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なぜキリストは尊ばれないのか

NO. 3033

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1907年3月28日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ロンドン、メーズポンド会堂


「私たちも彼を尊ばなかった」。――イザ53:3


 これは、人類があまねく口にすべき告白に違いない。最もやんごとなき君主から、最も卑賤な百姓に至るまで、――最も高尚な知性の持ち主から、下劣のきわみである精神の持ち主に至るまで、――万人の賞賛を受けている人から、無名の取るに足らない人に至るまで、――この1つの告白を発せざるをえない。「私たちも彼を尊ばなかった」、と。肉の楽しみにふける好色家を吟味しようと、自分の肉体を飢えさせることで己の高慢を肥やしている形式主義者を吟味しようと、富の獲得に血道を上げている商人を吟味しようと、見境なしに諸手で黄金を投げ散らしている浪費家を吟味しようと、俗悪さでどす黒く汚れている放蕩者、自分の善良さを喜んでいる道徳家、あるいは、献身的なキリスト者をさえ吟味しようと、私たちは彼ら全員にこう認めさせなくてはならない。いま現在か、過去の一時期において、彼らはイエスを尊んでいなかった、と。そこには何の例外もない。神の聖徒たちの中の最も聖い者も、――今や、

   「光の子らの 最上(うえなき)ものとて
    永遠(とわ)の御座にぞ 近く住む」

者たちも、――その衣を小羊の血で洗って白くした者たち[黙7:14]も、――その彼らでさえ、かつては「彼を尊ばなかった」からである。そして、まだ地上にいる最も輝かしい聖徒たち、誰よりも熱心かつ忠実に《救い主》に仕えている者たちも、一時は「彼を尊ばなかった」。

 これから私が行ないたいのは、第一に、このことが真実であると証明することである。次に、より深く突き詰めて、私たちがイエスを尊ばなかったいくつかの理由を見いだそうと努めることである。そして、その後には、この事実によって、私たちの精神に生じるべきいくつかの情緒を想起させたいと思う。―― ある一時期には、そして、私たちの中の多くの者らの場合、さほど以前ではない頃には、「私たちも彼を尊ばなかった」という事実から生じるべき情緒を。

 I. まず第一に、《このことが真実であったという証明》を行なわなくてはならない。

 では、愛する方々。最初のこととして眺めてほしいのは、主イエス・キリストに対するあなたのそむきの罪を示す、公然たる行為の数々である。あなたの青春時代の場面場面に、想像の中で立ち戻り、以前のあなたのそむきの罪を思い起こすがいい。あなたがたの中のある人々の頭は、多くの冬の雪で覆われており、あなたはイエス・キリストの兵士たる武具を四十年から五十年もまとってきた。また、血に染まった十字架の旗じるしのもとで入隊して以来、勇敢に戦ってきた。だが、その幸いな日以前に起こったいくつかのことを、あなたは決して忘れることができない。この歌を心から最初に歌ったときの前にあったことを。

   「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)、
    われは主のもの、主はわれのもの」。

遠い昔のそうした罪の詳細に言及することは有益ではないかもしれないが、あなたがたの中のある人々は、それを非常に生々しく記憶している。そして、確かに主は恵み深くそれらを赦し、その記憶の書から拭い去ってくださったとはいえ、あなた自身の良心は、それらをあなたに忘れさせないであろう。

 あなたがたの中の他の人々は、若い時に親交を有していた人々のおかげか、主権の恵みの抑制によってか、他の人々のようには、公然と神に逆らって罪を犯すことから守られた。だが、あなたは知っている。自分の生き方が、神の律法に従ったものではなかったことを。あなたは、同胞たる多くの人々と比べれば、道徳的で、廉直で、人当たりが良かった。だが、キリストに関する限り、あなたは「彼を尊ばなかった」。あなたは、友人たちや仲間たちから人格的に後ろ指を差される所は何もなかったが、今やあなたは知っているのである。その間ずっとそこには、神の御目にとって全く明らかな致命的欠陥があった。一部の人々の場合、見かけ上の廉潔さは、すべて表面的なものであった。その陰には山ほどの腐れと罪があり、それは、今では恥辱と悲しみをもってしか思い出すことができない。それも、やはりすべて神からは忘れられ、赦されているが、彼ら自身の記憶の中には、非常に健全なしかたでとどまり続けている。というのも、それによって彼らはあらゆる形の不義を憎まさせられ、それらを蛇蝎のように嫌って離れ去るからである。

