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咎ときよめ

NO. 3056

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1907年9月5日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1865年1月8日、主日夜


「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」。――詩51:7


 ダビデがどのようにして罪を犯したかは、あなたも知っているであろう。姦淫の罪に対して、さらに殺人の罪を加えたのである。ダビデは神から締め出された者、神に近づく価値のない者のように感じた。彼は、そのような状態のままとどまることに満足できなかった。神と和解させられることを切望した。そして、時としてこういう人々を見たことを思い出した。らい病にかかり、汚れた者として町から追い出されるか、死体にふれて自分を汚してしまい、神を礼拝するため近づく人々との一切の交わりから一時的に締め出されるかした人々である。「あゝ!」、と彼は思った。「それこそ、まさに今の自分だ。――私は神の御前に出る価値がない。霊的に汚れているのだから」。

 しかし、ダビデは、血で一杯になった鉢をかかえた祭司を見たこともあった。その祭司がそこにヒソプを浸し、そのヒソプの一束に血がしみ込むと、それで汚れた人に血を振りかけ、彼にこう云うのを見たことがあった。「あなたはきよい。これからは、神を礼拝することが許される。あの大会衆と入り混じってかまわない。私は、振りかけられた血によって、あなたがきよいと宣言する」。そして、ダビデの信仰は、望遠鏡的な原理に立って働き、はるか先の時代を見通しては、カルバリでささげられた大いなる贖罪の犠牲を見てとった。そして、神の御子が自分のものでない罪のために血を流しているのを見たとき、そのキリストの血が自分の良心に塗られることを願い求めた。それが自分の汚れを取り除き、神の家の庭に、また、神の御心の愛の中に自分が入るのを許してくれるだろうと感じたのである。それで、彼はこの祈りをささげた。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」。

 また、彼は、罪が非常に大きな汚れであることも感じた。――自分がどす黒く、不潔であると感じた。だが、彼は知っていた。自分がかつて野山羊のように山々の間を狩り立てられていたとき、冷たい流れの小川に身を屈め、旅の埃と汚れを洗い落とすと、いかに顔と手が再びきよくなったかを。そのように、神の御前で額ずきながら、彼はキリストの犠牲のうちに、きよめる大水を見てとっているのである。その願いはこの言葉で云い表わされている。「私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」。この言葉の解き明かすは全く不要である。要されるのは適用である。この言葉を説明する必要はない。必要なのは、打ち砕かれた心をした嘆願者が、それを祈りとして神にささげることである。

 これから私は神の助けによって、2つのことを努めて語りたいと思う。1つは、罪が非常に汚らわしいものである、ということである。ダビデは、「私をきよめてください」、「私を洗ってください」、と云う。もう1つは、そのきよめは、非常に大きなものであるに違いない、ということである。この、ヒソプを振りかけ、洗う過程は、非常に強力なものに違いない。彼はこう云うからである。「私はきよくなりましょう」。「私は雪よりも白くなりましょう」、と。

 I. まず第一に、《この汚れ》について一言語ることにしよう。

 時として、未回心の人々からこう問われることがある。「なぜあなたは、あれほど贖罪のことばかり語るのですか? なぜ神は恵み深く、無条件に罪を赦せなかったのですか? なぜ血を流すことや、大いなる苦しみを忍ぶことが要求されなくてはならないのですか?」 罪人よ。もしあなたが正しい罪感覚を有しているとしたら、そのような問いを決して発さないであろう。そのような問いを発するとき、あなたは神があなたと同じような者だという仮定に立って語っているのである。だが、神は罪を憎まれる。罪の中に、あなたが決して夢にも思ったことがないほど忌まわしいものをご覧になる。神にとって、罪の中には、あまりに身の毛もよだつほど忌み嫌うべきもの、あまりにも憎むべき、あまりにも嫌悪すべき、汚らわしいものがあるため、それを見過ごしにできないのである。見過ごしになどしたら、ご自分のご性格の上に、神は聖ではないのではないかという疑念をもたらすことであろう。神が人間の罪を、代償贖罪もなしに見過ごしていたとしたら、熾天使は、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」[イザ6:3]という彼らの歌を中断していたに違いない。罪を目こぼしする《裁判官》は、罪を幇助しているのである。至高の《支配者》が罪を罰さないとしたら、自らがあらゆる咎を奨励する者となってしまい、罪は彼の翼の陰でぬくぬくとしていることであろう。しかし、そうではない。罪人よ。神はあなたにも、御使いたちにも、悪霊たちにも知らせようとされたのである。ご自分の被造物たちのいずれかが、罪のことをいかに軽く考えようとも、また、単純な人間がいかに罪をああだこうだと考えようとも、神はそれがいかに邪悪なものであるかをご存知であり、それを決して容赦しようとはされない、と。「主は……罰すべき者は必ず罰す」*[出34:7]。

