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刈り入れ時の喜び

NO. 3058

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1907年9月19日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1865年


「彼らは刈り入れ時に喜ぶように……あなたの御前で喜んだ」。――イザ9:3


 刈り入れ時は、一年に神の御恵みの冠をかぶらせる[詩65:11]。刈り入れが豊富にあるとき、そこには喜びが満ち溢れる。誰もが喜びに踊る。地主は嬉しがる。報酬で報われたことを見てとるからである。労働者たちは嬉しがる。自分たちの労苦の実を見てとるからである。穂を一本も有していない者たちでさえ、それにもかかわらず、回り中の喜びに共感する。なぜなら、豊かな刈り入れは一国全土にとって恩恵だからである。荷を積んだ最後の大荷車が村の道をキーキー音を立てながら下ってくるのを見るのは喜ばしい眺めである。子どもたちが大声で歓声を上げる。何のため叫んでいるかもほとんど分からずそうしている。その大荷車の上に座っている農夫は、帽子を振りながら、上機嫌な叫び声を発している。そして、彼らはそのすべてを干し草の山に積むか、納屋に入れる。刈り入れ時がやって来るときには、村中に喜びがある。国中に喜びがある。

 しかしながら、これよりもずっとめでたい時には、よりすぐれた喜びがあるであろう。それは、ひとりの罪人が自分の《救い主》を見いだすときのことである。そうした人々が蒔いた祈りは、一握りの種のように地中から芽を出し、自分の《救い主》に対する信頼という黄金色の穂は熟し切った。分捕り物を分ける者たちは大声で叫ぶ。彼らの喜ばしい叫声は諸天に届く。だが、《救い主》を見いだした者たちの喜びは、そうした者にもまさっている。彼らは詩篇作者とともにこう云うことができる。「あなたは輝かしく、えじきの山々にまさって威厳があります」[詩76:4]。はち切れるがいい。納屋たち! あふれ流れるがいい。葡萄酒の大樽たち! だが、お前たちが自分の所有者に向かって発することのできるいかなる喜びも、キリストが自分には必要であると感ずる魂が、キリストを真にわがものとし、真につかんだときに受ける喜びには、到底かなわない。刈り入れ時の喜びをはるかにしのぐのが、単純な信仰の喜びである。

 私たちは教会として、あらゆる時代のキリスト教会と同じように、収穫の時期を何度も有してきた。それは、私たちが神の前で、刈り入れ時の喜びのように喜んだときであった。そして、やがて来たるべき日は、このあわれな、霞のかかった地上にいまだかつて明け初めたこともないほど明るい日となる。そのとき、人の子がやって来られ、義の《太陽》が上り[マラ4:2]、キリストがその黄金の大鎌を押し込んでは、この世の収穫を刈り取られるのである。そして、義人は主の前で、一万年分の刈り入れ時にもまさって大きな喜びを主の御前で喜ぶことになる。

 I. では、刈り入れ時の喜びに比すべき、現在における私たち自身の喜びについて語っていこう。この世から回心した人々を教会の一員として迎え入れる喜びは、《物事を現実のものとする喜び》であり、それゆえ、刈り入れ時の喜びに似ている。

 信仰は、自分が求め、期待していたものを現実のものとする。農夫が自分の良い種を地中に投げて死なせるとき、それは一種の信仰の行為である。彼はその種の姿を長い間見失う。それは土塊の下で腐って腐敗するに違いない。しかし、彼は、そうした一掴みの黄金の損失をこうむることが、究極的には自分の得となるだろうと信じている。彼が刈り入れ時を見るとき、彼の信仰は栄誉を授けられ、健全な分別であったことが証明される。このようにして、彼がいつくしんできた希望も成就する。土の上に緑の苗が現われるのを最初に見たとき、彼は黄金の穂の希望をいだいた。畑の全面が緑色になったとき、また、自分の牧草地のように見えたとき、彼は刈り入れ時がやって来ることを完全に確信した。そして毎日彼は、自分の畑を横切って歩くとき、あるいは、それをぐるりと回るとき、最初の苗を見たときや、その穂を見たときのように、その穂の中に実が入る[マコ4:28]のを希望してきた。そして今、彼の希望はことごとく、彼が前にしている刈り入れにおいて成就している。彼の労働はすべて報われた。何度となく彼の労働者たちは地面の上をとぼとぼと行きつ戻りつしてきた。それは骨の折れる、退屈な仕事だった。――畦を作り、鋤で耕し、種を蒔く。草取りは際限もなく、鍬は何度となく用いられなくてはならなかった。だが、今や彼は費やされてきた労働に何の恨みも持たない。彼は、自分の一切の出費に対するあり余る返報を、自分の刈り入れ時の収入のうちに有している。刈り入れ時には、信仰と希望と労働が現実のものとなるのである。

