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地上で神のいつくしみを見る

NO. 3017

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1906年12月6日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年8月1日、木曜日夜


「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。――」。――詩27:13


 先週の安息日の夜、私たちは、神の非常に大きないつくしみに恵まれた。そのとき考察したのは、信仰者の生活を導く恵みの規則、すなわち、信仰者は、信じるために見るのではなく、見えるために信じる者となっているということであった。「ああ、私に……見ることが信じられなかったなら」、と詩篇作者は云う。「私は衰え果てていたことでしょう」<英欽定訳>、と。そのように、私たちも、真の清新さを知り、主の数々の慰めを享受したければ、また、疑いで一杯になったり、恐れで心をかき乱されたりしたくなければ、ぜひとも1つの聖なる技術を習得しなくてはならない。それは、たとい見ていなくとも信じるという技術、否、自分が見ているものにもかかわらず信じる技術、あるいは、見えるために信ずる技術である。自分の信仰が単純で真実なものでありさえすれば、その光景が間違いなく到来とすると完全に期待しながらそうすることである。

 あなたがたの中でも、先週の安息日の夜、この場に出席していた人々は、私が、大部分の時間をかけて、私たちの救いという1つの問題に限って話をしていたことを思い出すであろう。私は求道者たちにこう示そうとしていた。すなわち、最初にあれこれの救いの証拠を眺めてからキリストを信じるのではなく、そうした種々の証拠を獲得するためにこそキリストを信じるべきである、と。――すなわち、自分たちの悔い改めに目を向け、それからキリストを信頼するのではなく、悔い改めは、彼らがキリストを信頼することから出じるべきである。――つまり、「私たちは完全に聖くされていません、ですから、自分は救われていないのではないかと心配なのです」、と云う代わりに、こう思い出すべきであった。すなわち、恵みにより信仰を通して彼らが救われているという確証こそ、彼らの思いと心にとって、原動力となるものであって、その力によってこそ、大きな聖化を獲得できるのである。聖化は、彼らが律法的な奴隷状態にとどまっている限りは、また、「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]ているかどうかあやふやである限りは、彼らのものにはならない。一部の人々は、先週の安息日の夜に自由にされた。もう何年も真実に主を知ってはいたが、自分がキリストを信頼したと、そして、それゆえ、自分が救われていると、はっきり云うのを恐れていた人々である。願わくは、私たちがみな、単にキリストのもとに来るだけでなく、単純な、子どものような信仰を働かせることができるように。それは、神のことばを、このほむべき《書》に書いてある通りにそのまま受けとり、信じ、受け入れ、それによって生き、それについて何の反問もせず、他の者たちにも何1つ反問を許さないような信仰である。

 このたび私が提案したいのは、本日の聖句の一般的な原則を具体的に適用することである。ダビデは、多くの苦難をかかえた人物であった。特にその後半生においては、ひっきりなしに厳しい試練の中にあった。それで彼は云うのである。自分がこうした数多くの苦難の下で「衰え果て」ずにいられたのは、ひとえに、こうした特別の苦難の領域である地において、「主のいつくしみを」、自分のこの格別なおどろの中に「見ることが信じられ」たからにほかならない、と。ダビデは、彼方の栄光の国においてのみならず、地上のこの国においても、主のいつくしみが見られると信じていた。単に、自分がその厳しい試練の中から出て来たときだけでなく、その中にいる間も、主のいつくしみを見られると信じていた。寄留者また旅人として彼は、自分の巡礼の間に主のいつくしみを見ると信じていた。常にそれを見ていたわけではないが、それを見るのだと信じていた。彼はそれを信じ、それを予期していた。そして、それを信じることによって、実際に、心の目でそれを見るようになり、それを喜ぶようになった。

