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鳩小屋からの教訓

NO. 3051

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1907年8月1日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1872年3月24日、主日夜


「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。――イザ60:8


 本日の聖句が取られた章は、神の真の《教会》にとって非常に栄光に富む時代を予言している。この章に記録された数々の約束がある程度まで成就したのは、使徒たちの時代に、ユダヤ人と異邦人が、非常な大人数でキリストの囲い[ヨハ10:16]の中に集められたときであった。しかし、神の約束は人のそれとは違う。人が自分の約束をひとたび守ったならば、その約束はそれ以上は効力を持たない。だが、神の約束は百度以上も成就され、それでも、最初に与えられたときと同じくらい有効なままなのである。それで神は、ペンテコステにおいて《教会》のために行なわれたことを、今日も喜んで行なおうとしておられるし、かの来たるべき幸いな時代には、さらに大きな規模で行なわれるであろう。それは、私たちが喜ばしい期待をもって待望している終わりの日のことである。

 しかしながら、私は今、この聖句をその厳密な前後関係の中で説明しようとは思っていない。むしろ、それを私たち自身にとって有益なものとしたいと思う。注意すると分かるように、この問いにはある程度の驚きがほのめかされている。そして、その驚きは、その背景に潜んでいたに違いない、ある暗い恐れを明らかに示している。《教会》は、無数の回心者たちの一団が自分の仲間に入るのを見て、驚嘆の叫び声を上げる。「この、雲のように飛んで来る者たちは誰だろう?」 それゆえ、《教会》がこうした人々を予期していたはずはない。その信仰は弱いものであったに違いない。そして、その結果、非常な沈鬱がその精神には根を張っていた。また、私たちの信仰が弱く、私たちの期待が薄いものであるときには、同じ種類の沈鬱さが私たちの精神にも取りつく。神の働きを愛し、また、キリストの《教会》の中でも特に私たち自身の枝に連なる働きを愛する、私たちの中のすべての者らは、時として、深い魂の懸念を感じることがあると思う。私たちのもろもろの罪ゆえに、私たちの間におけるみわざを、神が捨てておしまいにならないかと恐れるのである。神は、以前は大いに誉れをお与えになった《教会》を捨て去ることがありえる。もしそれが、ラオデキヤにある教会[黙3:14]のようになまぬるくなるとしたら、あるいは、エペソにある教会[黙2:1]のように初めの愛から離れてしまったとしたら、主はその燭台をその置かれた所から取り外してしまうかもしれない。世界には常に1つは神の《教会》があるであろう。だが、ある特定の場所に常に教会があるとは限らない。世には常に、神に選ばれてその誉れを語り告げる人々がいるであろう。だが、彼らがこの場所にいるとは限らない。あるいは、主が以前には彼らとお会いになっていたいずれかの場所にいるとは限らない。ローマの偶像崇拝的な教会は、唯一まことの教会であると自称し、自らの外では何者も救いを見いだせないと云う。だが、ローマにある教会がかつては輝かしく、栄光に富む教会であったとしても、神はそれを捨ててしまわれた。そして、非常に長きにわたって、それは背教と忌み嫌うべきものの中枢であった。それはシロのようである。そこは、一度は契約の箱の置き場所であったが、それについて神はこう云われた。「さあ、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住ませた所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ」[エレ7:12]。そして、このことは今日に信仰を告白するいかなるキリスト教会についても起こりえる。また、私がしばしば恐れているのは、何らかの程度まで、私たちにもそれが起こらないかということである。私たちは、この教会の中においてさえ、主を怒らせ、私たちを見離させるだけの罪を有していないだろうか? いずれにせよ私たちは、それ相当の不作為の罪、熱心さの欠け、祈り深さの欠け、キリストに似た部分の欠けがあるため、主から、「立て。われわれは上ろう」*[エレ6:4-5]、と云われはしないだろうか? あのエルサレム包囲戦の間に、仰せになるのが聞かれたと記されているそのことばをである。そのとき、この四方の壁には「イ・カボデ」[Iサム4:21]と記され、私たちはこの建物を、ユダヤ人たちの嘆きの場のようにするかもしれない。というのも、もし主が私たちを捨てておしまいになるなら、私たちはこう云って当然だからである。「栄光は去りました。教会はその力、その誉れ、そして、実にそのいのちそのものを失ってしまいました」、と。そこで私たちは、主が私たちをお離れになることを恐れるのである。しかし、キリストにある兄弟姉妹。もしあなたが自らの恐れを祈りに変えるなら、もはや恐れる必要はないであろう。

