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罪の片棒かつぎ

NO. 3055

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1907年8月29日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年3月30日、主日夜


「また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません」。――Iテモ5:22


 私たちはみな、自らのうちを顧みて、自分自身の罪について考えてみるべき、あふれるほどの理由がある。この世の何事にもまして馬鹿げているのは、人が自分の鍬を取って、ありとあらゆる他人の庭の雑草を取ってやりながら、自分自身の小地所には茨とあざみをのばし放題にしておくということに違いない。古い寓話に、2つの皮袋をかかえた男の話がある。1つは自分の前に、もう1つは後ろにかかえた男、すなわち、他人の過ちは目の前に置き、自分自身のそれは背中の方に回しているという男のことだが、これはまさに、自分の隣人たちの過ちを見るときには目の玉をしっかり開いておきながら、自分自身の欠点に対しては完全に盲目であるという人々の愚劣さを正確に表わしている。もしも、古から伝わることわざが云う通り、「まず隗より始めよ」、ということが正しければ、批判の矛先はまず自らに向けるべきである。もし私たち自身の家の中に薄汚れた下着が山ほど溜まっているとしたら、私たちの中の誰ひとりとして、自分の隣人の洗濯を引き受ける必要はない。「他人の事に口出しするな」という言葉は、ソロモンそのひとによって語られたとしても良かっただろう命令である。また、使徒パウロは霊感されてテサロニケ人たちにこう書き送っていた。「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ……なさい」[Iテサ4:11]。そして、彼とペテロが非常に厳しく罪に定めたのは、「みだりに他人に干渉する」者たちであった[Iペテ4:15; IIテサ3:11; Iテモ5:13参照]。

 それで、私が意図していることは決して、あなたがたの中の誰かに向かって、自分自身の問題を見つめることをやめよと命ずることではない。だが、それと同時に、私はあなたにこう思い起こさせたいと思っている。私たちは、この世界では、決して全く自分ひとりで孤立しては生きていけないものである、と。いかに自分のことしか全く頭にないという人も、自分の隣家に住む人が、自分の庭と何がしかの関係を有していることは知らざるをえない。どれほど勤勉に自分の小地所の手入れをしていようと、左や右から茨の種が彼の庭の上に吹き飛ばされてくるかもしれない。すると、その人には、隣人たちがいるという事実そのものによって悩み事が舞い込むであろう。私たちの住居は、この世にある限りは、全く孤絶してはいない。私たちの中の多くの者らは、町通りに住まなくてはならない。そして、もし隣人の家が火事になれば、多分、その炎が私たちの住まいに広がってくることも全くありえないではない。私たちは決して、自分の利害に関心を持ちすぎるあまり、利己的にならないようにしよう。たとい自分を完全に包み隠そうと試みても、他の人々の行動にいやでも目を向けさせられることになるからである。それが自分と多かれ少なかれ親密な関わりのある人々の行動の場合はそうである。私たちがそれを望もうと望むまいと関係ない。こういうわけで、この聖句の使信は、私たち自身の義務から私たちを引き離すことにではなく、私たちにこう見てとらせる助けをすることにある。すなわち、私たちは、「他人の罪にかかわりを持ってはいけ」ないのである。

 この聖句の前後関係には注意しなくてはならない。テモテはパウロから、「だれにでも軽々しく按手をしてはいけません」、と勧告された。そこには、自分も説教できるのだと誤って考える何人かの生意気な新参者たちがいたし、自分は教会の中でかしらになれると考えた他の者たちがいた。こうした人々は、おそらく彼らの主張を支持する同志たちを少しは、あるいは、数多く得ていたのであろう。その教会の中には彼らの親族たちがおり、そうした人々は、自分の息子や、兄弟や、伯父や、従兄弟のことを重んじていた。あるいは、何らかの折にある人が相当流暢に話をするのを耳にした人々が、浅はかにも、すっかり感心してしまい、その人こそすぐれた指導者であると判断し、自分たちの力でどうにかなるものなら、すぐにでもその人を兵の束ねの最高位に推戴しようと思っていた。パウロは、その教会の役員や会員たちの問題全般を監督させるために派遣していたテモテに向かってこう告げている。こうした者たちに、早まって按手し、彼らの主張を裏書きするようなことをしてはならない。むしろ、彼らには試験を受けさせ、それに耐え抜けることが分かるまで待たせるがいい。なぜなら、もし彼らを教会内の役職に就けてから、彼らが過ちか愚行を犯すとしたら、テモテがその責任を負うことになり、誰もがこう云うだろうからである。「あんな連中を送り込むなんて、テモテは大丈夫なのだろうか?」 だから、彼は慎重になれと命じられたのである。それは、テモテが、何らかのしかたで、「他人の罪にかかわりを持」つといけないからである。私たちの中の誰も、正確にテモテと同じ立場にある者はいない。それで、私たちはパウロがテモテに警告したのと同じ過ちに陥る見込みは低い。少なくとも、それと正確に同じしかたにおいてはそうである。だが、この聖句は私たちに対する使信を含んでおり、私たちは互いにこう云い合って良いであろう。「他人の罪に関わりを持たないようにしようではないか」、と。

