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赦された罪ゆえの激励

NO. 3016

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1906年11月29日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言われた」。――マタ9:2

「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた」。――マコ2:3-5

「するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた」。――ルカ5:18-20


 この人物は、からだは麻痺していたが、精神は麻痺しているどころでは全くなかった。彼について分かる僅かなことからしても、彼は熱心で、断固たる思いと、精力的で、不屈の気構えをしていた。人は、自分で願っている以上のことを、自分のために行なおうとしてくれるような人々をめったに見いだすものではない。そして、もしこの中風の人を運んで来た四人の人が、彼を主の御前に至らせることにこれほど熱心であったとしたら、まず間違いなく、彼自身が、それ以上にそうしてもらいたいという熱望をいだいていたと考えてよかろう。彼の運び手たちが、わざわざ屋根を壊し、群衆の頭上から彼を吊り降ろしたというのも、まず彼が彼らにそうするよう促したからに違いない。彼は、このように英雄的に取り扱われる際に、決してただ受け身であったのではない。たとい彼がそうした計画を示唆したのでなかったとしても、明らかに彼は、喜び勇んでその計画に共鳴したはずである。

 かりに、それがあなたの場合だったとしよう。話をお聞きの愛する方々。あなたも、肯かされるではないだろうか? もしもあなたが霊において打ち砕かれているあまり、友人たちに向かって、「私のことなど放っておいてくれ、私には絶望しかないのだ」、と云うとしたら、ほとんどの人は、あなたのために勇を鼓して努力しようなどとは夢にも思わず、あなたを、望み通りに無気力なまま残しておくであろう、と。普通は、あなた自身が精力的にならない限り、他の人々をあなたのために精力的にならせることはできない。それゆえ、この人物には断固たる、熱心な霊があり、自分の友人たちに大きな影響力を及ぼしていたのだと思う。その影響力の強さは、その真剣さによって彼らを鼓舞し、その執拗さでまず彼らを説き伏せるほどであった。彼が彼らに援助を求めたのは、それがなくては生きて行けないほどのものとなっていたことであった。彼は、是が非でもイエスに会わなくてはならなかった。この大いなる《癒し主》の前に、どうにかして連れて行かれなくてはならなかった。彼のたっての真剣さと、熱心な執拗さに動かされて、友人たちは彼を助けようと決心したのである。

 この中風の人について察知できることはまだある。そして、それは単なる当て推量ではないであろう。観察と経験によって確立されたいくつかの確かな法則によれば、ごく些細な事がらからも、人の性格については、しばしば多くのことが分かるからである。私たちの主イエスは、みもとにやって来る人々に対して、彼らの精神的な状態に応じて話しかけるのを常としておられた。ひとりのあわれな男が、霊において半ば痴愚となり果てていたとき、御前に示された。そのときの主は、「よくなりたいか」[ヨハ5:6]、とお尋ねになった。この男は、あまりにも大きな倦怠感にとらわれていたため、回復されようという意志がほとんどなくなっているほどであった。そしてキリストの、「よくなりたいか」、というおことばは、このあわれな人間がいだいていたあれこれの願いさえ眠り込み始めていたことを証ししている。これは通則と考えて良いが、キリストは、確かに周囲で見守る者たちのことも考え、ある程度は彼らをも鑑みて語られたが、主が第一に考えるのは、大部分、ご自分の患者のことであり、主は普通、その患者の状態を視野に入れながらお語りになった。それゆえ私は、イエスがこの男に、「子よ。しっかりしなさい」、とお語りになった事実から、こう推察するものである。彼は、非常に大きな霊の抑鬱を覚え、不幸であった、と。そして、主がそれに加えて、「あなたの中風は取り除かれた」、とは云わずに、「あなたの罪は赦された」、と云われたとき、私たちはこう結論しても全く差し支えはない。この男の悲しみの原因はその罪であり、彼は他の何にもましてその赦しを欲していたのだ、と。私たちの主は、単刀直入にその災いの根幹に切り込まれた。この男は悲しんでいた。それで、主は彼を元気づけられた。その中風は、この病人にとっては、二番目に苦々しい悲嘆の源だったのであろう。それゆえ、《救い主》はそれを二番目に扱われた。だが、何にもまさって第一に、その疾患ゆえのいかなる悲嘆をも圧して存在していたのは、罪が赦されていないという彼の痛切な実感であった。彼が、自分を運んでくれた者たちにそのことを告げていたとは、まず思われない。そのような霊的必要には、彼らは共感できなかっただろうからである。彼らに対して、彼は自分の苦しみについては告げても、自分の悔い改めのことは告げなかった。彼らは、その中風については彼をあわれんだだろうが、咎を感じているその良心については彼を嘲ったはずだからである。しかしながら、主は、告げられなくともその心の悲嘆をご存知であった。苦しむ者の顔つきからそれを読みとられた。大いなる《罪の赦し主》は、その真剣な凝視をよく知っておられた。それは、「こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、と云っていた。それで、主はその物欲しげな眼差しに、微笑みと励ましの言葉をもってお答えになった。「子よ。あなたの罪は赦された」。