 私のもう1つの恐れは、回心者たちがこの教会に加わり続けることがなくなるのではないか、ということであった。そして、それもやはり、イザヤの時代の教会の恐れであったように見受けられる。さもなければ、彼らがやって来るのを見てこれほど驚きはしなかったであろう。私は、祈りをこめた懸念とともに毎月、毎週、目をこらしては、こう問うてきた。――もっと多くの信仰者たちがバプテスマによってキリストを身に着る[ガラ3:27]ことになるだろうか? もっと多くの罪人たちが、「救われるためには、何をしなければなりませんか」[使16:30]、と叫ぶだろうか? 私たちの話を聞くもっと多くの人々が大胆に、だが真情をこめてこう宣言することになるだろうか?――

   「われらは主につき
    《王》に仕えん」。

私は、いかなる個人的な苦しみや災厄に遭おうとも、神の恵みのみわざが私たちの間で食い止められるよりはましだと思っている。信仰を告白する教会が、ある意味では存在を続けながら、実を結ばずにいるとき、それは恐ろしいことである。――熟した房を全くつけていない葡萄の木、――何の収穫ももたらさない畑となることは、そうである。世の中にいる一部の教役者たちは、自分の教会が成長しなくとも満足していられるかもしれない。だが、私はそのひとりでないと云えることに感謝している。回心者たちが、「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んで」私たちのもとにやって来続けない限り、私の心は悩みを覚えるし、キリストにある兄弟姉妹。あなたがたの心も悩みを覚えるだろうと信じたい。

 私の精神を、雨をはらんだ暗雲のようにしばしばよぎる別の恐れがある。それは、すでに教会に導き入れられた者たちの一部が冷たくならないか、また、別の者たちが自分のうちに「事の根」が全くないために[マタ13:21参照]背教してしまわないか、また、それ以外の者たちが、ただの死んだ形式主義の中で停滞し、神の光の中を生きずにいるようなことにならないか、ということである。私たちに必要な諸教会は、また、教会員たちは、いのちに満ちた教会であり、教会員たちである。もし私たちのうちに真の霊的いのちがあるなら、私たちは「それを豊かに持つ」[ヨハ10:10]必要がある。冷たい、あるいは、なまぬるい信心は、至る所に見いだすことができる。だが、ホイットフィールドやウェスレーの時代に英国で燃え立っていたような聖なる熱心さはどこで見いだせるだろうか? 古いメソジスト派の祭壇の上でさえ、それは非常にかすかにしか燃えていない。おゝ、あらゆる所でそれが煽り立てられ、烈々たる火焔になるならどんなに良いことか! この場所には、その熱心さの一部がある。だが、私たちは、それがさらに大きな力とともにやって来るよう祈る。あなたがたの中のある人々は、愛する方々。それを有しており、万軍の主のために非常に熱心に働いていた。あなたは今、冷たくなりつつあるだろうか? そうだとしたら、《主人》があなたの息を吹き返させてくださるように! あなたは自分の種々の努力を切り詰めつつあるだろうか? あなたの祈りを短くしつつあるだろうか? あなたのささげ物は以前ほど気前の良いものでなくなっているだろうか? あなたのキリストへの聖別は、かつてよりも完全でなくなっているだろうか? おゝ、まずは、私たちの足元のこの場所から大きな信仰復興が始まらんことを。――というのも、もし主が私たちとともにいて私たちの心を暖め、私たちの熱心を煽り立て、私たちの愛を燃え立たせてくださらないとしたら、他の人々のための私たちの努力には、大した成功を期待できないからである。テモテに対して、いみじくもパウロはこう書いている。「労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです」[IIテモ2:6]。水は水源地で掘り返さなくてはならない。さもなければ、それが丘々を流れ下り、牧草地を肥沃にし、谷間を喜ばせるはずがない。願わくは神がそれを授けてくださるように。こうした私たちの恐れが存在する確かな根拠がある限り、私たちはそれらを振り捨ててはならず、むしろ、それらをこのように熱心な祈りに変えるべきである。――おゝ、主よ。私たちを捨てないでください! おゝ、主よ。私たちのもとを離れて、私たちの会員たちの絶えざる増加がやむようなことがないようにしてください! おゝ、主よ。教会としての私たちの中で、数多くの真の回心が起こり続けるようにしてください! おゝ、主よ。あなたの民が冷たくならないようにしてください。――死んだ者とならないようにし、むしろ、「あなたの御救いをもって、私たちを訪れてください」*[詩106:4 <英欽定訳>]。

