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私たちのしんがり、主の栄光

NO. 3028

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1907年2月21日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「主の栄光が、あなたのしんがりとなられる」。――イザ58:8


 神の《教会》は、敵の領土内を通って行進しつつある軍隊である。それは一瞬の平和すら決して当てにはできない。もし《教会》がこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したであろう。だが、真の聖徒たちは世のものではなく、かえってキリストが世から彼らを選び出したのである。それで世は彼らを憎むのである[ヨハ15:19]。アマレク人が突然、いわれもなく、また、その敵対的な意図を警告もせずにイスラエル人に襲いかかったのと同じように[出17:8]、この世は、単に迫害の時のみならず、こうした一見するとずっと温和な時代――火刑柱も剣も用いない時代――においてさえ、いかなる時期であれ、神の《教会》に飛びかかろうとしており、自らの大いなる同盟者、悪魔を呼び込んでは、イスラエルの戦闘軍を可能な限り殲滅しようとしている。

 ならば、あらゆるキリスト者は兵士となり、十字架の戦いにおいて自分の分を果たさなくてはならない。私たちは、自分の人生を、友邦内の愉快な旅行とみなしてはならない。むしろ、進軍と――私たちのあらゆる歩みを阻止しようとする敵の真只中を通り抜けて行く進軍と――みなさなくてはならない。

 さて、もし私たちがこのように神の《教会》を一個の軍隊と見なすとしたら、私たちに前衛があるのを知ることは慰められることである。「わたしの義はあなたの前に進み」*。私たちは、私たちの主イエス・キリストが「私たちの義なる主」[エレ23:6 <英欽定訳>]であると受け取っている。主は《先駆け》であり、私たちの前に出て行っておられる。死の川すら越えて、天空に上り、ご自分の長旗の下で兵籍に入れられたすべての者のために場所を備えておられる[ヨハ14:2]。

 しかしながら、本日の聖句は前衛のことではなく、「しんがり」のことを語っている。後方には常に危険があるため、聖徒たちにとって慰めとなるのは、これほど栄光に富む盾が、これほど強力な腕によってかかげられているのを見ることである。「主の栄光が、あなたのしんがりとなられる」。

 私が今晩、あなたに語らなくてはならないことは少ししかない。だが、神がその少しをあなたにとって有益なものとしてくださるように! 私たちは、まず第一に、このしんがりについて詳しく語り、それによってここで何が意図されているかを調べてみたい。そして第二に、私たちが示そうと思うのは、いかに主の栄光が後衛を務め、聖徒たちをあらゆる側面から守るか、である

 I. 第一のこととして、《しんがりということを、私たちはどう理解すべきだろうか?》

 この聖句が一体としての神の《教会》を指しているものと受け取るとき、私たちが述べたいのは、そこには常に後衛を務める何人かの者たちがいるということである。神がご自分の《教会》を、先頭に立つ者たちもなく放り出されたことは決してなかった。数名の、えり抜きの人々が常に神によって立てられ、証しにおいても苦しみにおいても、先頭に立ってきた。預言者という人種は決して絶滅しないであろう。この意味における「王権」[創49:10]は、キリストが二度目に来られるまで、《教会》の成員たちから離れないであろう。教師が持ち場から取り去られることはなく、燭台が取り外され[黙2:5]、いのちのパンが取り除かれることはない。しかし、《教会》の大部分は、むしろ進軍しつつある軍隊の本体に似ている。それは、善戦しつつあるが、あの三人[I歴11:25]には及ばない。

 さらに、キリストの《教会》の中には、相当程度の割合で、常に後ろにいる者らがいる。そうした者らの中の何人かは、今晩もこの場にいる。あなたは自分が後衛に属していると感じている。なぜなら、非常に信仰が弱いからである。信仰の完全な確信を楽しむことは幸いなことである。だがしかし、疑いもなく、イエスの群れの中にいる何千もの人々は、決してその境地に達することがない。彼らがそこに達さないのは非常に痛ましいことである。彼らは多くの幸福と、多くの用いられる機会を取り逃がすからである。だが、それでも、――

