恵みの規則
NO. 3061
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---- 1907年10月10日、木曜日発行の説教 説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年8月17日、主日夜
「預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました」。――ルカ4:27
私たちの《救い主》は決して人気取りをなさらなかった。その伝道活動は、あまりにも魅力的だったため、何千もの人々が群がって主の話を聞こうとし、主の教えに富んだ御口のことばを喜んで捕えようとした。だが、主は一瞬たりとも決して肉を喜ばせるような真理を説教しようとはしなかったし、自分の聴衆たちをむかつかせかねない、いかなる教理をも押し隠すことをなさらなかった。この折に、主はご自分と同郷の人々に対して語っておられた。その場所をしばらく離れていた若者、そして、その不在の間に教師として、また、奇蹟の人としての名声を得た若者が、郷里に帰って来ていたのである。自然と、彼の話を聞きたいという大きな好奇心が巻き起こった。彼らは、自分の育ったこの町を、彼がその祝福をもたらす主たる場所とするものと思っていた。われわれは彼と同郷の人間なのだから、確かにそれなりのことを彼に要求する権利があるに違いない、と。しかし、私たちの主は、もしも彼らがご自分の教えを真に理解すれば、それを気に入らないだろうことは重々承知していながら、また、ご自分がもたらそうとしてやって来られた祝福が彼らの願っていたようなものではないと知っていながら、たちまち率直に彼らを取り扱い始められた。そして、エリシャが自国のらい病人たちを癒したのではないこと、癒されたただひとりの者が外国からやって来た者であったことをお告げになった。そして、彼らを導いて、こう推論させられた。それと全く同じように、主はご自分の最も偉大な癒しのわざをナザレ以外の場所で行なうであろう。それは、神がご自分の恵みの最も豊かなものを異教徒たちに――シリヤ人に――供することをお望みになり、自分こそ、それなりにそれを受ける権利があると考えているように思われる者たちに供することをお望みにならないだろうからだ、と。事実、私たちの主が、この人々に向かって説教されたのは、神の主権という偉大な教理であった。パウロがローマ人への手紙でこう書いた、神の選びという、人をへりくだらせる教理である。「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」[ロマ9:15-16]。これが私たちの《救い主》の講話の要点であった。そして、主と同郷の者たちはそれに我慢がならなかった。それ以来も多くの人々が、それに我慢できなかったのと同じである。そこで、このような憎むべき教えを葬り去るために、その《教師》を殺そうとして、彼らは主を会堂から急いで追い出し、町が立っていた断崖の天辺まで連れて行き、そこから主を投げ落として、粉々にしようとした。
私が私たちの主のご生涯のこの事件から学ぶのは、説教者は自分の会衆を喜ばせようとすべきではない、ということである。説教者がそうしようと労するなら、ほぼ確実に、その目当てを果たすことはないであろう。だが、たといそのことに成功するとしても、それは何とみじめな成功であろう! 説教者が、ひとたび自分の同胞たちの恩顧を確保することを目指すとしたら、自分の《主人》の恩顧を失うに違いない。それゆえ、私たちは、自分の話を聞く者たちを苛立たせるような多くの真理を説教すべきである。彼らに向かって、本当に彼らの現在の、また、永遠の福祉となる教理を宣言すべきである。彼らの肉的な理性や、天性の性向にとって、それらがいかに嫌悪を催させるものであっても関係ない。医者が自分の患者に苦い一服を与えなくてはその疾病を治せないのと同じく、説教者も、真に神から遣わされているとしたら、自分の話を聞く者たちに受け入れがたい諸真理を宣言しなくてはならない。また、そうした非常に苦々しい真理をずっと多めに説教しなくてはならない。なぜなら、それほど人々がそれを受け入れたがらないからである。福音の中でも、何の説得をしなくとも喜んで彼らが抱きしめるような部分は、さほど頻繁には説教される必要はない。だが、彼らが反抗したり、抵抗したりするような部分は、何度も何度も強く主張されなくてはならない。もしや、期せずして、最終的に彼らの識別力がその真理を確信し、彼らの心がそれを受け入れるようにかちとられないとも知れないからである。