 I. 私が第一にあなたに示したいのは、《私たちがいかなるときに他人の罪に関わりを持つことになりえるのか》ということである。そして、そうするとき、残念ながら、そうした様々なしかたを見るにつけ、そのようになりえる場合は非常に多いのではないかと思う。また、よほど良く気をつけない限り、あなたには私の説教が、エゼキエルの見た幻の谷のようなものだと思えるのではないかと思う。あの、「非常に多くの」、また、「ひどく干からびていた」[エゼ37:2]骨で満ちていた谷である。私は、手に負えないほどくどくど述べはすまい。だが、この主題は、それなりに詳細に扱わなくてはならない。

 私たちがいかなるときに他人の罪の片棒をかつぐことになりえるかについて云えば、――説教者は、まず自分自身に向かって云わなくてはならない。お前は、自分に預けられたものに対して忠実でない限り、そうした者になるであろう、と。もしその人が偽りの教理を教えるか、真の教理を教えていてもそれを誤ったしかたで教えるとしたら、――不快な真理を押し隠しているとしたら、――罪を叱責することもなく見逃しているとしたら、――霊的ないのちと奉仕との大きな欠けを見てとっていながら、それを指摘しないとしたら、――もしも、要するに、その人がキリストの不忠実なしもべであるとしたら、また、その人の話を聞く人々がそのことによって、自分たちの告白とはちぐはぐな、恵みの低い状態にとどめられ、未回心の人々がキリストのもとに来ることを妨げられているとしたら、――その人は他人の罪に関わりを持つことになるであろう。実際、私の知るいかなる人にもまして、この聖句で示唆されている過ちに陥る見込みが高いのは、福音の教役者である。おゝ、いかなる恵みを私たちは必要とすることか。いかなる上からの助けが必要なことか。さもないと、私たちが、神と自分の話を聞く人々とに対する忠実さに欠けがあった場合、そうした魂が破滅した責任は私たちに負わされ、私たちは他の人々の罪に関わりを持つことになってしまう! 兄弟たち。私たちがそのような不幸な運命に遭わないように祈ってほしい。

   「取るに足らざる、こは、わざならじ、
    牧師(ひつじかい)らの 責任(つとめ)要求(もと)むは。
    むしろ天使(つかい)の 心(むね)よく満たし
    救主(きみ)の御手をば 満たせしものなり。

   「かれらの見守る 魂(たま)のため主は
    天の口づけ わきへ置きたり。
    その魂(たま)永久(とわ)に 生きてしあらん、
    歓喜(さち)のうちにか、災厄(まが)のうちにぞ。

   「人よ、おのれの 宣教(と)くイエスをば
    わが身の贖罪主(きみ)と 見(し)れよかし。
    きみよ、日ごとに 人の魂(たま)監視(み)て
    よく見張らせよ、人に汝れをば」。

 このことは特に、私自身や、私の同労教役者たちのためのものではあるが、本日の講話の残りの部分は、私自身と同じようにあなたのためのものでもある。それで、次に、あなたに思い起こさせなくてはならないのは、このことである。私たちが誰であれ、他人の罪に関わりを持つことがありえるのは、そうした人々の何らかの罪の行為に故意に加わり、彼らと同じように行なうことによってである。それが、『箴言』でソロモンからこのように言及された罪人たちの場合であった。「おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう」[箴1:14]。私たちは、このような者たちと何の関わりも持ってはならない。決して、そうあってはならない! たとい私たちがひとりで罪を犯すとしても、それは十分に悪い。だが、もし私たちが相伴って罪を犯すとしたら、単に自分自身の罪の責任を負うだけでなく、他人のもろもろの罪の責任も――少なくとも部分的には――負わなくてはならない。もしも罪において手を組む者たちがいるなら、その咎は増殖するであろう。その団結によって、二人は個々人が犯していたであろう咎よりもずっと大きな咎を犯すことができるようになるであろう。願わくは私たちがみな、他人の罪の片棒をかついで、彼らの罪深い行為や行動において彼らと手を結ぶことがないように!

