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「大きな岩の陰」

NO. 3031

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1907年3月14日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1869年7月18日、主日夜


「彼は……かわききった地にある大きな岩の陰のようになる」。――イザ32:2 <英欽定訳>


 わが国の普段は温暖な気候においてさえ、私たちは時折、猛暑に音を上げることがある。だがそれも、東方の国々の灼熱の暑さにくらべれば酷寒にほかならない。サハラ砂漠を通って旅する人なら、わが国では酷暑に当たる熱気すら切望するであろう。それが、この国の私たちにはいかに耐えがたく思われようと関係ない。来る日も来る日も熱砂を足で踏みしめ、ほんの一本の木もなく、ちょっとした茂みさえほとんど見当たらない。太陽の浴びせかける熱流は、旅人に対する憤りに満ちているかに思われ、水はごく希少で、手に入るものといえば考えうる限り最も吐き気を催させるようなものしかない。こうした荒野を行く旅行者は、まさにそれが「かわききった地」であることに気づき、ひたすら願うのである。再び耕作地を見る時のこと、また、小川や河川の流れている土地を見る時のことを。

 旅行者たちが私たちに告げるところ、――その熱が強烈になりすぎて、あらゆる生物が絶滅しきっているように思えるとき、また、鳥たちがいるにせよ、その翼を垂れ、獣たちが横たわり、あえぎながら息づいているとき、――そのようなとき、彼らが目にして喜ぶものは、その不毛の平原の真中に大きな岩があるのを見るときであった。彼らはその陰に潜り込み、そこにこの上もなく清新な涼しさを見いだしたと記録し、その手を上げて神に感謝した。「かわききった地にある大きな岩の陰」は、それほど無上の喜びなのである。私は、こうした旅行者たちが記録したような経験は全くないが、北伊太利における酷暑の日を覚えている。その乾いた平原を馬に乗って行くとき、目に見える生き物は、蜥蜴や、その獲物となるおびただしい数の蝿、そして、刺されると気が狂いそうになる蚊の大群しかなかった。――そのとき見いだした1つの大きな岩は、まことに素晴らしい慰めの源となった。その陰で休めた時間はごく僅かだったが、私たちは一日中、感謝とともにそれを思い出していたし、その「かわききった地にある大きな岩」の陰の下で、日が暮れるまでとどまっていたかったと思ったものであった。

 天来の霊感の下で筆記していた預言者イザヤは、肉体をとって人となられた主イエス・キリストのことを、この大きな岩にたとえられるものと描写している。人生というこの荒野において、――キリストから離れた、このみじめな人生において、――この砂漠を通って彼方の良き地へと向かう巡礼である私たちにとって、キリストは一個の大きな岩であり、私たちの通り道を横切って、ほむべき陰を投げかけるお方である。その陰の中で私たちは再び清新にされることができ、喜びながら旅を続ける力を新たにされるのである。

 私は、この聖句の意味を引き出すため、次のことに注目しようと思う。第一に、なぜ私たちの主はこのように大きな岩の陰にたとえられているのか。第二に示したいのは、主は特にいつ私たちにとって清新なお方となられるか、である。そして第三に、また、実際的に私はこう問いたい。私たちは主に対してどうすべきだろうか?

 I. まず第一に、《なぜ私たちの主は、かわききった地にあって、清新な陰を投げかける大きな岩にたとえられるのだろうか?》

 第一のこととして、私たちが主について思い出せるのは、岩のように、主が常に同じ場所におられる、ということである。人は、ある種の陰を人工的に作り出し、それを記憶にとどめていることがある。ある所に、何本もの大きな木によって投げかけられる陰があった。だが、今ではその木々は取り除かれてしまっており、同じ経路を通って来た旅人が、その涼しい木陰を期待しても、失望することになるであろう。しかし、大きな岩であれば、アブラハムや、イサクや、ヤコブがその下に身を避けた時と同じ場所にとどまっており、今日の旅人も同じようにできる。私たちの主イエスも、それと全く同じである。その御名をほむべきことに、主はそのおられる場所を変えておられない。もし、この場にいるあれ魂が主を見いだしたいと思うなら、今も主は以前おられたのと同じ所におられる。すなわち主は、今も贖いの蓋の所にいて、ご自分のもとに来て、ご自分により頼むあらゆる魂を受け入れようと待っておられる。イエス・キリストは、あなたがたの中の誰からも遠く離れてはおられない。主はごく間近におられるため、祈り1つで主に達し、吐息1つで主を見いだし、涙一滴で主の心に至ることができる。ただ、あなたの種々の願望を主の方に向けるがいい。ただ、あなたの霊を静めて、いま主に語りかけるがいい。「イエスよ。《主人》よ。あなたの陰を、罪の重荷を負った私の頭に投げかけてください。私の魂を神の御怒りから、また、地獄の熾烈な熱から守ってください!」――ただ、そう願うがいい。そうすれば、それはかなえられる。イエスは今なお喜んで恵みを与え、今しもあなたを祝福しようと待ちかまえておられるからである。

