HOME | TOP | 目次

キリストの死と私たちの死

NO. 3024

----

----

1907年1月24日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1869年2月14日、主日夜


「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます』」。――ヨハ12:23-24


 幾人かのギリシヤ人が、「イエスにお目にかかりたい」と頼んだ[ヨハ12:21]。ピリポはアンデレと相談し、この二人の弟子は相伴って自分たちの《主人》に、彼らにはきわめて重大事と思われるこの件を知らせた。かつて東方から来た賢者たちがイエスに会いに来たように、今や、西方から来たこの異邦人たちが同じことをしたがっていたのである。おそらく、ピリポとアンデレは期待したであろう。キリストが、その奇跡的な御力をこの訪問者たちの眼前でも明らかにお示しになることを。だが、私たちの主は、ご自分の勝利の行進と大群衆のホサナの声から、外的な壮大さへと進む代わりに、ただちに1つの栄化について語り始めた。主の弟子たちもこのギリシヤ人たちも、全く望んでいなかったような栄化、――死と埋葬の後に続くべき栄化である。

 これは、非常に著しいことではないだろうか? 私たちの主の思いを常に占めていたのは、やがてご自分が受けるべきバプテスマであった。エルサレムで悲嘆と苦しみの中に埋没し、死亡することであった。これこそ、主がその生涯において第一に考えていたことであり、何物も主にそれを忘れさせることはできなかった。いかに重い試練の中にあっても、いかに輝かしい喜びの瞬間においても、主の心は等しく十字架のもとにあり、御民の救いのために、ご自分の贖罪のいけにえを成し遂げようと切望していた。おゝ、キリストの勇ましく、愛に満ちた心よ! これほど堅く愛のうちに据えられ、これほど決然と愛する者のため刺し貫かれようとしていたあなたに答えて、私たちはあなたをあがめ、愛します!

 確かに私たちは、自分の《贖い主》の死をあまりにも軽く考えている。残念ながら、私たち、それについて最も多く宣べ伝えている者たちでさえ、そのことを、あまりにも軽々にしか語らないのではないか。私たち、祈っている者たちは、それをあまりにも僅かしか申し立てないのではないか。そして、私たち、歌う者たちは、私たちの主を、その驚異的な死のゆえには、あまりにも僅かしか賛美しないのではないか。そして、私たち、主の恵みに頼って生きている者たちは、それにもかかわらず、その恵みが私たちに流れてくる経路をあまりにも軽く考えているのではないか。キリストの死は、主の栄光であり、私たちの栄光でもあるべきである。聖書の他の話題もみな重要であり、1つとして陰に追いやられるべきではない。だが、神の御子の死の中には、こうした副次的な発光体すべての中心となる太陽がある。それは、偉大なアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである[黙22:13]。それは、私たちにとって単に卓越しているだけでなく、他に抜きん出たものである。私はほとんど、私たちの魂という立琴の他の和弦を断ち切っても、主の愛という調べだけを鳴り響かせる弦だけを残しておきたい気がする。静まるがいい。お前たち、他の声たち。そして、主の血の声が私たちの魂の中で聞こえるようにするがいい! かりに私たちがこの1つの主題に縛りつけられ、――鎖でつながれ、決して他の主題を取り上げることを許されず、ただ立って、絶え間なくこう叫ぶよう強いられているとしよう。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]。――それは、私たちの伝道牧会活動を狭めるよりも、むしろ、押し広げるであろう。ここにある1つの題目は熾天使たちにふさわしいものである。しかり、「御使いのかしらミカエル」[ユダ9]も、この主題が彼の気高い知性にとってさえ、あまりも広大なものであることを見いだすであろう。私たちがこの聖句について思い巡らしている間、他のいかなる話題も割り込むべきではない。私たちの標語は、「すべてをイエスに」、また、「イェスのみなるぞ」、であるべきである。願わくは、かのほむべき《慰め主》――キリストの栄光を現わし、主のものを受けて、私たちに適用する職務をお持ちのお方[ヨハ16:14]――が、私たちの心の中でキリストの死の力を私たちに与えてくださるように!