 さらに、私たちが他人の罪に関わりを持ちかねないのは、人々を罪に誘惑することによってである。これは、最も憎むべきことであり、それを実行する人間を、悪魔の最も献身的で勤勉なしもべ、また、奴隷としてしまう。私は、そうした他人の誘惑者たちのことを知っている。――そうした、若い頃から途方もなく恥ずべきしかたで罪を犯してきた老人たちは、その顔つきそのものにさえ好色さがあふれていた。彼らの目つきのいやらしさは、一目見つめられただけで一切の貞節さが、ほとんど消し飛ばされてしまいかねないほどであった。また、彼らの言葉遣いには、二重の意味や、ほのめかしや、当てこすりが満ちていて、それはほとんど公然たる汚し言葉よりも卑しいものだった。私の知っている、そうした歩く腐敗物の塊といって良い人は、全教区を汚染していた。そして、ひとりの少年がそのような悪魔の権化と一緒に歩いていたり、居酒屋で一緒に座っていたりするのを私が目にするとき、私は知るのだった。その少年の品性を破滅させるには、その悪しき悪魔業の博士が、彼自身それほど馴染みきっていた種々の悪徳をその子に手ほどきするだけで良いのだということを。ロンドンには、そうした悪鬼どもがたくさんおり、私たちはほとんど、彼らの全員がただちに埋められてしまえば良いのに願えるほどである。というのも、彼らはサタンのしもべたちであって、自分の回り中に邪悪さを撒き散らしているからである。いま私が話かけている人々の中に、そのようなおぞましい生き物がひとりでもいるとは思わない。だが、私は、そうした種類の大罪人の何人かが今この建物の中に実際にやって来ることを知っている。そして、彼らはもちろん、自分たちに対する私のほのめかしに非常に憤ることであろう。だが、私は警官を好きだという泥棒をひとりとして知らない。そして、私がいま暴露しているような悪の品性をしている悪党たちから賛同を得られるとは思わないし、得たいとも思わない。方々。もし私があなたのことを描写しているのだとしたら、また、もしあなたが自分の罪を悔い改めたいと思っていないとしたら、私はあなたに告げる。地獄でも最も熱い場所があなたのために確保されている、と。というのも、あなたは若者たちを居酒屋に導いては、彼らに悪魔の薬を飲むことを教え、あなたのけがらわしい冒涜的な言葉を見習わせ、あなたの言語同断な好色さを真似することを教えてきたからである。だが、手遅れにならないうちに、私はあなたに切に願う。自分の罪を悔い改めてほいしい。そして、それが神の御子イエス・キリストの尊い血によって拭い去られるようにしてほしい。それはあらゆる罪からきよめてくれる。というのも、もしあなたがそうしないと、「他人の罪」が《全能者》の法廷で、あなたの審きを求めて叫び立てることになるだろうからである。私は、こうした不義を犯したことのない、あなたがた全員に厳粛に命じる。決してそうしてはならない。あなたが決して一言も、子どもの無垢な思いを汚すようなことを口にしないように気をつけるがいい。また、いかなるしかたであれ、決して他の人を罪に導く手段となりかねないような表現が口からこぼれないようにするがいい。というのも、私たちが他人に不義を犯させるよう誘惑することによって、そうした人々の罪の関わりを持つようになることはたやすいことだからである。

