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弟子たちに対する御霊の職務

NO. 3062

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1907年10月17日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1865年4月23日、主日夜


「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」。――ヨハ16:14


 多くの人々は、不安げにこう尋ねる。「私たちは聖霊にあずかっているのでしょうか?」 その心配をつのらせては、このように論じる。「私たちは、何がしかの内なる情緒を感じています。生活が変化しているように思われます。神と、その恵みを切に願ってやみません。こうしたことは、神の御霊から出ているのでしょうか? 自分の魂の中に聖く思われるような促しが見いだされるとき、それは、御霊から来ているのでしょうか? いついかなる時であれ、熱心さに満たされ、祈るとき、あるいは、魂が、天来の事がらについて格別な喜びを覚えるとき、私たちは真実に聖霊の働きの下にあると云って良いものでしょうか?」 私は、こうした疑念の徹底的な解決に踏み込むつもりはない。それは、夕べの短い講話にとっては、あまりにも広大な主題となるであろう。だが、あなたの当惑をしばしば和らげるだろう1つの点がある。この聖句から見てとれる聖霊のみわざ、職務、慣わしは、キリストの栄光を現わすということである。それゆえ、もしあなたが、自分の魂の中で大きな力と熱情をもって主の栄光を現わしているとしたら、それは神の御霊から出ていると思って良い。だが、もしあなたの中に、主イエス・キリストのご性格か、ご人格か、栄光を傷つけるようなものがあるとしたら、それはサタンからやって来ているか、あなた自身の腐敗した性質から出ているのであろう。だが、神の御霊からは決してそのようなものは出て来ないし、それを御霊のせいにするのは冒涜である。あなたの魂の中でキリストを高く上げるように感じられるものは何であれ、御霊から出ている。だが、自我を高く上げるか、何か他のものをキリストの地位につけかねないものは何であれ、どこから出たにせよ、決して聖霊から出て来たものではない。

 では、ただこの点だけを扱うことにしよう。聖霊は、主の民の中でキリストの栄光を現わされる。いかにしてそうされるのだろうか? また、どこまで御霊が働いておられると判断して良いのだろうか?

 聖霊がキリストの栄光を現わす1つのしかたはこのことである。――御霊は、私たちに、自分の価値をいやまして見下げさせる。――いわば、神はふたりいるのである。ひとりは真の神、もうひとりは偽りの神である。自我は、最初に私たちの心の中に王座を立てる。そして、その自我の王座が高ければ高いほど、キリストは低くならざるをえない。自我が多くなれば、《救い主》は少なくなる。自我か、自分の力か、自分を義とする考え方を尊重する方向があれば、確実にキリストを低く見る方向があるに違いない。だが、自我が低く下るなら、たちまちキリストは上ることになる。自我についても、バプテスマのヨハネがかつてキリストと自分について云ったのと同じように云えるであろう。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」[ヨハ3:30]。もしあなたが、自分自身の生まれながらの堕落性について浅薄な見方しかしていないとしたら、あなたはキリストについて非常に浅薄な考えしかいだいていないであろう。もしあなたが罪が魅力的なものだと考え、あなたにとってゲツセマネや、ゴルゴタや、カルバリが何の重みや意味も持たない名前であり、あなたが罪の下で一度も呻き苦しんだことがなかったとしたら、あなたがキリストの呻きや、悲嘆や、血の汗を軽んじるとしても不思議ではない。だが、自分がまことに失われた、破滅した者と分かってくるとき、あなたは、自分の《解放者》を尊ぶであろう。「失われている!」というあの恐ろしい言葉が、あなたの耳に弔鐘のように落ちてくると思われるとき、人の子が、失われた人を捜して救うために来た[ルカ19:10]との知らせは、あなたにとって、御使いたちがこう歌った降誕祭祝歌のように甘やかなものとなるであろう。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]。もしあなたが病を感じているなら、《医者》を大事に思うであろう。自分のむなしさが分かっているとしたら、キリストの満ち満ちた豊かさを尊ぶであろう。だが、もしあなたが、自分の全くの無力さ、無価値さを示す聖霊の教えを拒絶しているとしたら、そうすることにおいて、キリストを拒絶しており、罪人たちを救うことのできる唯一の《救い主》をはるか彼方へ押しのけているのである。ならば、何にもまして尊いこととは、私たちが自分の自己評価においてより低く、より乏しく沈み始めることである。霊的生活を開始したとき、私たちは自分が無であると信じている。だが先に進むにつれて、自分が無以下であることに気づく。願わくは聖霊が、あなたの中でそのように働いてくださるように! あなたがたの中のある人々は、ことによると、自分が神の子どもではないと思っているのかもしれない。さもなければ、今のように打ちひしがれてはいないであろう。ぜひこの問題を正しく理解してほしいと思う。意気阻喪すべき理由の代わりに、喜ぶべきことを見いだすであろう。というのも、確かに御霊は、あなたの自己評価を低くしているとき、キリストに誉れを帰しておられるからである。

