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神を求むべき理由

NO. 3034

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1907年4月4日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「すばる座やオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名は主」。――アモ5:8


 偶像礼拝は、あらゆる時代に見られた、人類に絶えずつきまとう罪である。新生していない者らはみな、何らかの形で偶像礼拝にふけりがちである。神の民の中にさえ、彼らの古い性質、偶像礼拝に向かう傾向は残っている。その、はなはだしく忌まわしい現われにおいて、偶像礼拝は、自分の目で神を見、神の外的な表象を手にしたいという願望である。だが、神は、そのように表象されるには、あまりにも偉大、あまりにも霊的であり、人間の言語ですら描写できず、いわんや、いかに入念に掘り刻まれ、いかに精巧に黄金を被せられようと、木や石の像などで示すことはできない。あらゆる空間を満たすひとりの神がおられる。だがしかし、この方は空間よりも大きく、その存在には始まりも終わりもなく、あらゆる場所に存在し、普遍的に自立自存であられる。だのに人は、あまりにも霊的ならざる者であるため、この目に見えない《お方》を霊とまことによって礼拝しようとはせず、外的な像、象徴、しるしを渇望する。アロンが子牛を造ると、イスラエルは《天来の》エホバの栄光を忘れ、草を食らう雄牛[詩106:20]の像についてこう云うのである。「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」[出32:4]、と。

 人々が目に見える物体やしるしを礼拝するよう至らされているとき、私たちはそれを、人間の堕落性を示す、きわめて奇矯な現象だと想像しがちである。だが、それは決して珍しいことでも異常なことでもない。それは、信仰者がより陰険な形で戦わなくてはならない一般的な罪である。というのも、偶像礼拝は、ダゴン礼拝やアシュタロテ礼拝ほど露骨に忌まわしい見かけではない、隠微なかたちを取るときも、全く同じくらい罪深いものだからである。例えば、このわが国で一般的に見られる宗教的偶像礼拝を取り上げてみよう。それは、部分的には、いわば建築学的に配列された聖所を畏敬するという形に現われている。英国の偶像礼拝がその姿を現わすのは、聖職者たちへの畏敬においてである。それは、彼らが優越した性格をしているためではなく、彼らの上で行なわれる、ある神秘的な儀式のためである。その儀式のおかげで彼らは天国の代理人、また、恵みの保蔵者となると考えられている。いかにわが英国の偶像礼拝者たちは、こうした人々が祭服を着ているのを見て恐懼することか。その祭服は、仕立屋により、尋常ならざるほど信心業の助けとなるような形にされているというのである! こうした司祭たちと、豪華な装飾物の数々、また、奇怪に醜くされた形がないと、わが国の現代の偶像礼拝者たちは公の礼拝ができない。だが、こうしたことにおいて彼らは、自分たちの偉大な女神アルテミスを有していたエペソ人[使19:28]と大差ないのである。

 彼らは、心に訴える事物によってしか自分たちの神を礼拝できない。外的な祭壇、外的な司祭、外的な祭儀、外的な儀式、――こうしたすべてのものは、古のバアルの、あるいは、ベテルの偶像礼拝が別の形になったにすぎない。人はなおも、見えざる神に背を向ける。幕の内側[ヘブ6:19]に入られた、見えざる《祭司》を、人はなおも無視する。イエス・キリストの血と肉を食する霊的な饗宴は、聖徒たちには喜びであるが、こうした人々のあずかり知るところではない。だが、その外的な表象は、一部の者たちによってあがめられ、他の者たちによって大いに崇拝されている。パンと葡萄酒は、人が作り出した、ありふれた物体であり、聖餐式において私たちを助けるために食卓に置かれたときでさえそれは変わらない。だが、この時代の盲目的な偶像礼拝者たちは、それらを神格化している。エジプトやアッシリヤも、これほどの悪を行なえただろうか? この儀式で用いられるパンは、何の変哲もない、ただのパンである。表象として用いられるからといって、いささかも神聖なものとされるわけではなく、まして神性を帯びたりはしない。それは偶像礼拝である。――全くの下卑た偶像礼拝であって、他の何物でもない。それは深い畏敬による敬神の念という見せかけの下で、この国の全土に、その暗黒の帷の全面を広げつつある。