 あなたがたの中のある人々が犯した公然たる罪の行為、――また、それよりは公のものでないものの、やはり、あなたがたの中の他の人々がそしりを免れない、全く同じほど破滅的な悪の数々に加えて、――あなたがキリストを尊ばなかったさらなる証拠はこの事実にある。すなわち、あなたは、そのみことばを、当然しかるべきほどには尊ばなかった。もしかすると、ただ単に自分の良心を静めるためにのみ、あなたは朝晩それを1章読むことはした。あるいは、あなたの両親が家庭礼拝でそれを読むときには耳を傾けていた。だが、それは、あなたにとって何と退屈で無味乾燥なものに思われたことか! あなたは小説を読みふけったり、作り話に心捕えられることはできた。だが、霊感された神の真理は、あなたにとって飽き飽きする重荷だった。私は正直に告白せざるをえないが、主を知る前の、あるいは、真剣に主を求めるようになる前の私は、聖書の歴史的な部分は面白いと思っても、聖書の大部分を退屈で意味のないものと思っていた。聖書を読むのが大好きだという人のことは、山の頂上に立った観光客たちの見分ける景色を盲人が称賛できないのと同じように理解できなかった。私も、聖書の美しい箇所の一部によって知的には魅了されたかもしれない。だが、そのその隠された霊的意味については、真の悟りを全く得ていなかった。病気にかかって、死ぬのではないかと恐れるときには、私も聖書を手に取り、しばらくの間それを熱心に読んだ。だが、それを私の毎日の友とすることはどうかと云えば、そうした考えを思いついたのは、聖霊が私の心の中に罪の確信を作り出し始め、このないがしろにしていた《書》に私が喜んで目を向けるようになった時であった。この、きわめて重要な問いに対する答えを見いだすためである。「救われるためには、何をしなければなりませんか?」[使16:30] もしもあなたがたが、キリストにある私の兄弟姉妹。ひとりひとり自分の経験を物語ることができるとしたら、あなたがたの中の多くの人々は、私と異口同音にこう云わざるをえないと思う。「私たちも彼を尊びませんでした。なぜなら私たちは、彼を私たちに啓示していた神聖な聖書を、しかるべく尊重しなかったからです」。

 私たちがキリストを尊ばなかったもう1つの証拠は、私たちが主の民を尊ばなかったという事実である。私たちは、彼らのことを一括りにして、人畜無害な熱狂主義者の一団だと考えていたかもしれない。あるいは、偽善者で人をたぶらかす者だと悪口を云っていたかもしれない。そうした呼び名を彼らに当てはめるべき理由が何もなかったとしても関係ない。私について云えば、ごく幼少の頃から、自分の告白していることを実践する人々との親交という、値もつけられない特権にあずかっていた。また、自分の父の家においても、祖父の家にいる間も、きわめて恵みに満ちた模範が私の前には置かれていたため、私は、本来であればキリスト者である人々をその真価によって評価するのが筋であった。今、善良なウォッツ博士とともにこう喜び歌いながら、そうしているように。――

   「わが魂(たま)祈らん、シオンのために、
    いのちか呼吸(いき)の 絶えぬかぎりは。
    そこに住まうは わが親友(とも)親族(みうち)。
    そこで統(す)べるは 《救主》(すくい)のわが神」。

