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貧しい人の友

NO. 3059

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1907年9月26日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年6月8日、主日夜


「貧しい人は、あなたに身をゆだねます」。――詩10:14 <英欽定訳>


 神は、貧しい人の《友》であられる。貧しい人は、その無力さと絶望の中で、自分の状況を神の御手におまかせし、神はその人の面倒を見ることを引き受けてくださる。ダビデの時代、――そして、この点で世界はほとんど改善されていないと思うが、――貧しい人は、ほとんどあらゆる人によって残酷にいたぶられ、時として、非常に恥知らずなしかたで虐げられていた。受けた不正に対する補償を求めれば、普通はいやまさる不正を受けるばかりだった。というのも、既存の秩序に対する反逆者だとみなされたからである。そして、権利上、自分に属するものの一部を求めるときでさえ、その国の為政者や支配者たち自身が、その人を虐げる手先となり、その人が隷属するくびきを以前にまして重いものとするのだった。涙をたたえた何万もの目がエホバに向けられ、虐げる者とされる者との間に介入してくれるよう切願していた。神は、無力な者たちの究極的な頼みの綱だからである。主はすべて虐げられている人々のために、正義とさばきを行なわれる[詩103:6]。踏みにじられているあらゆる人々の正しい訴えを引き受けてくださる。

 もしこの世の歴史が正しく読まれるとしたら、いかなる抑圧も、長くは罰されずにすまなかったことが見いだされるであろう。アッシリヤは、非常に残虐な帝国だったが、ニネベやバビロンにはいま何が残されているだろうか? ティグリスやユーフラテスの河岸にある廃墟の山のところに行き、帝王や彼の下の貴人たちの手によって抑圧の手段とされるだけの帝国がどうなるものか見てとるがいい。それは、すでに名ばかりのものとなり果てている。その権力は消失し、その数々の宮殿は破壊されてしまっている。後代になると、ローマという強大な帝国が興り立った。そして今でさえ、どこを歩き回ろうと、その偉大さと壮麗さの名残を見ることができる。いかにしてそれは没落したのだろうか? 多くの理由が寄せられてきた。だが、確実に云えるのは、そうしたすべての根底には、奴隷たちや、他の貧民たちに対して行なわれた残虐さがあったということである。こうした者たちは、この帝国の支配的な党派をなしていた貴族政治や寡頭政治に、絶対的に牛耳られていた。正義を振るわない、いかなる王座の土台にも、致命的な傷がついている。そして、たといその帝国が天のように高くそびえ立ち、その尖塔を天空に上げようとも大したことではない。その基盤が正しいものでないとしたら、崩れざるをえない。何万もの奴隷たちがいくら神に向かって叫ぼうと一見無駄であるように思われたとき、それは実は無駄ではなかった。というのも、神は彼らの叫びを登録しており、しかるべき時期に彼らの不正に報復されたからである。そして、貧しい労務者たち、富者の畑の刈り取りをした者たちが、その辛苦の稼ぎ賃を奪われ、彼らがその告訴状を天の法廷に投げ込むとき、それはそこに登録され、神は正しい時に彼らの訴訟を取り上げ、彼らの抑圧者たちを罰してこられた。

 何年もの間、黒人奴隷たちは神に向かって解放してくださるよう叫んだ。そして、とうとう解放がやって来て、自由にされたおびただしい数の者たちを喜ばせたが、それはこの巨悪に関わりを持っていたあらゆる国々に苦しみをもたらさずにはおかなかった。そして、この国においても、もしも雇用者たちが農場労働者にその正しい賃金を与えることを拒否するなら、神は確実に御怒りをもって彼らを訪れるであろう。現代のこの日にさえ、英国には農奴たちがいる。彼らは、いかに厳しい労苦をもってしても、からだと魂をともに養うだけのものを稼げず、自分の家族をしかるべく扶養できない。そして、主人たちがこのように自分の労働者たちに正当な報酬を拒んでいるとしたら、知っておくがいい。誰が彼らを容赦しようと、また、政治経済学の諸法則について何が云えようと、神は世を政治経済学によってはお審きにならない。ご自分の規則によってお審きになる。すなわち、人々は、自分の同胞たちを公平に、また、正しく扱う義務があるということである。そして、人が奴隷のように働かされたり、馬よりも劣悪な住居に住まわされたり、犬にさえふさわしくないような食物を与えられたりするのは、決して正しくない。しかし、もし貧者が自分の状況を神にゆだねるなら、神はそれを引き受けてくださるであろう。そして、私は、神に仕える教役者のひとりとして、決して貧者の権利のために語ることをやめはしないであろう。この問題すべてには2つの面がある。――主人たちの権利、そして、労働者たちの権利である。労働者は、一部の働き手たちがするようなことをしてはならない。しかるべき限度を越えた要求をしてはならない。だが、それとは逆に、主人たちは自分の労働者たちを横暴に支配すべきではなく、こう思い出さなくてはならない。神が私たちすべての《主人》であられること、また、万人に対して正義が行なわれるようになさることを。私たちはみな、互いに対して正しく行動しよう。さもないと、御手の重みと、御怒りの力を感じることになる。