 また、主が岩のようであるのは、主ご自身と同じく、その陰もまた常にそこにあるからである。太陽と岩があるところ、どこでも確実に陰はできる。そのように、神がその御怒りという熾烈な光箭をひとりの罪人の上に浴びせかけるとき、その罪人がキリストのもとに逃げて行くなら、その人はその御怒りからの避け所を確実に見いだす。良心があなたを抑圧し、自分の咎をあなたに思い起こさせるとき、キリストが良心を静め、あなたの恐れをなだめる御力を失っておられないことは確実である。時として罪人は、自分がキリストのうちに平和を見いだすのは手遅れではないかと恐れることがある。あるいは、もしかすると、早すぎるのではないかとか、罪にふける中で自分の恵みの日を通り過ぎてしまったのではないかと恐れることがある。あゝ、あわれな魂よ。こうした考えはことごとくサタンの嘘八百である! もしあなたが本気でキリストの愛を心に注がれたい[ロマ5:5]と願っているなら、それは、キリストがすでにその愛をあなたに定めておられる証拠である。もしあなたの頭がいま神の御怒りという呵責なき陽光によって打ちすえられているとしたら、あなたはキリストの贖罪のいけにえという大きな岩のもとにやって来て、そこに隠れ家を見いだしてかまわない。もしあなたがイエスに信頼するなら、あなたはイエスだけが与えることのできる平安、人のすべての考えにまさる平安[ピリ4:7]を有するはずである。いみじくも私たちの賛美歌にはこうある。――

   「死なむ《小羊》、その血潮、
    たえて力を 失わじ。
    神あがなえる その教会(たみ)の
    あらゆる罪を 捨つるまで」。――

そして、彼らはまだ全員が救われてはいない。なおも、集められるべき者たちがいる。それゆえ、キリストの血はなおも、罪からきよめるその力を失っておらず、岩としてのキリストは、そのありがたい陰を、みもとに来るすべての者の上に投げかけており、彼らはそれにより清新にされれるのである。

 私たちの主がやはり大きな岩の陰にたとえられるのは、大きな岩の陰は広々としているからである。思い出せば、私はある時、暑くて、埃だらけの道を長々と歩いた後で、相当に高い丘の頂に達したことがある。そこには潅木もなければ木もなく、誰かがそこに立てた巨大な十字架しかなかった。そして、私は友人とともにその十字架の隠れ場の下に入ろうとしたが、その陰にはひとり分の余地しかなかったのを覚えている。私たちは二人ともその陰に入ろうとした。日差しの下は途方もなく暑かったからである。だが、その十字架が私たち二人の隠れ場となることはできなかった。それで私たちは、その山腹で待っている限り、交代でその陰に入らざるをえなかった。しかし、大きな岩の場合、それとは違う。そこにある陰は、時としてあまりにも広々としており、隊商全体がそこで太陽の熱から免れて休息を取り、旅行者も、駱駝も、何もかも、その陰に隠れることができるほどである。私の《主人》もそれと同じである。主は決して小さな《救い主》ではない。すでに何百万もの人々を救ったが、さらに無数の人々を救うことがおできになる。もしその十字架の陰が、たったひとりの罪人しかかくまえなかったとしたら、あなたがたの中の多くの人々はいかに先を争ってそのひとりになろうとすることであろう。だが、残念なことに、多くの人は、天来のあわれみを、その広大無辺さそのもののゆえに軽蔑しているのではないかと思う。そうあるべきではないが関係ない。もし私たち全員が、神の御怒りという太陽の熱を自分の良心の中に感じているとしたら、私たちはみな群れをなしてイエスのもとに行くであろうが、決してイエスは、「わたしには、あなたがた全員を受け入れることはできない」、などと仰せにはならないであろう。もしキリストのうちに、たったひとりを除く全員のための余地があったとしたら、この場のどこかからか1つの叫びが上がるのが聞こえるはずである。「おゝ、神よ。私を閉め出さないでください。私を受け入れてください、この私を!」 だが、あなたがたの中の多くの人々は、キリストの陰の下にあなたのための余地があるのに、その陰の下に行かずに満足している。キリストのうちには、地獄の外にいる最大の罪人のためにも余地はある。万の幾万倍もの罪人たちのための余地がある。やって来るよう導かれ、主にその信頼を置くあらゆるアダムの種族のための余地がある。それは、大きな岩の陰であり、それゆえ、広々とした陰である。