 しかし、なぜあれこれ二義的な問題に手間取る必要があるだろうか? あなたも私も、私たちがキリストご自身を尊ばなかったことは知っているのである。その動かぬ証拠は、私たちが主を自分の《救い主》として求めるまでに、――主のもとに来て、主を自分の《すべてのすべて》として信頼するまでに、――あれほど長くかかったという事実である。いかに長年月の間、私たちの中のある者らは、本当に主に向かって祈ることもせずに、あるいは、主と交わることもせずに生きていたことか! 主の御名は私たちの耳にとって妙なる調べではなく、私たちの心をうっとりさせもしなかった。その当時、私たちはこの預言者の言葉遣いをわがものとして採用していた。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」[イザ53:3]。「おゝ、愛しきイエスよ!」、とキリスト者は云うであろう。「わがいのち、わが望み、わが喜び、わが光、わが道、わが目当て、わがすべてよ。かつての私には、ゲツセマネにおけるあなたの呻きも、バガダにおけるあなたの苦悶も、カルバリの十字架におけるあなたの死さえも、つまらぬことと思われていました。その時のあなたは、私にとってバラバ程度の存在でしかなく、ピラトの回りに押し寄せた群衆の中に私が混ざっていたとしたら、野次馬と一緒になって、『除け! 十字架につけろ! 十字架につけろ!』、と叫んでいたかもしれません。私はあなたの福音が宣べ伝えられるのを聞きましたが、それは、聞き飽きた物語のようなものでしかなく、何の興味も覚えませんでした。おゝ、イエスよ。咎ある人間たちに対する神の恵みの驚異の権化よ。いかにしてあなたは、かくも長きにわたり、このような者の無視と敵意を我慢することがおできになったのですか? この者は、今はただ恥辱と不面目をもって告白いたします。自分があなたを尊ばなかったことを」。

 あゝ、兄弟たち! 私は、このような題目については、自分が望むようなしかたで説教できない気がする。これは、私の魂の奥底に触れる題目である。もしも、どうにかして、この聖句の真理をあなたの魂に深く突き入れることができたとしたら、――もしも聖霊があなたがたの上に注ぎ出されて、あなたがた全員が、耳に聞こえる形ではなくとも、心ひそかに、「私たちは彼を尊ばなかった」、と告白するとしたら、――私の目標は達せられるであろうし、私はイザヤの発言の真実さを証明したことになるはずである。

 II. さて、第二のこととして、《なぜ私たちが主イエス・キリストを尊ばなかったかを突きとめよう》と思う。

 私たちがイエスを尊ばなかった理由として、最初に言及したいのはこのこと、すなわち、私たちが自分のことを、あまりにも高く評価していたということである。自負心は、自然とイエスを心から閉め出してしまう。そして、私たちの自負心が高まれば高まるほど、私たちはキリストに対して堅く戸を閉ざすことになる。自己を愛する者は、《救い主》を愛することをしない。罪人は、神だけがお座りになるべき王座に、1つの偶像神を据える。――自分自身である。おゝ、あなたがた、異教徒たち。このことを聞いて、人間のよこしまさに赤面するがいい。この多くの特権を有する国で、この啓蒙的な時代に暮らし、人によってはキリスト者とさえ自称している者たちのよこしまさに! 木切れや石の塊に向かって拝礼したり、日や月や天の万象を礼拝する代わりに、彼らは、あなたがたよりもはるかに悪質である。というのも、彼らは自分自身の前にひれ伏し、自分自身の功績や、自分自身の善行や、自分自身の博愛その他のものを賞賛しているからである。キリスト者よ。これこそ、あなたがキリストを尊ばなかった理由ではなかっただろうか?――新生する前の時期のあなたにとっては、自己がすべてだったのである。もしも誰かがあなたに向かって、あなたの心が芯まで腐っているなどと告げたとしたら、あなたは何と答えただろうか? こう答えていたであろう。「私は、私の知っているどんな人とも同じくらい善良だと感じていますし、身の回りに見受けられるほとんど人よりもずっと善良です」、と。もしも、こうした善行のすべてが上辺だけ繕った罪であるとか、その最上のものでさえ汚れていて欠陥だらけのものだとか告げられていたとしたら、憤りのあまり血が逆流したのではないだろうか? あるいは、もし誰かから、あなたの最上の義も不潔な着物の堆積でしかなく、焼かれる価値しかないと云われたとしたら、確かにあなたはこう返答していたであろう。「私には、何ら恥じるところのない義があります。そして、それを完璧だと云いはしなくとも、私は他の誰にも負けないくらい神の御座の前に立てる見込みがあると希望しています」、と。