 儀式尊重主義が羽振りをきかせていないところでも、人々はいかにたやすく自分自身を拝む偶像礼拝者となることか! 自己信頼とは、あまりにも多くの人々が身にしみて知っているように、自己を神として敬うことでなくて何だろうか? それは、力と知恵との偉大な源泉、生ける神に依存することとは正反対である。私自身の知恵、私自身の決意、私自身の精神力に信頼すること、――これは、陰険で、魅力的な形の偶像礼拝である。自分の子どもたちや親族に対する、私たちの過度の愛情のあらかたは何だろうか? 私たちの反抗的な愚痴や不平は、偶像礼拝でなくて何だろうか? 親しい者らが突然私たちのもとから取り去られてしまう場合、いかなるわけで私たちは神に反発するのだろうか? おゝ、人よ。なぜあなたの神が、あなたからこれほど少ししか愛されておらず、被造物がこれほど愛されているのだろうか? 正当な愛情はある。その点まで、あなたは行くべきである。だが不当な愛情もある。いかにしてか被造物が《創造主》よりも優先される場合である。そこまで下ってはならない。不当な愛、その対象を偶像化する愛は、力を尽くして避けるべきである。

 それからまた、ことによると、それよりも弁解の余地ない偶像礼拝は――いかなる偶像礼拝も弁解されるべきではないが――人々が自分の財産や、自分の貯め込んだものへの信頼を偶像化する場合であろう。富と地位を獲得するだけのために生き、その競走を懸命に走り抜こうとする場合である。不滅の冠を勝ち取るための競走ではなく、富裕な商人や、勤勉な学生や、雄弁な法廷弁護士や、勇猛な戦士たちの飾りとなる、あわれな花輪を得るための競走を行なう場合である。これもやはり偶像礼拝である。というのも、それは地上の事物を《創造主》の代わりに据えることだからである。神には私の愛と私の信頼と私の恐れとのすべてがささげられて当然である。神は私を造られた。それゆえ、私は神に仕える義務がある。そして私が、神以外の何らかの人か物の足元に、私の諸力の支配権を置くとき、私はたちまち偶像礼拝の罪を犯すことになるのである。

 私は、こうした偶像礼拝がとる様々な形式のすべてを、いつまでも告げていることはできない。だが、願わくは神がそれらと戦う恵みを私たちに与えてくださるように。また、あなたがた、今なおこうした偶像礼拝のとりことなっている人たちを、神が解放してくださるように! 肉の腕により頼むことや、目に見え、手で触れられるものに信頼することから救い出し、目に見えない神により頼む者としてくださるように。この神だけに、力と威光は属しており、私たちの信頼と私たちの奉仕を受ける権利があるのである!

 この聖句が語りかけている人々は、言葉か、思いか、行為のいずれかにおいて、神に逆らう偶像礼拝の罪を犯してきた者たちである。ここでは、まず、その自然な意味によって、彼らを説得し、考えを改めさせようとする議論がいくつかある。それから、もう少し深くその意味を考えると、エホバを――エホバだけを――求めるべき霊的な理由も見てとれる。

 I. まず第一に、この聖句の自然な意味の中に見いだされる1つの真理は、十分に平明ではあるが、私たちが絶えず思い起こさせられなくてはならないものである。すなわち、エホバは真に神であられる、ということである。もしエホバが世界の真の《創造主》でなかったとしたら、もし本当に「すばる座やオリオン座」を造らなかったとしたら、もし現実に夜を昼に変え、昼を再び夜に変えるという《摂理》の働きを行なっておられないとしたら、私たちは神に仕えなくとも弁解の余地はあるであろう。そのような空想上の神格への臣従を控えても差し支えないだろうからである。

