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神の深いあわれみ

NO. 3029

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1907年2月28日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1869年5月23日、主日夜


「われらの神の深いあわれみ」。――ルカ1:78


 神における大きなあわれみ深さの証拠、それは神がご自分の罪深い被造物――人間――のことを、少しでも考えに入れてくださるということであった。創造されたものが故意に自分の《創造主》に対抗したとき、その《創造主》が、そのものをたちどころに滅ぼすか、全く見放して自滅にまかせるかしても当然であったろう。神があわれみ深いお方であったからこそ、これほど取るに足らない被造物、これほど恥知らずな反逆に厚かましくも携わっている者どもに目をとめてくださったのである。また、やはり無限のあわれみ深さがあればこそ、そのはるか以前から神は、人間のことを注意深く考察し、堕落した者が回復される計画を立てておられたのである。あわれみの驚異は、この無謬の知恵が全能の御力とあいまって、反逆した人間をその《造り主》に和解させることを可能とするような1つの方法を用意したことであった。この最大級のあわれみ深さがあったからこそ、神はご自分の御子、そのひとり子の御子を与えてくださったのである。そして、このお方が血を流して、死ぬことによって、私たちの贖いという大いなるみわざが成し遂げられたのである。また、この言語を絶するあわれみ深さがあったからこそ神は、ご自分の御子という賜物に加えて、私たちの弱さ、私たちのよこしまさを不憫に思うあまり、聖霊を遣わして私たちがこの「ことばに表わせないほどの賜物」[IIコリ9:15]を受け入れられるようにしてくださったのである。神のあわれみ深さこそ、キリストを拒絶する私たちの頑迷さをこらえ、神のあわれみ深さこそ、絶え間ない助言と招きによって私たちに勧めてやまないものである。それらはみな、私たちを誘導して自らに慈悲深くならせ、神の深いあわれみがかくもふんだんに私たちに提示している、この測りがたい恩恵を受け取らせようとしているのである。

 神における驚くべきあわれみ深さは、神が人間の救いについてお考えになったとき、人を、その堕落する前に占めていた立場まで引き上げるだけでよしとすることなく、以前よりもはるかに高い所へと引き上げざるをえなかったことにあった。というのも、《堕落》の前には、いかなる人も真の意味で自分を《永遠者》と同等であると称することはできなかったが、今や、キリスト・イエスというお方において人間性は《神格》と結び合わされているからである。そして、神がお造りになったあらゆる被造物の中でも、人間だけを神はご自分と結び合わせ、ご自分の手のわざすべての上に置いてくださったのである。神が私たちに対していだかれた愛の最初の御思いの中には無限のあわれみ深さがあった。それは、初めから今に至るまでずっと神のあわれみ深さであったし、同じあわれみ深さによってこそ、私たちの魂は天国へと至らされるのである。その天国で、私たちはダビデとともに云うであろう。「あなたの寛大さは、私を大いなる者としました」[IIサム22:36 <英欽定訳>]。

 私がいまから語ろうと思うのは、罪人たちに対する神のあわれみの深さについてである。そのことによって、願わくは、あなたがたの中にいる、これまで一度も私たちの神を愛したことのなかった人々が、自分への神の愛がいかに大きなものであったかを見てとり、そのことで神に魅惑され、その愛する御子イエス・キリストを信頼し、救われてほしいと思う。