   「イエスの囲みの 千もの者ら
    つゆも誇れじ、この境地(きわ)を。
    御名にぞ永久(とわ)の 栄えあれ、
    この者たれも 滅びえじ。
    主のてのひらに
    その名の刻み 深かれば」。

ある者たちは、その生まれながらの素質と、その他の種々の状況から、非常に意気阻喪しがちである。恐怖者のように、彼らは単に《落胆の沼》を通り抜けるだけでなく、バニヤンが云うように、落胆の沼をかかえているのである。彼らは信仰において小さな者だが、悪を予測することにおいては大きな者である。彼らは常に何らかの恐ろしい災いを予期しており、影が差しただけで地面に縮こまってしまう。神に感謝すべきことに、あなたがたの中の、ほんのからし種一粒ほどの信仰しか有していない人々も、置き去りにされはしない。主の栄光があなたがたを聖徒の残りの者らとともに拾い集めてくださる。落伍者たち、負傷者たち、立ち止まっている者たち、足のなえた者たち、――こうした者たちは、私たちが願えるほど残りの者たちとともに進軍することはできないし、足なえ者のように、しゅもく杖をついて歩かなくてはならないが、主の栄光が彼らの隠れ家となり、盾となるであろう。

 それから、あなたがたの中のある人々は、厳密に云えば信仰において弱いわけではないが、自らの謙遜な自己評価において、自分を後衛に置いている。「私は非常に貧乏です」、とある人は云うであろう。「私がささげられるものは、ごく僅かでしかありません。もし私が、あのやもめのようにレプタ銅貨を2つ献金したとしたら、それは私のほとんど全財産をささげることになるでしょう。私は人目につきもしない者です。私には何の才質もないのですから。私は説教できません。祈祷会で徳を高めるような祈りをすることもほとんどできません。自分が主を愛していると、また、主の教会の壁をなす石ころの1つだとは希望していますが、私は全く隠れたものです」。あゝ、よろしい! たといあなたが貧しくとも、蔑まれて忘れられているとしても、主の栄光は、あなたが失われないように確実安全に守ってくれるであろう。ダン族についてはこう云われた。「彼らはその旗に従って最後に進まなければならない」[民2:31]。それで、ある者らは後衛につかなくてはならないのである。そのように、富者は神が彼らにお与えになったものを喜べるが、あなたは、あなたの運命に対する満足において、あなたの貧困について感謝し、主の御名をほめたたえることができよう。あなたは後衛にいようと、この軍隊の中におり、じきに、陣頭に立っている者らと同じく、自らの戦利品に完全にあずかることになるであろう。

 もしかすると、ある人々がこの後衛に入り込んでいるのは、はるかにずっと痛ましい理由からかもしれない。すなわち、信仰後退のためである。私は信仰後退を弁護する言葉は一言も云おうと思わない。私たちの初めの愛から離れてしまうこと[黙2:4]、あるいは、私たちの敬神の念の活力を失ってしまうのは、恐ろしいことだからである。《救い主》のかたわらから五十糎足らずでも離れるのは危険なことである。ミルトンの天使のように、太陽の中で生きること、それは幸いな生活である。光にも暖かさにもそこでは欠けることがない。だが、古にカインの子孫がしたように太陽に背中を向け、キリストから離れて旅して行くこと、それは極度に危険である。「心の堕落している者は自分の道に甘んじる」[箴14:14]。多くの人々は、ダビデの罪について語る。だが彼らに本当に思い起こしてほしいのは、ダビデの悔い改めであり、ダビデが赦罪を受けた後の、彼の砕かれた骨々[詩51:8]である。その後の彼は、決して以前と同じ人間にはならなかった。彼の声は嗄れ、つぶれてしまった。彼が転落した後で書いた詩篇は、それと見分けがつく。それを書き記した彼の筆先が震えていたからである。だがしかし、神はほむべきかな。彼はこう云うことができた。「わが家は、このように神とともにはないが、それでも、彼はとこしえの契約を私に立てておられる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる」[IIサム23:5 <英欽定訳>]。こうした転落した者たちに対してすら、キリストはいつくしみ深くあられる。彼らはキリストから離れていったが、主の御声は断罪のそれではなく、慰藉のそれである。背信の者らよ。帰れ! 主は婚姻の絆をなおも認めてくださる。「わたしが、あなたがたの夫になる」[エレ3:14]。信仰後退者よ。もしあなたが、自分の背信を嘆き悲しんでいるとしたら、これを何がしかの慰めとするがいい。だが、おゝ! もしあなたが自らの背信を意識していないか、意識していてもそれを嘆いていないとしたら、おののくがいい。おののくがいい。その背信が背教になり、あなたが、自分の心の中に健全な恵みのみわざを全く有していなかったことを何の疑念もなく証明されることになるといけない。