 さて、このように本日の聖句の文字通りの意味を示した上で、それを霊的に扱いたいと思う。とはいえ、そのようにするのは、私がまずダビデの言葉、「貧しい人は、あなたに身をゆだねます」、が第一義的に何に言及しているかを説明した上であることを銘記したい。

 I. 《世には、霊的に貧しい人がいる》。そして、この人々は、物質的な事がらにおいて貧しい他の人々が行なうことをしている。自分の状況を神の御手にゆだねている。

 霊的な貧者たちがいかなる人か見てみよう。その人々は、最初に、自分自身の功績を全く有していない人である。世の中のある人々は、自分で評価するところ、非常に豊かな善行に富んでいる。こうした人々は自分が良く始め、良くあり続けていると考えており、まさに生涯の最後までそうあり続けたいと希望している。時には自分がみじめな罪人であると告白することもあるが、それは単にその云い回しが《祈祷書》に記載されているからでしかない。そうした人々は、そう記載されていることを半ば残念に思っているが、それは自分のためでなく、他の人々のためにあるに違いないと考える。自分たちの知る限り、自分は戒めをみな小さい時から[ルカ18:21]守っている。同胞を正しく扱ってきたし、いかなる重大な恩義をも、神ご自身にさえ負っていないと感じている。私がそうした人々に対して云いたいことは、ただ1つ、主イエス・キリストが云われたことを思い出せ、ということである。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」[マコ2:17]。キリストが癒しをもたらされたのは、霊的に病んだ人々である。あなたは、自分が完璧に健康だと云う。ならば、あなたはあなた自身の道を行かなくてはならない。キリストは別の方向へ――罪人たちの方へ――行かれるであろう。

 さらに、私がいま語っている貧しい人々は、単に功績のようなものを全く有しておらず、いかなる善良さも全く欠けており、自分で誇れるようないかなるものも備えていないばかりでなく、将来そうした善行を果たせるような力をも持っていない。そうした人々は、霊的に貧しいすぎるため、自分の望むように祈ることすらできない。また、自分で感じたいと思うほど自分の貧しさを感じることすらできない。この聖書を読んだ後で、そうした人々は、それを読み返して、もっと大きな益を得たいと願う。また、罪について涙するときには、その涙の中にさえ自分の罪を感じ、その涙のことで悔悟の涙を流したいと思う。あまりにも貧しい者であるため、キリストなしには絶対的に何も行なうことができず、自分たちのうち、すなわち、その肉のうちには善が住んでいない[ロマ7:18]。実はかつては、自分の中にも良いものがあると思っていたが、自分の性質をこの上もなく痛ましいしかたで探った後で、こう見いだしているのである。恵みが自分たちに代わって一切のことを行なわない限り、自分たちは神がおられる所に決して行くことができない、と。