 さらに、岩の陰はあらゆる人にとって無代価である。岩陰の席のために代金を払うことなど誰も考えない。また、その陰の下に来るよう呼ばれるまで待とうなどとは誰もしない。大きな岩の日陰側に座る前に、身支度を整える必要があるなどとは誰ひとり夢にも考えない。疲れている人なら誰でも隠れ場を求める。額から熱い汗を拭っている人ならみな、招待などされなくともやって来ては、その穏やかな陰の下で手足を伸ばして休憩する。同じように、イエス・キリストは、信頼を寄せるあらゆる者にとって、空気のように無代価である。主のみもとに行くには、何の身支度を整える必要もない。また、キリストのもとに来るようにとの招きは何度となくなされつつあるとはいえ、これは、人が主のもとに行こうとしたがらないからであって、主の方に何らかの妨げがあるためてばない。ある魂がひとたびキリストを切望するよう導かれるなら、その魂はたちまちキリストを有することができる。大きな困難は、罪人たちに自分が《救い主》を必要としていると悟らせることにある。彼らは灼熱の陽光の中に立っていながら、その熾烈な熱の下でも決して自分は失神しないと想像している。だが、その力がなくなり始めると、喜んで大きな岩の陰にやって来たくなり、その岩はそこに立っている。それまで常に変わらず立っていたのと同じである。そして、彼らは、いかに長くそれをないがしろにしていようと、そこへ来るように、また、清新な隠れ場をそこに見いだすように招かれる。この真理によって、私の話を聞いている何人かのあわれな魂は慰められないだろうか? あなたがたの中のある人々は、こう考える大きな間違いを犯していないだろうか? 自分は、もっと善良にならなくては、あるいは、何か良いことを行なわなくては、キリストのもとに行くことはできない、と。よろしい。ならば、あなたにこう請け合わせてほしい。街角にある水飲み場の水が無代価であるのと同じくらい、また、あなたの肺に入る空気が無代価であるのと同じくらい、常に恵み深い《救い主》は、咎あるあらゆる罪人にとって無代価である。罪人は、ただやって来て、この「かわききった地にある大きな岩の陰」の下に隠れ場を求めさえすれば良い。

 さらにまた、私たちの主が岩に似ているのは、その陰が、最も清新なものだからである。真偽のほどは定かでないが、昔から田舎で考えられてきたところ、ある種の木々の陰に座るのは不健康なことだという。時に私は、これこれの木の下に座らないよう警告されたことがある。もし座ると、頭痛がしたり、他の悪いことがあれやこれや起こるというのである。しかし、このことだけははっきりしている。キリストの陰は決していかなる人をも害することなく、一千ものしかたで変わりなく祝福を与える。ある人がイエスのもとに来て、安らぎさえするなら、頭痛やあえぎは、道徳的、霊的な不調に関するものである限り、過ぎ去ってしまう。信仰を有する人は、自分が赦されていることを悟る。そして、おゝ、それは何と幸いな悟りであろう! その人が歌うの聞くがいい。――

