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イエス・キリストの決まり文句

NO. 3053

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1907年8月15日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年1月19日、主日夜の説教


「イエスは答えられた。『まことに、まことに』」。――ヨハ3:5


 この、「まことに、まことに」、という云い回しは、私たちの主イエス・キリスト独特の決まり文句だったように思われる。主は、ご自分の民が誓いを行なうことを絶対的に禁じられた。その件に関する主の命令は、きわめて明白である。「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」[マタ5:34-37]。本日の聖句は、イエス・キリストが物事を確言する際の、最も強い形式であった。主は、何かを最も強調して語りたいと願うとき、こう云われた。「まことに、まことに、あなたに告げます」。傑出した演説家なら誰でも、独特の決まり文句を有しており、その人の性格の大半は、その人が用いる決まり文句の中に見いだされるものである。そして、こうも云い足せるであろう。ある人がどれほどの注意を受けるに値するかも、時として、その人の決まり文句によって測ることができる、と。というのも、その人の話しぶりによって、その人がいかなる人かは明らかになり、あなたがどれだけその人に耳を貸すべきかは悟られるからである。もし、その人の話し方から、それが軽薄な、あるいは、不誠実な人間だと判断できたり、その人の動機に何か腹黒いものがあるとか、その人が真理の宣言よりは自己顕示を目指していると分かるとしたら、あなたはすぐさまこう云って良いで
あろう。「ならば、私が彼に耳を傾けるべき理由は特にない」、と。だが、もしその人の用いる慣用的な言葉の力から、その人が真実で、誠実で、真面目であることを感じるとしたら、あなたは云うであろう。「私は彼の言葉を心に留め、彼の思想によって私自身の思想に影響が及ぼされるようにする方が賢明だろう」、と。

 私たちの《救い主》の教えの中で、この言葉は3つの特質を私たちに明らかに示している。第一に、そこには明瞭さがある。「まことに、まことに」。第二に、確実さがある。「まことに、まことに、あなたにこれこれのことを告げます」。第三に、厳粛さがある。「まことに、まことに、あなたに告げます」。それゆえ、私たちは主に向かって、明瞭さゆえに、理解したいという願望を示さなくてはならない。確実さゆえに、主の語られた真理への確信をささげなくてはならない。そして、主の厳粛さゆえに、主の教えの重大さを深く実感しつつ応答し、主の仰せに従って行動しなくてはならない。

 I. 第一に私がキリストの「まことに、まことに」という決まり文句について語るべきことは、それが、《私たちに対する、救い主の仰せの明瞭さ》を示しているということである。

 主は、お語りになったとき、ご自分が何を意味しているかご存知であった。ある人々は、話をしているとき、自分が何を意味しているか分かっていない。また、ある人が何を云っているのか理解できないような話をするとき、それは普通、その人が自分でも自分の云っていることの意味を分かっていないからである。不明瞭な話は、概して不明瞭な考えの結果である。もし人々が雲について考えているとしたら、雲について説教するものである。だが、《救い主》は決して、わが国の講壇で一時期よく見受けられたような様式でお語りにはならなかった。――部分的にはドイツから輸入された、全くもって雲をつかむような朦朧とした様式である。一部の人々によれば、それは素晴らしく深遠で、知性の象徴そのものと考えられていたが関係ない。むしろ、そうした類の文章は、キリストのいかなる教えの中にも全くない。主は、いかなる演説家にもまして最も明瞭で、最も直截で、最も率直に物を云われた。主は、ご自分が何を云うつもりであるかご存知だったし、ご自分の話を聞く者たちにもそれを知らせるおつもりだった。確かに、主の時代のユダヤ人たちは、主の教えの一部を理解しなかったが、それは彼らの上に司法的な盲目さが降りかかっていたからであった。非は光にではなく、彼らのかすんだ目にあった。主の教えに目を向けて、他の誰が主のように単純に語ったことがあったか見てみるがいい。子どもでも、主のたとえ話を理解できる。それらの中には、キリストから深く教えられた弟子たちにとってさえ謎であった真理が隠されている。だが、キリストは決してご自分の話を聞く者たちを煙に巻きはしなかった。主は子どものように彼らにお語りになった。実際に、主は子どもで――神の「聖き子イエス」で――あられた。主は決して子どもらしい単純さを捨てることをなさらなかった。確かに主は、完全に成熟した成人らしさの威厳を余すところなく有しておられたが関係ない。主は考えていることをあけすけに云い、ご自分の思いの中にあることを、平易で、明瞭な言葉遣いで口にされたため、貧者中の貧者も、賎民中の賎民も、熱心に主に耳を傾けた。