 私は、この主題を別の観点から眺める人々がこう云うのを聞いたことがある。《救い主》の血によって、罪人のかしら当人でさえ完全な赦しが得られるという宣教は、人々に罪を軽く考えさせがちである。――私たちが彼らにこう告げるとしよう。――

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり。
    汝れにもこの瞬間(とき) いのちあり」。

キリストを仰ぎ見るあらゆる魂にそう告げるとしたら、私たちは、実質的に、人々の傷ついた良心に貼りつける絆創膏を見いだしてやっているのでり、その傷は、そのように癒された場合、彼らが再び罪に向かうのを助長し、けしかけるだけだというのである。これがいかに不真実であるかは、一瞬でも考えを巡らせば明らかであろう。私たちは罪人にこう告げるのである。神はたった1つの罪をも無償で見過ごしにはなさらない。赦罪がアダムの種族のいずれかの人にやって来るのは、人々の身代わりとなった《救い主》の途方もない悲嘆の数々によって獲得されたためでしかない。私たち自身の信じるところ、律法のあらゆる宣言にもまして、また、最もボアネルゲめいた教役者たちがこれまでに轟かしたことのある、一切の審きの威嚇よりもはるかにまして罪の邪悪さを人間に示したもの、それはこの1つの偉大な真理の宣教にほかならない。「主は、私たちのすべての咎が彼の上で相会うようにさせた。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」*[イザ53:6、4、5]。《救い主》の死――これは、罪を徹底的に断罪するものである。他のいかなる時にもまして、燦然と栄光に輝く聖潔の衣を神がまとわれたのは、神がご自分のひとり子の上に置かれた罪を打ちのめておられる時にほかならない。それを罪人たちから取り上げ、キリストの上に置かれた神は、それが転嫁された《ご人格》の尊さゆえに容赦することはなさらなかった。ご自分の力と瞋恚との限りをこめてそれを打ちのめし、粉砕したために、圧倒されたこの《犠牲》がこう叫ぶまでとなった。「よく見よ。主が燃える怒りの日に私を悩まし、私をひどいめに会わされたこのような痛みがほかにあるかどうかを」[哀1:12]。

 さて、この主題の向きを少し変えてみよう。――罪の咎である。この贖罪は、その咎をこの上もなく徹底的に示していると思う。この真理を、この場にいる、罪赦されていないあらゆる人の耳に届かせよう。血のほか何をもってしても、あなたの罪を洗い流すことは決してないと思われる。――キリストの血、神の愛する御子の血。これは私たちをすべての罪からきよめるが、他の何物にもそれはできない。ならば、ここに、あなたの罪のどす黒さは現われている。思い起こすがいい。宇宙のいかなる被造物であれ、あなたの罪を1つたりとも取り去ることができないのである。もし天の聖なる御使いたち全員が、彼らにできる限りの最上の奉仕を行なっていたとしても、あなたのもろもろの罪のうち1つさえ取り去ることはできなかったであろう。たとい、かの偉大な御使いのかしらが、神の栄光の御座近くにあるその持ち場を離れて、苦難の深淵の中に至らされていたとしても、彼に行なうことができただろう一切のことは、ただ一個の罪を取り去るために要求されるだろうものとくらべても、手桶の一滴であったろう。というのも、罪とは巨大な悪であって、造られたいかなるものにも取り除くことができないからである。そして、たとい地上の全聖徒が罪を犯すのをやめることができ、日夜休みなく神をほめたたえることができていたとしても、それでも、彼らの歌すべての中には、ただひとりの罪人のただ一個の違反すら拭い去るに足る功績はない。否。それより先に進もう。あなたのいかなる涙が、知性を有する全被造物の涙が、いかに「燃ゆる」ものであったとしても、また、その塩辛い滴の――