 さて、私はもう一歩先に進めるであろう。本日の聖句は、沈鬱な恐れに取りつかれた人々のもとにやって来てはいるものの、自らのうちに非常に明るい光景を含んでいる。この中で用いられている比喩をあなたに理解させるには、ただこう告げるだけで足りるであろう。東方を旅していたひとりの人が、イスパハン付近で、大きな円形の塔を数多く見たという。その屋根には円錐形の換気口があり、その中をくぐって鳩たちは中に下って行くのだった。その内部は、巨大な蜂の巣のようで、一千もの穴がうがたれ、1つ1つの中に鳩たちは巣を作ることができた。そして、鳩たちが夜になって自分の家に飛んで戻って来る姿は、あまりにも膨大な数が密集してやって来るため、雲にも比すべきであった。彼らが自分たちの鳩小屋にどっと飛び戻る迅さは、この箇所を彼に思い起こさせたという。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。

 ならば、ここには、キリストのもとに、そして、キリストの《教会》のもとに、おびただしい数をなして、すさまじい速さでやって来る魂たちの美しい光景が描かれているのである。そこで私たちは、彼らについて3つの質問を発し、それに答えるよう努めたい。第一に、なぜ彼らはやって来るのだろうか? 第二に、いかにして彼らはやって来るのだろうか? そして、第三に、なぜこれほど多くの者たちがやって来るのだろうか?

 I. 第一に、《なぜ彼らはやって来るのだろうか?》

 この鳩たちについて云えば、この質問には非常に完全な答えがある。鳩たちが自分の鳩小屋の所に行くのは自然なことである。そして、それと同じくらい完全な答えが、次の質問にもある。なぜ魂たちがキリストのもとに行くのだろうか? 彼らがやって来る4つの理由がある。

 最初に、キリストが魂の真の糧だからである。疑いもなく、この小鳩たちや鳩たちは、何度となく鳩小屋の中で食物を与えられてきた。それゆえ、彼らはそれがどこにあるか知っており、喜んでそこに飛んで行ったのである。飢えた魂よ。キリストこそは、あなたの飢えを満たすことのできる唯一の食物である。あなたは、飢えた鳩たちがその鳩小屋に行こうとするのと同じくらい熱心にキリストのもとに行こうとしているだろうか? あなたは平安、幸福、赦し、救いを切望しているだろうか? これらすべてはキリストのもとに見いだされる。しかり。あなたの空っぽの魂が、それをあふれんばかりに満たすために必要とするすべてのものが、キリスト・イエスの中には貯蔵されている。それゆえ、あなたは主のもとに行くべきである。そして、私たちの祈りは、あなたが今しも主のもとに行くようになることである。

 次に、鳩たちが鳩小屋に行くのは、それが彼らにとって安全な場所だったからである。そして、同じ理由によって罪人たちは《救い主》のもとに行くべきである。彼らはキリストから離れている限り、安全ではない。たといどこへ行こうと、おゝ、魂よ。主イエス・キリストのもとに来るまで、あなたは危険にさらされている。罪の中に生きていようと、自分を義とする思いの中に生きていようと、同じことである。最終的に滅ぼされたくなければ、キリストのもとに行くしかない。全世界は《滅亡の都》であり、キリストこそは唯一の救いの門である。パウロがガラテヤ人への手紙の中で云っている通りである。「聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです」[ガラ3:22]。