 私たちはみな、この世が信仰にとっては実にぞっとしない土地であることを知っている。これまでの様々な経験から、私たちはみなこの宣告に同意するに違いない。この地は、多かれ少なかれ、涙の谷であって、その汚れのために私たちの安息ではない、と。私たちが心地よく宿るためには、この巣にはあまりにも多くの茨がある。この世界は呪いの下にあるため、今なお茨とあざみを生じさせている。私たちは顔に汗を流して糧を得、ついには土に帰る。私たちが最初にそこから取られた大地へとである[創3:17-19参照]。この世が真に私たちの故郷だとしたら、それは私たちにとってすさまじい運命となるであろう。もし私たちがこの巨大な犯罪者植民地で常に生きることになっているとしたら、それを知ることは実に悲しいことであろう。私たちがいつまでも住んでいなくてはならない場所には呪いの影が絶えず垂れ込めており、その下で私たちの支えとなるものはただ十字架の影しかないのである。しかし、信仰は、このぞっとしない土地に入り込み、そこにおいてさえ主のいつくしみを見ることになると信じる。信仰は、地上で荒れ狂う最も熾烈な戦いに突入していく。主のあわれみと真実との御旗が、そこにおいてさえ翻るのを見ることになると信じ切っているからである。信仰は、地上での骨折り仕事に伴う労苦と焼けるような暑さとを辛抱し、そうしたすべての下にある主の恵み深さを経験することを期待する。信仰は、かの大水の彼方の土地においては、より明らかに自分の神を目の当たりにすると知っている。だが、それでも、この生ける者の地でさえ、主のいつくしみを見ることを信じている。そこが種々の悲しみや煩悶、試練や患難で非常に乱され、騒ぎ立っているとしても関係ない。

 私があなたに示したいのは、第一に、信仰が、この地上における神のいつくしみをゆるぎなく確信しているということである。第二に、信仰が、この地上で明確にそのいつくしみを見ることを期待しているということである。そして、第三に、この期待と信じる心こそ、試練を受けつつある信仰者の魂を支えるものである

 I. まず第一に、《信仰は、今の状態のままにおいても、主のいつくしみをゆるぎなく確信している》

 信仰がこのことを確信しているのは、神ご自身についてそれが知っていることのためである。信仰は、神がいつくしみ深いお方以外の何者かでありうるなどとは、信じようとしても信じられない。信仰は、神のことばに記された約束を読み、それらがみな真実で信頼の置けるものだと信じる。信仰は、そのいずれにも不親切なもの、狭量なものをかぎつけることができない。それらはみな、この上もなく穏やかで、優しくて、きわめて慰めに満ちた言葉で表現されている。用いられている言葉遣いは、まさに自分の場合に当てはめるために選ばれ、自分の悲しんでいる心にうってつけの甘やかな約束をするために選ばれたもののように思われる。信仰は、神が不親切でありえないことは確実だと感じる。詩篇作者とともに、信仰は叫ぶ。「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い」[詩73:1]。確かに信仰は、やはり詩篇作者のように、後にはこう記さざるをえないかもしれない。「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった」[詩73:2]。だが、自分の最初の宣言を堅く守り続ける。「まことに神は、イスラエルに……いつくしみ深い」。周囲の状況が、いかにそれとは全く逆のように見えようとも関係ない。信仰は知っているのである。その神聖なご性質ゆえに、神が必然的にご自分の民に対して、地上でも来世でも、いつくしみ深くあられるに違いない、と。

 信仰は、聖書に目を向け、主の民の歴史を読むとき、神が彼らにいつくしみ深くあられたことを見てとる。そして、神が、「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」[ヘブ13:8]であられることを知っている以上、この心励ます断定を下す。神は自分に対してもいつくしみ深くあられるのだ、と。古の時代の聖徒の忍んだ試練や困難が、常に彼らの永続的な益を作り出したことを明確に見てとることできるために、信仰は一点の疑いの影もなしに確信するのである。自分の数々の試練や困難も、彼らを配慮された、同じ愛に満ちた主によって転じられて、自分の永続的な益を作り出すのだ。また、神は、古の時代にその聖徒たちを祝福されたのと同じように、いま自分を祝福してくださるのだ、と。

