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キリストの孤独と私たちの孤独

NO. 3052

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1907年8月8日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「イエスは彼らに答えられた。『あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです』」。――ヨハ16:31、32


 「あなたがたは今、信じているのですか?」 そのときの彼らは、信仰によってキリストに堅く結びついていたと思われる。だが、恐れが膨れあがるが早いか、彼らは散らされ、自分たちの《主人》をひとり残してしまった。信仰には人を引きつけ、支える力がある。それは堅固な志操の根であり、神の御霊の力の下にあって堅忍させる源である。私たちは、信じている間は、私たちの主に対して真実であり続ける。だが信じなくなると、散らされて「それぞれ自分の家に帰」ってしまう。信頼している間は、ぴったり離れずに従っていく。だが恐れに屈するとき、恩知らずにも私たちの主を捨ててしまう。願わくは、聖霊が私たちの信仰を全く活気に満ちたものとして保ち、私たちの他のあらゆる恵みを養うものとしてくださるように! 信仰が強ければ、内なる人のいかなる精神機能も減退することはない。だが、信仰が衰えると、私たちの霊的性質の精力はたちまち衰弱してしまう。信じていなければ、堅く立てられることはない。だが、「義人は信仰によって生きる」[ロマ1:17]。人生の力の限りにおいてそうである。

 このことを指摘した上で、今から私たちが特に集中して瞑想したいのは、《救い主》の孤独と、信仰者がある程度まで至らされる、それと同じ状態とについてである。

 I. 《救い主の孤独》

 その事実に注意するがいい。主はひとり残された。――人として主が最も人間的な同情を必要としていた、まさにそのとき、ひとりにされた。主にとって寂しさは、その地上の生涯を通じて、しばしば力の原因であった。主が公の伝道活動において力強かったのは、ひとり寂しく山腹で、ひそかに神との格闘に費やされた数々の時間のためであった。だが、その苦悶の時がやって来たとき、主の完璧な人間性は、人間的な同情を求め焦がれた。だのに、それは主に与えられなかった。主はゲツセマネの園でひとりきりであった。十一人を伴って行かれたにもかかわらず、それでも主はそのうちの八人を園の入口に残しておかなくてはならなかった。そして、あのえり抜きの三人――彼ら全員の中の精鋭――は、主の受難の場面に、ある程度までずっと近寄せられはしたが、その彼らでさえ、石を投げて届くほどの所に離れてとどまらなくてはならなかった[ルカ22:41]。何者も主の苦しみの内陣に入り込むことはできなかった。そのときの苦しみは、炉が普通より七倍[ダニ3:19]熱くされていたが関係ない。ゲツセマネの血の汗と苦悶において、《救い主》はひとりで酒ぶねを踏まれた[イザ63:3]。その特にお気に入りの弟子たちは、主を眺め、主とともに泣き、主のために祈ることができたかもしれない。だが、彼らはそうしなかった。主の孤独な祈りが、同情のこもった叫びに付き添われずに天に上るままにした。

 また、主がひとりきりだったのは、その裁判にかけられたときであった。にせ証人たちが見つけられ、偽りの証言で主を非難したが、誰ひとり前に進み出て、主の生涯の正直さ、穏やかさ、善良さを立証しようとはしなかった。確かに、主によって癒された多くの者たちのひとりが、あるいは、主の気前よい御手によって給食された群衆の中のひとりが、あるいは、それよりずっとありそうなこととして、主の教えによって自らのもろもろの罪を赦され、自らの心に光を与えられた者たちの幾人かが、主を弁護しに現われても良さそうなものだった。しかし、否。主に従っていた臆病者たちは、自分の主が中傷されているとき沈黙するのである。「彼は……ほふり場に引かれて行く小羊のよう」[イザ53:7]であったが、いかなる同情の声も、主が解放されるように懇願しはしない。確かに、主を裁く者の妻は、主と関わり合わないよう夫を説得しようとするが[マタ27:19]、彼女の優柔不断な夫は、群衆がそうさせるなら主を自由にしようと申し出る。だが何者も、「彼を放免しろ。釈放しろ」、との叫び声を上げはしない。主は、十字架の上で文字通りひとりきりではなかったが、深い霊的な意味においては、まさしくひとりきりであった。数人の愛する者たちが十字架の根元に集まりはしたが、この者たちは主に何の助けも差し出せなかったし、おそらく涙ぐんだ抗議以上のものは何もあえて口にしなかったであろう。ことによると、最も大胆だったのは、あの死にかけていた強盗が主を「イエスさま」と呼び、仲間の悪党をいさめて、こう云ったことだったかもしれない。「この方は、悪いことは何もしなかったのだ」[ルカ23:41]。この《悲しみの人》[イザ53:3]のために上げられた声は実に少なかった。主が橄欖山の深い木陰の間で苦悶のうちに頭を垂れた時から、死の陰の谷の最も暗黒の闇の中にお入りになった時まで、主はひとりきりで苦しむよう放っておかれた。

