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真の血筋

NO. 3018

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1906年12月13日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1864年


「イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』しかし、イエスは言われた。『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』」。――ルカ11:27、28


 これは、愛しい《救い主》の講話によって感動させられた、愛すべき心の女だっただろうか? 疑いもなく、多くの人々が同じ恵み深い言葉に耳を傾けていたに違いない。彼らの中の何人かは激しい怒りに満ちながら、他の人々は断固たる自己満足をもって聞いていた。だが、彼女の魂は、主の御口から発された驚嘆すべき事がらに対する聖なる驚きによって膨れ上がり始めたのかもしれない。そして、彼女の魂は、これほど多くの恵みを発させている人物に対する大きな愛情を感じ、こう叫んだのかもしれない。「あなたを産んだ腹……は幸いです!」 そうだろうか? ことによると、それは無知だが情熱的な愛情が、あらゆる慎みの念を破って噴き出したのかもしれない。時として、わが国の原始メソジスト派の友人たちの間では、同じ種類のことを聞くことがある。彼らは真理を聞くと、たちまちその力に我を忘れて、「栄えあれ!」、だの、「ハレルヤ!」、だのと叫ばずにはいられないのである。ウェールズ全土において、この習慣は――決してそれを咎めるつもりはないが――説教の間中、威を振るっている。それは、しばしば語り手の慰めとなり、彼を活気づけ、励まして語らせ続け、そうでない場合にありえたよりも大きく高揚させる。ことによると、この愛情深い女が差し挟んだ言葉は、そのような見方から眺めて良いかもしれない。

 しかしながら、おそらくそこには、強固な愛情よりは、大胆で全くの無知があったのであろう。彼女の叫びは、自分が聞いたことに対する一種の空虚な驚きの念だったであろう。そして、思わず知らず、それを彼女の舌で云い表わしてしまったのである。それと同じものに私も時々気づくことがある。わが国の原始メソジスト派の兄弟たちの間で説教しているとき、彼らは必ずしも正しい所で、「栄えあれ!」、を差し挟むわけではなく、あるいは、彼らが私たちに聞かせてくれる言説は、これ以上ないほど不適切なものなのである。確かに私も時には、真に感じ入った人から発されたと思われる情緒的反応を聞いて喜ぶことはあるが、無知から押し出されたようなものであるときには、それほど嬉しく思わない。ことによると、この女もそれと同じだったかもしれない。少なくとも、それが多くの健全な講解者たちの意見であり、イエスは彼女を褒めているようには全く見受けられない。彼女はあわれな、無知な魂であった。ことによると、説教などそれまで一度も聞いたことがなかったのかもしれない。確かに、イエス・キリストの説教のようなものは聞いたことがなかったに違いない。それで彼女は、一種の呆然とした驚きによって叫び声を上げたのである。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」。

 それが何であったにせよ、ともかくこの女は、彼女の時代の非常に多くの者たちの典型でしかなかったし、その後の幾多の時代のおびただしい数の人々を代表する者にすぎない。あなたも察知するように、彼女は自分の賞賛の念をキリストの人格から、その母の人格へと振り向けている。この種の傾向の何がしかは、キリストの生涯の他の機会にもあったことであり、主はここでそうされたように、それを叱責された。というのも、見れば分かるように、主はご自分の母に対して礼を失することは何も仰せになっていないが、それでも、ご自分を信ずる他の信仰者たちにまさる高い恵みを彼女が受けていたかのように彼女をほめたたえるいかなることにも、即座に消灯器をかぶせておられるからである。ガリラヤのカナにおける結婚式の際、イエスはご自分の母に対してこうお答えになった。――荒々しく、とは云うまい。――それは主に不可能なことであった。――だが、やや厳しくこう云われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません」[ヨハ2:4]。主は、ご自分の母に対する不当な崇敬が、人々の思いの中で自然に起こりがちであることを見抜かれたに違いなく、意図的にそれに水を差しておられる。ならば、少しでも考える力のある者にとって、驚愕すべきことと思われるのは、マリヤ崇拝が、あれほど盛大にローマ教会内で、かつて、そして今なお行なわれているということである。何と、現在においては、イエス・キリストに対して一回祈りがささげられるごとに、私の信ずるところ、五十回は処女マリヤに対する祈りがささげられているのである。いずれにせよ、ローマカトリック教徒が祈りに使う数珠には、「われらの父よ」のための珠1つに対して、「めでたしマリヤ」のための珠が九つもあるのである。

