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キリストに従う

NO. 3057

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1907年9月12日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年5月11日、主日夜


「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」。――ヨハ21:22


 ほんの一、二瞬前に、私たちの主はペテロに向かって、「わたしに従いなさい」、と云ったばかりであったが、その命令を繰り返す必要があるとお思いになった。ここから明らかに分かる通り、たとい主イエスがこの場にいて、平明きわまりない言葉を語ってくださったとしても、そのことばは、私たちの心に大した印象を残さないことがありえる。時として私たちは、そうではないと考えることがある。だが、たといイエス・キリストご自身が私たちにお語りになろうと、そのことばに込められた力を余すところなく感じるためには、神の御霊によってそれらが私たちの心に適用される必要がある。このように思いを巡らせば、イエスがいま肉体的な臨在をもって地上におられないことをむやみに残念がったり、「私もキリストの時代に地上に生きていれば良かったのに」、などと云うべきでないと教えられるべきである。事実を云えば、いま生きている中で最もつまらないキリスト者によって語られた言葉であろうと、聖霊の祝福を受ければ、《主人》ご自身が地上でお語りになり、その真理が主の御口から直接あなたの耳に落ちたかのように、あなたの魂にとって有益なものとなりえるのである。

 ペテロの思いを、《救い主》に従えとの命令から脇へそらしたのは、非常に単純な出来事であったと思われる。記されているところ、彼は「振り向いて」、ヨハネが後について来るのを見た。そして、自分の相弟子の姿によって好奇心をかき立てられた彼は、ヨハネの将来は果たしてどうなるのだろうかと《主人》に問いを発した。「主よ。この人はどうですか」[ヨハ21:21]。これに対して《主人》がお答えになった言葉が本日の聖句である。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」。ここから教えられるのは、いかに聖い人の存在も、時として私たちが《主人》に従う妨げとなることがありえる、ということである。確かに、一千もの真剣な印象が、説教後の下らない世間話によって失われてきたことは間違いない。安息日の礼拝式が私たちにもたらす種々の益を失わせるのは、礼拝所から帰宅する途中で、ありとあらゆることについて語り合いながら、私たちの心を専念させるべき唯一の主題についてだけは話をしないという、よく見受けられる習慣である。この世で最上の人々の中のある人々でさえ、心ならずも私たちの思いを、《救い主》のみこころにかなった考え方の線からはずしてしまうことがありえる。だから、絶えずこう祈ろうではないか。「おゝ、主よ。みもとからさまよい出ないように、私たちの目を守り、私たちの耳を守り、私たちの心を守ってください。さもないと、私たちはすぐにあなたご自分の声音さえも忘れ、私たちの受けたであろう印象を忘れてしまうからです!」 私たちは、もっと多くの真理を与え給えと主に祈るよりも、すでに受けた真理をより深く印象づけ給えと強く願うべき理由があると思う。というのも、私たちがすでに知っていることは、それをより良く知りさえすれば、私たちにとって十分だからである。そして、もしすでに聞いた事がらを心に銘記するならば、私たちは、それ以上聞かなくともほとんど満足するだろうからである。日曜に1つの説教が、金剛石の切っ先のように本当に魂に切り込むなら、耳にしてもたちまち忘れられる2つの説教よりもずっと本物の、永続的な価値があるであろう。なぜなら、私たちは、帰宅する途中でたまたま知り合いに出会うことや、他の何か単純な手段によって、思いをそらされてしまうからである。

 愛する方々。今回は、私たちの思いをそのようにそらされないようにし、むしろ、肝心な点に達して、そこにとどまり続けようではないか。その点とはこのことである。――すなわち、私たちの人生の本務はイエスに従うことである。――第二に、それを果たすためには、むなしい思弁を避けるべきである。――実際、完全にはむなしくない問題でさえ、放っておいた方が良い。自分の人生の本務から離れずにいるためである。そうすべき理由は非常に明らかである。そうした理由をもって私たちは、本日の講話をしめくくりたいと思う。