 それよりも悪い悪が何かあるとしたら、それは、他人を雇って罪を犯すという悪だと思う。ダビデの大罪の最も卑しむべき部分の1つは、彼が、ウリヤを亡き者にしたいと思ったときに、自分が彼を殺すことをせず、ヨアブを使って、彼が確実に殺されるような持ち場で生身をさらさせたことであった。ぞっとするほど恐ろしいのは、ある人が悪辣なことをしようと決意しながら、他の誰かをして自分に代わってそのことを行なわせる場合である。恥ずべきことに、一部の「信心深い」と公言している雇い主たちは、自分でも真実に即していないと分かっていることを、帳場にいる自分の若い奉公人たちに云わせようとしている。ここには、そうした、いわゆる「キリスト者の」雇い主たちの何人かがいないだろうか? 若い奉公人たちが「几帳面すぎる」ことを望まない者たちがいないだろうか? 時折、私は聞くではないだろうか? あまりにも几帳面すぎると分かった若い奉公人たちが、別の勤め口を探した方が身のためだぞと云われたという話を。そうした若者たちは、自分の雇い主が云わせたいと思うようにその商品について説明することに反対したのである。なぜなら、それが嘘となるからである。そうした人々は、「それは商売の愁嘆なのだ、だから、この店でもそうするのだ」、と告げられた。すなわち、他の人々が嘘つきで、ごまかしをしているのだから、この若者たちも悪党にならなくてはならず、彼らの主人は、自分のお得意客に彼らが嘘をつくことによって金儲けをしなくてはならない、ということである。さて、もし私が盗んだり、騙したりするつもりがあるならば、それは自分で行なおうとするであろう。若い男女を――あるいは、老いた男女でもそうだが――雇って、私に代わって嘘をついたり、ごまかしをしたりさせたいとは思わない。もしあなたがたの中の誰かにそうしたことがあるとしたら、神があなたを導いて、そのような忌まわしい邪悪さを悔い改めさせてくださるように。というのも、その罪は、半分が彼らの罪で、残りの半分があなたのものではないからである。それは、部分的には彼らの罪だが、はるかに大きな部分があなたのものである。もし彼らがあなたに命じられて悪を行なっているとしたら、願わくは神が、そのようなしかたで「他人の罪に関わりを持つ」ことから私たちを救い出してくださるように!

 ある人々がこの大きな罪悪を犯すのは、他人を罪へと追い立てることによってである。それは、人々に吹き込む恐怖によって、あるいは、賃金によって人々をしいたげることによって、あるいは、人々を罪に巻き込むに違いないことを行なわせることになされる。ひとりの人の場合を覚えているが、彼が雇われていた所では、こういうことがよく知られていた。彼が道々集めてきて、その宛先に配って歩く小包のいくつかは、決して彼によって託送されることがないだろうし、また、その荷物のために支払われた代金はひそかに彼自身のかくしに落ち込んで行くのだろう、と。彼の賃金は、あまりにも低かったため、白痴でもない限り、彼がそれだけを頼りに暮らしているなどということを信じる人はいなかった。それで、この男が、自分の利益のために横領をすることは確実だとそれとなく理解されていた。そのために彼の賃金は、正直な暮らしができないほどまで引き下げられていた。残念ながら、人々が不正直をしているのは、この理由のためであることが多い。私は、そうした人々を弁護しはしないが、もし彼らが窃盗ゆえに監獄送りになるようなことがあるとしたら、彼らの主人たちが彼らと一緒に送られてほしいものだと思う。というのも、主人の方も等しく有罪だからである。

