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神の無数のあわれみ

NO. 3022

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1907年1月10日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1868年10月22日、主日夜


「私は、その全部を知ってはおりません」。――詩71:15


 この詩篇の作者は、自分に対する神のあらゆる取扱いを、「義」と「救い」という項目の下に述べている。この描写は完璧に正確である。というのも、神がご自分の民のためになさる一切のことは、まず第一に、ご自分の数々の約束に対する真実さにあるからである。神は、お語りになった通りに行なわれる。いかに激しい試練のうちにあるときでさえ、決して天国の相続人は、神がご自分の約束されたことに対して不真実であると責めることはできない。主はご自分の弟子たちに向かって、彼らが患難を忍ばなくてはならないと告げられた。ならば、それがやって来たとき、彼らは主の預言の真実さを経験したのである。そして、神が私たちに対して行なわれる一切のことは、大小を問わず、また、厳しさいつくしみ深さを問わず、主の真実なことばに応じてなされたことが分かるであろう。それから、この詩篇作者は、神の摂理という経綸を、救いという名で呼ぶ。そして、この用語もまた正しいものである。というのも、神が私たち、ご自分の民である者らのために行なわれる一切のことは、私たちの究極的な救いのためになるものだからである。神は私たちを、外的な誘惑や試練からも、生まれつきの罪からも、解放しつつある。ごく往々にして、私たちが味わう最も暗い日々は、天来のあわれみで明るく輝いている。私たちに、その明るさの見分けがつかなくとも関係ない。神が私たちにお送りになるあらゆるものには、十分な理由があり、必然がある。そして、その理由は、神が私たちを「傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に」[ユダ24]立たせようと意図しておられる事実の中に見いだされる。愛する方々。あなたの日記帳を開いて、あなたの日々の経験の記録の上に、こう書き記すがいい。「こうしたすべてのことが私たちになされつつあるのは義においてであり、こうしたすべてのことが成し遂げつつあるのは私たちの完全な救いである」、と。あなたの人生の歴史の書を読むときには、必ずあらゆる頁にその見出しをつけるがいい。その標語を、あなたの人生の重要な節目節目の冒頭に、色模様で飾られた絵のように、目もあやに描き出すがいい。そして、信ずるがいい。これは、最初から最後までことごとく義であり、ことごとく救いなのだ、と。このように、神の一切のあわれみを、この2つの項目の下に理解した上で、詩篇作者はこう云い足している。「私は、その全部を知ってはおりません!」、と。この言葉を考察するに当たり、第一に、《私たちが知らないこと、すなわち、神の数々のあわれみの数》について考えよう。

 あなたはこれまで、それを数えようとしたことがあるだろうか? おそらくは、これまでの人生の中で、一日たりともそうしたことがないであろう。ぜひその企てに着手してみてほしいと思う。ある一日に、朝がそのまぶたを開けた瞬間から、夜の帷が落ちるその瞬間まで、自分が神から受けているあらゆる恵みを書き留めてみるのである。もしあなたの識別力が、その一切の事がらを見分けられるだけ光を受けているとしたら、自分の算術では、その総計を告げられないことに気づくであろう。しかし、兄弟たち。私たちの中のほとんどの者は、数多くの日々を得ており、この場にいるある人々は、人間のいのちの最年長の時期に近づきつつある。もしある一日分のあわれみも、その人々の計算を越えたものだとしたら、その人々が神の気前よさに扶助される特別自費学生として生きてきた日々、また、《いと高き方》の恵みと真実に頼る恩給生活者として生きてきた日々すべてのあわれみについて、何と云えば良いだろうか? まことに、主の一切の恵みを振り返るとき、そうした人々はこう云って良いであろう。「私は、その全部を知ってはおりません」、と。