   「たぎつ涙も
    罪あがなえじ」。

否。さらにもう一歩低く下ろう。罪に定められて地獄にいる者たちの一切の苦痛も、決して罪を贖いはしない。彼らは罪の結果として苦しんでいるが、いかなる贖罪も彼らによってなされることはない。というのも、彼らが苦しんできたすべては、彼らが苦しまなくてはならないものを少しも軽減しないからである。また、彼らのあわれな呪われた頭上を一万年の一万倍もの時が過ぎ去ったときも、彼らは、今と全く同じくらい天来の正義を満足させることからは、はるかに隔たっているであろう。というのも、罪とは、トフェテでさえ焼き尽くすことができないほど、すさまじいものだからである。「主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす」[イザ30:33]が関係ない。むしろ、ゲヘナで燃えるいかなるものも、決して一個の罪をも焼き尽くしたことはなく、焼き尽くすこともできなかった。これを考えてみるがいい! 地も、天も、地獄も、決して、ただの一個の罪をも、ただひとりの魂からも取り去ることができなかったのである。

 キリストのほか誰もそれを行なうことはできなかったし、キリストご自身でさえ、それを行なうには人となるしかなかった。人間の罪のための身代わりが、この違反者と同じ性質をした者であることは絶対に必要であった。それゆえ、キリストはマリヤから生まれて、人とならなくてはならなかった。人が罪を犯した以上、人が苦しみを受けなくてはならない。アダムにあってすべての人が死んだのと同じように、すべての人は、――少しでも生かされることがありえるとしたら、――第二のアダムにあって生かされなくてはならない。彼らはひとりの人によって堕落した。そのように、別の《人》によってよみがえらなくてはならない。さもなければ、決してよみがえることはない。しかし、《神格》と関連した人なるキリスト・イエスでさえ、あなたの罪を取り去るには死ぬほかなかった。聖書のどこを探しても、主がその生涯で行なった一切のことによって罪を取り去ることができるとは書かれていない。《救い主》の生涯は、その民が覆われる義の衣であるが、彼らが中で洗われる浴槽ではない。キリストの全生涯、その山上での全説教、その一切の断食と、その荒野でのすべての祈り、魂たちのための、その一切の産みの苦しみ、しかり、そのすべての血の汗、その鞭打ちのすべて、主が忍ばれた恥辱とつばきのすべてをもってしても、あなたの魂を救うことはできず、罪を1つさえも取り去ることはできなかった。こう書かれているからである。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」[ヘブ9:22]。

 しかし、あなたには、私とともに、それよりさらに先まで進んでほしいと思う。キリストご自身でさえ、その死において、ただ1つの罪さえ取り去るためには、ある特定の形式の死を忍ぶ以外になかった。主は十字架につけられなくてはならなかった。それで、パウロはこう書れたのである。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです」[ガラ3:13]。それゆえ、キリストは木にかけられて呪われた者とならなくてはならなかった。そして、この表現――「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなった」――が何を意味しているかを告げることのできた者はいまだかつてひとりもいない。たとい、キリスト教会をたちまち涙させ、喜びに湧き立たせてきたことのある、強力な雄弁家たちの全員がこの場にいたとしても、私は彼らに云うであろう。主のこの重荷を秤にかけるか、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなった」という、この途方もない意味を見積もるか、できるものならやってみるがいい、と。キリストが呪いと! 私たちの正義なるエホバ[エレ23:6]が呪いと! 御父の愛し子イエスが呪いと! 「神のあり方を捨てることができないとは考えなかった」*[ピリ2:6]お方が呪いと! おゝ、御使いたち。あなたがたはこの神秘に驚嘆して良い。というのも、その驚愕すべき深淵を、あなたがたは測り知れないからである! だが、これは事実なのである。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」[IIコリ5:21]。

