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もしそうなら、――どうなるのか?

NO. 3047

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1907年7月4日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1871年10月15日、主日夜


「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう」。――Iペテ4:18


 ある人々は、救われることをごく容易なことだと考える。だが、私たちの主は云われた。「努力して(原語では『苦闘して』)狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから」[ルカ13:24]。人々は、福音の単純な説教を聞くと、――その骨子は、魂を救いに至らせる、あの偉大な使信、「信じて生きよ」、である。――こう云う。「もしそれがこれほど単純な問題だとしたら、あらゆる人が信じるのではありませんか?」 しかし、預言者イザヤはそうは語らなかった。彼は悲しくもこう問いかけている。「私たちの聞いたことを(欄外の読み方によれば『私たちの教えを』)、だれが信じたか」[イザ53:1]。信仰は、あまりにも容易に思われるため、人はこう尋ねるかもしれない。「それを見いだせない場所があるでしょうか?」 しかし、私たちの《救い主》は、そうはお考えにならなかった。というのも、主はこう問われたからである。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」[ルカ18:8]。それをどこで探せばよいか知っているお方、また、それを見分ける最も鋭い目を持っているお方が、果たして地上にそれを――信仰と呼ばれる、その希少なもの、「神に選ばれた人々の信仰」[テト1:1]を――見つけられるかどうか問うておられるのである。嘘ではない。「聖なる道」は、あまりにも平坦なため、「旅する者は、愚か者であっても、ここで迷うことはない」[イザ35:8 <英欽定訳>]。だが、私たちの心のかたくなさのため、私たちの中の誰にとっても、その道に入ること、また、それを歩み続けて、ついに上にある私たちの永遠の家まで至ることは、決して容易ではない。

 私は、本日の聖句に厳密にとどまるつもりはなく、むしろ、その意味を次のようなしかたで示そうと思う。第一に、ここでは1つの事実が述べられている。「義人がかろうじて救われる」。それから第二に、その事実から1つの推論が引き出されている。もしも義人たちが真に救われるにも非常な困難が伴うとしたら、「神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう」。この推論を考察し終えた後で、私たちがあえて行ないたいのは、さらなる教訓となるだろう、もう2つの別の推論を引き出すことである。

 I. まず第一に、《ここでは1つの事実が述べられている》。「義人がかろうじて救われる」。すなわち、彼らが救われるには、非常な困難が伴わざるをえない。それは、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストに何か欠けがあるためでも、その贖罪のいけいえや、そむく者たちのための主のとりなしの効力に何か欠陥があるためでもない。神に感謝すべきことに、そこにはいかなる困難もない! 「義人」が救われるのに非常な困難が伴わざるをえないのは、聖霊の側に救う力が足りないためでも、神の真実さが不十分なためでもない。むしろ、それは、今から私があなたに示す2つの理由のためである。

 最初の理由は、天来の支配の厳格さのためである。本日の聖句の直前の節の最初の句を読むがいい。「さばきが神の家から始まる時が来ている」。そして、その審きはあまりにも峻烈なものであるため、「義人」でさえ「かろうじて救われる」のである。キリストは、ご自分の民のもとに来るときでさえ、彼らを純粋にし、きよめるために来られる。預言者マラキは、主の初臨についてこう書いている。「まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となる」*[マラ3:2-3]。また、バプテスマのヨハネはキリストについてこう云った。「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」[マタ3:11-12]。審きは常に、「神の家から始ま」らざるをえない。そして、善良なレイトン大主教が非常に適切にも語っているように、「そのような取り計らいには、公平さと適切さ」の双方がある。そこには公平さがある。というのも、キリスト者たちは、他の人々よりもまさっていると告白しており、それゆえ、彼らは実際にそうあるべきである。彼らは、自分たちが新生していると云っており、実際に新生した者たるべきである。彼らは、自分たちが聖い民で、キリストのため選び分けられていると云う。それで、彼らはキリストと同じように聖く、罪人たちから分離した者たるべきである。高い召し、誉れある名前があるところには、その2つの正確さを証しする生活があるべきである。それで、金や銀であると告白しているものを神が試すことをお始めになるとき、誰が、神はその試しを正しいところで、また、正しい素材に対して始めなかったと云えるだろうか? この取り計らいは、適切であり、ふさわしいとも云える。神の《教会》は、神の家である。そして、人はどこできよめや改革を始めるべきだろうか? 何と、もちろん、自分自身の家の中である。その人が、農場の中には、何か不潔なものがなくてはならないと感じることもあるかもしれない。だが、茶の間にそうしたものがあって良いはずがない。外にある多くの悪は、自分には取り除けないかもれないが、家の中をきよめ始めることはできる。私たちひとりひとりが、世界を改革することにおいて何らかの善を施したい場合、真っ先に行なうべき義務は家の中を改革し始めることである。そして主は、金滓を取り除こうとなさるとき、まず家から始めて、「シオンに火を持ち、エルサレムにかまどを持つ」[イザ31:9]のである。