   「うれしや、わが罪 いま赦されぬ、
    われ信ずべく、いま信じたり」。

そして、そうした罪赦された感覚とともにやって来るのが、神との完璧な平和を得た感覚である。赦された人は、それまで一度も知らなかった喜びを感じる。――かつて楽しんでいたような狂喜じみた喜びではない。それは、最初にその人を酩酊させ、それから、抑鬱した、やるせない気分をしたものである。だが、この喜びは大河の水路のようて、流れるにつれて増して行き、年々歳々広がり、深まって行くのである。

 キリストの陰の下に入るのは幸いなことである。何年も前に私が最初にイエスを信じたとき以来、私が個人的に感じてきた幸福のすべてをあなたに告げることはできない。多くの葛藤、争い、戦いの最中で、私はこう証言できる。イエスに信頼する者の人生のような人生はどこにもない。墓のこちら側では、十字架につけられた《贖い主》を信ずる信仰によって生きる幸いにくらべられるような幸いは何もない。私があらゆる若い人々に向かってこう勧めるとき、それは自分でも真実であると知っていることを語っているにすぎない。この大きな岩の陰には、人生の早いうちに入るがいい。そうすれば、それ以来ずっと、人生最後の時さえ至るまで、その岩が確実にもたらしてくれる隠れ家を得るであろう。私は、キリストを信頼したことを悔やんでいるようなキリスト者にはひとりも出会ったことがない。また、老年になってから、キリストを自分の《救い主》としてより頼むのは間違いだったと云った人のことなど、ひとりも聞いたことはない。これから死のうとしている人の枕頭に座ったことは数あるが、自分は間違っていた、主イエス・キリストを信ずる信仰を通しての、恵みによる救いなど、みな欺きだった、みな気の迷いだった、などと自分の誤りを認める聖徒の言葉を聞いたことは一度もない。むしろ、この耳がしばしば聞いてきたのは、御使いたちの歌のように旋律に満ちた、今際の歌である。また、世を去ろうとする信仰者たちの平安と喜びの宣言である。それを聞くことで、私の心は躍らされ、私の目は喜びで輝かされてきた。このように聖なる歓喜と楽しみの言葉を口にした人々の喜びは、よほど徹底して深く、深遠なものであったに違いない。

 私たちの主題のこの部分については、もう1つだけ述べて終わりにしたい。――私たちの主が「かわききった地にある大きな岩」のようであられるのは、それが他の人々にとっては陰になりながら、自らは太陽そのものの熱を身に受けているからである。岩は、焼きつけるような日差しと疲れ果てた旅人との間に入る媒体である。ここには、キリストの仲保者としてのみわざを示す喜ばしい比喩がある。主は、自ら神の御怒りと私たちとの間に入ってくださる。譲らぬ正義という真昼の陽光から流れ出した、あのすさまじい光箭は、その熾烈な熱をキリストに集中させた。そして、それがキリストに降り注ぎ、キリストによって吸収されたからこそ、キリストは今、ご自分のもとに来て信頼するあらゆる者にとって涼しく、清新な陰となっておられるのである。イエスが苦しまれたのは、私たちが苦しまずにすむためであった。イエスが死なれたのは、私たちが生きられるようにするためであった。主が罰されたのは、私たちが赦されるためであった。主が、罪に対する天来の復讐という踵の下で砕かれ、死に至らされたのは、私たちが無限のあわれみという手で天に引き上げられるためであった。ならば、あなたの前には福音の縮図があるのである。あなたは心の目で見るであろう。この大きな岩と、そのありがたい陰、その岩の上に照りつける太陽と、その岩によって守られている旅人とを。おゝ、あなたがたの中の、まだ主イエス・キリストを知らないすべての人々が、いま主のもとに来るならどんなに良いことか! 日差しが耐えがたいほど熱くなるときには日陰を求めるように、神の御怒りという太陽の熾烈な光箭から逃れて隠れ家を求めるがいい。キリストのうちにしか隠れ家はないが、キリストのうちには完璧な守りがある。主のもとに行くには、何の長い巡礼の旅も、何の念入りな儀式も必要ない。あなたは、自分の会衆席に着いたままで、イエスに信頼することができる。ほんの一目仰ぎ見れば、いのちがある。主に信頼するや否や、――

