろうと罪を憎み憎悪されるという悲しみに満ちた証拠であった。さて、方々。あなたは行って、神が忌み嫌い、憎むこのものを胸に抱きしめ、膝の上であやし、甘やかし、可愛がりたいと思うだろうか? 私はそうは思わない。もし私たちが自分の目の前に、罪に対する自分の神の憎しみを置いているとしたら、それを取り除きたいと切望するであろう。それゆえ、私は云う。私たちがそれをつかみ、それを抱きしめるとき、私たちは、何をしているか自分で分かっていないのだ、と。

 また、私たちの中のいかなる人が、そのすさまじい種々の結果において、罪を知っているだろうか? この場にいる、子どもを持つ婦人の方で、今晩家に帰って、わが子の魂を最もすみやかに罪に定める道は何か自問したいという人はいるだろうか? この場にいる、子どもを持つ男性の方で、自らの邪念と相談して、わが子を地獄送りにする最も容易な方法について探りたいという人はいるだろうか? いないと思う。だがしかし、父親が酔いどれであるか、悪態をつく者であるとき、その人がしていることは、わが子を破滅させる最悪のことでなくて何だろうか? また、母親が祈りなく、不敬虔で、キリストから離れた者であるとき、その人がしていることは、わが子の魂を究極的に殺害することでなくて何だろうか? まことに、私たちは、自分の人間関係の中で自分が罪に陥るとき、何をしているか自分で分かっていない。一体どこの主人が、気まぐれに自分の職人たちの霊的健康を害しておいて平然としていられるだろうか? どこの市民が、猛毒のウパス樹となり、その枝という枝から毒液を滴らせたいなどと思うだろうか? どこの有力者が、ひとにらみで人々を破滅に誘惑するという伝説の爬虫動物バシリスクになることを欲するだろうか? ひとりもいまい。だがしかし、あなたが不義を犯すとき、――また、特に親や、主人や、教役者や、雇用者といった何らかの責任ある立場を占めている人々がそうするとき、――あなたは自分の全力を尽くして、他の人々の魂を滅ぼそうとしているのである。それで、私は真実に云えるであろう。「確かに、あなたは、何をしているか自分で分かっていないのです」、と。

 あなたは知っているだろうか? 罪人よ。あなたが罪を犯すたびに、あなたの罪は世界全体に効果を及ぼすのである。吃驚しないでほしい。私たちは、有限な視力しかないがために、たった1つの思念でさえ、全宇宙に影響を及ぼしていることが見てとれないのである。私が今のいま語っている言葉は、空気中に1つの波動を生じさせ、それがあなたの耳に届く。それは、あなたの記憶にとどまり、ある程度までは、永遠にとどまる。私の声の範囲をあなたの耳に限定することによって、私は永遠を振動させたのである。あなたは、こうした事がらを、燃える地獄の波の上か、栄光に富む天国の平原の中で考えるはずである。永遠が、一個の人の弁舌によって影響されているのである。あなたが行なうことも、それと同じである。地上にも、天上にも、地獄にも効果をもたらすのが、囁かれた冒涜や、目に見えない情欲である。あなたは、ひとりきりでは罪を犯せない。あなたは宇宙の一部である。社会の網の目から自分を解きほぐすことはできない。あなたは宇宙という船に乗り合わせており、そこから降りることはできない。ヨナが船から海に投げ込まれたように、そこから投げ落とされることさえできない。あなたの罪が他の人々を地獄へ引きずりつつあるか、さもなければ、あなたのうちにある恵みが他の人々を神と天国へと引き上げつつあるかである。あなたが罪を犯すときには、それを思うがいい。というのも、この日から、あなたは、もしかすると以前に云ってきたかもしれないようには、何をしているか自分で分かっていないとは、ほとんど云えなくなると思うからである。