 神が神の民であると告白する者たちをくぐらせなさる試しは、容易なものではない。御手にその箕があるとき、「風が吹き飛ばすもみがらのよう」[詩1:4]である人々は災いである。主は預言者アモスの口によって仰せになる。「わたしは……ふるいにかけるように、すべての国々の間でイスラエルの家をふるい、一つの石ころも地に落とさない」[アモ9:9]。また、そのふるいには、もみがら一粒も残らない。全能と全知が一緒になって、もみがらを麦から分けようとするとき、そのふるい分けは徹底的になされると思って間違いない。そこには、火による試しもある。そして、もし誰かがその試しに耐えられないと、「彼らは廃物の銀と呼ばれる。主が彼らを退けたからだ」*[エレ6:30]。それで神は私たちをお量りになるであろう。私たちは、聖所の秤の上に載せられ、目方が足りないことが分かれば、いかに恐ろしいことになるであろう! 私たちはしばしば見かけで判断するが、神は心をご覧になる。私たちは外的な告白で欺かれるかもしれないが、神は内側にあるものをご覧になる。私たちの心のうちの《真実》をお探しになる[詩51:6]。そして、私たちは、心の奥に真の《知恵》がない限り救われない。

 さて、愛する方々。こうした試しがこれほど峻厳である以上、義人が救われるにも非常な困難が伴わざるをえない理由は分かるであろう。おゝ、もし私が全く目方が足りないことなしにその秤から出てくることができるとしたら、もし私がその火から純金として出てくることができるとしたら、もし私がそのふるいの中に麦とともに残ることができ、もみがらとともに吹き飛ばされることさえなければ、私は神を永久永遠にほめたたえるであろう。私は救われたのである。そこに非常な困難が伴ったとしても関係ない。

 さらに、あらゆるキリスト者たちの経験が証明するところ、彼らの心の中における恵みのみわざは簡単には達成されない。また、天国までの彼らの巡礼路は、種々の困難に満ちている。キリスト生活のまさに初っ端から、ある人々はキリストをつかむのが困難であることに気づく。私たちは真実にこう歌うか、口にする。――

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり」。

だが私には、そのように仰ぎ見ることができさえすれば、いのちを捨てても惜しくないと感じた時期があった。《救い主》の御腕に自分の身をゆだねることは容易に思われるが、数々のサタン的な疑い、また、種々の邪悪な問いかけ、また、種々の燃える誘惑があって、その単純な行為を成し遂げることさえ非常な困難を伴わなざるをえないのである。実際、それが成し遂げられる場合、それは、どこにおいても天来のあわれみの恵みである。そして、あらゆる場合に、救いに至る信仰は「神からの賜物」[エペ2:8]である。

 ならば、肉を打ち負かすことはいかに困難なことであろう! あなたは主イエス・キリストを信じる信仰者だろうか? ならば、果たしてこのことに気づいているかどうか尋ねる必要はないであろう。あなたは聖い生き方を愛しているが、聖くない生き方は、躍起になってあなたをその奴隷にしようとする。ことによると、激しやすい気性が、あなたの「肉体のとげ」*[IIコリ12:7]かもしれない。あるいは、何らかの体質上の罪、あるいは、すでに服従させられたと思った何らかの情欲かもしれない。あなたは、ダビデとともにこう云ったかもしれない。「この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった」[詩73:2]。そして、私は知っている。もしあなたが神の真の子どもの生き方をしているとしたら、よほど激しく戦わない限り、「古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨て」[コロ3:9]ることはできず、この不敬虔な世代のただ中で敬虔な生き方を送ることはできないということを。