 さて今、――神のあわれみを数えるのを助けようと試みることによってではなく、むしろ、それらを数えることさえ全く不可能であるとあなたに示すことによって、――ほんのいくつかのことを思い起こさせてほしい。第一に、あなたに対して成就されてきた、数々の天来の約束についてである。それらは非常に多い。この《聖なる書》の頁をめくってみれば、それらは、アフリカか豪州の、どこかの河床にある砂金のように語っているのを見てとるであろう。神の約束のことばは、そこに実におびただしく見いだされる。その1つ1つは、幾多の天空を築いたことばのように力強い。また、あなたの経験においても、最初から最後まで、こうした約束のことばは成就されてきた。自分に対して成就されてきた神の約束のすべてを書き出そうとすれば、一大事業となるであろう。自分の聖書を取り上げ、あなたにとって真実となってき1つ1つの約束の余白に鉛筆でしるしをつけてみるがいい。そのようなことに励むのは、あなたの記憶にとって祝福となり、あなたを感動させ感謝させるであろう。そして、神の数ある約束のほとんどは、私たちに対して何度も、何度も、何度も、現実となってきた。私たちは、こうした約束手形を天国という大銀行に持って行っては、そこで約束されたものを受けとってきたが、それらをその銀行にもう一度持ち込んできた。というのも、口にするも不思議なことに、主が今日ご自分の約束を成就された後でも、その約束は、明日もなお有効であり、時の終わりに至るまで、そうあり続けるからである。神の約束の大群を集計し、その約束が自分と、神の子どもたちの中の他の者らとに対して成就してきた数多くの場合について考えてみるがいい。そうすることは、神のあわれみがいかに無数のものであるかをあなたが悟る助けとなるからである。

 神の数あるあわれみについて、別の形で考えてみよう。すなわち、あなたが賜わってきた幾多の救出についてである。あなたは、自分の危険について、つゆ知らなかったときにも、救い出されてきた。主は、――

   「わが行路(みち)守りぬ。
    よしわれサタンの盲目(めしい)し奴隷(ぬひ)とて、死をもてあそべるも」。

あなたは数々の病から救い出されてきた。そのときのあなたが死に臨んだとしたら、赦されないまま死んでいたところであった。ことによると、あなたは子ども時代に、多くの誘惑から救い出されてきたかもしれない。もしも、もう少し不幸な生まれをしていたとしたら、そうした誘惑に遭う定めであったであろう。それから、かの偉大な救出がやって来た。あなたの魂が、罪とサタンとに対する隷属から解放されたのである。そして、その一度の救出の中に、いかに多くの救出がくるみ込まれていたことか! ダビデによれば、神は、彼をすべての恐怖から救い出してくださった[詩34:4]という。そして、神が私たちを、自分たちのもろもろの罪から救い出してくださったとき、神は私たちにのしかかっていた一切の奴隷のくびきから解放してくださったのである。おゝ、キリストが私たちを本当に自由に[ヨハ8:36]してくださった、栄光に富む自由の幸いな日よ! 私たちひとりひとりは、こう歌って当然である。――

   「幸いな日よ、わが選択(みち)決まれり、
    汝れに、わが救世主(きみ)、わが神に。
    燃ゆるこの心(たま) 喜びて、
    あまねく歓喜(さち)を ふれ広めん。

   「成し遂げられぬ! 大いなる取引(わざ)
    われは主のもの、主はわれのもの。
    主われを引きて、われは従い、
    魅せられ告白(い)わん 天つ御声と。

   「厳誓(みちかい)聞きし 高き天原(あまはら)
    日々聞けり、その 再誓(あらため)らるを。
    わが最期(はて)る時 ついに来たりて
    愛しき絆 称(たた)える日まで」。

その日以後、荒野を通る私たちの行軍は尋常ならざる救出と救いの連続であった。愛する方々。あなたは高慢から救い出されてきた。――あなたが限度を越えて鼻高々としていたときには、低められてきた。あなたは霊の抑鬱から救い出されてきた。あなたの目は泣くことから、あなたの心は弱り果てることから救い出されてきた。あなたは、死別の折に救い出されてきた。痛みと病の時期に助けを受けてきた。仕事が殺到する時に救い出されてきた。独り誘惑を受ける折々に救い出されてきた。自我から、罪から、サタンから、あなたを驚かせる悪から、あなたの魂を奪おうとする格段に陰険な害悪から、救い出されてきた。今に至るまで、主はあなたを支えてこられ、あなたは獅子の穴を通り過ぎるときや、《屈辱の谷》でアポルオンと戦うときでさえも無事に守られてきた。