 注意したいのは、母マリヤには深い敬意が払われるべきであり、彼女は「女の中の祝福された方」[ルカ1:42]だということである。いかなるキリスト者の口からも、一言たりとも彼女を軽視するような言葉が発されるべきではない。彼女は非常に大きな恵みを受けた。一種の第二のエバとなった。エバが罪を生み出したのと同じように、この女は、この第二のエバは、私たちの救いである主を生み出した。彼女は実際、非常に高い地位に立っている。だが、それでも彼女は、いかなる点においても礼拝の対象とされるべきではない。決して彼女は、無原罪で懐胎され、その後も罪なくして生きたかのように持ち上げられたり、賞揚されたりすべきではない。ローマカトリック教徒たちが宣言するように、彼女が驚異的なしかたで天に昇天していったとすべきではない。――実はそれは、昇天ならぬ承伝であり、何の事実の裏づけもない伝承以外の何物でもない。しかり。兄弟たち。処女マリヤは、あなたや私と同じように、恵みによって救われた罪人であった。彼女が生んだ《救い主》は、私たちにとってと同じく、彼女にとって《救い主》であられた。彼女は、原罪からも後天的な罪からも、自分の《子》である、「いと高き方の子」[ルカ1:32]の尊い血によって洗われなくてはならなかった。また、このお方が彼女の赦罪を宣告されない限り、天国に入ることはできなかった。そして彼女は、私たちと同じように、「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:5 <英欽定訳>]た。だが私は、彼女を不当に賞揚しようとする傾向があったことに驚きはしない。しかしながら、私が本当に大きく驚嘆するのは、キリストがこれほどあからさまに、また、はっきりとお語りになった後でも、人々がよくも図々しくも、また、悪魔がよくも厚かましくも、信仰を告白するおびただしい数のキリスト者を惑わして、彼女を礼拝させてきたかということである。母マリヤは尊敬されるべきではあっても、決して崇拝されるべきではない。

 この聖句を眺めると、そこには非常に美しいものがあるのを見てとれるであろう。この女は、処女マリヤに対する祝祷を唱えたが、キリストはそれを手に取ると、ご自分の民全員の上に置かれた。女は、「あなたを産んだ腹……は幸いです」、と云った。「しかり」、と主は云われた。「彼女は幸いである。だが、(それと全く同じ意味において)、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」。このようにして、私の兄弟たち。いかなる幸いがマリヤに属しているにせよ、それはあなたにも私にも属しているのである。もし私たちが神のことばを聞いて、それを守るならそうである。母マリヤがこれほど大きな恵みを受けた者であることにおいて、いかなるあわれみが彼女の中に包み込まれていたと考えられるにせよ、そうした同一のあわれみはあなたのものであり、私のものなのである。もし神のことばを聞いて、私たちが真にそれを守っているならそうである。

 I. 多くの人々は、私たちの主の母親となることは喜ばしいことであったと考えるであろうし、また、それは非常に自然な考えでもある。《なぜなら、そのとき私たちは、主との最も近親の関係にあるという栄誉を得たことになる》からである。

 その幼子が揺りかごの中にいるのを見て、その子を自分の膝の上であやし、この《聖なる子》が年を追って成長していくのを見守り、その恵み深い言葉と、聖なる敬神の念と、両親に対するその完璧な服従とを観察し、三十年間もその子とともに過ごすこと、――疑いもなくヨセフとマリヤは、彼らの誉れある、栄光に富む《息子》と、そのようなしかたで過ごしたに違いない。――これらは決して小さな恩恵ではなかった。あなたも知るように、それと同じ精神は、ルーク夫人の可憐な賛美歌においても発露している。それは私たちの愛する子どもたちの愛唱歌であり、私たちの中の誰もが歌うのを好む賛美歌である。――