 私たちが瞑想すべき、こうした節は、まことの事がらについて語っている。――第一に、ご自分の死に関するキリストの考え方であり、第二に、その死の必要性と種々の結果とに関するキリストの考え方である。

 I. 第一に考察すべきは、《ご自分の死に関するキリストの考え方》である。主は云われる。「人の子が栄光を受けるその時が来ました」。

 さて、私もこの箇所が、キリストの栄化に言及したものでありうると認めるにやぶさかではない。主の復活、主の昇天、そして、天空の彼方における主の一切の勝利とにおける栄化である。だが、この文脈の中で、地に蒔かれて死ぬべき麦の殻粒という暗喩が用いられているのを見ると、明らかに私たちの主がまず考えておられたのはご自分の死であり、主はそれを、ある意味で、ご自分が栄光を受ける時として語っておられたのである。確かに、霊的な目にとって、神のキリストがいついかなる時にもまして栄光に富んでおられたのは、カルバリのあの十字架に釘づけられた時にほかならない。――彼方の、天のともしびというともしびが天上の光彩をもって照り輝き、御使いたちの立琴が他に類ない音楽を鳴り響かせている所、また、キリストご自身が《いと高き方》の御座に着き、「王の王、主の主」[黙19:16]となっておられる所でさえない。何物も及ばないほどの栄光が、この死と地獄の《勝利者》の周囲に輝いたのは、この方が頭を垂れて、「完了した」[ヨハ19:30]、と云って、息を引き取られた[ルカ23:46]時であった。

 キリストがこう仰せになったことに、よく注意するがいい。「人の子が栄光を受けるその時が来ました」。神の御子ではない。――というのも、主はここで、人間の性質について語っておられるからである。ここから私たちが教えられるところ、人としてのキリストが栄光を受けられたのは、他のいかなる人も忍んだことのないものを、勇敢に、忍耐強く、最後に至るまで耐え忍んだことによってであった。一言もつぶやくことなく、主は進んでご自分の上に積み上げられた一切の苦悶と恥辱とを耐え忍ばれた。肉体的、精神的、そして霊的な苦しみの途方もない深みの中を、大胆に行進された。そうすることが、贖罪のために必要だったのである。主の肉体的激痛の一部においては、もしかすると、主の苦悶は一部の殉教者たちが耐え忍んだものと等しかったかもしれない。だが、それが本当にそうであったか、私は大きな疑問を覚える。むしろ私はこう信じている。主のことのほか繊細な肉体は、放縦や不潔さによって、その鋭敏さを全く失ったことがなく、原初からこの上もなくすぐれた作りをしていた。主が、《いと高き方》の力に覆われることによってマリヤから生まれた「聖なる者」[ルカ1:35]であったことを思えばそうである。――こうした理由からして、キリストが忍ばれた苦痛は、その苛烈さにおいて、他のいかなる人の子によっても知られなかったようなものであったろうと思われる。しかし、主の精神的な、また、霊的な苦痛については未知の深淵であった。主の聖いたましいが耐え忍んだものを、誰が測り知り、思い描くことができようか? ハートの短詩は、非常に強烈な表現ではあるが、真実を越えたものではない。彼がこう述べているときでさえそうである。すなわち、ゲツセマネにおけるキリストは――

   「受肉(ひと)なる神の 力限(かぎり)を忍びぬ
    十全(また)きちからもて、そをふりしぼりて」。

それでも、いかに栄光に富むしかたで主はこうしたすべてを、その苦い結末に至るまで耐え忍ばれたことか! この黄金は炉で試されたが、いかなる金滓も見いだされなかった。アトラス*1よりも強力に、キリストは悲嘆の世界をその双肩に背負われた。だがしかし、その下でふらつくことも、その荷を放り出すこともなさらなかった。主は牢獄と死に赴かれたが、その災厄の道のりすべてにおいて、主の強大な魂は主の内側で強靱なままであり、主はすべてに勝利して死なれた。最後まで何物にも征服されることなく、征服されることがありえなかった。主に冠ささげよ。おゝ、あなたがた、エルサレムの娘たち。主は苦しむ者らの《王》であり、苦しみ、救うに力強い者[イザ63:1]であられる。その衣を真紅に染めて酒ぶねからやって来るこの方をあがめるがいい。主はただひとり、その敵たちの瞋恚に耐え抜くことができたお方であられる。

