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大胆な挑戦が正当化される

NO. 3067

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1907年11月1日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1871年3月1日、主日夜


「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」。――ロマ8:34


 この非常に素晴らしい章の全体を通じて、使徒は、天来の恵みに含まれる数々の驚異を、次から次へと、うず高く積み上げているかに思われる。ここで私は、ペリオンやオッサといった山また山を積み上げた巨人たちについて記した古代の寓話を引用し、パウロも、それと全く同じことをここで行なってきたのだと云って良いであろう。彼は、天国への道を描写する中で、驚異に満ちた恵みの山々を積み上げてきた。そして、いま彼は、それらすべての頂上に登りつめ、それらを一種のタボルやピスガへと変じさせたように見受けられる。そして彼は、そこに立っている間、主を喜んで歓喜している。勝利の棕櫚の枝を振り、聖なる誇りによって誇り、自分の敵たちすべてに向かって、自分を攻撃してみよと挑戦している。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」[ロマ8:33-34]。

 I. まず第一にここにあるのは、《1つの厳粛な問い》である。――この場にいる全員によって発されたとしたら、非常に厳粛な問いである。「罪に定めようとするのはだれですか?」――というのも、残念ながら、話をお聞きのある人々がその問いを発した場合、すみやかにこう答えを返されるのではないかと思うからである。――「あなた自身の良心こそ、あなたを罪に定めようとしているものである。神のことばこそ、あなたを罪に定めようとしているものである。キリストご自身こそ、あなたを罪に定めようとしているお方である。万物の《審き主》なる神こそ、あなたを罪に定めようとしているお方である。なぜなら、あなたは、福音によって前に置かれている望み[ヘブ6:18]を捕えるために逃れ来ていないからである」、と。しかし、パウロはキリストを信じる信仰者として語っており、彼がこの問いを発するとしたら、――あるいは、他の信仰者がそれを発するとしたら、――大違いである。というのも、彼は他の人々が口にしてはならないことを口にできるからである。「誰が私を訴えるのですか? 誰が私を罪に定めようとするのですか? 今や私は、私の主なる《救い主》イエス・キリストを信じているというのに」。

 さて、愛する方々。この問い、「罪に定めようとするのはだれですか?」、に対する1つの答えはこうである。できるものなら多くの者が、そうしたがっている。というのも、おそらく、キリストを信じる信仰者で、敵がいない者はないだろうからである。善良な人々のうち中傷されない者はほとんどいない。神の民の大部分は何らかのしかたで迫害されてきた。その中のある人々は、何年も獄中に投ぜられなくてはならなかった。もっと多くの人々は死刑を云い渡されてきた。だがしかし、中傷者たちや迫害者たちに、神の人を断罪する何の権利もない以上、神の人は自分の中傷者たちや迫害者たちに意義を申し立て、こう云って良い。「あなたがそうしたければ、私を罪に定めると公言してもよいでしょう。ですが、私はあなたの断罪に、風がピューピューいうのと同じほどの効力しか認めません。あなたは、できるものなら私を罪に定めたいと思っていますが、本当にそうすることはできないのです」。私たちの大敵サタンは、できるものなら私たちを罪に定めたいと思っている。ただ空想の上でだけ、しばし彼が判事席に座っていると考えてみよう。もし悪魔が私たちを裁くことになるとしたら、彼はたちまち私たちの数多くの過失や、愚行や、失敗を私たちに思い起こさせ、それらのゆえに私たちを断罪しようとするであろう。しかし、おゝ、地獄の悪鬼よ。神はお前をご自分の聖徒たちの判事にしてはおられない! お前は、汚らわしいあてこすりを彼らに投げつけるかもしれないが、主はその1つ1つについて彼らにこう仰せになる。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか」[ゼカ3:2]。サタンには私たちを裁く何の権利もないし、私たちを罪に定める何の権限もない。それで、彼が私たちについて云える最悪のことを語るときも、私たちは彼をあざ笑い、神がすみやかに、私たちの足で彼を踏み砕いてくださる[ロマ16:20]ことを喜ぶ。