 ことによると、あなたがたの中のある人々は、信仰はあっても、もしかすると、考えが足りないために、この特定の点についてはそれを発揮していないかもしれない。もしもあなたが、とかく神に対してつぶやきがちだとすると、あなたはしばしば、自分でも耳にしたり、目にしたりしたくないような言葉遣いで、あれこれの考えを思いに上せているのであろう。かりに誰かがあなたに向かって、こう云うとする。「神は、あなたに対して非常に不親切ですね。確かにあなたは、自分の人生の中に明らかに示された神のいつくしみなど全く見てとれないに違いありません」。あなたは、たちまちそのような中傷者に向き直り、そのように不正な非難に対して自分の神のご性格を弁護しようとするであろう。あなたは、自分の霊の中ではしばしば主に向かってつぶやいても、内心感じていることを他人が言葉にして云うと、自分のつぶやきのよこしまさが分かるであろう。また、自分の魂の奥底には、自分に対する神のいつくしみについて堅い確信があることをも見てとるであろう。あなたに必要なのは、その聖なる火をかき立てて、燃え上がらせること、そして、その暖かさによって慰めを得られるようにすることである。というのも、神が、ご自分の子どもたち全員に対して、今いつくしみ深くあられ、常にいつくしみ深くあられ、可能な限り最高の程度においていつくしみ深くあられることは真実であり、真実に違いないからである。それは、彼らが最悪の災厄の中にあるときも、最暗黒の悲しみの時期にあるときも変わらない。

 しかし、人生の中には、信仰にとって主のいつくしみを信ずることが真に試練となるような状況がいくつかある。例えば、長く続く極度の貧困である。神のえり抜きの聖徒たちの何人かは、その貧しさのあまり、単に贅沢品を欠いているばかりでなく、生活必需品にさえ事欠いている。通常、――もしかすると例外なしに、――神はご自分の民にパンと水をお与えになる。だが、時としてそのパンは非常に小さな割り前でしかなく、その一杯の水はごく少量でしかないことがある。私の知っている、神の子どものひとりは、私にこう云ったことがある。「私はずっと貧困と戦ってきました。最初はこの仕事をし、次にあの仕事をしましたが、何をしても失敗でした。私の小さな船は、順境という港に入ろうと何度も試みましたが、残酷な風が常にそれを逆境という荒波へと追い戻してきました。もし私が浪費家だったとしたら、――もし私が順境の日に金遣いが荒かったとしたら、――あるいは、もし私が自分の財産を神の国の進展のために用いてこなかったとしたら、――私が失敗続きなのも理解できたでしょう。もし神がもう一度私に裕福な資産を預けてくださるなら、かつてしていたように、御国の進展のために喜んで献金するでしょう。ですが、悲しいかな! 私には、日常の必要品を調達すると何も手元に残っていないのです」。《不信仰》は尋ねるであろう。「これが主のいつくしみだなんてことがありえるだろうか?」 だが、《信仰》は答える。「しかり。これはいつくしみであり、いつくしみに違いない。私がこの貧困の中でも衰え果てずにいるのは、――絶望の中で音をあげずにいるのは、――私のあらゆる試練や艱苦の下にあっても、私に対する神のいつくしみを確信しているからなのだ。たとい私が飢え死にするようなことさえあったとしても、神はそれでも私の瀕死の口によってほめたたえられよう。たとい神が私を餓死させるとしても、それは正しいことに違いないし、神はいつくしみ深くあられるに違いない」。

 神の子どもたちの中の他の者らが受ける試練は、絶えざる病からやって来る。そして、ある形の患いは、あまりにも辛く苦しいものであるため、私たちはともすると、なぜ自分がそのような目に遭わなくてはならないのかと自問してしまう。私は今朝、キリストにあるひとりの老いた姉妹と話をした。彼女は、何年も前にある事故に遭い、頭に大怪我をしたため、二日に一度は、ほとんど耐えられないほどの苦痛を感じるという。彼女は決して神の家に集うことができない。説教者の声音や、会衆の歌声が、彼女には全く我慢できないからである。優しく柔らかに私たちが神のみこころのことについて話をしていたとき、彼女は詩篇119:75を引用した。「主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています」。かりに誰かがこう尋ねたとしよう。「主の家をこれほど心から愛している人を、また、主の儀式をこれほど尊んでいる人をそこから遠ざけておき、これほどの激しい病を送りつけることが、主のいつくしみだなどということがありえるだろうか?」――私たちは、こう答えなくてはならない。「しかり。それは正しいことに違いない。私たちは、なぜ神のいつくしみがこのような現われ方をするのか見てとれないが、それがいつくしみであると信じるべきなのだ」、と。私が語りかけている人々の中には、ことのほか辛く苦しい疾患を病んでいる人々がいるかもしれない。その疾患のため、あなたは自分の愛する働きを行なうことができず、長いこと幸いに、また用いられるしかたで携わってきた奉仕の場に就けないでいるかもしれない。よろしい。愛する方々。そのような場合、あなたは、そのようにあなたの人生を、病と大儀さと苦痛の人生とすることにおいても、生ける者の地で主のいつくしみを見ることを信じなくてはならない。