   「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)」。

そして、この岩の陰で、あなたの霊は永遠に安泰である。

 II. しかし、ここで次に注意しなくてはならないことがある。《ある特定の時期に、特に私たちの主は、大きな岩の陰のように人を清新にしてくださる》

 信じる者たちにとってイエスは常に尊い。だが、時として主が特に尊くなることがある。これは、人々が罪の確信の下にあるときそうであった。この一言が、私たちの中のある者らにとって、いかなる記憶を目覚めさせることか。――「罪の確信!」 何と、それは私たちの中のある者らにとって、まさに受難であった。火刑柱に縛られて焼き殺される方が、私たちの中のある者らが赦罪を求めながらも、それを間違ったしかたで求めている間にくぐり抜けた、あの霊の恐怖や抑鬱よりもましであったろうと思う。神が良心をご自分の鋭利な矢の的とされるとき、また、律法の十門の大砲がことごとく罪人の魂めがけて発射されるとき、また、そのあらゆる砲弾が人の偽りの平安を蜂の巣にし、その自己信頼を木っ端微塵にし、その人を負傷させ、ずたずたに切り裂き、不具にしたままにするとき、人がその苦悶の中で、「救いを見いだすには何をしたら良いのだろうか? いかにすれば罪を取り除けるだろうか? 神は私に正義の怒りを発しておられる。いかにしてその御怒りをなだめれば良いのだろうか?」、と叫ぶとき、――そのときこそ、キリストが「かわききった地にある大きな岩の陰」のようになるときである。罪人たちがイエスのもとに行くには、自分自身のものを頼りにしている間は無理である。それで、願わくは主が私たちを裸にし、私たち自身に関する一切のものについて、絶対的な破産状態と貧窮に至らせてくださるように。そうするとき、私たちはイエスを仰ぎ見て、イエスのうちに一切のものを見いだすようになるからである。それで、罪の確信を覚えて、律法の十叉の鞭が人の魂に振り下ろされているとき、キリストはまことに尊いお方である。

 やはりまた、愛する方々。試練の折々に、信仰者たちはこの大きな岩の陰が最も喜ばしく、清新なものであることを見いだす。思うに、私たちの中の全員でなくともほとんどの者は、種々の試練を経てきた。私たちの目の喜びである夫、あるいは、妻は、沈黙の墓へと連れ去られて行った。もしかすると、私たちは意地悪な敵によって中傷されるか、一も二もなく信頼していた偽りの友から捨てられることがあったかもしれない。自宅が焼けるか、商売が失敗するかして、凶報を持ってきたヨブの使者たちのように、次から次へと損失が襲ってきたかもしれない。しかり。だが、愛する信仰者たち。こうした一切の試練の折々に、あなたはキリストがほむべき《慰め主》であることを見いだしてきた。そして、あえて私は云うが、あなたの患難が鋭いものであればあるほど、あなたにとってキリストは甘やかなお方となられた。多くの苦難を得ている一部の人々が、いかにしてキリスト抜きでやって行けるものか私は不思議でならない。あなたがた、肺病を病んでいる若い婦人たち。また、あなたがた、重労働をかかえながら、次から次へと子どもが生まれている男性たち。あなたがたの姿は私にとって驚きである。あなたは、私たちのほむべき《救い主》の慰藉なしに事を行なおうとしている。私も承知している通り、ある人々は、キリスト教信仰が貧者中の貧者のためのものではないという考えをいだいている。だが、もしキリスト教信仰が最もうってつけの人々が誰かいるとしたら、確かに、そこにこそそうした人々がいるに違いない。たとい食料棚を満たさなくとも、それは心を、いま有しているもので満ち足らわせる。たとい広幅の黒羅紗上着を羽織らせはしなくとも、それは綿麻物の上着を着る人を満足させる。貧者や、窮乏する者や、病者や、悲しむ者にとって、キリストのようなお方はいない。主はまことに、そのようにあわれな試練を受けている魂すべてにとって、「かわききった地にある大きな岩の陰」であられる。

 やはりあなたに思い出してほしいのは、私たちが一層キリストの清新な日陰について知ることになるのは、死を迎えるときである、ということである。今から何週間も経たないうちに、私たちの中のある者らは死ななくてはならない。これほど大人数の者たちが一堂に会している以上、その何人かはじき死ぬに違いない。しかし、私たちは全員が、すぐに足を床に入れて死ななくてはならない。――