 しかし、愛する方々。時として、私たち自身の良心が私たちを罪に定める。この場にいる最上の人も、時折は、過去の悲痛な記憶を思い出すであろう。そして、私たちの《救い主》の尊い血で赤く染められた硝子を通さないで過去を眺めるのは、絶望を眺めることである。というのも、私たちの過去のそむきの罪は、イエス・キリストの贖罪の犠牲がなかったとしたら、私たちを地獄に引きずり下ろすだろうからである。左様。そして私たちは、さほど遠くを振り返らなくとも、この悲しい眺めを見ることができる。というのも、私たちがこれまで過ごした中でも最上の日々に犯した罪すら、私たちを身震いさせて良いものだからである。私たちの聖なる事がらにおけるもろもろの罪は、私たちを深く悲しませるに足るだけどす黒い。あなたは、後で泣かずに済むような祈りをささげたことが一度でもあるだろうか? 満足を感じられるような説教を一度でもしたことがあるだろうか? 私たちの行なう一切のことには罪が入り混じっていないだろうか? しかし、ここにあわれみがある。私たちの良心が、神の御座の上に据えられ、私たちを罪に定めることはない。確かに私たちは良心の声に聞き従い、その勧告に注意を払うべきだが関係ない。使徒ヨハネは私たちにこう思い起こさせている。「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです」[Iヨハ3:20]。また、「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです」[Iヨハ2:1]。私たちの一切の不完全さ、また、私たちの咎の自覚にもかかわらず、私たちはこのことを喜んでいる。――

   「ひとつの泉 そこにあり
    インマヌエルの 血に満てり。
    あまたの罪人 飛び込みて
    咎よりことごと 放たれん」。

これは、いかなる人であれ、これほど遠慮会釈なしに発するには大胆にすぎる問いに見える。「罪に定めようとするのはだれですか?」 しかし、実のところ、罪に定めることができる《お方》はひとりしかいない。私たちの人格は一千もの金棒引きによって散り散りに引き裂かれるかもしれない。だが、彼らが私たちを罪に定めることはできないであろう。ある囚人が被告席に立つとき、彼が恐れる必要のあるのは判事と陪審だけである。私やあなたが彼について何と信じていようが、何の意味もない。陪審員席についている十二人の人々だけが彼に有利な、あるいは、不利な判決を下すことができるのである。この人々の前では彼は身震いする理由がある。だが、それ以外の誰の前でもそうする必要はない。そのように、誰が私たちを罪に定めることができるふりをしようと、本当にそうできる《お方》はひとりしかおらず、それこそ《審き主》である。では、その名前は何だろうか? おゝ、キリスト者よ。それはあなたにとって何と慰められる事実であろう! あなたの《審き主》は、あなたの《救い主》なのである。そして、このお方が、――私たちのために死んでよみがえり、天に上っては日々とりなしをしておられるこの方が、――そのほむべき唇を用いてご自分の民の中の何者かに対して断罪を宣告することなど不可能である。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「ですが、《審き主》としての主はそうするに違いありません。主が裁きの座に着かれたときに、人をえこひいきしてはならないのです」。それは、正しい指摘である。私も、どこかの説教者が、《審き主》が私たちの《友》であると考えるのは慰藉であると云うのを聞くと常に悲しくなる。何と、愛する方々。私たちが友だからといってイエスが不公平な裁きを行なったり、私たちに有利な判決を下したりするなどと想像することはできない。しかり。だが、ここに私たちの慰めがある。私たちの《審き主》であるお方は、他の誰にもまして、私たちについて真実の全体をご存知である。そして、もし私たちが本当に罪に定められるべきだとしたら、最終的に私たちを義とお認めにはならないであろう。あゝ、しかり! 主はそうするには、あまりにも公正であられる。だが、主は、あらゆる信仰者が完全に義と認められており、決して罪に定められることがありえないと知っておられる。主は、他の誰にもまして知っておられる。信仰者がいかに義と認められたかを。いかなる血が信仰者を白く洗ったか、また、いかなる義が信仰者を「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]るようにしているかを。主はご自分の者たちを知っており、ご自分が、ご自分の者たちをいかなるしかたで義と認めたかをご存知である。それゆえ、全知であり、無謬に正しい《審き主》として、主は信仰者の上に下されるであろう宣告――すなわち、無罪放免の宣告――が、下しうる唯一の宣告であると知っておられる。「罪に定めようとするのはだれですか。キリストこそ死んでくださった方なのです」<英欽定訳>。それで、この事実は変わらないのである。来たるべき最後の審判の日に際して、また、罪に定められた者が地獄に追放される日に際して、他の人々のためには何が蓄えられていようと、主イエス・キリストを信ずるすべての者は、決して罪に定められることがない。というのも、ひとたび赦され、義と認められた者たちは、今の時にも永遠においても、常に赦され、義と認められているからである。今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してなく、これからも決してない[ロマ8:1]。