 しかし、次に、鳩たちが自分の鳩小屋にやって来たのは、それが彼らの家だったからである。そして、いかなる人間であれ、その心のまことの家はイエスの御傷の中にしかない。真にキリストを見いだす者は、安息と、楽しみと、平安と、静謐さを見いだす。事実、「家」という言葉が真に意味する一切のことを見いだす。本当にイエスを信じている人は赦されている。神に和解させられている。その人にとって、来たるべき世には何の陰鬱さもない。――いかなる地獄をも恐れることなく、ただ至福の天国を楽しむだけである。モーセはこう書いた。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」[詩90:1]。そして、神は今なお御民の住まいであられる。彼らは神のうちに安息と平安を見いだす。それゆえ、魂は、鳩たちが鳩小屋へ行くように、キリストのもとに行くべきである。

 鳩が鳩小屋にやって来る四番目の理由は、それが、そのひなを入れるのにふさわしい場所だからであった。あなたがたの中のある人々は、私が詩篇84:3について語った説教を思い出せるであろう。「雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ」。救われた人は、少なくとも、救われていないいかなる人よりも、自分の子どもたちが救われるのを見ることになる見込みが高い。ペンテコステの日にペテロは、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか?」、との問いに答えて云った。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです」[使2:38-39]。それで、あなた自身のためだけでなく、あなたの子どもたちのためにも、――

   「咎ある魂(たま)よ、逃れ来よ、
    イェスの御傷へ 鳩のごと。
    こは喜ばしき 福音の日、
    代価(かた)なき恵み 満ちあふる」。

 II. 第二に、本日の聖句は、《いかにして彼らはやって来るのか》という質問に答えている。彼らは、「雲のように……巣に帰る鳩のように」やって来る。

 すなわち、彼らは非常にすみやかにやって来る。鳩の飛び方は非常に迅く、無数の鳩たちが風に乗るとき、彼らは空中を疾風のように飛んで行く。それこそ、罪人たちがキリストのもとにやって来るしかたである。たちまち、いささかの遅れもなくやって来る。《救い主》を信頼する最上の時は《今》である。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日」[IIコリ6:2]だからである。

 あなたがなぜキリストのもとへただちに飛んで行くべきかという理由は数多くある。最初に、あなたは、差し迫った危険の中にあるからである。鷹に追われているとき、鳩はただちにその巣へと飛ぶべきではないだろうか? そして、罪人よ。キリストから離れている限り、罪はあなたを追い、御怒りはあなたを追いかけているのである。「信じない者は」――そして、よく聞くがいい。これが神のことばである。――「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。「すでにさばかれている」。ならば、あなたは差し迫って危険な状態にあるのであり、私は、あの御使いがロトに向かって云ったようにあなたに云う。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう」[創19:17]。すでに燃える蛇の毒液はあなたの血管の中で泡立っている。ならば、今すぐ見るがいい。あの咬まれたイスラエル人の前に青銅の蛇が掲げ上げられたのと同じように、あなたの前に掲げ上げられているお方を。というのも、十字架につけられたキリストを一目見るだけで、あなたは癒されるからである。たといあなたが地の果てにいようと、この使信はあなたに達することができる。主はこう云われる。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」[イザ45:22]。だから、ただちにキリストのもとに来るがいい。あなたは差し迫った危険の中にいるのだから。