 しかし、神が本物であり、私たちが存在しているのと同じくらい真に存在している以上、また、私たちの存在が神の主権のみこころに依存しており、神が《すべてのすべて》であられる以上、私たちは「御顔を慕い求め」[詩105:4]て当然である。そして、この言葉は、単純なものではあっても、あなたに突き入れる必要のあることである。愛する方々。残念ながら、あなたがたの中の多くの人々は、キリスト教信仰のことを、非常に端正な、だが、それと同時に、空想上の存在でしかない神に対して取る態度として考えているのではないかと思う。あなたは、神がおられるという考え、また、神を求める者には報いてくださる方であるという考え[ヘブ11:6]を実際的には自分のものとしていない。あなたの回りに同胞たる人間たちがいるのと同じくらい確実に、あなたの間近にひとりの神がおられ、あなたがその神の中に生き、動き、また存在している[使17:23]という事実を、あなたはつかんでいない。世的な人は自分の足を地の上に据えて、こう云っている。「これが私の利益だ。私はこれを信じる」、と。その人は、黄色く輝く地面の断片をいくつか所有しては、こう云う。「あゝ! 私はこれを信じる。ここには堅固なものがあり、私はそれを感じる」、と。まさにそのように、創造された大地はその人にとって現実なのであり、万物を創造した神はその人にとってぼんやりとした存在でしかない。その人は、神の存在を否定するようながさつなことはしないかもしれない。だが、実質的には神についての自分の考えを単なる空想としており、心の中では、「神などいない」、と云うのである。話を熱心にお聞きの方々。あなたはそれほど浅はかではないと思いたい。あなたは神がおられること、また、私たちが存在していないとしても神は存在しておられることを知っている。その神が《創造主》であられ、万物の《始源》であり《支配者》であられると知っている。あなたがこの神を切に求めていると、また、あなたの従順をこの神に切にささげたいと願っていると思いたい。

 この聖句から注意したいのは、神は単に真の神であるだけでなく、栄光に富むお方であられるということである。いかにして異教徒たちは、自分の神々を神であると考えながら、あのようにちっぽけで、卑しく、下劣で、軽蔑すべきものを礼拝できるのか、私には理解できない。例えば、ユピテルについて考えてみるがいい。ローマやギリシヤで主神とされていた彼は、いかに胸が悪くなるような獣類であることか! いかなる官能性と、利己心と、愚行との怪物であることか! たとい彼が神でありえたとしても、被造物として私は、このような「神」を礼拝することに困難を感じるはずである。しかし、「すばる座やオリオン座」を造り、天を幕のように広げ[詩104:2]、大空を鋳た鏡のように[ヨブ37:18]されたお方、創造の種々の行為において壮大であり、恵みの様々な驚異において驚嘆すべきであり、ご自分の性質の一切の属性において測り知れないお方について考えるとき、私の魂は、このお方を称賛することを自らの誉れであり、喜びであると感じる。このような神の前でちりの中に打ち伏すことは魂が高く引き上げられることである。この神を畏敬すればするほど、また、自分自身を小さくみなせばみなすほど、私たちの種々の情緒はより一層崇高なものとなる。いみじくも、ある異教徒さえこう云っている。「神に仕えることは統治することである」、と。私たちの神のような神に仕えることは、王とされ祭司とされることである。おゝ、私たちの心がゆがんだ堕落したものになっていなかったとしたら、私たちの最大の幸福、私たちの最高の喜悦は、これほど栄光に富む神への賛美を高らかに鳴り響かせることであったろう。また、私たちの心は永遠に神を慕い求めるであろう。「主よ。あなたは私が何をすることをお望みでしょうか? あなたのみこころは、私自身の意志よりも賢く良いものです。私は、あなたの愛の綱に縛られることよりも大きな自由を願いません。あなたのほむべきくびきを負う以上に大きな安らぎを求めません」。