 ことによると、あなたがたの中のある人々は云うであろう。「それは、よほど悪辣な人々に違いありません」。よろしい。そうした人々は、本来そうあるべきよりも全く善良ではない。だが、私はこうした人々について別のことをあなたに告げることができよう。この人々は、彼らよりもはるかにまさっていると考えている人々の多くよりも決して悪い人間ではない。そうした人々がこれほど自分たちを卑しく評価しているのは、神の御霊が、神との関係における彼ら自身について正しく、真実な考え方を教えておられるからである。この人々は、その見かけでは、また、私たちの判断できる限りにおいては、他の人々と全く同じくらい善良であり、一部の者らにまして善良である。ある点で、こうした人々は他の人々の模範として掲げられて良い。これは、私たちがこうした人々について云うことである。だが、そうした人々は自分自身について褒めることをしない。むしろ、自らの唇に指を当て、自分がいかなる者であると感じているかを思い出しては赤面する。あるいは、もし自分のことを少しでも語らなくてはならないとしたら、こう云う。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」[イザ53:6]、と。

 II. そこから第二に注意させられるのは、《この貧しい人々が何をするか》である。この人々は自らを神にゆだねる。これは、真の信仰が何を行なうかを、非常にほむべきしかたで描写している。心の貧しい者は、自分の状況が絶望的であると感じるあまり、それを自分自身の責任として保っていることができない。それゆえ、神にゆだねるのである。それをこの人々がどのように行なうか、努めて示させてほしい。

 最初に、この人々が神に自分の状況をゆだねるしかたは、負債者が自分の状況を保証人にゆだねるのと変わらない。この人は、借金で全く首が回らなくなっているため、自分の債権者たちに一ポンドあたり一銭たりとも払えない。だが、ここにいるひとりの人は、その人の負っている債務をことごとく支払うことができ、その人に向かってこう云っている。「私があなたの保証人になりましょう。あなたの肩代わりをしましょう。あなたの債権者たち全員に弁済し、あなたの一切の債務を履行しましょう」。これほど借金で首が回らなくなっている人のうち、このような保証人のことを知って喜ばない者はいないであろう。その人は、自分の代理となって、自分の一切の責任を果たす力も意欲もあるのである。かりに、その保証人が、このあわれな債務者に向かってこう云ったとしよう。「あなたは、自分の債務のすべてを私に譲り渡しますか? この文書に署名して、私があなたの借金のすべてを背負う権限を持たせますか? 私をあなたの肩代わりにならせ、保証人にならせますか?」 「あゝ!」、とこの貧しい人は答えるであろう。「そうしますとも、喜んで」。それこそ、まさに霊的に貧しい人が主イエス・キリストに対して行なったことである。――自分の状況を、その一切の借財と債務もろともに、主イエス・キリストの御手にゆだねたのである。そして、主は、そうしたすべての責任を彼らに代わって引き受けておられる。

 ある人がこう云うのが聞こえる気がする。「しかし、キリストは、本当にそのようなしかたで罪人の身代わりになられるのでしょうか?」 おゝ、しかり! というのも、主は、世の基の据えられる前から、あらかじめその罪人の身代わりになられたし、あの呪われた木の上で死なれたとき、現実にそうなられたからである。その死によって、主が《保証人》となられたあらゆる者らの債務は完全に履行された。愛する魂よ。あなたは、自分のあらゆる問題を主の御手にゆだねたくないだろうか? 喜んで主にあなたの《保証人》となってもらい、あなたの一切の債務を帳消しにしてもらうことを望むではないだろうか? 「望む?」、とあなたは云うであろう。「あゝ! 望みますとも。単に望むだけでなく、大喜びしますとも。主が私の代理となり、今の私を粉々にしてしまいそうな重荷を私から取り除いてくださるとしたら」。ならば、そのことはあなたのために行なわれる。二度と取り消しができないほど完全に行なわれる。かりに、あなたがたの中のひとりが、私の一切の負債を引き受けてくれ、あなたがそれを支払う力も意欲もあるとしたら、私は家に帰って、自分の負債のことでやきもきしたりしないはずである。私は、あなたがそれを身に引き受けてくれたこと、また、それゆえ、それらがもはや私のものではないことを思って喜ぶはずである。もしキリストがあなたのもろもろの罪を身に引き受けてくださったとしたら、――そして、主は、あなたが真に主に信頼したなら、そうしてくださったのである。――あなたのもろもろの罪はなくなっている。それらは、永遠に拭い去られている。キリストは、私たちに不利な一切のものをご自分の十字架に釘づけにされた[コロ2:14]。そして今や、あらゆる貧しい罪人、神の律法に借りがありながら、キリストに信頼している者は、自分の負債が帳消しにされており、自分がそのあらゆる債務から永遠に解放されているとわきまえて良いのである。