 それに加えて、あなたがただちにキリストのもとに飛んで来るべき大きな理由がある。それは、あなたが飛べるよりも早く時は飛び去りつつあるからである。そして、時の経過とともに、死という夜が到来することは確実になっていく。鳩は日が暮れる前にその巣へ行く。暗闇が来ればいかなる危険にさらされることになるか分かっているからである。あなたがたの中のある人々にとって、夜はすみやかに近づきつつある。物事の本質上、あなたはさほど長くは生きられない。だが、奇妙きわまりないことに、人々はしばしば自分が生き続けるだろうと考えるのである。他の人々が死ぬことは予期していようが関係ない! ほんの先週聞いた話だが、八十六歳になるひとりの男性が、ある財産を相続することを期待しているという。だが、別の人が生きているために、彼がそれを所有することは遅れており、その人は八十四歳だという。それでも年長の方の男性は、私の友人にこう告げたのである。自分はじきにその財産を受け継げると期待していますよ。今の持ち主は非常に年寄りで、大して長く生きられませんからね、と。彼自身はそれより二歳年上であるにもかかわらずである。――これは、この詩人の言葉に対する見事な注釈であろう。「誰しも思えり、われひとりのみ不死身ならんと」。だが、もしもまともに頭を働かせるなら、私たちは自分も不死身ではないと分かるはずである。もしかすると老年は、すでに私たちに忍び寄りつつあるかもしれない。あるいは、そうでなくとも、1つの見えざる手があって、今この瞬間にも私たちの心臓を支えている神経をぐいと引き抜こうとしているかもしれない。神から出た何らかの致命的な病か、突然の発作がすみやから私たちに襲いかかり、他のあれほど多くの人々が地上を去ったのと同じように、私たちも去ることになるかもしれない。飛ぶがいい。おゝ、あなたがた、鳩たち。死の矢は飛んで来つつある! 飛ぶがいい。狩人の網はあなたの回り中に広げられている! 飛ぶがいい。真のいのちは、キリストが咎ある魂たちのために開いておられる、このほむべき巣の窓を通してしか見いだせない! 私は今晩、数多くの回心が起こるようにと祈っている。兄弟姉妹たち。あなたがた、いかに祈るべきかを知っている人たち。私とともに、今晩の多くの回心のために祈ってほしい。救われていない人が眠りに就く前に、イエスのもとに行き、救われるようにと。

 III. さて、なぜ彼らがやって来るか、また、いかにして彼らがやって来るかについては語ったので、第三の質問に答えなくてはならない。《なぜこれほど多くの者たちがやって来るのだろうか?》 彼らは、まるで雲に見えるほどの大群をなして飛んで来るはずである。私の心は、おびただしい数の罪人たちがキリストのもとにやって来ると考えるだけで嬉しくなる。だが、なぜこれほど多くがやって来るのだろうか?

 よろしい。最初のこととして、彼らの入る余地があるからである。この鳩小屋には、やって来るあらゆる鳩のための余地があり、キリストの心の中には、みもとにやって来るあらゆる魂のための余地がある。真に悔悟した者のうち、キリストから、「わたしは、あなたのためには血を流しませんでした」、と云ってはねつけられた者などひとりもいない。信仰者のうち、キリストから、「あなたには、わたしを信じる権利がありません」、と云って拒絶された者などひとりもいない。しかり。主の恵み深い、この使信は今なお有効である。――

   「永遠(とわ)の青銅(からかね) 刻めるがごと」、――

「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。このまことの黄金の聖句を、天空に星々をちりばめた文字で書き記すがいい。あるいは、それよりも良いこととして、聖霊に願って、それをあなたの記憶に書き記していただき、決してそれを忘れないようにするがいい。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。その人が酔いどれであったとしても、悪態をつく者か、盗人であったとしても、――不貞な者か、不義な者であったとしても、――今しも犯罪にどす黒く、あるいは、真っ赤に染まっているとしても、――もしまことに来てイエス・キリストを信頼しさえするなら、その人が捨てられることはありえない。キリストの心の中には、ご自分のもとに来るあらゆる者のための余地がある。だから、いま多くの者が来るがいい。

 それに、多くの者がともに行くことは甘やかなことである。私が非常に喜ばされるのは、夫と妻の双方を同時に教会に迎え入れることができるときである。また、それよりも喜ばしいのは、その二人の後に続いて、その息子たちや娘たちの小さな列が、みな一緒に、キリストを信じる自分の信仰を告白しに来るときである。あなたも知っての通り、もし家族の中のたったひとりしかキリストに導かれていないとすると、そのひとりは、居心地の良い巣の中の、まだらの鳥のようになるであろう。だが、主が家族全員をご自分のもとに引き寄せてくださるとき、その人たち全員が手に手を取って天国に歩んでいくのは何とほむべきことであろう! 私は、必要とあらば、あの基督者にように、ひとりで巡礼の旅を行くことを喜んでいるべきだろうと思う。だが私は、基督女や、慈悲子や、子どもたちや、大勇氏、また、正直翁、そして、《天の都》に連れ立って行く高貴な巡礼たちの一行とともに行く方をはるかに嬉しく思ったはずである。