 そうしたすべての救出を数えきれるだろうか? 確かにあなたは、詩篇作者とともにこう云うしかないと思う。「私は、その全部を知ってはおりません」。ほんのしばし、ただ私たちの神への感恩をかき立てるために、私たちの存在そのものに伴っている無数のあわれみについて考えてみよう。医者なら誰でも、私たちの生命がいかに驚くべきものか告げることができよう。いみじくもウォッツ博士はこう書いている。――「われらが生には 千もの発条(ばね)あり、一筋切れるば いのちは絶えなん。奇しきかな、千弦(ちすじ)の琴の かくも永くに、調子(ふし)乱さずは!」 自然界の種々の運行は、精緻きわまりないしかたで営まれており、私たちの生命が持続していられるのは、ごくか細い糸に頼ってのことである。左様。目ではほとんど見分けもつかないほど微小な粒子のいくつかに頼ってのことである。私たちの体組織を血液が循環している際にも、脈が1つ打つごとに死の危険がある。大気を私たちが吸入する際にも、肺が膨らまされるごとに、さらなる危険がある。私は解剖学者ではないし、人体組織を切り裂くことを自分の義務の一部としているわけでもない。だが、専門に研究している人々が告げるところ、生命は揺りかごから墓場に至るまで、不断の奇蹟であるという。私たちは、自分の頭の天辺から足の裏まで、いかに無数のあわれみが関わって、自分を生者の国になおも生き長らえさせているか、想像もできない。

 また、考えてみるがいい。人生の幸福に関わる数限りないあわれみのことを。そうしたあわれみのいずれかが取り去られれば、人生は悲しいものとなり、その多くが取り除かれれば、耐えがたいい苦悶となるであろう。あなたは、精神病院の前を通り過ぎながら、自分の理性がその王座を離れていないことを神に感謝せずにいられるだろうか? 精神異常者たちが住んでいる場所を通り過ぎながら、自分の精神が、存在停止寸前まで低められるような羽目になっていないことを神に感謝せずにいられるだろうか? わが国の大病院のそばを通りながら、自分が寝床の上で輾転反側しつつ、ひっきりなしの痛みに呻吟しないでいることについて、神をほめたたえずにいられるだろうか? わが国の町通りに見られる、多くの病んでいる人々を眺めながら、自分の享受している健康について神に感謝せずにいられるだろうか? 私は、この歯が、あるいは、この頭が痛まないことについて、毎分、恩を感じたい気がする。というのも、こうした小さな痛みのいくつかは、あまりにも心を散らすため、日々の義務にもほとんど携われなくなるからである。そうした苦痛に耐えなくてはならないとき、それが去ったなら何と感謝することだろうと私たちは思う。だが、いざそれがなくなると、それを取り除いてくれたあわれみを忘れがちである。

 また、愛する方々。あなたの家庭の輪において、あなたの人生を幸いなものとしている数々のあわれみについて考えるがいい。「あゝ!」、とあなたがたの中のある人々は云うであろう。「ですが、今の私たちには、その点で悲しみがあるのですが」。しかり。そうであろう。だが、あなたは考えるべきである。いかに長いこと、あなたが、ほとんど混じりけのない幸福を受けてきたかを。もしある人があなたに何かを貸してくれたとして、長いこと経ってから、それを取り返すとしたら、その人がそれを取っていくことを嘆くべきではない。むしろ、自分にそれをこれほど長く貸してくれていたことについて感謝すべきである。幸いな炉辺の回りに群がっていた、一万ものあわれみについて考えてみるがいい。「家庭」という、そのほむべき言葉に、いかに妙なる調べがこもっていることか! 左様。そして、家庭ゆえにいかなる苦難がもたらされようとも、この、ぺちゃくちゃ喋る愛しい小さな者たちは、それと合わせて山ほどの幸いをもたらしてくれるのである。ならば、その子たちがまだ自分から取り去られていない場合、感謝すべきである。取り去られていないどころか、健康そのもので、五体満足で、明晰な知性を有し、その多くは道徳的、また、霊的な事がらにおいて有望で、見込みがあるのである。まことに、もし私が、この下界の人生を幸福なものとしている数々のあわれみを書き記そうとするとしたら、内側にも外側にも感謝をびっしりと書き込んだ巨大な巻き物を必要とするであろうし、そのときでさえ、この詩篇作者と同じ告白をせざるをえないはずである。「私は、その全部を知ってはおりません」、と。