 I. まず第一に、《私たちの人生の本務は、主に従うことである》

 私は、あなたがたひとりひとりに対して真実こう云うことができる。あなたがこの世で行なわなくてはならない肝心なことは、まずはキリストに従い、キリストをあなたの《救い主》として見いだすことである、と。あるいは、言葉を換えると、あなたがまず最初に行なうべきことは、主の方を向き、主を信頼しすることである。むなしい人生を送りたくなければ、私たちは神に対して生きた者とならなくてはならず、唯一無二の《救い主》イエス・キリストを信じる信仰によって生きていなくてはならない。「むなしい人生」と私は云っただろうか? 話をお聞きの愛する方々。あなたにとっても私にとっても、イエス・キリストを信ずる信仰を持たずに生きて死ぬくらいなら、決して生まれなかった方がましであったろう。あなたは、自分の商売をないがしろにしてもかまわない。何をないがしろにしてもかまわない。だが、自分の魂はないがしろにしてはならない。第一に、第一に、《泰一に》――他のあらゆることを越え、それに先んじて――なくてはならないのは、あなた自身の個人的な救いという問題である。まもなく沈没しようとしている船の上では、人は自分の旅行用鞄も、自分の持っている多くの貴重な品々も忘れて良い。その人が心配するのは自分のいのちである。サタンでさえ、一度限りは真実を告げて、こう云った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです」[ヨブ2:4]。最も高い意味で、あなたもそのようにするがいい。自分の魂をあなたの第一になすべきこととするがいい。たとい全世界を得ても、あなた自身の魂を損じたら、何の得があるだろうか?[マコ8:36 <英欽定訳>] だから、あなたが最初になすべきことは、いのちを得るため、救われるためにキリストに従い、信仰によってキリストに向かい、この使徒の命令に従うことである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。

 ぐずぐず引き延ばすことによって、しばしば福音の厳粛さは、さほど深刻なものではないように思われてしまう。「時間はたっぷりあるさ」、と私たちは云う。「まだ私たちは十分に若いのだ。こうした事がらについて考える年月はたっぷりあるとも」、と。だが、枯れて黄色くなった葉っぱが落ち始める所には、永遠への思いを捨てさせる別の事がらがある。まだ嫁がせなくてはならない娘がいる。だから、もう何百ポンドかそこらを、娘のために蓄えなくてはならない。ならば、田舎にある別荘に引退したら、「神と和解すること」について考えよう。――あたかも、あなたが「神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]ことなど、どうでも良いことであるかのように、――また、神の敵として、罪の中で五、六十年も救われずにいることが大して重要でない問題ででもあるかのように、――また、罪というらい病があなたの不滅の霊を今なおむしばみつつあることは取るに足らないことででもあるかのようにである! 何と、たとい地獄が全くないとしても、正気をした人にとって、罪はあまりにも邪悪なものであるため、その人は罪から逃れたいと切望し、いま地獄の苦痛を恐れるのと同じくらい罪を恐れるはずである。おゝ、この場にいる全員が、私がいま語っている事がらについてキリストが持っておられた厳粛な感覚の半分でも持っているとしたらどんなに良いことか! それによって私たちは、膝まずかされるであろう。また、この場所を救われないまま、あえて出て行こうとはしないであろう。そして、この建物の至る所から、あのペンテコステの日のエルサレムに生じた叫びが聞こえるであろう。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか?」[使2:37]

 本日の聖句にもっと即せば、私はこう云わなくてはならない。救われた後でも、私たちの人生の本務はなおもキリストに従うことである、と。罪赦されて、魂の永遠の安全が確かにされたとき、次になすべきは、魂のきよさを求め、永遠を通じて有する価値のある人格を確保することである。有する価値のある人格のうち、キリストのご人格に従って作り出されていないものは1つもない。キリストは絶対の完璧さであられる。そこには何も余分なものがなく、あるべきものは何も省かれていない。完璧になるには、イエスのようにならなくてはならない。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」[ヘブ12:2]、この罪に打ち勝ち、あの情動を克服しなくてはならない。そして、神の御霊の力によって、この優しい恵みを、また、他のより大胆な美徳を涵養しなくてはならない。私たちが目指すべき1つのことは、キリストの足跡を踏んで行き、キリストがなさったことを行なうことである。そして、キリストを模倣できる限りにおいて、キリストがなさったようにそれを行ない、キリストが人の子らの間におられたようなあり方をすることである。もし私がキリスト者であるとしたら、私はカルヴァンにも、アルミニウスにも、他のいかなる地上の指導者にも従うべきではない。私たちは自分の教理的な意見を、また、自分の思想、言葉、人格、行為を、キリストという模範に従って形成すべきである。

 同じ法則は、私たちの生涯の奉仕全体に当てはまる。もし私たちが、自分の創造された目的であることを行ないたければ、――もし、神に植えられた木々として、神によって意図された実を結びたければ、イエス・キリストに従わなくてはならない。私たちは、キリストの下にあって、失われた者たちを捜すという大きな使命のために、この世に遣わされている。

