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あわれみの使命

NO. 3050

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1907年7月25日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1863年


「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。――ルカ19:1


 神が人間の肉体と結び合わされるために天から下って来られたのは、ただ一度であった。いかなる使命のために、また、誰をその使命の対象としてやって来られたのだろうか? その使命のため、いかなる使者が遣わされたのだろうか? いかなる方法に従ったのだろうか? それはいかなる首尾を収めただろうか? 本日の聖句はこう知らせている。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。こうした四つの点について手短に語りたいと思う。

 I. 第一に、《キリストの使命の対象について》である。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。

 「失われた」という言葉で呼ばれるのは、常に、意気阻喪して、自分に絶望している人々である。こうした人々は云う。「私たちは失われています。――自分が失われていること、全く失われていることを感じます」。ここでそうした人々は、自分の無知と不信仰を漏らしている。――なぜ無知かというと、失われていることは、取り立てて何か不可思議な悲運に陥ったと主張するようなことではないからである。全人類は失われているのである。また、なぜ不信仰かというと、キリストが特に失われた人を捜して救うために来られたからである。それゆえ、人が失われていることは絶望すべき根拠にはならず、希望の根拠と解釈されて良い。この「失われた」という言葉についてよくよく考え、キリストが救おうとして来られた人々がいかなる意味で失われているか見てとることにしよう。

 キリストがやって来て救おうとされた者たちは、遺伝的に失われている。人々はこう云うことがよくある。「人は今、見習い期間中の状態にある」、と。だが、そのようなものは全くない。いま見習い期間にある人はひとりもいない。アダムは見習い期間にあったし、アダムにあって人間は見習い期間にあったが、それは与えられた試験に対して彼が従順であった間しか続かなかった。彼は試練を受けていた。だが、アダムが禁じられた木の実を味わった瞬間、見習い期間は終わり、彼は失われた人となった。また、私たちの見習い期間も終わった。というのも、私たちは彼にあって失われたからである。人は、この世においては、すでにさばかれている状態にあるか、救われた状態にあるかのいずれかである。「信じない者は」、見習い期間にあるのではなく、「神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。これは天来の権威に裏づけられたことである。イエスを信じた者は、見習い期間に入るのではない。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。また、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」[Iヨハ3:2]。実を云えば、私たちはみな、アダムの罪によって完全に失われており、自分たちがみなキリストの義によって完全に救われることを示してくれる啓示を必要としているのである。それは、私が堕落するかしないかの問題ではない。私はアダムにあってすでに堕落している。「ひとりの人の不従順によって」、と使徒は云う。「多くの人が罪人とされた」[ロマ5:12]。私は、アダムが立っている限り、アダムにあって立っていた。だが、アダムが堕落したとき、彼は私を――また、私のあらゆる親類縁者を――代表していたため、私たちは彼にあって堕落した。何の希望もなく、永遠に失われるほどに堕落した。そして、イエス・キリストが「失われた人を捜して救うために」介入してくださらなかったとしたら、そのままであった。

 また、私たちは別の意味でも失われている。私たちは、性質という面でも失われている。一部の人々の示唆するところ、人は自分自身の性格を選べる力を自分のうちに有しており、自分自身の運命の決定者となれる。人の性質は、少なくとも、ある種の平衡状態にあり、清廉潔白という狭く細い通り道を選択することも、滅びに至る広い道を突き進むこともできるのだという。否。私の愛する方々。聖書と経験の双方はそうではないと私たちに教えている。私たちが持って生まれた性質は、悪であるものに傾き、自分からは決して善であるものに向かうことをしない。「ああ」、とダビデは云う。「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」[詩51:5]。いみじくもヨブはこう問うている。「だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません」[ヨブ14:4]。ならば、いかにして自らも罪深い女から生まれた者がきよくありえようか? いかにして汚れた者である私たちが、きよい子どもたちの親になれるだろうか? そのようなことは不可能である。人間性の源すべてが病んでおり、心のすべてがふらついているのである。自然と私たちは、生まれついたそのときから道を外れ、嘘をつく。人間性の上には、私たちの最初の親によって一言、「失われている!」、と書かれている。――神に対して失われており、それゆえ、種々の情愛を高潔に働かせることに対しても、識別力の真実な釣り合いを保つことに対しても失われている。清廉潔白さに対して失われており、意志は従順に対して失われており、精神的な視覚は神の御姿に対して失われており、道徳感覚はそのしかるべき良心の感受性に対して失われている。そうした感受性がなければ、良心は罪からはっきり離れて立つことができない。人のうちにある支配力は、その地位から引きずり下ろされている。人間であることの栄光、その勝利、完全さは、失われ、永遠に失われている。より偉大な《人》がそれを回復してくださらない限り、そのままである。これこそ、全人類の真実な描写であり、確かにキリストがやって来て救ってくださった者たちは、遺伝的にも、生まれながらにも失われていたに違いない。