 この患者は青年だったのではないかと思う。「子よ」、という言葉が私たちの主から発された相手が、主よりも年長だったとは考えにくいからである。おそらく彼は、子どものような信仰の持ち主だったと推察される。イエスがある人々をご自分の「息子、娘」[IIコリ6:18]とお呼びになるとき、そうした人々には子どものような精神が何かしら伴っていたからである。この男は明らかに素朴な心の信仰の持ち主であった。キリストには自分の罪をお赦しになることができると完全に信じていた。そして、それがその通りに起こったことは、この御国の規則の通りであった。「あなたがたの信仰のとおりになれ」[マタ9:29]。

 この男は、そのような状態にあった。――この中風の人は罪の重荷を負い、良心の上から重くのしかかられ、圧迫されていた。そのため、彼は《救い主》を求めさせられた。「私はキリストにお会いしなくてはならない」、と彼は云った。彼の熱をこめた真剣さによって、隣人たちは、彼をイエスのもとに連れて行こうと約束させられた。彼は、それをいま行なうよう彼らに乞うた。しかし、主に近づくことはできなかった。密集した群衆が主を取り巻いていたからである。「何としてもイエスにお会いしたいのだ」、と彼は叫ぶ。彼らは、「君は寝床から起きあがれないじゃないか」、と答える。「そこまで運んで行ってくれ」、と彼は叫ぶ。「しかし、中には入れないよ」。「試してみるんだ」、と彼は云う。彼らは扉まで達して、こう叫んだ。「どいてくれ。中風にかかった人がいるんだ。どうしてもイエスにお会いしなくちゃいけないんだ」。だが、ぶっきらぼうな答えが返される。「先生と会いたがってる、あわれな人間は他にもいるんだ。なぜお前たちのために譲らなきゃならないんだ? そんなに押して何になる? そんな寝床をここに入れる余地はないぞ! 何て馬鹿どもだ、こんなに押し合いへし合いしてる所に病人を引っ張って来るなんて。《預言者》がお話ししておられるのだ。お前たちなど邪魔なばかりだ。さっさと消え失せるがいい!」 運び手たちは中に入れない。彼らは懇願し、押してみるが、何の甲斐もない。

 「なら」、とこの堅く決心した男は叫ぶ。「裏階段で上へ運んでてくれ。露台の上に行かせてくれ。そして、天井をはがして吊り降ろしてくれ。私はどうしてもイエスに会わなくてはならないのだから」。もしかすると、友人たちは異議を唱え、そのように示唆された手段がどれほど困難なものか口にしたであろう。「何だって」、とひとりが云うであろう。「君は、人々の頭の上に宙吊りになることになるよ。君を屋根から吊り降ろしても、どこにも降ろせる場所はないのだからね」。「試してみてくれ」、と彼は叫ぶ。「もし私が屋根から吊り降ろされたら、私が地面に降りられない恐れはないとも! 人は私を上に押し返すことも、自分たちの頭の上に載せておくこともできないのだからね。どうしても私のために場所を開けなくてはならないさ」。彼の熱心さは巧妙なものであったため、今や人もそれにつられてしまう。彼の運び手たちは、彼の熱意に笑顔で答え、熱心に手を貸すことにする。彼は、自分の願いがかなうまで彼らをせきたて続ける。そこで彼らは屋根の瓦をはがし、彼をイエスの前に吊り降ろす。そして、その喜ばしい結果は福音書に述べられている通りである。「イエスは……『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言われた」。