 さらに、ひとりの人がキリストのもとに行くことになるのと同じ理由によって、他の人々もその人と一緒に行くことになるはずである。私がウォータービーチで説教するのを常としていたとき、その会堂は人ですし詰めであった。だが、最初にロンドンに来たときの私は、あまりにも多くの空席を見て非常に落胆させられた。しかし、ある人が云った。「請け合っても良いですが、田舎の村で六百人を引き寄せた福音は、ロンドンでは六千人を引き寄せますよ」。そして私は、この年月すべての間に、それが真実であることを悟ってきた。もしキリストが一個の魂をご自分に引き寄せることができるとしたら、なぜ二十人を引き寄せることがおできにならないだろうか。また、もし二十人を引き寄せることができるとしたら、なぜ二千人を、また、何十億人をも引き寄せることがおできにならないだろうか? なぜ私たちは何百万もの魂が神に回心する日を見るはずがないだろうか? 聖霊に祈ろうではないか。抵抗しがたいキリストの魅力を、御霊が全人類の中の何億もの人々に提示してくださるように、と。

 そして、愛する方々。罪人たちがキリストのもとに大挙して行くときには、それがキリストにいかなる誉れをもたらすか考えるがいい。ここでは一個の魂が救われ、あそこでは別の魂が救われるというのでは、全く何の注意も引かないかもしれない。だが、私たちにとって大きな喜びとなり、神に大きな栄光をもたらすのは、何百人、あるいは、何千人もの人々が、ペンテコステの日のように一度に回心するときである! そのとき、教会は清新にさせられ、生き返らされ、励まされる。この世はその噂を聞く。また、他の教会はその噂を聞き、同様の祝福を願い求める。それゆえ、私はあなたに懇願する。キリストにある私の兄弟姉妹。私と同じ祈りに加わってほしい。雲霞のような回心者たちがキリストのもとに飛んで行き、おびただしい数の尊い魂が、巣に向かう鳩のように主のみもとに行くように、と。

 IV. 時間が尽きてきたため、しめくくりにもう一度あなたにこう思い起こさせなくてはならない。《本日の聖句が私たちの前に提示しているのは、一幅の明るく美しい絵である》。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。

 彼らが誰か、あなたに告げても良いだろうか? 私は、彼らを神の選民として語るつもりはない。それは真実だが、そうはしない。また、キリストに贖われた者としても語らない。それも真実だが、そうはしない。聖霊の有効召命を受けた者とも云わない。それもやはり真実ではあるが、そうはすまい。しかし、むしろ私は、この主題の別の面について詳しく語ろうと思う。そして、それはこのことである。雲のように飛んで来るだろう人々の中のある者たちは、もし私たちの祈りが聞かれ、彼らが本当にキリストのもとに来るとしたら、私たち自身の息子たち、娘たちであろう。私たちが有したことのある、あらゆる信仰復興の時期の最大の喜びの1つは、その回心者たちの間に、常に相当の割合で、教会員たちの息子たち、娘たちがいたということであった。この事実に言及するだけで、あなたは生唾を呑み込むではないだろうか? あなたの祈りは、いま立ち上らないだろうか? 「おゝ、主よ。私の男の子を導き入れてください! 主よ。私の女の子たちをお救いください! 私たちの子どもたちをあなたの御前で生かしてください」。ことによると、あなたは別の若者たちと一緒に住んでいるかもしれない。文字通りあなたの息子や娘たちではないが、あなたにとっては、ほとんど同じような関係にあるむ者たちである。それは、あなたの甥や姪たちである。あるいは、あなたが面倒を見ているみなしごたちかもしれない。よろしい。願わくは、あなたがこの質問、「雲のように飛んでくる者は、だれか」、を発するとき、この答えが返ってくるように。「何と、それは、あなたと一緒に住んでいる当の者たちですとも! 神はあなたにとって最も近しく最も親しい者たちを祝福してくださったのです」。愛する若者たち。私たちがあなたのために望みうる最大の祝福は、あなたが早いうちにキリストのもとに導かれ、その《教会》に結びつけられることにほかならない。