 別の測地線を取り上げてみよう。愛する方々。神の守りの摂理について考えてみるがいい。すると、全く異なった眺望が目の前に開けるであろう。昨日、通りを歩いていたとき、あなたは転倒して怪我をしたかもしれない。別の人がそうなったからである。自宅で座っていてさえ、致命的な熱病が入り込むこともありえたであろう。隣人の扉や窓からは入り込んでいたのである。旅行中に、あなたは他の多くの人々がそうしたように客死するか、重傷を負って九死に一生を得る目に遭うかしていたこともありえたであろう。私たちは、間一髪で難を免れるとき、「摂理」について口にするが、危険から保たれているときも、全く同じくらい摂理が働いていないだろうか? 以前話したことがあると思うが、ある古の清教徒のもとに、何哩も馬に乗って息子が会いに来たという。「お父さん」、と彼は云った。「途方もない摂理の働きがありましたよ。私の馬は三度もひどくつまずいたのに、私は振り落とされなかったのです」。「あゝ、息子や」、と父親は云った。「私は、それよりずっと途方もない摂理を有してきたよ。私の馬は一度もつまずいたことがないのだ」。私たちは、私たちから悪を遠ざけている、神の守りの摂理についてしかるべきほど考えていない。あなたがたの中の多くの人々が貧困に至らされていないのは、あわれみである。これほど多くの他の人々が職にあぶれているときに、労働者であるあなたは失業者のひとりではなく、自分の家族を養うことができている。私たちはみな、自分が免れてきた数々の試練について長い一覧表を作ることができるであろう。そして、それを作成した後で、なおもこう云わなくてはならないはずである。「私は、その全部を知ってはおりません」、と。

 しかし、それよりも広い領域に目を向けると、いかに優秀な算数家も匙を投げるに違いない。神の恵みの気前良さについて考えるがいい。あなたのもろもろの罪は、多くはあっても、みな赦されている。そして、あらゆる赦しはあわれみである。――あなたがたの中の誰にその数が分かるだろうか? 罪があなたの内側にもたらしてきた悪は、かの偉大な《医者》によってみな治療されるか、その恵み深い御手によって究極的に取り除かれる。――あなたに、その数が分かるだろうか? さあ、考えてみるがいい。あなたは神の選民である。神の愛を、あの、神があなたの贖いを計画された永遠の会議まで辿ってみるがいい。そして、ダビデとともに云うがいい。「神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです」[詩139:17-18]、と。それに加えて、あなたはキリストの尊い血によって贖われたではないだろうか? この「贖われた」という一言に、いかに多くのあわれみが含まれているか、分かっているだろうか? そこには、あわれみの中のあわれみが含まれている。神が地上に下り、私たち人間の性質を取り上げて、ご自分と結び合わせてくださったのである。そこには、キリストの全生涯と、その十字架上での死が含まれている。左様。その復活と、昇天と、その再臨の栄光とが含まれている。まことに、その数を知ることはできない。また、あなたは恵みによって召された。あなたは神の数々の召しに抵抗していた。ことによると、百度もそうしてきた。だが、聖霊の甘やかな説得は続けられ、とうとう最後に、あなたは屈することとなった。そして、悔い改めがあなたに与えられ、信仰があなたのうちに作り出され、あなたは祈らされ、あなたの祈りは聞き届けられ、かなえられた。あなたは、こうした一切のあわれみの数を知っているだろうか?