 次に、私たちが自分の状況をキリストにゆだねるしかたは、訴訟依頼人が事務弁護士や代言人にそうするのと変わらない。知っての通り、ある人が訴訟事件をかかえているとき、(あなたがたの誰もそのような訴訟をかかえたことがないことを私は希望するが)、もしその人の訴訟理由を申し立てる代言人がいるとしたら、その人が自分の云い分を述べることはない。さもないと、おそらく厄介な羽目に陥るであろう。聞くところ、アースキンが、殺人のために裁判にかけられているひとりの男の云い分を述べているとき、彼の訴訟依頼人は、自分の弁護が行なわれているしかたに満足できずに、紙切れにこう書いて寄こしたという。「私が自分の弁護をしなけりゃ、縛り首になるじゃないか」。アースキンは答えを書いた。「あなたがそうしたら、縛り首ですよ!」 私たちも大方はそれと同じである。もし私たちが自分で自分の弁護をしようとするなら、確実に道を誤るであろう。私たちには《天来の弁護者》がいなくてはならない。この方だけが、私たちをサタンの数々の告訴から守り、神の法廷の前にあってさえ、権威をもって私たちのために語ることができるのである。私たちは自分の状況をこの方にゆだねなくてはならない。そうすれば、この方が私たちの弁護を行なうことができ、すべてが正しく進むことであろう。

 さらに覚えておくべきは、自分の訴訟事件を代言人にゆだねた人はみな、自分でそれに干渉してはならないということである。もし相手方の誰かがその人を待ちかまえていて、「あの訴訟について、あなたとお話がしたいと思いましてね」、と云うとしても、こう答えなくてはならない。「私は、あなたとその件について立ち入った話をするわけにはいきません。私の事務弁護士と話してもらわなくてはなりません」。「しかし、私は事を分けてこの件の話がしたいのです。あの事件について、いくつか聞きたいことがあるのです」。「いいえ」、とその人は云うであろう。「あなたの云うことに耳を貸すわけにはいきません。私の事務弁護士と話してください」。キリスト者たちが自分の状況をイエスの御手にゆだね、そこに置き去りにし、独力で処理しようなどとしないとき、いかに多くの苦難を免れることか! 私は、悪魔が疑いや恐れに誘惑しようとしてやって来るときに、こう云う。「私は自分の魂をイエス・キリストにゆだねている。そして、キリストがそれを安全に守っておられる。お前のあらゆる告発は、私にではなく、キリストに持っていかなくてはならない。私はキリストの訴訟依頼人であり、キリストは私の《弁護士》なのだ。なぜこれほどの《代言人》を有している私が、自分で自分を弁護しなくてはならないのか?」 ヨハネはこうは云っていない。「もしだれかが罪を犯したなら、自分で自分を弁護しなさい」。むしろ、こう云う。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです」[Iヨハ2:1]。愛する兄弟。あなたの状況はキリストにまかせるがいい。主はそれを賢く処理することができ、あなたにはそうできない。覚えておくがいい。もし悪魔とあなたが口論するとしたら、彼はあなたよりもずっと年老いており、はるかに狡知に長け、あなたの知らない、おびただしい数の法律規則を知っている。あなたは、常に彼を《救い主》と話させるべきである。《救い主》は悪魔よりもずっと年老いており、彼よりもはるかに多くのことを律法や他の一切のことについてご存知で、あまりにも効果的に彼にお答えになるので、彼が永遠に沈黙するほどである。そのように、貧しく試みられている魂よ。あなたの状況を、この大いなる《代言人》にゆだねるがいい。そうすれば、この方は、天国の《王座裁判所》の前であなたを弁護してくださるであろう。そして、あなたの訴訟事件は、このお方の弁護によって確実に勝訴するであろう。