 ならば、主が本物であり、それ以上に、無限に礼拝されるにふさわしく栄光に富むお方であられる以上、私たちは主を求めて生きるべきである。

 さらに、真の神なるエホバは、最も力強いお方であられる。というのも、エホバは、「すばる座やオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名はエホバ」*だからである。このお方のことは畏敬をもって考えるがいい。このお方は、詩篇作者が風刺して次のように語った異教徒の神々のようではないからである。「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない」[詩115:4-7]。こうした木製の神々に対しては、侮蔑とあざけりが預言者イザヤによって浴びせかけられている。彼は、ある細工人が、木切れの片方を取ってそれで神を造り、もう片方で火を燃やしては手を暖め、食事を料理すると云う[イザ44:15-19]。このような神を礼拝するのは、実際人間の精神にとって下落である。だが、その御力を、きらめく天空によって、また、泡立つ海によって示しておられる神、天文学者の目に驚異とともに現わされている神、無数の世界が無窮の空間の中で回転している中に啓示されている神、そのような神を私たちは畏敬しなくてはならない。嵐や暴風雨のとき、主がその、斜めの風という翼をつけた、雷雲という戦車に乗って表を行き、ご自分の雹の粒と火の炭を投げつけ、その御声で地を震わせ、その槍の一閃でレバノンの杉を引き裂かれるとき、私たちは神をあがめなくてはならないと感じる。また、その神の前に額ずくとき、理性は恵みが示唆する礼拝を裏書きする。神の御力は、神を求めるべき1つの説得力ある議論ではないだろうか? あなたがた、これまで神なしで生きてきた人たちも、今は神をあがめたいとは思わないだろうか? 本物の神、これほど栄光に富み、これほど力強い神は、確かにあなたの畏敬に満ちた崇敬を受けるに値している。

 さらに、神は数々の大きな奇蹟を行なう神であられる。神が一瞬ごとに成し遂げておられる驚異は、これほど見慣れたものでなかったとしたら、私たちを驚嘆させてやまないであろう。次のような話が伝えられている。――ただの伝説にすぎないが、賢人ソロモンの時代、この王は、見る人すべてを驚嘆させることに、1つの種を取り上げると、ほんの数瞬のうちに、生長しきった植物を生じさせたという。彼らは叫んだ。「何と素晴らしい! 何と驚くべきことでしょう!」 しかし、この賢人は云った。「これは、主が毎日行なっておられることにすぎません。これは、神が、ご自分の時にあらゆる所で行なっておられることです。ですが、あなたはそれを見ても、『何と素晴らしい!』、とは決して云わないのです」。私たちは、奇術を行なう人々がその離れ業を行なうのを眺めるとき、大いに驚嘆する。だが、ごく数少ない貧弱な手品など、通常の、だがしかし、比類なき自然の数々の過程と比較すれば何だろうか? 私たちの畑や生け垣に満ちている驚異には、人のいかなる知恵や技芸も及びもつかない。草原に足を踏み入れてみるがいい。あなたは奇蹟という奇蹟を踏みしめるのである。木々の中で歌っている鳥の声に耳をすませてみるがいい。あなたは驚嘆すべき弁舌を聞いているのである。もしもどこかの展覧会で、小さな機械仕掛けの鳥が、ちょっとした時計仕掛けによって、音楽めいたものをさえずるとしたら、そこは黒山の人だかりとなり、人によってはその歌を聞くために金さえ払うであろう。だがしかし、何千もの鳥たちは、人間が作り出せるいかなるものにも無限にまさる甘やかな歌を歌っているのである。だのに人々は鳥たちを称賛するくらないら、殺した方がましなのである。人々は、神があらゆる生き物の中で行なっておられる奇蹟を見ることがない。

 あなたの目を自分の上にある、星々の散りばめられた天空に向け、昴星や、麦刈り星がその息子たちとともにいるところを見るがいい。というのも、私たちはそれらについてほとんど知らないが、それらは多くの観察者を畏敬の念で打ち、神の偉大さを認めさせてきたからである。それは、こう云われるほどであった。――