 さらにまた、私たちが他人の罪に関わりを持つようになるのは、彼らの上に立つ自分たちの地位を乱用することによってである。これは特に、子どもを持つ人々について云える。父親がふしだらな習慣の持ち主である場合、もしその息子が父の悪い模範にならうとしたら、誰が非難されるべきだろうか? もし酔いどれの父か親がわが子も酔いどれになるのを見るとしたら、それは誰のせいだろうか? もし自分が悪態をつく者であって、息子が汚れた言葉遣いをするとしたら、誰がその少年にそうした悪罵を教えたのだろうか? その悪態の咎は大部分、父親にあるではないだろうか? 「おゝ!」、とあなたがたの中のある人々は云うであろう。「私たちは、自分の子どもたちに酔っ払うことも、罰当たりな言葉をも教えはしませんよ」。だが、あなた自身はキリスト者ではない。あなたは道徳的で、誠実で、そういった類の人間かもしれないが、キリスト者ではない。では、もしあなたの子どもたちが回心しないとしたら、その子たちはこう云わないだろうか? 「私たちの父たちは決して回心しませんでした。では、なぜ私たちが回心すべきなのでしょうか?」 「しかし、私たちはいつもこの子たちを礼拝所に連れて来ています」。それは私も知っている。そして、あなたの子どもたちは云うであろう。「父は礼拝所に通っていますが、キリストを信じていませんし、全く祈りをささげることをしません」。それで、もしその子がそれと同じようなしかたで成長するとしたら、悪いのは誰だろうか? あなたは、その子たちがそうはならないと思うと云う。ならば、主があなたをキリスト者としてくださるよう求めるがいい。というのも、そうするとき、あなたの子どもたちもキリスト者になる見込みがずっと高くなるからである。あなたが悪い行ないのゆえに自分の子どもたちを責めるとき、あなたは、それよりもずっと自分自身を責めた方が良い。というのも、結局のところ、子どもたちの行なっていることは、あなた自身が行なっていることでなくて何だろうか? 哲学者プラトンは、ある人、町通りでひとりの少年が非常に恥ずべきしかたでふるまっているのを見た。それで、つかつかとその少年の父親が住んでいる家の中に入って行くと、父親を打ち叩き始めた。相手がプラトンに、「なぜ私を打ち叩くのです?」、と云ったところ、この哲学者は答えた。「あなたの男の子が悪いことをしていたのを見たのだ。私は彼を打ち叩かなかったが、あなたを打ち叩く。彼はそうすることをあなたからに学んだに違いないからだ。さもなければ、あなたが家の中で彼を正しくしつけていなかったからには、それはあなたの過ちだからだ」。あなたは一度も感じたことがないだろうか? わが子の過ちを見たとき、鞭を振り下ろされるべきは自分自身の背中の上だ、と。なぜなら、何らかのしかたで、あなたがわが子の罪の片棒をかついでいたからである。多くの子どもたちの魂の破滅のいかに多くが、その両親たちの責任であることか! これは何と悲しいことであろう。多くの場合、母親や父親の影響によって、その子どもたちが罪に定められてしまうのである! 目の中に入れても痛くない男の子や女の子が家にいるという方々。あなたは、いつの日か自分がこう云わなくてはならないなどという考えに耐えられるだろうか? 「私たちのキリスト者的でない模範が私たち自身の子どもたちを破滅させてしまったのです」。

 「おゝ、ですが私たちは教会の会員なのですよ」、とある人は云うであろう。しかり。それは私も知っている。だが、私はあなたにも、他の人々にと同じように語る。というのも、あなたがたの中のある人々は、自分の子どもたちを不適切なしかたで育てているからである。私は、いかにしてその子たちがキリスト教信仰を愛するなどと期待できるのか分からない。彼らは、あなた自身の家庭内の秩序がひどく整えられていないこと、あるいは、全く整えられていないことを見ているのである。キリスト教信仰を告白していながら、自分の告白と首尾一貫した生き方をしていない人は、全く信仰など告白していない人以上に、キリストの御国の進展に害を及ぼしている。ある人々は、「天使亭」という看板を掲げているが、悪魔がその宿を営んでいる。いみじくもひとりの人がこう云ったことがある。多くの人々の家はノアの箱舟のようで、その内側にも外側にもやにが塗られている。食堂には、やにがある。――暴飲があり暴食がある。また、寝室にも、やにがある。――好色さとみだらさがある。客間にも、やにがある。――馬小屋にもふさわしくないほどの、話がある。そして、店先に、やにがある。多くの「汚い」ものがそこに行くからである。いかにして、良い子どもたちがそのような家から出てくることを期待できるだろうか? 願わくは私たちの中の誰も、エリのように、自分の子どもたちを叱責するのを怠ることによって、あるいは、ダビデのように私たちの悪い模範で彼らを罪に導くことによって、彼らの罪の片棒をかつぐことのないように! それとは逆に、アブラハムが主に向かって叫んだように、彼らのために祈ろうではないか。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」[創17:18]。私が神に対して提示するのを好むのは、『われらが賛美歌集』の中のこの賛美歌で見事に云い表わされている請願また訴えである。その賛美歌は、ロウランド・ヒルの作とされている。――

   「汝れは優しき 《親》なれば
    聞き入れ給え、親の請願(こえ)。
    われらが子らを 今ゆだねん、
    切なる心もて 汝が御手に。

   「われらが子こそ わが真珠(またま)
    預かりものぞ 汝れよりの。
    あずからせよや、汝が恵み、
    天つすべての 喜びに。

   「しもべのために 叫びたる
    百卒長(もののふがしら)の 聞かれるば、
    など汝れ聞かずや わが近親(ちか)き
    者のため訴(あ)ぐ 祈りをば。