聖霊の御助けによって、私は、これから未回心の人々に対して説教しようと思う。彼らがもはや未回心のままとどまることがないようにとの、熱心な願いと希望をこめてそうしよう。そして、私の主題は、シリヤ人ナアマンの癒しである。そこには、特に注意を払うに値する2つの点がある。第一の点は、そこに明らかにされていた、天来の恵みの主権性である。そして、第二の点は、その恵みが働く、不変の規則である。
I. まず第一に考えたいのは、シリヤ人ナアマンの癒しによってかくも明瞭に現わされた、《天来の恵みの主権性》である。
そして最初に注目したいのは、ナアマンの経験は、同じように天来の恵みの無条件さをも教えているということである。もし私たちの《救い主》がこの場合を、天来の恵みの主権性を示す実例としてではなく、その無条件さを示す例として選ばれたとしても、それは等しく適切なものであったであろう。時として対立しているように見受けられる2つの真理は、さらに詳しく吟味されると、しばしば、互いのそばに寄り添っていることが分かるものである。かりに私たちの《救い主》がナアマンの場合をこのように云い表わしたとしよう。――「らい病人であったいかなる者も、癒してほしいとエリシャに申し出たなら癒されたのだ。そして、その中のひとりは外国人で、異教徒で、イスラエルの決然たる敵だったが、その者ですら拒絶されなかった。というのも、その預言者のもとに来た者は誰でも受け入れられ、その祝福を受けたからだ」。――それは、1つの真理であったろうし、最もほむべき真理でもあったろう。それは、私たちが喜んで宣べ伝える真理、また、絶えることなく宣べ伝える真理である。そして、その真理は、本日の聖句が語っている、このもう1つの真理と衝突することはない。――すなわち、エリシャの時代のイスラエルに、いかに多くのらい病人がいたにせよ、きよめられたのはただひとり、この、シリヤという異邦の国からやってきたひとりの外国人だけだったという真理である。天来の恵みの普遍性は、その主権性と容易に調和できる。ことによると、他の人々がその調和を見てとれるようなしかたでは調和できないかもしれないが、私たちは、その調和を私たち自身の心の中に、また、私たち自身の経験の中に感じている。そして、私としては、この2つの教理の間に何か両立しがたいものがあるなどと見ることは、他の人々にとって、この2つの教理が一致できると見てとろうとすることが断固として困難であると思われるのと同じくらい、断固として困難なのである。私は、どんなことがあろうと、これらがぶつかりあっている点を認めることができない。それは、他の一部の人々が、いかにしてそれらが合致しているのか見てとることができないのと全く同じである。私が偽らざる心をもって信ずるところ、キリストは、ご自分のもとに来るいかなる者をも決して捨てることをなさらない。そして、私はそのことを、あえて人類のいかなる男女に対しても云うものである。だが、私は、それと同じくらい全く強固に、このことも信じている。すなわち、いかなる者も、御父から引き寄せられない限り決してキリストのもとに来ることはなく、御父がキリストに与えておられるすべての者たちは確実にキリストのもとにやって来る、と。こうした言明は両方とも真実である。それゆえ、その両方を信じるべきである。その両方が互いに合致していることは確実であると思って良い。
しかし、私たちの《救い主》は、この折には、――確かに主はしばしば天来の恵みの無条件さについては喜んで説教されたが、――その主権性について説教された。というのも、恵みの主権性こそ、ナアマンを救ったものだったからである。彼は異教徒で、偶像リモンの礼拝者だった。だが、預言者の命令に従ったとき、彼は自分の求めていた癒しを受けた。左様。それ以上に、自分の魂の救いをも受けた。異教徒であったことに加えて、この人物は、イスラエルの不倶戴天の敵であった。しばしばアラム軍の一隊を率いては神の民を略奪していた。だがしかし、それにもかかわらず、永遠のあわれみは、満足をもって彼を眺め、単に彼のらい病が癒されることのみならず、彼が、神の主権的な恵みを示す永久の記念碑となることをも決定した。また、彼はエリシャの住居のはるか遠くに暮らしていた。そして、その当時、そのような距離を旅行することには途方もなく大きな困難が伴った。だがしかし、それにもかかわらず、その預言者の家の近くに暮らしていたらい病人たちを見過ごしにした神の恵みは、はるか彼方へと赴き、このシリヤ人の軍人を見つけ出した。そして、このことは今日も全く同じである。ある人々は、不敬虔で、不正直で、不義の、不貞節な生き方をしている。だが、それにもかかわらず、そうした人々を神はその全能の恵みによって救ってくださる。