 私たちの前にあるのは、第一に、1つの教理である。――すなわち、この世で最も大きな慰めの1つは、自分のもろもろの罪が赦されることにある、という教理である。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」。第二に、私たちの前には、1つの問いがある。願わくは、あなたがた全員がその問いを発し、かつ、自分自身の場合について、それに答える正直さを有しているように。それは、こういう問いである。私の罪は赦されているだろうか? というのも、もし赦されているとしたら、私には元気を出して良い権利があり、春先の小鳥のように陽気になって良いからである。しかし、もし赦されていないとしたら、私は、キリストご自身が罪人の心に語りかけることのおできになる最も大きな慰めを欠いているのである。

 I. 話をお聞きの愛する方々。すぐさま《この教理》に心を寄せることにしよう。それは、ここで平明に教えられている。罪赦されることこそ、主がひとりの人にお与えになることのできる、最も豊かな慰めの1つである、と。

 なぜかというと、まず最初のこととして、罪赦されるとき、人の感じうる最も深刻な悲しみは取り除かれるからである。ある人々は、この悲嘆についてほとんど知らない。願わくは主がそうした人々の心を打ち砕いて嘆き悲しませてくださるように。さもないと、彼らは自らの罪の中で滅びてしまう! 私たちの中の、罪の重荷を知っている者たちは、それがいかに激しい重圧であるかを告げることができる。物事をその真の姿で見てきた思慮深い人々、また、へつらわれようとはしない正直な人々、また、神との正しい関係に立ちたいと切望する、心のきよい人々、――こうした人々はみな告げるであろう。罪の感覚こそ、ありとあらゆる悲惨の中でも、最も鋭利、かつ、最も心を騒がせるものである、と。自分が光と知識に逆らって、特にはなはだ重い罪を犯してきたと知るのは、真っ赤に焼いた鉄ごてを肉に押しつけられ、蛇の毒液を血液に流し込まれるようなものである。この地獄を内側にかかえる魂には、夜も昼も何の安息もない。

   「罪は、毒もつ 病(まが)のごと、
    いのちの血潮 汚染(けが)すなり。
    これを香膏(いや)すは 主権(たか)き恵みと、
    医者(くすし)なる神」。

私は、自分の個人的経験によって知っていることを語っており、また、話をお聞きの多くの方々も、自分の魂の内側でご存知のことを口にしているにすぎない。ひとたび罪の確信が魂の上で閃きわたるや、この世はその魅惑を失い、演芸場や、舞踏室や、劇場はその魔力を奪われる。仕事さえ大儀なものとなり、家庭内の喜びは甘やかさを喪失する。罪の感覚はすべてをだいなしにするからである。良心にのしかかる咎意識は、あらゆるものの上に棺衣のようにへばりつき、あらゆる音楽をその不吉な鐘の音で打ち消し、あらゆる緑の葉をその燃える足で枯らしてしまう。

 罪よ、罪よ。――お前よりも陰鬱な害悪を、サタンそのひとでさえ生み出せるだろうか? 致命的な重病にかかった人は決して心安らぐことがない。いかなる衣装を身に着けようと、いかなるご馳走に舌鼓を打とうと、その人はやはり不幸である。死の矢が突き刺さっているからである。それが、罪を自覚している人である。何物もその人を喜ばせることはできない。何物もその人を安らがせることはできない。その人の罪が取り除かれるまでは無理である。しかし、罪がなくなるとき、――自分が罪赦されたと知るとき、その人は籠から自由にされた小鳥のようになる。