 さて、キリストにある愛する兄弟姉妹。もしあなたがあなたの《主人》にならいたいと願うなら、同じ明瞭さで語るがいい。あなたの話を聞く人たちにこう云うがいい。「まことに、まことに、私はあなたに、キリストの御名によって、この単純な、ですが高尚な真理を宣言しなくてはなりません。その真理は、私自身もつかんだもので、あなたにもつかんでほしいと願っているのです」。決して貧者の間で深遠ぶってはならない。また、いかなる場所であれ、決して無学な人々の間で神学的な専門語を用いてはならない。もしあなたが話をすることで、聞いている人々に《救い主》を示したければ、主ご自身の装いで主を示すがいい。あなたの派手な言葉遣いというけばけばしい衣で主を覆ってはならない。罪人たちには、単純な言葉で告げるがいい。まず彼らのもろもろの罪について、それから彼らの罪をご自分の最も尊い血によって洗い流すことのできる《救い主》について告げるがいい。だが、種々の新奇なものを追いかけてはならない。というのも、それらは滅び行く魂にとって何の役にも立たないからである。もしあなたがイエスに似た者になりたければ、あなたの教えは明瞭でなくてはならない。

 しかし、次に、私はあなたがたの中の、まだ回心していない人たちにこう云いたい。あなたが、主イエス・キリストのこの明瞭な教えを明瞭に理解することは何と必要なことか! いくつかの真理を、主は非常に素晴らしい明瞭さをもって語られた。――例えば、罪とは何であるかについて云えば、――いかにして、ほんの一瞥ですら罪となりえるか、また、いかにして心で願うことが、行動や言葉と同じくらい罪になりえるかである。またキリストは、罪が罰されなくてはならず、やがて罰されるであろうことを、やはり私たちに対して非常に明瞭に告げておられる。他の誰にもまして主ほど心の親切なお方はいなかったが、主は罪人たちが地獄で永遠に罰を受けることになるというすさまじい真理を明瞭に教えられた。《救い主》が罪を非常に邪悪なものとみなしていたこと、また、罪の罰を非常に恐ろしいものとみなしておられたことには、全く何の疑念もありえない。また、いかに非常に平易に主は新生について語っておられることか! 主はニコデモに云われた。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」[ヨハ3:3]。また、主は、救いの道についても同じくらい明晰であられた。主が私たちに告げておられるところ、モーセが荒野で蛇を上げ、それを仰ぎ見た、蛇に咬まれたイスラエル人がみな癒されたように、主ご自身も十字架に上げられ、主に信頼する罪人はみな永遠に救われるのである。罪人たちが主を信ずる信仰によって救われることに関する、キリストとその使徒たちの教えは、ほむべきほどに明瞭である。福音書と書簡が私たちに告げるところ、完璧に聖なる《天来の身代わり》が罪人たちに代わる者として要求されており、イエスがその《身代わり》となって、ご自身の選びの民全員の立場に立ち、彼らの一切の罪のため当然下るべき罰を負われたのである。もし私たちが主イエス・キリストを信ずるなら、無限の正義に対する私たちの負債は永遠に支払われている。というのも、イエスは、私たちのあらゆる罪を、かの木の上においてご自分のからだで負われ、それらを完全に負いきったため、それらは二度と永遠に、私たちを責めるものとしては思い出されなくなるからである。