 I. まず第一に、あなたに努めて示したいのは、神のあわれみにおいては、《その大いなる備えの中に大きな深さがある》ということである。

 ひとりの傷ついた兵士が戦場で血を流しており、息も絶えんばかりとなっている。そこへ、慈悲とあわれみに富む友人がやって来て、彼を清新にする水を一口飲ませる。それが彼の意識を回復させ、なかばどんよりとした目を再び開かせる。彼はじっとりと汗ばんでいるが、冷たい水が彼の熱っぽい額をぬぐってくれる。彼の傷はぱっくりと口を開けており、彼のいのちそのものが彼から流れ出ている。だが、この友人は脱脂綿と包帯を持っており、それであらゆる傷を巻いてくれる。これが、この傷ついた戦士に対してこの友人が供するすべてだろうか? 否。というのも、そこには傷病者用担架があり、そのかつぎ手たちは慎重に歩を進め、負傷者に衝撃を与えないようにするからである。彼らはどこに彼を運ぶだろうか? 病院が準備されている。寝台が――柔らかくて、まさにこのような弱さと苦痛に満ちた者を載せるのに最適なものが――彼を待ち受けている。そして、そこには看護婦が立っていて、必要とされることなら何でも手を尽くそうとしている。この男は、じきに眠りに落ちる。回復をもたらすだろう眠りである。そして、その目を開くとき、彼は何を見るだろうか? 彼の状況と必要にうってつけの食事である。彼の近くには、山ほどの花束があり、彼をその美しさと芳香で喜ばせ、心を引き立たせてくれる。そして、ひとりの友人が静かに歩み入り、彼には妻か母親はいないか尋ねる。彼に代わって手紙を書いてあげようというのである。彼が自分に必要なものを何か考えつく前から、それは彼のそばにある。また、彼が願いを云い表わすが早いか、それはかなえられる。これは、人間の同情の深さを示す1つの実例である。だが、それより無限に大きなものが、咎ある罪人たちに対する神のあわれみ深さである。神は、一個の罪人が必要とする限りのものをみな考えており、その咎ある魂が、天国そのものへと彼を至らせるために必要とすることのありえる一切のものをふんだんに供しておられる。

 個々のあらゆる場合について、神はその恵みの契約において、何らかの良いものを個別に用意しておられると思われる。多くの、また、はなはだしい不義を犯してきた大罪人たちのためには、次のような恵み深い言葉がある。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」[イザ1:18]。その人がそれほどの公然たる罪に陥っていない場合、主がその人に対して仰せになることは、かのあわれみ深い心をした《救い主》が、かつてそうした状態にある者に対して云われたのと同じことばである。「あなたには、欠けたことが一つあります」[マコ10:21]。そして、その1つのことを供する用意が神の恵みにはある。神のことばの中には、道徳的な人を励ましてキリストのもとに来させるのと同じくらい、不道徳な者に自らのもろもろの罪を捨てて、「われらの神の深いあわれみ」を受け入れるよう切に求めるものが大いにある。もしある子どもたち、あるいは、若い人々が主を見いだしたいと願うとしたら、彼らのためにはこの特別な約束がある。「わたしを早いうちに捜す者は、わたしを見つける」[箴8:17 <英欽定訳>]。しかり。幼子たちのためにさえ、このようにあわれみ深い言葉がある。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」[マコ10:14]。それから、その罪人が年老いた者である場合も、その人にはこう示されている。ある者たちが葡萄園で働くよう引き入れられたのは、五時にさえなってからであった、と[マタ20:6-7]。また、もしその人が現実に死にかけているとしても、その人を励ますものが、あの死にかけていた強盗の物語の中にはある。彼は死にかけていた《救い主》を信頼し、その目を地上で閉じたときには、キリストとともにパラダイスでその目を開いたのである。だから私はもう一度云う。その恵みの契約において神は、真に救われたいと願う罪人たちひとりひとりの独特の場合に応じてくださるように思われる。もしあなたが非常な悲しみと抑鬱を覚え、意気阻喪し、ほとんど狼狽しきっているとしても、あなたの場合にぴったりと当てはまる天来の宣言と約束が豊かにある。ここに、そのいくつかをあげてみよう。「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」[詩147:3]。「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」[詩147:11]。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」*[イザ42:3]。人が罪という重病によっていかなる状態に陥らされていようと、一切のことは、神がその人のもとにやって来て、――それも荒々しいしかたでではなく、優しさのきわみを尽くしてやって来て、――その人に、まさに最も必要なものをお与えになるために行なわれているかのように思われる。私は、こう云えることを喜んでいるが、ひとりの罪人が地上と天国との間で必要とするすべてはキリストの福音において供されている。――赦罪のためのすべて、新しい性質のためのすべて、保ち守られるためのすべて、完成させられるためのすべて、そして栄化されるためのすべては、キリスト・イエスのうちに蓄えられている。このお方のうちにこそ、御父はみこころによって、満ち満ちた神の本質を宿らせておられるのである[コロ1:19]。