 さらに重要なことに、聖霊が本当に人の心の中で働いているときには、あらゆる点でキリストに誉れを帰される。御霊は、キリストのご人格に誉れを帰される。キリストの《神性》を軽んじている人々は、神の御霊に教えられてはいない。聖霊によって教えられている人であれば誰でも、御父のひとり子を次席の神とみなしたりはしない。というのも、聖霊は私たちにこのように教えられるからである。「長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め』」[ヘブ1:6]。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」[ヨハ1:1]。御霊がさらにキリストに関して教えられるところ、キリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]であられる。一部の人々は、キリストの人間性について低くみなすような見解を有している。時折、私たちは、私たちの主イエス・キリストの人間性についての暗いほのめかしを聞くことがある。キリストも罪を犯すことがありえたとか、そういった類のものである。だが、これは決して神の御霊から出たものではない。キリストの《神性》と人間性との双方が、キリスト者の魂の中では誉れを帰されている。御霊が光とともにそこにやって来ておられる場合にはそうである。

   「イェスぞ 受くるに ふさわしき、
    栄誉(ほまれ)と神の 大能(ちから)をば」。

カルバリで吊り下げられた、かのまことの人を、私たちはいま崇敬している。あらゆる主権と力をはるかに抜いて高く上げられている。キリストに、そのご人格において誉れを帰すあらゆる教えは、御霊から出たものである。だが、キリストの名誉を汚す教えは、悪い者の作であるとの烙印を押されるべきである。

 御霊が、やはりキリストの栄光を現わすのは、そのみわざにおいてである。あなたは、キリストの完成されたみわざを一度でも見てとったことがあるだろうか? 主が世に来られたのは人々を救うためであった。そして、主は実際に人々を救われた。主は、人々が渡れるかもしれない橋を作ったのではない。彼らをかかえて、その橋をお渡りになったのである。主は、完璧にその贖いのみわざを成し遂げたため、何人かの人々が天国に登れるようになったのではない。むしろ、主ご自身が、ご自分にある御民のすべてに代わって、天の所にお入りになり、代表として神の御座をお占めになったのである。選民の救いは、キリストに関する限り完了している。キリストはご自分の肩に、彼ら全員の咎を背負われた。その咎のための罰をお受けになった。それで彼らは、その場でただちに義と認められたのである。主はよみがえり、その罰と、それを招いた不義とをもろともに振るい落とされた。栄光に入られた。そして、彼らは、その場でただちに、事実上、1つの相続財産の所有者たちとされた。何者も彼らから取り去ることのできない相続財産である。キリスト者よ。キリストのみわざを低くし、それを人の意志次第で効果が決まるようなものにおとしめる教えは、十字架を地に引き下ろして、こう云うも同然であると感じるがいい。「血は流された。だが、それが無駄に流されたこともありえる。あなたのためには、無駄に流されたことがありえる」、と。――私たちはみな、そうした教えが神の御霊から出ていないと感じるようにしよう。御霊から出た教えとは、十字架を指さしてこう云うものである。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」[イザ53:11]。贖罪を真の贖罪とする教え、また、その贖罪を差し出されたあらゆる魂から、神の報復的な正義を永遠に遠ざけるという教えは、キリストを高く上げるものであり、それゆえ、神の御霊から出たものである。あなたの心が、キリストの行なわれたことに基づいて安らがされているとき、また、あなた自身の行ない、知識、祈り、わざ、信心に対する一切の信頼を投げ捨てているとき、あなたは、キリストが行なわれたことに基づいて安らぐ者となっているのであり、そのとき、イエス・キリストはあなたの心の中で高く上げられており、それは、天来の恵みによる御霊のみわざであったに違いない。そのとき、キリストのご人格とみわざとは高く上げられているのである。