 あなたがた、まだイエスを信じていない人たちに私は問いたい。果たしてあなたは、本当に私がここまで語ってきたこの真理を理解しているだろうか? この件について惑わされている人がこの場にひとりでもいるといけないため、一度限りこう云わせてほしい。人間によって発明される、あるいは、執り行なわれる、いかなる魔力や儀式のうちにも、決して救いはない。普通に考えられているところ、洗礼盤の所に連れてこられる人の上には――その老若を問わず――ある種の魔力が働くという。その水を降りかける「司祭」の指を通して、何らかの効力が及ぼされるのだという。なぜなら、その司祭は、その「叙任」において、誰ぞから何らかを受けたからであり、その誰ぞは、その何かを誰ぞから受けていたからであり、それが以下、連綿と、連綿と、連綿とさかのぼって、ついには使徒たちに至るからだという! こうしたことはみな全くの迷信であり、過去の悪しき時代に、老婆たちを焼き殺すかどとされた魔術と同じくらい卑しいものである。いかに私は願っていることであろう。いかなる男も女も子どもたちも、このことに関する迷夢から醒まされることを! それから、ある観念によると、一片のパンが、あるいは、一滴の葡萄酒が、しかるべく権威を与えられた人物によって「聖別され」、分配されると、どういうわけか、死にかけている人から魔術的に悪を抜き去るのだという。これもまた迷信であって、南アフリカのイカサマ雨乞い師の用いる呪物に寸毫もまさっていない。水であれ、パンと葡萄酒であれ、恵みを不信者に伝えることはできない。だが、もし私が主イエス・キリストを信じているとしたら、私がバプテスマによってキリストとともに葬られるとき[ロマ6:4]、それは私に、自分が主の死と埋葬によって救われていることを思い起こさせる。また、もし私が、キリストを信ずる者として、聖餐卓にあるパンを食べ、葡萄酒を飲むとしたら、こうした示唆に富む象徴によって私は、パウロが云う通り、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」[Iコリ11:26]助けを得る。それがすべてである。水にも、パンにも、葡萄酒にも、それ自体としては何の魔力もない。その「司祭」とやらが、いかなる呪文をそれらの上で唱えようとも関係ない。

 さらに、キリストの福音が本当はいかなるものかを、私たちが理解できないなどとは決して想像してはならない。ことによると、ある人は云うかもしれない。「よろしい。見ての通り、先生。私は無学です。学者ではありません。ですから私には福音が理解できません」。愛する方よ。多くの人々は、彼らがまさに学者であればこそ、福音を理解できないでいるのである。彼らは福音を理解するには物知りすぎる。彼らには、彼らが知識であると考えているものがありすぎるために、福音に偏見をいだいているのである。知識は、無知と同じくらい人に偏見をいだかせることがありえる。あなたに知る必要があるのはただこのことである。すなわち、あなたが罪人であること、また、もしあなたが主イエス・キリストを信頼するなら、主があなたの《救い主》となられることである。主を信ずる人には、次のような効果がもたらされる。――あなたは救われていると神が告げておられるがゆえに自分が救われていることを知っているあなたは、以前は恐怖していた神を愛しており、神を愛しているあなたは、自然とこう尋ねる。「神をお喜ばせするために、私には何ができるだろうか?」 それで、あなたは自分のかつてのもろもろの罪を捨て、愛の衝動によって導かれる。それは、あなたの心の中における聖霊のみわざである。あなたは聖潔を追い求める。あなたの魂の救いに関わる事がらは、子どもでも了解できるくらい単純である。もしあなたが失われるとしたら、あなたは奥義によって罪に定められるのではないであろう。また、もしあなたが救われるようなことがあるとしたら、あなたを救うことになるのは、福音の単純さであろう。罪によるあなたの破滅に関わる諸真理、また、その破滅からあなたを救い出す、神の恵みによる唯一の手立ては、世間でよく云われる言葉を使えば、「散歩杖の先っぽと同じくらい明白」である。