 そして、ここから私は、確かにこの箇所における絶頂と思うものに言及させられることになる。すなわち、キリストは、確かに十字架の上で死んだが、そのときでさえ、罪を1つ取り去るためには、そこで、私たちの罪と私たちの呪いとを等しくお取りになるよう明確に定められ、決定されていなくてはならなかった。そして、そこにおいて、実際に神の前で、――自らは個人的には無罪であったが、――あたかも一個の罪人であるかのように立って、苦しまなくてはならなかった。「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、……私たちを神のみもとに導くためでした」[Iペテ3:18]。そこにはそのどす黒いもの、憎むべきもの、地獄に落とすもの、永遠に魂を滅ぼすものがあり、それは罪と呼ばれている。エホバ-イエスは、それがご自分の民の上にあるのをご覧になる。また、彼らが、その罪にのしかかられているままでは、決してご自分のいる所でご自分とともにいられないことをご存知である。また、彼らがそれから自由にされる道が、ご自分でそれを取り上げる以外にないこともご存知である。その光景を思い描けるだろうか? 主は、そのすさまじいもの、その呪われたもの、その地獄を燃やすもの、その地獄に餌を与えるもの、その永遠の穴の燃料、その永遠の御怒りの的を、お取り上げになる。その罪をご自分の上に取り上げ、今や罪は何と云っているように思われるだろうか? それはキリストに転嫁されており、キリストの背後に身を隠しては、神に向かってこう云っているかに思われる。「おゝ、神よ。お前は俺を憎んでいるが、ここでは俺をつかまえられねえぞ。さあ、俺はここだ。お前の敵だ。だが、俺たちの間には、通り抜けできねえ仕切りがあらあな」。さて、罪はどうなるだろうか? これを聞くがいい。あなたがた、罪人たち。まだ自分のもろもろの罪を自分の上にかかえている人たち! 罪はどうなるだろうか? 「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。――万軍の主の御告げ。――牧者を打ち殺せ」[ゼカ13:7]。そして、剣は彼を打ち殺した。それでキリストは、言葉で云い尽くせない苦悶の淵の中で、こう叫ぶことができた。「あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました」[詩42:7]。なぜなら、神がその御顔を背けて、その激越な怒りをもって主を打ち殺し、臼でつくかのように主をつき砕き、酒ぶねの中にあるかのように主を踏みつけ、橄欖油の搾り器の中にあるように主を粉砕し、ご自分の恐るべき御怒りという臼の上石と下石の間で主をすりつぶし、その杯を主に飲み干させ、主を苦しめたからである。――

   「受肉(ひと)なる神の 力限(かぎり)を忍び、
    十全(また)きちからもて、そをふりしぼりて」。

それで、あなたは見てとるであろう。たった1つの罪さえ赦されるためには、その罪が値するもの、あるいは、それに同等のものを、キリストが忍ばない限り、天来の聖潔があらゆる汚れに染まらずにいることはできないのである。ならば、罪は、いかに恐ろしく邪悪なものに違いないことか! だのに、あなたは彼女が街角に立ち、微笑みを浮かべてあなたを誘おうとしているのを見るであろう。だが、彼女に向かってあなたの頭を振り、云うがいい。「否、否。《救い主》はお前のために血を流されたのだ」。また、あなたは罪が葡萄酒杯の中できらめいているのを見るであろう。だが、それが赤く、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない[箴23:31]。むしろ、それに向かって云うがいい。「おゝ、罪よ。私はお前を嫌悪する。お前は、私の《救い主》の血管を開き、その尊い血を流れ出させたからだ」。罪によって黒く染まることはたやすいが、覚えておくがいい。きよめられることは非常に困難であるため、ただ神の全能性だけが、キリストというお方において、あなたのもろもろの罪のための《洗浄剤》を供することができたのである。