 外側からあなたに襲いかかる種々の誘惑も、同じくらい打ち勝つことが困難なものである。富の誘惑があり、貧困の誘惑がある。右にそらそうとする誘惑があり、左にそらそうとする誘惑がある。そして、《王》の大道の真中を守り続けるのは容易ではない。イエスは、私たちがその足跡に従うようにと、私たちに模範を残されたが[Iペテ2:21]、その足跡に従って歩むことはなかなかできない。この世と、肉と、悪魔が寄ってたかって私たちに襲いかかるとき、――もし私たちが武器をとる日に、主が私たちの頭を覆ってくださる[詩140:7]のでないとしたら、いかにして勝利を得られるだろうか? 一部のキリスト者たちにとって、日々それは非常に激しい葛藤であり、一刻一刻の戦いでさえありえる。そして、そのとき、私たちは固守者のようになる。彼は、バニヤンのいわゆる魅惑郷にいたとき、泡ぶく夫人に襲われ、ただ膝まずいて、神の助けを叫び求めるしかなかった。私たちの中の多くの者らは、そのように感じてきたし、自分の苦悶の苦々しさの中で、神に助けを叫び求めざるをえなかった。というのも、困難を伴わずには私たちは救われないからである。私は、善良なジョン・フォーセットとともにこう云うことができる。――

   「誘惑(まどい)は四方(よも)に 煩(わずら)わせ、
    罪、罠、壊(こぼ)たん、わが平安(やすき)。
    この世の喜び もぎとられ、
    いまさぬ神を われ嘆かん。

   「わが魂(たま)、嵐(かぜ)に 翻弄(ゆさぶ)られ、
    望みは覆(かえ)り 企図(おもい)絶ゆ。
    日々に新たな 苦境(つらみ)見て、
    この眺めのいつ やまんと惑う。

   「愛す主よ、この 茨(いばら)道
    われら行かすや、神山(みやま)へと?
    こは汝が民の 労苦(なやみ)なるや、
    下界(した)の荒野に 在るうちの。

   「さなり、かく汝が 真実(また)き愛、
    子らの恵みを 証明(あかし)して
    高慢(ほこり)と自我(おのれ) かく倒(お)ちて、
    イェスぞ、すべての すべてとなる」。

 真のキリスト者にとって、必要な義務でさえ、へりくだったきよい霊で行なうことはいかに難しいことであろう! 祈るのは単純なことである。それは、ただ子どものように、神のみもとに行って、あなたの感じていることすべて、あなたの欲していることすべてを申し上げることである。それでも、私はあなたに問う。キリスト者よ。時としてあなたは、祈ることがつらい勤めであることに気づかないかだろうか。あなたが膝まずいているとき、ありとあらゆる種類の思い煩いが、雀蜂の群れのようにブンブン唸りながらあなたのもとにやって来る。あなたは、ヤコブがしたように神と格闘したいと欲する。だが、悪魔と格闘しなくてはならないことに気づく。私もそういうことがどういうことか承知している。祈りたいと切望しているのに、自分の魂の中に祈りを見いだせないのである! 私がそう告白するのは、神の民の中の多くの者らがそうした状態に陥ると思うからである。そして、さらに、私たちが最上の祈りをささげるのは、自分には祈れていないと思っているときであると知っているからである。ことによると、こうした、私たちの霊の最低のどん底から出てくる呻きの数々は、自分では呻きと思っていなくとも、まさに神の御座に届くことのありえる最も強大な祈りかもしれない。しかし、人がただこのようにしか云えない折もある。「どうか聖霊が、私に感じられないことを代わりに感じてくださるように。私に語れないことを代わりに口にしてくださり、私に果たせないことを代わりに行なってくださいますように!」、と。