 ならば、先へ進む前に、神のあわれみ深い思いやりをほめたたえようではないか。それこそ、私たちのもろもろの罪と私たちのもろもろの悲しみ、私たちのもろもろの必要と私たちのもろもろの弱さを見越して、私たちの巨大な困窮を満たすために、恵みとあわれみとの無限の蓄えを供してくれているものなのである。

 II. しかし、第二に、神のあわれみ深さが見られるのは、《神が罪人たちをご自分のもとに至らせてくださる方法において》である。

 古い時代の手術法は、その時代においては有用だったかもしれないが、それは確かにあまりあわれみ深いものではなかった。戦闘後の軍艦の上では、負傷者のいのちを救おうと努めている者たちによって、いかに乱暴な方法が採られていたことか! その治療法のいくつかは、昔の医者たちの本の中に書かれているが、彼らが治そうとしていた病よりもはるかにずっと恐ろしいものであったに違いない。そして、疑いもなく患者たちの多くは、そうした荒っぽい治療法が用いられたことによって死んだに違いない。しかし、神が人間に対してあわれみをお示しになる方法には、常に天来のあわれみ深さがある。それは常に力強いが、その力において男性的である一方で、そのあわれみ深さにおいては女性的である。

 いま見てとるがいい。話をお聞きの愛する方々。神が福音をあなたのもとに送っておられることを。だが、いかなるしかたで神はそれを送っておられるだろうか? 神はそれをひとりの御使いによってあなたのもとに送ることもおできになった。――輝かしい熾天使がここに立ち、火と燃え上がる言葉によって、神のあわれみについてあなたに告げることもありえた。しかし、彼を見ることができたとしたら、あなたは恐懼し、その前から逃げ散っていたであろう。惑乱しきって、御使いによる使信を受け取れなかったであろう。あなたのもとに御使いを遣わす代わりに、主はあなたと同じような人間によって福音をあなたにお送りになった。あなたの気ままさに同情でき、愛情深く、また、あなたの弱さに最もふさわしい形で神の使信をあなたに伝えようと努める者によってである。あなたがたの中のある人々が最初に福音を聞いたのは、あなたの愛する母上の唇からであった。この甘やかな物語を、母上ほど上手に告げることのできる者が他にいただろうか? あるいは、あなたが福音に耳を傾けたのは、ひとりの友人からであった。その涙に満ちた目と、大きく上下する胸とは、いかにその人が強くあなたの魂を愛しているかを証明していた。感謝するがいい。神は決して福音をシナイから大きく、長く響きわたる喇叭の音によって轟かせ、あなたにかの最後のすさまじい日の恐ろしい響きを思い出させることをなさらなかった。むしろ、「信じて生きよ」、とのほむべき救いの使信があなたのもとにやって来たのは、同胞の被造物の舌から、また、それを受け入れるよう訴える、心溶かすような声音によってであった。

 また、神のあわれみの深さが別の点においても見られるのは、福音があなたのもとに聞き慣れない外国語によって送られてはいないということである。あなたは、学校に行ってギリシヤ語だの、ヘブル語だの、ラテン語だのを学ばなくとも、救いの道について読むことができる。それは、あなたの素朴な母国語であるサクソン語によってあなたに送られている。これは正直に云えるが、私は一度として麗々しい雄弁や、洗練された修辞法を追い求めたことはない。むしろ、他のものよりも粗野で簡便な言葉があり、それが福音の使信を平明にしようという私の目的にかなうと思われたときには、常にその言葉を選んできた。そうしようと思えば別のしかたで語ることもできたかもしれないが、私は、使徒パウロがそうしたように、「きわめて率直に語る」[IIコリ3:12 <英欽定訳>]ことが正しく最上のことだと考えたのである。それは、話を聞く人が誰ひとり、真実にはこう云えないようにするためであった。「私は、私の教役者によって述べられたようなしかたでは、救いの計画が理解できませんでした」、と。よろしい。では、あなたは、福音がこれほど平易に宣べ伝えられるのを聞いてきた以上、また、それを理解するのに辞書など全く必要としていない以上、この事実に見てとるがいい。神の深いあわれみを、また、あなたの魂をご自分のものにしたいという神の願いを。