ある人々は、福音の敵でさえあった。福音を否定し、蔑んできた。また、タルソのサウロのように神の民を迫害し、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃え[使9:1]、心の底から神のみこころのことを憎んでいた。だが、タルソのサウロのように、永遠の愛の全能性によって圧倒され、神の主権的な恵みによって救われたのである。こうした人々の何人かは、ナアマンのように、恵みの手段からはるか遠い所にいた。彼らは、めったに祈りの家に集うことなく、神の聖なる安息日をないがしろにしてきた。だがしかし、云うも不思議なことに、彼らが神の家にやって来た最初のときに、彼らは祝福を見いだした。彼らは神によって探し求められていたのであり、その主権的な恵みに従って見つけられたのである。これは驚くべきことだが、真実である。そして、このような教会の牧師を長く続けていれば、どうしても注目せずにはいられないのは、最も見込みの低い者たちがしばしば救われるということである。傍目には天来の真理の影響を受ける見込みさえないように思われる人々こそ、それに屈服する人々なのであり、あなたが全く救いがいたいとみなしてきた人々こそ、主権的な恵みによって更新させられてきたのである。なぜそうなるのかは、私たちには分からず、ただ、こう云うしかない。「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」[マタ11:26]。
ナアマンの場合の、この主権的な恵みが、いやが上にも尋常ならざるものと思われるのは、彼が癒された一方で、他の多くの人々が見過ごしにされたことを考えるときである。私たちはこう思ったはずである。確かに、もしエリシャがらい病人たちを治せるとしたら、彼はイスラエル国内の者たちから始めるであろう、と。私たちの主によると、そうした者は数多くいた。だが、彼は、そうした者たちから始めはしない。彼のすることは、シリヤ人ナアマンのためになされる。確かに、もし彼らにらい病人たちを治すことができるとしたら、儀式律法を遵守している者たちを治すであろうと思う。だが、彼はそのようなことを行なわない。彼はこの異教徒の外国人軍人に癒しをもたらす。現在、あらゆる会衆の中には、敬虔さの雰囲気の中で育てられた人々がいる。そうした人々が最初に聞いた音は、賛美や祈りの声であったし、そうした人々はそうした環境の中で一生の間生きてきた。だが、彼らは回心していない。彼らは、ほとんど神の家の扉が開くたびにそこにやって来ている。だが、救われてはいない。また、彼らは体裁の良い人々でもある。卓越した道徳性を有する、多くの点で非常に善良な人々である。だがしかし、そうしたすべてにもかかわらず、取税人や遊女たち、寄留者や外国人たち、そして、時たまにしか話を聞きに来ない人たち等々が現実に回心して、全き救いの数々の祝福を喜んでいる一方で、この人々はなおも、自らの天性の《堕落》と罪というらい病にかかったままとどまり、悔悟せず、信じず、回心せず、赦されないままである。
どうしてだろうか。なぜだろうか? 私たちが挙げるべき理由は、ただこの1つのことしかない。一見して分かるこの1つの理由である。――すなわち、神はあらゆる人々にこう知らせたいと思っておられるのである。いかなる者にも、救いを受ける権利など全くなく、そもそも私たちはみな失われ、罪に定められているのであって、もし神が私たちの中の誰かをお救いになるようなことがあるとしたら、それはご自分の無代価で主権的なあわれみによるものに違いなく、決して私たち自身の功績や美点に基づいたものではありえない、と。かりに、御国の規則により、敬神の念に富む両親の子どもたちは全員回心することになっていたとしたら、どうなるだろうか。多くの者たちはこう云い出すであろう。「私の母は敬虔な婦人です。私の父はキリスト者です。そして、それだけが必要なことなのです」、と。しかし、そうではない。あなたは失われた罪人である。あなたの母上がどのようなことをしてきた人であろうと関係ない。そして、あなたは、町通りで最も卑しい売春婦の子であった場合と全く同じくらい真実に悔い改めて、回心しなくてはならない。たとい、あなたが歴代の聖徒たちの子孫であったかもしれなくとも、あなたは罪人であり、殺人を犯したかどで絞首刑にされた男の子どもと全く同じくらい神の無限のあわれみを通して罪赦されなくてはならない。卑しむべき上にも卑しむべき人間が救われなくてはならないのと同じ原理に立って救われなくてはならない。そして、このことを人々に見てとらせるために、神はしばしば敬虔な者の子どもたちを見過ごしにし、不敬虔な者の子どもたちをご自分の恵みの御国に召されるのである。