 魂の回心も、それと同じである。私たちは信仰によってみことばを蒔く。いかにしばしば私はこの場所で福音を宣べ伝えてきたことか。そして私は、福音宣教そのものの中には魂を回心させるいかなる力もなく、魂の中にも、福音によって自らを回心させるいかなる力もないことを感じてきた。だが私は、こう感じてきたし、こう知っていた。すなわち、神はご自分の真理に誉れを与え、その真理を用いて、ご自分が永遠のいのちに定めていた者たち[使13:48]にいのちをお与えになるだろう、と。そしてあなたも、この会衆席に座り、沈黙の祈りをささげていたあなたも、そうなることを希望していた。それを予期していた。あなたの信仰は、私の信仰とともに働かされ、神のことばがむなしくみもとに帰って行かない[イザ55:11]ことを期待していた。そして私は、あなたがたの中の多くの人々、多くの熱心な人々が、その結果を今か今かと待っていたことを知っている。あなたは、あなた自身の子どもたちからの有望な言葉を一言も聞き逃しはしなかった。あなたと同じ会衆席に座っているいかなる人の涙をも見逃しはしなかった。そしてあなたの希望は時として非常に高まることがあり、時として非常に低くなることがあった。だが、今やあなたは、自分が関心をいだいてきた多くの人々が、導き入れられ、教会に加えられているのを見ている。あなたは希望以上のものを得ているように思われ、神をほめたたえている。そのみことばに誉れが与えられ、魂が救われてきたからである。

 私たちに加えられつつある、こうした特定の人々のために、あなたがたの中のいかに多くの人々が労してきたか、私には告げることができない。あなたがたの中の一部の人々がそうしてきたことを私は知っている。だが、あえて云えば、最も多く祈ってきた人が最も喜ぶことであろう。魂への語りかけを最も多く行なってきた人、彼らをキリストに導こうと最も労してきた人が、現在の刈り入れ時の喜びを最も大きく感じていることであろう。あなたがた、何事もせずに傍観するだけだった、のらくら者たち、――あなたがた、食事時には喜んでやって来て、自分のパンを私たちの酢に浸そうとするが、労働とは全く無縁の人たち、――私たちのかたわらで骨折り仕事をしてこなかった人たち、――あなたがたには、ほとんど喜びはないであろう。あなたは、ことによると、そうした結果に異議を申し立て、猜疑心をかき立てるかもしれない。あの兄息子のように怒って中に入ろうとしないかもしれない。だが、それを尻目に私たちは、いなくなっていたのが今や見つかり、死んでいたのが生き返ってきた弟息子のことで音楽を奏したり、踊ったりしているであろう[ルカ15:32]。あなたがた、最も多く信じていた人たち。あなたがた、最も多く希望していた人たち。あなたがた、最も働いてきた人たち。あなたは宴会を開き、刈り入れ時の喜びをもって神の御前で喜ぶであろう。神に栄光があらんことを。神は私たちを見捨てず、神のことばはみもとにむなしく帰らなかった。神はその子どもたちの叫びをお聞きになり、私たちが涙とともに種を泣いても、喜び叫びながら刈り取るようにしてくださった[詩126:5]。