 そして、もしもそうした、静思の時における通常の行為がこれほど困難だとしたら、天来のいのちにおいて恵みに満ちた境地に達することは、いかにいやまして困難なことであろう! もし、あなたの恵みの中の何かが、ごく簡単にあなたのもとにやって来るとしたら、果たしてそれが純粋なものかどうか疑うがいい。というのも、キリスト者生活において、持つに値する一切のものは、きわめて苛酷な争闘において戦いとらなくてはならないからである。暗黒の諸力は、キリスト者の巡礼が天の都に入るのを妨げようと固く決心しているため、天国への道中はみな、多かれ少なかれ《難儀が丘》なのである。あなたはしばしば四つんばいにならなくてはならないであろう。なぜなら、路があまりにも険しく、上り坂があまりにも急であるため、そうせずには先へ進めないからである。私たちは神が聖であられるように聖になりたいと思うが、私たちのからだの中には異なった律法があって、それが私たちの更新された心の律法に対して戦いをいどむ[ロマ7:23]。私たちは、自分が完璧を切願していることを知っている。だが、悲しいかな! 飛びたくて矢も盾もたまらずにいる鳥のように、私たちを下に引きとめておくものがあるのである。あなたがたの中の多くの人々は、檻の中の鷲を見たことがあるであろう。そしてあなたは、いかに彼がその、太陽さえ凝視するように造られた鋭い目で上を仰ぎ見るかを知っている。たとい彼がその翼を広げて飛ぼうとしても、自分の檻の格子で傷つくことにしかならない。そして、おゝ、いかなる傷を私たちの中のある者らは負ってきたことか。より良い事がらを求める私たちの熱望の中で、私たちには善をしたいという願いがいつもあるのに、自分のしたいことを実行することがないのである![ロマ7:18] しばしば私はパウロとともにこう叫んできた。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:24]。しかり。私たちの中の誰にとっても、天国に行き着くのは辛い働きである。神は――かの《永遠の霊》は――私たちを助けて、私たちの種々の弱さに打ち勝たせてくださる。だが、私たちはしばしばそうした弱さを感じさせられ、弱い私たちには罪の力には太刀打ちできないと告白させられ、こう認めざるをえなくなる。神ご自身がおられなければ、私たちは結局、確実に滅びるに違いない、と。私は、聖なるジョン・ニュートンとともに、喜んでこう歌う。

   「疑いこえて われは確信(し)る、
    汝れ 神のキリストにして、
    永遠(とわ)のいのちを 確保(かため)たり、
    ただ御約束(みちかい)と 血によりて。

   「人と天使の 合力(たすけ)あろうと
    手も届かじな わが困苦(なやみ)。
    ただ身の望む みすくいは
    果てなき恵みの うちにあり」。

キリストにある愛する兄弟姉妹たち。あなたは時として、救われるのは何と辛いことかと感じることはないだろうか? 光を受けたあなた自身の良心という法廷に、あなたの魂を引き出すときにそう感じないだろうか? 私たち自身の良心は、どう控えめに云っても、かの公正無比な無謬の《審き主》――やがて、あの大きな白い御座[黙20:11]にお着きになるお方――とくらべれば、貧弱で、かたよった判事でしかない。それでも私は、この場にいる、自分自身のもろさや弱さを本当に自覚しているあらゆるキリスト者に問いたい。自分自身を真剣に調べ上げるとき、自分に何か誇るべき理由を見いだせるだろうか、と。私は自分の説教集をめくり、多年にわたる主のための私の労苦を見返してみる。だがそこには、あえて涙なしに考えることのできるものは、ほとんど1つもない。――それらみな、罪と不完全さによって損なわれている。これまで自分が神のために行なってきたあらゆる行為について考えるとき、私はただこう叫ぶことしかできない。「おゝ、神よ。私の聖なるささげ物に関しての咎をお赦しください!」 しかし、私たちの聖ならざる物に関してはどうだろうか? 兄弟たち。あなたが新しく生まれているという種々の証拠によく目を配るがいい。そして、それらを吟味する際には、自分があの預言者とともに、こう云わざるをえないかどうか見てとるがいい。「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます」[イザ64:6]。そうだとしたら、私たちひとりひとりは、悔悟したダビデとともにこう祈ろうではないか。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」[詩51:7]。もし私たちが本当に神の民だとしたら、このことを知るのは私たちにとって大きな慰藉である。――すなわち、私たちの多くの弱さや不義にもかかわらず、また、私たちが結局は自分に欺かれ、悪魔に欺かれていたのではないかという多くの懸念や、疑い、恐れにもかかわらず、神は決して私たちをお捨てにならないのである。