 聖霊がやはりキリストを高く上げるのは、その一切の職務においてである。人を祭司として召し、私に向かって、私の子どもを取り上げて、彼の祭司としての手から何らかの恵みを受けとらせるように命じるような教え、また、他の人を主教職に就け、私に向かって、彼の前に膝まずかせ、私の恵みの堅信を彼のもったいぶった指から受けるように命じるような教え、すなわち、そうした、誰かひとりの人をその同胞たちよりも高く掲げて、あたかも今も何らかの祭司たちが――神の子どもたち全員のものたる共通の、一般的な祭司職以外に――いるかのようにする宗教体系、そうした教えは、人間の祭司たちをキリストの地位に掲げ上げることによって、キリストを低めている。御霊は、キリストがご自分の《教会》の偉大な大祭司であると証言している。主の手からこそ、私たちは祝福を受けるのであり、主の血によってこそ私たちは洗いを受けるのであり、他のどこにも私たちは、キリストからのみやって来る恵みを探そうとは思わない。

 キリストがやはり御霊によって高く上げられるのは、その祭司的職務のみならず、その預言者的な職務においてでもある。私は、どこかの誰かを先生と呼び、私の教師として受けとって良いだろうか? ウェスレーか、カルヴァンか、いずれかの人を、生者であれ死者であれ、かの権威ある《教師》の地位に掲げ上げるようないかなる教え、また、彼らの公式見解をあたかもキリストの無謬の啓示ででもあるかのように受けとるべきだとするいかなる教えも、神の御霊から出たものではない。だが、「あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟……です」[マタ23:8]、と云う教え、また、私たちのあらゆる聖徒の聖なる平等性を教える教え、また、真の《教師》、また、権威をもって語ることのできる唯一の《教師》をイエス・キリスト、神の御子とする考え、こうした教えは、聖霊なる神から出たものとして受け入れて良い。

 それからキリストは第三の職務を占めておられる。主は《預言者》であり《祭司》であり、さらに《王》であられる。そして、キリストを王座から追い出し、誰か他の者をそこに着けるような教えは、神の御霊に従ったものではない。ご自分の《教会》におけるキリストのかしら性という教理は、ことによると、他の何にもまして現在、教えられる必要があるかもしれない。この教えのためにこそ、スコットランドの子らは悲惨な苦しみを受け、死を忍んだのである。追放された彼らは、低湿地や山々の間をさまよい歩いた。ほんの先日、私はある記念碑の近くに立っていた。それは、キリストのために血を流した何千人もの人々のために立てられた記念碑である。そして、私は、ガスリーその他の人々が、キリストの《かしら性》を守るために血を流した場所に立つことを、決して小さくない特権だと感じた。その当時、確かにチャールズ二世が、あるいは、ジェームズが、あるいは、似たような性格の他の誰かが、《教会》のかしらになりたがったのである。しかし、それは、神の忠実な聖徒たちから真の《教会》として大目に見られて良いものだったろうか? 否。臆病者と卑怯者しか、キリストの《教会》の上に及ぼされる人間の権威など、決して認めようとはしなかったし、彼らが主イエスの天来の権利を簒奪するのを許そうともしなかった。来たるべき日には、《王の王》がその王座に着き、裏切り者どもに即決の報復を下すであろう。彼らは、あろうことか主の至上の大権を投げ捨ててしまったのである。キリスト者よ。キリストを、あなたに無罪を申し渡す、あなたの《祭司》とするがいい。キリストを、あなたにとって真理でありいのちである、あなたの唯一の《指導者》また《預言者》として受けとるがいい。それから、キリストをあなたの《王》として受けとり、その御前であなたの膝を屈めるがいい。キリストを、そのあらゆる職務において高く上げるがいい。そうするよう御霊は教えておられるからである。