 また、やはり思い起こすべきは、福音が人々のもとにやって来たのが、単に最もふさわしい伝え方と、最も単純な言葉遣いによってばかりでなく、それが、ありのままの人々のもとにもやって来たということである。あなたがいかなる状態にあれ、福音はあなたにふさわしいものである。あなたが悪徳の生活を送ってきているとしたら、福音はあなたのもとにやって来て云う。「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」[使3:19]。それとは逆に、あなたは自分を義とする生き方を送ってきているかもしれない。その場合、福音は、あなた自身の義というこの役立たずの、不潔な着物[イザ64:6]も同然のものを捨て去るようあなたに命じ、キリストの義というしみなき衣を着るように命じる。あなたは非常に繊細な心をしているかもしれない。あるいは、それとは全く逆かもしれない。あなたは非常に涙もろいかもしれない。あるいは、臼の下石のようにかたくなかもしれない。だが、いずれの場合も、神の福音は全くあなたに適したものである。しかり。主の御名はほむべきかな。たといある罪人がハデスの門の間際にいるとしても、福音はその人の絶望的な状況にも適したものであり、絶望の淵からでさえその人を引き上げることができるのである。

 もう1つのことだけ私は特にあなたに注意してほしいと思う。すなわち、神のあわれみがこれほど深いものである理由は、それが今のあなたのもとにやって来るからである。もしあなたが、ひとりのあわれな苦しむ人を痛みから解放することができるとして、だが、その人が呻いているままにしておくとしたら、あなたの治療は遅々としているのと同じくらい残酷なものである。しかし、神の福音は云う。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」[IIコリ6:2]。もしもある罪人があわれみの門の外側に半時間さえ立ちつくしているとしたら、その人は、自分が排除されている責任を完全に自分ひとりに負わせなくてはならない。というのも、もしその人が福音の使信に従おうとさえするなら、また、キリストの完了したみわざに信頼しさえするなら、その扉はたちまち開かれるからである。このような遅れは神の遅れではなく、私たちの遅れである。そして、もし私たちが神のあわれみを受け入れるのを先延ばしにするとしたら、非難すべきは私たち自身である。

 III. さて、さらに進んで第三に注意したいのは、《福音が要求することにおける神のあわれみの深さ》である。

 福音は私たちに何を求めているだろうか? 確かにそれが私たちに求めているものは、それが私たちに与えるものでしかない。それは決していかなる者に対しても、一定の額の金銭を差し出して、自分の魂を黄金で贖い出せと求めてはいない。いかに貧しい者も、この上もなく富んだ者と同じくらい心からキリストに歓迎される。また、両手の指で手持ちの金銭を数えられる乞食も、債券だの株式だの土地だの船団だのを持っている百万長者と同じくらい喜んで受け入れられる。貧乏人は、イエスのもとに「金を払わないで……代価を払わないで」[イザ55:1]来るよう命じられている。

 また、主は私たちのいかなる者にも、峻厳な苦行や罰を受けることで、主に受け入れられるようにせよと求めてはおられない。主は、あなたのからだに責め苦を加えたり、一連の外的で目に見えるしかたで長々と肉体を殺すことを求めてはおられない。あなたは、その会衆席に座ったままでキリストを信頼して良い。そして、そうするなら、たちまち赦され、受け入れられるのである。

 いかに深遠な学識も、救いの条件として求められてはいない。キリスト者になるために、哲学者になる必要はない。あなたは自分が罪人であると知っているだろうか?――咎あり、失われた、罪に定められた罪人であること、また、キリストが《救い主》であられると知っているだろうか? あなたはキリストをあなたの《救い主》として信頼しているだろうか? ならば、あなたは救われている。他の事がらについていかにあなたが無知であっても関係ない。