 II. キリスト者たちが救われるのに大きな困難を伴わざるをえないという事実については、これで十分であるに違いない。さて、第二に考察したいのは、《この事実からの推論》である。

 ペテロは云う。「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう」。どういうことかというと、彼はまず最初にこう考えているのである。もし義人でさえこれほど峻厳な試しを受けるとしたら、いかにして神が悪人たちを手軽に片づけることがあるだろうか?――もし麦がこのようにふるい分けられるとしたら、いかに確実にもみがらは滅ぼされることだろう。――もし黄金が火を通り抜けなくてはならないとしたら、いかに確実に金滓は焼き尽くされることになるだろう! 最上のものをも試し、試験する神が、最悪のものを目こぼしすることは確実にないに違いない。

 次に彼が意味していることは、このことだと思う。もし「義人」が至福に達するのに大きな困難が伴わざるをえないとしたら、「神を敬わない者や罪人たち」は決してそこに達することができない。かりに、ある岩に囲まれた岸にすさまじい嵐がやって来たとしよう。救命艇が出され、人々は気高くその義務を果たし、多くの尊い人命を救出する。だが、人々は、浜に飛び下りるや否や口々に云う。「こんな時化の時に海に出たのは初めてだわい。こうやって戻って来れたのも、ただただ、お恵み豊かな神様の摂理あってのこった」。海岸にいた人々は、救命艇すらこれほどあやうく破滅を免れたのを見てとるとき、自然とこう尋ねるであろう。「あの、水車用の溜池にも浮かんでられないような、おんぼろの、水漏れする、木っ端端艇はどうなるに違いないだろうか?」 あるいは、砂州がたくさんあり、水路がくねくねと曲がりくねっている川を想像してみるがいい。そこに一艘の船があり、年季を積んだ水先案内人が乗り組んでいる。だが、彼でさえ非常に気を遣って、絶えず水深を測り、頻繁に速度を半分に落とすとか、全く停止するとする。さて、もしも、腕利きの水先案内人を乗り組ませた蒸気船がかろうじてその川を上って行けるとしたら、向こう見ずな酔っぱらい――ほとんど針路を取ることもできず、ただ流れに行く手をまかせるだけの男――にまかされた、小さな帆船はどうなるだろうか? 何と、沈没するに決まっている! そのように、もしキリストが水先案内人として乗り込んでおられる、「栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器」[ロマ9:23]が、からくも岩礁や流砂を免れるとしたら、水先案内人が全く乗り組んでおらず、風浪のなすがまま、そこここへ吹き流されている、「滅ぼされるべき怒りの器」[ロマ9:22]の末路はどうならざるをえないだろうか? 《市中》に大火災が起こったとして、そこにどっしりとした、石造りの、鉄の梁をわたした建物があるとしよう。もしもそれを破滅から救うために、消防士たちが非常な難儀をしなくてはならなかったとしたら、松脂と黒油を塗りつけ、油をためこんだ木造家屋の運命はどうなるだろうか? もし、永遠に、唯一まことの土台なるキリストの上に建てる人、――また、金、銀、宝石ではなく、木、草、わらなどで建てている人、――もしそのような人が「火の中をくぐるようにして助か」[Iコリ3:15]るとしたら、永遠に焼かれるのにふさわしい、乾いた丸太のようでしかない罪人はどうなるだろうか?

 本日の聖句からは、「神を敬わない者や罪人たち」がどこに現われるかは分からない。これは、聖書が答えていない問いの1つである。「神を敬わない者や罪人たちは、どこに現われるのでしょう」<英欽定訳>。それで私は、私たちの《救い主》がこう仰せになっている、あのすさまじい場所についてはほとんど語ることをすまい。「そこで泣いて歯ぎしりするのです」[マタ24:51; 25:30]。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」[マコ9:48]。こうした比喩は、いかにぞっとする連想をかき立てるものではあっても、すさまじい現実のかすかな心像でしかない。そして、私はもう一度あなたに思い起こさせたい。これらは、私たちが私たちの子どもたちにこう祈るよう教えているお方のことばなのだということを。――