 さらに思い出すがいい。キリストが十字架上で勝ちとられたのは、完全に従順な《お方》としての栄光であった。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」[ピリ2:8]。神のしもべにとって、1つの大きな栄光となるのは、天来の恵みによって、自分の主に対して真摯に従順になることである。だが、完璧に従順になることができたとしたら、その栄光ははるかに大きなものとなるであろう。私たちに代わって自発的にしもべの立場を取られた、私たちの主の上には、その奉仕申請書が最高の誉れを投げかけている。あらゆる点でその律法を完璧に守られた、主の積極的な従順の後で、主がまことに栄光に富まれたのは、その生涯の奉仕の絶頂として、その消極的な従順を行なわれたとき、また、「律法を終わらせられた」[ロマ10:4]ときであった。おゝ、栄光に富む人の子よ。あなたは多くの兄弟たちの中の長子[ロマ8:29]であられます。ご自分の従順によって全うされたあなたは、私たちの救いの《創始者》となり、多くの子たちを栄光に導かれました![ヘブ2:10]

 さらに、キリストが十字架上で栄光をお受けになったのは、他のいかなる者にも成し遂げられなかったことを成し遂げることによってであった。この真理は、いかに頻繁に述べても、信仰者たちにとって常に清新で喜ばしいことである。すなわち、キリスト・イエスは、かの木の上で、ご自分を信ずるすべての者たちのもろもろの罪をお取り上げになった。――それを文字通りご自分で引き受け、あたかもご自分の罪であるかのように背負い、十字架の上で、そうした罪ゆえに苦しみをお受けになった。本来、私たちがそうした罪のため受けなくてはならなかった一切の苦しみをである。そして、主が耐え忍ばれた苦悶を御父は、私たちが自分のもろもろの不義ゆえに耐え忍ばなくてはならなかった苦悶のすべてと同等のものとして受け入れられた。キリストにある兄弟姉妹たち。私たちは、キリストが、ご自分の民のために、文字通りの代償を払われたと信じている。キリストは罪人の立場に立ち、その罪人が当然受けるべき苦しみ、すなわち、神の呪いと、神の御怒りとを受けられた。そして、主がそれほどの苦しみを罪人たちのために受けられた今、主が死んでくださった者たちは、いかなる罪についても、罰と関わるものとしては非難されることがありえない。次の原理は、いかなる法廷でも確立されているからである。すなわち、法は、まず身代わりの者を罰した上で、身代わりを立てられた者たちを罰することはできない。正直な者ならみな認めるであろうように、借金は、ひとたび返済されたなら、それで永遠に片がつく。そのように、キリストがご自分の民の負っていた負債を支払われたので、それは永遠に拭い去られ、天来の正義に対する私たちの負い目は抹消されているのである。これは、喜びの中の喜びである。これこそ、福音を、咎ある罪人たちに対する神の良い知らせとするものである。これが、天国の鐘という鐘を、その壮大かつ甘美きわまりない音色で鳴り響かせ続けている、栄光に富む真理である。――キリストは、ご自分の民の罪を消し去られた。このようにして、あの古の預言は成就している。「その日、その時、――主の御告げ。――イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ」[エレ50:20]。メシヤなる《君主》のみわざは、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたら」[ダニ9:24]すことであり、このみわざが完全に成し遂げられたのは、まさに、「キリストが、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着」*[ヘブ10:12]いたときであった。おゝ、愛する方々。ここにこそ、まことに私たちのための至福がある! もしこの方が本当に私たちのために死なれたとしたらそうである。あなたが、また、私が発すべき問いはこうである。「キリストは私のために死なれただろうか?」 それに答えるには、こう問わなくてはならない。「私は、キリストを信頼しているだろうか?」 そうしているとしたら、主は私のために死なれたのであり、私のあらゆる罪は、主が私に成り代わって死なれたために、消え失せているのである。私の落度は主に転嫁され、主は死ぬことでそれを取り除かれた。そして、今や主の功績が私の功績とみなされている。キリストの死によって、素晴らしい交換がなされたのである。主は、私たちの咎の一切の結果を引き受け、そのすべてを背負い、永遠にそれらを終わらされた。それは、主がその死において真の栄光をお受けになるためであった! そして、あなたがた、信仰者たちは、この甘やかな歌を地上でも天国でも歌ってかまわないのである。――