 さらに、聖化のみわざが、聖霊の力によってあなたの中で続いている。あなたが有したことのあるあらゆる良い考え、あなたが語ったことのあるあらゆる正しい言葉、あなたが行なったことのあるあらゆる聖なる行動は、あなたに対する神からのあわれみであった。神がこうした祝福をお与えにならなければ、あなたがそれらを有することは決してなかった。そこで、私はあなたに云いたい。この大きなあわれみの束を数えられるものなら数えてみよ、と。これらすべてに加えて、あなたは今日、神の相続人であり、キリストとの共同相続人である[ロマ8:18]。あなたには、天国の相続権があり、それは、偽ることのない神[テト1:2]の真実な約束によってあなたに保証されているのである。腰を下ろして、自分の洋筆を手に取り、できるものなら、あなたのあわれみを数え上げてみるがいい。数えている間からさえ、あなたのあわれみは増加し、脈を1つ打つごとに、そうした無数のあわれみの大群が増加していくため、それを数え上げることには完全に絶望するしかなくなる。それを何にたとえれば良いだろうか? 夏の陽光が微笑みかける、庭園に集められた無数の美しい花々から立ち上る、数え切れないほどの芳香にだろうか? 万の万倍もの木の葉の上で煌めいている、朝露の滴にだろうか? 中を飛ぶ無数の鳥や虫たちに、それとも、海を泳ぐ数限りない魚たちに、それとも、山々を歩き回るか、森や林をうろついている、数え切れないほどの動物たちにだろうか? 秋に霜が降りる頃の無数の落ち葉に、あるいは、下界の海辺の貝殻や砂粒に、それとも、いかなる人間にも数えることのできない天界の星々にたとえれば良いだろうか? 私は、神の数々のあわれみを何になぞらえるべきか分からない。というのも、いかなる比較もそぐわず、ただ詩篇作者とともに、驚嘆に打たれてこう云うしかないからである。「私は、その全部を知ってはおりません」、と。

 II. さて、そこから別の点に目を向けてみよう。私たちは、神のあわれみの数を知らない以上、《それ以外の事がらにおいて、私たちの知識を越えたことがある》としても驚く必要はない。

 ある事がらの数を知ることも、それらの値打ちを知ることにくらべれば、さほど難しくはない。私の神よ。私は、あなたの様々のあわれみの数を知りません。そして、それらのいかなる1つの値打ちをも知ってはおりません。たとい私がその1つを取り上げ、その価値を見積もろうとしても、それが私の計算能力のすべてをはるかに越えていることに気づくはずです。私は、その1つをさえ決して秤で量ることができません。特に、あなたの恵みによって、私の魂の中で働いているあなたのいつくしみ深さについてはそうです。イエスの尊い血で洗われること、――御使いたち。あなたに、それがいかに値もつけられないほどの恩恵であるか分かるだろうか? 悪霊ども。お前たちにそれが分かるだろうか?――というのも、お前たちは、まだ罪に覆われているからだ。――地獄に落ちた失われた霊たち。あなたに、赦された魂となることが、いかなるものに違いないかを想像すらできるだろうか? 御座の前にいる輝かしい霊たち。《小羊》の血で自分の衣を洗って白くした[黙7:14]者たち。これほど素晴らしい至福を経験してきたあなたがたでさえ、その偉大さに絶えず驚嘆し続けているのではないだろうか? ならば、キリストにある愛する兄弟姉妹たち。私たちは、私たちの神がこれほどふんだんに私たちに授けてくださった数々のあわれみの値打ちが分からなくとも驚く必要はないであろう。