 しかし、罪人よ。私からあなたに――あなたにである。――何の想像も必要ない1つのことについて、厳粛に語らせてほしい。あなたは、向こうのあの人が見えるだろうか? その人は何をしているだろうか? 私には1つの真珠の門が見える。その中には言葉にできない至福の輝きが見え、神のパラダイスの賛美が聞こえる。その人は何をしているだろうか? その人は、自分自身を閉め出す閂や遮断棒をその門に取りつけつつある。あなたは、この人を狂人と呼ぶだろうか? 罪人よ。その狂人とはあなた自身である。あなたのもろもろの罪が、あなたを天国から閉め出しつつあるのである。あなたは、向こうにいる人が見えるだろうか? その人は疲れ切った両肩の上にそだをかついでおり、この重荷の下で折れるように腰を曲げている。何のためにその燃料をかついでいるのだろうか? 自分が永遠に横たわり、暑さにうだるべき、火焔の寝床を作るためである。あなたはこの人を狂人と呼ぶだろうか? 罪人よ。その狂人とはあなた自身である。地獄とは、あなた自身がきつくくくった結び目のついた鞭をあなたの背中に受けることでなくて何だろうか? あなた自身の罪から一滴一滴が蒸留された苦い杯を飲むことでなくて何だろうか? こうしたことを口にするのはすさまじいことである。だが、私はこう感じる。地獄がいかなるものであるかを、そのあらゆる恐怖において眺め、天国を失うことがいかなることであるかを、その恐ろしい暗黒すべてとともに眺めるとき、私はあなたにこう云わなくてはならない。あなたは罪を犯すとき、確かに何をしているか自分では分かっていない、と。絞首索にかかるか、心臓に短剣を突き刺すか、水の墓へと飛び込むかして自らを死に至らせる者は、一時的な悲嘆を有していて、そこから逃れたいのだという弁解を有していると自分自身では――私たちはそう思わないが――思っているかもしれない。だが、あなたは、罪を犯すときには、弁解の余地もなしに自殺しているのである。なぜなら、あなたは自分の前に立っている善から逃れて、いかなる益もあわれみも混じっていない悪に向かっているからである。あなたは自ら火の中に身投げする。――あなた自身が燃え上がらせた火、また、あなた自身の冒涜的な息で煽り立てた火へと。おゝ、願わくは神が私たちに悟りを与えて、自分たちが罪を犯すとき、本当は何をしているのか教えてくださるように。そして、私たちが二度とそうすることがなくなり、神の恵みによって、キリストの尊い血へと至らされ、その咎を洗い流されるように!

   「ひとつの泉 そこにあり
    インマヌエルの 血に満てり。
    あまたの罪人 飛び込みて
    咎よりことごと 放たれん」。

 もう一言だけこの点について告げて、次に移ろう。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。罪人よ。あなたは知っているだろうか? あなたが罪を犯すとき、あらゆる行為に永遠が関わっているのである。信仰は私を永遠の至福に縛りつけ、罪と不信仰は私を永遠の災厄に束縛する。私には、この十年間ハデスにいた1つの霊の声が聞こえる気がする。耳を傾けるがいい! 耳を傾けるがいい! そこに叫びが、呻きがある。そして、今その言葉が聞こえる。――「思うに、ここに私が来たのも当然です。私はここで、云いようもない苦悶に苦しめられており、それが永遠に続くのです。――何のために? それは、数時間の浮ついた歓楽のため、ちょっとした愚にもつかない冗談のためです。神の恵みに服するよりも、自分の高慢にふけっていようとしたためです。なぜ私はここにいるのでしょう? それは、サタンに奉仕したいと思ったからです。そして神は、それがいかに苦々しい奉仕か、またをご存知です。また、それが有していたなけなしの甘美さは、今やことごとく忘れ去られてしまいました」。あなたは、この男が自分に向かってこう云っているのが聞こえるだろうか? 「おゝ! もしこの恐ろしい地下牢を逃れ出ることができたとしたら、それは私にとって天国となるだろう。もしこのすさまじい炎が消されることがありえるとしたら、また、もしこの、かじり苦しめるうじが尽きることがありえるとしたら、そのとき私は満足するだろう。もしも、十億年の後でさえ、この最悪の穴から脱出できる望みがありえるとしたら、私は、最後には逃れられるかもしれないという、その可能性だけを喜んで、心の鐘をことごとく打ち鳴らせるであろう。しかし、私の前に書き記されているのは何だろうか? 永遠だ! 永遠に、私は鎖につながれているのだ。永遠に、私の苦痛の辺土へと烙印を押されているのだ。永遠に、火の波の上にあり、永遠に、憤った《神性》の怒れる凝視を受けているのだ。永遠に、この飢えた深みの中にあり、それは私をさらに深い災厄へと吸い込もうと大きく口を開けているのだ。永遠に、永遠に、永遠に、永遠に」。おゝ、酔いどれよ。悪態をつく者よ。売春婦を買う男よ。あなたが次に罪を犯すときには、思い起こすがいい。あなたが行なう行為には永遠の結果が伴い、それが切れ目なく続くのである。永遠に、永遠に、永遠に! 確かに、あなたが過去において罪を犯したとき、あなたはこの圧倒的な真実について無知であったに違いない。あなたが、自分のしていることを知っていたはずがない。