   「わが《保証人》(みうけ)にて われは自由(とかれ)ぬ、
    その御手われの ため刺貫(ささ)るれば。
    わが主のしみなき 衣まといて
    聖なる方に ひとしく聖し。

   「おゝ、み恵みの 高み、深みよ!
    いや輝けり、燃え閃きて。
    ここに聖けき 記録(あかし)示せり、
    黒き罪人(とがびと)、美しくもあり、と」。

 しかし、忘れてならないのは、キリストがその死において栄光をお受けになったのは、公的には、私たちの偉大な《大祭司》としてであったということである。主は、かの暗黒の時、神に1つの完璧ないけにえをささげる真の《大祭司》として、ひとり立たれた。他のあらゆる大祭司は、この偉大な《対型》たるキリストの予型でしかなかった。彼らは一年に一度、「血を携えずにはいるようなことは」[ヘブ9:7]なかったが、あの、余人の目から隠すための、刺繍された垂れ幕をくぐって至聖所に入った。だが、あのカルバリにおける暗黒の時、真の《大祭司》キリストは、ご自分をなだめの供え物としておささげになった。それだけが、ご自分の民のもろもろの罪を取り除くことのできるものであった。そして、そのとき、裂かれた幕、つまり、ご自分の肉体をくぐり抜けて、主の魂は神の御前に出られた。そして、そこで今なお主の血はご自分の民を弁護し、アベルの血よりもすぐれたことを語っている[ヘブ12:24]。去るがいい! お前たち、アロンとその子孫とのあらゆる絢爛な儀式たち。太陽が現われた際の星々がその光を隠してしまうように! この偉大な《大祭司》キリストこそ、その《教会》が必要とする唯一の大祭司である。色とりどりの祭司服など追放してかまわない。高貴なかぶり物など捨て去ってかまわない。煌めく宝石で覆われた胸当ても片づけてしまってかまわない。というのも、キリストだけが、神の前において大祭司の着衣、かぶり物、胸当てを身につけるからであり、主はその無二のいけにえによって、栄光に富むしかたで受け入れられておられる。それ以来、知っておくがいい。全世界を通じて、生けるキリストのほか、いかなる祭司もいけにえをささげてはおらず、主が一度限りおささげになったいけにえのほか、いかなるいけにえもない。主のいけにえは今もなお、主の尊い血に信頼するあらゆる者の役に立ち、――

   「たえて力を 失わじ。
    神あがなえる その教会(たみ)の
    あらゆる罪を 捨つるまで」。

 このように私は、十字架上においてさえ、キリストが栄光をお受けになったことを示してきた。だが、主のこの宣言は、主の死に続いたことにも言及しているであろう。実際、それは主の受難と十字架刑と密接に結びつき、絡み合っているため、それらを切り離すことは間違っているとも云える。だが、決して忘れてならないのは、死んで、墓に葬られたこの方が、よみがえられもしたということである。これは主の栄光であった。主ご自身の全能の御力によって、主は、「死者の中から最初に生まれた方」[コロ1:18]としてよみがえられた。四十日後、主は御父のもとに昇天し、天へ凱旋された主を御使いたちが出迎えた。私たちは、信仰によってほとんど聞こえる気がする。主に供奉する御使いたちの、あの素晴らしい歌声がいついつまでも響きわたっているのを。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる」[詩24:7]。血によって買い取られ、すでに御座の前にいた霊たちが主を歓迎したさまは栄光に富むものであった。そして、御父の右の座に着かれた主は、まことに栄光に富むお方であった。見るがいい。マリヤの子が高く上げられ、御父の右の座に着いている姿を。私たちと同じような人でありながら、そこで栄光を受け、御父とともに支配しておられるのである! 主は、神としては常にそこにおられたが、今や人としてもそこにおられ、栄光と誉れの冠をかぶり、神の御手によって造られたすべてのものの支配者とされている。このまことの《人》は、――かつてはベツレヘムの赤子であり、それからナザレの大工となり、その後カルバリで殺されたこの方は、――今や、この上もなく高く上げられているため、その御名はすべての名にまさり、その御名によって「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられる」[ピリ2:9-11]のである。