   「父祖(ちち)らの 神に会うため」。

《救い主》なしに死ぬとは、いかなることに違いないことであろう。そう考えただけで、ぞっとする。望みなしで死ぬとは、何という悲しみであろう! しかし、キリストに信頼しつつ死ぬのは、何と幸いなことであろう! ある蒸し暑い夏の日の午後、講壇に立っていたときのことを思い出す。そのときは天国の喜びについて説教していたが、ひとりの婦人の目が説教している私の目を特にとらえた。なぜかは分からなかったが、それが私を魅了したように思われたのである。そして、私が天国について語っていくにつれて、彼女は一言一句を吸収するかに見え、その目は私の語った思想を閃き返すのだった。あたかも彼女が私を導いて、黄金の街路や真珠の門についてさらにさらに多くを語らせているかのようであった。そのとき突然、彼女の目があまりにもすわって見えるようになった。そして、ついに私にこう考えた。私が天国について語っている間に、彼女はそこへ行ってしまったのだ、と。私は言葉を切り、人々に向かって云った。もしよろしかったら、そちらに座っている方が死んではいないかどうか、誰か確かめてはもらえないだろうか、と。そして、たちまちのうちに、彼女の夫が云った。「先生。家内は死んでおります」。私は、彼女を長いこと裏表のないキリスト者婦人として知っていた。そして、そこに立ちながら私は、彼女と立場を交換できたらどんなに良いことかとなかば願うほどであった。そこには吐息1つ漏らされなかった。涙一滴こぼれなかった。彼女は天国についての数々の思想を飲み込み、そのままそれを楽しみに行ったかに思われた。たといそのように突如たる出立をすることはなくとも、私たちの出立は大いにそれと似たものとなるであろう。私たちは、地上で自分の目を閉じ、天国でその目を開くとき、この大きな岩の陰にいるのである。天で彼らはキリストの陰に座しており、地上で私たちは同じことをするであろう。そのようにして、私たちはなおも歌うであろう。――

   「いずこにありや、かの岩陰(いわかげ)は、
    太陽(ひ)より汝が群れ 守れる岩は?
    われも食(は)まほし、汝が群れと、
    ともに安らい、眠(いね)まほし」。

 しかし、話をお聞きの愛する方々。キリストという隠れ家を有することが何にもまして幸いなのは、最後の審判の日ではないだろうか? 私たちは決してその審きの日がいかなるものであるか正しい考えをいだくことはできない。――

   「かの御怒(いか)りの日、かのすさまじ日、
    天地(あめつち)はみな 過ぎ去らん」。――

そして、泣き声と呻き声とが上がる中、《審き主》は大きな白い御座[黙20:11]に着座される。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る[黙1:7]とき、何にもまして幸いなことは、そのお方が、その恐ろしい日の御怒りから私たちをかばう千歳の《岩》となってくださることであろう。

   「審判(さばき)の日、驚異(まどい)の日よ!
    聞けや、喇叭の すさまじき音響(おと)、
    千度(ち)の雷鳴(いかずち)を 越えて大きく
    広き被造世界(おおつち) あまねく震撼(ゆす)らん!
      その召還(まねき)ぞ いかに
    罪人(わろき)の心 困惑(ふため)かさん!

   「見よ、審判者(さばきて)の 人性(ひとみ)を帯びて、
    神聖(あま)つ威光(みいつ)を まといたりしを!
    汝れら、御顕現(おいで)を 待ちし者らは、
    その日に云わん、『神、わがもの』と!
      恵みのある 救世主(きみ)!
    その日、認めよ、我(わ)を汝がものと!」