 また、いかに大きな程度の霊的抑鬱も、キリストのもとに来るための資格として求められてはいない。私の知っている一部の説教者たちは、人がキリストのもとに来て良いのは、まず悪魔のもとに行ってからであると教えているように見受けられる。つまり、キリストがあなたを救う力も意欲もお持ちの方であると信じたければ、その前にまず、良心の恐怖と霊のすさまじい抑鬱とによって、いわば、ハデスの門の間近にまで行かなくてはならないというのである。だが、もしあなたが真に悔い改めて、自分のもろもろの罪を捨て、あなたを滅ぼしつつある悪を手放し、主が十字架上で忍ばれた悲しみと痛みに信頼するとしたら、あなたは救われるのである。

 また、福音は、大量の信仰をさえ、あなたに求めてはいない。救われるために要求されるのは、アブラハムの信仰ではない。パウロやペテロの信仰ではない。要求されるのは、同じように尊い小さなものである。双方ともに中身と本質においては似通っているが、程度は異なっている。もしあなたがキリストの衣のふさにでも触れることができるとしたら、あなたは健やかになる。もしあなたがキリストを見るとき、それが、自分でも主を見たとはほとんど思えないような、あわれなふるえがちの一瞥だったとしても、その一瞥はあなたにとって救いの手段となるであろう。もしあなたが信じることができさえするなら、信じる者には、どんなことでもできるのである[マコ9:23]。そして、あなたの信仰内容がからし種一粒のようなものでしかないとしても、それでも、あなたが天国に入ることは確実である。キリストは何と尊い《救い主》であろう! 真摯にこの方を信頼するなら、たといそれが非常にかすかで、か弱いものであろうと、あなたは受け入れられるのである。あなたが、心からキリストにこう云っているに違いないとする。「主よ。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。そのとき、あなたはすぐに主の恵み深い確証を得るはずである。「あなたは、わたしとともにパラダイスにいます」*[ルカ23:42-43]。思い違いをしてはならない。山ほどのことを行ない、幾多の感情をいだかなくては、キリストのもとに行くのにふさわしくはならないなどと考えてはならない。そうしたふさわしさは、ことごとく、ふさわしくなさにほかならない。キリストに救っていただくために自分を備えられたものとしようとして何を行なおうと、それによってあなたは、ずっと備えのない者にしかならない。洗われるためのふさわしさとは、不潔であることである。救済されるためのふさわしさとは、貧しく困窮していることである。癒されるためのふさわしさとは、病んでいることである。そして、赦されるためのふさわしさとは、罪人であることである。もしあなたが罪人だとしたら、――そして、請け合っても良いが、あなたは罪人である。――ここに、霊感を受けた使徒の宣言がある。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。そして、その宣言に、私たちの主ご自身のことばをつけ加えて良いであろう。「御子を信じる者はさばかれない」[ヨハ3:18]。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。おゝ、神があなたがた全員に、この恵み深い福音を受け入れる恵みを与えてくださるとしたらどんなに良いことか! その要求は、これほどあわれみ深く、これほど慈悲に富んだしかたで、あなたの低い境遇に合わせて引き下げられているのである。

 IV. 神の深いあわれみを示す第四の点は、このことである。――《福音のあらゆる議論には、大きなあわれみ深さが伴っている》

 福音はいかなるしかたで人々に語りかけているだろうか? それが彼らに告げるのは、最初に、御父の愛についてである。あなたは、一度でも聞くか読むかしたなら、決してあの放蕩息子の物語を忘れることはできないであろう。この息子は、放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。彼が豚の世話をしているときに何と云ったか覚えていよう。「立って、父のところに行こう」*[ルカ15:18]。それは、神の筆致であり、《救い主》による名文のきわみを示している。それをさらに明らかにしているのが、主がこの愛情に満ちた描写をお加えになったときである。「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」[ルカ15:20]。罪人よ。それが、あなたに対する神の出迎え方である。あなたが神に会いたいと思うなら、神は、あなたのその切なる願いと震える望みを見てとり、あなたを出迎えるために、その道のりの半ば以上もやって来られるのである。左様。神がその道のりのすべてをやって来られるからこそ、あなたはその道のいずれかの部分を辿ることができるのである。