 こうした者たちの中にいる、ある者たちは、一切の感情に対して全く失われており、自分が失われていることが分からないほどである。福音の説教でさえ、こうした人々に自分たちの状態を意識させるには十分でない。彼らの良心は無感覚になっており、彼らの心は罪に歪められ、かたくなになっている。たとい彼らがかつては必ず来る御怒りを思って震えるとはどういうことかを知っていたとしても、その時はもう過ぎ去っている。天来のあわれみによる懇願でさえ、大理石の上にたらされた油のように、だらりとぬめり落ち、何の効果ももたらさない。彼らは感じられれば良いのにと願う。絶望した魂をうらやみ、自分でも絶望できたら良いのにと願う。しかしながら、彼らも絶望している。絶望できるほど善良な状態になれないと絶望している。「たとい何か感じるとしても」、と彼らは云う。「それは、自分にはものを感じられないと分かる痛みだけだ」。そして、そうした痛みさえ大して感じられない。さて、そのような者たちをさえ救うためにイエス・キリストは来られたのである。そして、私たちはそのことを知っている。私たちの中のある人たちは、以前はそのような者だった[Iコリ6:11]からである。私は思い起こさないだろうか。一粒でも涙を流せたなら両目を失っても良いと思っていた頃のことを。また、膝をかがめて呻き声1つでも上げられるとしたら、どんな苦しみをも喜んで受けようとしていた頃のことを。しかし、私の心は吐息1つもらさず、私の目は涙一滴すらこぼさなかった。私は神の《書》に目を向けたが、感動しなかった。説教に耳を傾けたが、何も感じなかった。死に給う《救い主》の呻き声さえ、私の心のように卑しいものは決して動かせないかのように思われた。だがしかし、私は証言するものである。キリストはそのような者をも救うために来られたのだ、と。というのも、この私でさえその救いを喜んでいるからである。あなたがた、あらゆる感情に対して失われている人たちは、この聖句にすがりついて良い。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。