 II. 私たちの第二の点は、《この聖なる自信の根拠》である。聖なる自信があればこそ、聖パウロは、「罪に定めようとするのはだれですか?」、と問うことができたのであり、彼は自分が自信を持っている理由を私たちに示している。だが、私がまず最初に注意を引きたいのは、彼がその自信の根拠としてあげていないものである。

 彼はこう云ってはいない。「罪に定めようとするのはだれですか?――私たちは一度も罪を犯したことがないからです」。もしそれが真実だったとしたら、それは非常に堅固な自信の根拠であっただろう。というのも、もし私たちが一度も罪を犯したことがなかったとしたら、誰も私たちを罪に定めることはできなかったからである。神は不正ではない。それゆえ、無罪の者を罪に定めることをなさらない。だが、天国にいる栄化された者たちの中の誰ひとりとして、自分が一度も罪を犯したことがないなどとあえて訴える者はいないであろう。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」[ロマ3:24]ないからである。私たちはみな、羊のように神のもとからさまよい出し[イザ53:6]、おのおの下降する道に向かって行った。私たちは律法の行ないによっては義と認められることができない[ガラ2:16]。律法によっては、罪の意識が生じるだけで[ロマ3:20]、自分の空想してきた完璧さなど、決して自信を持つ根拠になりえないと証明するからである。

 また、使徒はその自信の根拠を、自分の悔い改めの事実にも置いていない。ある人々がいだいている観念によると、罪は非常に邪悪なものではあるが、悔い改めが真摯で深いものであれば、それだけでその罪を洗い落とすに十分だという。しかし、パウロはこうは云っていない。「罪に定めようとするのはだれですか?――私は罪の災いを感じており、それを憎み、そのために泣き、それに背を向けたからです」。彼は、その自信の根拠としては、いかなる自分の悔い改めにも言及していない。彼は真実に悔い改めていたが、しかし、神の御前で自分が義と認められる理由として自分の悔い改めに頼ろうなどとは決して夢にも思わなかった。

 また、彼は、自分が長いこと聖い生き方を続けたことに何らかの頼りを置いているとも云っていない。その回心の時から、パウロは群れ全体の模範であり、次のようにさえ書くことができた。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください」[Iコリ11:1]。だが、彼はこうは云っていない。「罪に定めようとするのはだれですか?――私はあなたがたの間で非の打ち所のない生き方をしてきたし、誰も私に罪を確信させることはできないからです」。そうした類の言葉を彼は一言も口にしない。あなたがたの中の、救いを求めている一部の人々がどう空想しているかは私も承知している。あなたは、自分が非常に尊敬する善良なキリスト者たちが、日々送っている善良な生き方の中から大きな慰めを得ているに違いない、と思っている。だが、請け合っても良いが、それは、そうした人々のいずれについても真実ではない。彼ら全員があなたに告げるだろうように、彼らは自分たちにも、自分たちの行ないにも、全く自信を持っていない。むしろ、彼らの自信は全く別の方向に見いだされるのである。