 さらにまた、あなたがたの中の多くの人々をこの上もなく喜ばせるのは、この質問、「雲のように飛んでくる者は、だれか」、に答えてこう云われる場合であろう。「何と、その中の一部は、《日曜学校》の生徒たちですよ」。また、あなたをいやまして満足させるのは、答えがこのようなものである場合であろう。「その中のある者たちは、あなた自身の学級の生徒たちです。あなたが特に祈りを積んできた当の生徒たちですよ。――あなたが、あれほど真剣に話をしてきた男の子ですよ。――あなたが、あれほど愛情をこめてイエスのもとに行くよう懇願してきた女の子ですよ」。教師たち。あなたは、それが本当にあなたに対して云われうるとしたら、喜びのあまり手を打ち鳴らすではないだろうか? なぜそれが本当にならないことがあろうか? 神はしばしば、そのような媒介手段を祝福してこられたし、神の御腕は、救えないほど短くはない。神の耳は聞こえないほど遠くなってはいない[イザ59:1]。ならば、それがやって来ることを信じて、本気で真剣に働くがいい。そうすれば、それは確実にあなたに授けられ、その救いをあなたが求めている人々に授けられるであろう。

 私の心をことのほか嬉しくさせるのは、本日の聖句の質問に対する答えがこのようなものである場合である。「巣に帰る鳩のようにキリストのもとに飛んでくる者たちの一部は、あなたの話を長いこと聞いていた人々、長いこと座席を保有していた人々、長いこと回心しなかった人々ですよ」、と。神に感謝すべきことに、いま話を聞いている人々の中にそうした人はあまり多くない。というのも、主が次々と人々を引き入れてくださり、みことばを長いこと聞いていながら、それでも救われないままである人々はあまり大勢残っていないからである。恵みの斧は次から次へと罪の木立を伐り倒し、それを神の宮へと建て上げてきた。私たちの座席保有者たちのうち回心していない人々はどんどん少なくなりつつあり、私はこう祈るものである。「おゝ、主よ。あなたの鋭利な斧を持ち出し、彼らをひとり残らず伐り倒してください!」 私の話を昔から聞いていながら、まだ救われていない人がひとりでもいるとしたら、私は残念に思う。そして、私はいかに主をほめたたえることであろう。もしも、この同じ声が、同じ福音を宣べ伝えるのを、十年、十二年、人によっては十八年も聞いてきたあなたがたが、とうとう救われることになるとしたら!