 さらに、キリストがやはり聖霊によって高く上げられるのは、そのみことばにおいてである。ある人々は、自分は聖書などなくともやって行けると考えたり、口にしたりしている。だが、そうした人々は、確かに神の御霊によって考えも、語りもしていないに違いない。御霊のみわざを常に過つことなく検査するもの、それは、そうした人々が神ご自身のみことばを尊ぶかどうかである。私が決して真実な人間だとは思えないのは、まず最初に自分の思いを告白し、文章に書き表わし、その後で、それとは矛盾したことを云う輩であろう。ならば、生ける神の御霊の書いたものと矛盾するような霊が、いかにして真実でありえるだろうか? あなたの有するいかなる啓示をも、聖書の検査のもとに持ち出すがいい。もしそれが聖書と一致しなかったとしたら、投げ捨てるがいい。私は、この規則をあらゆる人々に学んでほしいと思う。というのも、往々にして私たちが何かで読んだり、現実に出会ったりする人々は、御霊によって自分には、聖書を越えた何事かが啓示されたと考えているからである。いかなる人であれ、自分には聖書の中にあること以上のことが啓示されたなどと云う人は、黙示録最後の章にある呪いを招いている。そうした人々は、主イエスのことばに何事もつけ加えないように注意しなくてはならない。「神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる」[黙22:18]。「完了した」、という言葉が、この《書》を私たちが閉じるとき、それについて云われなくてはならない。ただ1つの節、あるいは、啓示さえも、それ以後は御霊から出てくるはずがない。キリストが来られるまで、この《書》は、自らへの何らかの追加に関する限り封印されている。そして、神のことばを尊ばないのは、神の御霊ではない。

 実際、キリストに関わることで、神の御霊がほめたたえないことは何もない。主の職務、あるいは、主が立てられている種々の関係を考察してみるがいい。あなたは気づくであろう。御霊がそれをほめたたえ、その栄光を現わし、そのようにして、それらを信仰者の魂に届け、その人がそれを喜ぶようにしておられることを。

 さて、もう少し先に進むことにしたい。聖霊のみわざはキリストの栄光を現わすことであり、それを御霊が行なうのは、あなたをキリストで満たすことによってである。もしあなたが御霊のみわざに服しているとしたら、あなたはキリストの霊を大いにあなたの霊のうちに有しているはずである。だが、もしあなたが何日も、何週間もキリストのご人格について考えることなしに暮らせるという場合、よければ自分のことを偽善者であるとみなすがいい。だが、あなたは真のキリスト者ではない。幸いな人の第一のしるしは、そうした人々が神のことばによって生きているということである。「その人は……昼も夜もそのおしえを口ずさむ」[詩1:2]。私たちはキリストを糧として生きる。そして、私たちのからだが食物なしには生きられないであろうように、私たちの魂もイエスなしには生きられない。神の御霊は、また、あなたの心をキリストで満たしてくださるため、あなたが御霊を有すれば有するほど、《救い主》に対するあなたの愛は大きくなり、最後にはこう云えるまでとなる。――