   「下界(よ)にあるわれの 務めのすべては、
    かく叫ぶべし、『見よ、小羊を!』と」。――

ある者たちは講壇から、だが、あらゆるキリスト者がいずれかの場所でそう叫ぶべきである。個々の信仰者にキリストがお与えになっている立場は、他の誰もそれほどぴったりとは占めることのできないものであって、その立場からその人は、自分を通して神が祝福してくださるだろう、いずれかの人に影響力を及ぼすことができるのである。私は、どのようなキリスト者も、単に商店を営むために創造されたとは信じない。その人が創造されたのは、自分の商売において神に仕えるためである。あらゆる人の罪にもかかわらず、人は神の高貴な作品であるため、単に絹織物の尺寸を計ったり、砂糖の重さを量ったり、交差点を掃き清めたり、王冠や王服や金剛石を身につけるためだけの存在ではない。人には、行なうべきそれよりも壮大なことがある。小鳥たちは神への賛美を歌うために造られている。そして、たくさんの雀よりもすぐれた者[マタ10:31]である私も、神への賛美を歌うべきであるに違いない。これが特に云えるのは、キリストの尊い血によって贖われたと、また、聖霊によって新生させられたと告白する私たちの場合である。私たちの人生には、《無限者》に目を向けている部分がある。私たちの人生には、神に向かって開かれている窓がある。そこから外を見るがいい。おゝ、キリスト者よ! あなたの窓を神に向かって開き、その御顔の光の中で生き、あらゆることにおいて神を喜ばせ、神に誉れを帰そうと求めるがいい。あなたの生涯の働きは、神に誉れを帰し、主イエス・キリストの栄光を現わし、神がその全能の力を例証する器となり、その御恵みの輝きを明らかに示すべき黒い金属箔となることである。あなたは、この世でキリストの御名の香りを振りまく手段となるべきである。だが、そうしたければ、キリストに従わなくてはならない。

 そして、よく聞くがいい。私たちひとりひとりには、キリストに従うことのできる特別な職務がある。私は、あなたがた全員が説教しようと努めてもキリストに従っていることになるとは信じない。キリストでさえ、その御父が行なわせようとされなかったことを行なおうとは決してなさらなかった。ひとりの人があるとき主に、弁護士か裁判官の役を務めてもらおうとした。だが、主はお答えになった。「だれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」[ルカ12:14]。キリストの生涯の美しさの1つは、主がご自分の召命から離れず、ご自分の任務を越えなかったことであった。そして、あなたも同じようにするのが賢明であろう。もしあなたが従僕であるなら、家中のすべての人に慰安を与えようと仕えることによって、キリストに従うことができる。もしあなたが母親であるなら、自分の子どもたちをキリストのために育て上げることによって、キリストに従うことができる。それぞれの人には、その人自身の特別な召命があり、あらゆるキリスト者の召命は特別に神のためのものたるべきである。ひとりの人は外国宣教の場に召されている。その人は、神の御名によって国境の彼方へ行くがいい。国内にとどまっていてはならない。別の人は、戸別訪問を行ない、病者を尋ね、貧者の世話をするなどの働きに召されている。――聖書配布婦人たち、市中宣教師たち。私はキリストの御名によってあなたに挨拶し、こう命じるものである。あなた自身の働きにとどまり、決してそこから逃げ出さないようにと。ひとりの人は、幼稚科を教えるよう召されており、別の人は少年少女たちの面倒を見るよう召されている。そして、すべての人が、神によって召されている働きに適しており、それぞれの人に《主人》はこう云っておられる。「わたしに従いなさい。そして、わたしの父があなたに行なうよう与えておられる働きから離れずにいなさい。わたしが自分勝手な働きを選んで自分を喜ばせようとはせず、父がわたしを任命された働きを行なったのと同じようにしなさい」。