   「柔和で温和な、優しきイエスは
    子らを 見つめたもう」。

詩篇50:22には、この恐ろしい天来の警告がある。「神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう」。もしキリスト者にとって救われることが困難であるとしたら、――そして、それが困難であることは、すでに示してきたが、――あなたがた、神の民でない人たち。あなたがた、キリストを全く有していない人たち。あなたがた、全く聖霊に導かれていない人たち。――あなたは一体どうなるだろうか? 使徒パウロはこう書いている。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」[Iコリ9:27]。もしパウロが天国に入るのに困難が伴ったとしたら、あなたはどうなるだろうか? マルチン・ルターの伝記によると、彼は種々の悲痛な疑い、抑鬱、魂の懸念に苦しめられたという。ならば、もし彼でさえ恵みによって救われた罪人としてしか天国に達さなかったとしたら、神の恵みを体験的に全く知らないあなたはどうなるだろうか? もしもジョン・ノックスが、――忠実に自分の神に仕えてきた後でその墓碑銘に真実、「生きて決して人の顔を恐れなかった人、ここに眠る」、と述べられているこの人が、――もしも彼がその死の床で天国の望みをいだくのが難しいことに気づいたとしたら、キリストのあわれみを軽蔑し、罪にふけっているあなたはどうするのだろうか?

 しめくくりの前に、他にもう2つの推論を引き出したい。最初はこうである。――《もし義人が救われるのに困難が伴わざるをえないとしたら、あの、いとも簡単に「救われる」人々についてはどうだろうか?》 こうした人々は、まるで義人ではないように見えるではないだろうか。ことによると、この場には、バニヤンの虚礼者のような人がいるかもしれない。彼のいだいている希望はこうである。――「私は子どものときに『洗礼を施され』ました。青年のときに堅信礼を受けました。自分の教会に通い、『聖礼典』をきちんと受けています」。あるいは、「私はきちんと会堂に出席しています」、と云うであろう。その人は云う。「私の状態についての懸念のことなど話さないでください。私にそんな懸念は何1つありません」。しかり。あなたにそのようなものはないだろうと私も思う。だが、もしあなたが自分について何も疑っていないとしたら、私にあなたのことを疑わせてほしい。そして、疑うよりもはるかに踏み込んだことをして、あなたにこう厳粛に告げさせてほしい。あなたは、種々の儀式に土台を置いた希望によって、「主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受ける」[IIテサ1:9]であろう、と。

 別の人はこう云うであろう。「私はキリスト教信仰の告白を行なっていますが、自分が救われているかどうかについて一度も疑念をいだいたことはありません。私は祈りをしています。――ともかく、ある種の祈りはしています。神を賛美することについて云えば、いつでも歌うことができるでしょう。そして、私は自分にできる限り正しくしていると思います。心を痛める理由が何かあるとは思いません」。しかり。愛する方。だが、あなたにこう思い起こさせてほしい。増上慢と「全き信仰」[ヘブ10:22]とは大違いである。自分は救われていると信じていることと、本当に救われていることも大違いである。

 もしかすると、他の人はこう云うであろう。「私は自分が神に選ばれた人々のひとりであると信じていますし、自分が全く安全だと思います」。よろしい。愛する方。もしそうだとすれば、私以上に感謝する者はいない。だが、もしそれが救いについての、あなたの唯一の希望だとしたら、また、もしあなたがこれまで一度も新しく生まれたことがなく、新しいいのちについて何も――その様々な懸念も喜びも――知らないとしたら、私はあなたの天国の希望などまるで評価しないし、あなたもそれをお払い箱にするのが早ければ早いほど良いであろう。死んだ魚は川を流れ下るのに何の困難も感じない。生きた魚だけが流れに逆らって泳げるのである。広い道は非常になだらかで、そこを行く仲間はたくさんいる。だが、それは滅びにつながっている。狭い道は、歩く者はほとんどおらず、多くの困難がそこにある[マタ7:13-14]。あなたは、自分には何の移り変わりもないと云うであろう。しかり。聖ポール大寺院の彫像たちもそれは同様である。そこで彼らは何年も何年も大理石の台座の上に立っている。彼らは死んでいるからである。そして、あなたもそれと変わらない。「しかし、私はあなたがこれまで語ってきたような戦いを全く戦わなくとも良いのですよ」。しかり。当然そうであろう。この世とあなたは友人だからである。そして、あなたがこの世のものであるため、世は自分のものを愛するのである[ヨハ15:19]。もしあなたがこの世にあって旅人であり外国人であるとしたら、あなたは客あしらいの悪い国にいる旅人や外国人のように扱われることであろう。