 さて、それが誰であれ、主の戦闘軍の中で後衛にいる者よ。ここに私たちの慰めがある。――すなわち、主の栄光がしんがりとなるということである。これほどの大教会についての心労がいかなるものとなるか、少しでもふさわしい程度において推測できる人は、あなたがたの中にほんの一、二名しかいないであろう。時として私は、モーセが主に対してこう云ったときのような気分になることがある。「私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き……連れて行け。』と言われるのでしょう」[民11:12]。しかし、ここに私の慰藉がある。「主の栄光が、あなたのしんがりとなられる」。そして、あなたがたの中の、必ずしも常にしかるべき信仰や勇気を示さない人たち。――私たちが願えるようには、キリスト教の奉仕において陣頭に進み出ない人たち。それにもかかわらず、私たちはあなたを私たちの神の配慮にゆだね、しんがりが天来の力によって守られることを祈るものである。私たちが望むのはあなたがその歩調を早め、私たちの主であり《救い主》であるイエス・キリストの恵みと知識において成長すること[IIペテ3:18]である。だが、私たちはこのことを知っている。たとい今のままであっても、あなたは、主の現われの日には平安をもって御前に出られる[IIペテ3:14]のである。あなたの義は主のうちに見いだされ、あなたは自分自身に頼っていないからである。

 しかし、今、かりにこの聖句が個々のキリスト者に言及しているとすると、それを私たちはいかに解すれば良いだろうか?

 私たちはそれを三通りのしかたで解するであろう。最初に、私たちの過去に関して――私たちの背後にあるものに関してである。私たちは、過去から防護される必要がある。さて、私たちの背後にあるものとは何だろうか? そこには喜ぶべきものがある。神は私たちに対して恵み深くあられたからである。だが、非常に多くのことは嘆き悲しまなくてはならない。私たちは、無知であった頃の自分の数々の情欲、律法に逆らい福音に逆らうもろもろの罪、光に反し愛に反する数々の罪、怠慢の罪と違反の罪を思い出す。それらについてはどうだろうか? もしもそれらが、餓狼の群れのようにあなたを追いかけてきたらどうだろうか? パロとその戦車とその騎兵[出14:9]がイスラエル人を追いかけたように、あなたを追ってきたとしたらどうだろうか? あゝ! そのとき、主の栄光があなたのしんがりとなるのである。キリストとその贖罪の功績が、私たちと私たちのもろもろの罪との間に立ちはだかり、主は、選民を追撃していたパロとその激怒する軍勢を溺れさせたのと全く同じように、私たちのもろもろの敵をご自分の血潮という紅海の中で溺れさせてくださる。あなたの過去の罪を恐れてはならない。それを思って、悔い改めるという形でおののくがいい。だが、あなたがその責を問われないことを神に感謝するがいい。というのも、あなたのもろもろの罪はみな、かの古のアザゼルのための山羊の頭の上で数えられ[レビ16:8、21]、彼がそれらを受け取り、それらにけりをつけ、永遠に持ち去ったからである。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」[ロマ8:33]。過去の罪に関しては、この栄光に富む贖罪が後衛を務めているのである。