もしも神の家に通っている誰もが救いの祝福を受ける権利があるとしたら、多くの者は云うであろう。「私たちは、何某礼拝所に通っています。それだけで、私たちのための天国の居場所が確保されるのには十分なのです」。そのように、あなたがた、座席保有者たちは結論づけるであろう。自分が懸念をいだく必要などないのだ、いつかそのうちに、確実に祝福を得られるのだ、と。しかし、話をお聞きの愛する方々。いかに多くの人々が礼拝所の座席から地獄へと堕ちていったことか! いかに多くの、不断にみことばを聞いていた者たちが、不断に不信者でもあり、いつの日か神の御前から追放されて、一段と深い悲痛に苛まれるようになることか。なぜなら、彼らは自分の義務を知っていたのに、それを行なわず、真理を聞いていたのに、それを心にとめなかったからである! そして、主はこのことを人々の間で知らしめるために、しばしば、その恵みによって、私たちの礼拝式にいわば偶然に集った人々をお召しになり、説教されたみことばを彼らにとってはいのちに至らせる香りとなさるのである。その一方で、みことばを定期的に聞いていながら、それを受け入れない人々は、それが彼らにとっては死から出て死に至らせる香り[IIコリ2:16]であることを明らかにしているのである。それに、もしあらゆる体裁の良い人々が救われるとしたら、あるいは、体裁の良い人々だけが救われるとしたら、私たちは、近頃「体裁の良さ」と呼ばれている、この小綺麗なものを身に着けては、神をその負債者とし、《いと高き方》を人間たちの体裁の良さの前に額ずかせようとするであろう。ある女が婦徳の道からそれてしまうか、ある男がいったん何らかの犯罪について有罪になりさえすると、いかに私たちの自分を義とする手は彼らに対して振り上げられることか。私たちは、それほどきよく、それほど善良で、それほど罪とは無関係であるため、古の偽善者とともに平然とこう云えるほどなのである。「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」。このような者たちに対して主がこう仰せになったのも不思議はない。「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である」[イザ65:5]。いかに三重に聖なるエホバが、偽善的にきよいふりをしながら、その心は腐れと汚れで満ちている者たちを忌み嫌われるに違いないことか! 多くの人はらい病患者のようには見えないかもしれないが、その致命的な業病はその間ずっと取りついており、ただ機会さえあれば、その姿を現わすのであり、じきに現実に姿を現わすのである。おゝ、この自分を義とする世の、邪悪な、もったいのつけ方を、いかに神はお憎みになることか! それゆえ、神はやって来ては罪人たちをお探しになるのである。真の罪人たち、自分が迷った羊のように神の道からさまよい出たことを認める者たちをである。そして神は、自らを善良だと思っている者たち、自らを義人とみなしている者たちを放置しておき、彼らに対してこう云われる。「お前の信ずるところによれば、お前は《救い主》を必要としていない。それゆえ、勝手に行くがいい。そして、お前の罪の中で滅びるがいい。しかし、このあわれな失われた者たち、罪に満ちているあまり、二倍も罪赦され救われる必要があるとお前が裁いている者たちについて云えば、まさにこのような罪人たちのためにこそ、イエスは死んだのだ。イエスが来たのは義人を招くためではなく、罪人たちを招いて悔い改めさせるためだったのだ」、と。
ひとりの有力者の話を聞いたことがある。彼はあるとき、仏蘭西の手漕ぎ帆船の奴隷たちを視察するために連れて行かれ、その帆船団の中で、自由を与えたいと思う者なら誰でも自由にする権限を与えられたという。彼はひとりの人のところに行き、相手が十年の刑に服していることを知ると、その犯罪について尋ねた。男は、自分は非常に不公正な扱いを受けていると思うと云った。自分は大して間違ったことをしたは思わない。ことによると、一度か二度は、他人のものをくすねたことがあったかもしれないが、その誘惑があまりにも強すぎたのでそれに屈してしまったのだ。それ以外の点では非常に善良な人間だったのだから、実際、手漕ぎ帆船送りにされるなど、非常に厳しい扱いをされていると思っているのだった。そこで、この紳士はその男のところを通り過ぎた。男は、無条件の赦罪を受けるには善良な人間すぎたのである。別の男がいた。彼は自分が完璧に無罪だと云った。自分は起訴されたあらゆる罪状について、生まれたばかりの赤子と同じくらい無実の者だと誓いさえした。この紳士は、この男をも通り過ぎた。