   「不信心な天文学者は狂っている」*1

あらゆる星座、あらゆる単一の惑星、あらゆる恒星、そして神が創造されたおびただしい数の世界のあらゆる部分の中に見受けられる秩序、規則正しさ、如実な計算と意匠は、あまりにも確固とした証拠であるため、もしも人々がそれらの中に神について何も見てとらないとしたら、そうした人々はその頭が虚弱であるか、その心がよこしまであるに違いない。確かに、このようにして神について見てとられたものは、これまで神を礼拝するよう仕向けるものであった。あなたがたの中の多くの人々は天文学についてほとんど知らないかもしれない。だが、それでも、あなたは毎日見ているのである。神が私たちの回りの至る所で働いておられ、天と、地と、陸と、海とが、神の驚嘆すべき手際であふれていることを。昼と夜の循環、また、雨の形成と降下は、《神格》と永遠の力との現存を議論の余地なく証明している。それゆえ、主を求めようではないか!

 いかなるわけで人は神の世界を行きつ戻りつしながら、そのすべてを造られた神を忘れるなどということができるのだろうか? 巴里の《博覧会》の中を歩きながら、こうした貴重品をことごとく集めさせ、かつ地の諸王や諸君主をそこに訪れさせるに至った皇帝*2の影響力について考えずにいられる人がいるとは思わない。だがしかし、人々はこの世界を通り過ぎながら、――それにくらべれば巴里《博覧会》など子どもの玩具箱でしかないようなものであるが、――その中で神を認めようとしないのである! おゝ、奇妙な盲目さ、気違いじみたのぼせあがりよ。あらゆる所に神が現存していながら、そのような神――それを知ることが永遠のいのちであり[ヨハ17:3]、その中で喜ぶことが現世の幸福、来世の至福であるような神――について、人間が進んで無知となり、自らの最善のことに対して盲目となり、この上もなく甘やかで、何にもまして気高くさせられる情緒に対して無感覚で、自分の最上の《友》に対して敵となるとは!

 この聖句の表面からだけでも、私たちには神を求めるべき数々の動機が供される。おゝ、聖霊が私たちに、その動機を感じさせ、それに従順になれる恵みを与えてくださるならどんなに良いことか!

 II. さて今からは、この聖句をもう少し霊的な目で眺めることにしたい。私たちが語りかけるのは、自分が生ける神から離れ去っていることを感じており、イエスゆえに自分のもろもろの罪が赦され、神と和解させられたいと切望している人たちである。だが、本日の聖句は、改悛の情のない、まだ目覚めていない人々のための言葉も含んでいる。聖書の多くの部分で、主は悔悟する者たちをご自分のもとに招いておられる。だが、この箇所の招きは、ただひとりも取りこぼさないように、この上もなく広大な性格のものとなっている。本日の聖句は、その前後関係に注意するなら非常に素晴らしいものと見受けられるであろう。「彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている」[5:7]。そこには、神に渇いている者たちや、へりくだっている者たち、また自分の過ちを告白する者たちのことは一言も語られていない。むしろ、この勧告は、何の良い点も持たない者たち、むしろ、最も悪質な人格の特徴をした多くの者たちに与えられているのである。公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている人々、そうした人々でさえ神を求めるよう命じられている。驚くべきあわれみよ! この後で誰が絶望して良いだろうか? たとい話をお聞きの方が、この日まで、神とは赤の他人として生きてきたとしても、この聖句は神を求めることからその人除外してはいない。むしろ、御使いの声のように、こう囁いている。「神を求めなさい」、と。たとい罪がこれまであなたの公義をゆがめてきたとしても、それでもこの大いなる《創造主》、また、《保持者》を求めるがいい。この方を求めるがいい。あなたはこの方を見いだすからである。伊達やおろそかに、その御顔を求めるよう命じられているのではない。この方を見よとの命令は、この方が確かにあなたによって見つけられるということを暗示している。