 「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした」[Iコリ6:11]。そして、自分自身をこのように高く評価している限り、もちろんあなたは主イエス・キリストを尊びはしなかった。健康でぴんしゃんしている人が、医者を尊ぶだろうか? もし誰もが常に健やかだったとしたら、誰が医師のことなど顧みるだろうか? 金持ちの人は、自分に施し物をしようとする人を高く評価するだろうか? 「いいえ」、とその人は云うであろう。「あなたの施し物は、それを必要とする人に与えなさい。私には必要ありませんよ」、と。手足に全く不自由のない人が、松葉杖を大切にするだろうか? 「いいえ」、とその人は云うであろう。「それは、ちんばの人に渡しなさい。私には必要ありませんよ」、と。同じようにして、私たちがキリストを尊ばなかったのは、キリストを必要としていないと感じていたからである。キリストなどなくとも何不自由なく――少なくとも当分の間は――やって行けると思っていた。場合によっては、キリストが踏越し段の所で私たちを持ち上げくれるかもしれない。あるいは、道の途中でぬかるんだ所に来たなら、キリストがその上着を地面に広げて、私たちが足を汚さないで踏んで行けるようにしてくれるかもしれない。だが、その残りの旅路では、自分だけでちゃんとやって行けると思っていた。最後に天国に入ることをキリストが助けてくれるならば、ありがたいと思っただろうが関係ない。ことによると、私たちは誰ひとり、いま私が口にしたようなしかたであからさまに云い表わそうとはしなかったかもしれない。だが、それこそ私たちの自負心が、実質的に云っていたことであり、それこそ私たちがキリストを尊ばなかった理由である。自己愛が全く私たちの心を夢中にさせていたからである。自我と《救い主》は決して1つの心に共存できない。主は、そのすべてを占めるか、全く占めないかである。それで、自我が王座に着いている場合、主がおとなしくやって来て、その足台の上に座るなどということは期待できない。

 私たちがイエスを尊ばなかったもう1つの理由は、私たちがこの世を、あまりにも高く評価していたからであった。私たちは、ジョン・バニヤンが次のように告げている男のようであった。現世で自分の欲するあらゆるものを手に入れられる限りは、他の人々が来たるべき世の喜びを有することに何の不満もないという男である。世俗の人は今なおこう云う。「掌中の一羽は、薮中の二羽に値す」、と。そして、この人にとって、今の悪の世界[ガラ1:4]は掌中の一羽であり、天国のあらゆる至福については、薮中の一羽でしかないかのように考えるのである。「生きている間は」、とその人は云う。「地上で得られるあらゆる幸福を受けながら生きたいものだ。来世を得られる連中は、得るがいいわい」。私たちの中のある者らの場合、自らもそうした口をきき、永遠のものである栄光を馬鹿にしていたのは、そう遠い昔のことではない。私たちはイエス・キリストと、その大いなる救いを自分からはるかに遠ざけていた。「私たちも彼を尊ばなかった」のは、この地上とその一切の愚かさとを愛していたからであり、その毒まみれのちりを山と積み上げることに狂奔しているか、その不満足な快楽に喜びを見いだしていたからである。縄が解き放されて初めて風船は雲を越えて上ることができる。そして、この地上の物事に私たちを縛りつけていた綱が断ち切られて初めて私たちの魂は、目に見えない永遠の物事に向かって上って行くことが望めるのである。この世に嫌気が差すようにならない限り、私たちは決してイエスを万人よりすぐれ、すべてが愛しい[雅5:10、16]お方であるとも、私たちの喜びのすべてがこの方の中にあるともみなさない。

 私たちがキリストを尊ばなかった三番目の理由は、彼を知らなかったからであった。確かに、彼については多くのことを知っていたが、《彼を》知ってはいなかった。福音書記者たちが彼に関して記録したことを読んだことはあったし、彼の教えに関しては多くを知っていた。ことによると、彼の戒めのいくつかを守ろうと試みたことさえあったかもしれない。だが、私たちは個人的に、また、救いに至るしかたで彼を知ってはいなかった。キリストについて知ることと、キリストご自身を知ることとの間には非常に大きな区別がある。――キリストが行なったことを知ることと、キリストがどなたで、いかなるお方であるかを知ること、そして、次のような云い回しの意味でキリストを本当に知ることとは大違いである。その、御父に対する大いなるとりなしの祈りの中でキリストはこう云われた。「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」[ヨハ17:3]。だが、キリストご自身を通して――キリストの永遠にほむべき御霊の無謬の教えを通して――初めて私たちは、使徒ヨハネがこう記したようなしかたでキリストを知ることができるのである。「私たちは……神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」[Iヨハ5:20]。詩人は、いみじくも次のように記している。――