 さらに、罪人たちが自分の状況をキリストにゆだねるしかたは、患者が自分の症状を医者にゆだねるのと変わらない。私たち、貧しく、罪に病んだ罪人たちは、自分の症状をイエスの御手にまかせる。主が私たちのあらゆる堕落性、邪悪な傾向、弱さを癒してくださるためである。もし誰かが、「私が主のもとに行くなら、主は私の症状を引き受けてくださるでしょうか?」、と問うとしたら、私は答える。――しかり。主が来られたのは、魂の《医者》となるためであり、ご自分に信頼するすべての者を癒すためである、と。主が癒せない症状は1つもなかった。主は素晴らしい治療薬、万能薬、あらゆる病に効く治療法を持っておられるからである。もしあなたが自分の症状を主の御手にまかせるなら、聖霊が主の愛をあなたの心に注いでくださるであろう。そして、その驚異的な治療法に抵抗できる霊的疾病は1つもない。あなたは短気になりやすいだろうか? 主はそれを治すことがおできになる。怠惰になりがちだろうか? ものぐさな心が内側にあるだろうか? 主はそれを治すことがおできになる。あなたは高慢だろうか? それとも、貪欲さか、世俗性か、情欲か、野心に向かいがちだろうか? キリストはこうした一切の悪を治すことがおできになる。この地上におられたとき、主のもとには、ありとあらゆる種類の病人たちが連れて来られた。だが主は、ただ1つの症状にも面食らいはしなかった。あなたの症状がいかなるものであれ、もしあなたが行って、それを主の御手にゆだねさえするなら、それは主にとって全く容易なものであろう。この建物は、罪に病んだ魂で一杯の大病院と思われる。そして、私が祈るのは、かの偉大な《医者》がここに来て、彼らを癒してくださることである。否。それは訂正しなくてはならない。というのも、主はここにおられるからである。そして、主がこちらの通路を通って歩いており、そちらの桟敷席を回っておられる間、私はあなたが主にこう申し上げるよう切に願う。「善なる《主人》よ。私は自分をあなたにねだねます。あなたを私の《救い主》といたします。おゝ、私を私の体質的な気質からお救いください。私にからみつくもろもろの罪から、またあなたの聖なるみこころに逆らう他の一切のものからお救いください!」 主はあなたの声をお聞きになるであろう。主は、貧しく罪に病んだ魂の叫びを顧ることを決して拒否されないからである。主があなたの前をお通りになるとき、祈りをささげることなく過ぎ去らせてはならない。「ダビデの子よ。私をあわれんでください!」*[マコ10:47] 主よ。ここに来て、あなたの御手を私たちひとりひとりの上に置き、私たちを完璧に健康にならせてください!

 将来について云えば、霊的に貧しい者が自分をキリストにゆだねるしかたは、『天路歴程』に描写されている巡礼たちが自分たちを大勇氏の庇護に委ねたのと変わらない。それは、彼が彼らに代わって彼らの戦いをことごとく戦い、彼らを安全に《天の都》に導いて行くためであった。古い戦争の時期、商船の船長たちが外国に行くことを欲しても、他国の私掠船に拿捕されることが心配なときには、普通、彼らを守る軍艦に率いられた船団となって航行するのが常であった。そして、それこそ、あなたや私が天国へ行かなくてはならないしかたである。サタンの私掠船たちは、私たちを拿捕しようと努めるであろう。だが、私たちは自分を、あらゆる海の海軍司令長官たるイエスの保護にゆだねる。そのとき、私たちの貧しい小舟たちは、主の護衛の下で安全に航海するのである。何らかの敵が私たちを攻撃しようとしても、恐れる必要はない。主は、お望みになれば彼らをみな海上から吹き飛ばすことがおできになるが、決してご自分の保護にまかされている船の一隻すら、それらが傷つけることをお許しにならない。罪人よ。自分をイエスの保護にゆだねて、天国まで護衛されて行くがいい。また、あなたがた、心配性な神の子どもたち。あなたの心配のすべてをイエスの足元に下ろし、その無限の力と愛とのうちに安らぐがいい。それらによれば、決してあなたが失われることはない。