 ある村で、非常な大火事が荒れ狂った。神の人の住んでいる、一軒の大きな草葺き屋根の家に火がついた。それは激しく燃え盛ったが、この人とその妻とその子どもたちのほとんどは難を逃れた。だが、彼らを心底ぞっとさせたことに、子どもたちを数えてみたとき、ひとりの幼子がいないことが分かったのである。その愛児が燃える家の中にいる限り、何物も彼らを満足させはしなかったであろう。「ウェスレー先生」、と彼の隣人は云ったかもしれない。「あっしらは、先生の整理箪笥をお救いしました。先生の貴重な書物を家からお救いしました」。「あゝ、だが」、とこの善良な人は云ったことであろう。「私の息子が危機に瀕しているのだ」、と。彼の妻がそれをどう思ったか、自分の小さなジョンが焼け死のうとしているときにどう思ったか、あなたがたに告げる必要はないであろう。だが、とうとうその子が窓から持ち上げられ、両親の腕の中に連れて来られたとき、そのときには確かにこの善良な人は、家族全員を自分の回りに集めて主をほめたたえたであろう。たとい彼の全財産が灰燼に帰したとしても関係ない。《さて》、ひとりの分別ある人の魂が危険に陥っているとき、何物もその人を満足させることはできない。その人の商売は繁盛している。その幸せそうな子どもたちは足元で遊んでいる。だが、自分の魂が致命的な危険の中にあり続けているとき、それが何になるだろうか? だが、ひとたび、罪赦されることによって彼の魂が、火の中から取り出された燃えさし[アモ4:11]のようになるとき、彼の日常的な悩みは一切その重みを失い、彼の心は喜ばしい歌で満たされる。経験したことのあるあらゆる人にとっては、明らかに、罪赦されることは途方もない慰めである。なぜなら、それによって、この上もなく苦々しい苦悩と恐怖の原因が取り除かれるからである。

 次に罪の赦しが最上の慰めである理由は、実際、それが全く絶対に欠かせないものだからである。いかなる贅沢品を所有していようと、完全に幸福になりたければ、罪を赦されなくてはならない。「何と!」、とある人は云うであろう。「私は本当に幸福ですが、罪赦されてはいませんよ」。しかり。だが、注目すべきことは、あなたのような種類の幸福な人々が、おとなしくしている間は決して満足しないということである。そうした人々は、興奮を盛り上げなくてはならない。踊ったり、暇つぶしをしたり、酒を飲んだり、何らかの種類の馬鹿なことをしていない限り、幸せにしていられない。私が本当の幸福と呼ぶものは、自分の部屋でひとりでじっとしているときも享受できるもの、物事を静かに考えているときも満足を感じられるものである。私が本当の喜びと呼ぶものは、私が夜に目覚めて、体中に苦痛を感じても、じっと横たわって神をそのいつくしみ深さゆえにほめたたえられるものである。古のことわざにこう云う。「哲学者は音楽がなくとも陽気にしていられる」、と。同じことは神の聖徒たちについても云える。だが、不敬虔な人々は通常、気分を引き立てるような外的な物事がないと楽しく過ごすことができない。本当に幸福な人は、自分から満足していられる。自分のうちにある泉から湧き出る生ける水[ヨハ7:38]が、その人の渇きを癒すため、決して日照りを感じない。

 本当に幸福になりたければ、自分の罪を赦されるしかない。なぜなら、罪は、多かれ少なかれ、断罪されている感覚をもたらすからである。ひとりの人が、死刑囚独房の中にいる姿を思い描いてみるがいい。その人を心地よくくつろがせようと試してみるがいい。美味なご馳走を供してやり、喜ばしい合唱曲を聴かせてやり、見事な絵画を見せてみる。だが、その人は明日死刑になる定めにあるのであり、私たちのご馳走をも、私たちの美しい装飾品をも忌み嫌うであろう。一千ポンドを持ち込んで、それをその人に進呈するがいい。その人は、その黄金の金貨を眺めては云うであろう。「それが私にとって何の役に立つのか?」 その人に向かって、ある金持ちの広大な領地が遺産としてあなたのものになりましたよ、と告げてみるがいい。「そうかい」、とその人は云うであろう。「だが、それをどうやって楽しめるというのだ? 私は死刑になる定めなのだぞ」。その人は、夢で常に自分の死の鐘を聴いており、自分が永遠に旅立つことになる、もの寂しい場面を思い描いている。だが、その人の耳にこう囁くことができたとしよう。「女王陛下が、あなたに恩赦を賜りましたよ」。その人は云うであろう。「そのご馳走は下げてくれてかまわないよ。嬉しさのあまり、喉を通らないのだからね。世界中のあらゆる黄金でも、今の私を――罪赦された私を――これ以上に喜ばせることはできないよ」。人々が、何年も牢獄に閉じ込められた後で釈放されるときには、一切のものが喜びとなる。ことによると、郷里に帰っても、かつて知っていた人々がみな死んでしまっており、自分の頭髪も、かびくさい檻の中に長年いたために白髪になっていることが分かるかもしれない。だが、自由に町通りを歩けるというだけで、街路の石畳は黄金を敷き詰めたもののように見える。また、野原は妖精の国のように思われるものである。それが、私たちの神から罪の赦しがやって来るときの喜びである。人は赦されない限り、あらゆるものがむなしくなるに違いない。だが、無罪放免されるとき、その人は喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く[イザ55:12]。