 これが事実であった。何がその理由だっただろうか? 私たちは、恐れが弟子たちの心を圧倒したのだと結論する。人々が自分のいのちのことを心配するのは自然である。だが、この人々は、この自己保存の本能を、その正当な領域を越えて押し進めた。そして、《主人》が捕えられたこと、また、おそらくはその弟子たちも師と運命をともにしかねないことに気づいたとき、ひとり残らず、その瞬間の恐慌の中で、先を争って逃げ出した。彼らは全員が裏切り者だったわけではないが、全員が一時的に臆病者になった。彼らは自分の主を見捨てるつもりはなかった。それよりも穏やかな時にその考えが示されたときは、それを軽蔑しさえした。だが、彼らは不意をつかれ、羊の群れのように狼の前から逃げ出した。しばらくして彼らは元気を回復し、遠くから主について行くだけの勇気を奮い起こした。彼らは完全に主を忘れ果てはしなかった。主の最期を見守ったし、主の死後にはまとまった。力を合わせて主を埋葬し、週の初めの日には、本能的に一緒に集まった。彼らは、自分の主であり《主人》である方への忠誠心を、完全にかなぐり捨てはしなかった。主はなおも、御父から与えられた者たちを保っておられ、彼らの中のひとりも滅びることはないからである[ヨハ17:12]。だが、恐れが、しばらくの間、彼らの信仰を敗北させ、彼らは主をひとり残してしまった。

 しかしながら、《救い主》の孤独には、さらに深い理由があった。主の苦しみの条件として、主は捨てられるべきであった。主が私たちのために飲み干すと契約しておられた、あの代償的な苦しみの杯は、見捨てられることをその必要な成分としていたのである。私たちは捨てられて当然の者であった。それゆえ、主は捨てられなくてはならなかった。私たちが人間に対して犯したもろもろの罪は、神に対して犯したもろもろの罪と同じく、私たちが人々から捨てられることを当然とするものであった。そうであればこそ、主は、神と人に対する私たちのもろもろの罪を背負って、捨てられるのである。罪が真の友情を享受することはありえない。罪は分離を招く。それで、キリストが《罪を負う者》とされるとき、主の友人たちは主を見放さなくてはならない。それに加えて、これは、主の栄光の冠の宝石の1つであった。私たちの主の予型となった古の大勇士は、勝利してこう云った。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった」[イザ63:3]。それを最も峻烈な意味で真実にするには、私たちの救いの《創始者》[ヘブ2:10]が、徒手空拳で地獄の大部隊をことごとく打ち破ることが必要であった。主の月桂冠こそ、この戦の唯一の月桂冠である。「その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ」[詩98:1]。

 あなたは、一瞬でも、その孤独の悲しみに入り込むことができるだろうか?人によっては、友人がいないことなど大した問題ではない。彼らの粗雑な心は、友情という優しい喜びを軽蔑する。それよりも厳格な美徳の数々が、その鉄の踵の下に友情という甘美な花々を踏みにじることがありえる。また、人々はあまりにも傲然と自分を頼みにしているために、獅子たちのように、同じような性質をした者たちが孤立している中で最も居心地良くしているかもしれない。彼らは同情など女々しいものとして軽蔑し、交わりなどなくてもよいものとする。しかし、私たちの《救い主》は彼らと違う。主は、孤立して人間嫌いになるには、あまりにも完璧に人間であられた。主の心広く優しいご性質は、他者に対する同情心で満ちていたし、それゆえ、同じものを返されることを求めていた。あの優しい叱責の悲しげな口調の中には、兄弟としての同情の欠けに対する嘆きの声が聞こえる。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか」[マタ26:40]。いかにして彼らは、主が汗を流さざるをえなかった間、眠ることなどできたのだろうか? いかにして彼らは、主が「悲しみのあまり死ぬほど」[マタ26:38]である間、横になっていられたのだろうか? 主は、その抑鬱の中にあってさえ、魂の大きさを示し、愛をこめて彼らを勘弁してくださった。「心は燃えていても、肉体は弱いのです」[マタ26:41]。