 それから、私たちの過去の習慣がある。そこから、いかに多大な害をなおも私たちはこうむることか! 悪徳の現場を目にすることに慣れていた人は、祈りのために目を閉じている時でさえ、最もすさまじい絵図が自分の眼前にしばしば描き出される。しかり。聖なる賛美歌が天国に立ち上っているときも、その中の一言が卑俗な歌の一節を連想させるかもしれない。神を汚す冒涜そのものすら思い起こさせるかもしれない。罪の手管を習い覚えてしまっており、激しやすい気性や、高慢や、貪欲や、虚偽といった習慣が身についていることは悲しいことである。私たちは、こうした古い敵どもが最後には私たちにとって手強すぎるということにならないように、震えおののいて良い。私たちはそれらを背後に残してきた。それらは、かつてのように私たちに先立ち、私たちを導いてはいない。だが私たちの足取りにつきまとう。罪の支配は破られたが、罪の律法はなおも私たちを悩ませる。木は刈り倒されたが、その根からはなおも芽が生え、あまりにも勢いよく育つ。特にそれらが環境によって潤されるときにそうである。というのも、ほんの僅かでも水分があれば、それらは芽生えて育ち出すからである。あゝ! ならば、私たちは自分の悪習慣を主イエス・キリストのもとに持って行かなくてはならない。主が私たちを助けてそれらに打ち勝たせることによって、その栄光を現わしてくださるよう願わなくてはならない。そうすれば私たちは、鉄枷のようになっていた、こうした枷を打ち砕くことになる。私たちは古のサムソンが弓の弦を断ち切ったように[士16:9]それらをぶち切り、自由になるであろう。だが、主の栄光がそれをしなくてはならない。そして私たちは神にすべての誉れを帰さなくてはならない。

 そのように、過去のすべては、そのいかなる面を取り上げようとも、キリスト者が苦悶すべき悲しみを引き起こすことはない。というのも、キリスト者は自分の罪深い過去が神とともに後に残されていると信ずることができるからである。それで、今あるものも、後に来るものも、その人を神の愛から引き離すことはできない[ロマ8:38-39]のと同じように、かつてあったものでさえ、そうすることはできないのである。

 しかし、また、この聖句が個々の信仰者に言及しているものと理解すると、私たちはこのしんがりについてこう語ることができるであろう。それは、私たちの性質の中でも、天来の恵みの力に服従することに最も後ろ向きな部分である、と。兄弟たち。多くの場合、意志することは比較的容易である。だが、自分の望むことをいかに成し遂げるかには手をつかねさせられる。理性は確信させられており、それが先駆を務める。堅固な情愛が覚醒させられ、後に続く。だが、より弱い1つの情動があり、下手をすると、罪に同意すらしようとする。そして、この私たちの肉こそ、善が住んでいない[ロマ7:18]ものなのである。この危険な後衛、この、私たちの性質中最悪の部分こそ、最も恐るべき理由がある。おゝ、愛する方々。あなたは、このことが分かっていない限り、自分についてほとんど分かっていないのである。あなたには、全能の恵みによって守られない限り、一瞬にしてあなたを転覆しかねない弱点がある。ペテロは、ひとりの愚かな女中に笑われただけで転落してしまう。「ああ、勇士たちは倒れた!」[IIサム1:19] いかに小さなことが使徒を冒涜者の域に引き下ろしてしまったことか! 自軍のこの後方部分について、私たちは何をすれば良いだろうか? ここでこそ、主の栄光は勝利を得、圧倒的な力を示すのである。「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」[Iコリ15:57]。そして、その勝利は、私たちが常々こう云っていた、まさにその部分において与えられるのである。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:24]。 こうした、私たちが望む通りの整然たる隊列に並べることのできない、ばらばらに落伍した情動、そうしたふらつきがちな思想、そうした下向きの願望、私たちが願うほど暖まろうとせず、その聖なる白熱を失っていく冷たい心、――私たちのこうしたすべての力は、恵みによって服従させられ、きよめられるであろう。神は落伍する者らをまとめ、御霊の聖化の力によって、全人を無事に完全へと至らせてくださるであろう。