 しかし、この場に、何をしているか自分でも分かっていると云う人がいるだろうか? それは、非常に誠実に警告され、非常に愛情深く取り扱われ、非常に真剣に祈りを積まれてきたため、罪を犯したときには、ことさらに、自分が何をするか分かっていながら罪を犯したという人々である。おゝ、話をお聞きの愛する方々。それは、あなたがたの中のある人々について真実である! この講壇を降りてくるとき、私はしばしばこう感じてきた。あなたは最後の審判の日には何の弁解の余地もないであろう、と。神もご存知の通り、私はあなたに神のご計画の全体[使20:27]を宣言するのを避けたことはない。――私は神の主権をそのあらゆる絶対性において、また罪人の責任をそのあらゆる完全性において宣言してきた。恵みの諸教理をあなたに宣べ伝えてきた。だが、だからといって、神があなたに要求しておられることを押し隠したことはない。それで、私には分かっているのである。もしあなたが滅びるとしたら、それは宣教や涙に欠けがあったためではない、と。

 よろしい。方々。もしあなたが自分の耳に福音を宣べ伝えられていながら滅びるとしたら、あなたは実に恐ろしい滅び方をすることになる。

 そこに場所をあけよ、――場所をあけよ。――そこを譲るがいい。あなたがた、モレクの祭司たち! 後ろに下がるがいい。あなたがた、アシュタロテに従う者たち。あなたがた、バアルの礼拝者たち。後ろに下がるがいい! あなたがたのえり抜きの座席、地獄の会堂の最高位を譲るがいい。場所をあけよ。というのも、ここにやって来るのは、自分の聖書を読み、忠実に宣べ伝えられたみことばを聞いている者だからである。彼に、えり抜きの場所を与えるがいい。さあ、食人族たち、海賊たち、そして、あなたがた、罪を犯してはきたが、何をしているか自分では分かっていなかった、あらゆるあわれな者たち。場所をあけよ。というのも、ここに来る者は、神を前にしながら罪を犯し、天の光がその目玉に照りつけていたときも、盲目的に《全能者》の槍先へと突進した者だからである。さあ、彼のために場所をあけるがいい。立ち上がるがいい。あなたがた、キリストが一度も宣教されたことのない国で殺人や流血の罪を犯してきた人たち。立ち上がって、この男に席を譲るがいい! 「何と!」、と彼らは云うであろう。「あんたも、俺たちみてえになっちまったのかよ?」 しかり、と私たちは云う。単にあなたがたのひとりに似た者となっただけでなく、あなたの深みよりもずっと深く、あなたの火焔よりもずっと熱く、あなたの恐怖よりもずっと身の毛もよだつものがこの人の恐怖、運命、破滅となるであろう。この人については、「何をしているのか自分でわからなかった」、とは云えなかったからである。神があなたをあわれんでくださるように。話をお聞きの方々。願わくは、神の主権の恵みがあなたに差し伸ばされるように。願わくは、神の選びの綱があなたを捕らえ、キリストの贖いの血があなたを洗い、その有効召命の声があなたを覚醒し、その恵みの力があなたを保つように。さもないと、悲しいかな! 忌わしいものだ。ニューイントン! 忌わしいものだ。サザク! お前に宣べ伝えられた福音が、もしソドムで宣べ伝えられていたのだったら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。また、ツロとシドンで宣べ伝えられていたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう[マタ11:21、21]。

 このように私は、できる限り単純に、神のしもべとして、キリストの訴えを解き明かそうと努めてきた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。