   「われらを汝れは 恵みたり。
    いつくしみ給え、わが子らを。
    汝が聖徒(たみ)の間(ま)に はべらせよ。
    後に残さず、ひとりだに」。

 この聖句の命令は、もちろん、ある程度まで、家庭の親たちと同じように、学級を受け持つ教師にも当てはまる。もし教師に裏表があれば、その生徒たちは教師の真似をし、彼らの悪い行ないの咎は、少なくとも部分的には、教師に責任があることになる。同じ原則は、一国の影響ある立場に着いている、あらゆる人々に当てはまる。もしも私が下院と上院に向かって説教しているとしたら、おそらくは、彼らが二度と聞きたいと思わないだろうような、いくつかのことを云わなくてはならないであろう。ある特定の「尊敬すべき同輩議員」および「尊敬すべき上院議員殿」たちは、国が宗教的になる必要について非常に口軽く話をしているが、彼らの生き方は、それほど大して宗教的ではなく、それで彼らの話はことごとく偽善的であり、大きな罪が彼らには帰されているのである。神は確かに支配者たちや、いわゆる「高貴な人たち」を罰されるであろう。もし彼らの模範が、庶民の安心して見習えるものでないとしたらそうである。

 しかし、たとい私たちが王族や高貴な身分の者でないとしても、私たちはみな、他人に悪い模範を示すとしたら、「他人の罪にかかわりを持つ」ことになるであろう。もし、彼らが私たちを引き合いに出して、私たちがある特定の悪を行なったので自分たちもそれを真似したのだと云えるとしたら、私たちは彼らの罪の咎にあずからなくてはならない。それでも悪い模範に従うのは常に悪いことである。もし私が誰かの模範が悪いものであると見てとるとしたら、それは私にとって誘惑であるべきではない。そして、もしそうした人々が間違ったことをしていると知りながら、私も、単にそうした人々がまず最初にそうしたからというだけの理由で間違ったことをするとしたら、私はその人の罪に関わりを持つことになる。もしその人の行き方が誤っていると知っているとしたら、私はその人の帆船が難破した岩礁から遠ざかるべきである。

 私たちがやはり、「他人の罪にかかわりを持つ」のは、そうした罪を黙認することによってである。そして、そうしたことは多くのやり方によってなされる。――例えば、不敬虔な人々とつき合い、彼らの中には大して害になるものがないと考えているかのようにふるまうことによってである。また、何にもまして悪いことに、彼らの陽気さが純粋な楽しみではないときに、彼らを、また、彼らとともに笑うことによってである。残念ながら、多くの悪人が自分の罪の中でかたくなにされてきたのは、信仰を告白するキリスト者が彼の不潔な冗談を笑ってきたからではないかと思う。

 また、私たちがやはり「他人の罪にかかわりを持つ」のは、非聖書的な教理を信奉する教会に加入するか、使徒的な慣例に従って行動していない教会に加入することによってであろう。ある人々は云う。「私たちは、何々教会に属していますが、その教えか、その実践には賛成していません」。何と! あなたはそれに属していながら、それでもその諸原則に賛成していないというのか? あなた自身の口によって、あなたは罪に定められている。もし私が、自分でも正しいと思わない信条や教理問答を有している教会、また、自分は実践しないような儀式を擁している教会に加わるとしたら、私はそこにある一切の過誤に私自身もあずかって咎があることになる。「私は、その間違いを取り消そうと試みているのです」、と云っても何にもならない。私は、そこにいるべき何の筋合いもない。もし私が海賊の乗組員に加わるとしたら、私は全乗組員によってなされた一切のことについて責任を負うことになる。私は、その船に乗るべき何の筋合いもないのであり、最初の機会にそこから下船しなくてはならない。あるいは、その海賊どもの悪行に少しでもあずかるくらいなら、自ら海に身を投げなくてはならない。

 しかし、かりに聖書的な教理をいだく教会に加入していたとしても、あなたは「他人の罪にかかわりを持つ」ことがありえる。もし、その教会の戒規がしかるべく執行されていないとしたらそうである。もし、その教会員たちがはなはだしく重い罪の中に生活していると知っていながら、キリストおよびその使徒たちの教えに従って譴責、あるいは、除名というしかたでそうした人々を取り扱わないとしたら、私たちは彼らの罪の片棒をかつぐことになる。私は、しばしばこの件で震えおののく。というのも、ここでは教会員たちが数千人単位に上っており、自分自身のうちにおいても、他人のうちにおいても、決して罪を見て見ぬふりをするのは容易な務めではないからである! 願わくは、愛する方々。あなたがた全員が互いに執拗に監視し合い、そのようにして互いを正しく保ち続ける助けができるように! そして、互いに、このチャールズ・ウェスレーの祈りを祈り合うようにしよう。私たちがしばしば歌ってきたこの祈りを。――