 さらにまた、なおも個々のキリスト者を理解するとして、私たちの後衛とは、私たちの生涯の最後を意味するものとして語って良いではないだろうか? 主の栄光は、定命の者としての私たちの歴史のしんがりとなるであろう。前衛は祝福された。私たちが主を仰ぎ見ると、私たちは輝いたし、私たちの顔は辱められなかった[詩34:5]。

   「われら、かの日より 多くの時日(とき)経て
    あまた変化(うつろい) 目の当たりにせり。
    されど今まで 支えられなん。
    かくわれら保つは 主ならずや」。

しかし、人生の進軍の後衛はやって来つつある。私たちはじきに、かの冷ややかな川に没入することになる。波や風浪がすぐに私たちの上にうねることになる。私たちの願いはキリストとともにいることであろうが、死そのものは決して願わしいものとはなりえない。

   「われら生(いのち)へ 退(ひ)き行きぬ、
    われらが獄(ひとや)、われらが土塊(つち)へ」。

私たちはキリストとともにいることを切望する。それは、「はるかにまさって」[ピリ1:23]いるからである。だが、その最後の難関、すなわち、魂とからだが分離されるときは、厳粛な畏怖なしに期待することはできない。おゝ、キリストが人生の後衛を務めてくださると考えることは、いかに甘やかなことか! もし私たちが主の臨在を有してきたとしたら、それをそのときも有するであろう。私たちは――

   「歌わん、死の露、額(ぬか)に降りるも、
    かくも主イェスを 愛すは今ぞ」。

ことによると、私たちの最後の日は、私たちの最上にして最も輝かしい日々になるかもしれない。そして私たちは、いかなる栄光の氾濫が自分の回りと上にあるかに気づいて驚倒するであろう。私の目の前には数多くの、非常に数多くの古強者たちがいる。あなたの白髪を見れば、あなたが天国に近いことが分かる。あなたの頭髪が白くなっているのは、栄光の日差しによるためだと私は信頼している。おゝ! 恐れてはならない。あなたは、イエスにあって眠ることが幸いであることを見いだすであろう。そして、あなたがその最後の床につくときにさえ、あなたはおののかないであろう。というのも、主は如実に明らかにあなたとともにおられ、あなたは恐れないからである。主の栄光があなたのしんがりとなる。その栄光がいかなるものか、いかなる心に想像できるだろうか、いかなる舌に告げられようか? さらにすぐれた栄光[IIコリ3:10]、完全の栄光、多くの兄弟たちの中で《長子》であられるお方に似た者とされることの栄光[ロマ8:29]、《愛する方》の栄光、世界が存在する前にこのお方が御父と一緒にいて持っていた栄光[ヨハ17:5]である。「わたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました」[ヨハ17:22]。ならば、あなたの最後を見つめるがいい。おゝ、私たちの最後の日々が正しい人とともになり、私たちの終わりが彼らと同じであるように![民23:10] 主の栄光は、キリスト者のしんがりとなる。