 さて今、罪人よ。私はあなたにこの言葉を云う。だが、ある人々は行って、それをあざけるであろう。私は、あなたの罪の不潔さを見てとらせることができない。あなたはそれを、取るに足らないものでしかないと考えている。《全能の神》は。非常にあわれみ深いのだ、とあなたは云う。この神が、いかに途方もなく正しい方であるかを忘れてである。しかし、私は、確かにあなたに罪を見てとらせることはできないが、それでもこの真理をあなたのもとに残しておくことはできる。――いつの日かあなたは、悔い改めない限り、罪が何を意味するかを感じることであろう。ご自分の御子をも惜しまなかったお方は、あなたをも惜しまれないだろうからである。もし御座の上の《審き主》が、自らの罪は一切持っておられなかったキリストを打ち殺したとしたら、――他の人々のもろもろの罪ゆえにこれほど厳格に打ち殺したとしたら、――あなたにはどうなさるだろうか? もし神がご自分の愛する御子をも惜しまなかったとしたら、ご自分の敵たちにはどうなさるだろうか? もし火がキリストを焼き尽くしたとしたら、それはどのようにあなたを焼き尽くすだろうか? おゝ、あなたがた、キリストから離れ、神もなく、望みもない[エペ2:12]人たち。やがてあなたはどうしようというのだろうか? 神はその雷鳴の衣をまとい、その御怒りによってあなたを扱おうとおいでになるのである。用心するがいい。用心するがいい。あなたがた、神を忘れる人たち。さもないと、神はあなたを引き裂き、救い出す者もいなくなろう![詩50:22] 「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている」[詩2:12]。

 私は今、あなたがこの祈りを取り上げてほしいと思う。ここまでは、その意味を引き出そうと努めてきた。あなたはそのようにどす黒い。ならば神に祈るがいい。「私を血できよめてください。それを聖霊によって塗ってください。祭司が、ヒソプの束で血をらい病人に塗ったのと同じように。『ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう』」。

 II. さて、《このきよめの力》について二言三言語ることにしたい。

 それは誰をきよめることができるだろうか? それが最初の問いである。ダビデはそれに答える。こう云っているからである。「それは、私をきよくできます」、と。彼は自分のことを意味していた。私は、ダビデの罪を誇張したいとは思わないが、それは非常に恐ろしい罪であった。これ以上に恐ろしいことがありたえだろうか? あれほど大きな恵みを受けてきた者、あれほど多くの光を得てきた者、あれほど豊かな神との交わりをしてきた者、そして、あれほど国の真中で光のように高く立っていた者が、自分の責めに帰すべき2つの呪わしい犯罪――姦淫と殺人――を犯したというのである。彼がそれらを犯したと考えて私は背筋が凍るのを覚えるが、その一方、魂の中では、聖霊がこのように暗黒の事例を記録に残すのを許してくださったことを嬉しく思っている。これは、ダビデのように汚らわしく罪を犯してきた多くの者たちにとって、赦罪を求めるべき何たる励ましとなってきたことであろう! もしあなたが膝をかがめて、ダビデと同じ祈りをささげるなら、ダビデと同じ答えを受けるであろう。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」。あなたが、隣人の妻を汚したことさえあったとしたらどうだろうか? 隣人の心臓を深々とえぐって、地面に放り出して死なせるままにしたとしたらどうだろうか? こうした2つの犯罪は、あなたを永遠に罪に定めることであろう。イエスの血によって、それらへの赦罪をまず見いださない限りそうである。だが、そこには、それらに対する赦罪がある。もしも、その血がイエスの御手と御足と御脇から流れ落ちているところを仰ぎ見たとしたら、――もしも、あなたの打ち砕かれた霊を主の御手にゆだねるとしたら、――あなたの真紅の罪のための赦罪は今すぐそこで得られるのである。この場に、誰か遊女がいるだろうか? おゝ、あわれな堕落した婦人よ。私は祈る。キリストがあなたを大きく赦してくださり、そのことによって、あなたがその御足をあなたの涙で洗い、それをあなたの髪の毛で拭うようになるようにと! この場に、強盗がいるだろうか? 人々は、あなたが決して立ち直ることはないと云う。だが、私は祈る。あの死にかけていた強盗を救ったのと同じ永遠のあわれみが、生きている強盗をも救うように、と。この場には、面と向かって千度も神を呪ったことのある人がいるだろうか? あなたの神に立ち返るがいい。というのも、神はあなたと会いに来てくださるからである。こう申し上げるがいい。「父よ。私は罪を犯しました」[ルカ15:18参照]、と。あなたの頭を御胸に埋め、その赦しの口づけを受けるがいい。神は喜んで罪を赦し、そむきの罪を拭い去ってくださるからである。すでにキリストを打ち殺された今や、神はキリストによってご自分のもとにやって来るいかなる罪人をも打ち殺すことはなさらない。その御怒りは過ぎ去り、今やこう仰せになることができる。「わたしはもう怒らない」[イザ27:4]。ならば、ここには大いなる驚異がある。――キリストの尊い血は、極悪人中の極悪人をもきよめることができ、あなたは今、この聖句の祈りをささげて良いのである。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」。