   「ひとみのごとく わが神よ、
    鋭敏(さと)からしめよ、わが良心(おもい)!
    覚醒(さま)せよ、わが魂(たま)、罪あらば、
    覚まし続けよ、なお常に」。

 さらに、私たちが「他人の罪にかかわりを持つ」のは、そうする義務があるにもかかわらず、罪を犯したことについて人を叱責しないことによってである。あるいは、人の回心のために、自分にできる限りのことを行なわないことによってである。例えば、ある特定の地区に住んでいながら、その地区の人々の所に決して福音をもたらそうと努めないことによって、あるいは、自分の首尾一貫したキリスト者的な歩み、分離された神の民としての歩みを保たないことによってである。要するに、ひとりひとりが心から、たったいま私が引用し始めた賛美歌の残りを歌おうではないか。――

   「内なる原理(のり)を われ欲す、
    ねたむ神への 恐れをば。
    罪を鋭敏(さと)けく 感じとり
    そばで覚ゆる 痛みをば。

   「すぐに感ずを われ欲す、
    高ぶり、欲の 近づきを。
    さまよう思い 打ちとらえ、
    燃ゆる炎を 消すことを。

   「もはや汝れより 離れじて
    汝がいつくしみ 嘆かせず
    子たる畏れと 柔(よ)き心
    優(また)き良心(おもい)を ささげじな。

   「よし我れ左右(わき)に 逸(そ)れべくば
    主よ、その瞬間(おり)に 叱責(しか)りませ。
    我れを泣かせよ、果てもなく、
    悲しますれば 汝が愛を。

   「いかに小(ち)さきを 省くれど
    良導(おそわ)るわが魂(たま) 痛まほし。
    我れをかの血に 再導(おしや)りて、
    傷つきし後 健からん!」

 II. これ以上、この主題のこの部分について語れば、あなたを飽き飽きさせてしまうに違いない。それで、第二のことに移り、こう尋ねることにする。《なぜ私たちは、他人の罪に関わりを持たないようにすべきなのだろうか?》

 これが十分な答えとなるであろう。――それは、私たちには自分自身のもろもろの罪が十分にあり、他人の罪までかかえることはできないからである。また、それは、もし私たちが他人の罪に関わりを持つと、彼らの災いにもあずかることになるからである。そして、また、私たちは、他人の罪の片棒をかつぐことによって、彼らに害を及ぼすからである。私たちは、彼らをその罪の中で強固にさせ、かたくなにさせてしまう。

 すべての中で最も重い理由はこのことである。――私たちが「他人の罪にかかわりを持」たないようにすべきなのは、そうすることによって、私たちが自分の聖く恵み深い神を悲しませるからである。そして、真にキリストを愛するいかなる者もそうすべきではない。パウロがエペソの聖徒たちに何と書いたか思い出すがいい。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」[エペ4:30]。

 III. 私の次の問いはこうである。――《いかにすれば、私たちは他人の罪に関わりを持つことを避けられるだろうか?》

 そして、私は答えよう。――ただ、神の御霊の助けによってのみである、と。最初に、他人の罪に油断しないように、よく目を配るがいい。私が願うのは、子どもを持つすべての人々が、ヨブがその子どもたちについて行なっていたように賢明に行なうことである。その子どもたちは互いの家を行き来して、祝宴を開いていた。それでヨブは、「翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。』と思ったからである」[ヨブ1:5]。おゝ、子どもを持つ人たち。同じようにするがいい。というのも、それこそ、あなたがたが自分の子どもたちの罪と関わりを持たないしかただからである。

 このように、聖なる油断のなさで目を配ることの次に、「他人の罪にかかわりを持つ」ことがないよう、常に警戒しているがいい。ある特定の疾病を避けたいと重う人は、感染した家には行くないように気を遣うであろう。そのように、罪人たちが行く場所には行かないようにするがいい。彼らの罪に感染するといけないからである。アブラハムがどれほど注意深くしていたか思い出すがいい。彼は、ソドムの王から何1つ受け取らないようにしていた。たといそれが、彼の正当な戦利品であったにせよ、「くつひも一本でも」[創14:23]そうしなかった。それと同じくらい、いかに小さな罪に関しても注意深くしているがいい。