   「思えば昔 イェスきみの
    人の子らともに ありしとき
    幼子召しぬ、小羊(ひつじ)よと。
    そこにてわれも あらまほし。

   「御手をこうべに 置きたまい、
    やさしき腕に われを抱き、
    かく告ぐ御顔 あおがばや、
    『おさな子 われに 来させよ』と」。

しかり。多くの母親がこう感じることであろう。このような《子》の、あの小さな唇で口づけされ、あのほむべき腕で抱きしめられ、あの愛の閃く目で瞳をのぞき込まれることは、毎日でも切望したいことである、と。よろしい。そのように思われはする。愛する方々。だがしかし、もし私たちがこのことを正しく考えるとしたら、そうした幻想はすみやかに消散するであろう。キリストと関係を有することは高い特権である。だが、この特権は、霊的にきよめられない限り、魂を聖化においていや高く上らせるよりは、咎においてより深く沈める、厳粛な特権であった。ひとりの人物のことを、あえてあなたがたに思い出させてほしい。彼は、キリストの公生涯の間、非常にキリストと親密な関係にあった。彼は《救い主》から厚い信頼を受け、キリストの小さな金庫を託されていた。少しでも何か、愛の施し物に余分が出た場合、主はそこにお入れになったのである。彼はその小集団の会計係であった。彼が誰かはあなたも知っていよう。――ユダである。彼はイエスとほとんどあらゆる場所で行を共にしていた。彼はイエスの親密な友であり知己であり、主が彼とともにパンを浸していたこと[ヨハ13:26]は、この《天来の主人》と、そのような特権に全く値しない邪悪な者との間に保たれていた親密な関係を窺わせる。キリストの友であり、知己であったユダのような「滅びの子」[ヨハ17:12]はその後二度と現われなかった。これほど巨大な石臼を首にかけ、これほど深々と天来の御怒りの深みに没した者はひとりもいなかった。それが、キリストとこれほど甘やかに仲良く語り合い、神の家に群れと一緒に歩いて行った[詩55:14]人物だったのである。同じ太陽は、麦も阿片も熟させる。この男は、他の者たちを聖潔において成熟させたのと同一の外的過程によって、咎において成熟させられたのである。

 ということは結局このことは、自然な幸いと眺められるほどに大きな恩恵ではないのである。しかし、そうした恩恵がいかなるものであれ、それは霊的にはあらゆるキリスト者に対して開かれている。愛する方々。あなたは、キリストの民であるとしたら、キリストと知り合うことができるのである。それも、主を自分の膝の上であやし、主の必要を自分の乳房から満たした主の母と全く同じくらい、そして、はるかに永続的に知り合うことができるのである! 今日、あなたはイエスと語り合うことができる。あなたがた、天の相続人である人たち。あなたの《天来の長兄》とつき合うことは、あなたの自由とされている。あなたはこの方のもとに行きさえすれば良い。そうすれば、この方はあなたを酒宴の席に伴われるであろう。あなたの上に翻るこの方の旗じるしは愛であろう[雅2:4]。今なお、主の左の腕はその聖徒たちの頭の下にあり、右の手は彼らを抱いてくださる[雅2:6]。これは幼子イエスがその母に与えることのできたいかなることよりも親愛なことであり、マリヤが受けたいかなる口づけよりも甘やかで霊的な口づけを主は与えてくださるのである。あなたは、ただそれを懇願し、それを切望しさえすれば良い。そして、それを得るときあなたがそれを大切にしさえすれば、あなたはそれを毎日得られるであろう。愛する方々。私たちの中のある者らは、雅歌の中の花嫁のように、こう叫ぶことはないと思う。「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら」[雅8:1]。というのも、私たちはこう云えるからである。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。……干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです」[雅2:16、5]。ならば、私は云うが、現在でも、キリストの民がキリストとの交際における、ありとあらゆる栄誉を持つことは可能である。こうした、この上もなく甘やかな交わりを、最も高く、最もきよい意味において私たちは享受できる。それで、マリヤが有していた祝福は私たちのものであり、私たちはキリストとともにこう云えるのである。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」、と。