 パウロは、彼の自信の土台が、自分の実行してきた非常に大きな自己否定の事実にあるとも、自分がキリストの十字架を伝える宣教に最も献身してきた事実にあるとも云っていない。確かに、彼はそれまで、鞭で打たれ、石で打たれ、牢獄に閉じ込められてきたし、自分の主のためならいのちを投げ出すことにも全く否やはなかった。だが、彼はこうしたすべてのことを、彼がなぜ罪に定められることがありえないと感じるかという理由としては、全く言及していない。パウロは自分がそれまで行なったことのある一切の良い行ない、また、彼がキリストの御名のために苦しんできた一切のことについてどういう意見を持っていたと思うだろうか? 彼はこう云っている。「私は……それらをちりあくたと思っています」。(彼は、この「ふんど」という言葉以上に口汚い言葉を用いることはできなかったであろう。)「それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ……る、という望みがあるからです」[ピリ3:8-9]。ひとりの善良な人が、その臨終の時こう云った。自分は、自分の善行と自分の悪行をすべて一括りにして、ことごとく放り投げようとしているところですよ、と。彼のみなすところ、神の御前で自信を持つ根拠としては、どちらも大差なかった。それで彼は、そのすべてを打ち捨てて、自分の信頼を別の所に置こうとしていたのである。そして、よく聞くがいい。話をお聞きの愛する方々。あなたがたの前でこのように立っているとき、私は自分がどなたを信じてきたか知っており、単に永遠のいのちを希望しているだけでなく、この私の魂の中に永遠のいのちを持っていることを知っているのである。しかし、もしあなたが私に、先生はご自分の救いについて自信を持っていますが、それは、この長年の間イエス・キリストの福音を宣べ伝えてきたという事実に基づいているのですか、と尋ねるとしたら、私はあなたに告げるであろう。「いいえ。私は、神の御前での功績という根拠としては、自分自身の宣教には全くより頼んでいません」。では、神の大きな恵みを経験してきたため、ご自分の経験に立って自信を持っているのですか、と問われるとしたら、私は答えるであろう。「いいえ。決してそうではありません。私の内側にある、また、私のものである何物にもまして無限に良いのは、私の魂がその上で安んじている、かの《岩》です。さもなければ、私が頼りにしているものは、変転絶え間ない流砂であり、私の破滅となるでしょう」、と。キリストと、キリストが行なわれたこととの上に、私の魂は、今の時にも永遠にもすがりついている。そして、もしあなたの魂もそこにすがりついているとしたら、それは私の魂が救われるのと同じくらい確実に救われるであろう。そして、もしあなたがキリストに信頼しながら失われてしまうとしたら、あなたがいかなる人であれ、私もあなたとともに失われ、あなたとともに地獄へ行くことであろう。そうなるに違いない。というのも、私はこの事実の他の何物にもより頼んでいないからである。すなわち、神の御子イエス・キリストがその生涯を送り、死んで、葬られ、よみがえり、天に上り、今も生きて、神の右の座について罪人たちのためにとりなしをしておられるという事実にである。

 このように私はあなたに、使徒の自信が彼自身の何物にも土台を置いていなかったことを示してきた。さて、これからあなたに説明したいのは、なぜ彼が自分は罪に定められていないし、決して罪に定められることがないと知っていたかという理由である。彼の自信には4つの柱があった。

 そして、最初の大きく重厚な柱はこれである。――「キリストこそ死んでくださった方なのです」<英欽定訳>。しかし、パウロよ。あなたは神の律法を破ってきたのだから、神はあなたを罰さなくてはならないだろう。彼は答える。「神が私を罰することはできません。私を罪に定めることさえできません」。しかし、パウロよ。あなたはステパノを殺す手助けをしたし、あなたの手は殉教者たちの血で赤く染まっている。あなたは神の聖徒たちを狩り立て、喜んで彼らを殺してきた。だのにあなたは、神がそのことでも自分を罪に定めることができず、これからも決してそうしないと云うのか? 「左様」、と使徒は答える。「神は決してそうせず、決してそうできません」。だが、なぜ? 「それは、キリストが死んでくださったからです」。しかし、パウロよ。キリストの死が、あなたの咎と何の関係があるのか? 彼の答えはこうである。「私の一切の罪は、いかに多くとも、あるいは、いかにどす黒いものであったとしても、キリストの上に置かれたのです。そして、キリストが神の御前で私の身代わりとして立ち、私に成り代わって苦しむことによって、私の一切の邪悪な行為と思念と言葉とについて、神の律法を完全に満足させたのです。イエスの苦しみは、私の《身代わり》としての苦しみだったのです。イエスは、私が決して負えなかったもの――私の罪ゆえの神の御怒り――を負ってくださいました」。あなたはこのことが見てとれるだろうか? あわれな、罪の重荷を負った魂よ。もしイエス・キリストがあなたに代わって死なれたとしたら、神はあなたを罪に定めることができない。イエス・キリストが本当にあなたに成り代わり、あなたの《身代わり》として苦しまれた場合、イエスが《身代わり》として死んでくださった当の罪人を神が罰したりしたら、どこに神の名誉や正義があるだろうか? そのようなことはありえない。