 II. さて第二に、《キリストに従うためには、他の非常に多くの事がらを放っておくことが賢明である》

 ペテロはヨハネについて知りたがった。「主よ。この人はどうですか?」 しかし、イエスは云われた。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」。キリストのこのお答えから学ぶのは、私たちは、神が他の人々をどうなさるおつもりかについて好奇心をいだくべきではない、ということである。私は、私たちの中のある者らの脳裡をよぎったことのある思いをあなたに告げることにしよう。ひとりの人はこう云ったことがある。「私は、イエスを信ずる貧しくつまらぬ者です。貧乏や欠乏と戦わなくてはなりません。ですが、神は恵み深くも私を助けてくださり、神があわれみによって救い給うた多くの実例について告げることができます」。よろしい。愛する方よ。神はこの証しによって大いに栄光を帰されている。だが、あなたが、ほしい物で手に入らないものはないという、あの金持ちの人々について、「神はあの人たちには何を行なわれるのだろう?」、と尋ね始めるとき、私はこう答えることしかできない。「それがあなたに何の関わりがあるのか。あなたはキリストに従うがいい。他の人々について好奇心をいだいてはならない」。それと等しく間違っているのは、金持ちの人がこう云うことである。「そこに、回心した貧しい人々がいる。だが、彼らは、神の御国の進展のために大した献金ができないし、教育されなければ他の人々に教えることもできない。主は彼らをどうなさるのだろうか?」 それは、あなたとは何の関わりもないことである。私の兄弟よ。あなたは、自分が主に従い、自分の務めのことだけ考えているがいい。別のある人は云うであろう。「そこに、これこれという人がいる。実際、私は彼に何の取り柄があるか分からない。彼は先日、説教しようと試みた。だが、彼がそれをやめたことはありがたい。非常にお粗末な話だったのだから」。告白しなくてはならないが、私も時々ひとりの友人の話を聞くとき、そのように感じることがあった。だが、私は自分に向かって云った。「それが私と何の関わりがあるのか? 神はご自分のしもべたちを私たちよりもよく知っており、彼らをどの役目に就かせるべきか、また、彼らをいかに用いれば最も有益かをご存知なのだ」。もしかすると、ある人は、見事な雄弁家についてこう云うであろう。「あれほど懸河の弁を振るえる人は思い上がりすぎて、神からの祝福を受けられないな」。しかし、キリストは云われる。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」。神は、ご自分の宮にありとあらゆる石をお用いになる。そして、その中の一部は、あまりにも妙ちきりんな形をしているため、私は、それをはめこむことが自分の受け持ちでないことを喜んでいる。私にはそれができないからである。感謝すべきことに、神が私をこの世に遣わされたのは、決して人々を完璧にするためではない。むしろ、私の見いだした人々をそのまま用いるためである。そして、私の信ずるところ、神もまた、ご自分の見いだした通りの彼らを用いて、少しずつ彼らを整え、より高い用途のために、また、上にあるご自分の宮の中で占めさせようと意図しておられる所にふさわしいものとなさるのである。だから、こう云ってはならない。「一体この人はどうするのだろうか? あの人はどうするのだろうか? そして、私の回りの他の人々はどうするのだろうか?」、と。むしろ、あなた自身がキリストのために行なえることを行なうがいい。そして、他の人々については、《主人》に彼らをまかせるがいい。

 さらに、この規則は、他の人々の人格にも当てはまる。一部の人々が心を悩ますのは、ある特定の人が金持ち自慢すぎるからである! そうした人々にとって一種の慰藉となるように思われるのは、自分たちがいかにその人よりも善良であるか考えることである。他の人は非常に軽薄である。それで彼らはしばしばその人格をあげつらう。明らかに、自分たちの方がいかに節度の点でまさっているかを示すためである。そうした特徴をしたあらゆる人々に対して、キリストはこう仰せになっているように思われる。「『それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい』。そうすれば、あなたの隣人の不完全さは、それほどあなたの心にかからなくなるでしょう」。私は、ひとりの教役者についてこう聞いたことがある。彼は、真理を自分の信徒たちの心と良心に深く突き入れようと願って、こう云ったという。自分は、ある《改正法》が可決されてほしいと思います、――誰もがひとりの人を改正することにするのです、そうすれば、全員が改正されることになります、と。彼の意図は、信徒たちがみな自分自身を改正するべきだということであった。だが、ひとりの人が云った。「この教役者は全く正しい。誰もがひとりの人を改正すべきだ。なら、俺は家に帰って、うちのメアリーのやつを改正することにしよう」。それが、しばしば私たちの考えることである。――私たちは、他の誰かを改正しなくてはならない。だが、もし私たちが、自分自身の庭の草むしりをし、自分自身の植物に水をやり、自分自身の務めを果たすことこそ、神が私たちに求めておられることだと自分に感じさせることができるとしたら、いかにいやましてキリストの《教会》全体にとって良いことであろう。