 同じ規則は、私たちが愛する者を喪う場合にも当てはまる。この件における摂理の配剤は、何と謎めいていることか! 私たちにとってかけがえのない多くの人々が私たちのもとから連れ去られて行く一方で、まるで役立たずとしか思えない他の者たちが生き長らえている。死は、毒草を保っておき、樫の木や杉の木を切り倒すかのように見える。ただ土地をふさいでいるような人間がいると、その人はしばしば生き残ることを許されるというのに、キリストの《教会》の柱のような他の人々は取り去られてしまう。私の知っている、ある小さな村には、ほんの数人の貧しい住民と、ひとりの富裕な人しか住んでいなかった。この人を私は非常に尊敬していた。その村の牧師の乏しい給料のうち、私の友人は、その九割とまでは云わなくとも、四分の三を負担していた。先週私は、彼が重病にかかって高熱に苦しんでいることを知り、他の友人たちとともに、彼がいのちをとりとめるように熱心に祈りをささげた。この村の教会のためには、彼が少なくとももう少し長く地上にとどまっていることが不可欠と思われたのである。しかし、主は彼をご自分のみもとに連れ去ってしまわれた。私たちには何が云えるだろうか? 神がなされたことに難癖をつけ始めてはならない。むしろ、こう申し上げなくてはならない。「あなたがなさることは何であれ正しいと私たちは確信しています。それが、誤っているはずがありません。不親切であるはずがありません。それは、起こりうることの中でも最も親切なことに違いありません。もし私たちがあなたの知っておられることを知ることができたとしたら、起こるのを願っていただろう、まさにそのことに違いありません。また、あなたの無謬のさばきを支配しているのと同じ原理で、私たちの意見を立てることができたとしたら、私たちもそう願っただろう、まさにそのことに違いありません」。

 私たちは時として、天来の摂理のはからいのうち、ある部分をほんの少し変更したいものだと空想することがある。絶えず回転しているその巨大な歯車に干渉しようとは思わないが、ほんのそこここで、――その小さな歯の1つ2つが、私たちの個人的な利害に触れている部分で、――それが私たちをそっとしておいてくれるようにしたいと思う。だが、この巨大な歯車は、――私たちが時たま想像するところ、――容赦なく回り続け、私たちの種々の慰めはもぎ取られ、私たちの喜びは粉砕される。ならば、どうだというのか? 何と、それでも云おうではないか。「私たちの願いではなく、みこころのとおりにしてください」*[ルカ22:42]、と。そして、えり抜きの贈り物を私たちに賜る御手と同じように、鞭をふるう御手にも口づけしようではないか。私がこのことを口にするのは、向こうのあわれな寡婦がそれを実行することよりもはるかにたやすい。私がそう云うことは、そこの泣いている母親が――自分の子どもたち全員を沈黙の墓場へと見送ってきた母親が――そうするよりもたやすい。しかし、私たちの姉妹たち、私の兄弟たち。もしそれが、あなたにとってずっと困難だとしたら、その分だけ熱心に私はあなたがそう云うよう促すであろう。というのも、服従することが困難であればこそ、そうするときには、あなたの神に対するあなたの信頼が真摯なものであると証明され、より大きな栄光が神にもたらされるからである。だから、自分の友人たちを、また、親族を墓場に送るときにも、また、この愛しいちりを土にゆだねるときにも、なおも、その場においてさえ主のいつくしみを見ることを信じようではないか。もしもそうした光に照らして自分の悲しみを眺めないとしたら、私たちは度重なる喪失や死別の下で衰え果ててしまうであろう。だが、もしもそうした光で物事を眺めるなら、私たちは、世を去った最愛の者たちのからだを覆う墓場さえ、栄光で黄金色に輝いているのを見てとるであろう。そして、私たちに対する主のいつくしみを完全に確信して喜ぶであろう。私たちのもとを去って、「いつまでも主とともにいる」[Iテサ4:17]ことになった者たちに対するいつくしみについては、なおさらである。