無条件で赦されるには、やはりあまりにも善良すぎたからである。それから、別の者のところに来た。相手は云った。自分は、もしかすると過ちを犯したかもしれないが、それは本当よりも大がかりなことにされたのだ。法廷には嘘つきがいて、自分を非難した証人たちは偽証したのだ。自分は、自分よりも二倍も悪辣な人間たちをたくさん知っているが、彼らは自由にしているのに、自分はここで鎖につながれているのだ、と。その男も、罪赦されるべき人間ではなかった。最後にこの訪問者が声をかけたあわれな男は彼に向かってこう云った。「あっしは、長い刑に服しておりやす。ですが、それよりも長い刑罰を受けて当然の者です。あっしは死罪にならなかったのが不思議でなりやせん。お上がとことん手続きを勧めたら、あっしは殺人のとがで有罪になっていたでがしょう。それで、あっしは自分の刑罰が、本当に受けて当然なものよりずっと軽いとみなしておりやす」。そのとき、自分の望む者の罪を赦せる権限を受けていたこの人物は云った。「私は、あなたの罪を赦すことにしよう。というのも、あなた自身の告白に従って、あなたはこの場所全体の中で、本当に正義の審きを受けている唯一の人間のように見えるからだ。それゆえ、私はあなたにあわれみを示そう。あなたは、自由な人間となって出て行ってよろしい」。それと同じようなしかたで、主イエス・キリストは常に、主の正義による最も重い判決を自分が受けて当然だと告白する者たちに、そのあわれみを喜んで授けようとしておられる。だが、私たちがその判決に反抗している限り、主が愛によって私たちをご覧になることは期待できない。
II. さて私は、恵みの主権性については十分に語ったものと思う。だから、これから私があなたに示そうとしている、この主題の別の部分に熱心な注意を払ってほしい。ナアマンの場合、その主権的な恵みは、《恵みの不変の規則》に従っていた。
神は《主権者》であられる。それゆえ、ご自分がお望みになるどのような者をも救うことができるし、また、いかなるしかたででも彼らを救うことがおできになる。だが、神がある人を救おうとするとき、神はご自分の通常の働き方を離れることなく、人を普通に救うしかたに従ってその人をお救いになる。
まず最初に注意してほしい事実は、確かにナアマンは癒されることになったし、神の主権がそのいやしを定めたとはいえ、彼はまず、癒される可能性があるという良い知らせを耳にすることが必要だった。罪人が救われる通常のしかたはこうである。「信仰は聞くことから始ま……る」[ロマ10:17]。それは、これ以上ないほど単純である。私たちは、その使信を聞き、それを信ずる。そのように、ナアマンはまず自分が癒される可能性について聞かなくてはならない。だが、いかにして聞けるだろうか? どこの説教者が、えっちらおっちらシリヤくんだりまでやって来て、サマリヤにいる主の預言者について彼に告げようとするだろうか? いかなる説教者も、そのような長旅をする必要はない。ひとりの召使いの少女が捕えられて来ており、彼女が必要な使信を伝えるのである。それが、必要とされていたことすべてである。最適の使者を通して、ナアマンは癒され、祝福された。だから、私たちは誰もこのような考えを頭に入れないようにしよう。神がご自分の民をお救いになるのだから、私たちが行って彼らを探し求めたり、彼らを見いだしたとき彼らに宣べ伝える必要などないのだ、と。神は、ご自分のやり方を離れたしかたで彼らを救おうとはなさらない。そのやり方とは、説教者が遣わされ、祝福されることになっている人が福音を聞き、それを聞いたときに、その人がそれを信じざるをえなくさせられるというしかたである。こういうわけで、説教者である私たちは、みことばを宣べ伝え続けなくてはならないし、あなたがた、話を聞いている中の、まだ救われていない人たちは、福音の使信を聞くように努めなくてはならないのである。それがあなたの特権であり、かつ、あなたの義務だからである。あなたに対する神ご自身の使信はこうである。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」[イザ55:3]。それゆえ、神がそのしもべたちによってあなたのもとにお送りになっている、この恵み深いあわれみの使信に、これ以上ないほど熱心に注意を傾けるがいい。