 罪赦されることによって、私たちのあらゆる悲しみは軽くなる。死刑宣告を受けた人が生きることを許されるとしたら、その人は自分が紳士のような生活をするか百姓のような生活をするか尋ねはしないであろう。どこかの親切な心をした人々が、死刑囚のいのちを救うために八方手を尽くすとき、彼の友人たちは、彼のいのちのことしか考えない。裁判官がある人に無期懲役の判決を下すとき、それは厳しい判決と考えられるかもしれない。だが、死刑囚の助命がかなえられたとしたら、たとい一生の間囚人であり続けなくてはならなくなるとしても、そこに不平は全く聞かれない。いかに重い刑罰も、いのちさえ助かるなら何ほどのことでもない。絞首台の結ぶ悲しい果実の数が1つ減ったと考えれば、あなたは安堵の溜息をつき、その受刑者が耐えなくてはならない禁固刑や懲役のことはみな忘れてしまう。そのように、請け合っても良いが、もしあなたが罪赦され、そのようにして神の永遠の御怒りから救われるとしたら、あなたは決して、食べ物、着る物が十分あるか、それとも飢えて裸でいるかについて、神と交渉しようなどとはしないであろう。しかり。主よ。私は、罪赦されさえするなら、乞食の襤褸をまとって震えていても、全く満足するでしょう。あなたの御怒りから救い出されさえするなら、牢獄に住み、乾いたパン屑を食べ物にしていましょう。このように、罪が拭い去られらことによって、他のあらゆる悲しみからは、明らかにとげが抜き取られるのである。

 それに加えて云いたいのは、それが死そのものをも軽くするということである。ひとりの重罪犯人の物語を思い出す。それは、ごく些細な咎でも人が縛り首になるのが常であった時代のことである。ひとりの貧しい男が、いくつかの違反を犯し、死刑を宣告された。刑罰を受けるのを待っている間に、主は福音に仕えるえり抜きの教役者を彼のもとに遣わし、彼の心の目は開かれ、彼はキリストを見いだした。絞首台の木のもとへと歩いて行くとき、あなたはこの男が何と叫んだと思うだろうか? 彼は喜びに圧倒されていた。そして両手を掲げると、何度もこう云ったのである。「おゝ、主は大いなる《赦し主》! 主は大いなる《赦し主》!」 死は、イエス・キリストによって赦しを見いだしている今や、何の恐怖でもなかった。貧困は、罪が取り除かれているとき不平を云わない。病は、良心が安らいでいるとき、もはや苛立つことがない。あなたは肺病によって多くの苦痛にあえぎ、自分が溶け去ってしまうように感じるかもしれない。だが、あなたのそむきの罪が赦されている今や、それが何だろうか? 息づかいの1つ1つが重労働であり、脈拍の1つ1つが苦痛かもしれない。だが、罪が赦されているとき、主がその心の内側に作り出してくださる喜びの泉は、決して魂を弱らせない。

 やはりまた、愛する方々。思い出したいのは、罪赦されることが、他のあらゆる祝福の保証となるということである。キリストが、「あなたの罪は赦された」、と云われたとき、この中風の人が癒されるかどうかについて少しでも疑問の余地はあっただろうか? 決してなかったに違いない。というのも、この病人の罪をすでに赦していた同じ愛は、その場で後に《救い主》にこう云うよう促していたからである。「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」[マタ9:6]。そのように、愛する方々。もしあなたが罪赦されているなら、あなたにとってはこのことが真実となる。すなわち、神は正しく歩くあなたに良いものを拒まれず[詩84:11]、神を愛するあなたのためには、すべてのことがともに働いて益となる。あなたが、神のご計画に従って召されたからである[ロマ8:28]。地上と天国の間にあるあらゆることは、あなたの最上の益のため、恵みの契約によって安泰にされている。それで、あなたはこう歌うことができる。――