 「それでも」、とある人は云うであろう。「私は、しばしば福音の説教に耳を傾けてきましたが、それが理解できないのです」。ならば、神の御霊に願って、その理解へと導いていただくがいい。御霊は真摯な求道者たちを教導しようと待ち受けておられる。私に尋ねさせてほしい。果たしてあなたは一度でも本当に福音を理解しようとしたことがあるだろうか? 「ええ、先生。私は誰それ博士や、誰それ先生の話を聞いたことがあります」。しかり。だが、ことによると、彼らは単にあなたを混乱させただけかもしれない。あなたは聖書そのものを読んだことがあるだろうか? 純粋な水を飲みたいと願う者は、水源に行くべきである。神の真理を見いだしたいと願う者は、この神聖な頁に赴くべきである。というのも、ここでその人は純粋で混ぜ物のされていない真理を見いだすだろうからである。あなたはベレヤのユダヤ人たちを見習ったことがあるだろうか? 彼らは「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」[使17:11]。多くの人々は聖書を非難するが、正しい精神で聖書を読んだ人々のうち、それを非難した者はひとりもいない。あなたは、ある靴屋と議論していた《市中宣教師》のことを覚えているであろう。――この靴屋は、自分のことを非常に抜け目のない懐疑主義者だと思っていたが、一度も聖書を読んだことがなかった。彼は、自分はそれを決して読もうとは思わないが、それが非常に悪い本であることは知っていると云った! それでこの宣教師は彼に云った。「私はきのう長靴を一足買いました。十八ペンスしました。あなたは、それがそれだけの価値があると思いますか?」 彼は答えた。「おそらくはね。だが、それを見ないことには、はっきりしたことは云えませんよ」。「しかし、あなたは靴屋ですし、自分の商売はよく分かっておいでなのですから、確かに見なくともその価値を教えることができるはずでしょう」。「何と、あなたは私を馬鹿だと思っているに違いありません。一度も見たことのないものの判断をつけられると思うなんて」。「ええ」、と宣教師は云った。「実際、私はあなたを馬鹿だと思いましたよ。あなたは一度も研究したことのない聖書を判断し、非難しておられたのですからね」。それで、私はあなたに問いたい。愛する方々。――あなたは聖書を読んだことがあるだろうか? それを研究したことがあるだろうか? もしあなたがそれを理解できないというなら、私は問いたい。――あなたは一度でも理解しようと試みたことがあるだろうか? もし一度も理解しようと試みたことがないとしたら、自分には福音が理解できないなどと申し立ててはならない。だが、もしあなたがへりくだって聖霊に、自分が読む際にその意味を教えてくださいと願うとしたら、真理の光はじきにあなたの魂に射し込むだろうと思う。

 別の質問をさせてほしい。――あなたは、自分が聖書について本当に理解していることを実行に移したことがあるだろうか? あなたは自分が罪深いことを知っている。あなたは、自分の罪深さを神に告白したことがあるだろうか? あなたは、罪からの《救い主》がおられること、また、このお方を信仰によってつかむべきであることを知っている。あなたは、このお方があなたを救ってくださると信頼したことがあるだろうか? これほど明瞭な真理である以上、あなたが暗闇の中で滅びる必要はない。私は昨日の新聞で、ある告示文を読んだ。沖合のある浮標に加えられた傷について情報を寄せてくれた者には誰にでも報償金が与えられるというのである。その浮標はこれこれの砂浜の上にあり、高さが六米もある以上、純然たる不注意か、意図的なよこしまさによって傷つけられたに違いない。そのように、もしあなたが聖書を正しく読むとしたら、あるいは、福音が平易に説教されるのを聞いたとしたら、あなたが偶然に滅びることは不可能であろう。あなたは意図的に滅びるであろう。そして、あなたの血の責任はあなた自身の頭上に帰されるであろう。キリストが福音をあなたの眼前に、いわば大文字で印刷して持ち出しておられるとき、もしあなたがそれを読もうとせず、理解しようとしないとしたら、あなたが滅びるのは霊的自殺のようなものに違いない。願わくはそのようなことにならないように!