 それから、他の人々はあらゆる希望に対して失われている。そうした人々とともに祈っても無駄である。彼らは立ち上がると、あなたの祈りに感謝する。だが、神は決して自分の声に耳を貸さないと確信している。彼ら自身、時には祈ることもある。必要にかられて膝まずくことがある。だが、祈りながらもこう確信しているのである。自分たちが語りかけている神の心はすでに固まっているのだ。自分たちを御前から永遠に放逐しようと決心しているのだ、と。他の人々に役立つ種々の慰めも、彼らには全く無益である。あなたは、自分の慰藉が彼らの状況にも当てはまるのだと懇切丁寧に説明するかもしれない。だが、彼らがあなたの慰めを寄せつけない手練は、歴戦の勇士がその盾で敵の矢から身を守るにも似て鉄壁である。彼らは慰めの言葉を聞こうとしない。あなたがいかに懸命なしかたで喜ばせようとしても関係ない。神の《書》の中で、自分たちのために残されているのは、雷鳴と稲妻しかなく、自分たちは、「さばきと……激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」[ヘブ10:27]と心決めしているのである。左様。そして、たとい自分の名前が聖書の中に書き記されており、その名前に約束が書き添えられていたとしても、彼らは自らの名前もその約束もともに否定するであろう。彼らは、かの暴君《不信仰》に骨の髄まで屈服したあげく、こう云うのである。「私たちに希望などあるはずありません。私たちのような罪人が永遠のいのちにあずかるなど不可能です」、と。たとい彼らにその絶望の理由を問い質しても、それを告げるとは限らない。「いいえ」、と彼らは云うのである。「私たちは、自分が何をしてきたか、何と感じているか、生きているどんな人にも告げたくはありません」。ある場合、それは何か圧倒的な罪である。さもなければ、良心が罪の確信を覚えたある時期、抵抗したことである。さらにまた、それは老年であり、悔悟しないままこれほど長く生きてきたことである。彼らにはみな異なる理由がある。その1つとして真実な議論ではない。彼らはサタンの不真実を信じて、神は赦したいと望んでおられないのだと思っている。神ご自身の誓いなど二の次なのである。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ」[エゼ33:11]。私は、このあわれな魂たちが、いかにして次のような聖句から逃れおおせているのか見当もつかない。――「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」[マタ12:31]。――「御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7 <英欽定訳>]。――「キリストは……ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」[ヘブ7:25]。それだけではない。――「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」[Iテモ1:15]。もう一度云うが、彼らがいかにしてこうした希望の言葉の優しい影響力をのがれることができるのか、私には分からない。だが彼らはいかようにしてか、それらから逃げおおせては、自分の鎖をかかえこんだまま、その地下牢の暗闇の中にある、ある種の片意地な隷属状態にとどまり続けているのである。だが、イエスが来られたのは、まさにこのような罪人たちを救うためである。そして、この場にはそうした者たちがいる。今は足取りも軽く、輝く目をしているが、かつては、「悩みと鉄のかせとに縛られて」[詩107:10]いた人々である。だが、あなたはその死の影の谷から引き出され、キリストはあなたの束縛を打ち砕かれた。あなたは今、神への賛美を歌うことができ、あなたの歌は、あなたと同じ囚われ人である他の人々に証言するであろう。イエス・キリストが来たのは、「失われた人を捜して救うため」であったことを。

 キリストがお救いになる一部の人々は、社会的に失われている。彼らの名前は、今では家族の中で口にされない。それは母の胸をあまりにも痛ましく刺し、父を赤面させるであろう。今や彼らは、いかなる体裁の良い社会にも入ることができない。彼らは白眼視される男であり女である。ある人々など、この国の法の前においてさえ失われている。正義の手が彼らの上に置かれ、彼らは法の下で縄目を受けている。彼らは重罪犯人として目をつけられているかもしれない。それでも、人の子は、社会的に失われた者たちを捜して救うために来てくださった。社会の門が閉ざされるときも、あわれみの門は閉ざされない。人が、絶望のきわみと考えるような場合でも、また、社会から爪弾きにされた者たちが一種の癩病院に入れられて、その感染を食い止めようとされているときも、イエスはその癩病院に踏み入り、「きよくなれ」、と仰せになるのである。彼らを人間たちの間から閉め出すことはできるかもしれないが、《救い主》から閉め出すことはできない。彼らが最悪の状態に至り、放蕩無頼をきわめて、自分でも疲れ切り、病んでしまったときも、なおも《主人》は踏み出して、痛みと病によって聞きやすくなったその耳に囁きかけ、この燃えさしを火の中からひったくっては、ご自分の恵みの栄光とすることがおできになる。

 他の人々をもまた、《救い主》は疑いもなく救おうとして来られた。彼らは、一時は、公然と、また、断固として失われていた。ある人々はサタンと盟約関係にあり、死と契約を結んでいた。彼らは云っていた。「神に立ち返ったりするものか。焼かれる方がまだましだ」、と。彼らは良心に抵抗するばかりでなく、いわば神ご自身と死闘を繰り広げると宣言していた。天と地を証人に立てて告げていた。自分はサタンの奴隷であること、そして、彼を自分の主人として選んでいること、そして、死ぬまで彼に仕えたいと願っていることを。それでも、彼らの死との契約は破られ、地獄との盟約は完全に無効にされた。神は、強大な恵みによって彼らを、かつて悪い者のしもべであったのと同じくらい断固たる、ご自分のしもべとされた。おゝ! 恵みが行なわなかったこと、また、これから行なえないことがあろうか? 「失われた」という言葉を可能な限り最悪の意味に取ってみるがいい。それでも、この試験は当てはまるのである。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。