 この聖句の慰めはここにある。パウロは云う。「キリストこそ死んでくださった方なのです」。すなわち、神の御子こそ死んでくださった方なのである。そして、これほど尊貴なお方の苦しみによって差し出された贖罪には、無限の功績があるに違いない。パウロは云う。「キリストこそ死んでくださった方なのです」。この言葉は「油注がれた者」を意味する。――御父によって遣わされ、聖霊によって油注がれた《天来のお方》、また、自らご自分の民の代わりに苦しむことを引き受けてくださったこのお方は、ただご自分の意志だけでそうされたのではなかった。この方は、そうする権威を与えられていた。そうするよう任命され、任職の油を受けていた。神がご自分の御子をその立場に就かせたのである。預言者イザヤが見た通りである。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]。さて、見るがいい。もしキリストが《身代わり》であられ、また、もし神がキリストを任命し、私の唯一の《身代わり》として、私に代わり、私の代理として、私に成り代わって苦しみを受ける任職の油を注いでくださったとしたら、全宇宙のどこに、神がまずキリストを罰しておいて、それから私を罰さなくてはならない理由など見いだされえるだろうか? 唯一の疑問はこのことである。――キリストは、私の代わりに、私の代理として、私に成り代わって死なれたのだろうか? その問いに対する答えはこうである。――もし私がキリストを信ずるとしたら、私はキリストが《身代わり》として死んでくださった者たちのひとりである。もし私が心を尽くしてキリストに信頼するとしたら、また、キリストだけを私の《身代わり》また《救い主》としてより頼むとしたら、私は、キリストが私に成り代わって苦しんでくださったこと、また、私が自分の罪ゆえの完全で欠けるところのない贖罪をささげたことを示す目印としるしを有しているのである。そして、このことを知っているため、私はあえて云うのである。使徒パウロがこう云ったのと同じくらい確信に満ちて云うのである。キリストは私のために死んでくださったのだ、と。キリストが《身代わり》また《救い主》として死んでくださった罪人を、一体誰が罪に定めることができるだろうか? これは、あなたの足の下に持つべき堅固な土台ではないだろうか? ここでなら、私は堅く立っても良いではないだろうか? そして、イエスが私に代わって死んでくださったと知っているがゆえに、私は決して死ぬことがありえないという、また、決して地獄送りにされることはないという確信を感じて良いではないだろうか? というのも、イエス・キリストは、私が苦しんでしかるべきだったすべてを苦しんでくださったからである。

 しかし、使徒には、彼が確実に罪に定められることはないと感ずべき第二の理由があった。そして、それは、キリストが死者の中からよみがえられたということであった。「いや、むしろ」、彼は云う。「よみがえられた方なのです」<英欽定訳>。さて、もしキリストが死者の中からよみがえらなかったとしたら、彼は詐称者であったことが証明されていたであろう。もし彼が死者の中からよみがえらなかったとしたら、彼が神でも、神の御子でもなかったことは明らかであったろう。だが、主の死者の中からのよみがえりは、主が神であるとともに、任命され、油注がれた《救い主》であったことを証明した。キリストの死は、その民が天来の正義に対して負っていた負債を支払った。そして、主が死という、しばらくとどめられていた牢獄の中から出て来たとき、それは、いわば神の領収書であった。それによって、神は全宇宙に対してこう云われたのである。「わたしの《子》は、その民全員の負債を支払った。それゆえ、私は彼を自由にする」、と。イエスは、その選ばれた者たち全員のための《人質》であられた。そして、彼らの贖いという途方もない金額の最後の一銭が支払われるまで、墓という牢獄の中にとどまっていなくてはならない。しかし、この大いなる取引が完了し、主の民の贖いが完全に成し遂げられたことが、無謬の正義によって認証されたとき、そのとき、キリストは自由にされ、「聖書に従って三日目によみがえられた」[Iコリ15:4]。さて、見るがいい。信仰者よ。この栄光に富む真理がいかなる効果を有しているかを。いかにして神は、キリストをあなたの《身代わり》として受け入れた後で、あなたを罪に定めることなどおできになるだろうか?――キリストを死者の中からよみがえらせることにより、人々と御使いたちの前で公に受け入れてくださった後で、いかにそうできるだろうか? 神はご自分を偽ることがおできにならない。神がこの《身代わり》を受け入れた後で、その《身代わり》が血を流して死んでくださった当の者たちを罪に定めることなど不可能である。