 それにもまして遺憾なことは、私たちが決して、自分たちに対する神の数々のあわれみについて、しかるべき感謝を決して感じたことがないということである。私たちは、ほぼ無限に達するものを数え切れないことについては、赦されて良いかもしれない。それは、罪というよりは不完全であろう。だが、悲しいかな! 私たちは、あまりにも恩知らずであるため、神がこれほど惜しみなく私たちに示してくださったいつくしみについて、神に感謝しないでいる。それらは忘却の中に埋められてしまい、私たちは年々歳々、あたかも主には何の恩義も負っておらず、主の良い賜物の一切を単なる偶然ででもあるかのように受け続けているのである。いかに多くの人々が、豚のように生きていることであろう。豚は、樫の木から落ちた団栗を食べるが、それが育った木にも、それを育てた神にも決して感謝しない。彼らは天の数々の祝福を受けるが、それらについて、しかるべきほどには天の神に感謝しない。神のあわれみはまことに不可算だが、人の忘恩はまことに不可解である。私たち、キリスト者である者たちは、いかにして自分がこれほど鈍感で無感動でありえるのか説明がつかない。本来なら私たちは、自分に対する神の一切のいつくしみ深さゆえに、神へのうやうやしい感謝に満ちていて当然のはずである。

 そして、愛する方々。私たちの感恩が神のいつくしみ深さと決して釣り合いが取れていないのと同じことは、確かに私たちの賛美についても云える。いかに多くの舌が、神からつらい運命を与えられたといって、火膨れになるほどつぶやきや不平を云い立てていることか! 私たちの中のある者らは、不和を引き起こすことには非常に長けていながら、調和した賛美についてはほとんど知らない。だが、私たちの神はいつくしみ深い神であられる。そのように口にし、その立場を守り続けよう。そして、私たちがそのことを、これほど僅かしか語ってこなかったことを悔い改め、人々の子らの間で、もっと公にそのことを宣告しよう。神は私たちに対して非常に恵み深くあられたため、そのあわれみは数え切れない。願わくは、過去それらについて沈黙してきたことが赦されるように。また、これ以後の私たちの口が、神への賛美と、神の誉れとで一日中満ちているように。

 そして、私の愛する兄弟たち。私たちは、自分たちの賛美において欠けていたのと同じように、確かにそれよりもはるかに大きく、自分たちのふるまいや生活において、神のいつくしみ深さへの返礼をする点で欠けてきた。たとい私たちが神の奴隷であったとしても、神の子どもである私たちが、これまで神に仕えてきたしかたよりも劣ることはなかったであろう。もし神が私たちにとって暴君であったとしても、神を御父としている私たちが行なってきたほどの手抜きは行なえなかったであろう。私はしばしば、自分の日記を涙で拭えれば良いのにと、何度も、何度も、何度も感じてきた。そして、自分に向かってこう云ってきた。――

   「咎あるわが魂(たま) 救わんとて死す
    主に、我れ 何を なしきたらんや?
    いかな愚かさ われ増し加えん、
    わが刻(とき)疾(はや)く 過ぎしまにまに!

   「わが時おおく 徒(あだ)に費(すご)され、
    わが罪の総計(かず) いかなる大量(かさ)ぞ!
    赦しませ、主よ、わが過去(こしかた)を。
    強めよ、われを、将来(ゆくすえ)の日に!」

こうした実際的な熟考が、あなたの記憶にとどまるようにするがいい。愛する方々。あなたは、神の種々のあわれみの数をも、値打ちをも、重みをも知っていない。しかるべき感謝をそのために感じてはいない。ふさわしい賛美をささげることも、自分への神のいつくしみ深さに釣り合う生活を送ってもいない。ここには、深くへりくだるべき理由がある。また、自分のあり方を正せるようになるための恵みを求めるべき理由がある。