 II. 時は矢のように過ぎ去るため、次のことに注意を向けなくてはならない。《この私たちの主イエス・キリスト独特の云い回し、「まことに、まことに」は、確実さを意味している》

 主は、ご自分の云われたことが真実であると知っておられた。それで、こう云われたのである。「まことに、まことに、あなたに告げます」。わが国では、一時期非常に流行した、ある種の説教によって底知れぬ害悪がなされてきた。そうした説教において説教者は、あたかも真理が何かを知らないかのように語り、自分の意見を押しつけることについて、人から許しを得なくてはならないのである! もしある人が真理を知らないとしたら、知るようになるまで口をつぐんでいるがいい。「私は信じた。それゆえに語った」、と詩篇作者は云った[IIコリ4:13; 詩116:10]。そして、自分の信ずること、それゆえ、知っていることを語る者だけが、語る権利を有しているのである。主イエス・キリストは、ご自分の述べることについて、決してためらうことがなく、その言葉遣いは決してよどむことがない。「まことに、まことに、あなたに告げます」、は真理を知っており、それが真理であると確信している者のように語るお方の発言である。

 私たちの側では、キリストの確実さに対してふさわしい応答があるべきである。もし私たちが主を神の御子であり、絶対的な確実に私たちに真理を語っておられると信じているとしたら、主が私たちにお語りになることを確実に受け入れよう。「しかし」、とある人は云うであろう。「あまりにも多くの異なる意見があって、私はどれを信じるべきか分かりません」。人間の意見があなたと何の関わりがあるだろうか? かりに、この世に一万もの「何とか主義」があったとしても、それらがあなたと何の関係があるだろうか? もしあなたが失われるとしたら、あなたがこう云うとしても地獄の火は弱まりはしないであろう。「この世の中にあまりにも多くの何とか主義があったので、私はどれを選べば良いか分かりませんでした」。《真理》は1つしかなかった。というのも、キリストは、「わたしが真理なのです」*[ヨハ14:6]と云われたからである。もしあなたが主を信じていたとしたら、あなたは主によって救われていたことであろう。今日の多くの人々は、ありとあらゆる種類の疑問を提起する。そうした人々は常にいたし、この経綸が続く限り、これからも常にいるであろう。だが、あなたが彼らと何の関係があるだろうか? あなたの務めは、主イエス・キリストを信頼し、そうした疑問は放っておくことである。

 「しかし」、と別の人は云うであろう。「善良な人たちでさえ意見が違っていますよ」。それは私も知っている。だが、もしあなたが時計店に行くとしたら、良い時計同士でさえ何らかの点では異なっていることに気づく。それでも、その事実がグリニッジ平均時に影響を及ぼすわけではない。それが国中のあらゆる懐中時計、あらゆる置時計にとって標準なのである。それで、かりにある善人が真理の一方の側を見、別の善人がそのもう一方の側を見ているとして、一体いかなる善人が自分を信頼するようにあなたに求めたりするだろうか? あなたは私の説教に耳を傾けてきた。――あなたがたの中のある人々は何年もそうしてきた。――だが私は、あなたに説教していることの真実さが聖書によって証明されない限り、私の導きに従うよう求めたことなどあっただろうか? 神のことばが天国への道路地図としてあなたの手にある以上、主の御霊に導きを求めるがいい。そうすれば、御霊はあなたを途中ずっと導いてくださるであろう。

 キリストが教えてくださることすべては確実に真実である。そして、主が私たちに告げてくださる、いくつかの事がらを学ぶことは、私たちにとって絶対に不可欠である。例えば、「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:7]。また、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」[ルカ13:3]。疑いもなく、最後の大いなる日にキリストは、「義をもってこの世界をさばく」[使17:31]。私たちはみな、主の大きな白い御座[黙20:11]の前に立ち、私たちの永遠の運命を確定する最終的判決を主から受けなくてはならない。もしあなたが不信者なら、あなたはすでに審かれている[ヨハ3:18]。そして、もしあなたが不信者として生き、また死ぬなら、あなたは主の御前から望みなき永遠へと放逐されなくてはならない。こうしたすべての事がらは確実なことである。世界には多くの作り事があるが、こうした事がらは作り事ではない。取るに足らないことでもない。そして私が切に願うのは、あなたがこうした真理を信じて、それらから正しい実際的な推断を下すことである。

 キリストが「まことに、まことに」と仰せになることには、あなたにとって大きな慰めとなるべきいくつかの真理もある。例えば、もしあなたが自分のもろもろの罪を主に告白するなら、主はあなたを赦してくださる。これは確かな真実である。また、もしあなたがイエスに信頼するなら、あなたに安息と平安を与えてくださり、あなたは「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:4 <英欽定訳>]る。これは確かな真実である。もしあなたが自分の魂をキリストの御手にゆだねるなら、あなたは決して滅びることがなく、誰も主の御手からあなたを奪い去ることはできない[ヨハ10:28]。これは確かな真実である。神のことばには多くのほむべき確証があり、あなたはそれを確かに頼りにして良い。願わくは神があなたを助けて、今それらにより頼ませてくださるように!