 また、このギリシヤ人たちがみもとを訪ねてきたことにちなんで、私たちの主が、この宣言を語ることで意図されたのは、このことでもあった気がする。すなわち、主を教えようとされたのである。ご自分の死の後で、主が人類のほぼすべての国々の間で栄光をお受けになるだろうことを。その地上における伝道活動において、主はイスラエルの家の滅びた羊以外の所には遣わされていなかったが[マタ15:24]、それでも、主の死の後には、福音は主の御名によってあらゆる国々に宣べ伝えられ、あらゆる国々の中から、主の御名を永遠に賛美する人々が集められるのである。現代においてさえ、カルバリの十字架に釘づけられたキリストにとって決して小さな栄光ではないことに、主の御名は地上の大部分で崇敬されており、かつてはその御名と縁もゆかりもなかった民族の子孫たちによってさえあがめられている。また、主の御名によって、あらゆる朝の従順な祈り、あらゆる夕べの聖なる歌がささげられているのである。「彼の名はとこしえに続き……ますように」[詩72:17]。そして、主の福音は、その悪を抑え、人を聖める力を、国土から国土へと押し広め、ついに主は、「その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って」[マタ25:31]再びやって来て、ご自分の聖徒らがご自分とともに永遠に栄光を受けるようになさるであろう。

 ここまで私は、主の死が主に栄光を与える手段となることに関して、相当に詳しく語ってきた。それは、主がこれほど高くみなしておられたことを、私たちが軽々しく考えないようにしたい一心からである。

 II. 残っているしばしの時は、この聖句の後半のために費やさなくてはならない。それは、《キリストの死の必要性とその種々の結果》に関わっている。

 私たちの主は、こう仰せになっているように思われる。主が死ぬことは絶対に必要である、と。主の完璧なご生涯でさえ、主が死なれなかったとしたら、私たちにとって何の役にも立たなかったであろう。主は云われる。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです」。そこから分かるように、兄弟たち。もしキリストが、実際そうされたようにこの地上に来た後で、死ななかったとしたら、人類に関する限り、主は天国でひとりぽっちにならざるをえなかった。神としては、「一つのまま」という言葉は何の関わりもない。というのも、聖なる御使いたちも、御父も、永遠にほむべき御霊も、常に主の身近にいただろうからである。だが、もし私たちの主がこの世に来て、それから死ぬことなしに天にお戻りになるようなことがありえたとしたら、他のいかなる人も天国に行くことができず、キリストはかの喜びの国にいる、たったひとりの人間となっていたであろう。そのようなことは、考えるだにぞっとさせられることである。もしそうしたことが起こったとたら、神の聖徒たち全員と全人類はどこに行っていたことだろうか? 他の居場所は1つしかない。――暗黒と死の国、苦痛と、恐怖と、言語を絶する災厄の国、そこに私たち全員が行っていたはずである。もしキリストが十字架の上で死ななかったとしたらそうである。――単にキリストの左側にいた強盗だけではなく、右側にいた強盗もそうである。――単にユダだけでなく、ペテロや、ヨハネや、他の使徒たち全員がそうである。――単にデマスだけでなく、パウロや、シラスや、他の初代キリスト者たち全員がそうである。――アヒトフェルだけでなく、ダビデもまたそうである。――単に悪人たちだけでなく、義人もそうである。――全員が! 全員が! 《全員が》! 罪を犯してきた以上、イエスが死ななかったとしたら、罪に定められ永遠の御怒りを受けていたことであろう。あゝ、だが、神の御子でもある、この人の子が、天国でひとりぽっちになるなどということはありえなかった! この方は、そこにひとりきりでいて満足することなどおできにならなかった。主が、ご自分の御父の隣という栄光の場を離れて来られたのは、人の子となるためであった。また、私たちと同じ人間の性質をご自分の天来の性質と結び合わせた後で、天国に戻り、他のいかなる人間の仲間もないまま、そこに孤独に住むなどということはできなかった。この《長子》が兄弟たちを持たず、この《かしら》がからだを持たず、この《救い主》が救われてその賛美を歌う者たちを持たず、この《羊飼い》が羊たちを持たず、この《王》が臣下を持たないなどということは考えられない。しかり。そのようなことはありえなかったであろう。それゆえ、キリストが死ぬことは絶対に必要であった。