 ことによると、それとは別の問題が、あなたがたの中のある人々を大いに悩ましているかもしれない。すなわち、あなたの数々のの祈りがかなえられないということである。あなたは、何人かの人々のために長いこと祈ってきた。だが、これまでのところ、あなたの嘆願への答えを全く受けとっていない。ここにいるひとりの兄弟は、長年、自分の細君の回心のために祈っているが、彼女はまだ回心していないままである。もし不信仰に屈するなら、この人は多くの難問に答えざるをえなくなる。神は、「求めなさい。そうすれば受けるのです」[ヨハ16:24]、と云われた。あなたは、明らかに神の栄光のためになることを求めてきた。だが、それを受け取っていない。そして、これは時として、真剣に嘆願する者をよろめかす打撃となるものである。あなたがたの中のある人々は、私と同じように、友人のいのちのために祈ってきた。あるいは、何か他の願いがかなえられるように神に求めてきた。だが、神はそれをお授けにならなかった。私の信ずるところ、この場には、かなえられない祈りを十年も十二年もかかえてきた兄弟がいるであろう。私の知っているある場合など、信仰者たちが三十年も祈り続けていながら、求めてきたものを獲得できずにいることがある。そして、彼らの中のある人々は、古の立派な人々のように、「信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが」[ヘブ11:13]。こうした人々は、自分の子どもたちがひとりとして回心するのを見ることなく世を去った。むしろ、その子たちが、彼らの祈りを通して回心し、救われたのは、両親たちがその墓に眠ってから長いこと経ってからであった。

 かなえられない祈りの場合、そこには常に、神がご自分の約束に対して真実ではないのだと信じさせようとする誘惑がある。このように苦い不信仰の一飲みは、あなたが贖いのふたの前で上首尾を収められずに感じる悲しみをいや増し加えるものとなる。こうした時こそ、もしも衰え果てたくなければ、今この地上においてさえ主のいつくしみを見ると信じなくてはならない。あなたは、いずれにせよ、神のみこころがなされなくてはならないと感じなくてはならない。なおも祈り続けなくてはならない。というのも、あなたは神のみこころが何かを知ってはいないからである。だが、あなたは、あなたの《救い主》がゲツセマネの園で示された完璧な模範に従って、忍従をもって祈らなくてはならない。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」[マタ26:39]。そうした光に照らして自分のかなえられない祈りを眺めることができるとしたら、あなたは慰めを受け、助けられるであろう。

 そして、愛する兄弟たち。時として、あなたに重くのしかかるもう1つのことがある。すなわち、信仰者が時たま神との交わりにおいて味わうことのある孤独感である。時として、私たちは暗黒の中に取り残される。あなたはどうか知らないが、私は自分がそうした状況に陥ってきたことを知っている。日も、月も、星々も見えず、この悲しい心を励ましてくれるような、私の《主人》からの眼差し1つ、あるいは、この霊を喜ばせてくれる御口のことば1つ得ることができない状況である。そうしたとき、私たちはこの古代の使信を思い出さなくてはならない。「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」[イザ50:10]。たとい見ることができなくとも、見ることを信じなくてはならない。また、たとい心が石のように感じられても、なおもキリストがあなたのいのちであると信じるがいい。そして、たとい聖なる瞑想の代わりに、あなたの魂が冒涜的な誘惑や邪念で苛まれているとしても、なおも、乗るにせよ反るにせよ、イエスをしっかりつかんでいるがいい。たとい、救いの明確な証拠の代わりに、半ば主が自分を見放し、見捨ててしまったのではないかと恐れるとしても、また、たとい不信仰な心持ちに陥ってしまっているとしても、もう一度、あの血で満たされた泉のもとに行くがいい。そして、この罪が、他の一切の罪と同じように洗いきよめられるようにするがいい。キリストを信頼するがいい。「敵が激しい流れのように来るときには」、いやが上にもそうするがいい。というのも、そのとき、「主の御霊は彼に向かって旗を掲げる」[イザ59:19 <英欽定訳>]からである。よほど奇妙なキリスト者でもない限り、魂の中に荒れ狂う争闘を感じないようなことはない。もしそれが真のキリスト者経験だとしたら、私はそれを得たいものだと思う。――常に平安で、安息にしており、二度と再び罪や疑いや恐れと格闘しなくとも良いのである。しかし、愛する方々。たとい私たちがそうした立場に達することができないとしても、――そして、私たちの中のほとんどの者はそうできないと私は信じるが、――なおも信仰によって歩もうではないか。というのも、そのようにして私たちは、自分の内なる霊的争闘によって落胆しているときでさえ、勝利をもって歩くことになるからである。