 彼らが主を見捨てたことは、主にとって何たる悲しみであったことか! あの勇敢なペテロも、その他の全員も、みな尻に帆かけて逃げ出した! それより悪かったのは、「先生。お元気で」[マタ26:49]、との言葉とともに、裏切る者の口づけを頬に受けることであった。この滅びの子は、自分の《友》を裏切って、血染めの金を獲得しようとした! ダビデはアヒトフェルの悪辣さを嘆いたが、《救い主》は、エッサイの子よりもずっと繊細な精神をしていた限りにおいて、ユダの背信をずっと鋭くお感じになった。ペテロが自分は主を知らないと云い、呪いをかけて立て続けに三度も主を否定したことは、恐ろしく残酷なことであった。その否定には、念入りな要素が際立っていたため、《救い主》の感情は激しく引き裂かれたに違いない。しかし、ヨハネはどこにいたのか。――主の御胸にもたれかかっていた、――「イエスが愛された弟子」[ヨハ21:20]――ヨハネはどこにいたのか? 彼は一言も云わなかったではないだろうか? 自分の愛する《友》のために、一音節すら口を挟まなかったではないだろうか? ヨナタンは自分のダビデを忘れてしまったのだろうか? 《主人》はヨハネにこう云って当然であったろう。「あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった」「IIサム1:26」。だが、悲しいかな! ヨハネは他の者らとともに去っていった。彼は自分の《主人》のために何も云わなかった! 彼は最後まで十字架上の根元にとどまっているが、その彼でさえ主を弁護することはできなかった。イエスは全くひとりきりだった。――全くひとりきりであった。そして、主の孤独な心の悲しみを、私たちの中の誰ひとりとして完全に窺い知ることはできない。

 これは、悲痛な瞑想である。それゆえ、私たちの《救い主》の孤独の結果に注意しようではないか。それは主を破滅させただろうか? 主を圧倒しただろうか? それは主に苦痛を与えたが、主をうろたえさせはしなかった。「あなたがたは、わたしをひとり残すことでしょう。しかし、わたしはひとりではありません」、と主は云われる。「父がわたしといっしょにおられるからです」*。主の魂の中にあった、その慰安の効果は素晴らしかった。私たちの《救い主》は、ご自分の民を贖うという目的から脇にそらされはしなかった。彼らがこれほどの贖いを受けるにはふさわしくないものであることを証明しても関係なかった。主は、こう仰せになって当然だったではないだろうか? 「あなたはわたしを捨てた。ならば、わたしもあなたを捨てよう」。主がこう叫んだとしても、それは自然なことと思われたであろう。「あなたがたは、私の民全員の代表だ。あなたがたは、わたしのことをほとんど気にかけていない。わたしが世に来たのは、あなたがたを救うためであった。だが、あなたがたはわたしを救出しようと試みなかった。あなたがたはわたしを見捨てた。では、わたしもあなたがたを自滅するにまかせよう」。しかし、否。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」[ヨハ13:1]。そして、彼らが主を捨てたにもかかわらず、それでも主は彼らひとりひとりに対して、ご自分の古の約束を果たされた。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」[ヘブ13:5]。主は、ご自分の受けるべきバプテスマ[マコ10:39]をなおも成し遂げようとし、彼らのために死の川波に沈められようとされた。

 やはり注目すべきは、単に主がご自分の目的を断固貫こうとされた決意と勇気だけでなく、主の比類ない私心のなさである。というのも、ご自分の弟子たちが主を捨てて逃げていったときも、主は彼らをその内奥の心において赦し、彼らに何の恨みもいだかれなかったからである。よみがえられた後で、主がこの逃亡者たちに対して示したふるまいは、愛に満ちた羊飼いか、優しい友人のそれであった。――主は完全に彼ら全員を赦された。たといそのことに言及するとしても、それは単に、主がペテロにこう問いただした際の優しいしかたによってだけであった。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」[ヨハ21:15-17]。――そのようにして主は、ペテロに自分の失敗を思い起こさせ、彼を永続的に向上させる益を与え、そのすべてが容赦されたしるしとして、栄誉ある任務をお授けになったのである。