 ことによると、あらゆる失われた魂の中でも、最もみじめに失われた者たちとは、福音が聞こえる下で滅びる人々である。あなたがたの中のある人々のためは、何年も何年もの間、祈りをささげられ、説教が行なわれ、涙が流されてきた。そして、もはやあなたには何の望みもないと思われるまでとなっている。あなたがた自身、福音の光の中で生み出されたかたくなさを感じている。他のどこでも生まれることのないかたくなさである。蝋を溶かす同じ太陽が粘土を硬くする。そして、それがこれまで、すさまじくあなたをかたくなにしてきたため、今やあなたは実に福音を聞くのをひどく恐れるまでとなっている。これ以上さらに神から遠く漂い流されるといけないからである。よろしい。そのように失われた者たちをさえ、イエスは救おうとして来られた。私は、自分の言葉遣いでは、この「失われた」という言葉が当てはまる範囲を十分には云い表わせないことを意識している。あなたがたの中のある人々は、自分と地獄に落ちた者らの間に、ほとんど何の違いもないと思っている。彼らはその炎を感じている。あなたはそれを待っている。あなたの感じるところ、彼らは処刑を受けているが、あなたは死刑囚独房の中にいる。彼らはキリストが、「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]、と仰せになるのをすでに聞いてしまったが、あなたは自分が呪われているのを感じている。キリストはまだあなたには、「離れて行け」、と仰せになっていないが関係ない。あなたの考えによると(云わせてもらえば、それは間違った考えであるが)、あなたの死刑執行令状は署名捺印がなされている。あなたは、自分はこの世から追放されたも同然だと公言している。というのも、たといどれほど長生きしようと、自分が望みなく、神なく生き、また、死んでいくと知っているからである。あゝ! あわれな魂! イエス・キリストがやって来て、捜して、救おうとしておられるのは、まさにあなたのような罪人にほかならない。そして、私は確信している。いかにあなたがそれとは逆のことを云おうと、キリストがやって来て、捜して、救おうとしておられるのはあなたである――まさに、あなたにほかならない――と。

 これが、このあわれみの使命の悲しみに沈んだ対象たちである。さて、次に私たちが目を向けたいのは、あわれみの《使者》――失われた人の《救い主》――である。

 II. もし失われた人が救われることになるとしたら、並外れた性格をした何者かがやって来て、それを行なわなくてはならない。否、《もし彼らが捜され、見つけ出されるとしたら、特別な使者がいなくてはならない》

 通常の人間たちであれば、たとい失われた者たちを捜しに行っても、たちまちその捜索に倦み疲れてしまう。ことによると、彼らがそうした者たちを捜さなくてはならない場所は、高慢が行きたがらない所かもしれない。あるいは、彼らがそうした者たちの後を追わなくてはならない時には、彼らの辛抱が切れ、彼らの忍耐が耐えられなくなるかもしれない。特別な《お方》でない限り、失われた人を捜すことはできない。だが、その罪人が見つかったとき、誰にそれを救うことができるだろうか? いかなる人間の腕の長さをもってしても、いかなる人間の功績の強さをもってしても、いかなる人間の訴えの効果をもってしても十分ではない。それゆえ、こう記されているのは喜ばしいことである。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。

 この《人の子》とはどなただろうか? 「キリスト……万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」[ロマ9:5]である。威光において比類なきお方でありながら、キリストは人間の称号を帯び、下賎の境遇に身を置いて、この卑しい働きを引き受けるためへりくだってくださった。やって来てマリヤの《子》となる前の主は、永遠の神の御子であられた。その栄光の御座に着き、ご自分の御手が造った霊たちによってあがめられていた。だが、主は、彼方の星をちりばめた天空から降りて来ては、失われた人を捜し、救おうとしてくださった。このことは、神の永遠の御子がいかに憐れみに満ち、いかにへりくだった、いかに慈悲深いお方かを証明している。失われた人よ! ここに、あなたのための慰めがある。もしイエスが、その栄光の御座からさえ、失われた状態にあったあなたをあわれまれたとしたら、また、もし失われた人を捜して救うためにやって来ておられるのが、同じ憐れみに富む《お方》であられるとしたら、この方はあなたを捜して救う《お方》ではないだろうか?