 II. しかし、今しばらくの間、あなたに示させてほしいのは、キリストの《教会》全体と、個々のキリスト者との場合との双方において、《いかに主の栄光が》このように《恵み深く保つ手段となるか》である。

 この、弱者を庇護し、聖徒たちを保つ「主の栄光」とは何だろうか? それは、このように理解して良いではないだろうか? まず第一に、神の種々の属性である。神のあわれみは、その幾多の栄光の1つである。あなたも知る通り、神が、ご自分の民の不義とそむきと罪を見過ごし、彼らの咎を思い出さない神であられることは、神の偉大な栄光である。さて、兄弟たち。私たちの過去のもろもろの罪、また、私たちの多くの弱さ、また、私たちの霊的軍隊の後衛として理解する多くの意味のすべて――こうしたすべてに関して、神のあわれみは、それらすべてにおいて、栄誉を現わされる。私たちの弱さにもかかわらず、あわれみは自らのための展示台を見いだすであろう。そして、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるであろう[ロマ5:20]。あなたが自分の罪の大きさについて考えるときには、神のあわれみの大きさも同時に考えるがいい。大家ウィルコックスが云うように、「あなたが悔い改めつつあるときに、あなたの目を十字架に据えていられないとしたら、あなたの悔い改めなど消え去ってしまえ」。ある罪意識に、神のあわれみを信ずる思いが伴っていないとしたら、それは福音的な意味の罪意識ではない。おゝ、あわれみを喜ばれる愛に満ちた神の、あり余るほどのあわれみを知ることができればどんなに良いことか。これは神から最後に生まれた、だが神が最も愛される属性にほかならない! 神は、あなたが最も必要としているところで、あなたを解放するというそのあわれみによって、ご自分の栄光を現わされるであろう。

 そのように、神はその知恵という栄光に富む属性をもお用いになるであろう。軍隊の後衛を率いるには、賢明な指揮官が必要である。前衛を指揮するには勇気と思慮が必要だが、後衛を防御するには、より大きな知恵と、さらにいやまさる勇気が必要である。そして、神はご自分の摂理と、ご自分の恵みの誠実さとの知恵を現わされるであろう。軍の中の最も弱い者をも配慮し、あなたを、信仰者よ。あなたが最も保たれる必要のある場所で保ってくださることにおいて、そうなさるであろう。

 そのように神は、その力をもお示しになるであろう。おゝ、私たちの中の誰かひとりをさえ天国に連れて行くには、いかなる力が必要とされるであろう! 私たちには、私たちをそこに到達させる神が必要である。天来の力に満たない何物も、私たちの中の誰ひとりとして保つことはできないであろう。これほど破砕され、これほどかたくなになり、時としてこれほど古き蛇の毒液に刺されている私たちが、後衛にあって守られるとしたら、いかに神の腕が現われ[イザ53:1]なくてはならないことであろう? あわれみ、知恵、力における主の栄光は、私たちの場合に超越的に輝くことになる。

 そしてここでも目立つのは、神の不変性である。愛する方々。神の数ある属性すべての中でも、その愛に次いで、ことによると、これこそ試みられているキリスト者にとって最も甘やかなものかもしれない。すなわち、神の不変性である。

   「主のみこころに 変わりなし、
    よしわが気分(おもい) 暗くあるとも」。

あなたが頼りにしている《救い主》は決して、昨日はあなたのものであっても、きょうは真実でなく、あるいは、明日にはあなたを見捨てるようなお方ではない。むしろ、そのお方の約束は一言残らず堅く立ち、このお方ご自身がそれを堅く守ってくださる。神の不変性は、長命を得て、その間ずっと試練を忍んできた者たちにおいて、いかに例証されることであろう。そうした人々は最後には知るであろう。キリストは世にいる自分の者を愛して、その愛を残るところなく示された[ヨハ13:1]のだと! しかり。今あなたが見いだし、嘆いている弱さは、神の忠実さがあなたの場合において現わされる機会となる。主の栄光は、そのあらゆる属性において、後衛を務めるであろう。