 これは、キリストがお用いになった中でも、最も示唆に富む、適切な比喩であった。――すなわち、一粒の麦が地に落ちて死なない限り、自らと同種のものを生み出すことはできないのである。わが国の言葉は――そして、どの国の言葉であれ――生と死のように高尚な主題について語る際には、雁字搦めにもつれ合った絹糸も同然になってしまう。そして、こうした至高の真理については、決して軽々しく語ってはならない。私の信ずるところ、永遠の刑罰という非常に重要な問題に関する議論――これに関して、ある人は、聖書がその刑罰の期間に制限があるという見解を好んでいると考えている――の半分の原因は、その見解をいだいている人々が、次のことを見てとっていないことにある。すなわち、単に存在していることと生きていることの間には広大な違いがあり、死ぬことと消滅することとの間には、いやまして大きな違いがあるということである。もし一粒の麦が本当に死んでしまうとしたら、それは、いかなる実ももたらさないであろう。麦芽業者が、小麦を様々な工程にかけて、最後に窯で乾燥させるとき、その麦は本当に死んでしまう。たといそれを畑に植えても、決して何の実ももたらさない。それとは非常に異なる種類の死が起こるのは、ある種が地に蒔かれたときである。そこで、その種が死ぬのは、全く別の意味においてである。すなわち、それは腐って、その麦の中身が分解し、その微小な生命にとって養分となる最初の土壌を供する。その麦の粒はすべてが生命なのではなく、その内部に小さな生きた胚芽があるからである。その「小麦あるいは麦」の穀粒は壊され、その原初的な要素に分解されない限り、実をもたらすことができない。そのように、私たちの主イエス・キリストは、種麦が地に蒔かれるように、死んで、墓に葬られなくてはならなかった。また、そこで、いわば、ご自分の原初的な要素に分解されなくてはならなかった。魂は、しばしの間からだから分離し、《神性》が人間性から分離しなくてはならなかった。この死がなければ、主の中から実が結ばれることはありえなかった。だが、主がこの死の経験を通り抜けたとき、そのとき、この死んだキリストから――そうした意味で死んだキリストから――満ちあふれるほどの実りが生じたのである。いかなる者も、なぜそうなのか告げることはできない。もしも麦を一粒地に蒔けば、それは百倍の実をもたらすであろう。なぜ、それほど増えなくてはならないのだろうか? それは大きな神秘であるが、堅固な根拠のある事実である。そして、このこともほむべき信仰の事実である。イエス・キリストが死んだので、自分の信頼をキリストに置くすべての者は、主の死から発生する「豊かな実」となるのである。主が木の上で死んだからこそ、信仰者たちはキリストとともに永遠に生きることができる。時間の関係上、今はその主題に詳しく立ち入ることはできないが、あなたがたはみな知っているはずである。もしキリストが死ななかったとしたら、私たちはみな今なお呪いの下にあるということを。もしイエスが死ななかったとしたら、私たちは神の法廷で罪に定められていたに違いない。もしイエスが死ななかったとしたら、私たちが神に近づく道はなかったであろう。私たちが、信仰者として曲がりなりにも存在するには、主の死による以外になかった。だが、今や主の死の宣教を通し、また、その使信を聖霊の有効的な働きを通して信仰の耳によって聞くことにより、私たちは神に対して生きた者とされ、カルバリの十字架上で死んだ《救い主》を賛美する「実」となるのである。