   「もし主の価値(あたい) 国々知らば
    全地もなべて 主をば愛さん」。

そして、ラザフォードは云った。「確かに、私の主よ。もしも全世界にあなたを見ることができたとしたら、全世界はあなたを愛するに違いありません。もしあなたが、あなたの片目でも開いて、彼らをご覧になるならば、彼らはあなたのもとに走りより、歓喜で夢中になるに違いありません。あなたはそれほど麗しくあられるからです。私の尊いイエスよ。あなたを一目見るだけで愛さずにはいられなくなるのです」。しかし、世俗の子らは一度もキリストを見たことがなく、そのためキリストを知らず、キリストを愛さない! あゝ、あわれな世俗の子よ! もしも、私の主が私に向かって、「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」[イザ43:25]、と仰せになった時に私が見たようなしかたで、あなたも私の主を見たことがあったとしたら、――もしもあなたが信仰の耳で、その天来の宣言を、天国の立琴の調べにすらまさって甘やかなその言葉を聞くことができたとしたら、――たちどころにあなたは主イエス・キリストを愛していたことであろう。その熱烈な情動によって、生命の絆は、この土くれの住処にあなたを繋ぎとめておく力をほとんど失うほどとなり、あなたは飛び去って、自分の愛する主といつまでもともにいたいと切望するようになるであろう。そして、世俗の子よ。もしも、時おり信仰者が特権的に与えられるようなイエスの訪れをあなたも受けることができたとしたら、――もしもあなたがほんの五分間でも、ひとりのキリスト者が、あるとき――「肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです」[IIコリ12:2]――得たような至福の経験を得ることができたとしたら、――もしもあなたが、そのように、「第三の天にまで引き上げられ」、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことば[IIコリ12:4]を聞くことができたとしたら、もしもあなたが一度でも、あなたのほむべき《救い主》を見ることができたとしたら、――あなたはこの方を愛さざるをえないであろう。主はあまりにも麗しく、あまりにも恵みに満ち、あまりにも栄光に富んでおられるために、あなたはもはや主に対して冷たい考え方ができなくなるであろう。キリストについて間違った考えをする人々は、一度もキリストを知ったことがないのである。そして、私たち、実際に主を知っている者たちも、恥辱とともに告白するものである。かくも長いこと「私たちも彼を尊ばなかった」理由は、私たちが彼を知らなかったからであった、と。

 私が言及したい最後の理由は、他の一切の理由の核心である。私たちがキリストを尊ばなかったのも何ら驚きではない。というのも、私たちは霊的に死んでいたからである。向こう端に、ひとりの人が座っており、私はその人に何らかの影響を及ぼしたいと思っているとしよう。さらに私は、自分が熟練した音楽家であると想像し、この上もなく喜ばしい調べを引き出すようなしかたで、私の立琴の弦を奏でてているとしよう。だが、その人は何の注意もそれに払わない。そこで、私は全く別の種類の楽器を用いることにする。――手頃な金管楽器か、喇叭である。――そして、あなたがた全員を驚かせるようなしかたで、それを一吹きする。だが、その人は、その音に何の気もとめない。なぜなのか。私たちがいかに賢く魅惑しようとしても、彼は耳しいの眼鏡蛇[詩58:4]のようで、いかに甘やかな音、けたたましい音、耳をつんざくような音にも関心を示さないのはなぜだろうか? 別のしかたで彼の注意を引きつけてみよう。私は彼の前に、英国一すぐれた料理人が用意できる、最も美味な料理を置いてみる。あるいは、遠国から取り寄せた珍味を持ち出してみる。だが、彼はその食品にも、音楽と同様、全く関心を示さない。私は、彼の五感に達する別の計画を試してみよう。私はその人のもとに持ち出すであろう。――