   「罪ゆるさるば われ安泰(やす)し。
    死にはいかなる とげもなし。
    律法(のり)はすさまじ 呪い付すとも、
    わが贖代(みのしろ)の キリスト死せり」。

あなたの必要のうち、神が確実に満たされないものは1つもないであろう。神はすでにあなたに最も大きな祝福、赦しという一切を包含する祝福を授けてくださったからである。契約の数々のあわれみは、鎖の環のように次々とつながってやって来る。――「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる」[詩103:3-5]。あなたは、神が人々の罪を赦しておきながら、彼らを滅ぶままに放っておくようなことをされると思うだろうか? そのように冷酷な「あわれみ」など、《神格》よりは、悪鬼にふさわしいであろう。罪赦されることは、永遠の愛の誓約であり、その誓約は決して放棄されない。

 「悲しいかな!」、とある人は叫ぶであろう。「ことによると、主は私を赦した後で、再び背を向け、私を罰されるかもしれません」。聞くがいい。「神の賜物と召命とは変わることがありません」[ロマ11:29]。すなわち、神は恵みの道においてご自分が行なわれることを決して悔いることがない。もし神が赦すとしたら、神は一度限り、永遠にお赦しになる。神が、永遠の和平を結ぶ代わりに、一時的な休戦協定を人々と結ばれるのだなどと云うのは冒涜であろう。主は、ご自分の民の不義を海の深み[ミカ7:19]に投げ入れ、彼らのそむきの罪を思い出して責めることは永遠になさらない。これは、ほむべき恵みの行為ではないだろうか? それは、罪のあらゆる悪しき結果を確実に取り除く。天国のこちら側で必要とされる一切のものを、しかり、そして、永遠の栄光を保証している。もしあなたがイエスの、「あなたの罪は赦された」、とのおことばを聞きさえするなら、あなたは、「しっかりしなさい」、とのおことばをも聞くであろう。というのも、罪赦されるという事実の中には、あなたの心を喜びに躍り上がらせる一切のものがあるからである。

 教理についてこれ以上のことは語るまい。だが、私たちの瞑想を個人的に実際的なものとするため、自己吟味のわざを強く心に突き入れるがいい。

 II. さて、そこで次に考察したいのは《この問い》である。あなたは赦されているだろうか?

 神は、キリストのゆえに、あなたを赦しておられるだろうか? 「あゝ!」、とある人は叫ぶであろう。「私たちをさばかないでください」。私はあなたがたをさばこうとはしない。むしろ、自分で自分をさばくようあなたに懇願しているのである。「私たちは、自分の救いを確信できません」、と別の人は答えるであろう。できないだろうか? ならば、あなたは決して幸福になれないに違いない。というのも、これほど死活に関わる問題――自分のすべてが関わっている問題――について不確かな人は、決して一瞬の平安も楽しめないに違いないからである。どうして私たちは、地獄を恐れながら、――永遠の御怒りを受ける危険の中にありながら、――安心していられるだろうか?

 あなたは、確実なものを切望しないのだろうか? ある大小説家は、愛好する物語をこの文章によって始めた。「私が望むものは事実である」、と*1。その短文によって彼は、多くの思慮深い魂の切望を云い表わした。私たちの中の多くの者らは、自分が議論の余地ない事実を望んでいることを感じている。わが国のことわざにもこう云う。「しまりが固ければ、失う心配はない」、と。思慮のある人々は、あらゆる関心事の中でも最も重大なことについて念には念を入れて確認するであろう。そして、自分が間違いなく癒されるまで満足しないであろう。私は、あなたがこの問いに答える助けとして、こう指摘したいと思う。ある方法によれば、私たちは自分が赦されていないことを知ることができる、と。

 私たちが自分は赦されていないと分かるのは、自分に赦しが必要だと全く感じていない場合である。咎が全く感知されたことがなかったとしたら、それは決して取り除かれたことがないのである。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」[Iヨハ1:8]。もし私が、自分はほとんどの人と同じくらい善良だ、もしかすると多少その上を行くかもしれない、と感じているとしたら、――もし私が自分で自分を義としようとし、私自身の努力で天国を獲得しようとしているとしたら、――そのとき、私は断罪の下にある。神は、一度も傷ついたことのない人をお癒しになったことは決してなく、一度も死んだことのない人をよみがらせたことも決してない。もしあなたが一度も神の前でへりくだらされたことがなく、自分が罪人であると認めたことがないとしたら、あなたは今なお神の御怒りの下にとどまっているのである。ぜひとも、このことを考えてほしい。あなたがた、のんびり構えて、自分自身のあれこれの功績という衣にくるまっている人たち! 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って」いるからには、神の御前では、確実に、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」に違いない[黙3:17]。愛する方々。あなたはそうではないことを私は望む。