 II. その調べを少し転じて、この刈り入れ時の喜びが《祝いの喜び》であることに注目しよう。

 キリストにある私の兄弟姉妹。私は、回心者たちが教会に収穫されたことについて、あなたに祝いを申し述べることができると思う。叱責するのに時があり、互いに慰めの言葉を云い表わし合うのに時がある。私たちは互いに祝い合おうではないか。群れとしての私たちとともに神の御霊がおられ、決して小さくない程度で私たちとともにおられることを。おゝ、私たちが年々得てきたほどの増加を得るためとあらば、他の諸教会は何を与えるだろうか? 神は年々私たちに、毎年ほぼ四百人の割合で会員を与えてくださり、私たちの人数は、私たちの最も楽天的な希望をも大きく越えて膨れ上がるまでとなった。おゝ、いかに神が信徒たちをふやし、私たちの喜びを増し加えられたことか! 確かに神の御霊は私たちとともにおられる! 毎月私たちは、みことばが用いられたとの証しを得ている。私は、ここで語られた説教のうち、神が祝福されなかったものは1つもないと思う。謙遜さから逸脱するのではないかと恐れて私たちは、自分たちの感謝の表現を抑制すべきだろうか? 多くの人々が私たちのもとを訪れ、その告白によって、みことばが宣べ伝えられるたびに、それを通して《救い主》を見いだしたことが、あるいは、罪の意識に震えるよう導かれたことが、明確な事実として分かっているというのに、下手な謙遜をすべきだろうか? 確かに、神の御霊は如実に私たちとともにおられる。私たちは御霊の臨在を認めるべきではないだろうか? いま賞賛をこめて、御霊をこうほめたたえなくてはならないではないだろうか? 私たちはふさわしくない者でも、御霊は私たちの屋根の下に来られ、親切にも私たちとともに住んでくださり、ご自分の足台を尊くしておられる[イザ60:13]、と。

 私たちは祝い合おう。私たちの祈りが、それを損なう一切の欠陥、それにこびりついた一切の弱さにもかかわらず、かなえられてきたことを。私たちの祈りは天を貫いている。かの真珠の門の中に入り込み、《いと高き方》の御座の前に進み出ている。イエスの血をその最も有力な武器として用いることによって、私たちの祈りは世界を動かす御腕を動かしつつある。数々の祝福が私たちの息子や娘たちの上に下りつつあり、私たちの親族や知人たちの上に下りつつあるのは、私たちの格闘する、信仰に満ちた祈りへの答えとしてである。互いに祝い合おうではないか。かつての私たちがもし抑鬱していたとしたら、もし荒野のようであったとしたら、私たちは互いに慰めを述べ合うであろう。今の私たちは祝賀し合い、私たちの朗らかな微笑みと感謝に満ちた挨拶を交わし合おうではないか。交わりのしるしとしての右手[ガラ2:9]を再び取り合おうではないか。そして、過去を振り返りつつ、将来のために、神の御名によりこう誓おうではないか。もし神が私たちを強めてくださりさえするなら、何物にも私たちの勇気をくじくことはさせず、何物にも私たちの熱心を抑えさせはしない、と。神がこれまでなさったことは、私たちにより多くを憧れ求めさせるものとなり、群れとしての私たちが成し遂げてきたことは、神の御国を押し進め、神の統治を広めるための、より大胆不敵な試み、より熱心な冒険、より熱烈な労働に至らせる踏み石でしかないであろう。農場主が働き手に祝いの言葉を述べ、働き手が主人に祝いの言葉を述べ、一方が、「主の御名によって祝福あれ」、と云い、他方の者らが、「旦那様にも神様のお恵みがありますように」、と云うように、いま私たちは互いに、これまで受けてきた神のあわれみについて祝いを述べ合おうではないか。