 この結果の理由をしばし調べてみよう。なぜ私たちの《救い主》は、その孤独においても、このように堅忍不抜で、勇敢で、赦しに満ちておられたのだろうか? それは主が、友人たちから捨てられたときも、御父の御腕に身をゆだねていたからではないだろうか? その通りであった。「父がわたしといっしょにおられるからです」。このことばを注意深く眺めてみるがいい。《救い主》がそれを口にされた際、確かに御父の臨在は主とともにあった。だが、ぜひとも思い出してほしいが、主の受難のあらゆる道で、いかなる意味においても、このことが真実であったわけではなかった。御父は、個人的ないつくしみを明らかに示すという意味においては、十字架上の主とともにはおられなかった。主の、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]、という叫びが示す通り、私たちの《救い主》は、その時には、人間としてのご自分に対する神の愛が現実に啓示されることから引き出される慰めを何も有しておられなかった。意識的な臨在と、愛の権限は取り去られていた。

 それゆえ、このことば、「父がわたしといっしょにおられるからです」、には別の意味があるのであり、確かにそれはこのことである。御父は常に、その目的において、主とともにおられた。主がお引き受けになった事業は、ご自分の民の救いであり、御父はその点において完全に、また、常に主とともにおられた。その意味で、御父は、主を見捨てた場所においてさえ主とともにおられた。キリストが神から捨てられたことも、御父がキリストとともにおられるという1つの形にすぎなかった。私は、逆説を述べているわけでは全然ない。この場にいる誰かにとってそのように聞こえるとしたら、こう説明させてほしい。両者が合同していた偉大な目的を遂行するためにこそ、御父は御子をお捨てになったのである。両者は、同じ恵み深い目的について決意していた。それゆえ、御父は御子を捨てて、私たちの贖いにおける御子の目的と御父の目的が成し遂げられるようにしなくてはならない。御父は、御子を捨てたときも御子とともにおられた。御顔の微笑みにおいて御子とともにいなかったときも、目的においては御子とともにおられた。

 さらに、御父が常に私たちの主とともにおられたのは、その共同の働きにおいてであった。イエスがゲツセマネにおられ、棒や角灯が用意されつつあったとき、摂理の神はすべてを許容するか、手配しておられた。イエスがカヤパや、ヘロデや、ピラトや、アンナスの前に引き出されたとき、神は一切のことがなされるのをお許しになっていた。御父は、キリストとともに、数々の預言を成就し、数々の予型に答え、両者の契約の務めをことごとく成し遂げておられた。この悲しい章の全体を通じて、こう云うことができたであろう。「わたしの父は今に至るまで働いておられます」[ヨハ5:17]、と。この濃密な暗闇と、キリストの悲惨な苦しみの最中にあってさえ、御父はキリストとともにおられ、キリストのうちにこうした苦しみそのものを作り出しておられた。というのも、「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」[イザ53:10]からである。この事実の中にキリストは、慰めの海に沈むかのように沈みこまれた。「父がわたしといっしょにおられる」。「それで十分である」、と主は云っておられる。「わたし自身のえり抜きの友人たちがわたしを捨て、わたしの最も愛する地上の友人たちがわたしをひとり残して行き、わたしが自分の血で買い取った者たちがわたしを否定するとしても、わたしの父はわたしとともにおられるのだ」。比類なき信仰を振るって、私たちの《贖い主》はこのことを悟り、その恐ろしい時にあってさえ保ち支えられたのである。

 II. 本日の主題を実際的に用いるために、これから考察したいのは、《その孤独におけるキリスト者》のことである。

 いかなる信仰者も、天国への全道中を、誰かと連れ立って通り抜けるわけではない。そこここに、うら寂しい場所がある。たとい、天に向かう私たちの巡礼路の大半が、仲間の旅人たちの一行によって朗らかなものとされるとしてもそうである。「彼らは、一団から一団へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます」*[詩84:7]。キリストの羊が愛するのは、群れをなして行くことである。「主を恐れる者たちが、互いに語り合った」[マラ3:16]。私たちは、一緒に仲良く語り合い、神の家に群れと一緒に歩いて行く[詩55:14]。だが、路のいずれかの場所において、あらゆる人は狭い隘路を、また、細い場所を見いだし、そこを巡礼たちは縦一列になって行進しなくてはならない。