 他にいかなるしかたで福音は人々に語るだろうか? 何と、それが彼らに告げるのは、この大いなる《羊飼い》の愛についてである。このお方の群れの一匹がいなくなった。するとこの方は、九十九匹を荒野に残しても、迷い出た一匹を捜しに出かけるのである[マタ18:12]。そして、それを見つけると、大喜びで肩にかついで、帰って来ては、友だちや近所の人たちにこう云うのである。「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」[ルカ15:6]、と。その失われた羊は、回心していない罪人の型であり、その《羊飼い》は、失われた者を捜して救うために来られた、血を流せる《救い主》なのである。

 こうした数々の議論は、あなたを説き伏せるべきではないだろうか? 福音がある罪人の心をかちとろうとするとき、――その最上の訴えがやって来るのは、受肉した神であり、同情深い《救い主》であられるイエス・キリストの心と、血と、傷口と、死とからである。シナイの雷鳴はあなたを神から追い払うかもしれないが、カルバリの呻き声はあなたを神に近寄せるべきである。神の深いあわれみは、人の自己利益にさえ訴え、その人にこう云う。「あなたはなぜ死のうとするのか? あなたのもろもろの罪は、あなたの命とりになるであろう。なぜそれらにしがみつくのか?」 それは罪人に云う。「地獄の苦痛は途方もないものである」、と。そして、それがそのことに言及するのは、ただ愛をもってである。それは、その罪人が決してそれを感じないですむようにするため、むしろ、それから逃れるためなのである。あわれみは、こうも云い足す。「神の恵みは果てしがなく、それで、あなたの罪は赦されることができるのです。神の天国は広く大きく、それであなたのためにも余地があるのです」、と。このようにしてあわれみは罪人に嘆願する。「神は、あなたの救いによって栄光をお受けになります。というのも、神はいつくしみを喜ばれ[ミカ7:18]、こう仰せになるからです。わたしは誓って云う。わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ[エゼ33:11]、と」。

 私は、この点についてこれ以上詳しく述べることはできないため、こう云うだけで満足しなくてはならない。聖書全体が、罪人たちに対する神の愛を証明している。聖書のほとんどあらゆる頁が、罪人よ。愛の使信をもってあなたに語りかけている。そして、神がすさまじい言葉遣いによって、人々に対して必ず来る御怒りから逃れよと警告しているときでさえ、そこには常にこの恵み深い目的がある。すなわち、人々が自滅しないように説得され、神のあふれるあわれみによって、永遠のいのちという無代価の賜物を受け入れるようになり、確実に死であるところの、罪の報酬を故意に選んだりしないようになることである。

 おゝ、話をお聞きの愛する方々。まだ回心していない、あなたがたの中のある人々のことを考えるとき、私がいかに悲しく感じるか、私はほとんど告げることができない。思えば、いかなるあわれみ深さに対してあなたは罪を犯してきたことか! 神は、あなたがたの中の多くの人々に対して非常にいつくしみ深くあられた。あなたは貧困の淵に陥らないよう守られてきた。富裕さの膝の上であやされさえしてきた。だが、あなたは神を忘れてきた。あなたがたの中の他の人々は、人生の戦いを戦う際に、多くの摂理的な助けを得てきた。あなたはしばしば、病んだとき、あるいは、あなたの可哀想な妻子がほとんど貧窮しきったとき、しばしば天来の援助を得てきた。神は非常に恵み深くも、あなたの必要を満たすために介入された。だが、今のあなたが自分の友人たちに語っているのは、あなたがいかに「幸運」だったかということである。だが、その実、神があなたに対してあわれみ深くあられたのである。だのに、あなたは自分の成功の中に神の御手を見てとることさえせず、神にその栄光を帰す代わりに、それを「幸運」などという異教徒の女神に帰してきている。神は、乳母がわがままな子どもに対するように、あなたに対して忍耐強く優しくあられた。あなたは、しばらく前に病気をしていた。そして、神はあなたを再び健康と力へと引き上げてくださった。あなたの心の中には、なおも神に対して燃えるものが全くないのだろうか? 私は切に願う。神の恵みがあなたの中に、1つの変化を作り出すようにと。私のいかなる訴えも決して生み出すことができない変化、あなたにこう云わせるだろう変化を。「立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は……罪を犯しました」[ルカ15:18]。もしあなたが心からその告白を《天の御父》に対して行なうとしたら、御父はあなたを赦し、あなたを受け入れてくださるであろう。このたとえ話の中の父親が、帰って来る放蕩息子を無条件で迎え入れたのと同じようにである。