   「イェスよ、汝れをば 思うのみ
    その甘やかさ 我胸(むね)に満つ」。

神の御霊があなたのうちにおられるとき、あなたは実際にそうであると感じるであろう。いかなる喜びも、キリストの愛があなたの心に注がれる喜びとはくらべものにならない。御霊がこのようにあなたの思いと心を満たしているとき、御霊は確実にあなたの舌をもふさぐに違いない。《救い主》を愛する人々は、《救い主》について語る。えり抜きの人々とともにいるとき、彼らは主の愛の秘密の一部を告げ、いかなる人とともにいるときも、自分が主のしもべであると認めるのを恥じはしない。そうした人々の舌をふさぐとき、やはり御霊は、それを主への祈りに携わらせるに違いない。そして、そうした人々はこのような祈りをささげることをやめることがない。「あなたの御国が来ますように。イエスよ。あなたが高く上げられますように。おゝ、あなたはいつおいでになるでしょうか。いつあなたの救いの戦車に乗って全地を行き巡られるでしょうか? すぐに来てください。おゝ、すぐに来てください。主イエスよ!」 それから、また、あなたの舌は、主に関する歌に用いられるであろう。キリスト教の信仰復興のしるしとなるのは、常に、賛美歌の復興があるときだという。ルターの説教が人々に影響を及ぼし始めたとき、人は農夫が鋤にもたれてルターの賛美歌を歌っているのを聞くことができた。ホイットフィールドとウェスレーがあれほど大きな働きを行なうことができたのも、チャールズ・ウェスレーの詩歌が、また、トップレディや、スコットや、ニュートンや、そうした種別の他の多くの人々の歌があったからに違いない。そして、今でさえ、私たちは見てとるのである。確かに、私たちの種々の教派に、ある程度のキリスト教信仰復興があるとき、そこにはそれ以前よりも多くの賛美歌集があるようになり、それまでよりもはるかに大きな注意がキリスト教賛美に払われることになるのである。あなたの心がキリストに満ちているとき、あなたは歌うことを欲するであろう。あなたが労働し、働いているときに歌っているというのは、ほむべきことである。そうできる場所にいればのことだが。また、たといこの世があなたを笑うとしても、あなたは彼らに告げなくてはならない。自分には、自分の心を喜ばせる歌を歌う立派な権利がある。それは君たちが君たちの心を喜ばせるどんな歌でも歌える権利があるのと同じだ、と。主の御名を賛美するがいい。キリスト者たち。口をつぐんでいてはならない。声高らかにイエスに対して歌うがいい。そして、もし私たちが英国人として、私たちの国歌を歌えるとしたら、信仰者として私たちの国歌を有し、こう歌おうではないか。――

   「御座にむかえよ、御座にむかえよ、
    御座にむかえよ、万物(すべて)の主(あるじ)と」。

そして、確かに、神の御霊がこのようにキリストを舌で尊ぶとき、それはそこで止まりはしないであろう。それは、日常生活の行為に至る。御霊がキリストの栄光を現わすのは、あなた自身の種々の行動において主の栄光を現わすのを助けることによってである。私は今朝、自らを並外れた奉仕のために取り分けた人々について語った。しかしながら、そうすることが常に必要であると暗示したつもりはない。というのも、あなたは、良き主婦としてキリストに仕えることができ、良き商人としても、店主としても、つまり、あらゆる生活状態において主に仕えることができるからである。私たちのキリスト教信仰は、市場のためのもの、店先のためのもの、町通りのためのもの、畑のためのものである。そして、神の存在が人の手で作った宮に限定されておらず、至る所に現存し、――荒野にも、都会にも、沼地にも、野原にも、――農民のあばらやを照らす日差しの中にも、王宮を照らす日差しの中にも、――微少なものの中と同様に壮大なものの中にも現存しているのと同じく、――下は赤鹿がうろつき、子どもが遊ぶのを好む林間の空き地から、上は嵐の集まる雪を戴く山の頂に至るまで、――草の葉と同じく、杉や、風に揺れる高い松の木にも見られ、――露滴と同じく雪崩にも見られ、――木の葉が落ちる中にあるのと同じくらい確実に、雷鳴のすさまじい轟きの中にあり、――あらゆる所に存在しているが、――そのように、真のキリスト教信仰も至る所にある。掘っ建て小屋の中にも、宮の中と同じようにあり、商売の中にも、静思の時の中と同じようにあり、町通りにも、静かな退隠所と同じようにあり、向こうで人々が神と格闘している所にも、こちらで彼らが神の真理のために人々と争っている所にもある。あなたが、御霊を受けており、キリストは栄光を現わされたお方であると分かっているとしたら、あなたの唇と同じくあなたの生活においても、キリストへの賛美を明らかに示すはずである。