 罪の片棒をかつがないようにするための次の方法は、祈りによってである。アウグスティヌスは、1つの短い祈りをささげるのを常としていたが、その祈りを私はあなたがた全員に勧めたい。「おゝ、主よ。私を私の他人の罪から救い給え!」 これを、次のような別のいくつもの告白の間に書きとめておくがいい。「おゝ、主よ。私はあなたに、私の他人の罪を告白します! 私の他人の罪について嘆き悲しみます。私の他人の罪を悔い改めます。他人の罪に私があずかったがゆえに悲しみます」。これは、そうした罪を犯さないようにするための良い方法である。

 しめくくりに、こう云うのが良いと思う。私たちの中の誰ひとりとして、この説教の網目から逃れることはできなかったと私は思う。私は、真っ赤に焼けた砲弾をあらゆる方向に努めて発射してきた。私自身をさえ除外しなかった。そして、私たちの中のほとんどの者らは、特別に自分向けのものだった弾丸を感じてきた。ならば、私たちは何をした方が身のためだろうか? 1つの詩句をあなたがたに想起させよう。私たちがしばしば歌い、かつ、これからほとんど時を置かずに歌うことになっている詩句である。――

   「ひとつの泉 そこにあり
    インマヌエルの 血に満てり。
    あまたの罪人 飛び込みて
    咎よりことごと 放たれん」。

私たちはみな、自分自身のもろもろの罪によってと同じくらい、他人の罪の、少なくとも、飛沫によって汚されている。だから、みなその泉のもとに行き、身を洗おうではないか。イエスの尊い血によって自分の信仰を更新しようではないか。もし私たちがこれまでその血を一度も信じたことがなかったとしたら、願わくは神が恵み深くもその信仰をいま私たちに授けてくださるように! もし私たちが女王に反逆し、とうとう武力で屈服させられたとしたら、また、もしそこに《大赦令》が下り、それにあずかりたいとの意向を示す者はみな赦免されるとしたら、ことによると、ある者らは自分に向かってこう云うであろう。「俺たちは、あの反乱でそんなに大役を果たしたとは思わんが、もしかしたら、そうしたこともあったかもしれねえ。それじゃ、俺たち全員にとって、一番安全なこたあ、俺たちの名前を書いといて、確実に《大赦令》をありがたく受けられるようにしとくことだぜ」。そのようにし私は、咎ある者たちのひとりとして、それを告白しつつ、この大いなる《王》にこう告げることを願うのである。「わが主よ。私は、私自身のもろもろの罪について咎があります。私の子どもたちの罪について、私のしもべたちの罪について、私の隣人たちの罪について、私の教会の罪について、そして、私の会衆の罪について咎があります。――ですが、あなたは仰せになっています。『わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない』[イザ43:25]、と。あなたは、あなたの御子イエス・キリストを信ずる者たちから、一切の罪を拭い去ると約束しておられます。主よ。私は御子を信じています。ですから、かの《大赦令》の恩恵を主張いたします」。話をお聞きの愛する方々。あなたは、同じことを云いたくないだろうか? かの天来の命令に従いたくはないだろうか? 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。たといあなたが地の果てに行ってしまっていても、それでも神はあなたにこう云われる。「わたしを仰ぎ見て救われよ」。見よ! 見よ! 《見よ!》 あなたが行なわなくてはならないことは、ほとんどない。実際、それは、あなたが行なわなくてはならないことでは全くない。というのも、神は、あなたにお求めになる一切のことを行なう恵みを、あなたに与えてくださるからである。だから、主を信頼するがいい。主に頼るがいい。主は、あなたを助けてそうさせてくださる。そうすれば、あなたの罪がいかなるものであったとしても、また、それらが「緋のように赤くても、雪のように白くなる」。たとい、それらが「紅のように赤くても、羊の毛のようになる」[イザ1:18]。主があなたを祝福し、あなたを救い給わんことを。その御名のゆえに! アーメン。

 さて、私たちはみな、たったいま引用したばかりの詩句を歌おうではないか。――

   「ひとつの泉 そこにあり
    インマヌエルの 血に満てり。
    あまたの罪人 飛び込みて
    咎よりことごと 放たれん」。

そして、それを心から歌うことのできるすべての者は、この良く知られた合唱曲を唱和するがいい。――

   「われ信ず、かくわれ信ず、
    イェスのわがため 死に給いしを。
    木の上(え)に血潮 流しまつるは、
    罪よりわれを 解放(と)くためなるを」。

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罪の片棒かつぎ[了]

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