 時として、神の子どもが孤独に耐えるのは、敬虔な仲間たちに欠けるためである。その人も、キリスト者になったばかりの頃には、恵みに満ちた人々と大いに入り混じり、彼らの集会の多くに出席したり、地にあって威厳ある人々[詩16:3]と個人的に会話することができたかもしれない。だが、今のその人の運命は、屋根の上のひとりぼっちの鳥[詩102:7]のようである。家族の中の誰ひとり、その人のように考えることをせず、その人は自分の主について親しく会話することが全くできず、助言や慰めを与えてくれる人が誰もいない。その人はしばしば心を打ち明けることのできる友を見いだせれば良いのにと願う。キリスト教の教役者か、信仰者の先輩に喜んで会いたいと思う。だが、エジプトにおけるヨセフのように、その人は外国にいる寄留者である。これは、キリスト者にとって非常に大きな試練であり、最も辛辣な性格の責め苦である。強い者さえこれを恐れることがあり、弱い者はこのことによっていたく揺さぶられる。このように孤独な者たちに対して、いま私たちの前にある私たちの主のことばは薦められている。そのことばが、そうした人たち自身のものとなるようにと祈られている。「私はひとりです。しかし、私はひとりではありません。父が私といっしょにおられるからです」。ヤコブがベテルでひとりきりでいたとき、彼は横になって眠ったが、たちまち無数の霊たちに満ちた領域の中にあり、彼らの上には神ご自身がおられた。その幻によって、ベテルにおける一夜は、ヤコブが過ごした中でも、最も孤独ならざる時期となった。ひとり聖書を読む際の、あなたの数々の瞑想は、おゝ、ひとりきりの人たち。また、ひとりきりのあなたの部屋で神に、そして、あなたの《救い主》ご自身に、そのほむべき人格において近づく際のあなたの数々の祈りは、あなたにとって、ヤコブにとってはしごであったものとなるであろう。神の《書》の言葉は、あなたにとって生きたものとされ、あなたの精神にとって御使いたちとなり、神ご自身があなたと交わりを持たれるであろう。もしあなたが自分の孤独を嘆いているとしたら、それを治すために、天的な仲間を求めるがいい。もしあなたが地上で、聖であるいかなる同伴者も有していないとしたら、いやが上にも天にいる者たちと親しく交わることを求めるがいい。そこにはキリストが神の右の座に着いておられるのである。

 神の民が往々にして孤独にされるのは、種々の正直な確信に従うことを通してである。たまたまあなたは、信仰を告白するキリスト者たちの真中で暮らしているかもしれない。だが、あなたは、それまではないがしろにしていた神のことばの一部について、光を受けることがあった。単なる教理か、ある儀式か、何か他の事がらについてである。そして、その光を受けたためにあなたは、しかるべき状態にあるとしたら、すぐさまその光に従う。あなたの側のこうした行動によってしばしば、多くの善良な人々が大いに怒ることになる。その人々をあなたは愛し尊敬しているが、その意向に服することはできない。あなたの《主人》のみこころがひとたび知られたならば、父親も母親も、あなたの道に立ちはだかることは許されない。あなたは変わり者にも、頑固者にも、無礼にもなりたくはないが、主のみこころを行なわなくてはならない。たとい、それが愛する人々とのつながりをことごとく断ち切るとしてもそうである。ことによると、しばらくの間、偏見を持った人々は、キリスト者としての交わりをあなたとほとんど全く持とうとしなくなるかもしれない。バプテスマを受けた多くの信仰者たちは、ほとんど村八分のように閉め出されることがいかなる意味かを知らされてきた。それは、他の人々とは意見を異にするが、何としても自分の良心に従おうと決意したからであった。そのような状況の下にあるとき、敬虔な家族の中においてさえ、自分の確信を完全に実行に移そうとするキリスト者は、自分が単独の通り道を踏みしめていることを悟ることがありえる。大胆であるがいい。愛する兄弟たち。ひるんではならない。あなたの《救い主》は孤独に歩まれた。そして、あなたもそうしなくてはならない。