 V. 私がいま語りたい神のあわれみの深さに関する最後の点は、《その適用と、その成就におけるあわれみ深さ》である。

 神は罪人たちのために何をなさるだろうか? よろしい。彼らがイエスを信頼するとき、神は彼らのあらゆる罪を、何の咎めだてもせず、何の難癖もつけずに赦してくださる。時として私はこう思うことがある。もし自分が放蕩息子の父親だったとしたら、私も彼が家に戻ってきたとき彼を赦してやれたであろう。また、非常に寛大にそうしてやったと思いたい。だが、私は、彼の兄を扱うのと全く同じようには彼を扱わなかったと思う。つまり、私は二人を同じ食卓に着かせ、同じ食物をご馳走しはしただろうが、定期市の立つ日が巡って来たときには、弟息子の方にこう云っただろうと思う。「お前には金をまかせないよ。金を持たせて市場に送るのは、お前の兄の方にしなくてはならん。お前は持ち逃げするといけないからな」。ことによると、そこまで口にすることはないかもしれないが、そう感じるだろうと思う。というのも、そのような息子に対しては、人は長いこと疑り深くなるだろうからである。だが、見るがいい。神の私たちへのお取り扱いがいかに異なっていることか。私たちの中のある者らは以前は非常な大罪人であったのに、神は私たちを赦してくださった。私たちを信頼して福音をゆだね、行って、それを私たちの同胞の罪人たちに宣べ伝えるよう命じてくださった。ジョン・バニヤンを眺めるがいい。悪態をつき、酒に酔い、放蕩し、日曜日にも「棒打ち」をして遊んでいた男である。だが、主が彼を赦されたとき、主は彼にこう仰せにはならなかった。「さて、ジョン殿。あなたは、これから一生の間、後ろの座席に座っていなくてはならない。あなたは天国に行かせてあげよう。わたしは、そこにあなたのための場所を設けてあげよう。だが、あなたが犯したような罪から免れていた者たちを用いるのと同じほどに重くは、あなたを用いることはできないよ」。おゝ、否! 彼は主のしもべたちの最前列に置かれ、御使いの筆を与えられては、『天路歴程』を書き記すことができるようにされた。そして、《真理》のために十三年近くも獄中にとどまるという高い栄誉を与えられた。あらゆる聖徒たちの中でも、ジョン・バニヤンほど偉大な者はほとんどいない。また、使徒パウロを眺めるがいい。彼は自分のことを罪人のかしらと呼んでいるが[Iテモ1:15]、彼の主と御父は、回心した後の彼を、この上もなく卓越したキリストのしもべとしてくださり、まことに彼がこう記せるほどであった。「私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした」[IIコリ12:11]。

 神における大いなるあわれみ深さの1つの証拠は、神が惜しげなく、とがめることなくお与えになる[ヤコ1:5]ということである。神は、単に赦すだけでなく、忘れてもくださる。神は云われる。「わたしは……もはや、彼らの罪を思い出さない」[ヘブ8:12]。そして、たとい私たちが極悪人であったとしても、神はそのために何の難癖もおつけにならない。私の知っているひとりの父親は、破産した息子にこう云った。「さて、このごくつぶしめ。わしは、もう一度お前を仕事に就けてやろう。だが、わしはすでにお前によってあまりにも大金を失ってしまったので、わしの遺言状には変更を加えなくてはならん。というのも、わしはこうしたすべてをお前に与えておいて、お前をお前の兄弟と同等に扱うことはできんからだ」。しかし、神はほむべきかな。神は遺言状に何の変更もお加えにならない。神は、他の者よりも少ししか罪を犯さなかった者たちに天国の前部座席を与えるとも、もっと大きな罪人たちには後ろのどこかに座らせるとも云っておられない。おゝ、しかり! 彼らはみな、イエスがおられる所でイエスとともにいることになり、その栄光を目にし、その栄光にあずかることになる[ヨハ17:24]。大罪人のためにはある天国が、軽めの罪人のためは別の天国があるのではない。むしろ、同じ天国が、かつては最悪の罪人であったが、悔い改めてイエスに信頼した者たちのためにも、そうしたはなはだしい放蕩に陥ることからは守られていた者たちのためにもあるのである。この罪人たちのかしらそのものへのお取り扱いに見られる、天来の恵みの驚嘆すべきあわれみ深さを賞賛しよう。神がある罪人をかしこくもきよめてくださるとき、部分的に洗いはしない。彼の一切の罪を取り去られる。神は部分的に彼を慰めるのではなく、彼に恵みを積み上げ、彼の心が願える限りのものをすべて与えてくださる。おゝ、罪人たちがこのお方のもとへ行き、完全に、また、無代価で赦していただくならどんなに良いことか!