 しかし、このお方がどなたか思い出すがいい。「《人の子》」である。主は、自らその称号を名乗られた。「《人の子》」、と。主はあなたが感じるようにお感じになる。あなたが誘惑されるのと同じように、あらゆる点で誘惑をお受けになった。ご自分では、ただの1つも罪を持たなかったが、多くの人のもろもろの罪を負われた。また、罪の重みがいかなるものか知っておられる。あなたは、キリストから見捨てられてしまっていると考えている。そして、キリストも、かつてはご自分の御父から見捨てられたとお考えになった。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]、と主は叫ばれた。あなたは心が打ち砕かれている。主も、それがどういうことかご存知である。というのも、「そしりが私の心を打ち砕き」[詩69:20]、と仰せになったからである。あなたは、神の波と大波がみなあなたの上を越えて行ったと考えている。主は、それがみなご自分の上を越えていったと仰せになり[詩42:7]、それはまぎれもない真実であった。あなたの有している悲嘆が、《救い主》の知られた悲嘆よりも深いということはありえない。あなたが主よりも深く潜ることはできない。たとい罪があなたの上に臨んで、あなたが仰ぎ見ることもできないほどだとしても、あなたと神との間にある罪の黒雲は、決して、この《身代わり》と御父との間にかつてあったものほどどす黒い雲ではありえない。というのも、主の選民のありとあらゆる罪は、大海原における嵐のように、正義の神と、あなたのために打たれた《保証者》との間で荒れ狂ったからである。あなたがた、失われた人たち。キリストを、罪に関する以外はあなた自身と全く同じようなお方として考えるがいい。――キリストは、あなたがありえるのと同じくらい、貧しく、頭に枕する所もなく、乏しく、苦しみを受け、苛まれていた。この方こそ《人の子》であられる! おゝ、その優しい御胸に安らぎ、その同情に満ちた御心に何もかも打ち明けるがいい!

 たとい主が、単に天から来られただけであったとしても、それは愛の証しとなり、同情のしるしとなったであろう。だが、それだけではない。こう書かれている。主は、「失われた人を捜して救うために来た」。ここには、主の活動の証しがある。主は、ただ座して人々をあわれんではおられない。立ち上がって彼らのための計画を提案なさるのでもない。むしろ彼らを捜して救うためにやって来られた! 御使いたちは、主の来臨を祝って歌った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]。《人の子》は来た! 彼らは、主がその地上の巡礼路を通って旅するのを見て、こう歌うかに思われた。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。しかし、その歌を何にもまして深めたのは、1つの驚くべき強調点であったに違いない。主がゲツセマネで大きな血の汗を流しているのを見たとき、また、主がローマ兵によって縛られ、鞭打たれ、苦しみを受けているのを見たとき、また、主が十字架の重みを背負っているのを見たとき、また、その呪われた木に固定され、その魂を血の流れによって注ぎ出しているのに注目したとき、いかに彼らは感じたに違いないことか。《人の子》は捜して救うために来たのだ、と! 《地》はその調べを聞いた。「《人の子》は来た」。罪はそれを聞き、死はそれを聞いた。そして、《救い主》が十字架上でその頭を垂れたとき、そこには大きな声が上がった。「《人の子》は来た」、と。そして、驚愕した地獄はそれを聞いた。サタンは、自分のえじきになると期待していた者たちが、死に給う《苦しめられるお方》の強い腕によって解放されるのを見た。《天》はそれを聞いた。その轟きが上へと鳴り響いたとき、御使いたちはこう云った。「《人の子》は失われた人をここへ引き上げるために来られたのだ」、と。だから、《救い主》のうちには活動があるのであり、それをあなたは頼りとして良い。