   「エデンの精華(はな)の 枯れしあと、
    咲ける中より えり抜きし花」、

その花々を彼の顔の前に差し出し、その芳香を彼の鼻腔に立ち上らせよう。だが、彼にはお呼びでない。何が彼を覚醒させるのだろうか? 天の雷鳴の轟きが、どこかの強大な将軍の行進の太鼓のように鳴り響いても、その人は身動きしない。稲妻が私たちの回り中で閃きわたり、ついに世界の終わりがやって来たかのように思われても、身じろぎ1つしない。その人を目覚めさせるために何をすれば良いだろうか? 鞭で打つか、剣で一撃すれば良いだろうか? すべては無駄である。そして、とうとう私は悟った。その人が死んでいることを。そして、私の一切の努力が空しく費やされたことを。今や謎は解けた。秘密は明らかとなった。結び目はほどかれた。――その人は死んでいるのである。そして、もはや私は、彼が音楽も、食物も、花々も評価しなかったことに驚きはしない。雷鳴や、稲妻や、剣を恐れなかったことも不思議はない。そして、キリストにある兄弟姉妹。確かに主は私たちを生かしてくださったが、かつては私たちも「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」[エペ2:1]であって、墓に入っていたラザロのように、一瞬ごとに腐敗の度を増していたのである。

 III. さて、この聖句の真理を証明し、私たちがキリストを尊ばなかった様々な理由を示したので、しめくくりとしてこう尋ねさせてほしい。《この事実は、いかなる情緒を私たちの魂の内側に作り出すべきだろうか?》

 最初に、この、「私たちも彼を尊ばなかった」という真理を思い起こすことによって、私たちの中には、この上もなく深い悔悟が生み出されるべきだと思う。自分の過去の生き方を振り返っても涙せずにいられるようなキリスト者を、私は理解できない。もしその人が自分の経歴の暗黒の頁をめくり、そこにはいかなる敬虔さの記録もないばかりか、今のその人の主であり《主人》であるお方に対する数々の罪のことがびっしり記入されているというのに、その人がそれらを思い出して涙しないという場合、確かにその人は、罪の真の性質を全く学んだことがなかったに違いない。おゝ、キリスト者よ。あなたは、こう書かれている、「その町(の)……ひとりの罪深い女」*の、実際の行為を文字通りに真似することはなくとも、その精神をとらえるのがふさわしいであろう。彼女は、「イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」[ルカ7:37-38]。彼女のふるまいについて私たちの主が説明したところ、「彼女はよけい愛した」という。あなたは、あなたの主を少ししか愛していないがゆえに、あなたの過去の罪に対するあなたの悲嘆を、このあわれな女ほどには明らかに示さないのだろうか? 思い起こすがいい。あなたが彼を尊ばなかったにもかかわらず、彼はあなたを永遠の愛で愛しておられ、あなたの魂の贖いを、ご自分のこよなく尊い血という大きな代価によって買い取っておられたことを。この方はあなたの前に立ち、刺し貫かれた御手で永遠の契約の巻き物を掲げてくださった。その契約によって、あなたの魂は自由にされ、あなたは完全に解放されたのである。だが、あなたは彼を尊ばなかった。おゝ、キリスト者よ。あなたは、これまでに得た中でも最上の《友》に対して、自分がいかなる仕打ちをしてきたか思い出しただけでも泣けてこないだろうか? 思い起こすがいい。あなたが彼をかの木に釘付け、その心臓を刺し貫いたも同然であることを。ウォッツ博士は、あらゆる信仰者を代弁して、この自らを断罪する言葉を記している。――

   「そは汝れ、わが罪、わがむごき罪、
    主を苦しめし おもだてる者。
    わが咎は みな釘となり、
    わが不信こそ 槍となれり。

   「そは汝れ、天つ 復讐(みいかり)を
    無罪(きよ)き頭に くだらせし者。
    碎けよ、わが心(たま)、決壊(さ)けよ、わが目よ!
    わが悲嘆(かなし)みを かくて流せや」。