 ことによると、このひとりきりの従順が、あなたの信仰の試金石となるべきかもしれない。耐え抜くがいい。真理のひとかけらたりとも譲り渡してはならない。今はあなたに背を向けているこの友人たち自身、もし少しでも価値ある人々だとしたら、あなたが正直であろうとする勇気を持っているがゆえに、ますますあなたを尊敬するであろう。そして、ことによると、来たるべき日には、あなたの模範によって、その人たちも同じ従順の道へと導かれるかもしれない。いずれにせよ、ためらいや、気の迷いによってあなたの証しを傷つけてはならない。むしろ、「小羊が行く所には、どこにでもついて行く」[黙14:4]がいい。この真理を頼りとするがいい。あなたは友人たちを不快にさせ、疎遠にさせ、偏狭で、意固地で、頑固だとして非難されるであろうが、従順の通り道に従うときあなたはひとりきりではない。御父があなたとともにおられるからである。もしあなたがいだいているものが神の真理だとしたら、神はそれを主張することにおいてあなたとともにおられる。もし、あなたが服している儀式が、キリストによって定められたものだとしたら、イエスがそこにおいてあなたとともにおられる。教会やこの世がいかにあなたの悪口を云おうと気に病んではならない。あなたの《主人》に仕えるがいい。そうすれば、主はあなたを見捨てないであろう。他の人々にしかるべき一切の敬意を払った上でも、それにもまさる大きな敬意を主に払うがいい。このお方はあなたをご自分の血で買い取ったお方である。この方がお導きになる所には、遅れなく従うがいい。御父はそうすることにおいてあなたとともにおられるであろう。

 この寂しい道を定められているのは、卓越した信仰へと上る信仰者たちである。近頃、普通のキリスト者たちは、低迷する信仰しか持ち合わせていない。目に見えるキリスト教の山々を非常に注意深くあおぎ分けてみると、全体の中に十粒ほどの信仰しか見つからないではないだろうか? 《人の子》が来たとき、その御目がいかに鋭く信仰をつきとめられるものであっても、果たして地上に信仰を見いだせるだろうか?[ルカ18:8] そこここで、私たちが出会う人は、強大な信仰によって神を信じることが許されている。そのような人が1つの事業を始め、彼と同じ肌合いの人でなければあえて試みようともしないような働きに着手するや否や、たちまちこうした叫びが生ずる。「この男の熱心は行き過ぎだ」。あるいは、その人は、新しもの好きだ、性急だ、狂信的だ、馬鹿げている、と非難されるであろう。その働きが続いていくと、反対者たちはこう囁き合う。「もう少し待つがいいさ。そうすれば、こうした野火も終息するとも」。真剣な伝道者のことが、こう云って批判されるのを聞いたことはないだろうか? 「彼の説教はただの興奮でしかない。その結果は、発作的なものだ」、と。また、別のときには、「彼が実行している事業は、突拍子もないものだ。彼の目的は理想郷主義的だ」、と。分別のある、生煮えの信仰をした人々はルターに向かって何と云っただろうか? ルターは、この箇所をすでに読んでいた。「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」[ロマ3:20]。彼は、それについて高徳の神学者のもとに行き、ローマの数々の重大な誤りについて不平を云った。この善良な、だが弱い兄弟は何と答えただろうか? 「あなたの独房に行き、ひとりで祈り、学んでいなさい。そして、こうした重い事がらは放っておきなさい」。この勇敢な《宗教改革者》が血肉に相談し続けていたとしたら、ここで話は終わっていたことであろう。だが、彼はその信仰によって、たとい誰も自分とともに行こうとしなくとも、ひとりで行くことができた。彼は自分の提題を教会の扉に釘づけし、少なくともひとりの人物には、福音とその神を信ずる信仰があることを示した。その後、苦難がやっては来たが、ルターはそれをかまいつけなかった。御父が彼とともにおられたからである。私たちもやはり覚悟しなくてはならない。もし神が私たちに強い信仰をお与えになるとしたら、霊的な《槍騎兵》のように、はるか前方に軍馬を駆り、全軍のために勇敢に道を切り開くことを。望むらくは、神の《教会》の中のもっと多くの息子たちが、鷲よりも疾く、獅子よりも大胆に神に奉仕する者たちであってほしいと思う。ひとりきりでも、あえて事を行なうことができ、遅れを取る者たちに勇気を吹き込み、後を追わせることができる者たちである。このような真勇者たちは、実に多くの場合にひとりきりの通り道を辿るが、そうした人々は、このひとりきりの《救い主》のことばで慰められるがいい。「しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」。もし私たちが神を信じられさえするなら、神は決して私たちをなおざりにすることはないであろう。もし私たちがあえて行なおうとできるとしたら、神が行なってくださる。もし私たちが信頼できるとしたら、神は世の終わりに至るまで、決して私たちが失望しないようにしてくださるであろう。神おひとりが導くことのできる所へ登り、敵の最も高い塔の上に軍旗を打ち立てるのは、云い尽くしようもなく甘やかなことである。