 もし御霊がこのようにあなたを教えているとしたら、あなたをもう少し先へと導かれるであろう。そしてあなたは、御霊の教えを、それがキリストの栄光を現わすがゆえに受け入れるであろう。ある講壇では、あまり説教されないような教理がいくつかある。それは、いささか危険だと考えられているのである。ある特定の賛美歌集を一緒に用いながら、私は、そのとき説教することになっていた教会の教役者にこう告げた。私は、この賛美歌集が気に入りませんね。恵みの契約や、選びの教理について歌った賛美を全然見つけられないのですから、と。「おゝ、よろしい!」、と彼は云った。「それは、私には何の不都合でもありませんよ。私はそうした教理について一言も話をしないものでね」。そして、私は彼の言葉を完全に信じることができた。ある特定の高次な真理は、基礎過程を終了し、初頭教科書を卒業し、大学に入れる者たちだけに属しているのである。キリストの栄光を現わす事がらの1つは、ご自分の民に対するキリストの永遠の愛を、また、彼らに対するキリストの契約の約束を、御霊が理解させてくれる場所である。

 キリスト者よ。あなたに知ってほしいことがある。キリストがある時点からあなたを愛し始めたなどということは決してない! 山々が積み上げられる前、雲がその回りに集められる前から、キリストはその心をあなたにかけておられた。否。この大いなる世界と、太陽と、月と、星々が、神の御思いの中で、さながら団栗の中にある林のように眠っていたそのとき、エホバ-イエスはあなたに対する愛を有しておられた。そして、しかるべき時がやって来たとき、主はご自分をあなたの魂のための《保証人》として差し出し、あなたのもろもろの負債を支払い、あなたの《代表者》として立たれたのである。それは、あなたをこの世にあって守るため、また、最後には値もつけられない宝石として御父の前に立たせるためである。おゝ、もしもこの天来の奥義を取り入れるだけの信仰をあなたが有しているとしたら、いかにキリストの栄光を現わすことか! 選びの愛にたじろいではならない。それは、天的な音楽の最も高い音色の1つである。次のような節を恐れてはならない。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたを、恵みによって引き寄せた」[エレ31:3 <英欽定訳>]。ここには、過ぎ去りし昔の日々に、聖徒たちが大いに舌鼓を打った脂肪と髄があるのである。

 別の真理を取り上げよう。御民のための、キリストの完了したみわざという尊い真理である。あなたが耳にするキリストのみわざは、いかにしばしば、まだ始まったばかりででもあるかのように説教されることであろう。そして、多くの人々が示してみせるキリストは、あたかも着物を編み始めたが、その途中で投げ出してしまい、そのため私たちの襤褸きれを継ぎ足して、私たちがその仕事を完成させなくてはならないとでもいうかのようなものである。私は以前、大英博物館の地下貯蔵室の1つに入ったことがある。そのときに見たのは、ニネベから出土したいくつかの彫刻だったが、その1つは未完成であった。そこには明らかに、石工が最後につけたしるしがあったが、その後で彼は死んだか、自分の仕事場から呼び出され、二度と戻ってこなかったのである。しかし、イエス・キリストは、この種の彫刻を1つも残してはおられない。「完了した」[ヨハ19:30]という言葉は、地を喜ばせ、天をいやまして栄光に富むものとした。今や魂が、自らを救うためになすべきことは何もない。というのも、イエスが死んだところで、その魂は救われるからである。また、救われた上で、その魂がしなくてはならないのは、死からいのちへ至らされた者として、頭を低くして自分の感謝と愛を示すことだけである。