 このように私はいかに私たちが自分をキリストにゆだねるかという比喩や例証をいくらでも挙げることができる。私たちがそうするのは、この講壇の下に座っている、私たちの盲目の友人たちが今晩ここにたどり着いたのと非常によく似たしかたによってである。――この人々がやって来たのは、案内人たちに身を預けることによってであった。この人々の中には、案内人なしに相当長く歩ける人たちもいるが、他の人々が今晩ここに出て来ることができたのは、親切な人がその人たちのよりかかるべき腕を貸してあげたからにほかならない。それこそ、天国に行くべきしかた、イエスによりかかることによって行くことである。イエスにお会いしたければ、イエスに自分を預け、一心によりかかるしかない。主は信頼されることを愛しており、信仰は主にとって素晴らしい魅力がある。私は一度、《市長官邸》の近くにいて、そこに立っていたとき、ひとりのあわれな盲人から話しかけられたことがある。その人は、道を渡って《貯蓄銀行》へ行こうとしていた。「旦那様。私を向こう側へ渡らせていただけませんか。きっとそうしてくださいますよね。私は目が見えないもので」。私は、自分にできるかどうか心許ないものがあった。非常に多くの辻馬車や乗合馬車が絶え間なく行き交っているその部分を、盲人の手を引いて行くのは容易なわざではないからである。だが、私は自分にできる限りうまくやりおおせた。だが、そうできたのは、このあわれな男が、「きっとそうしてくださいますよね」、と云ってくれたからではないかと思う。というのも、そのとき、私は自分がそうしなくてはならないと思ったからである。そして、もしあなたがキリストのもとに行き、「主イエスよ。私を天国へ連れて行ってくださいませんか?」、と云い、自分は主があわれな盲目の魂が道を迷うままにすることなど決してなさらないと確信していると申し上げるとしたら、また、自分は主を信頼できると確信している、主は親切な心をした《救い主》であり、咎ある罪人がこのように自分を御手にゆだねるとき、決して押しのけたりなさらないと確信していると申し上げるとしたら、確かに主は喜んであなたを救い、あなたを天の故郷に無事導いて行くことをお喜びになるはずである。もしあなたがたの中の誰かが、自分の肉体の目は見えていても、霊的には盲目であるとしたら、自分が身をゆだねることのできる、ひとりのほむべき《案内人》がいることを喜ぶがいい。そして、このお方に身をゆだねるがいい。キリストは盲人を、彼らの知らない道によって導き、彼らを導き続けて、ついには、彼らがその目を開くことになる国へと連れて行くであろう。そのとき、彼らはパラダイスの壮麗さを見て歓喜し、驚嘆し、自分が永遠に安泰であることを喜ぶであろう。

 この、貧者が自分をキリストにゆだねるというわざは、非常に容易な行ないではないだろうか? 負債者が自分の負債を保証人にゆだねることは非常に容易である。ある人が自分の訴訟事件を代言人にゆだね、患者が医者に身をゆだね、巡礼が強力な護衛のもとで安全に感じ、盲人がその案内人を信頼すること、――これらはみな非常に単純で容易なことである。それには大した説明はいらず、イエスを信じる信仰はそれと全く同じくらい単純で、それと全く同じくらい容易である。なぜ、私たちは時として、信仰が困難だと感じるのだろうか? それは、私たちがイエスを信じるには高慢すぎるからである。もし私たちが、真実そうある通りの自分の姿を見てさえいたなら、私たちは喜んで《救い主》に信頼するはずである。だが、私たちは案内人を必要とする盲人たちのようにして、あるいは、一ポンドのうち一銭も払えないような負債者のようにして天国に行くことを好まない。私たちは、自分もその件に一枚噛んでいたいのである。自分の救いに向けて何かを行なっていたいのである。その称賛と栄光の一部を受けたいのである。この邪悪な霊から、神が私たちを救ってくださるように!

 霊的な貧者が自分をキリストにゆだねるのは非常に単純である一方、やはり云っておきたいことは、それが大いに神の栄光を現わす行為だということである。キリストが誉れを帰されるのは、何らかの魂がキリストに信頼するときである。信頼されることは、主の御心にとって1つの喜びである。か弱い者が主にすがりつくとき、主は、自分の幼子にすがりつかれた母親が感じるような喜びをお感じになる。キリストがお喜びになるのは、貧しい、罪に病んだ魂がやって来て、ご自分に信頼するときである。まさにこの目的のためにこそ、主は世にやって来て、咎ある罪人たちの必要にお答えになったのである。それで、この計画は、私たちにとって容易である一方で、主にとってご栄光を現わすものなのである。