 II. さて、非常に手短に、――だが、おゝ、願わくは、それが《聖なる方》の油注ぎを受けるように!――《恵みの知られざる高さ》について語らせてほしい。

 世界のどこかに、ひとりでもわざの契約の下にある人がいたとしたら、あるいは、一部の者たちが説教しているようなゴタマゼの契約――半分は律法、半分はわざという、律法でもわざでもないしろもの――の下にある人がいたとしたら、――もし誰か、恵みの選びから除外されている人々がいたとしたら、それは、《救い主》を木に釘づけたこの者たちであった。だがしかし、よく聞くがいい。キリストは、パリサイ人たちの最上の者らについても言及しなかった一方で、特に、個人的に、この堕落した者たち――残虐な嘲りをげらげら口にしつつご自分を木に釘づけた者たち――について、神の御前で言及しておられる。「父よ。彼らをお赦しください」。主は、こうは云われなかった。「父よ。ポンテオ・ピラトをお赦しください。彼は、しぶしぶ罪を犯したのです」。こうは云われなかった。「父よ。ユダをお赦しください。彼は悔い改めて、不正をして得た金銭を宮に投げ込んだのです」。むしろ、「父よ。彼らをお赦しください」、と云われた。そこに彼らはいる。――釘のしるしは、なおも彼らの手から消え去っておらず、今なお彼らの手の平の中央には、釘の頭の跡が残っている。見よ。イエスの血が彼らの着物のすそについている。彼らが《贖い主》の御手に釘を打ち込んだときに迸り出た血である。だが、主は祈られる。「父よ。彼らをお赦しください」、と。そこで彼らは眺めている。自分たちのぞっとするような所行をニヤニヤしながら見ては、「あはは。あはは」、と云い、野卑な仲間たちに加わり、軽蔑しきった顔つきで云う。「彼は他人を救ったが、自分は救えない」[マタ27:42]。だがしかし、神の正義に訴える彼らの不義の叫びを越えて、そこにこの《救い主》の叫びが聞こえるのである。「父よ。彼らをお赦しください」。

 彼らの中には、赦しが必要だという意識が全くない。彼らの心は臼の下石のように硬い。彼らはその祈りそのものを笑い物にする。「赦す!」、と彼らは云う。「俺たちあ、これよりもずっと悪いしわざを何度もしてきたものよ。俺たちには、赦される必要なんぞねえとも」。彼らは、氷のように冷たく、鋼鉄のように厳しく、花崗岩のように溶かされることがない。だがしかし、イエスは祈っておられる。「父よ。彼らをお赦しください」。彼らを推奨するような、過去の善行は何もない。彼らは、その生涯の間、良いことなど全くしたことがない。彼らはあらゆる人を打ち殺してきた兵士たちである。ことによると、百人も殺したかもしれない。幼子を剣の刃で串刺しにすることもできた。かき裂き、引き裂き、頭を切り落とし、目玉をえぐるのはお手の物だった。彼らは、その血の行為が火文字で書き記されているに違いない者たちである。だが、その良い行為は決して明るみに出てきた試しがない。だがしかし、イエスは、「父よ。彼らをお赦しください」、と叫んでおられる。彼らは、たとい福音が宣べ伝えられたとしても、それを拒絶するだろう者たちである。もしキリストが差し出されても、拒否するであろう。たとい、何らかの良心のとがめに動かされたとしても、それを押し殺すであろう。たとい教役者によって涙されても、その涙をあざけるであろう。《教会》によって懇願されたとしても、その懇願を笑い飛ばすであろう。だがしかし、《救い主》は、「父よ。彼らをお赦しください」、と仰せになる。これほどの恵みの輝きの真中で、それをふさわしく描写する言葉をどこで見いだせば良いだろうか? 言辞よ。お前は、このような場合には鈍重で、冷たいしろものである! 言葉よ。お前たちは、今このときにおいては、私の魂の力強い意味を伝えるに足る力を有していない! このような恵みがこれまであっただろうか? イエスが私のために祈って、「父よ。彼をお赦しください」、と云ってくださったとき、また、あなたのために祈って、「父よ。彼をお赦しください」、と云ってくださったときを除き、このような恵みがこれまであっただろうか?