 同じ規則は、キリスト教の諸教会の一般的な状態に関する様々な評言についても大きく当てはまると思う。兄弟たちの中のある人々は私にこう請け合う。いま現在は、世界が始まって以来、最もすさまじい時代です、祝いを申し述べるべき何の根拠も見いだせません、自分には何もかもがこの上もなく悲観的な様相を呈して見えます、と。それはそうかもしれない。だが、私は、悲しみや遺憾の念を感ずべき理由と同じくらい多くの感謝すべき理由が見られると思う。私たちは常に、今は危機的状況だと告げられる。だが、私は、二十年前に最初にロンドンに来たとき、今は危機的状況だと告げられたことを思い起こす。そして、それ以来、数週間ごとに危機的状況が生じてきたように思われる。ある人々は、一、二箇月先に自分たちが催そうとしている一集会に、全宇宙の将来がかかっていと想像しているかのように見える。だが、これまでのところ神は、彼らの助けなど全くなくとも、宇宙の営為をつかさどってこられたし、今なお普遍的な《王》また《主》として支配しておられる。教皇や、悪魔や、『随筆と評論』誌がいかに努力しようが関係ない。私の達した結論はこうである。私の《主人》のしもべたちを即座に正しくしようと試みる代わりに、私の最優先に重要な働きは、私の主に従うことである。そして、私の兄弟よ。あなたも同じ結論に達することが賢明であろうと思う。

 かりに、ある人がその主人から畑を耕す役目を与えられたとしよう。彼の本務は、立ち上がって、その畑に行き、それをことごとく耕し尽くすことである。しかし、かりに、そうする代わりに、彼が居心地の良い垣根の片隅に座り込み、自分の同輩の農夫を相手に、主人の採用している耕作のやり方は全部間違っているとか、この畑に蒔かれることになるのは間違った種類の種だとか、主人は最上の肥料について理解していないとか、もし自分が農場管理人に任命されたら、この畑全体は今よりもずっと収益が上がるだろうとか喋っているとしよう。もし彼がこのような話をしているところに主人がやって来て、「ジョン。お前は何をしているのだ?」、と尋ね、彼がこう答えたとしよう。「あっしは、あなたがお採りになっとるもんよりも、ずっとましな耕作計画のことをウィリアム相手に説明しとりました」。彼の主人はおそらくこう云うであろう。「辞めさせられたくなかったら、そうした愚にもつかんことを考えるのを止めるがいい。今すぐ行って自分の仕事をするのだ。そして、畑の管理はわしにまかせておくことだ」。そして、私は同じことを多くのキリスト者たちに云いたい。――自分の仕事をするがいい。あなた自身の正式な仕事に取りかかるがいい。その《日曜学校》の学級を教えるがいい。いつでもできるときには罪人たち相手にキリストのことを語るがいい。そして、彼らをキリストにかちとろうと努めるがいい。そして、ああしたもっと大きなこと、深いことはあなたの《主人》にまかせておくがいい。心を尽くして主に従い、力を尽くして主に仕え続けるがいい。主には、改革のための大きな働きを行なうために召される、特別なしもべたちがいる。厳粛な問題に関する真理を宣告すべき伝声管としてお用いになるべき者たちがいる。そうした事がらについて、私たちの中のほとんどの者は大した関わりがないのである。

 同じ規則は、多くの神学的な疑問点にも当てはまる。例えば、悪の起源に関する難解な問題である。だが、私が心悩ませているのは、いかにして悪がこの世に入り込んだかということよりも、それをこの世から取り除く助けをすることである。実際的な良識は、こう云っているように思われる。「もし家の中に盗人がいるとしたら、そいつを捕まえるか、外に叩き出すことだ。その後で、いかにしてそいつが入って来たかを突きとめることにしよう」。私たちの主イエス・キリストがこの世に来られたのは、いかにして罪が地上にもたらされたかを私たちに告げるためではない。罪を世界から追い払うことのできる唯一の道を私たちに示すためである。そして、それは、主ご自身の脇腹に開かれた扉を通る道である。主の死によってこそ、罪は地上から放逐できるのである。