 そして今、キリストにある愛する兄弟姉妹。しばしの間、私たちの悔悟の悲しみを、このようにふさわしく表現した上で、さらに高い音色を打ち鳴らそう。そして、私たちがキリストを尊んでいなかった時があったことを思い出しつつ、今や、主が私たちのために獲得してくださった大いなる救いを喜ぼう。確かに私たちは、主を尊ばないほど邪悪な者であったことを悲しむべき大きな理由がある。主は、今の時と永遠にわたる一切のことについて、私たちに恩恵を施しておられるお方だからである。だが、私たちには、このキリストの愛の高さ、深さ、長さ、広さをあがめるべき、はるかに大きな理由がある。その愛は人知を越えたもの、そして、完成に至らされたものである。また、私たちは、私たちのあらゆる不義を拭い去り、私たちを「愛する方にあって受け入れ」[エペ1:6 <英欽定訳>]させている、その驚嘆すべきご計画をあがめるべきである。自分が堕落した者たちの間に数えられていたことを思い返して泣くことは正しいが、それと等しく正しいのは、自分が立ち返らされたという事実について喜ぶことである。そして、私たちの喜びの歌の基調となるべきものは何だろうか? それは、神の主権的な恵みではないだろうか? 主が私たちを救いに選ばれた理由は、確かに私たちが御子イエス・キリストを他の人々にまさって尊んだからではない。というのも、「私たちも彼を尊ばなかった」からである。もしあなたが私に、なぜ神はご自分の民を選ばれたのですか、と尋ねるとしたら、私はこう答えるしかない。それはキリストが、賢い者や知恵のある者には隠されていて、幼子たちには現わされたことについてお与えになったのと同じ理由ゆえである、と。「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」[マタ11:26]。

 もう1つの情緒を、あらゆる真のキリスト者は感じるべきである。それは、自分の同胞たちに対する希望である。もし私が自分の罪のために悲しみを、自分の解放のために喜びを感じるとしたら、やはり私は、他の人々のために希望を覚えるべきである。ことによると、この場にいるある人はこう云っているかもしれない。「私は、息子をこの祈りの家に何度も何度も連れてきました。そして、神がその子にあわれみをかけてくださると望んでいたものでした。ですが、私はもはやあらゆる望みを捨ててしまいました」、と。やめよ。私の兄弟。そのように云ってはならない。あなたは、あなたや私について、私たちもキリストを尊ばなかったと云われていた時のことを覚えていないのだろうか? ならば、あなたの息子が今はキリストを尊んでいなくとも、だからといって、なぜこれからその子がそうしないことがあろうか? 逆に、あなた自身の場合に天来の恵みが明らかに示されたことは、あなたの息子の回心についてあなたに希望を持たせる励ましではないだろうか?

 「おゝ!」、と別の年老いた父親は云うであろう。「私は、子どものひとりのために長いこと祈ってきましたが、無駄でした。この両手は、今では寄る年波のために動かなくなっていますが、恵みの神に向かって何年も何年も挙げられたものです。ですが、私は、わが子が救われる望みを全く失ってしまいました」。しかし、白髪頭の友よ。あなたの祈りが失敗だったと考えてはならない。たとい、それらがまだ、かなえられていなくとも関係ない。それらはみな、天国で保管されている。そして、所定の数が満たされたとき、神が「有効」であると決定しておられる嘆願が提出されるとき、あなたの子どもは救われるはずである。しかし、なぜあなたは、自分の愛する者に関して絶望すべきだろうか? あなたは知っているはずである。何年もの間、あなたがキリストを尊ばなかったにもかかわらず、今のあなたにとって、キリストは「すべてが愛しい」お方であることを。ならば、なぜ自分の経験が、あなたの子どもの場合にも繰り返されるべきでないのだろうか?

 「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「私は、これこれの地区に住んでおり、周囲にはロンドンでも最悪の人々がうようよいます。私は、みことばの聞こえる所に彼らを連れて来ようと努めてきましたが、そのひとりをさえやって来させることができません。彼らの救いを希望することさえあきらめざるをえない気がします。彼らは、極悪すぎて救われないように思われるのです」。しかし、愛する方よ。あなたや私も、一時はキリストを尊んでいなかったし、もし私たちが自分の心の中にあったものを本当に知っているとしたら、私たちは云うべきである。こうした人々は、かつての私たちよりも大して悪くはない、と。それでも、かりに彼らがあなたの考えているほど邪悪であるとしても、ホイットフィールドのこの驚くべき云い回しを思い出すがいい。「イエス・キリストは、悪魔に見捨てられた者をも喜んで受けて入れてくださる」。ホイットフィールドがそう云うのを聞いた、ひとりの非常に潔癖な貴婦人は、ハンティングドン伯爵夫人にそのことで文句を云い、彼がそのように野卑なしかたで話をするとは何と悲しいことでしょうと云った。伯爵夫人は云った。「ホイットフィールド氏は階下にいますので、上がって来てもらって、ご自分で答えていただきましょう」。彼が上って来て、この貴婦人の言葉を聞いたとき、彼は単純にこう云った。「私が、たった今、話をしていたのは、あわれな罪深い女でした。彼女は私が説教するのを聞いたことがあり、彼女を慰めた1つのことは、このご婦人が反対しておられる一言だったのですよ。『イエス・キリストは、悪魔に見捨てられた者をも喜んで受け入れてくださる』、という」。「あゝ!」、とハンティングドン伯爵夫人と、彼女に同意する他の人々は云った。「そういうことであれば、あなたのなさったことが正しいことは全く明らかですとも」。