 III. さて、最後に、こうした事がらを私たちは知ってはいないが、《ある事がらについては知っている》。それによって、私たちはいやまして感謝すべきである。

 最初のこととして、キリストにある愛する兄弟姉妹。あなたや私がよくよく知っていることは、こうした一切のあわれみが、どこから私たちにやって来るかである。私たちは、それらを数えることはできないが、それらがことごとく、私たちの主、キリスト・イエスにあって、ご自分の民に注がれている神の永遠の愛から湧き出ていることは知っている。こうした、神聖なあわれみの一滴一滴は、神の、差別し、分け隔てする愛という泉まで辿ることができる。神はご自分のあわれむ者をあわれみ、ご自分のいつくしむ者をいつくしまれる[ロマ9:15]。それは、私たちに対する神の御恵みの大きさに従ってのことであった。大地の始まりから[箴8:23]、神は私たちを選び、ご自分に誉れをささげる民としようとされた。――「神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされる」*[エペ3:19]べき民にである。私たちは、自分への一般的なあわれみをも、この源泉まで辿ろうではないか。また、特に、神の愛を、私たちの受けているあらゆる霊的な恩恵のうちに見てとろうではないか。というのも、私たちは今まで以上に、ずっと神を賛美し、ほめたたえるようになるべきだからである。

 さらに、私たちは、あらゆる恵みが私たちのもとにやって来る筋道を知っている。それは、私たちのほむべき主なる《仲保者》イエス・キリストを通してやって来るのである。そして、――「御手より受けし 賜物ぞ、みな/主を呻かせし 代価にて来ぬ」。私が見て嬉しくなるのは、私の霊を飾っているあらゆる宝石に、私の《主人》の苦しまれたしるしがついていることである。――私には分かる。もし私が義であるとしたら、それは主の義のうちにあってである。もし私が洗われているとしたら、それは主の血によってである。もし私が救われているとしたら、主こそ私の《救い主》である。もし私が養われているとしたら、主こそ私の食物である。もし私が喜んでいるとしたら、主こそ私の喜びの冠である。そして、もし私が天国に入るようなことがあるとしたら、主こそ私の永遠の至福である。主はその民にとってすべてのすべてであり、私たちに来る一切のものは主を通してやって来る。それは、私たちが、あわれみそのものに対してと同じくらい、そのあわれみがやって来る方法にも感謝を感じるようになるためである。私たちは、自分に対する神のあわれみの数を知らない。だが、その1つ1つが、十字架を通って自分のもとにやって来ること、また、《贖い主》の血のしるしがその上についていることを知っている。

 私たちは神のあわれみの数を知らないが、その規則のことは知っている。すなわち、それらが常に愛のうちに送られることを知っている。もしそれらが切り詰められているように思われるとしたら、それは愛が切り詰めているのである。また、もしそれらが増し加わるとしたら、それは愛が増し加えているのである。一日中、神の愛は私たちの上に輝いている。そして、自然界の太陽が休息所に入ったときも、仇なす月が私たちを打つことはない。同じ神の愛が、私たちの魂の内側を月で照らしてくれる。もし主が私を懲らしめるとしたら、それは主が私を愛しておられるゆえである。もし主があなたの子どもを、夫を、あるいは、あなた自身を取り去るとしたら、信仰者よ。それは、主があなたを愛しているがゆえである。あらゆるあわれみの規則は、私たちの御父の知恵と、私たちの御父の真実さと、私たちの御父の愛情という偉大な規則なのである。

 また、私たちは、神の一切のあわれみについて、それらの意図をも知っている。私たちの知るところ、それらはみな、神の愛のしるしとして、また、天国への私たちの旅路の助けとして、私たちのもとに送られて来る。そのあわれみと、それを給う愛と、それがやって来る方法とに加えて、そのすべてを聖なるものとする、ほむべき目的があるのである。主は、彼らとともに行かせると約束された《御使い》について、イスラエルにこう仰せになった。「主はあなたのパンと水を祝福してくださる」[出23:25]。おゝ、人生における通常のあわれみが、このように祝福されるとしたらどんなに良いことか! それらは私たちの霊的な助けとなる。これは、ありえないことではない。というのも、神が目指しておられるのは、ご自分が私たちにお送りになるあらゆるものにおいて、私たちをご自分に近づけることにあるからである。