 パウロには、この2つの柱があった。――キリストの死と復活である。――だが、彼は三本目をつけ足している。彼によると、キリストは、神の右の座に着いておられる。これは、私たちが決して罪に定められることがありえないと感じるべき、もう1つの有力な理由である。というのも、神の右の座とは、権威の場、また、威光の場だからである。キリストは、神の右の座にあって、そこに《王》としておられる。そして、《王》として、キリストはご自分の民を彼らのあらゆる敵どもから守ることがおできになる。それゆえ、偽りの告発者たちは、キリストの全能の御腕によって放逐されるであろう。キリストが《王》として、神の右の座に着いておられる間は、いかなる告発者があえて天の法廷で私たちを起訴しようなどとするだろうか? キリストが神の右の座に着いておられる以上、キリストの大いなる贖いのみわざが完了したことは証明されている。もしそれを完成しなかったとしたら、キリストはそこに着座されなかったであろう。しかし、それは完了した。永遠に完了した。かの比類なき織機の中で織り上げられた完璧な義の衣を、私たちは永遠に身にまとうのである。主の云うに云われぬ苦悶という神聖な杼は、その最後の一打ちがなされた。私たちが着るべき、その素晴らしい衣装は染められた。というのも、それは主の尊い血に浸されたからである。そして、それが完了したとき、この《天来の働き手》は、「神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられる」[ヘブ10:12-13]。キリストが神の右の座に着いておられることは、御父からの絶えざる認証である。私たちに代わって御子が行なわれた代償に御父が満足しており、御子によって代表されている私たちに満足しておられるとの認証である。キリストが神の右の座に着いておられる一瞬一瞬、あらゆる信仰者は安全である。キリストが天国におられ、キリストが死んでくださった民が地獄にいることは、完全に不可能である。キリストが私たちの《代表者》として天国におられるのに、しかし、キリストが代表している者たちが神のいつくしみから追い払われているなどということは、奇怪なことであり、冒涜であり、一瞬たりとも想像できないことである。《かしら》が栄化されている以上、その神秘的なからだの肢体たちは決して罪に定められることはないはずである。彼らは永遠に救われなくてはならない。主が神の右の座に着いておられるからである。ならば、顔を上げるがいい。キリスト者よ! あなたは墓の中を見下ろし、主があなたの負債を支払っておられるのを見た。主がよみがえられた園の回りを見渡し、あなたの負債がことごとく帳消しにされたのを見た。今は主が御父とともにお住まいになっている天を仰いで見るがいい。あなた自身が、「愛する方にあって受け入れられ」ていることを。