 主を求めるための理由として与えられているのは、霊的にはこのことである。主は、「七つの星を造られる」<英欽定訳>。これは、昴座のことである。また、「オリオン座を造」られる。さて、昴座は春の星座とみなされている。来たるべき夏の先触れである。「すばる座の甘やかな影響力」[ヨブ38:31 <英欽定訳>]、と記されている。それは、一年の中でも春季に最もはっきりと見える。一方、東方の牧夫――アモスのような――は、オリオン座が高みで燃えるのを見るとき、冬の兆しを確実に知る。昴座もオリオン座も、ともに主によって定められている。主が私たちの喜びも私たちの苦難も造られるのである。ならば、私たちが神を求めるべき理由を見てとるがいい。なぜなら、オリオン座がまさに今、上ろうとしている場合に、また、私たちが意気阻喪という冬の訪れを受け、恐れという吠え猛る風、また、幻滅という厳しい霜によって凍えさせられることになる場合に、もし私たちが神を求めるなら、神はオリオン座を引き込め、私たちを約束という昴座の優しい統治下に置いてくださるからである。それで、希望と慰めの春期が私たちの魂を励まし、素晴らしい歓喜と豊作をもたらす喜びという夏が後に続くのである。あわれな悩める魂よ。このことが聞こえるだろうか?

 あなたの悲しみがいかなるものであれ、天と地を造られた神は、一瞬にしてそれを、ずっと輝かしい喜びへと変えることがおできになる。その摂理の経綸によって、そうすることがおできになる。あなたの種々の環境は、今はひどく絶望的なものでも、神の御手の一触れによって、一時間もしないうちに変わることがありえる。これ以上のお方に、援助を求めることができるだろうか? また、もしあなたの心が罪の感覚によって病んで、悲しんでいるとしたら、また、あなたが呵責によってやつれ衰えているとしたら、神の恵みはあなたの傷ついた良心のための香膏と強壮剤を見いだすことができる。それは、たちまちあなたに平安を与えるであろう。時計が再びカチコチいう前に、神はあなたに完璧な救いを授け、あなたのもろもろの罪をかすみのように、あなたのそむきの罪を雲のように拭い去ってくださる[イザ44:22]。赦し給う神を求めるがいい。私は云う。神を求めるがいい。他の誰のもとに行くべきであろう! この《強いお方》以外のどこであなたは力を見いだすのだろう? 神にして、私たちの主イエス・キリストの御父なるお方のもと以外のどこにあわれみがあるだろう?

 さらに主は、悲嘆を喜びに変えるお方であられる。この聖句では、「死の影を朝に変え」<英欽定訳>、と云い足されている。長く暗い悲しみの夜、闇そのものよりも暗黒なもの、――なぜなら、それは永遠の御怒りの前兆となるからである。――残忍で、冷たく、冷え冷えとした、恐ろしい死の影によって作り出された夜、――それがあなたの魂に落ちかかっているかもしれない。だが、生ける神は即座にその暗黒を朝の輝かしさに変えることがおできになる。太陽が、その翼のかげに癒しを伴って上るとき[マラ4:2]、全地は微笑まされる。そして、全くそのように、主は即座にあなたの全性質を、ご自分の御顔の光で喜ばせてくださる。あなたは今にも絶望の中で横たわろうとしているが、また、地獄があなたを呑み込もう、また、あなたの咎ある魂を受けようとして口をぱっくり開けているように思われるが、――神はこの死の影を、平和と喜びの朝へと転じてくださる。ならば、この神のほか誰のもとにあなたは行くというのだろうか? 神はすでに、その愛する御子を与えて、私たち罪人たちのための、いのちの道となるようにしてくださった。あなたは、自分の敵たちのためにわが子を引き渡して死なせた人のことなど一度でも聞いたことがあるだろうか? キリストは、単に他の助け手たちの後にではなく、ただちに天の御父の御腕のもとに来てくださった。もしあなたが放蕩息子とともに、「立って、父のところに行こう」*[ルカ15:18]、と云うとしたら、また、もしあなたが喜んで神のもとに行こうとしているとしたら、その道は開かれている。イエスが死なれたからである。あなたが行くときには、あなた自身の良い行ないだの、良い感じ方だのについて、ふさわしい思われるもので着飾って行ってはならない。むしろ、任命された《救い主》の完了したみわざにのみより頼みつつ行かなくてはならない。もしあなたがこの方を仰ぎ見るなら、あなたは明るくされるであろう。この方の御名をくちびるに上せながら行くなら、何でも欲しいものを求めて良く、それはかなえられるであろう[ヨハ15:7]。これは、みもとに行くべき理由ではないだろうか?――神はあなたの夜を昼へ、あなたの冬を夏へと変えることがおできになるのである。