   「御神に愛さる われは神への
    つよき愛をば 燃やしまつらん。
    時のまえより 選ばれたる身
    われは神をば 選びまつらん」。

あなたは、聖書に堅くより頼むことによって、キリストにある完璧さを知るであろう。いかにしてあなたが滅びることなどあるだろうか? あなたは救われている。それゆえ、今やあなたを罪に定める記録は何もないのである。誰があなたを訴えるというのだろうか? 誰があなたを、あなたの主、キリスト・イエスにある神の愛から引き離そうというのだろうか?[ロマ8:33、39]

 しかしながら、もし何か1つ、他の教理よりも甘やかでありながら、もっと深い教理があるとしたら、それはキリストと御民との間に存在する永遠の結び合いという天来の教理である。それは御霊のみわざであり、その黄金の鍵を取り、この秘密の小部屋に入ってみよう。信仰者たちはキリストと1つである。生きた個人的な結び合いによって、彼らは主と1つになっている。彼らは主のからだの肢体である。あるいは、主ご自身が云われるように、彼らは枝で、主は《葡萄の木》であられる[ヨハ15:5]。私の知る限り何にもまして喜ばしいのは、このキリストとの結び合い――この永遠の結び合い――である。

   「墓にて一つ、復活(いき)ても一つ、
    敵破る主と 一つにありて
    天の御座つく 主とも一つぞ
    熾天使(セラフ)歌えり、地獄(よみ)潰(つい)えるを。

   「聖ききずなに 恐れありえじ、
    主のものすべて 我等(わ)がものなれば。
    立つも倒るも 主はわがかしら、
    我れらがいのち、保証(みうけ)、すべてぞ」。

ある卓越した神学者か常々云っていたことだが、わざの契約と恵みの契約という2つの契約を理解する人はみな、神学の大家であるという。しかし、おゝ、いかに僅かならキリスト者しか、恵みの契約を真に理解しているように見受けられないことか! 「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」[Iコリ15:22]。私たちが堕落したのは、私たち自身の過ちによってではなく、アダムの過ちによってであった。そして、私たちがよみがえるのも、私たち自身の美徳によってではなく、私たちとキリストとの結び合いのおかげである。もしあなたがキリストにあるなら、信仰者よ。あなたはキリストが立っている限り安全である。からだは、《かしら》が溺れない限り溺れることはない。私の足は流れの深みにあるかもしれないが、その波浪が私の額を越えるまでは、私の足は溺れはしない。そして、キリストが滅びるまで、キリストと1つになっているいかなる魂も滅ぼされることはありえない。というのも、主は弟子たちにこう云われたからである。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」[ヨハ14:19]。時間が許せば、この崇高な奥義にもう少し立ち入ることができるであろう。それこそ、キリスト者の慰めの根幹をなしている部分なのである。だが、それはなしですませなくてはならない。願わくは神の御霊がキリストの栄光を現わし、こうしたキリストの事がらを取り上げ、あなたに啓示し、個人的にあなたのものとしてくださるように!