 別の形の孤独を味わう境遇になるのは、深い魂の争闘を始めるキリスト者たちである。私の兄弟たち。あなたがたの中のある人々は、このことで私が何を云わんとしているか理解できるであろう。私たちの信仰は、時として生きるか死ぬかの戦いをしなくてはならない。私たちのうちにいる古いアダムは暴れ回るが、私たちのうちにある新しい霊は、若獅子にも似て、打ち負かされることをいさぎよしとしない。それでこの強力な二者が戦いを繰り広げるあまり、私たちの霊は苦悶に満たされてしまう。私たちの中のある者らが知っている通り、私たちは、あえて繰り返したくもないような数々の冒涜によって誘惑されることがあり、身の毛もよだつような数々の誘惑によって悩まされることがある。私たちは、それらと四つに組んで打ち負かしてきたが、そのためには、ほとんど血を流すまで抵抗する必要があった[ヘブ12:4]。このような内的な争闘において、聖徒たちはひとりきりにならなくてはならない。彼らは自分の感情を他の人々に告げることができない。あえてそうしようと思わない。もしそうしたとしたら、彼ら自身の兄弟たちは、彼らを軽蔑するか、叱責するであろう。というのも、大半の信仰告白者たちは、彼らが何のことを云っているかさえ知ろうとせず、他の燃える道を踏みしめたことのある者たちでさえ、すべてにおいて共感することはできず、彼らにこう答えるだろうからである。「そうした点については、私もあなたとともに行けない」、と。キリストだけが、罪は犯されなかったが、すべての点で私たちと同じように試みに遭われた[ヘブ4:15]のである。他のいかなる人も、すべての点で別の人と正確に同じ試みに遭ったことはない。そして、個々の人には、戦いの猛威の中でひとりで立たなくてはならない、いくつかの試練がある。そこでは、いかなる本も助けにならず、いかなる伝記も支えてくれず、いかなる人も先達になってはいない。ただひとりの例外は、その足跡に釘で刺し貫かれた跡が示されている《人》である。このお方だけが、ありとあらゆる悲しみの曲がりくねった通り道を知っておられる。だが、そのような横道においてさえ、御父は私たちとともにおられ、私たちを助け、支え、最後には勝利できる恵みを与えてくださる。

 しかしながら、私たちは、ひとりきりの歩みのこの面を詳しく語っているわけにはいかない。というのも、もう3つの面に言及しなくてはならないからである。多くの愛する兄弟たちは、注目されることのない労苦という寂しさに耐えなくてはならない。その人々が神に仕えているしかたは、この上もなく有益なものだが、全く人目を引くようなものではない。多くの働き人にとって、新聞や雑誌の片隅で、彼らの労苦や成功が描写されることは、いかに非常に甘やかなことであろう。だが、最後にはそうしたものよりもはるかに神が尊んでくださるだろうことを行なっている人々の一部は、決して自分の名前が印刷されるのを見ることがない。向こうにいる愛する兄弟は、小さな田舎の村でこつこつ仕事をしている。この人については誰も何も知らないが、この人は魂を神のもとへ導きつつある。有名にはほど遠いが、御使いたちはこの人のことを熟知しており、この人がイエスに導いた少数の尊い魂はこの人のことをよく知っている。ことによると、向こうの姉妹は《日曜学校》で小さな一学級を担当している。この人にも、その学級にも著しく目立ったものは何もない。時折、小さな子どもが天国に上っては、この人の成功を報告し、折に触れ、別の子どもが教会に加入する。だが、誰もこの人のことを尋常ならざる働き人だとは思っていない。この人は、ほとんど人に見られることなく咲く花のようであるが、それにもかかわらず、芳香を放っているのである。あるいは、私たちは、卑しい《市中宣教師》のことを考えるのが良いだろうか? 《地区監督》は、その人が自分の定期巡回を行なっていることを知っているが、イエスを愛するこの無名の人がいかに熱心な祈りをささげ、いかに深く献身しているかについては見当もつかない。『市中宣教誌』は、この人が自分の義務を果たそうと努めていると書きとめるが、この人が魂のために叫び、吐息をつくことによっていかなる代償を払っているかは誰も知らない。そこには、ひとりの《聖書配布婦人》がいる。この人は《報告書》の中では、数多くの訪問を行なっていると言及されているが、誰ひとりこの人が貧者や困窮する人々のために行なっているすべてのことは悟っていないし、この人を介して、いかに多くの人々が主にあって救われているかは悟っていない。神の愛するしもべたちの中のなお百人もの人々は、人の承認する目から全く励まされることなく神に仕えている。だが神はこうした人々とともにおられる。