 III. そして、この刈り入れ時の喜びは特に、《感謝の喜び》ではないだろうか?

 私は、教会が増し加わるのを見ていながらも、聖なる感謝に満ちた喜びを感じずにいられるような人を羨ましいとは思わない。私の知っている、一部のちっぽけで心狭い魂たちは、自分自身の利己的な思いの内側に押し込められているあまりに、自分自身の魂を養い、自分自身の感情を大切にすることだけが、彼らにとっては福音宣教の唯一の目当て、目的らしいのである。自分たち以外の魂が失われようが救われようが、彼らはかまいつけない。私たちの中のある者らは、時として、偏狭な思いをした種別の人々の中に投げ込まれる羽目になったことがある。そうした人々は、怠惰な満足をもってこう云う。「救われる人はごく僅かなのだ」。そして、自分たちの交わりの人数が少なければ少ないほど、自分自身の選びについて確信を深めて行く。バプテスマ候補者や、教会への加入希望者が現われると、彼らは全員一斉に眼鏡をかけて、相手が偽善者でないかどうかを徹底的に調べ始める。私は、こうした人々の教会がそれほど特にきよいものかどうか分からないが、彼らの中に入り込むことが特に困難であることは分かる。彼らの中に入り込むことにそれだけの値打ちがあるかどうかは分からないが、その値打ちがあるべきであることは分かる。人が万が一にも彼らの囲いの中に受け入れられる前にどれだけの時間がかかるかを考えると、そうである。一夏と一冬の間じっと待機させられ、あれこれ試された後で初めて受け入れられるのである。そして、あなたが受け入れられるとき、その会員たちは自分の手をこすり合わせて、「よろしい。会員を受け入れるのは深刻なことですよ」、と云うに違いない。そして彼らは、まるで十九人の子持ちの貧しい男の所に、もうひとりの者がやって来て、自分たちのなけなしのパンの塊を食べようとしたときと同じくらい嬉しい気持ちになるであろう。彼らは、加入した新会員の人数分だけ旧会員全体が貧しくなるものと考えているように見受けられる。私としては、――そして、私はこの場の人々全員の意見として云えると思うが、――私たちは新しく回心した人々が教会に迎え入れられるときには大きな喜びに踊る。そして、キリスト者の家族に導き入れられる人が多ければ多いほど喜ばしくなる。私たちは私たちの神をたたえる。――主が私たちを増やしてくださることについて、その御名を絶えずほめたたえる。これは主の働きだからである。イエスはご自分の受難の実をご覧になり、御霊はご自分の働きの結果をご覧になり、神聖な御父はご自分の子どもたちがご自分の食卓へと戻ってくるのをご覧になる。そして、このことを私たちは喜ぶ。しかり。感謝に満ちた喜びに喜び踊る。

 IV. 私は、この教会に加入したばかりの人々のことを、なぜ私たちが喜ぶべきか、その理由について考えようとしてきたが、それをことごとく網羅することはできないであろう。しかしながら、《共感の喜び》を欠かすわけにはいかない。

 多くの場合、あなたは認め入れられた人々を知らないであろう。だが、彼らの種々の境遇に自分を重ね合わせることはできる。親としての喜びは、ある程度の共感を燃え立たせるかもしれない。この場にいるある人々は、自分の愛する息子や娘が教会の前に進み出て、イエスを信じる信仰を証しし、今や公に、長いこと自分たちが所属していた教会の交わりのしるしである右の手によって、受け入れられているのを見ている。こうした父親や母親たちは、自分の目が潤むのを感じている。口にされた祈り、あるいは、云い表わされなかった祈りがどれほどあったことであろう。また、天に立ち上った溜め息、多くの恐れ、母親の心痛、父親の気遣いがどれほどあったことであろう。それを見積もってみるがいい。そして、今その両親の喜びにあずかるがいい。彼らはあなたにこう云っているのである。「私たちとともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう」*[詩34:3]。この場には、自分の夫が救われるのを見ている妻たちもいる。そしてそれによって大きな喜びが引き起こされている。今やそこには幸いな家庭が生まれることであろう。ここには自分の兄弟や姉妹を、脇目もふらずに、うまずたゆまない祈りとともに見守ってきた人々がいる。そして、とうとう彼らは、自分の兄妹が以前はほしいままにしていた強情さを和らげて、かつては蔑んでいた《救い主》を告白するのを見ているのである。