 II. また、ある人々は自然と、私たちの主の母親となることは喜ばしいことであったと考えるであろう。《なぜなら、私たちは主とより良く知り合いになり、主のお心をより良く知っていたであろうからである》

 たとい主に何か隠し事があったとしても、それをご自分の母には打ち明けようとしたはずである。主の私生活においては、人々が公には見ることがなかった何らかの事がらがにじみ出ていたに違いない。ことによると、主が何百万もの人々の見つめている前ではあまり明らかにできなかったものも、ヨセフや、主を賞賛する母には感知されたことがあったかもしれない。彼女は内幕に通じていた。私たちにはできないしかたで、主の心の奥底をのぞき込むことができた。よろしい。少しはそういうこともあるかもしれない。だが、数多くあるとは思わない。私は、マリヤが他の者たち以上のことを知っていたかは分からない。だが、福音書で読むいかなることからしても、彼女がキリストの他のいかなる弟子よりも良く教えを受けていた信仰者であったようには見受けられない。そして、彼女には、自分の《息子》が与えた霊的な教えによって、何らかの異常な進歩をしていことを窺わせるものは何1つないのである。

 しかし、このことは確かである。マリヤが何を見いだしていたにせよ、あなたや私はそれを見いだすことができる。――自然にではなく、霊的にそうできる。あなたは私がそう云うことを怪訝に思うだろうか? それを証明する聖句がある。「主の秘密はご自身を恐れる者とともにあり、主はご自身の契約を彼らにお知らせになる」[詩25:14 <英欽定訳>]。また私は、《主人》がこう云われたときのことばをも覚えている。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」[ヨハ15:15]。しかり、この秘密の《天来の啓示者》は、ほむべきしかたで、ご自分の心の中にあることを私たちに告げてくださる。そのため、私たちにとって有益なことは何も包み隠さず、ご自分の弟子たちに対して云われたように私たちにもこう仰せになることができるのである。「もしそうでなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう」[ヨハ14:2 <英欽定訳>]。キリストは、ご自分の選びの民に対して何事も包み隠すことをなさらない。真の聖徒とキリストとの間には、何の隠し事もない。私たちは私たちの心を主の心の中に注ぎ出し、主はご自分のみ心を私たちの心に注ぎ出してくださる。主はこの日、ご自分を、世に対しては現わさないようなしかたで[ヨハ14:22]私たちに現わしておられないだろうか。主がそうしておられることを、あなたは知っている。それゆえ、あなたは、この女のように、「あなたを産んだ腹は幸いです」、と無知な叫びを発することはないであろう。むしろ、あなたは聡明なしかたで神をほめたたえるであろう。みことばを聞き、それを守ってきたあなたは、まず第一に、処女マリヤと同じくらい真実な交わりをこの《救い主》との間に有しており、第二のこととして、彼女が得ていたと考えられるのと同じくらい真実に主のみ心の秘密をわきまえ知ることができているのである。

 III. さらに、ことによると、ずっと普通にこう述べられるかもしれない。「私はキリストの母親であればどんなに良かったことか。そうすれば《私は主の世話をし、主の必要を支えることができたであろう》。主が弱いときに主を見守り、主を休ませ、主が初めて口を利いたときの喃語を聞くことができたであろう。おゝ、私が天国に云ったときに、こう云えたとしたら、それは大した事であろう。今やあらゆる主権や力を越えて高く上げられているあの《お方》を私が世話したのだ。私がその幼い頃の泣き声を聞き、その必要を満たしてさしあげたのだ、と」。