 私は、もう1つだけこの聖句から推論を引き出すであろう。そして、それは非常に慰めに満ちたものである。《義人が救われるのに困難が伴わざるをえない以上、誘惑を受けている魂たちは救われることができる》のである。この真理は、私がこう考えるときに、慰めを与えてくれる。「よろしい。私が救われるのは困難である。ならば、私は義人とともに数えられており、正しい路にいるように見受けられる」。「おゝ、先生!」、とこの場にいるあわれな罪人は云うであろう。「そう云っていただいて嬉しく思います。私は、主イエス・キリストに全く身をゆだねたと思いますし、それからはずっと平安をいだいているものと思っていました。ですが、その代わりに、信じてから――あるいは、信じたと思ってから――このかた、私の魂の中では、その前に経験したよりもずっと多くの戦いを経験してきたのです」。よろしい。義人が救われるには困難を伴わざるをえない。だから、抑鬱してはならない。「しかし、私はそれ以前よりもずっと多く誘惑されているのです。そして、先生。まるで誰もが私に反対していて、私を後退させようとしているみたいなのです。私は、心を浮き立たせてくれるような道連れたちが、天国への路を行く助けとなってくれると思っていたのに、敵国にひとりぼっちでいるように思えるのです」。私の愛する兄弟。義人はいつもそういう目に遭うのである。あなたには何もおかしなことが起こってはいない。「しかし、先生」、とある人は云うであろう。「私の思いにはぞっとするほど恐ろしい考えや、とんでもない冒涜が起こるのです。祈ろうとしているときでさえもです。それで私は自分に向かって云うのです。『もしも私が神の子どもなら、こんなふうになるだろうか?』、と」。愛する方。慰められるがいい。サタンはあなたを失うのではないかと心配しているので、全力を傾けてあなたを抑えつけようとしているのである。あなたがキリスト者になった以上、あなたは悪魔が放つ火矢すべての的となっている。だから驚いてはならない。これが神の民の宿命なのである。人が溺れた後では、その人の知覚は非常に快くなると聞いたことがある。だが、血液が再び循環し始めるとき、たちまち苦痛が始まる。そして、苦痛を覚えれば覚えるほど、その人が息を吹き返すことは確実になる。あなたの魂の中で循環している霊的な血液も全くそれと同じである。あなたは死んではいない。それで、あなたは、生きているからこそ、ずきずきと痛み、苦しむのである。信じた瞬間に戦いが終わるものと想像しているとしたら大間違いである。あなたの戦いは始まったばかりにすぎない。そして、本当にイエスに信頼していながらも、数々の戦い、争い、困難、苦難があるとしたら、こう結論するがいい。だからこそ、自分は神の子どもなのだ、と。

 このことを思い起こすがいい。もし義人が救われるのに非常な困難が伴わざるをえないとしたら、自分から全く目を離して主イエス・キリストを仰ぎ見ることをしなかった者たちは決して救われることがないということを。罪人たちと聖徒たちの唯一の希望があるのはここ――ほむべき《贖い主》の完了したみわざの中である。「私は、あなたが何をしているのか分かっています」、と以前、ある善良な人が、疑っているひとりの人に云った。「キリストは救いのみわざを完了されましたが、あなたは主がなさったことに満足できないのです。それで、あなた自身のものでそれを継ぎ接ぎしようとしているのです」。来るがいい。罪人たち。来るがいい。聖徒たち。もう一度、あの愛しい十字架の根元に来るがいい。そこでイエスは、ご自分のを信ずるすべての者の魂を、自らの血によって買い取ってくださったのである。主の前に平伏して云おうではないか。「あなたこそ、永久永遠に私たちのすべての信頼、私たちの唯一の希望、私たちの全き救いです。私たちをお救いください。おゝ、《救い主》よ。私たちは罪人です。そして、あなたは罪人たちの《友》であられます。いま私たちをお救いください。そうすれば、私たちは永遠に救われます!」 アーメン。そのようにならんことを!

もしそうなら、――どうなるのか?[了]

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