 それから、神の主権と人間の責任との関係に関する、あの途方もない大問題がある。ある礼拝所に行くと、神の主権以外のことはほとんど何も聞かされないであろう。別の所に行くと、そこでは人間の責任以外のことはほとんど何も聞かされないであろう。あるいは、あなたは私がその両方の真理について説教しながら、それらの「折り合いをつける」試みを全く行なわないのを聞いてきたかもしれない。それらは決して互いに敵対してはいないと私は信じるからである。それゆえ、それらに折り合いをつけさせる必要は全くない。多くの善良な人々にとって、この2つを戦わせることは大きな誘惑となってきた。だが、それらを用いてキリストの贖罪の犠牲を宣べ伝える方がずっとまさっている。私の信ずるところ、世の基の置かれる前に神は、ご自分が永遠に救うことになる者たち全員をキリストにあって選ばれた。そして、それと等しく私が信ずるところ、主イエス・キリストを信じる者は誰でも永遠に救われる。救いはことごとく恵みによるものであり、罪に定められることはことごとく人の罪による。神は救われたあらゆる魂の栄光をお受けになり、失われたあらゆる魂は自らの破滅について責任を負うであろう。

 本日の聖句は、様々な預言の学びにも当てはまると思う。こうした問題によって、多くの人々が道に迷っているように見受けられる。私は、さほど彼らの模範に従おうという気分にはならない。預言を研究する人々がいかに互いに非難し合い、相手の理論に難癖をつけ合っているかを見るとそうである。むろん預言に関わる真理の一部は、絶えず宣べ伝えられるべきである。例えば、主が確かに戻って来られるということ、最後の審判があるということ、そのとき義人が天国の全き栄光に受け、悪人が地獄の苦痛を知ることになるといった真理である。しかし、まだ成就していない各種の預言で予告された様々な出来事の日付については、そうしたことで私の頭脳を悩ませるよりも、ずっとましなことがあると思う。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、私たちには今や正しい理論があるのですよ」。他の人々も二十年前にそう考えたが、それは正しいことが証明されなかった。百年前にいだかれていた理論も、二百年前にいだかれていた理論も、それより前にいだかれていた理論もそうであった。だが人々は、自分たちの思弁によって、骨牌札の家を建てては、《時》が来て、その指ですべてを押し倒してしまう。私はあなたに勧める。学ぶならマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネを学び、福音書と書簡があなたに告げている、十字架につけられた《救い主》を宣べ伝えるがいい。そして、黙示録に達したときには、それをその適正な場所に置いておき、その奥義の意味を教えてくださるよう聖霊に願うがいい。願わくは神がこの世代を、それに先立つ世代の一部の愚かしさから救ってくださるように。そして、願わくは私たちが何にもまして関心をいだくことが、新しく生まれることや、イエスを信じる信仰や、その福音を宣べ伝えることや、いのちの日の限り主に従うことであるように!

 III. さて最後に、《私たちが、自分の人生の務めをキリストに従うことに限定すべき理由は数多くある》。その理由とは以下の通りである。

 最初に、私たちの力には限りがある。私の力に限りがあることを私は知っている。そして、私の持てるすべての力を用いて福音を宣べ伝えることにおいてキリストに従い、他の人々をもキリストに従わせようとしたいと思う。

 次に、私たちの時間には限りがある。私たちは全員が非常に短い間しか生きていない。どれほど長生きしても、それは短い生涯にしかならないであろう。話に聞いたことのあるひとりの教役者は、こう云うのを常としていたという。自分は、臨終の時を迎えるときには感謝することでしょう、自分が、神の恵みによって、罪人たちを《救い主》のもとに招くために自分の時の大部分を用いてこれたことを、と。そして、私もそのようなしかたで生きたいと思う。――また、キリストにある愛する兄弟姉妹。あなたがたにもそのように生きてほしいと思う。死を迎えたときには、こう云えるような生き方である。「さあ、一生の終わりが来た今、この人生は私が生きたいと願ったような種類の人生であった」、と。かりにある人がバプテスト派のために戦うことに生涯を費やしたとしよう。その人が死んだとき、人々は云うであろう。「よろしい。彼は徹底したバプテスト派でしたね。そして、自分の教派のために勇敢に戦いましたね」。だが、それはその人の棺の上に置くには、貧弱な花輪である。あなたは、自分の墓石に長いラテン語の銘が刻まれ、そこに、あなたが常に何らかの重要な教理に取り組んでいた事実を記されたいだろうか? あるいは、こう記されたいだろうか? 「ここに誰それは眠る。彼はその教えの深い霊性により、数人のキリスト者たちを魅了したが、それが彼の行なったすべてであった」、と。私が渇望するのは、――そして、そうすることは正しいと思うが、――このように語られる誉れを得ることである。「この人の一生は、炎の中から燃えさしを取り出すかのように罪人たちを救出することに費やされた」、と。あなたがたの中のある人々が世を去ったときには、このように云われてほしいと思う。「この女性は、自分の子どもたちをキリストに導くために生きました。あの娘は、自分の出会う人たちに、愛する《救い主》について語るために生きていました。その方が彼女にとってあまりにも大切なお方だったので、他のすべての人々にも同じ祝福を受けてほしいと願っていたからです」、と。おゝ、私たちひとりひとりが神の栄光を現わすために生きるならばどんなに良いことか。キリストの弓から、その刺し貫かれた御手によって放たれた矢のようになり、神の栄光という的の中心を射抜く推進力が自分に与えられているのを感じるとしたら、どんなに良いことか。何物も私たちを脇へそらすことなく、善人と思われようとしたり、偉人と思われようとしたり、学者と思われようとしたり、自分の同胞たちの間で栄誉や尊敬を受けようとしたりせず、ただ、私たちの労苦の上にとどまる聖霊の祝福を通して、罪人たちを回心させることによって神の栄光を現わす者になることができるとしたら、どんなに良いことか!