 そして、私が云い足したいのは、この計画が、それに信頼するいかなる者の期待をも決して裏切らないということである。自分の状況をキリストにゆだねたのに、その後で主に裏切られることになった魂など、1つたりともなかった。また、この大地が持ちこたえる限り、そのような魂は決してないであろう。キリストを信じる者は、代々限りなく恥を見ることも、うろたえることもない。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。そして、永遠のいのちがそれを受けた者から取り去られることは決してありえない。

 しめくくりに、1つの質問を発することにしよう。――もし霊的な貧者が自分を神にゆだねるとしたら、そこから何が生ずるだろうか? 何と、それは彼らを非常に幸いにする。しかし、彼らは罪深くはないだろうか? おゝ、しかり。だが、彼らは自分を神の恵みにゆだねており、神の御霊は彼らのもろもろの罪をすべて永遠に拭い去る。彼らはか弱くないだろうか? おゝ、しかり。だが、彼らのか弱さによって彼らは、自分を主の全能さにゆだねるようになるのであり、主の力は、弱さのうちに完全に現われる[IIコリ12:9]。彼らは困窮していないだろうか? おゝ、しかり。だが、そのとき彼らは自分の数々の必要を主のもとに持ち出し、主の満ち満ちた豊かさの中から「恵みの上にさらに恵みを」[ヨハ1:16]受ける。しかし、彼らはしばしば危険の中にないだろうか? おゝ、しかり。一千もの危険の中にある。だが、彼らは来て、神の御翼の陰に隠れ、神は彼らをその羽で覆われる。そして、そこで彼らは完璧な安全の中に安らう。神の真実が、彼らの大盾となり、砦となる[詩91:4]。それで彼らはいかなる敵も恐れる必要がない。しかし、彼らは足を滑らせがちではないだろうか? おゝ、しかり。だが、彼らは自分を神にゆだねる。神は、彼らのために御使いたちに命じて、すべての道で彼らを守り、その手で彼らを支えるようにされる。それで彼らの足は、石に打ち当たることがない[詩91:11-12]。しかし、彼らは非常に移り気で変わりやすくはないだろうか? おゝ、しかり。だが、彼らは自分をこう云われるお方にゆだねる。「エホバであるわたしは変わることがない」*[マラ3:6]。しかし、彼らは無価値な者らではないだろうか? おゝ、しかり。彼ら自身では、全く無価値な者らである。だが、彼らが自分をゆだねるお方は、「主は彼らの正義」[エレ23:6]と呼ばれている。そして、彼らにこのお方の義が着せられるとき、彼らは神によって「しみや、しわや、そのようなものの何一つない」[エペ5:27]ものとみなされるのである。しかし、彼らには何の病もないのだろうか? 否。だが、彼らは自分をエホバ・ロフィ、すなわち、《癒し手なる主》[出15:26]にゆだねる。そして、主は彼らの病を癒すか、それに耐える恵みを与えるかしてくださる。彼らは貧しくないだろうか? しかり。彼らの多くは極度に貧しい。だが、彼らが自分をゆだねているのは、忠実な《約束者》であり、それで彼らのパンは与えられ、その水は確保される[イザ33:16]。しかし、彼らは死ぬことになっていないだろうか? おゝ、しかり。その前に主がやって来ないとしたらそうである。だが、彼らは死ぬのを恐れていない。これこそ、他のすべてにまして、霊的な貧者が神に自分をゆだねる点である。彼らは、あのダビデの甘やかな祈りをあまりにも良く学んだために、それがしばしば彼らの舌に上るのである。「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました」[詩31:5]。彼らは、真実に自分の魂を何年も前に神の御手にゆだねた。そして、神は今に至るまで彼らを守ってこられ、彼らが死ぬ時にも彼らの期待を裏切ることはないと彼らは知っているのである。