 この《救い主》については、これ以上云うまい。ただ、あなたが時間のあるときに瞑想できるよう、ほん少しの考えだけ述べておこう。失われた人を救うために来たお方、世の基が置かれる前から罪人たちを愛し、彼らの《救い主》となるよう神に任命されていたお方は、力の御霊によって着せられた、天来の任務を負って来られた。その御手に贖罪のいけにえを携えて来られた。その御口に、1つの訴えを上せて来られた。「アベルの血よりもすぐれたことを語る」[ヘブ12:24]血の声である。また、この方は、その目から光輝く愛を、また、その心から同情を満ちあふれさせながら来られた。ご自分のもとに来る者たちではなく、来ることができず、来ることを恐れている者たちのもとに来られた。《人の子》は、――ほかならぬ、「わたしは心優しく、へりくだっている」[マタ11:29]と仰せになったお方は、――失われた人を捜して救うために来られたのである。

 III. さて注意したいのは、《この愛に満ちた使命の計画》である。

 単に、「救うために来た」、と云うだけでなく、「捜して救う」、と云う必要がある。驚愕すべきことに、また、人間の堕落を大きく証明していることに、人々は、自分では救いを求めない。彼らはその必要を否定することさえ行ない、それにあずかるくらいなら、逃げ去ろうとしたがる。もしあなたが午前中に施療院の前を通りかかるなら、しばしばその戸口の前に貧しい外来患者たちを見かけるであろう。そして、医者が彼らを診察する時間が来ると、多くの者たちが待合室に見いだされるであろう。だが、無料で診察する患者たちを捜すために外に出て行く医者のことなどめったに聞かない。しかし、私たちの《救い主》は単に治療するだけでなく、患者たちを捜し出してくださる。そして、もし主がそうなさらなかったとしたら、主にはひとりも患者がいなかったであろう。というのも、私たちの病は、人々を《医師》のもとに決して連れて行かず、かえって遠くへ遠くへ追いやるような種類のものだからである。

 主は彼らを捜すために来られた。福音によって彼らをお捜しになる。今晩、主はあなたがたの中のある人々を捜しておられる。主は摂理によってお捜しになる。時として、主の荒々しい摂理が探し求める。別の時には、主のいつくしみ深い、日ごとのあわれみが人々を差し招く。主は、その仲間たちの死によって人々をお捜しになる。――母が死の床に就き、赤ん坊がいきなり天国へと連れ去られて行くこと。――これらすべては、イエスが失われている者をお捜しになる手段である。主はその御霊によって有効にお捜しになる。主の御霊は人々のもとにやって来て、その暗闇を明らかに示し、まことの《光》なるキリストを彼らに指し示す。そして、このようにして明らかに彼らは見つけ出される。彼らの居場所そのものの中で見つけ出される。そして、自分でも自分が破滅の中にいることが悟られる。

 しかし、さらに云い足されているように、主は単に捜すために来たばかりでなく、救うために来られた。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私は捜してもらわなくとも結構です。私は見いだされています。ここに私は、自分の愚劣さを確信しながら座っており、私の罪を認めます。実際私は捜し出され、見つけ出されていますが、救われることが必要なのです」。さて、愛する方よ。《人の子》は、失われた人を捜すのと同じく、救うためにも来られたのであり、それをこのように行なわれる。――人の子は彼らを過去の罪の咎からお救いになる。キリストの血が良心に塗られるや否や、一瞬にして、あらゆる過去の罪は消え失せ、その人は、神の御前であたかも一度も罪を犯したことがなかったかのようになる。キリストは一瞬にして不義を取り去られる。主が次に行なうことは、内側の罪の力を殺し、その人を「新しく造られた者」[IIコリ5:17]とすることである。主は、単にその人を過去の咎から救うだけでなく、現在の罪の力からも救われる。たとい主が罪を根こそぎにしないとしても、少なくとも、罪を切り倒される。そして、罪が私たちを支配することはない。なぜなら、私たちは律法の下にはなく、恵みの下にあるからである[ロマ6:14]。長いこと震えてきた人は、もはや震えることはない。泥の中に深く深く沈みつつあった人は、自分の口に新しい歌があり、自分の歩みが確かにされたのを感じる[詩40:2-3]。そして、主は、その人の現在の罪の力から救うのと同じく、将来の転落からもお救いになる。主の救いは、ほんの一年や、十年間だけ救われていて、それから転落するようなものではない。主は究極的に、また、完全に、失われていた人をお救いになる。そして、この1つの行為によって、あなたがた、罪人たちは、このすべての至福を実感するようになるであろう。――あなたの咎ある魂を、あなたの救い主に投げかけるがいい。心を尽くしてそうするがいい。そうすれば、あなたの罪は拭い去られる。あなたの魂は救われ、あなたは安心して行くことができる。