 しかし、この聖句は別の面も伝えている。すなわち、神はあなたの現在の喜びを悲嘆に変えることもおできになり、それゆえ、あなたは神を見てとるべきなのである。神は、昴座の席をオリオン座に譲らせる。「昼を暗い夜に」される。この瞬間、あなたは安楽にしているかもしれない。だが、それがいつまで続くであろう? あなたは神を全く有していないが、この世で自分が所有しているもので満ち足り、自分の日当か年収に満足し、自分の細君、自分の子どもたち、自分の地所をほれぼれと眺めている。だが、思い出すがいい。いかにすみやかにあなたの喜びがあなたから取り去られてしまうことかを。あなたは聞いたことがないだろうか? いかにしばしば神の摂理がある家を丸裸にし、ある家族を丸裸にし、ある人の魂そのものからあらゆる慰めをはぎ取ってきたかを。あなたがたはヨブの物語を覚えていないだろうか? 悪者は生い茂る野性の木のようにはびこっているが[詩37:35]、突如しなびてしまうであろう。また、今の彼らはこの上もなく高慢で威を張っているが、その定められた終わりに至るであろう。太らされた雄牛が、屠殺人のもとに行くようにである。

 地上における私たちの喜びはみな、天における主権のみこころに依存している。あなたがたの中のある人々は、このことを苦い経験から知っているであろう。というのも、あなたは、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた者が一打ちで取り去られ、あなたの心の喜びが墓まで運ばれて行くのを見たことがあるからである。さて、誰のもとにあなたは救いを求めて飛んで行けば良いだろうか? あなたの現在の慰めすべてが依存しているお方、また、そのすべてをたちまち取り去ることのできるお方のもとでなくて何だろうか? そのお方と和らいでいることは何と思慮あることであろう。いかなる知恵にもまして、全能の神と和解させられていることはいかに賢明なことであろう! しかし、悲しいかな、ある人々はしばしば警告を受けてきたにもかかわらず、その警告を心に留めようとしない! 彼らは自分のうなじをこわくし、たちまち滅ぼされる[箴29:1]。彼らの昼は、永遠の夜へと暗くされるであろう。高慢な罪人は他の人々と同じように死ぬであろう。その目はどんよりとし、その額は冷たくなるであろう。というのも、その人は冷酷無情な《死》と向き合わなくてはならないからである。それから、悪者が追放される国に入るとき、その人は外の暗闇[マタ8:12]に入るであろう。それは触れるほどの暗闇であり、混乱の国の中にある。そこには希望の始まりが何もなく、悲惨の終わりが何もない。そのとき、誰がその人の魂の代わりになろうとするだろうか? では、その暗闇が濃くなり出す前に逃れるがいい。おゝ、人よ。求めるがいい。昼を夜で暗くなさるお方を!