 あなたがどこで働こうと意に介してはならない。あなたがいかに働くかにずっと気を遣うがいい。あなたを誰が見ていようと見ていまいと、神があなたの努力をよしとしてくださる限り、気にしてはならない。もし神が微笑まれるとしたら、満足するがいい。私たちは、自分がいつ最も用いられているか、必ずしも分からない。とある教役者が、自分が説教すると約束した場所へと、大変な難儀を経た上で到着した。地面には雪が深く積もっており、それゆえ、たったひとりしか話を聞きに来た者はなかった。しかしながら、彼は、そこに一千人もいるかのように熱情をこめて説教した。それから何年もして、彼が同じ地方を旅しているとき、彼はひとりの人に出会った。その村に1つの教会を設立した人だという。その教会から何十もの他の教会が設立されつつあった。その人はこの教役者のもとにやって来て云った。「先生。私には先生を覚えている歴とした理由がありますよ。私は以前、たったひとりで先生の話を聞いていた者なのですから。そして、ここでなされてきたことは、あの説教の下で私が回心したことをきっかけにもたらされてきたのですよ」。私たちは、私たちの成功を見積もることができない。《日曜学校》にいたひとりの子どもが回心したが、その子は他の五百人分の値打ちがあることになるかもしれない。なぜなら、その子はキリストのもとに一万人を連れてくる器となるかもしれないからである。あなたが種を蒔く地所ではなく、神がその種を増加させてくださることこそ、収穫をもたらすのである。あなたは、成功を収めることよりも、忠実な者となることに力を尽くすべきである。あなたの主たる慰めは、あなたの労苦において、あなたがひとりきりではないことにある。というのも、神が――永遠の《お方》が――星々の行進を導くお方が――あなたとともにおられるからである。

 そして、世にはこのようなものがある。――私たちもそれに達したいものだが、――いや高められた敬神の念という寂しさである。平野では、あらゆるものに仲間がある。だが、高く上れば上るほど、山道は人気がなくなっていく。今この瞬間に、モンブランの頂には恐ろしいほどの寂しさがあるに違いない。星々が沈黙のうちに山々の王者を見守るところでは、人跡未踏の雪の上にいかに深い沈黙があることか! マッターホルンの頂上は、あるいは、モンテローザの山頂は、いかに寂しいことか! 人が恵みにおいて成長するとき、その人は多くの人々の交わりから抜きん出て、神により近づいていく。ごくごく幸いな状況に置かれていない限り、その人は、そのより高い生き方を理解し、徹底的に自分と交わりを有せる人をほとんど見いださないであろう。しかし、そのとき、その人は、高くあるのと同じくらいへりくだっているであろう。また、必然的かつ自然に、神との永遠の交わりを拠り所とするであろう。山が天空に突き刺さり、その巨大な頂を神の御座の足台として差し出しているように、この善良な人は幕の内側に入り、定命の目には見えないまま、《いと高き方》の幕屋の隠れ場に入る。そこでその人は全能者の陰に宿るのである[詩91:1]。

 最後の寂しさは、私たち全員のもとに死の時にやって来るであろう。かの川の岸辺までは、人々は私たちとともに下って来るかもしれない。涙する一団の人々――妻や、子どもたちや、友人たちである。その人々の親切な顔は、自分たちでは与えることのできない助けを意味するであろう。その川の岸辺までは、愛のこもった仲間として下って来ることができるであろう。だが、そのとき、私たちの主が雲に包まれて弟子たちの目に見えなくなったように、私たちも包み込まれて、愛する者たちの目から隠されなくてはならない。火の戦車がエリヤをエリシャから取り去らなくてはならない。私たちはひとりきりで上って行かなくてはならない。バニヤンは、基督者と有望者がその流れの中に一緒にいるものと描写するかもしれないが、そうではない。彼らは、ひとりずつこの川を渡るのである。だが、私たちはひとりきりにはならない。私の兄弟たち。今の云い方は訂正しよう。御父が私たちとともにおられるであろう。イエスが私たちとともにおられるであろう。永遠の《慰め主》が私たちとともにおられるであろう。《三位》の位格における永遠の《神格》が私たちとともにおられ、神の御使いたちが私たちの護衛となるであろう。このことを喜びつつ出発しようではないか。私たちがひとりになるときも、私たちはひとりきりにはならない。なぜなら、御父が、今しも私たちともにおられるのと同じように、ともにいてくださるからである。

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キリストの孤独と私たちの孤独[了]

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