 III. さて、最後に、もしこうした事がらが正しいとしたら、――また、実際それらは正しいが、――《私たちは何をすべきだろうか?》

 私たちのすべきことは、もしまだこの陰の下に入っていないとしたら、そこに入ることである。焼きつける陽光の下に立っている者にとって、日陰が何の役に立つであろう? 多くの魂は、必要以上に長く陽光の中に立っており、気も遠くなるような倦み疲れを感じている。また、ある人々は、そのようにして日射病にかかり、天国のこちら側では二度と回復できなくなってしまう。つまり、疑いと恐れに満ちながら、ずっとその霊的人生を歩み続けるということである。キリストに信頼する前に長く待ちすぎたからである。私も承知する通り、罪人をこのほむべき陰に連れてくることができるのは聖霊だけである。だが、人の心は極度に卑しく、キリストがこれほど無代価で供してくださるもののもとにやって来て受け取ろうとしない! なぜあなたがたは、死のうとするのだろうか? なぜあなたがたは、必要もないのに滅びようとするのだろうか? そこに1つの陰がある。なぜその熾烈な太陽の光の下に立っていたがるのか? 天国のあらゆる鐘は鳴り響いている。「来て迎(い)れられよ!」、と。神の御使いたち全員はこう歌っている。「来て迎(い)れられよ! 来て迎(い)れられよ!」、と。この開かれた《書》から、また、神に仕える教役者たちのひとりによって今晩宣べ伝えられた福音から、この使信が響いている。「来て、頼るべし、《受肉(ひとみ)の御子》に」、と。私は、その使信にもっと心溶かすような音色をまとわせることができればどんなに良いことかと願う。だが、聖霊がそれをあなたの心に突き入れてくださらない限り無駄である。いま震えおののいている愛する方々。どっちつかずによろめいている[I列18:21]人たち。あなたがた、キリストのもとに行くことを延ばしに延ばしてきた人たち。今みもとに来るがいい。もう一度問いたい。なぜあなたは神の御怒りの下に立ち続けているのか? 一瞬たりとも、そこに愚図愚図している必要などないのである。

   「来よ、主のもとへ
    来よ、主のもとへ、罪人よ、来よ!」

 そして、みもとに来た後では、自分が何を見いだしたか、他の人々に告げるよう心がけるがいい。いかなるあわれな魂にも、あなたが告げられる限り、救いの道を知らせずにいさせてはならない。あなたの回りにいる人々に告げるがいい。真のキリスト教信仰によって得られる種々の慰めをいかにあなたが経験したかを。これこそ、《贖い主》の王冠に多くの宝石を集める方法である。もしキリストがあなたを欺いたことが分かったなら、私たちに知らせてほしい。正直な人間として私たちは、無駄話を告げ続けたくはないからである。しかし、もし主が真実であると見いだしたなら、もし主があなたを慰め、祝福しておられるなら、他の人々に証言するがいい。というのも、そのとき、ことによると、あなたの子どもが、細君が、兄弟が、隣人が、やはり主のみもとに行って、主を信頼するかもしれないからである。そうでなければ縛られても良いが、主は、あなたがたの中のいかなる者がみもとに行こうと決して拒否なさらない。また、やはり別のことのために奴隷となっても良いが、あなたは、もしもひとたび主をあなたの《救い主》としたなら、決して主に飽き飽きすることはない。あなたは、十字架につけられたキリストに自分の心をささげた日を、人生最良の日と呼ぶであろう。キリストこそ、カルバリの十字架上で、罪のために1つの永遠のいけにえをささげてくださったお方である[ヘブ10:12]。おゝ、あなたの心を主に明け渡すがいい! 私には、主がそこに立っておられるのが見える。刺し貫かれた御手で、あなたの心の戸を優しく叩いておられる。

   「迎えよや、主を。人の心の
    またなく優し 客人(まろうど)なる主を。

   「迎えよや、主を。御怒り燃えず、
    御足を返し、永久(とわ)に去る前(ま)に。
    迎えよや主を。やがて時(とき)来て
    主の戸の汝れを 拒むべければ」。

キリスト・イエスにある神の愛にかけて、一刻も抵抗してはならない。若者よ。私はあなたに懇願する。キリストの尊い血にかけて、自分を主にささげるがいい。あなたは、もうそうしただろうか? 全く主に信頼しているだろうか? ならば、喜ぶがいい。また、歌うがいい。あなたがた、熾天使たち。天よ、喜ぶがいい。というのも、キリストはご自分のたましいの苦しみ[イザ53:11]の報いをご覧になったからである。主の家に今晩ひとりの子どもが生まれ、その子は地上でも、永遠を通じても生きて主を賛美することになるからである。

 願わくは主が、この場にいるあらゆる者を祝福し、主に栄光が永遠にあらんことを。アーメン。

「大きな岩の陰」[了]

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