 よろしい。それは大したことであろう。だが、あなたに云わせてほしい。愛する方々。あなたはそうすることができる。――神のあらゆる子どもはそうできるはずである。キリストは今も地上におられる。――肉体的なそのおからだにおいてではないが、その神秘的なおからだにおいておられる。そして、あなたは今もその神秘的なおからだの世話をすることができる。私たち、神に仕える教役者たちは、神の《教会》の世話をする父親たちではないだろうか? そして、あなたは、あなたがた各人は、それぞれの場にあって、無知な者を教え、さまよう者を導き、うなだれている者を慰めているとき、苦しんでいる《救い主》の哀れな叫び声を聞いているのであり、あなたは、あなたの慰謝という乳房で、主のいまだ幼い《教会》の必要を満たしているのである。ことによると、キリストの神秘的なからだの世話をする栄誉を得ることは、主の肉体的なからだの面倒を見ることよりも良く、はるかに高貴なことかもしれない。なぜなら、ここにはずっと広大な範囲があるからである。主が必要としておられたのは、ほんの一杯の水であった。もし私たちにパン一切れと水一滴しかなくとも、《救い主》は時としてそれをお求めになった。だが、今や主の大いなるからだは、日本から米国まで引き延ばされている。――主の大いなるからだは、この世界のあらゆる部分で見いだされる。――主の大いなるからだは、向こうの病んだ人々のうちに、向こうの貧乏に苦しんでいる人々のうちに見いだされる。そのからだは、莫大に多くのものを必要としており、それゆえ、あなたは、自分の財産の中からより多くのものを与えることができる。しかり、あなたの全力をささげることができる。主を養い、主の霊的な欠けを満たすためにそうできる。ならば、処女マリヤがこの点でいかなる誉れを得ていたにせよ、キリストのきよいおとめたちは、望みさえすれば、キリストの《教会》に今も仕えることができ、自分たちの心の財産をもってそれに奉仕することができるのである。

   「イェスよ、貧しき きわみの人よ、
    悲しみの人、嘆きの御子よ!
    いかに幸なる、その豊富(ゆたか)より
    汝れが必要(もとめ)に 仕えし人は。

   「イェスよ、よし汝が かしらは高く
    王冠(かむり)いただき 上げらるれども、
    汝がからだにて 汝れは現われ
    窮乏(とぼし)き果てに 沈みおりたり。

   「汝れが病めるを 養う者は
    《汝がために》こそ 饗宴(ふるまい)につき
    裸の聖徒(たみ)に 着(まと)わす者は
    《汝が》腰に締む、晴れ着を受けん」。

 IV. 他の人々がこのことを別の見方で眺めることも、ごくありがちであろう。彼らは云ってきた。「主を産んだ腹、主が吸った乳房は幸いです。というのも、もし私たちが主の母親になる定めであったとしたら、私たちは《主が私たちの叫びをすぐに聞いてくださる》と信ずるからです」。息子は確かに自分の母親の祈りに抵抗できないに違いありません。また、母親が、「息子や、私を助けておくれ。私は罪深い者。お前を信ずるから、私を助けておくれ」、と云うとき、また、彼女が自分のはらんだ息子に向かって、「助けておくれ。私の罪を拭っておくれ」、と叫び求めるとき、何と、確かにイエスは心にとめて、進んで耳を傾け、こう云われるでしょう。「母よ。あなたの罪は赦されました」、と。

 しかし、愛する方々。それは私たちの幻想でしかない。というのも、キリストは、ご自分の母親を救うのと全く同じくらい喜んでこの場所にいるいかなる罪人をも救おうとしておられるからである。というのも、ある罪人が目に涙を浮かべて、こう叫んでいる姿を見ることは、主の最大の喜びだからである。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]。もし私に、あなたを赦す権威があったとしたら、あなたもいかに私が快くそうするかは分かっていると思う。おゝ、私があなたの心を打ち砕き、それを再び包むことができたとしたら、神もご存知の通り、私は今晩そうせずにすますことはないであろう。では、あなたは、私の主であり《主人》であるお方が、私よりも愛に乏しいとでも思うだろうか? あなたは、もし主が今晩ここにおられたとしたら、また、もしあなたが主の母親であったとしたら、主が確かにあなたの叫びを聞いて、あなたに答えてくださるだろうと感じている。だが、イエス・キリストはあるとき、こう云われたのである。群衆が群がっているのを主がご覧になっていたとき、ある者がこう叫んだ。「あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています」。――主は何と仰せになっただろうか? 「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか」。そして、主は手を弟子たちの方に差し伸べて云われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」[マタ12:47-50]。そして、あなたは、もしあなたの信頼を主イエス・キリストに置いているとしたら、主の母親に劣る者にはならない。しかり。こう云っても良いではないだろうか? あなたは主の母親に優先しさえする、と。キリストは説教しておられた。そこに人々が来て云った。「あなたのお母さんが来ておられますよ」。主は話をやめて母上に気を遣っただろうか? 否。むしろ、主はまず弟子たちを養おうとされた。まず彼らに教えようとされた。そのように、罪人よ。あなたは《救い主》の母親に次ぐ者とはならない。いま主に叫びさえすれば良い。おゝ、聖霊があなたに、あなたの失われた状態を示し、あなたの必要をあなたに啓示し、悔悟の叫びをあなたの口に授けてくださったらどんなに良いことか。というのも、あなたが、「イエスよ。私をあわれみ、私をお救いください」、と叫ぶことができるとき、あなたはこの上もなく大きな信頼とともに主に向かって叫ぶことができるからである。なぜなら、――