 IV. 最後に、《このほむべき目論見の首尾》を喜ぼう。

 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。主は、ご自分が来て行なおうとしたことに成功されるだろうか? 主は成功される。神はほむべきかな! そして、この終わりの時に、私たちは生き長らえて見ることができている。いかに《主人》が現実に、失われていた人をお救いになるかを。幾多の劇場が、みことばの宣教のために門戸を開いていることは、非常にほむべきことである。みことばを宣べ伝えながら全国を巡り歩いている伝道者たちが起こされていることは、《人の子》が捜して救うことをおやめになっていない1つの証拠である。十一年前の、私がロンドンで教職者として働き始めた頃のことを振り返ってみると、その当時、みことばの宣教にはほとんど注意が払われていなかったかのように思われたことを思い出す。その頃の私たちは、今ならできることを行なえなかった。今では、ほぼ二十名を数える伝道者たちが全国を巡り歩いており、その全員がそれなりに有益な人々である。――例えば、リチャード・ウィーヴァーや、レジナルド・ラドクリフや、ブランロー・ノース、その他大勢の人々であり、彼らはみな自分なりのしかたでこの働きにうってつけの人々である。当時は、まるでキリストの《教会》は失われた人を捜すことをあきらめてしまっているように思われた。だが、神はみことばを宣べ伝えるために、ひとり、またひとりと人々を起こして、この聖書を成就してくださった。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。

 ある人は云うであろう。「もし人々が福音を聞きたければ、教会か会堂に来るがいい。好きなときにいつでも福音を聞けるのだから」。だがそれは、キリストのなさり方ではない。私たちが行って彼らを捜すべきである。野外説教はほむべき制度である。また、たとい、そのため時には大通りの通行が妨げられることになろうと、その方が、地獄への大通りがにぎわっているよりは良い。もしあなたが1つの魂を地獄への路から引き返させるとしたら、どこかの通行人が町通りから引き返させられ、自分の革靴に泥をつけることになるとしても問題ないであろう。深夜の礼拝式や、真夜中の町通りであわれな罪人たちを狩り立てることや、《貧民学校》や《教護院》を開くこと、――これらはみな、この言葉の成就である。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。

 私たちは、主が捜しておられることを知っている。だが、主は彼らを救われるだろうか? もし私が自分の見聞きしてきたことから答えなくてはならないとしたら、この会衆の多くの会員たちを指さして、こう云えるであろう。「彼らを救う? 実に主は、そうしておられますとも! 主はこの人たちを、キリスト・イエスにあって新しく造られた者としてこられなかったでしょうか?」 

しかし、もしあなたが別の場所を眺めるとしたら、忠実に福音が宣べ伝えられている至る所で、救いのわざが進みつつあるのを目にするであろう。望むらくは、そのわざが私たちとともに何年も何年も進み続け、キリストがおいでになるまでそうであるように。キリストは、ご自分が来てお救いになろうとした魂たちを失望させはしない。主が《身代わり》として立ってくださった者たちはみな、天で主を賛美して歌うであろう。主が贖われたのは、後に地獄に投げ捨てられかねない魂たちではない。主が私のもろもろの罪のために苦しまれたのは、私もそうした罪のために苦しむためではない。主の贖罪は有効である。主が死んで救ってくださったあらゆる罪人を、主は現実にお救いになる。主はいかなる時にも裏をかかれはしない。いかなる目当てにおいても失望なさらない。主が捜して救うためにやって来た失われた人を、主は見つけてお救いになる。そして、永遠において、私たちは見いだすはずである。選ばれた者たちの名簿が開かれるとき、そのあらゆる者が永遠の御座の回りに集められており、主の主権の恵みをたたえて歌っていることを。

あわれみの使命[了]

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