 愛する方々。もし私たちが自分の伝道活動において実を得たいと思うなら、また、もし罪人たちが回心するのを見たければ、キリストの死を堂々と宣べ伝えなくてはならない。鍛冶屋が熱した鉄を鉄床の上で打ち叩くように、福音の槌をこの偉大な土台の真理の上で振るい続けなくてはならない。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」[Iコリ15:3]。人々の回心につながるのではないかと希望しながら、いくら他の話題について話をしても意味はない。魂を生かす偉大な媒介は、「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方」[Iコリ2:2]である。誰であれ、来て、この神に定められた、罪人たちのための《身代わり》を信頼する者は永遠に救われるであろう。というのも、いのちは、この方の死を通してのみやって来るからである。罪人たちの救いをもたらすものは、キリストの《再臨》という偉大で栄光に富む教理を宣べ伝えることでさえない。キリストの千年期と永遠の栄光について宣べ伝えることでさえない。むしろ、十字架の上に掲げ上げられたキリストを絶え間なく指し示し続けることである。そこに、この麦の穀粒がある。地に蒔かれて、多くの実を結んでいる穀粒である。そして、私たちは、他の一切の主題を越えて、この主題に執着しなくてはならない。あなたがた、未回心の人々に話をしようとしている人たちは、このことを行なわなければ、そうした人々が真の永続的な平安を見いだし、従順なキリスト者の自由に入ることを見ることは望めない。あなたは、チャールズ・ウェスレーとともに、こう云わなくてはならない。――

   「ただ主の義のみ われは示して
    救いの真理(まこと) 告げ知らすなり。
    下界(よ)にあるわれの 務めのすべては、
    かく叫ぶべし、『見よ、小羊(ひつじ)を!』と」。

 しめくくりに、兄弟たち。私はこのことを熟考しなくてはならない。あなたや私は神のために実をもらたしたいと思う。魂を救いたいと思う。ならば、キリストが行なわれたことを、別の意味においてではあるが行ななくてはならない。すなわち、私たちは地に落ちて死ななくてはならない。あなたは、こういう教役者を見たことがあるだろうか? 彼は、あまりにも紳士すぎて自分の信徒たちと知り合いにならず、一生のあいだ一度も彼らと握手しないのである。――彼が細心の注意を払って彼らに示したがっているのは、叙任された教役者がいかに威厳のある人間かということである。よろしい。そうした人は、黄金の容器に入れられて、大いにあがめられている穀粒のようである。しかし、もしかすると、あなたは別の人を知っているであろう。――その人は、ひとりの市中宣教師かもしれない。――彼は、罪と悲惨のただ中に真っ直ぐ乗り込んで行く。彼がキリストのためにかちとろうとしている人々がそこにいるのである。また、彼はあらゆることを彼らの視点から眺める。そして、しばしば、それは彼にとって困難な務めとなるが、それでも、それを行なう。彼は、彼らよりも自分がすぐれている一切のことをわきへ置き、彼らに理解できる言葉を話し、福音をまさに彼らの水準まで引き下ろす。この人は、《救い主》のために魂をかちとるであろう。なぜなら、大理石の棚に載っている麦の穀粒ではなく、地に蒔かれるからである。そして、そうした人々が自分の《主人》のために自分を使い尽くせば使い尽くすほど、――死ぬほど働き、からだをこわし、自分の《主人》への奉仕のために、いわば自分を殺すとき、――そうした人々は神のために「多くの実」を結ぶ見込みが高い。私の信ずるところ、あなたは、多くのものを奪われない限り、大した善を施すことはできないであろう。そして、人が自分自身について非常に几帳面で、自分に気を配り、全く何の代償も払わずにすむ時しか神に仕えようとしない場合には、何の地上的な善もそこから生じることがありえないと思う。神が大いに祝福するであろう人は、この意味で、喜んで地に落ちて死のうとしなくてはならない。