 もしあなたが、神のことばの中にある他の真理をを試験し、試すならば、それらが確かであると見いだすであろう。私はこの場にいる多くの人々に向かって、こう云ってかまわないはずである。「兄弟よ。あなたはキリストのことばを、苦難の時に試験しただろうか? また、それが真実であることを証明しなかっただろうか?」 そして、きっとその答えはこうであろう。「はい、そうしましたとも!」 私はこの場にいる多くの貧乏な人々を抜き出すことができよう。自分の子どもたちを育て上げるという重い務めを担い、実際に育ててきた人々、また、貧困や患難を相手に多くの厳しい葛藤を繰り広げてきた人々である。私はこうした人々に向かってこう云うことができよう。「私の兄弟よ。姉妹よ。キリストはあなたにとって尊いお方ではなかっただろうか?」 そして、きっとその答えはこうであろう。「はい! その通りです! 主は、私たちがより頼むように与えてくださったあらゆる約束のことばを成就してくださいました」。キリストを偽り者だとして断罪できる者はひとりもいない。友であれ敵であれ、「彼は私を欺いたのだ」、と真実に云えるような者はいない。「まことに、まことに」、はあらゆる約束、あらゆる戒め、あらゆる脅かしの上に押されており、主はそのすべてを時の終わりまで、また、永遠を通じて真実であると証明されるであろう。

 それでは、こうした事がらが確かである以上、それらに立って行動しようではないか。おゝ、方々。じきに私たちは説教することや、福音を聞くことと縁を切ることになる! 残念ながら、多くの人々は私たちの礼拝所に来るとき、娯楽の場所に来るときと同じような精神をしているのではないか、また、そうした人々が考えている主立ったことは、――説教者がどのようにその使信を云い表わすのか、彼が果たして流暢で雄弁か、また、興味深い話をするか否か、ということではないかと思う。左様。だが、それは私たちが関心をいだくべき主要な問題ではない。あなたや私はまもなく神の法廷の前に立つであろう。そして、私は、自分が神の真理であると信じていたことを忠実に宣べ伝えてきたことを証明しなくてはならないであろう。また、あなたは、果たしてそれを受け入れ、それに立って行動したかどうかを証明しなくてはならないであろう。そこで私は、あなたがすぐにもその法廷の前に立たなくてはならない生ける神の御前であなたがた全員に命じる。福音をただの作り事でしかないかのように扱ってはならない。あなたにとって何か意味があろうとあるまいとどうでも良いような、何かの演劇を見るか、風琴演奏会を聞くかした後のようにこの建物を出て行ってはならない。本物の地獄があるのである。あなたは永遠にそこに閉じ込められたいだろうか? 本物の天国があるのである。あなたはそこから永遠に閉め出されたいだろうか? 本物の《救い主》が、罪人たちのために十字架上で死なれたのである。あなたはこのお方を蔑み、拒絶したいだろうか? そして、何にもまして、私たちがその中に生き、動き、また存在している[使17:28]本物の神が座しておられるのである。私たちはその神を忘れ、その律法を、あたかも私たちの好き勝手にする自由があるかのように破り、この方が、私たちと同じ人間であるかのように蔑み続けていて良いだろうか? おゝ、神のキリストの「まことに、まことに」にかけて、私は切に願う。主の教えの確実さと現実をあなたの心に銘記してほしい。そして、あなたの霊の上にしかるべき重みを持たせてほしい! 願わくは神の御霊がそうしてくださるように!