 おゝ、話をお聞きの方々。イエスが私たちのために訴えてくださるとき、それは私たちの中に何か訴えられてしかるべきものがあるからではない。それは、私たちが主のもとに逃れ来て、主から私たちのために訴えていただこうとするためではない。私たちがあわれみを切望し、尊んでいるために、主が私たちのために訴えてくださるのではない。主は、私たちが主に向かって祈るよりもはるか前から私たちのために祈ってくださる。主が私たちのため死なれたのは、私たちが罪の中における自分の死について何か知るより前であった。また、主が生きて、御父の御座の前で訴えてくださったのは、私たちが主を呪い、冒涜し、平然と無視しているときであった。あゝ、魂たち。あなたがたが次のような考えをきっぱりと取り除くことができたらどんなに良いことか。すなわち、イエス・キリストは、あなたの中に何かがなければ、その同情心をあなたに対して動かすことがありえない、と! 主が愛してくださるとき、それは主ご自身だけを理由としており、主の愛の対象の値打ちのためではない。恵みの源泉は、恵みの神のうちにあり、恵みを受ける者のうちにはない。赦罪される理由は、悔悟者のうちにではなく、《赦罪を給うお方》のうちにある。受け入れられる根拠は、私たちの信仰にではなく、その信仰の《創始者》であり《完成者》[ヘブ12:2]であるキリストのうちにある。また、だからこそ福音は、罪人たちの最悪の者にも、この世のかすにも、屑にも、もみがらにも、ろくでなしにも、ごみにも、汚物にも、下劣漢にも、腐れきった者にも、悪臭紛々たる者にも、劣悪な者にもふさわしいのである。おゝ、もし私たちのもとにある福音が、半分は恵み、半分は人間的な善良さだったとしたら、ならば、善人や、廉直な者や、教育を受けた者や、洗練された者や、道徳的な者には、何らかの程度の希望があったであろうが、あわれな落ちこぼれには何の希望もなかったであろう。だが、この今晩、私が宣べ伝えている福音は、まさしく、あるがままのあなたのところに下ってきたものである。湿地の中の、泥沼と、沼地と、地獄の隣にあって、地獄の門前に横たわっているあなたのもとへである。――あの金持ちの玄関の前に横たわり、犬たちからできものをなめられていた[ルカ16:21]ラザロのようではなく、地獄の犬どもがあなたの傷口をなめる、地獄の門前に横たわっていたあなたのもとへである。――神から追放され、忌み嫌われ、嫌悪され、自らにとっても厭わしく、あなた自身の良心にとっても不快なあなたのもとへである。自分でも自分など生まれない方が良かったと願うか、人間であるよりは、蝮か、蛇か、ひきがえるであった方が良かったと願うほどのあなたのもとへである。それでも、神の恵みはあなたにすら達することができ、「この救いのことばは、あなたがたに送られている」[使13:26 <英欽定訳>]のである。私は、あなたのような罪人たちについて今晩イエスは訴えておられると信じる。「父よ。彼らをお赦しください」、と。

 そして今、話をお聞きの愛する方々。あなたの内側には、こう云うかに思われるものがあるだろうか? 「その祈りに声を合わせなさい」、と。神の御霊は、あなたの魂の中でこう囁いていないだろうか? 「今晩はあわれみの時です。イエス・キリストはお通りになっています。主はそむく者のためにとりなしをしておられます」、と。ならば、ぜひあなたも云ってほしい。「父よ。わたしをお赦しください」、と。何と! 私の《主人》が、「父よ。彼らをお赦しください」、と云っておられるのに、あなたが自分では祈ろうとしないのだろうか? 金剛石も溶け、鋼鉄も分解するだろうに、あなたは溶けようとしないのだろうか? 神の御霊よ。火をもたらし、その心を溶かし給え! そして今、あわれな魂よ。こう云うがいい。「父よ。私をお赦しください。私は自分の罪の完全な咎を知りませんでした。ですが、私を咎ある者とするに足るだけのことは知っていました。私はあなたの御怒りを受けて当然な者です。私には何の功績もありません。主よ。私には何の正しさもありません。もしあなたが私を殺すなら、あなたは正しくあられます。もしあなたが私を呪うなら、私はそれに全く値します。ですが、父よ。私をお赦しください!」 キリストの訴えを用いてはならない。それはキリストのものであって、あなたのものではない。主は、こう云うことがおできになった。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」、と。ああなたは別の訴えを用いなくてはならない。「父よ。私をお赦しください。あなたの御子の尊い血のゆえに」、と。おゝ! もしこの場にいる誰かが、自分の心の中でこう云っていることを確信できるとしたら、私の魂は今しも地上から天へと躍り上がるだろうと思う。「父よ。私は天に対して罪を犯しました。それで、あなたの子と呼ばれる資格はありません」。あるいは、いずれかの魂がこう云うとしたらそうである。「主の苦悶と血の汗にかけて、その十字架と受難にかけて、その尊い死と埋葬にかけて、その栄光に富む復活と昇天にかけて、父よ。私をお赦しください!」 魂よ。あなたの祈りは聞かれている。「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。あなたの多くの罪は赦されています」*[ヨハ8:11; ルカ7:47]。家に帰り、あなたの家族や親戚に、神があなたの魂に、どんなことをしてくださったかを知らせるがいい。それから、この聖餐卓にやって来て、私たちとともに霊的に主の肉を食し、主の血を飲むがいい。「主の肉はまことの食物、主の血はまことの飲み物だから」*[ヨハ6:55]である。

 願わくは主がその祝福を加え給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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知られざる深さと高さ[了]

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