 それから、私たちは、こうしたすべてにまさり、それを越えたものとして、そのすべての偉大な絶頂を知っている。私は、その数を知らない。だが、このことは知っている。私の神よ。私が地上における私の最後のあわれみを受け取るとき、私は、天国における最初の楽しみを受けるはずである。私がこの定命の生における最後の祝福を得るとき、私は永遠の生における最初の祝福を得るはずである。確かに、ヨルダン川の岸辺まで私を追って来たいつくしみと恵み[詩23:6]がやむとき、そこには私を天界の丘々へと引率してくれる御使いたちが待っており、私の《救い主》の御前へと私を入れさせてくれるであろう。そして、そこには永遠に喜び楽しみがあるであろう。それは、終わりのない連鎖なのである。愛する方々。ある場所で終結するかに思われるとき、別の場所で始まる。ダビデは云った。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」。――では、次に彼は何と云っただろうか?――「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」[詩23:6]。永遠に、自分たちの御父の顔を、上にあるその家で見つめること、それが神の子どもたち全員の受ける分である。

 こうしたすべてのことを云ってきた後では、あなたがた全員には、ぜひこう云ってほしいと思う。キリスト者の人生は、幸いなものである、と。その通り、その通り。私たちには、背負うべき自分の十字架がある。日々の悲しみや、損失や、試練がある。だが、私たちひとりひとりは、ウォッツ博士とともにこう云えるのである。――

   「我れは捨てまじ、わが身の幸(さち)を
    世の富 ほまれを いかに受くとも」。

私たちは、私たちの《主人》への奉仕に入り、十字架を受け入れ、主が私たちにお与えになる一切のものを受け入れる。私たちは、天国への路を、その一切の茨やおどろとともに踏み越えて行く。しかり。いかなるものが来るにせよ、主はあまりにもいつくしみ深く、ほむべき神であられる。ご自分を御民の相続財産としてくださった神であられる。そのため、たとい鞭がその契約の一部だとしても、ならば、その鞭はほむべきであり、それを振るう御手はほむべきである。そして、日の上る所から沈む所まで、主がほめたたえられんことを![詩113:3]

 キリストにある兄弟姉妹たち。神が倦むことなく与えてくださる以上、私たちは決して倦むことなく神に仕えようではないか。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励もうではないか[Iコリ15:58]。私たちにあわれみを授ける御手を神が決してお抑えにならない以上、私たちは決して、神が私たちにお送りになる人生の災いのいかなるものをも、忍耐強く辛抱することをやめないようにしよう。そして、神のあわれみが私たちの地上にいる限り続く以上、私たちは決して神に対する私たちの信頼を投げ捨てないようにしよう。主により頼み続け、疲れるときには御腕に自分をゆだねよう。気を失うとしたら、主の御胸の上で気を失おう。

 私が願うのは、この場にいる私たち全員が、いま私たちがしているように数多くのあわれみを絶えず受けとりつつ、それらがやって来る大元の御手と御心のことを、より多く考えることである。悲しいかな! 悲しいかな! 多くの人の場合、「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている」のに、こうした人々は神を知らない[イザ1:2]。犬にえさをやれば、あなたを見知るようになるであろう。だが、ここにいる人間たちは、自分たちをお造りになった神、自分たちの呼吸を御手の中に握っておられる神を知らない。この聖句を忘れないようにするがいい。「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も」[詩9:17]。私たちは間違ったことは何もしていません、とあなたは云うであろう。酒も飲まず、悪態もつかず、嘘もつきません。だが、「神を忘れたあらゆる国々」は、「悪者ども」と同じ運命に遭うのである。用心するがいい。あなたがた、神を忘れている人たち。そして、もし神を思い出したければ、そうするための最も簡単な道は、神の御子イエス・キリストの死のうちに、神の愛を見てとることである。罪人たちのため血を流しておられるイエスについて考えるがいい。自分をイエスにゆだねるがいい。そうするとき、あなたは救われるであろう。というのも、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]からである。

 願わくは、神があなたがた全員を祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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神の無数のあわれみ[了]

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