 最後に私は、あらゆる霊的に貧しい心が自らを神にゆだねるよう祈りたい。私は、このことを毎朝好んで行なっている。サタンはしばしばやって来て、こう云う。「お前など全くキリスト者であるものか。お前がキリスト者経験だと考えているものはみな偽りなのだ」。まことに結構。かりにそれが偽りだったとしよう。ならば、私は新たに始めるであろう。聖徒であろうとなかろうと、私はキリストが私の《救い主》であると信頼することによって、再び始めるであろう。愛する方々。あなたが明日の朝起きたときには、このことを真っ先に行なうがいい。――その日のあいだ中、自分をイエス・キリストにゆだねることである。云うがいい。「私の主よ。ここに私の心があり、それを私はあなたにゆだねます。私が家から離れている間、私の心があなたのほむべき臨在の芳香で満たされていますように。また、夜帰ってきたときには、なおも私の心があなたの親切な守りの中にあるのを見いだすことができますように!」 そして、毎晩、眠りに就く前に、こう祈ろうではないか。――

   「この夜、迅(はや)き死 われらに来(く)とも、
    われらの寝床 墓となるとも、
    天(あま)つ夜明(あかつき) われら醒(さま)せよ、
    光と 死なき 栄えまといて」。

あなたは外国に行こうとしているだろうか? ならば、新たにあなたの人生を神にゆだねるがいい。これから自分の状態が変わり、結婚生活という喜びと責任へと乗り出そうとしているだろうか? ならば、自分を神にゆだねるがいい。あなたは新たな状況に入るか、新しく店を開こうとしているだろうか? 何らかの変化があなたに及ぶところだろうか? ならば、あなたの魂を新たに、あるいは、もう一度、主イエスにゆだねるがいい。――ただし、それは心から徹底的に行ない、何の留保もつけないように気をつけるがいい。私が喜ぶのは、私が自分をキリストにゆだねているしかたが、あの古の奴隷が自分をその主人にゆだねたしかたのようであると感じることである。ユダヤ教の律法に従い、自由にされる時が来たとき、彼は自分の主人に云った。「いいえ。私は行きたくありません。私はあなたを愛しています。お子たちを愛しています。お家を愛しています。あなたにお仕えすることを愛しています。私は自由になりたくありません」。すると、あなたも知っての通り、主人はきりを取って、彼の耳を戸口の側柱に刺し通す[申15:16-17参照]。これは、果たしてこの男が本当に自分の主人のもとにとどまりたいかどうかを見てとるために行なわれたのだと思う。あゝ、愛する方々! 私たちの中のある者らが、自分の耳に穴をあけられたのは、ずっと昔になる。私たちは自分をキリストにささげており、決して失うことがありえないしるしを帯びている。私たちは主の死にあずかるバプテスマによって、主とともに葬られたではないだろうか。――それは、私たちが、愛する主のゆえに世に対して死に、世に対して葬られた象徴である。よろしい。同じようにして、あなた自身を全くイエスにささげるがいい。自分を主にゆだねるがいい。若い花嫁が、自分の人生の喜びと希望のすべてを、愛する花婿にゆだね、その顔を非常な愛に満ちて眺めるように、そのように、おゝ、魂たち。地上においてであれ天国においてであれ、自分をあのいとも愛しい《花婿》――主イエス・キリスト――にゆだねるがいい。あなた自身を主にゆだね、愛し、愛されるがいい。――主のものとなって従い、主のものとなって仕え、主のものとなって守られ、――いのちある間は主のものとなっているがいい。――そして、あなたには、「死がわれらを分かつまで」、と云い足す必要はない。むしろ、あなたはこう云って良いであろう。「死がわれらを、より完全に結び、われらが上つ婚礼のうたげの席に着き、永久永遠に神の御座の前で1つとなるまで」、と。このようにして、貧しい魂は自らをキリストにゆだね、キリストに嫁ぎ、キリストの有しておられる相続財産を得て、キリストご自身のものとなり、それからキリストとともに永遠に生きる。おゝ、今このときが、多くの人々にとって自分をキリストにゆだねるときとなればどんなに良いことか! 私は単に、あなたがた、洋服のかくしの中が貧しい人たちのことを云っているのではない。あなたがた、心の貧しい人たちのことを云っているのである。私はあなたが自分をキリストにゆだねるよう求めている。それを先延ばしにしてはならない。むしろ、今を、自分をキリストにゆだねるまさにその時とするがいい。そうすれば、主はあなたを永久永遠にご自分のものとされるであろう! アーメン、アーメン。

貧しい人の友[了]

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