 しかし、おゝ、お許しを願って私は、私に共感し、私と喜びをともにしてくれるよう懇願したいと思う。というのも、それこそ、まさに今あふれ流れている喜びであり、親族や友人を招いてともに喜んでくれるよう告げたい喜びだからである。一個の魂を死から救い出し、また、多くの罪を覆う[ヤコ5:20]ための手段になることができるとは何たるあわれみであろう! この約束は何と尊いことであろう。「多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」[ダニ12:3]。聖書という諸天にあるこの星座を眺めるとき、私の心は感恩に高鳴る。しかし私は、私の喜びにだけあずかってほしいとは思わない。この教会の熱心な教師や他の働き人たちの喜びにもあずかってほしいと私は求めるものである。その名をあげる必要があるだろうか? 私が彼らの名前を発表しなくとも、あなたはその人々を知っているであろう。罪人たちの魂を愛する男性たち、婦人たち、そして彼らをイエス導くことにおいて私たちのただ中で祝福されてきた人たちは、あなたの共感のこもった挨拶を受ける資格がある。彼らとともに喜ぶがいい。彼らは自分の黄金の麦束を刈り取った。そして、彼らは刈り入れ時の喜びに喜び踊っている。どうか彼らと喜びをともにし、彼らの喜びを増し加えてほしい。日曜学校の教師たち。神があなたを祝福し、私たちの日曜学校から多くの者たちが教会に加えられるように。私たちの教理問答学級を導いている人たち。神があなたを祝福してくださり、あなたのただ中からも私たちに加えられる者があるように。路傍説教をしている青年たち。自分の小さな部屋で労苦し、勧めの言葉を語ることによって神に仕えている市中宣教師たち。あなたがたはみな誉れを与えられてきた。今月は、あらゆる奉仕の分野から、いくらかは実りがあった。それゆえ、神がこのように誉れを与えてくださった働き手に共感し、魂の救いにおける彼らの成功ゆえに神に感謝することに加わろうではないか。

 そして私は、私にまさり、あなたにまさって、魂を愛し、私たちの中の誰よりも喜び踊っているひとりの《お方》がおられるがゆえに、あなたが喜ぶように願って良いではないだろうか? それは、ご自分の御手と御足と御脇の傷によって、彼らを導かれた《人》である。その方は、荒野からご自分のもとにやって来た者たち、ご自分だけを仰ぎ見て救われようとしている者たちを見下ろしておられる。彼らの目は、かつては泣き腫らして赤くなっていたが、今は神聖な喜びで輝いている。このお方の目は、憐憫に満ちていたが、今は満足で輝き、偽りらざる歓喜がこの《救い主》の眉宇に宿っている。私たちは、この霞んだ定命の目では見ることができないが、私は、内なる意識によって、主がこの場におられることを知っている。この方を信頼したあらゆる魂は、この方の宝石にはめ込まれたもう1つの宝石、この方の悲嘆の苦痛に報いる、もう1つの歓喜の迸りなのである。ならば、さあ、このお方とともに喜ぼうではないだろうか? イェスよ。私たちの悲しみに伴い、私たちの救いの創始者よ。あなたがお喜びになるとき、私たちはこの上もなく清涼な思いにさせられます。

 また、これがすべてではない。というのも、彼方の天空には、私たちの《主人》に仕えている者たち、かつては地上で主に仕え、今はその御座の前でその賛美を喜んで歌っている者たちがいるからである。おゝ、彼らの歌を聞けたとしたら、あなたは彼らがまさに今、彼らの流儀以上に大きく甘やかなであることに気づくであろう。「ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!」、は神と《小羊》の御座に絶えず立ち上ってはいるが、今やそれはより深く、その声量はより力強い、その調べはより甘やかになっている。彼らは神の《教会》に魂が収穫されたことについて歌っているからである。キリストご自身がこう云われた。「あなたがたに言いますが、……ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」[ルカ15:10]。では、数十人、また、数百人の悔い改めた罪人たちが《救い主》を見いだすときには、いかにいやまさる喜びがそこにはあることであろう!

 いま救われていると告白している者たちの運命がいかなるものとなっていたか考えてみるがいい。あなたにそれを告げるには、霊感された預言者が必要であろう。彼らの中のある者らは、今なお――かつてそうであったように――酔いどれたちとともに、居酒屋の腰掛けの上にいたかもしれない。左様。そして、洗われ、きよめられた者たちの何人かがいた所に――遊女と、その真夜中に犯す罪とともにいたかもしれない。この教会には、公然たる罪には一度も陥ったことのない若者たちが加えられることもある。だが、もし彼らが恵みによって召されなかったとしたら、彼らの前にいかなる悪徳の経歴があったか私たちにはほとんど分からない。誘惑が罪に至らせていたかもしれない。罪が習慣へと凝り固まっていたかもしれない。習慣が力をつけて、ついに彼らが害毒の頭株になったかもしれない。だが彼らは洗われている。きよめられている。そして、おゝ、サタンよ。いかなる刈り入れをお前は失ったことか! いかなる兵士たちがお前の隊伍から取り去られたことか! いかに多くの害悪を彼らは――今では几帳面に避けているが――行なっていたはずであろう。というのも、恵みは彼らを別の路に向け、彼らの口を別の歌で満たしたからである。