 III. 第三の点は、《キリストの「まことに、まことに」は厳粛さを意味する》ということである。

 キリストは、決して鈍重な説教者ではなかったが、非常に厳粛な説教者であった。一部の演説家は鈍重さと厳粛さを混同している。だが、キリストの講話は常に興味深かった。いかに主はたとえ話や比喩に富んでおられたことか! 子どもたちは喜んで主の教えを聞いた。だが、それがいかに常に厳粛であったことか、また、いかに《主人》はご自分の話の厳粛さを、ご自分の生き方の厳粛さによって力強く証明されたことか! 主が寂しい山腹で費やされた、あの祈りの夜の数々は、主の真剣さが決してにせものではなかったことを示し、あのたゆむことない労苦の生涯は、主の熱心がいかに本物で強固なものであったかを示している。そして主の死は、さながら真紅に染まった証印のように示している。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」[ヨハ13:1]ことを。この、「まことに、まことに」と云われた同じキリストが、十字架の上で死に、よみがえり、栄光の中へと上り、そむいた人たちのためにとりなしをしている[イザ53:12]のである。

 キリストのことばとみわざの厳粛さによって私たちは、それに応じた真剣さと厳粛さをもって主の福音に耳を傾けさせられるべきである。もしあなたが世俗的で、地上に縛られているとしたら、あなたは、しかるべき重きをキリストの福音に置かないであろう。あなたがたの中の多くの人々の場合、あなたが救われるために必要な真理は、力をもって心に突き入れられないように思われる。もし私が説教の途中で、金儲けの方法について語り出すとしたら、あなたがたの中の多くの人々が払う注意は、私が不滅の魂の救いについて語っている時よりもはるかに強いものとなるであろう。もし私がコンソル公債の価格について論ずるなら、多くの耳はたちまち片言隻句も聞き漏らすまいと開かれるであろう。だが、人々の魂の贖いのためにイエスが支払われた莫大な代価について語ると、その真理が多くの人々の思いに与える感銘は、大理石の板に垂らした油のような程度しかないであろう。あなたの魂、あなたの本当の自己の最上の部分に、あなたは関心がないのである。おゝ、あなたがた、愚かな人の子ら! あなたはあなたの魂を、それが汚物でもあるかのように扱っているのに、時と官能に関わる物事を自分の所有物すべてであるかのように尊んでいる。あなたは、こうした事がらが遠い昔の人々に関わっていることだという観念をいだいている。――非常によこしまな、そして、どんな礼拝所にも寄りつかなかった人々、あるいは、あなたよりもどうにかこうにか私の使信を受け入れるのにふさわしい、この会衆の中の他の人々に関わっているものと。だが、方々。福音はあなたのためのものであり、神はそのみことばにより、また、そのしもべにより、あなたに語っておられるのである。私は願う。あなたがこうした、あなた自身のための福音を他人に渡してしまう愚かさに終止符を打つようになることを。

 しめくくりに、私は一言か二言、福音の使信の厳粛さに関して思い巡らさなくてはならない。ほとんどの人々は、からだに関わることを大いに考えている。卓越した外科医によって執刀された手術については大いに語られる。それは、虫のえじきになるものと思われなくてはならない、あわれな肉体についての手術である。だが、魂についてはほとんど、あるいは、何も語られない。だが魂は、はるかにいやまさって貴重なのである。皇帝の魂も、乞食の魂も、神の御前では同じ価値である。「その土塊(つち)の檻 壊るるとき、いずこへ逃ぐや?」 これは、あなたがたの中のある人々によっては一度も問われることのない質問だろうか? だとしたら、あなたは何と途方もない愚か者に違いないことか! おゝ、ほむべき神の御霊よ。私たちに教え給え。永遠に歓喜の中に生きるか、災厄の中に生きるかしなくてはならない魂に関わる福音の厳粛さを!