 これは私の経験から証言できることだが、神はしばしば私たちの粗野な表現のいくつかの方を、私たちのきわめて洗練された表現よりも祝福してくださる。私は、自分が心動かされて口から発した奇矯で異様な云い回しのいくつかを通して、あまりにも多くの魂が救われるのを見てきたために、神がお助けになる限りは、それと同じ様式を続けていくつもりである。確かに私は、ホイットフィールド氏の言葉を裏書きすることができる。「イエス・キリストは、悪魔に見捨てられた者をも喜んで受け入れてくださる」。ひとりの罪人が、いかに邪悪で汚れ果てていようと、私は常にこう感じる。「神の恵みがなかったならば、私もまさにこのような者となっていたのだ」、と。それゆえ、あのあわれな傷ついた旅人から、できる限り遠ざかった祭司やレビ人の真似をする代わりに、私は自分の同胞である人々の中でも最悪の人のもとに勇んで出かけて行っては、こう云ってやりたい気がする。「何と、私の愛する兄弟よ。かつては私もキリストを尊んでいなかったのですよ。だから私は、あなたが信心深くないからといって、あなたを怒りはしません。あなたが聖書を読んだり、神に祈りをささげたり、礼拝所に来ることをしていなかったりしても、あなたを叱りつけようとは思いません。むしろ、あなたが私の《主人》を尊ぶように、あなたのような罪人たちに対する主の大いなる愛について、あなたにお知らせしたいのです。主は御父とともに天で統治しておられたのに、その一切の栄光を投げ捨てて、地上に下り、他のどの貧民とも同じようなしかたで生活されたのです。違いは罪がないことだけでした。主は巡り歩いて善を行ない、病人をいやし、らい病人をきよめ、死人をよみがえらせました。そして、最後には、自ら進んで悪人たちの手に身をゆだねて死なれたのです。『正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、……私たちを神のみもとに導くためでした』[Iペテ3:18]」。

 そのように私は、自分のあわれな友に対して、努めて福音を非常に平易にし、主が私の魂のためにしてくださったことを告げようとするであろう。また、こう請け合うであろう。私をも救ってくださった以上、主の恵みとあわれみには何の限界もない、と。私は常に、この馴染み深い詩句におけるチャールズ・ウェスレーの議論を賞賛するものである。――

   「いかな汚れも きよめうる
    主の血をわれも 用うべし」。

それと同じ種類の議論を用いて、パウロはこう書いたのである。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです」[Iテモ1:15-16]。

 キリスト者である方々。あなたがたがこの建物を出て行くときには、このことを考えていてほしいと思う。以前のあなたはキリストを尊んでいなかった。だから今のあなたには、キリストに従う者としての自分の立場を誇るべき何の権利もない。むしろ、あなたの救いの一切の栄光は主に帰すべきである。そして、あなたは他の人々の救いを希望すべきである。あなたの同胞たる人々の中の最悪の者の救いをも。

   「ともしび燃える ことやめぬ間(ま)は、
    いかに悪しかる 罪人(もの)も帰りえん」。

あなたは、この町でも他のいかなる場所でも、最悪の罪と悪徳の巣窟そのものにさえ行くことができる。そして、聖霊の力により頼みつつ、あなたの見いだす限り最も恥知らずな男女に対しても、このことを知っているがゆえに、キリストの福音を宣言することができる。「キリストは……ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」[ヘブ7:24]。

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なぜキリストは尊ばれないのか[了]

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