 それは何からきよめることができるだろうか? 私は、ありとあらゆる種類の罪に言及することはあえてすまい。だが、それがきよめることのできない罪は1つもない。これは、何と尊い真理であろう。「御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7 <英欽定訳>]。先週の間、私はオフォード兄弟とともに連続祈祷集会を導いていたが、ある晩、彼は1つの話を語り、私はそれ以後、毎晩それを彼に語ってもらうことにした。それほど良い話だと思ったからである。彼によると、ダートムーアにひとりのあわれな男が住んでいたという。夏の間は、原野で放牧されている馬だの牛だのの面倒を見るために雇われていた。彼は完璧な異教徒で、礼拝所には、ことによると、幼少期以来、一度も行ったことがなかった。彼にとって安息日などというものはなかった。しばらくしてから、彼は重病になった。彼は六十歳を越えており、生活を支えるものが何もなかったため、救貧院に行った。そこにいる間、人知を越えてお働きになる御霊は、彼が自分の魂について不安に感じるようにしてくださった。彼は、自分が死ななくてはならないと感じた。そして、この老人は、その限られた光によって、もし自分が死んだなら、未来の状態がひどいものとなることを見てとることができた。彼には小さな孫がおり、隣町に住んでいた。――確かプリマスだったと思う。――そして、彼は自分の孫が毎日面会に来ることを許可してほしいと願い出た。彼が重病で、死にかけていたため、それは許可された。彼女がやって来ると、彼は云った。「わしに聖書を読んでおくれ」。彼女はそれに応じた。そして、彼女が読み進めるにつれて、老人はますますみじめになった。「もう一度、読んでおくれ」、と彼は云った。彼女が読めば読むほど、彼の心は罪意識でますます暗くなって行った。とうとう、ある日、彼女はヨハネの手紙第一のこの箇所に達した。――あなたも知っているであろう。――「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。「そんなことが書いてあるのかい?」、と彼は尋ねた。「そうよ、おじいちゃん」、とこの少女は答えた。「そう書いてあるわ」。「本当にそんなことが?」 「ええ、おじいちゃん。ちゃんとあるわ」。「なら、それをもう一度読んでおくれ! もう一度読んでおくれ!」 彼女はもう一度読んだ。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。「本当にそう書いているのは確かかい?」 「ええ、おじいちゃん」。「なら、もう一度読んでおくれ」。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。「なら」、と彼は云った。「わしの指を取って、その節の上に載せておくれ。その上に載ったかい?――わしの指は、そのありがたい聖句の上にあるかい?」 「ええ、おじいちゃん」。「なら」、と彼は云った。「そこの人たちに云っておくれ」(これは、彼の友人たちのことを指していた)。「わしは、このことを信じて死ぬとな!」――そして、彼は目を閉ざし、疑いもなく永遠の安息へと入って行った。そして、私も、神の恵みによって、そのことを信じて死ぬであろう。また、あなたも、兄弟姉妹たち。あなたの指をこの聖句の上に載せて死ぬはずだと思う。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。おゝ、もしそこに安らぐことができるとしたら、生きることは甘やかであり、死ぬことは甘やかであろう。ならば、今や私たちは見てとるのである。あなたのもろもろの罪がいかなるものであったにせよ、それらはみな、この小さな言葉、「すべての罪」に含まれている。それゆえ、しっかりするがいい。あわれな罪人よ。もしあなたがイエス・キリストを信じるとしたら、あなたは神から生まれており、キリストの血はあなたをすべての罪からきよめるのである。