   「罪人、求めよ、御恵みを
    われら御怒(いかり)に よく耐えじ。
    飛べよ、十字架(き)の上(え)の 逃れ場へ、
    そこにて得よや、救いをば」。

 この聖句の最後の一句は、主を求めるべき四番目の理由を示唆している。すなわち、神は、ある者にとっては祝福であるものを、別の者には呪いとすることがおできになる。あなたはそのことに注目しただろうか? 神を求めるがいい。神は「海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方」なのである。これは、あの大洪水をほのめかしているかもしれない。そのとき大洋の水は山々の頂さえ覆ってしまった[創7:19]。だが、それは同じように、清新にする雨をもたらす雲に対する言及として説明することもできよう。太陽は、塩分を残して海水を引き上げる。そして、このように引き上げられたものが定めの時まで空中で漂うと、乾いた地に降っては、土壌を喜ばせる。さて、この一句に2つの読み方ができる以上、いかに神の種々の行動が往々にして2つの解釈を許すものか注意するのが良い。例えば、神の愛する御子という贈り物がある。類例のない愛の行為であるが、しかし、あなたがたの中のある人々にとって、それは「死から出て死に至らせるかおり」[IIコリ2:16]なのである。不信者にとって、イエスがこの世に来られたことは恐ろしいこととなるであろう。イエスは、その上に建てる者たちにとっては尊い隅のかしら石であられる。だが、それにつまずく者たちは粉々に砕かれ、それが誰かの上に落ちれば、その人は粉みじんに飛ばされてしまう[マタ21:44]。天国の最大の喜びは、地獄の最大の戦慄である。キリストがおいでになるとき、その姿はご自分の民の歓呼を引き出すであろう。だが、それは主の敵たちに究極の苦悶を引き起こすであろう。彼らは主のため泣いて呻くであろう。岩々や山々に向かって、自分たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と、《小羊》の怒りとから自分たちをかくまってくれ、と云うであろう[黙6:16]。あなたがた、これほど定期的に福音を聞いている人たちは、それを死から出て死に至らせる香りにしてきたか、いのちから出ていのちに至らせる香りにしているかしかない以上、私は祈るものである。《永遠の御霊》が、イエス・キリストによって神を求め、いま神を求めることの賢明さを、あなたに示してくださるように、と。最後の大いなる日になって、この優しき《小羊》があなたに対して《獅子》となることに気づくのは、恐ろしいことであろう。この獅子があなたを八つ裂きにしても、救い出す者はいない![詩7:2] なぜ、へりくだった魂の食べ物であるものが、あなたの毒となるべきだろうか? なぜ、あれほど多くの人々が自分の衣を洗って白くしてきた[黙7:14]《救い主》の血が、あなたを罪に定めるべきだろうか? 覚えておくがいい。イエスの血はあなたの上にあってあなたをきよめるか、あなたの上にあってあなたを罪に定めるかどちらかであることを。エルサレムの町通りでユダヤ人があげた、あの恐ろしい叫び、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」[マタ27:25]、これはいかなる呪いを彼らの民族にもたらしたことであろう。その城壁の内側における大量虐殺と、彼らがかくも長きにわたって忍ばざるをえなかった、悲痛な流罪の生活と苦しみとを! 同じ呪いが、あなたの上に神からの永遠の流罪をもたらさないように気をつけるがいい! 私は切に願う。神の御顔を求めてほしい! あなたが御顔を求めることのできる機会は長くないかもしれない。そのあわれみの日は、日没とともにこの日が暮れるように、暮れてしまうかもしれない。あなたは、もう一日と生きて福音の招きを聞くことができないかもしれない。願わくは、ほむべき御霊なる神が、――ただひとりそれを可能にできるお方が、――あなたを求めさせる者とし、それから、見いだす者とし、その賛美をお受けになるように!

 ここまでは、未回心の人々に対してである。神の民は、この聖句を自分自身との関連においてもう一度よく考えてみることができるであろう。これは、彼らにとって非常に貴重な教えに富んでいる。だが、もはや時間が尽きてしまったため、私は彼らの瞑想を導くことができない。さらばである。

 


(訳注)

*1 英国の詩人エドワード・ヤング(1683-1765)の言葉。[本文に戻る]

*2 ナポレオン三世。在位 1852-70。普仏戦争に敗れ1873年英国で死去[本文に戻る]

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神を求むべき理由[了]

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