 また、赦されていない人とは、今この瞬間に罪を憎んでいない人である。イエスが来られたのは、決して私たちを救って私たちのもろもろの罪の中に放っておくためではなく、私たちを私たちのもろもろの罪の中から救い出すためであった。そして、イエスは、罪の咎を取り去るところでは常に、罪への愛をも殺される。罪が、いついかなるときにもましてどす黒く見えるのは、それがイエスの血によって取り除かれるのを私たちが見るときである。十字架の姿を目にするとき、私たちは、自らのそむきの罪によって私たちの主を殺してしまった自分に対する怒りがわき上がる。罪赦された後で、以前と同じような生き方をすることが許されるなどとは、決して夢にも考えてはならない。そうしたいという願いそのものからして、あなたが今なお断罪の下にあることは明らかである。

 また、あなたが赦されていないのは、あなたが決してキリストをも、その贖い給う血をも求めていない場合である。もしあなたが、他の手段によってあわれみを得ようとしてきたとしたら、あなたはまだそれを見いだしていない。というのも、それを与えることができるのはただひとり、《仲保者》として指名されたお方だけだからである。あなたの「司祭」が、あなたに赦罪を授けられるだろうか? あなたは、その司祭に背いて罪を犯したのだろうか? その場合、その司祭は、自分に罪を犯したことについてあなたを赦すこともできよう。だが彼は、神に背いて罪を犯したことについてあなたを赦すことはできない。キリスト・イエスにある神以外の何者も、罪を拭い去ることはできないし、あなたは神のもとに行かなくてはならない。そして、もしあなたがそうしないというなら、あなたは赦されていないのである。あなたが何を夢見ていようと関係ない。

 もう一言云おう。あなたは、他のあらゆる人を赦しているだろうか? これは、ある人々の心に深く突き入る問いである。だが、それに答えることがいかに必要か思い出すがいい。もしあなたがたが自分のあらゆる兄弟のそむきの罪を赦していないとしたら、あなたの天の御父もあなたをお赦しにはならないであろう。それは、はっきりしている。「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します」[ルカ11:4]。もしあなたがあらゆる人の罪を――いかに重い不法であれ――赦すことができないとしたら、神もあなたを赦してはおられない。悪意ある心は、更新されていない心である。復讐心に満ちた霊は、神の御霊とは全く正反対である。御霊は、そむきの罪も、不義も、罪もお見逃しになる。この真理はほとんど説教されることがないであろうが、聖書はそれを非常に目立たせている。そして、あなたが、いささかの程度でもそれを無視するとしたら、まことに愚かなことをすることになるであろう。あなたは、赦すことができないとしたら、赦されていないのである。

 さて、いくつか積極的な試金石によって、果たしてあなたが赦されているかどうかを、あなたに見てとらせる助けをさせてほしい。1つで事足りる。あなたが赦されているのは、あなたがイエス・キリストを真に信じている場合である。こう書かれている。「イエスは彼らの信仰を見て」、――すなわち、この四人の運び手たちの信仰、また、寝床の上に横たわっていた人の信仰を見て、――彼に、「あなたの罪は赦された」、と云われた。このあわれな中風の男は、イエスを信じていたあまり、キリストの御前にやって来たときには、その顔そのものが確信で光輝いていた。それでイエスは、彼の信仰を見て、彼に云われたのである。「あなたの罪は赦された」、と。あなたはイエスを信じているだろうか? あなたが、イエス・キリストを神、また、大いなる《救い主》として信じていることは、私も承知している。だが、これは、あなたにとって単なる教理の問題にすぎないだろうか? それとも、あなたは本当にキリストを信じているだろうか? あなたは、ある人を信じるとはどういうことか知っている。その人を信頼でき、自分に関わる諸事全般をその人の手にまかせられるということである。このようなしかたで、あなたはイエスを信じているだろうか? それが、人を救う信仰である。ある人々がキリストを信じて、自分をキリストにゆだねて救われようとするとき、その人は正しい信じ方をしている。というのも、信じるとは、信頼し、より頼み、依存することの別の云い方だからである。