 しかしながら、おそらく、本日の聖句の質問には別の答えがあるであろう。「何人かの見知らぬ人々、あなたの話をたまたま聞いただけの人々が、キリストのもとに導かれているのです」。愛する方々。私は、これまでしばしば行なってきた要請を繰り返したい。――みことばを聞くために、時たまにしかこの場所にやって来ない人々にぜひとも気を配ってほしい。あなたにできることはみな行ない、その人々を居心地良くさせてほしい。それから、説教者の使信に注意を払っているしるしが何かあるなら、あるいは、それによって感銘が生み出されたしるしが何かあるなら、誰にもこう云わせてはならない。「私は五、六回はタバナクルに行きましたが、誰ひとり私に話しかけてはくれませんでした」、と。決して誰も真実にはこう云えないようにするがいい。「何と、私は何年もあそこに通っているのに、まだ全くの余所者です。だのに、誰ひとり私に話しかけてくれません」。ここには常々、――そして、今では同じ種類の人々がもっと多くいるものと望むが、――非常に恵み深い心をした人々が何人かいて、常に懸念を覚える魂を見張っているものであった。私が覚えているひとりの青年は、このようなしかたで教会に加わった。彼は田舎から出てきた。――そのとき私たちはサリー公園音楽堂で礼拝していた。そして、彼が私たちの礼拝に出た最初の時に、私たちの兄弟たちのひとりが彼を場内に連れて行き、1つの席に座らせたのである。別の日曜に、この兄弟は彼をもう一度見かけ、正餐を取りに自宅に招待した。そして、神のみこころのことについて話をしたため、この青年は、ごく短いうちにキリスト者となり、教会に加わったのである。それ以前は神を恐れることなく生活していたが関係ない。もしも巣に帰る鳩のようにキリストのもとに飛んで来る者たちの間に、あなたが語りかけたことのある人がいるとしたら、――たまたま話を聞きに来て、宣べ伝えられたみことばに打たれたにもかかわらず、あなたが個人的に語りかけた二言三言によって平安と自由に至らされた人がいるとしたら、――それは、長く主をほめたたえることにならないだろうか? 私は祈るものである。キリストへと導かれる者たちの間に、多くの全くの外部の人々がいるようにと。私が、いまだかつてないほど話をする、あるいは、誰か他の人が話すのを聞くのを楽しんだのは、先週の水曜日、このタバナクルの場内を肉屋の職人たちで一杯にして私が話をしていたとき、あるいは、私のヴァーリー兄弟の話を聞いていたときではなかったかと思う。彼らは徹底的に真面目な様子をしており、福音に深く感銘していた。また、そのうちの何人かはそれを心に保ち続けており、彼らの生活の中で実を結んでいくものと私は信ずる。私たちは、あらゆる通常の礼拝式の外部にいる人々をつかもうと絶えず努めなくてはならない。あなたがた、小冊子を手にしてこの地区中を巡り歩いている人たち。あなたがた、人々の自宅を訪問している人たち。あなたがた、町角に立って説教している人たち。あなたがた、神の主軍の先頭で軍馬を駆っている、霊的な《槍騎兵》たち。あなたがた、清新な土地を掘り起こしては、キリストのために耕されつつある土地領域を増し加えようと努めている人たち。――願わくは、あなたがた全員が、巣に帰る鳩が飛んで来るようにキリストのもとにやって来る回心者たちを見るときに、現世での報いを受けるように! 願わくは私たちの、男女のための聖書学級が豊かに祝福され、多くの人々をキリストとその《教会》へと導くように! 願わくは私たちの《学校》が豊かに祝福され、あらゆる人が《主人》の御国の進展のためにふんだんに用いられる者となるように! そして、願わくは私たちの中のすべての者たちが、私たちの大いなる人数の増加の分け前にあずかろうと求めるように。そうした増加を、神はじきに私たちに送ってくださると信ずる!

 もう1つだけ問いを発して、しめくくることにしよう。雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくるこの者たちの中のひとりに、あなたもならないだろうか? 話をお聞きの方々。「先生は、私がこの教会に加入するようお求めなのですか?」 私はそうは云わなかった。あなたがどこかの教会に加入することなど一言も云わなかった。あなたはキリストに結び合わされて初めて、キリストの《教会》に加入することができるのである。それが使徒的なやり方であった。「彼らは……神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました」[IIコリ8:5]。私が最初に問いたいのは、あなたにバプテスマを受ける気があるかどうかではない。キリストを信じてもいないうちから、あなたにバプテスマを受けてほしくはない。それは無益である。否、それよりも悪い。よこしまなことである。不信者のバプテスマを裏づけるようなものは聖書に全くない。幼児に水を降りかけるか、イエスを信じていない成人を水に沈めるかすることは、キリストの律法にそむくことである。主は、その順序を定められた。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。あなたは問うだろうか? 「私が何をすることをお望みなのですか?」 私があなたに望むのは、主イエス・キリストを信ずる者たちのひとりとなることである。神の御霊は、あなたの心の中で働き、こう云っておられるだろうか? 「悔い改めよ。立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」[エゼ33:11参照]。あなたにこう云っておられるだろうか? 「自分をキリストにゆだねなさい」。ならば、その恵み深い影響力にいま屈して、こう云うがいい。

   「今は汝がもの、ただ汝がものならん、
    おゝ、神の子羊よ われは行かん」。

もし、あなたが真摯にそう口にするとしたら、あなたは救われた魂である。さあ、バプテスマを受けるがいい。さあ、教会に加わるがいい。だが、まず、自分がイエスを信じていることを確かめるがいい。それが最初の務めだからである。願わくは、神があなたをキリストに導き、《三一のエホバ》の祝福が永遠にあなたとともにあらんことを! アーメン。アーメン。

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鳩小屋からの教訓[了]

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