 もう1つの点にだけ言及して、この主題のこの部分をしめくくることにしよう。多くの信仰者が耐え忍ばなくてはならない最も激しい試練は、キリストの《教会》に関わる苦難から生じる。敬虔な人々を何にもまして悲嘆させるのは、キリストの《教会》の何らかの部分が生き生きと成長していないときである。――教会員の間で云い争いが起こるとき、ある兄弟あるいは姉妹が別の兄弟あるいは姉妹をねたんでいるとき、また、そうした裂け目を修繕しようとする私たちの一切の試みがそれを悪化させるだけとなるときである。あなたがたの中のある人々にとって、非常に辛く厳しいことは、主の日に、あなたの徳を建て上げもせず、逆に激怒させるような教役者の話を聞きに行かなくてはならない場合に違いない。あるいは、私の知っている一部の人々のように、何らかの教会集会に出席しても、それが恵みの手段でも何でもないことが分かる場合に違いない。あるいは、その日常のふるまいや生活から、あなたを前進させ、引き上げる代わりに、この世の人と同じくらいあなたに害を及ぼすような信仰告白者たちと会わなくてはならない場合に違いない。見るも悲しいのは、神に仕える教役者がただのひとりでも眠り込んでいる姿、また、信仰を告白する他のキリスト者たちが無頓着で世俗的にしている姿、また、《教会》という船全体が、かの《老水夫》*1によってこう描写された船のようなものになっている姿である。――

   「絵師の描(か)きたる 船のごと、
    画海の上に 浮かびたり」。

だが、そこには何の動きも、何の前進もない。そして、その間、――

   「船底(ふなぞこ)の下 腐り果つ」。

すさまじいのは、こうした、身の毛もよだつ、死のような静穏さがある場合である。だが、そうした試練のただ中にある時でさえ、私たちは主のいつくしみを見ることを信じなくてはならない。《教会》の偉大な《かしら》が、《教会》のことを忘れてはおられないこと、また、《教会》の最暗黒の時期にさえ、その名をご自分の胸に帯びておられること、また、やがてあわれみをもって《教会》のもとに戻って来ては、そのあらゆる敵を投げ倒し、その崩れた城壁を修理し、その愛の旗をもう一度その城塞の上に翻してくださることを信じなくてはならない。

 II. さて、第二に、ごく手短に語りたいのは、《信仰は、単に主のいつくしみを信じるだけでなく、それをこの地上でさえ見ることを期待している》ということである。

 時として信仰は、それをたちどころに見てとる。神は、ご自分の民が地上で、ご自分の摂理的な取り扱いすべての理由を見てとると保証してはおられないが、時たま、それを見てとらせてくださる。多くの信仰者は、生きている間に、自分に対する主のいつくしみを見ることになった。バーナード・ギルピンの場合は、非常に明確であった。彼が火刑に処せられるためにロンドンに向かう途上、彼は足を骨折し、途中で停止しなくてはならなかった。彼は、それがみな最善のためだと云ったが、その通りであった。というのも、彼がロンドンに到着すると、鐘の音が鳴り響いていたからである。メアリー女王は逝去し、エリザベス女王が即位したのである。このため、彼は焼き殺されることなく、足の骨折によって命拾いしたのだった。私たちの中のある者らも、非常に奇妙な状況下で主のいつくしみが示されるのを見てきた。あのサリー公園音楽堂で起きた恐ろしい大惨事についてもそうであった。それが私たちにもたらさた一切の悲しみや苦しみにもかかわらず、いま振り返ってみると、いかに神がその惨事を用いて、みことばの宣教に公の注意を引き寄せてくださったかが見てとれる。そして、私はいささかの疑いもいだいていないが、そのとき失われたいのちの1つ1つについて、一千人もの魂がそれ以来、穴の中に下ることから救われたのである。だから、恐ろしい犯罪を恵み深くも善へと転じてくださった神の御名をたたえるがいい。あなたは、ほんの一日も待たないうちに、主のいつくしみをはっきりと見てとることになるかもしれない。だが、あなたはそれを見る前から信じなくてはならない。あなたが今それを信じることは、義務としなくてはならない。そうすれば、そのうちに、あなたがそれを見ることは、特権となるであろう。