 迫害の時期に、キリスト者はしばしば文字通り自分を死に引き渡さなくてはならなかった。だが、キリストの御国の進展はその人の死によって損害を受ける代わりに、その人は、そのようなしかたによって、「多くの実」を結んだ。いかなる人にもまして多くの実を結んだ福音の説教者たちは、スミスフィールドの火刑柱で苦しみを受けるか、拷問台の上で死ぬかした人々であった。もしあなたが他の人々を救う手段になりたければ、あなたは何の物惜しみもすることなく、あなたの《主人》にならわなくてはならない。この方について、その敵たちは、あざけりながらも真実にこう云ったのである。「彼は他人を救ったが、自分は救えない」[マタ27:42]。私はあなたに願いたい。キリストにある兄弟姉妹。神の力によって、ぜひとも、主のためとあらば何事であれ喜んで行ない、何物であれ喜んで与えようと決心してほしい。主は、あなたを救うために持てるすべてを与えるほど、あなたを愛してくださったのである。あなたに用いることのできるあらゆる手段によって、魂をキリストのためにかちとろうとするがいい。死んでも回心者を得ようとする人は、得るものである。自分の学級の生徒たちをキリストのもとに導かないではいられないと感じている婦人、また、そうするまで決して安らがない婦人は、彼らをキリストのもとに導くものである。願わくは主が私たちを助け、そのようにキリストを宣べ伝えさせ、そのように私たちをキリストのために生かし、必要とあれば、そのようにキリストのために死なせて、神への実を結ばさせてくださるように。――「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を」[マタ13:8]。アーメン。

----


出版者注

 この説教の大部分は、スポルジョン氏によって校正されて出版準備を整えられた。この話題――「キリストの死と私たちの死」――は、この愛する説教者の地上における最後の日々から数えて十五周年目にとって、ことのほか適切なものである。だが、次の説教――1月31日発行予定――の主題の方が、なおもずっと適切である。その聖句は、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]であり、その説教題は、「十五年後」となる予定である! これは、あらゆる読者にこう思い起こさせるためにほかならない。すなわち、この説教者の声は、過去十五年のあいだ聞かれなくなっているが、それでも殉教したアベルのように、「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」[ヘブ11:4]、と。その説教には――1892年の前例に従って――スポルジョン氏がその書斎に座り、『ニューパーク街会堂講壇』と『メトロポリタン・タバナクル講壇』の合本を背にしている姿をした肖像写真が挿入されるはずである。その合本の冊数は、その写真が撮られたときより半分ほど増えている。

 やはりいささか尋常ならざる事実は、来週発行される説教が語られた、1869年2月11日の木曜日夜から一日も違わない、ちょうど二十三年後に、タバナクルで葬儀礼拝が行なわれたということである。その時には、ニューイントンからノーウッドまで長蛇の行列が並び、墓地における埋葬は弔意を表わす見物人たちの巨大な集団を前に行なわれたものであった。

 この説教集の定期的な読者である方々は、同じような偶然の一致がスポルジョン氏の帰天の際にも指摘されたことを思い出すであろう。そのときは、人間的なお膳立てが何もなかったにもかかわらず、1892年2月の四回の安息日に朗読されるための説教が次の通りだったのである。――No. 2242、「未来に関する神のみこころ」; No. 2243、「彼自身の告別説教」; No. 2244、「キリストの肢体」; No. 2245、「生きた、愛情に満ちた、永続的な結び合い」。――これは、ウィリアム・オルニー執事の帰天に関する四編の講話であった。本出版者たちはあえて示唆したいが、スポルジョン氏の記憶を何にもまさって尊ばれるものとするのは、彼の説教集の頒布をさらに増加させることであろう。それは、今後もう数年間は毎週刊行され続けるであろう。そして、彼らは常に、この努力において彼らを進んで支援しようとするあらゆる方々に、特別の条件をいつなりと喜んで提示したいと思っている。そうした思いのある方は、下記まで連絡されたい。

 ロンドン、東中央区、パタノスター集合建物、パスモア & アラバスター氏

 ----

---


(訳注)

*1 アトラス。ギリシヤ神話に登場する、神罪によって天空を肩にかつがされた巨人神。[本文に戻る]

 

キリストの死と私たちの死[了]

-----

HOME | TOP | 目次