 使徒には、まだ1つ、自信を持つ根拠があった。というのも、彼は、キリストが「私たちのためにとりなしていてくださる」、と云うからである。そして、たとい今なお何らかの疑いが消えずにあるとしても、確かにこのことはそれを追い払うに違いない。イエスがご自分の民のために訴えてくださるとき、その訴えは全能であり、神は決してご自分の御子に、そのいのちの激しい苦しみ[イザ53:11]の報いを拒むことをなさらない。天においてキリストは、ご自分の民のために声に出して訴えておられると思う。だが、主がそうすることは全く不必要である。そこに主がおられること自体、抗しがたい訴えだからである。もし誰かが地上の法廷の前で訴えていたとしたら、また、もしその人が老兵士であり、かつて母国に勇敢な奉仕をささげたことがあったとしたら、また、彼が自分の胸をはだけて、戦闘で受けた傷口を示すとしたら、多くを語らなくとも良いであろう。彼の傷跡がいかなる言葉にもまして雄弁に訴えるだろうからである。そして、天におられるイエスは、その御手と御足を掲げ、刺し貫かれた御脇を示される。なおもその受難と死とのしるしで飾られた、その傷だらけの容姿は、永遠の、圧倒的な訴えである。もしイエスが私のために訴えてくださるとしたら、その御父に私を拒絶することがおできになるだろうか? そうするとしたら、御父は御子をも拒絶しなくてはならない。ご自分の愛するひとり子の権威ある要求を拒絶しなくてはならない。御父はイエスが当然受けてしかるべきものを拒絶しなくてはならない。そして、そうしたことを御父は決して行なうことがおできにならない。おゝ、信仰者よ。もしあなたがなおも自分がキリストに受け入れられているかどうかについて何らかの疑いをいだいているとしたら、この四番目の強大な理由の前で、逃げ出させるがいい。「私たちのためにとりなしていてくださる」。

 これ以上あなたを長々と引き留めるつもりはないが、ただ1つ、あなたに思い起こさせたい点がある。すなわち、あなたがたの中のある人々にとって主たる困難は、このことにあると思われる。あなたは、こうした大いなる真理を信じてはいるが、そこに何が含まれているか完全には悟っていない。私は今、真にイエスを信じている人々に対してのみ語っている。あなたはイエスにより頼んでいる。方々。あなたは、自分がそうしていることを知っている。あなたがひどく思い違いをしていない限り、あなたがたひとりひとりはこう云うことができる。――

   「わが身の望みは ただ建てり、
    主イエスきみの 血と義にぞ」。

よろしい。愛する方々。私が単にこのことを語るだけであり、あなたがただそれを聞くだけにしてはならない。むしろ、それを信じ、それを楽しみ、それを飲み込み、それに養われて生きるがいい。あなたは神によって罪に定められてはいない。それゆえ、その逆のことが真実である。あなたは神に受け入れられている。神に愛されている。神にとって愛しい者である。神の御目にきよく尊い者である。このほむべき思念をあなたの頭に入らせるがいい。そして、それがそこに入ったときには、それがさらに深く、あなたの心と魂に入るよう神に祈るがいい。そして、パウロのように云うがいい。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」[ロマ5:1]。また、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにあって、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1 <英欽定訳>]。なぜあなたは頭を垂れ、苦虫をかみつぶしたような顔に見えるのだろうか? あなたは、罪に定められていたり、罪に定められる何らかの不安があるとしたら、そうした様子をしていても当然だが、もしあなたが主イエス・キリストを信じているとしたら、そのような恐れは何もない。