   「主に能力(ちから)あり、望み給う。
    さらば疑い、去れよかし」。

あなたは、多くの叫びで主の心を動かそうとする必要はない。主の心はすでに動かされている。主は人の子らを愛しておられる。彼らを喜んでおられる[箴8:31]。あなたが主にささげることのできる最大の奉仕は、主にあなたを救わせることである。言葉に尽くすことのできない、満ち満ちて豊かな主の同情へと、わが身を引き渡すがいい。あなたの一切の空虚さとともに、そうするがいい。ここにある思想は、一部の人々に押し迫ってはいないだろうか。――私は今それを天然磁石のように掲げている。――この場には、これに引き寄せられる何の金属もないだろうか? ご自分の民に対する、また、ご自分を求めるあわれな罪人たちに対するキリストの愛は、主がご自分の母親に対していだかれたことのあるいかなる愛にも劣らぬくらい大きく、それをすら越えて大きい。あなたは大胆に主のもとに来ることができる。これまであなたが主の御顔を一度も求めたことがなくとも関係ない。

 V. さらに、思うにある人々は、もし自分が主の母親であったとしたら、《自分たちは、より容易に主のもとに行くことができる》と考えてきた。

 「自分の知っている相手に語りかけることはごく容易です。私たちは、キリストの母親とキリストの間柄くらい親密な誰かに自分たちの必要を告げることは全く怖くありません」。だが、思い出してほしいのは、神の御子としてのキリストは、マリヤの《子》ではなかったということである。《天来の救い主》であるキリストは、私たちに対してと同じくらい、マリヤに対して身近にはおられなかった。彼女の胎内でみごもられたキリストは、あるいは、彼女の乳房を吸ったキリストは、単に人なるキリストでしかなかった。それゆえ、その天来のご人格におけるキリストは、私たちを越えたお方であるのと同じくらい、彼女を越えたお方であった。それから、キリストは、確かにその母親の肉体から生まれはしたが、私たちの肉体から生まれてもおられた。というのも、主は私たちの骨からの骨、私たちの肉からの肉――私たちと同じような人だからである。もし主が御使いであったとしたら、異なる種族の存在として、私たちは主のもとに行くのを恐れたかもしれない。だが主は人であられる。人としての情緒、人の心、人の同情、人の愛を有しておられる。それで私たちは主のもとに行くことを恐れる必要はない。主は私たちから生まれたのではないが、私たちのひとりであられる。私たちは主の母親ではないが、それでも、主の兄弟である。それで、大胆に主のもとに行こうではないか。罪人よ。あなたには、マリヤが有していたのと全く同じくらい主のもとに行く権利がある。彼女には、恵みが彼女に与えたもの以外何もなかった。あなたも同じものを有している。キリストは、ご自分のもとに来た罪人をひとりでも投げ捨てたことがあっただろうか? 否。キリストはご自分のもとに導かれた者をひとりでもはねつけたことがあっただろうか? ひとりの女が姦淫の現場で捕まった。そして彼女は自ら進んでではなく、人々によって主のもとに連れて来られた。「確かにキリストはこの女を罪に定めるであろう」、と彼らは考えていた。その結果はどうだろうか? 彼女の敵たち全員を追い払った後で、主は彼女に云われたのである。「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」[ヨハ8:11]。そして、もしあなたの疑いとおののきと恐れがあなたを主のもとに導くとしても、主はそのようにあなたに仰せになるであろう。主が魂を1つでも投げ捨てるときには、他の魂も主のもとに来ることを恐れてかまわない。だが、私のほむべき《主人》が両腕を広げて立っておられ、いかに汚れた、いかに邪悪な、いかにあわれな者をも受け入れて、ご自分の愛を満足させようとしておられる限りは、私は切に願う。恥辱によっても恐れによっても尻込みしていてはならない。あなたが主の母親であり、主があなたの《子ども》であるのと同じくらい、主のもとに来るがいい。というのも、主はあなたに来るよう招いておられ、こう云っておられるからである。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。涙をためた目で、主はご自分のもとに来るようあなたに懇願しておられる。そして、もしあなたがそうしようとしなければ、主はご自分の心を注ぎ出してこう泣かれるしかないのである。「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった!」[マタ23:37]