 しかし、信仰は、必ずしも常に、地上ですぐに神のいつくしみを見るとは期待しない。信仰は、ここが霧と靄の国であることを知っており、自分の前の一歩でも見ることができれば喜ぶ。左様。そして、たとい自分の前の一歩すら見ることができなくとも全く満足している。信仰は、密雲とも思われるものの上にその足を踏み下ろすが、その下には堅い地面を見いだす。どこに行くことになるか見ることなく、信仰は次の一歩を踏み出す。神の真実さにより頼んでそうするが、やはり無事である。そのようにして信仰は、深い闇の中を進んで行きながら、おのれの先読みと抜け目なさにほくそえんでいる人々よりも大きな喜びを感じている。信仰は、夜がまだ明けきっていないことを知っている。影がいまだ逃げ散っていないからである。だがら、この定命の状態にある間は、見るところによってではなく、信仰によって歩む[IIコリ5:7]。

 また、信仰はこうも理解している。人には、たといより明瞭な光で照らされたとしても、現在のところは、神のいつくしみを明確に見てとれるだけの識別力を授けられていない、と。子どもは、いま有しているような知性によっては、父親が鞭を用いることのどこに知恵があるのか見てとれないであろう。たとい良く教えを置けた子どもであったとしても、それを見てとることはほとんどできないであろう。父親の方がずっと物をよく分かっている。父親はずっと人生を見てきており、その子が知らないことを知っており、その子が夢にも思わないことを予測している。いかにして、目の前の小さな水たまりしか見えない私が、大海をつかさどる主のなさり方を判断などできるだろうか? ここにいる私は、自分のおもちゃの小舟を池で走らせているにすぎない。では、果てしない大海原の深みを横ぎるレビヤタンの針路を神が定める際の航海規則を、私などが規定すべきだろうか? ここにいる私は、ひと時しか生きていない蜻蛉であり、わが家と呼ぶ小さな蟻塚の回りをうごめいている。では、時間と永遠とに関わる物事全般を神がいかにつかさどるかについて、私などが判断すべきだろうか? 愚かな高慢よ、身を低めるがいい。お前に何が分かろう? お前は、自分が愚か者であると知るときのみ賢いのだ。だが、お前は愚か者すぎて、そのことすら、神がそれと教えてくださらない限り知ることがないのだ。ならば、ひれ伏して、自分に理解できない場では信頼するがいい。

 信仰は、このことをも知っている。現在の自分には、人間に対する神の摂理的な取り扱いの計画と処置の全体を見てとることはできない、と。私たちは、一部分を見つめるだけでは、摂理の働きを公平に判断できない。ひとりの学生について、古い冗談がある。彼は、煉瓦を一個、市場に持って行っては、自分がどのような家を売ることになるか、人々に示そうとしたという。だが、煉瓦を一個眺めただけで、どうして一軒の家を正しく判断などできるだろうか? だが、それよりもずっと愚かなのは、ほんの一時の取り扱いによって、主のいつくしみについて判断しようとすることである。もしも、天狼星と昴の間を物差しで測ろうとする代わりに、神はその広大な距離をすでに一吋単位で測っておられるのだと信じ、そうした測定は、全宇宙を一挙にすくい上げることのできる全能の精神にゆだねるとしたら、私たちはいかにいやまさって賢いことをすることか! 神は初めから終結を見通しておられる。そして、時間という偉大な劇の幕が閉じるときには、主のいつくしみのみならず、主の光輝が見られるであろう。その絵の全体が1つの巨大な大絵巻として広げられるとき、そのときには私たちは、その比類なき美しさを見てとり、この《天来の芸術家》の無比の技量を嘆賞するはずである。しかし、地上では、私たちはただ、ほんの小さな陰影の一画か、ほんのわずかな色の一刷毛しか眺めておらず、それは粗くて、がさつに見える。永遠においては、私たちもその絵画の全体を見ることが許されるかもしれない。ならば、それまでの間は、堅く信じていようではないか。それを描いているお方は、自分がどうすべきかをご存知であり、みこころによりご計画に従ってすべてを定められるお方が、ご自分の造り出された、また、その存在を保っておられる被造物たちにとって最善のことを行なわずにいることはありえない、と。