次に、ナアマンは、イスラエルで癒されることができると耳にしたならば、その使信に心をとめなくてはならない。そして、長い旅をしても、その主の預言者のもとに行かなくてはならない。もし彼が腰を下ろして、こう云っていたとしたら、癒されなかったであろう。「私は、自分のらい病が癒される可能性があることは聞いた。だが、それが真実であるかどうかを、わざわざ確かめに行ったりすまい」。おゝ、否! 彼はそのように語りはしない。むしろ、馬や駱駝を引き出すように命じ、何タラントもの銀と、何シェケルもの金と、何着もの晴れ着を、贈り物として必要なものとして持ち出し、自らの願う祝福が手に入るものと希望する、その遠国へと出発するのである。そして、罪人たち。もしあなたが本当に救われたいと願っているなら、あなたは思い出さなくてはならない。神は、あなたが福音の使信に注意深く耳を傾けることを通してあなたをお救いになるのだということを。その使信を神はあなたのもとに送っているのであり、その使信があなたに行なうよう命じていることを行なうように、あなたの霊をかき立てておられるのである。神は罪人たちが眠り込んでいる間に彼らを回心させることをなさらない。福音は、水が海綿にしみ込むような、一種の無感覚な動作によって人々に吸収されるものではない。真理は、聞く者の精神のもとにやって来る。そして、その人は真理によって感銘を受ける。そして、それによって感銘を受けた上で、それを心に銘記し、自分の魂のすべてを込めて、それを理解し受け入れようとする。ならば、あなたは、回心したければ、真理をあなたの魂そのものにおさめなくてはならない。それをもて遊んではならない。おもちゃにしてはならない。軽くあしらってはならない。むしろ、その件について真剣にならなくてはならない。使徒が云うように、「永遠のいのちを獲得し」[Iテモ6:12]なくてはならない。苦悶し、格闘することがなければ、あなたが聞くように宣告されている真理を完全に自分のものとし、所有することはできない。
ナアマンが預言者エリシャのもとに来たときに癒されたのは、単に彼があの召使いの少女の使信を聞いたからばかりでも、それを真剣に心にとめるほど注意深く聞いたからばかりでもなかった。むしろ、やはり彼にとって必要欠くべからざることだったのは、受けた命令に従うことであった。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい」[II列5:10]、とこの預言者は云った。ナアマンが癒されることは定められていたが、それでも彼が癒されるには、エリシャが命じたように身を洗うことが不可欠であった。そして、いかなる罪人といえども、神のご計画はいかにあれ、その罪が赦されるようなことがあるとしたら、それは必ずやイエスの尊い血によって洗われることによってでしかない。あなたがいかなる人であろうと、主イエス・キリストを信じない限り、永遠のいのちを持つことはできない。話をお聞きの愛する方々。このことを無効にするような、何か隠れた神の聖定があるなどと考えてはならない。そのような聖定など1つもない。あなたが行なわなくてはならない真理はこのことである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。もしあなたがイエスを信じなければ、あなたには何の希望もない。神のうちにも、他のいかなる者のうちにも、あなたのためには何の希望も残っていない。救いの道はあなたの前に置かれており、それは、ナアマンに対するこのエリシャの、ヨルダン川で七たび身を洗えという命令と同じくらい全く単純なものである。福音とは、イエス・キリストが、ご自身を自らの《救い主》として信頼するあらゆる罪人たちの身代わりに苦しまれたということ、また、彼らが耐え忍ぶべきであったことをキリストが耐え忍び、彼らが犯してきた一切の罪の贖罪を神に対して成し遂げられたということ、そして、もしあなたがこのようにキリストを信頼するなら、あなたは救われるということである。イエスをあなたの《身代わり》また《救い主》としてより頼むという、この単純な行為によって、あなたの咎と罪は永遠に取り除かれるのである。
しかし、あなたがこう云うとしたらどうだろうか。「この救いの計画は、単純すぎて頼りがなさすぎます。私は、てっきり何か荘重な儀式が執り行なわれるものと思っていました。何か神秘的な感情を経験するものと空想していました」。――もしあなたがこのように語るとしたら、癒されることはできない。神の永遠のご計画は、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって救われることであり、イエス・キリストを信じる信仰が全くなければ、それは、その魂を癒すことが天来の計画ではないという証拠である。だが、癒しを与える天来の計画がある場合には、遅かれ早かれ、そのことは、定められた救いの道におとなしく服従すること、また、主イエス・キリストを単純に信頼することによって証明されるのである。