 また、彼らがいま天来の恵みを通していかなる者になることになっているか、考えてみるがいい。私は、個々の場合をあなたに描き出すことはできない。私の知っている、この場にいるある人々のことを私たちは、他の人々の教師になるだろうという希望とともに見ている。特に、聖い母親がその子どもたちを神への恐れをいだきつつ育てており、聖い父親たちは自分の幼い子らの回心を求めている。彼らの子孫は、主が祝福してくださった世代のように、後年、何人かの者たちが教会の誉れある、また、尊敬すべき柱となるであろう。彼らはその《主人》にこの世で仕えるであろう。主の真実さを死において証しするであろう。そして、主の賛美を永遠に歌うであろう。

 それでも、こうした刈り入れ時には、そのあらゆる喜びとともに、1つの悔しい思いがある。私はそのことについて多くを語るまい。あなたの喜びに水を差すといけないからである。それはこのことである。教会に加えられた者たちの中には常に、実は救われていない者らがいる。私たちは注意深く判断し、熱心に見張っていよう。ある人々はユダのように、その右の手に偽りを携えてやって来る。告白によってキリストを身に着てはいるが、霊とまことによってキリストに従ってはいない。自分自身を探るがいい。兄弟姉妹。そして、もしあなたがたがキリストのものでないとしたら、そのようにあえて呼ばれることによって、主の御名に不名誉を帰さないようにするがいい。

 また、もう1つの嘆かわしい考えがある。かくも多くの人々が収穫された一方でも、大勢の人々が置き去りにされている。あなたがたの中のある人々は、私たちの最上の日々に私たちともにいたし、残念ながら私は、自分があの聖句を以前していたように、もう一度あなたの耳の中に響かせなくてはならないのではないかと思う。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、あなたがたは救われない。あなたがたは救われない」*[エレ8:20]。あなたの姉妹は救われているが、あなたは救われていない。あなたの妻は救われているが、あなたはそうでない。あなたがたの中の二人が同じ寝台で寝ていても、ひとりは取られているが、他のひとりは残されている。あなたがたの中の二人が日々の働きにおいて一緒に同じ臼を挽いているが、ひとりは取られているが、他のひとりは残されている[ルカ17:34-35]。あなたは救われていない。救われていない。そして、あなたが死ぬことになったとき、あなたの耳の中では悲しい言葉が鳴り響くであろう。死の鐘のいかなる陰鬱さよりも暗い響きの言葉が。「救われていない! 救われていない!」 刈り入れ時の喜びの中で、私たちは忘れないようにしよう。いまだ罪の通り道をさまよっているか、この世の空しさの中をさまよっている者たちのために祈ることを。

 別の刈り入れがやって来つつある。キリストがご自分の民をお集めになるときのことである。まず第一に、義人が収穫されることになる。最後の審判の日について思い違いをしてはならない。義人と悪人が一緒に審かれることになるかのように考えてはならない。というのも、思い出すがいい。まず最初に義人が集められる日がやって来るからである。もしあなたが黙示録14章を読むなら、そこには刈り取りが葡萄の収穫に先立っていることが分かる。義人は地の収穫として集められ、その後で、この世の葡萄の収穫――すなわち、悪人――が集められるのである。刈り入れは神の倉に納められ、葡萄の収穫は「神の激しい怒りの大きな酒ぶね」[黙14:19]に投げ入れられる。そして、そこでその葡萄は足で踏みしだかれ、その血が流れ出て、馬のくつわに届くほどになる。よろしい。やがて義人の刈り入れ時がやって来る。そして、祝福された者たちの隊伍を膨れ上がらせる無数の人々をあなたが見るとき、そこにはいかなる喜びがあることか! おゝ、あなたがた、御使いたち。あなたがたは、誰にも数えることのできないほどの麦束が収穫されるとき、万の幾万倍を二倍するほどでなくてはならないであろう。あなたがたは贖われた者たちのおびただしい数を歓迎するであろう! 百万の上に百万もの者たちが上つ天に上るときには、いかなる叫び語があることであろう! 全イスラエルが葦の海を通り抜けたとき、それは大いなる喜びの時であった。だが、万の幾万倍、無数の無数倍もの者らがその永遠の安息に入るときには、いかにいやまさって大きな喜びがあることであろう。