 別の問いはこうである。それは、いつきよめるだろうか? それがきよめるのはである。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。――すなわち、まさに、他ならぬこの瞬間に、――この八時三分前あるいは四分前に、――イエスの尊い血には、きよめる効力があるのである。あなたは、家に帰るまで祈るのをやめる必要はない。キリストを信頼する者は、信頼した瞬間に救われる。その人の罪は、キリストを自分の《身代わり》として受け入れた瞬間に拭い去られる。その血には、いま効力がある。ことによると、この場にふらりと入って来た人が、「もう手遅れだ」、と云っているかもしれない。誰があなたにそう云ったのか? 方々。それは悪魔であり、彼は初めから偽り者である[ヨハ8:44]。「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「ですが、あなたは、私が光と知識に背いて罪を犯してきたことを知らないのです」。私の愛する方。私はあなたがどれだけ大きな罪を犯してきたかは知らない。だが、こう書かれていることは知っている。「キリストは……ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」[ヘブ7:25]。そして、私はあなたが完全を越えたところまでは行っていないと知っている。それで私は結論するのである。キリストはあなたを救うことができる。――まさに今、ありのままのあなたが、向こうの群衆の中に立っている、あるいは、ここでこの会衆席に座っている間に救うことがおできになる、と。

 もう一言云う。――いかなるしかたで、キリストはそのようにきよめることがおできになるのだろうか? 答えよう。――完璧で、完全なしかたによってである。ダビデは云う。「私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」。近頃は、あまり雪を見ることもないが、最後に見たとき、そこには何とまばゆいばかりの白さがあったことか! 一枚の紙を取って雪の上に置いてみれば、唖然とさせられたものである。白い紙が、その雪のまばゆい白さにくらべると、黄色か茶色の紙に見えるのである。だが、ダビデは云う。「私は雪よりも白くなりましょう」。見ての通り、雪は単に地上的な白さ、被造物としての白さでしかないが、キリストが私たちにお与えになる白さは、その血で私たちを洗ってくださるときの白さは、天来の白さなのである。その白さは神ご自身の義なのである。それに、雪はすぐに溶けてしまう。すると、その白さはどこにあるだろうか? その雪も白さも、ともにたちまちなくなってしまう。だが、いかなる誘惑の力も、いかなる罪の力も、神が赦された罪人にお与えになる白さを汚すことはできない。それに雪は、特にこの煤けた町にある雪は、すぐに茶色か黒になってしまう。だが、この義は決してそうならない。

   「時代(とき)ぞ変えざる、栄光(さかえ)の色を、
    主の御衣(みころも)は 常に新し」。

「そして、この完璧な白さが私のものですと?」、とある人は云うであろう。しかり。あなたのためのものである。あなたがイエスを信じているならそうである。もしあなたが悪魔そのひとと同じくらい暗黒であったとしても、本当にイエスを信じさえするなら、一瞬のうちに御使いのように白くなる。なぜなら、信ずることによって、あなたは神が魂をお救いになるしかたを受け入れるからであり、そうすることこそ、なしうる中で最も大きなことである。パリサイ人たちはキリストのもとに来て、自分たちの熱心について大騒ぎをして云った。「ここに私たちの金銭があります。ここに私たちの才質があります。ここに私たちの時間があります。『私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか?』[ヨハ6:28]」 彼らは主の答えを聞こうとして耳を澄ませた。そして、主がこう仰せになるものと考えた。「はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めなさい。食事のたびに手を洗いなさい。貧者に金を施しなさい。私設救貧院に寄付しなさい。修道僧になりまさい。背中をずたずたに切り裂きなさい。自分の肉を引き裂きなさい」、云々。だが、イエスは、そうした類のことを何1つ仰せにならなかった。疑いもなく彼らは、主が何を云おうというのか思い惑い、大いに期待していたに違いない。「今こそ彼は、被造物になしうる最大のわざを私たちに告げてくれるのだ」。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」。主は彼らにこう答えておられる。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」[ヨハ6:29]。あゝ、それで彼らはたちまち立ち去って行った。これほど単純なこと、これほどへりくだらされることなど、決して彼らは行ないたがらなかった。ことによると、あなたがたの中のある人々はこう云っているであろう。「なぜあなたは道徳について説教しないのですか?」 「道徳についての話!」 クーパーは云う。――