 ごく乏しい力しかない以上、最善なのはそのすべてを一方向に用いることである。ある人々は物知りすぎて、あらゆることに力を振るおうとする。そうした人々は牧草地に撒き散らされた水のようであって、狭い水路を流れる川のようではない。だが、川は狭いがゆえにその精力が集中し、人類にとって本当に役立つものとなるのである。「私は……ただ、この一事に励んでいます」[ピリ3:13]。これは、いかなる人にとっても、良い座右の銘である。その人が、その一時を良く行なうとしたらそうである。そして、私が行なおうと求めている一事とは、神の栄光を現わすためにイエスに従い、イエスが私に行なわせるため与えてくださった務めを行なうことである。というのも、私の兄弟たち。かりにあなたや私が予定の奥義を解明したとしよう。かりに私たちが預言の権威になったとしよう。かりに私たちが一千もの主題について、この上もなく学識に富んだ者になったとしよう。だがしかし、自分の墓に入るとき、全く神の栄光を現わしてこなかったとしたら、私たちは自分の行なった一切のことにおける怠慢について、何の弁解もできないであろう。私の知る限り、私が預言について間違った理論を頭に入れても、誰ひとり失われはしないであろう。だが、もし私が十字架につけられたキリストに関する真理を知り、力を尽くしてこの方を宣べ伝えるとしたら、何千もの人々が救われうるのである。もしも私が御国の偉大な奥義のいくつかについて間違いを犯したとしたら、その分だけ《救い主》に対する愛が少なくなるかどうかは分からない。だが、このことだけは分かっている。もし私が全く主の奉仕に献身し、他の人々にも同じことをさせる手段となるなら、そのときに私が感じる後悔は、このきわめて重要な件をないがしろにしてきた場合に感じるであろう後悔と比べればなきに等しいであろう、と。私は、あなたがた全員に命じる。兄弟たち。この悪い時代にあって、イエスから離れないようにするがいい。細心の注意と、畏敬と、愛とをもってイエスに従うがいい。激しい熱烈さと、心と魂と力のすべてを尽くしてイエスに従うがいい。そして、それをあなたが生きる目的たる一事とするがいい。あなたの主への従順という、この真っ直ぐな通り道から、何物によってもそらされてはならない。というのも、何にもまして、この道へとあなたは召されたからである。たとい人々があなたのもとにへやって来て精神文化や現代思想について語っても、このことに堅く立つがいい。いずこへ導かれようともキリストに従うということに。