 救われた人々の中には喜びがあるであろう。それぞれの者は個々の歌を有するであろう。あるいは、1つの歌の中で異なる音色を有するであろう。マグダラのマリヤや、死につつあったあの強盗についていかなる喜びがあるであろう! マナセやタルソのサウロについていかなる喜びがあるであろう! それぞれ異なる場合が明確に、輝かしく際立つことであろう。それが他のものにまさっているかのように、むしろ、個々の者が自分の場合こそ天来の愛と真実のえり抜きの展示であると主張であろう。すべて合わせて、主の宝石たちが主の宝石箱に入れられるときの喜びはいかなるものであろう!

 彼らがどこから集められるか考えてみるがいい。――貧困から、病から、ちりの寝床から、物云わぬ土くれから、彼らは集められるであろう。中傷と叱責から、迫害から、苦しみから、獅子の顎から、鞭打ちから、彼らは集められるであろう。その万の幾万倍もの者たちが、罪と苦しみの中から集められては、二度と罪を犯すことも苦しむこともなくなるであろう。

 彼らはどこへ集められるだろうか? その《救い主》のもとへである。天に登録されている長子たちの教会[ヘブ12:23]へである。彼らが全員集められ、ひとりもいなくなる者はないことを覚えておくがいい。そして、誰もが完璧な状態で集められる。天国のために熟し切っていない者はひとりもなく、青いままの穂は全くなく、自分の天的な相続財産のためにふさわしくない神の子どもはひとりもおらず、全員が、聖霊のきよめ給う影響力を通して用意と備えができている。おゝ、私の目がその栄光に富む日を見ることができればどんなに良いことか! かの真珠の門は大きく開かれており、まず《救い主》が永遠の丘の上にお上りになる。ハルマゲドン[黙16:16]の戦場からそのまま先頭を切ってお上りになる。そこでは、これを最後に、ご自分のあらゆる敵どもと戦い、勝利をおさめられたのである。そして、そこにやって来るのが殉教者たちの高貴な大群である。彼らは棕櫚の枝を振っている。また、預言者たちの敬虔な仲間、教役者やみことばの説教者たち、大きな患難をくぐり抜けて来た者たちで、その衣を《小羊》の血で洗って、白くした者たちである[黙7:14]。聞けよ、いかに地獄が歯ぎしりすることか! いかに地獄の池がねたみを燃やして波立つ一方で、悪鬼どもが自分たちの燃えさしが火から奪い取られ、天国へと上っていくのを眺めていることか! かの無数の霊たちの調和する立琴の音に耳を傾けるがいい。天国の狭間胸壁から彼らは、驚嘆とともに眺めやり、新しいエルサレムの住民たちを凝視している。その住民たちは、エルサレムに住むべく、またかつて以上にそこを栄光に富むものとすべく行進してくる 聞けよ。いかに彼らがこの歌を始めることか。「その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王」[詩24:10]。また、聞けよ。いかにおびただしい数の贖われた者たちがその合唱に加わることか。「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように」[黙1:5-6]。そして、何度となく彼らは歌う。「ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ! 神である主は王となられた」*[黙19:6]。願わくはあなたや私が刈り入れ時の喜びにあずかる者となり、向こう側にいることにならないように。そこにいて泣いている者、呻いている者、歯ぎしりしている者の間にいないように。それは彼らが《小羊》に信頼しようとせず、いのちを得るためにこの方のもとに来ようとせず、自分自身の惑わしの主を選び、自分自身の腐敗に従おうとするからである。彼らの末路は、彼らの悪しき行ないの当然の報いに出会うこととなる! 神があなたを、あなたがたを、ひとり残らず祝福してくださるように。そして、あなたを現在の喜びと、聖徒の永遠の至福にあずからせてくださるように。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

刈り入れ時の喜び[了]

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