 福音はまた、決して終わることのない永遠にも関わっている。私がこれから入ることになるのは、もう1つの、やがて終わりを迎えることになる時間状態ではなく、どこまでも終わることのない永遠である。そうでないとしたら、キリストのことばは全く意味のないものになる。それで主は、悪人についてこう云われたのである。「こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです」[マタ25:46]。この言葉は、原語ではどちらも同一である。何兆年といえども永遠にくらべれば一瞬よりも短く、何兆もの数を何百万倍した総数といえども、永遠であるものにくらべれば手桶の中の水一滴にすぎないであろう。おゝ、方々。私は、自分が死んだ時の状態のまま永遠に生きることになると知っている以上、私の第一の関心は死に対して備えができていることであるべきである。、私の永遠の未来のための用意をするために! あなたにとってもそうではないだろうか? おゝ、私は切に懇願する。永遠を軽くあしらってはならない。あなたの決して死なない魂を軽くあしらってはならない! あなたを永遠に地獄に投げ込むことのできる神を軽くあしらってはならない。キリストを軽くあしらってはならない。その御手と御足は、あなたのような罪人たちのために、あの呪われた木に釘づけられたのである。その尊い血を軽くあしらってはならない。というのも、それこそあなたが贖われる唯一の希望だからである。聖霊を軽くあしらってはならない。というのも、もし御霊があなたを滅びるままに放置されるとしたら、あなたは絶望するしかないからである。毎週の安息日を軽くあしらってはならない。死の間際になるときには、あなたはそれを一日でも取り戻したいと願うであろう。福音を軽くあしらってはならない。地獄にいる失われた者たちは、もう一度あわれみの宣言を聞くためとあらば、何を惜しむだろうか? 悪魔は軽いあしらいをしてはいない。彼はあなたを破滅させることについて真剣きわまりない。神も、キリストも、聖霊もあなたを軽くあしらってはいない。また、私たちもあなたを軽くあしらってはいない。私たちは福音をこれまでよりずっと真剣に、ずっと完全に、ずっと忠実にあなたに宣べ伝えたいと切望している。そして、私たちは神が私たちを助けてそうしてくださるように祈り、自分が失敗したのではないかと思う時には嘆き悲しむ。あなたの回りのすべてが真剣であると思われるときに、軽くあしらってはならない。特に、主イエス・キリストが、この章の中から、あなたにこう語っておられるときにそうしてはならない。「まことに、まことに、この茨の冠をかぶったわたしは、――手と足を釘づけられたわたしは、――確かに、また、厳粛に、あなたに云う。また、あなたに命じる。わたしを仰ぎ見て、救われるがいい」。私がこの講壇を下りながら、いついかなる時にもまして意気消沈して感じるのは、不敬虔な人々の良心を取り扱おうとしてきた後である。私は、あなたがたひとりひとりをこの手でつかむことができたらと願う。また、あなたがたを真正面から見つめて、こう云えれば良いと願う。「兄弟よ。姉妹よ。あなたは《救い主》なしに死のうというのか? おゝ、それほど馬鹿なことをしてはならない。それほど狂ってはならない!」 私は、この場にいるあらゆる若者たちに告げたい。私自身が若者だったとき、いかに私が信仰によって《救い主》を仰ぎ見るよう導かれたかを。そして、それ以来、主のうちに安らうことがいかに幸いなことであると知ってきたかを。そして、私はその人に云いたい。「兄弟よ。私とともにカルバリの十字架に来るがいい。そして、イエスのうちに安らい、聖く、用いられる人生を送り始めるがいい。そうすれば、あなたは自分が人々の中で真に祝されていることに気づくであろう」。私はあなたがた全員の間を回って、個人的に話をすることはできない。だが、あなたの後を追い、あなたの寝床のそばまでついて来させてくれるだろうか? そして、もし今晩あなたが自分の魂の救いのために祈ることなく寝床に入ろうと考えるときには、こう想像してほしい。私の手があなたの肩にかけられ、私があなたにこう語りかけるのを聞いたものと。「何と! 神に祈りをささげもせずに?」 私は、「寝床にもぐり込もうというのか」、と云おうとした。だが、よく考えれば、それは、あなたの墓場と云った方がふさわしいと思う。というのも、あなたはそこで死ぬかもしれないからである。これまでも多くの人々があなたがしばしばしてきたのと同じように、考えもなく、祈りもなしに寝床に入ってきた。しかし、もしあなたがイエスに信頼し、それから地上で最後の眠りに就くとしたら、あなたが目を醒ますとき、そこは驚異に満ちた永遠の至福なのである。

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イエス・キリストの決まり文句[了]


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