 私は考えている。神は、この場にいる私たちひとりひとりが何をすることを望んでおられるのか、と。もし私がこの点をあなたに強く訴えると、あなたは私がペテロの過ちに陥りつつあると考えるかもしれない。1つの教会として、私たちは何をすべきだろうか。愛する方々。あなたは、私たちが、この近隣の地域のためになすべきことをことごとく行なっていると思うだろうか? 私たちは、わが国の宣教師たちが外国の土地で何を行なっているか聞いてきた。そして、私たちの中のほとんどの者は、そのことと関わりを持っている。だが、私たちにとって肝心な点はこのことだと思う。――ニューイントンで何がなされるべきだろうか? この地域の周辺すべてで、キリストのために何がなされるべきだろうか? あなたがた、小冊子配布者たち。あなたは自分の務めに熱心に打ち込んでいるだろうか? あなたがた、《日曜学校》の教師たち。あなたがたは、神のための自分の務めを忠実に行なっているだろうか? 外国の宣教地を忘れよとあなたがたに命じはしない。だが、それでも、私たちが真っ先に気遣わなくてはならないのは、私たち自身の学級、私たち自身の間近な近隣地域である。あなたがたの中の多くの人々は、ロンドンの様々な地区からやって来ている。あなたは、自分の住んでいる地域のために何を行なっているだろうか? キリスト者であるあらゆる人は、まず自分の戸口に最も近くいる人々の益を求めるべきである。あなたがたの中のある人々は、田舎から出てきている。あなた自身の村であなたは何をしているだろうか? あなたは、神の人が真理を説教するのを聞いてきたと云う。それは全く正しい。だが、それが神のために働くことだろうか? 向こう側に、ひとりの青年がいる。キリストに従っていると告白し、しばしば討論倶楽部で演説する人である。愛する方よ。あなたは一度も路傍伝道したり、《日曜学校》で教えたりしないのだろうか? ならば、私はあなたのことを恥ずかしく思う。あるいは、むしろ、あなたは自分自身が恥ずかしくないだろうか? そちら側にいるひとりの人は、金儲けをしている。私もその人が悪事を行なっているとは云わない。だが、愛する方よ。あなたは、神に属している部分を一度でも神に聖別したことがあるだろうか? もしあなたがそれを自分のものとしているとしたら、それは残りのすべてを腐らせるであろう。私は今この場にいるある人に向かってこう云っているのかもしれない。「あなたは、若い婦人たちのための聖書学級を引き受けるべきです」、と。他の人々に対してはこう云っているのかもしれない。「あなたは、《日曜学校》の教師となるべきです。あなたは主日に二度この礼拝所にやって来ますが、ここに二度もやって来る用事はありません。あなたは、少なくとも一回は、行ってキリストのために働くべきです」。私を喜ばせるのは、次のような人々である。その人々は良心を刺されてこう云う。「牧師先生。私たちが先生を見捨てて行くとは想像しないでください。私たちは喜んでここにいたいのです。ですが、私たちは、あの下宿屋街に行っているのです。あるいは、《黄金小路》に行っているのです。あるいは、向こうのベスナル緑地に行っているのです」。それは正しい。そして、私は、そうした人々の座席に別の誰かが着いているのを見て嬉しく思う。四千から五千人の教会員がいる教会で、その全員が礼拝式ごとにここにやって来るとしたら、どこから私たちの回心者たちがやって来るというのだろうか? 私は、福音の網を、すでに捕れた魚の真中に投げるべきだろうか? もしあなたが欠席することにして、ひとりの人をあなたに代わってこの場所に来させるとしたら、また、もしあなた自身は罪人たちをキリストのもとに導こうと努めるとしたら、あなたは2つの良いことを行なっているのである。私は、あなたがたの中のあらゆる人々が、自分の同胞である人々に善を施すために生きていてほしい、また、神の栄光のために魂を救おうと努めていてほしいと望んでいる。信仰の敵たちは、非常に活発で、非常に熱心である。そして、彼らは自分たちの人材のすべてを投入しているかに思われる。ある人がローマ教会に入会するや否や、確実に、その人のなすべきことが何か見つけられる。そこで私は、あなたがた全員が、自分の力の限りを用い尽くすのを見たいと思う。あなたがたは自由な人々である。それゆえ、私によって支配されるべきではない。私は、あなたがなすべきことを規定しはしない。だが、あなたは、自主独立の男性また女性として、神の御霊の神聖な指図に従うことができないだろうか? そして、ひとりひとりが、自分の適切な持ち場につくことができないだろうか?

 私は切に願う。一切の思弁を投げ捨ててほしい。――単に好奇心のためだけに本を読むことはやめるがいい。そして、神の御名によって、神のための働きに取りかかるがいい。墓は満ちつつあり、私たちの墓地は満ちつつあり、地獄もまた満ちつつある。その間、サタンの手下どもは、海陸を渡り歩いては、自分たちにできる限りの害悪を行ないつつある。もしあなたが本当に自称している通りの者、エルサレムのために涙したお方のしもべであるとしたら、――もしあなたが、カルバリの十字架上でその方の流した血潮で買い取られているとしたら、――私はあなたに命じる。今この時、自分を聖別するがいい。あなたの《主人》があなたを召しておられる形のキリスト教の働きに献身するがいい。そして、悪評を受けようが好評を博そうが、主に従うがいい。義務の道において主に従うがいい。そして、何物によっても、神の栄光を現わすというあなたの一生の務めから脇へそらされないようにするがいい。

 願わくは神があなたがた全員を祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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キリストに従う[了]

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