 VI. ことによると、もしこのことをよくよく考えるならば、あなたはさらに多くの美しい事がらを見てとることであろう。確かに、本日の聖句に含まれているものほど慰めに満ちた話題はないと思う。《イエスの処女母に属していたのと同一の祝福が、神のことばを聞き、それを守るあらゆる魂に属しているのである》

 さて、あなたはそれを聞いている。それを、あなたの内なる耳で聞いているだろうか? 心の耳で聞いているだろうか? また、それを聞くとき、自分の記憶の中に保存しているだろうか? 自分の信仰の中に留めているだろうか? 自分の服従によって守っているだろうか? また、日々その真実さを証ししているだろうか? もしそうだとしたら、こうしたすべての祝福はあなたのものである。また、いま目を覚まさせられ、罪の確信を得て、おののいている罪人ひとりひとりにこう云わせてほしい。こうした祝福はみな、あなたが神のことばを聞いて、今晩それを守るなら、あなたのものとなるのである。ここに、あなたに守ってほしい神のことばが1つか2つある。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18]。あなたはやって来て、神と論じ合い、この件について語り合わないだろうか? あなたはこのみことばを聞いた。ぜひそれを守ってほしいと思う。すなわち、それに従ってほしい。ここに、みことばからのもう1つの使信がある。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。あなたはそれを聞いた。それを守るがいい。信ずるがいい。あなたが罪人でも、主はあなたを救うために来られた。そのことに安んじ、静まるがいい。ここにもう1つある。そして、それを聞くときには、ぜひそれを守ってほしい。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。あなたはそれを聞いた。今それを守るがいい。信ずるとは信頼することである。キリストに信頼するがいい。願わくは神が、あなたがその扉から出て行く前に、無理にでもそうさせてくださるように。キリストの約束の上に、ばったりとうつ伏せに倒れるがいい。あなた自身の義について云えば、犬にでもくれてやるがいい! 何の祈りも、涙も、誓いも、吐息も、あなたから出たものはみな、この件については無力である。イエス・キリストにいま全く信頼するがいい。そうするとき、もしあなたがそのみことばを聞いて、このようにそれを守るなら、行くがいい。そうすれば、サタンがいくら好き勝手なことを云おうと、肉がいくら騒ぎ立てようと、キリストはあなたを祝福しておられ、あなたは幸いな者となっているのである。あなたがいかに罪人であっても、主はあなたにこう云っておられる。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」。あなたや私が天国に至るとき、私たちがそれを見いだすように! 私たちがそこで歓喜し、マリヤがこう云ったときにそうしたのと同じくらい大きな声で歌を歌うように。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」[ルカ1:46-48]。――というのも、《救い主》を求めて見いだした者は、どの時代の人々からも幸せ者と思われるだろうからである。おゝ、愛する方々。天国においてすら、マリヤのこの歌は私たち全員にとって甘やかな歌となるであろう。願わくは私たちがそれを地上で歌い始め、キリストがその賛美をお受けになるように。アーメン。

 

真の血筋[了]

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