 もしかすると、この場にいるある人はこう云っているであろう。「もし神が、キリスト・イエスによってご自分のもとにやって来る者たちに対してそれほどあわれみ深くあるとしたら、どうか教えてくれませんか。なぜ神は、なかなかそれを私に差し出してくださらないのでしょう。私は何箇月も主を求めてきました。主の家にできる限りしばしばいるようにしました。私は福音が説教されるのを喜びとしていますし、それが私にとっ祝福されるのを切望しています。私は聖書をずっと読んできましたし、私の場合にかなう尊い約束を求めてきました。ですが、それは見つからないのです。私は何の平安も得られません。それが得られたらと思います。私は、信じようと努めてきましたが、信じられないのです」。よろしい。愛する方。先日聞いた1つの物語をさせてほしい。それが本当かどうか請け合うことはできないが、それは私にとって1つの例話として役に立つであろう。ある所に、二人の酔っぱらいの水夫がいた。スコットランドの狭い河口を渡ろうとしていた。彼らは一掃の端艇に乗り込み、酔っぱらい特有の滅茶苦茶なしかたで漕ぎ出したが、いっこうに前進しているようには見えなかった。向こう岸はそれほど遠くなかったので、十五分もすれば渡りきっていてよかったろうに、一時間経っても渡れず、何時間経っても同じだった。そのひとりが云った。「この端艇には魔法がかかってると思うぜ」。もうひとりは、自分たちの方に魔法がかけられているのだと云った。そして、私はそちらが正しいと思いたい。彼らが飲んでいたのは酒ではあったが。とうとう朝の光がやって来た。そして、彼らのひとりが、その頃には酔いも醒めていたため、その端艇の横をひょいと眺めては、相棒に呼びかけた。「何てこった、サンディ。おめえは錨を上げてなかったじゃねえか!」 彼らは一晩中、櫂をぐいぐい漕いでいたのに、錨を上げていなかったのである。あなたは彼らの愚かさに微笑むし、私もあなたがそうすることを遺憾とは思わない。なぜなら、あなたは今や私がこれから云おうとしていることの意味をつかみ始めているからである。多くの人々は、自分の祈りや、自分の聖書を読むことや、自分が会堂に行くことや、自分が信じようと努めることによって、いわば櫂をぐいぐい漕いでいるのである。だが、この酔っぱらいの水夫たちのように、その人々は錨を上げていない。つまり、自分の義と思い描いているものを堅く握りしめているか、さもなければ、自分の昔からの罪にしがみついていて、それを手放すことができないでいるのである。あゝ、愛する方々! あなたは錨を上げなくてはならない。それが、あなたをつなぎとめているものが、あなたのもろもろの罪であろうと、あなたの自分を義とする思いであろうと関係ない。その錨は、まだ目に見えない所に沈んでいるが、それこそあなたの労苦のすべてが無駄骨折りとなり、あなたがいくら懸念しても何の実も結ばれない完全な原因である。その錨を上げるがいい。そうすれば、あなたの一切の苦難には幸いな終わりが訪れ、あなたは神が深いあわれみに満ちておられること、あなたに対してさえ恵みにあふれるお方であることが分かるであろう。願わくはそうならんことを。私たちの主イエス・キリストのゆえに! アーメン。

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神の深いあわれみ[了]

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