 時として一部の説教者たちが、われわれは見習い期間の状態にあるのだと云うのを聞くことがある。だが、誰がそのような状態にあるのか知りたいと思う。確かに、罪人ではない。彼はすでに失われているからである。また、聖徒ではない。彼は救われており、決して失われることがありえないからである。罪人はすでに罪に定められており、聖徒はすでに義と認められている。私たちは判決を待っているのではない。それはすでに下されているからである。あらゆる信仰者に関しては、こう記録されている。彼は義と認められており、彼が神の子どもであるというその申し立ては真実であり、祝された者たちの国にある、栄光に富む相続財産のすべては彼のものであり、彼はそれを即座に自分のものとして請求してかまわない、それはみな彼に属しているのだから、と。だから、奮起するがいい、神の子どもよ! 奮起するがいい、昼の鳥よ! 神の鷲よ。あなたは、毎日毎日、暗闇の中で気を腐らせながら座っていようというのだろうか? あなたは光の中に舞い上がり、太陽を見つめることができるのである。奮起するがいい、あなたがた、朝の息子よ。奮起するがいい、あなたがた、光の子どもよ。あなたの陰鬱な疑いや恐れのすべてから離れるがいい! あなたには、年間百万両も費やしてかまわない金額が、恵みの神によって与えられているのである。では、あなたは、一銭一銭にさえ気を遣う必要がある乞食のように、一日数ペンスしか費やさずに行こうというのだろうか? あなたは赦されているのである。人よ。ならば、赦された人のように生きるがいい。何と、たとい神が時折あなたを苦難で打ちのめすことが何だろうか? あなたは、古にこう云った人のように云えるではないだろうか? 「主よ。お望みのままに激しく打ちのめしてください。今や、あなたの打擲には何の怒りもこもっていないのです。ですから、私は愚痴をこぼさずにそれに耐えられます」。あなたは、深刻な損失をこうむり、重い十字架を負っているだろうか? 今やそれらはあなたにとって非常に軽く思われるべきである。あなたが赦されている限りにおいて、他の何が重要だろうか? ニューゲート監獄にいる、死刑宣告を受けた人のもとに行き、彼に無条件放免を与えて、こう告げてみよう。国王陛下の仁慈により、そなたは死ななくて良くなった、と。そのとき彼は、何か小さな物事が意にまかせないと文句を云い始めると思うだろうか? おゝ、否! 彼は云うであろう。「命びろいをしただけで十分です」、と。さて、あなたは赦されている。神の子どもである。天国への途上にある。だから、「悪を行なう者に対して腹を立てるな」[詩37:1]。《いと高き方》に向かってつぶやいてはならない。柳の木々[詩137:2]からあなたの立琴を取り下ろし、主に新しい歌を歌うがいい。主はあなたのためにあわれみの驚異をもたらされたからである。

 それから、自宅でも外でも、この、あなたに対する神の素晴らしい愛に照らして生きるようにし、他の人々からこう問われるようになるがいい。「なぜこの人はあれほど幸せなのだろう? なぜこの婦人はあれほど嬉しそうなのだろう?」 私は、誰が赦されているのかをあなたに告げはすまい。――あなたの声をもって日がな歌うがいい。私はあなたが、自分にできる限り、喜ばしい唇をもって主を賛美していてほしいと思うが、だが、あなたの心の鐘が一日中鳴り響いているようにするがいい。時として私は、主が私のために行なってくださったことを思うとき、自分が、何箇月か前に見た教会の尖塔であるかのように感じる。その場所では結婚式が行なわれており、その鐘は陽気な音色を鳴り響かせていた。そして、人々が歌っていたとき、私ははっきり見た。その鐘が何度も何度も鳴り響くにつれて、その尖塔はよろめき動き、四つの頂点がぐらぐら揺れて、その塔の全体があたかも崩れ落ちざるをえないかのように思われた。そして、時として、私の魂は、この大鐘の綱を引く。「イエスはお前を愛し、お前のためにご自分をお捨てになったのだ。そして、お前はイエスにあって受け入れられており、神ご自身の子どもなのだ。また、天国へ向かう途上にあり、永遠のいのちの冠はお前のものなのだ」。そのとき私は、自分のからだという、この熱狂した尖塔が、あふれる喜びの下で揺れてよろめき、この恍惚的な至福をほとんど支えきれないように感じる。神の愛が私の魂の内側で作り出す至福である。そのとき、私は歌うものである。――

   「天(あま)つ《小羊》(ひつじ)に わが果報(さち)はあり、
    わが心(むね)おどらん、御名のひびきに」。

おゝ、私は、あなたがたの中のすべての人々にその喜びを持ってほしいと思う! そして確かに、神のしかたでそれを持とうとするあらゆる人はそれを持つはずである。もしあなたがイエス・キリストを信ずるなら、あなたは一切の咎について無罪を申し渡される。もしあなたが自分をキリストにゆだねさえするなら、あなたがいかなる人であれ、キリストはあなたの罪を引き受け、それをあなたから取り去り、ご自分のすべての民と同じように、あなたが受け入れられるようにしてくださる。

 願わくは神があなたがた全員に、イエスを信じる恵みを与え、喜びながら帰って行けるようにし給わんことを。その御名のゆえに! アーメン。

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大胆な挑戦が正当化される[了]

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