   「おゝ、血ながせる 《小羊》よ。
    最上(たか)き道徳(つとめ)は 汝れへの愛ぞ」。――

そして、実際その通りである。かりに私があなたにこう告げたとしたらどうであろう。私は神によってこう云うよう任命されたものです。もしもここからジョンオグローツまで、雨降りしきる寒天の下、裸足で歩いて行き、その道中で乾いたパンと水しか口にしなければ、永遠のいのちを受け継ぐことができるのです、と。そのとき、あなたがたは今晩とは云わず明日には全員、旅立っていることであろう。だが、私がただこうとしか云わないとする。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。そのとき、あなたは何をするだろうか? あなたは、救われるための方法があまりにも単純するからといって、地獄に落ちるような馬鹿者だろうか? 私の怒りはあなたに向かって燃え上がる。それが簡単すぎるからといって、自分自身の魂をだいなしにするからである。命取りの病気にかかっている人がいたとして、その人があまりにも単純だからといって薬を飲まないとしよう。その人は、料金が安すぎるからといって、医者に問い合わせようとしない。あまりにも単純すぎるからといって、これこれの治療薬を塗ろうとしない! ならば、その人が死ぬとき、誰が彼を憐れむだろうか? その人がその治療薬を拒絶したのは、ありとあらゆる動機の中でも最悪で、最も空虚な理由からではないだろうか?

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、それは単純ではあっても、私には難しすぎます。私は信じることができません」。罪人よ。あなたは何を信じられないのか? あなたは、信じられないのだろうか? イエス・キリストが人間の罪を取り上げ、それゆえに罰をお受けになった以上、神が罪を赦すことにおいて正しくあることができることを。何と、あなたはそれは信じられるに違いない! あなたが信じられないというのは、あなたがキリストを信頼できないということである。何と、あわれな魂よ。私は、キリストを信頼せずにいなくてはならないとしたら、それこそこの世で最も困難な務めだと見いだすはずである。というのも、キリストはあまりに尊い《救い主》、あまりに力強い《救い主》であるため、私はジョン・ハイアットとともにこう云えるからである。私は、キリストに自分の魂を1つ預けるだけでなく、できるものなら百万もの魂を預けたいと思う、と。だが、あなたは、信じるとはいかなることかを理解していないということもありえる。それは、何事かを行なうことではない。それは、行なうことをやめることである。キリストがそのすべてを行なわれたとただ信じることである。

   「大きも小(ち)さきも、何もなし、
    罪人(ひと)のなすべき 何もなし。
    イエスは為(な)せり、一切(みな)なせり。
    はるか久しき 昔(いにしえ)に」。

キリストは、信頼されるにふさわしいお方である。主により頼むがいい。願わくは神があなたに、そうする恵みを与えてくださるように。そうすれば、あなたは救われる。先日の晩に私たちが云ったことを思い出すがいい。「なせ、なせ」、から成っている宗教と、「なされたり、なされたり」、と綴られている宗教との間には、天地の違いがある。「すべては、なされたり」という宗教をいだいている人が神を愛するのは、感恩の念からである。また、その人が神に仕えるのは、救われているからである。だが、「なせ」、という宗教をいだいている人は常に一個の奴隷であって、決して救いを得ることなく、行ないながら滅びていく。そして、キリストを仰ぎ見る代わりに自分自身に目を向けようとする者は、そうなって当然なのである。願わくは主が、今ご自分の祝福を命じ給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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咎ときよめ[了]

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