さらにまた注目したいのは、ナアマンは、へりくだらされて初めて癒されたということである。彼を癒すことは神のご計画であった。彼は、癒されるべく主権的な恵みによって取り分けられていた。だが、まず彼がへりくだらされて初めて、その祝福は彼のもとにやって来ることができた。彼の高慢が大きなものである間は、癒されることができなかった。なぜ彼がヨルダン川で身を洗うべきなのか? ダマスコの川、アマナやパルパルは、ヨルダン川と全く同じくらい良いものではないか? ならば、なぜヨルダン川などで身を洗わなくてはならないのか? 自分は、主君であるシリヤの王から高く評価されている者ではないか? そんな類のことなどするまい。しかし、もしそうしようとしないとしたら、彼がいかなる者であろうと、癒されることはできないのである。そのような大人物ではあったが、へりくだることがなければ、彼は決して癒されない。そして、罪というらい病を治されたいと思っている人々もそれと同じである。少しでも天国に入る希望を持ちたければ、あなたはへりくだらされなくてはならない。あなたは、自分の義という襤褸切れに信頼している限り、キリストの義の衣によって覆われることはできない。もしあなたが、自分が何をしてきたか、また、いま何をしているかを誇りとしているとしたら、あなたは神が救うことをお喜びになる種類の人ではない。あなたは、イエスの足元にはいつくばらなくてはならない。あわれな咎ある罪人として赦しを懇願しなくてはならない。「イエスよ。救わせ給え、さなくば、われ死す!」、と。そうしない限り、天国の門は、あなたが通り抜けるには小さすぎる。というのも、その「門は小さく、その道は狭く」[マタ7:14]、いかなる自分を義とする思いもそこには入れないからである。
「しかし」、とある人は云うであろう。「私は常に礼拝所にきちんと通ってきました。払うべきものは常に全額を支払ってきました。病院には一ギニー寄付していますし、全体的に見て、私は、極上の人間だと信じています」。誰かが、この通りのことを口にするだろうとは思わないが、非常に多くの人々はそう考えていると思う。そして、私がそうしたすべての人々にはっきり理解してほしいと思うのは、こうした身の毛もよだつような慢心を自分の魂からことごとく追い出さない限り、その人々は、悪魔そのひとと同じくらい天国に入ることはない、ということである。しかし、もしこの場にいるいずれかの人が、自分は不義の塊であり、自分の最上の行ないでさえ悪い物を含んでいる――自分の祈りさえ、嘆き悲しまれるべきものであり、悔い改めの涙も、そこから不潔なものを取り除くために洗われなくてはならない――と告白するなら、もしもこの場に罪人がいるとしたら、――本物の、どす黒い、あるいは、緋のような罪人がいるとしたら、――その人々こそは無代価でやって来ては、イエスにその信頼を置くよう招かれている人である。というのも、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するもの」[Iテモ1:15]だからである。罪人のかしらでさえ例外ではない。高慢は打ち壊されなくてはならない。自分を義とする思いは死ななくてはならない。そして罪人は神の恵みに栄光を帰すために、自分の功績は何もないことを認めなくてはならない。さもなければ、救われることはできない。
それでは、こうした事がらに対して何と云えば良いだろうか? ただこの一言である。私たちはみな、ともに神の御座のもとに行こうではないか。私たちが罪を犯したまさにその場所に。そして、私たちの中の誰ひとりとして、神に何かを要求する権利などないと告白しようではないか。ひとりひとり、神にこう申し上げようではないか。「私の主よ。もしあなたが私を滅ぼすとしたら、私はそれに値していると告白しなくてはなりません。たといあなたが、私と等しく咎のある私の兄弟を救い、私をお救いにならないとしても、あえて不服は申しません。あなたはご自分のあわれみを、お望みの所で、お望みのしかたで行使する権利をお持ちだからです。たといあなたの御前から永遠に放逐されるという判決を受けても、その正しい判決を私はお受けします」。かのカレーの市民たちが、征服王のもとに行ったように、主に服するがいい。彼らは、自分たちの首に縄をつけて行った。それこそ、罪人が神の前でまとうべき適正な衣装である。「主よ。私は死ぬのが当然の者です。私は破滅に値しています。滅ぼされて当然です。私は、自分の判決について何の難癖もつけません。というのも、虫けらがいかにして《全能者》と議論できましょう? 自分の《造り主》に口答えするなど、私は何者でしょう?」