 III. そこで最後に、《主のいつくしみをこのように実際的に信じる心には、人を素晴らしく支える力がある》

 ある人が、医者の手術台の上に横たわっており、その熟練した医者から深く切りつけられなくてはならないとする。なぜその人は、そのような手術を我慢するのだろうか? それが、自分の永続的な益となると信じているからである。その人は、その医者が不必要な苦痛はこれっぽっちも自分に感じさせないと信じている。それゆえ、おとなしく横たわって、一切のことを我慢するのである。しかし、私たちの中の誰かがそこにいたと想像してみるがいい。そして、その手術者が、益の代わりに害をもたらそうとしているのだと空想したとしてみるがいい。そのとき、私たちは反抗するであろう。だが、それがすべて良いことだという確信によって、私たちは雄々しくふるまい、辛抱強く苦痛を忍ぶことが助けられるのである。これこそ、神に対するあなたの姿勢であるべきである。愛する方よ。願わくは、主のいつくしみを信ずる心によって、主があなたに対して用いられる手術刀の鋭い切り傷にあなたが耐えることができるように!

 よほど大胆な人でなければ、最初に地面を耕して、何の悪いところもない黄金色の麦を大量に埋めることなどできなかったに違いない。だが、今では、わが国の農夫たちは、それを当然のように行なっている。彼らは穀物倉に行くと、非常に価値のあるものを取り出して、それを受け入れようと待ち構えている、死の塹壕を何筋も作っておいた所に持って行き、そこにそれをばらまく。それがそこに蒔かれて死なない限り、実が結ばれないと知っているからである。しかし、彼らはそこから実が生ずるのを見るはずだと信じている。あらゆる農夫は、自分の麦を蒔くとき、心の目の前に黄金の束を見ており、収穫祭の叫びが前もってその耳の中で鳴り響いている。それゆえ、彼は自分の大切な麦の蓄えと別れ、それも、朗らかに別れるのである。そのように、愛する方々。私たちの友人たちと別れようではないか。私たちの健康と別れ、私たちの種々の慰めと別れ、必要とあらばいのちそのものとも、このように信じつつ別れようではないか。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」[IIコリ4:17]。

 もうほんの一言つけ足させてほしい。この地上においてさえ主のいつくしみを見ることに、人をこれほど支える力があるとしたら、この世にまさる来世で主のいつくしみを見るという、いやまして気高い信仰からは、いかなるものが生じるに違いないだろうか? その至福を期待することによって私たちは、その翼の上に載り、この現世のあらゆる試練と苦難をはるかに越えて行けるであろう。だから、聖霊に懇願して、この天的な強壮剤を施していただこうではないか。それから、主の御力によって、からだと、魂と、霊をもって、私たちに可能な限りの高い程度まで、行って主に奉仕しようではないか。

 もしあなたがたの中の誰かが、これまで全く信じていなかったとしたら、この講話をしめくくるまえに、あなたに何が必要か告げさせてほしい。救いの道はこうである。――神のことばを信じるがいい。あなたの《造り主》が嘘をつけないことを信じるがいい。その御子を信頼するがいい。この方を神は、その方を信頼するすべての人の《救い主》とするためにお遣わしになっているのである。そして、神のみことばが宣言していることにより頼むがいい。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。もしあなたがキリストを信頼しているとしたら、たといあなたの救いについてひとかけらも他の証拠がなくとも、あなたはその証拠だけに立って、救われた魂なのである。自分を主にゆだねるがいい。そうすれば、この宣言があなたにとって真実であることを見いだすはずである。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」。しかし、もしあなたが信じなければ、思い出すがいい。次の宣言も等しく真実であることを。「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」[ヨハ3:36]。願わくは神があなたがた全員を、その恐ろしい運命から救い給わんことを。その愛する御子のゆえに! アーメン。

 


(訳注)

*1 老水夫。サミュエル・コールリッジ著、『老水夫行』(1798)の中では、ひとりの水夫が結婚式に向かう途中の客たちに向かって自分の陰惨な物語を告げる。[本文に戻る]

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地上で神のいつくしみを見る[了]

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