 そして、しめくくりとして、――聖霊は、もしあなたがキリストを信じる信仰者だとしたら、あなたの全人生を存続させ、あなたにおけるキリストのみわざをさらに進展させるために、あなたの経験と、あなたの人生の上に、キリストに関わるすべてのことを書き記してくださる。私が《教会》の中に見たいと切望しているのは、自らのうちにキリストの栄光がはっきりと現わされている、より多くの男女である。その信仰が、決してぐらつくことなく、疑いも恐れもなく、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方が自分のお任せしたものを守ってくださることができると確信しており[IIテモ1:12]、一切のことを御父の知恵にゆだね、あらゆるものを、ひとりの完璧な《救い主》のうちに見いだしている人々である。兄弟たち。私が見たいのは、あなたがたの中のある人々が私たちのあふれる喜びにあずかるようになることである。あなたの目が、あなたの《救い主》の臨在の喜ばしい輝きで煌めくことである。私が祈るのは、あなたが喜びに満ちあふれ、語るときには打ちひしがれた者を鼓舞し、悲しむ人々の顔を上げさせることである。私はさらにあなたが、これに加えて、激しく熱烈な愛を――不可能事をなしとげ、キリストのためなら何事もあえて行なう愛を――有することを願う。その愛が熱心にみなぎるとき、山々を踏みつけて粉々に砕き[イザ41:15]、脱穀場の上で、もみがらから麦をあおぎ分けるのである。私が祈るのは、あなたがあの強大な献身の霊を有して、全くこの世のものから離れ、地上のかたちを帯びていながらも天的なかたちをも帯びるようになること、また、かつては呪いとこの定命の世のあらゆるもろさと悲嘆において最初のアダムに従っていたあなたが、第二のアダムと似るようになり、そのきよく、人に対する非利己的な愛、また、その高貴で、全く勇気のある、すべてを焼き尽くす、御父とその御国の進展への愛を身につけていくことである。私は確信している。いかなるときにもまして御霊がその願い通りに私たちの中でキリストの栄光を現わすのは、私たちがもっと完全に《救い主》に献身するときである、と。ある折に、ひとりの人が云ったように、川面には、重い荷を積んだ船隊が浮かんでいるが、川を上ることができない。氷で閉ざされているからである。そのように、見れば私の《主人》の愛は、はるか川下に置き去りにされている。そして、それは喜んで私のあわれな魂のもとに来て、私を豊かにし、聖くし、天的にしようとしている。だが、悲しいかな! 私の心の冷たさは氷のようにその水路を塞いでいる。それで私は、自分の獲得できるものが得られないのである。来るがいい、天的な愛よ。そして、この氷を溶かすがいい。流れるがいい。恵みの流れよ。そして、あらゆる障害物を打ち破るがいい。来給え、イエスよ。私の心の中に来給え。そして、汝が宝を永久にわがものとなさせ給え! おゝ、私がこの場にいる何人かの信仰者をかき立てて、一般のキリスト者たちによって享受されているもの以上のものを求めさせることができるとしたらどんなに良いことか! 願わくは神があなたに、一個のホイットフィールドのような熾天使的な熱心さを与えてくださるように。一個のマーティンの深い敬神の念を与えてくださるように。一個のニュートン、あるいは、一個のクーパーの敬愛すべき霊を与えてくださるように! 願わくは神があなたをご自分でなみなみと満たし、あなたが山の上に建てられていて、隠れることができない町[マタ5:14]のようになるように。また、家中を明るく照らす明かりのようになるように!

 しかし、悲しいかな! この場にいるある人々は、私の《主人》を全く知らず、その愛とはまるで無縁である。キリストは、涙を浮かべた目であなたを見下ろし、ご自分のもとに来るよう命じておられる。あなたがこれまで蔑んできた血は、あなたのあらゆる罪を洗い流すであろう。ただあなたを主にゆだねるがいい。あの、どんよりした目をのぞき込むがいい。そこには、なおも憐れみが満ちているからである。あの流れ落ちる血潮は、イエスに信頼するあらゆる魂へと流れ来る。あの刺し貫かれた心臓の奥義を読むがいい。そこには愛だけしか記されていない。あのあわれな殺された肉体の苦しみを詳しく調べてみるがいい。というのも、あらゆる激痛のうちに、主の同情の物語を学ぶことができるからである。そして、主がその頭を垂れるのを見、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」[ルカ23:46]と云われるのを聞くとき、主はあなたに――あなたがたひとりひとりに――願っているのである。あなたの霊をご自分に託すようにと。そうするがいい。今そうするがいい。神があなたを助けてくださるならば。そして、キリストはそのようにして栄光を現わされるであろう。

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弟子たちに対する御霊の職務[了]

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