あなたが、このような立場を取るときには、天来の恵みの無条件さにより頼むがいい。死の抱擁によるかのように、この偉大な事実をつかんで、云うがいい。「主よ。あなたご自身の御名のゆえに罪人たちをお赦しください。あなたは、私たちのうちに何も良いものを見つけることはできません。あなたを憐憫へと動かすことのできるものは何1つありません。ですが、おゝ、あなたのあわれみとあなたの愛ゆえに、あなたがいかに恵み深い神であられるかを人々に見せてください! あなたの偉大な御名ゆえに、私たちをあわれみ、お救いください!」 そして、あなたはそのように懇願することができる。イエスはこう云われた。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。そして、イエスはご自分のしもべたちに、こう云うよう命じておられる。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」[ロマ10:13]。――「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」[イザ55:7]。主がこう仰せになっていると、主に訴えるがいい。「あ、来たれ。論じ合おう。……たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」[イザ1:18]。行って、そのように訴えるがいい。そして、神のことばで啓示されたこの真理に身をゆだねるがいい。それを試すがいい。実験してみるがいい。そして、果たして神が本気でそう云っておられるのか、見てみるがいい。神に向かってこう云うがいい。――
「汝れは約せり 救い給うと、
すべて汝が御子 信ずる者を。
われ知る、汝れに 偽りなきを。
キリストなくば われは死ぬのみ」。私はあなたにこうは云うまい。――行って、その危険を冒してみよ、と。というのも、そこには何の危険もないからである。あなたにこうは云うまい。――行って、賭けてみよ、と。それは決して賭けではないからである。行って、主にこう申し上げるがいい。「おゝ、主よ。もし私が滅びなくてはならないとしたら、あなたの愛する御子イエスの尊い血による、あなたのあわれみを信頼しつつ滅びます! 『余(ほか)の隠れ家 我れにはあらじ』。私は、自分の一切の以前の信頼、自分の一切の自慢を投げ捨てて、最悪の罪人が来なくてはならないかのようにして参ります。というのも、私はいくつかの点で自分が、あなたのもとにやって来たことのある最悪の罪人であると感じているからです。私は、全く失われ、破滅し、破産した罪人として参ります。そして、自分の必要とするすべてについて、イエスの贖罪の犠牲を仰ぎ見ます」。それで、そのようにしてあなたが滅びるとしたら、私は、あなたとともに滅びることになっても全く異存はない。そして、私は、あなたと全く同じ条件で神の法廷に立つであろう。というのも、もしあなたが失われるとしたら、私も失われなくてはならないからである。厳粛に誓うが、私は、自分がこれまで行なってきた一切のことに、いかなる希望もいだいていない。私は、この長年の間、福音を宣べ伝えてきたが、神の御前における功績として頼りにできるほどの信頼を寄せることのできる説教など、1つとして語ったことはない。私たちが救われた後、私たちは何事かを行なうことができるであろう。施しや、その他の何だかだによって、神に対する自分の感恩を示せることを行なえるであろう。だが、それらを自分の救いの根拠として私たちが自慢し始めるとしたら、それらは役立たずよりも悪いものとなる。私の歌はこうである。――
「われ罪人の かしらなるとも
イエスわがために 死にたまいけり」。イエスがそうされたことを私は知っている。そして、あなたがたの中の多くの人々も同じことが云えると希望している。私たちは一蓮托生であり、もし私たちが沈没するとしたら、神もまた沈没せざるをえないであろう。というのも、誰かがイエスを信頼しながら失われるようなことがあるとしたら、神の栄誉が汚されるからである。しかし、私たちは、イエスに信頼しているとしたら、決して沈没することはない。かの大洪水が押し寄せるときも、諸天が激しい大水の雨を注ぎ出すときも立っているはずである。私たちが立っているのは、もしもイエス・キリストの血と義に信頼しているとしたら、岩の上に建てられているからである。願わくは、私たちがみなそこに見いだされ、神が永久永遠に賛美されんことを。アーメン。
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恵みの規則[了]
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