 私たちは、神の属性のほかに、神の摂理をも理解できないだろうか! 神の摂理はそのご栄光の一部である。このようにして神は人の子らの間で、ご自分の王服のすそをお示しになる。神は時の出来事すべてを支配しておられるからである。あゝ、しかり! あなたはこう確信して良い。キリスト《教会》の中の最も弱く、最も遅れている点すべてにあって、神の摂理は、神の全軍を故郷へと無事に、勝利をもって連れ帰ることによって見てとられるであろう。全《教会》の歴史を眺めるとき、私たちにとって元気づけられることは、神が決して敗北をこうむったことがないということである。そして、神の軍隊が一時的に撃退されたかに見えるとき、それは、その後のより大きな勝利へと素晴らしい跳躍を行なうために後退させられたにすぎない。波の1つは退くかもしれないが、海の本体は進む。私たちの聖なる信仰という大きな潮は上がりつつある。ならば私たちは、波また波が岸辺で消えていくのを見る際にも、泣いてはならない。あるいは、神が失望をこうむっていると考えてはならない。というのも、上げ潮の本体は前進しているに違いなく、それは、あらゆる偶像礼拝と人間の罪という泥が、また、人間の反逆という砂が、真理と愛という銀の潮で覆われ、永遠の岩々にまで、福音の大波が永遠に打ち寄せるまでとなるからである。勇気を出すがいい。私の兄弟たち。主はその摂理によって後衛を務め、支配し、覆し、悪に善を生み出させ、善にはより良いものを生み出させ、無限の進展においてさらに良いものを生み出させてくださるのである。全《教会》にとってのみならず、あなた個人にとっても、そうである。そして、あなたが待っていさえすれば、しかるべき時に、あなたは失望させられはしないであろう。むしろ、あなたの光は薄暗がりの中に上り、あなたの嘆きの日々は終わるであろう。主の栄光はこのように私たちのしんがりとなるのである。

 しかし、私たちは、後衛を務める主の栄光が主ご自身であると信じても良いではないだろうか? 結局、私たちは栄光を、この栄光に富む《お方》と別のものとして考えることはできない。あゝ、兄弟たち! 私たちの御父とその御子イエス・キリストとの交わりという葡萄酒は、恐れに対する最も確実な予防剤である。そして特にこの交わりを涵養すべきなのは、私たちが最も危険の中にあると感じるときである。《救い主》の胸に近くあるときには、いかなる苦しみを受けようと大したことはない。神のそば近くあるとき、種々の弱さに満ちている者も、そのすべてに打ち勝つであろう。あなたにからみつく罪がいかなるものであったにせよ、あなたの頭を《救い主》の胸にもたせかければ、そのからみつく罪があなたを打ち倒すことはない。《主人》の近くにあるなら、その着物は没薬、アロエ、肉桂の香りを放ち[詩45:8]、あなたが芳香に欠けることはないからである。キリストがあなたとともにおられれば、あなたが暗黒の中を歩むことはありえない。あなたの道がいかに暗くとも関係ない。祈りの中で主を待ち続けるがいい。その密室から、魂を清新にされて降りて来つつ、こう申し上げるがいい。「私たちとともにとどまっていてください、朝から夕方まで」、と。というのも、あなたはこう確信できるからである。この聖なる交わりにおいて、あなたは真の守りを見いだすであろうし、このことを怠る者たちは、その足を滑らす危険が最も高いであろう、と。

 それで、こうした短い語りかけのしめくくりとして、あなたに懇願したいのは、自分の危険を感じるときは常に主の栄光のもとへ逃げていくことである。また危険を感じないときでさえ、そうしてほしい。そこにいるのは良いことだからである。「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え」[詩37:3]。人に信頼してはならない。人の栄光に望みをかけてもならない。あなたの種々の状況にも、あなたの富にも、健康にも安んじてはならない。こうしたすべての栄光は、草刈人の大鎌の下でたちまち切り倒される野の花の美しさのように痛ましく去っていくからである。永遠に主に信頼するがいい。主なるエホバのうちには永遠の力があるからである。あなたがた、人の子らよ。あなたの神に信頼せよ。そうすれば、あなたがたはそのみつばさのかげで安泰であろう。

 あなたがた、罪人たち。《救い主》のもとに逃れ来るがいい。「主を求めよ。お会いできる間に」[イザ55:6]。イエスの十字架を仰ぎ見て、主の苦しみと主の功績とに、あなたの一切をかけてより頼むがいい。そして、あなたがた、すでにそうしている人たちは、今まで以上にあなたの神に、また、あなたの神だけに信頼するがいい。あらゆる悪のときに、また、あらゆる悲嘆の夜に。

 主があなたがたを祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

 

私たちのしんがり、主の栄光[了]

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