 この問いを軽くあしらってはならない。私が望むのは、あなたがこう答えることである。「はい。よほどひどい思い違いをしていない限り、私は主イエス・キリストの血と功績により頼んでいます。また、主により頼んでいるため、主の御足跡に従い、主の模範にならおうと努力しています」、と。ならば、あなたは救われている。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。この言葉をじっくり考えるがいい。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、……神との平和を持っています」[ロマ5:1]。もしあなたが本当にキリストを信頼しているなら、ほんの一時間前にそうしたばかりであっても、あなたのそむきの罪はすべて取り除かれている。また、あなたの不義は覆われている。というのも、主はみもとに来る者たちを即座にお赦しになるからである。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」[Iヨハ1:9]。もしあなたが自分の罪を主に告白し、主に信頼しているとしたら、あなたは確実きわまりなく、主の血によってきよめられている。

 さて、最後の一言を語ることにしよう。それはこうである。イエスは云われた。「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」。ならば、さあ、私たちのもろもろの罪が赦されたがゆえに、元気を出そうではないか。幸いになろうではないか。主にあって陽気になろうではないか。心の大きな喜びゆえに歌い出そうではないか。私たちのもろもろの罪が、キリストゆえに赦されているからである。私たちは非常にあわれな者だが、私たちの罪は赦されている。私たちは非常に弱い者だが、私たちの罪は赦されている。私たちは、ことによると、非常に年老いて、人生の末路に近づいているかもしれない。だが、私たちの罪は赦されている。私たちは欠点だらけで、数々の誘惑に悩まされている。だが、私たちの罪は、主の御名のゆえに赦されている。「子よ。しっかりしなさい」、と《救い主》は云われた。ならば、私たちがそうせずにいて良いだろうか? 私たちの部屋が非常に小さなものだとしてもどうだというのか? 私たちの罪が赦されているとしたら、それが何だろうか? 「あゝ、ですが家には病んでいる者がいるのです!」 「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」。あなたも知る通り、《主人》は、弟子たちが別の喜びの源を見いだしたとき、彼らをこのことに引き戻された。「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」[ルカ10:20]。そのように、あなたが苦難の山を見いだすときも、同じような良い助言に従うがいい。

 誰か、こう云う人がいるだろうか? 「私は、頭までどっぷりと苦難に浸かっています。私は非常な苦境の中にあるのですから」。あなたの肩に私の手を置き、こう云わせてほしい。「兄弟よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました」。「おゝ、ですが、私にはごく乏しい生活の手段しかないのです!」 「それは、その通りです。ですが、あなたには、この慰めに満ちた使信があります。『あなたの罪は赦された』」。元気を出すがいい。あなたの主は、あなたがそうするよう命じておられる。あなたの罪は赦されているからである。

 もしあなたが幸福でないとしたら、それはキリストに対する不従順である。というのも、主はあなたに、「元気を出しなさい」<英欽定訳>、と云っておられるからである。それは、あなたが、主の血を代償としたほどの祝福を尊んでいないかのように見えるであろう。「あなたの罪は赦された」。この贖いをあなたのために買い取るには、主はご自分のいのちを支払わなくてはならなかった。では、あなたは、それを手に入れたときに、不満の声を上げようというのだろうか? 疑いもなく、あなたは貧しい人々に良い物を与えることを喜んでいるに違いない。では、もしそうしたとしたら、あなたは彼らが感謝するのを見たいであろう。私は、ほんの数日前に、ある人に施し物をした。すると、その人は、それを自分のかくしに突っ込むだけで、一言も云わずにぷいと歩き去って行った。まるでこう云うかのようにである。「この十倍くらいのもんをくれると思っていたのによう」。そこで私は思った。「ねえ君。もし君がそういう受け取り方をすると分かっていたとしたら、私も君への施し物をあれほど喜んで与えなかったことだろうよ」。あなたは、自分の子どもたちにちょっとした贈り物をするときには、その子たちが喜んで、感謝するのを見たがるはずである。だが、もしその子たちが座り込んだまま、あなたの親切心についてぶつくさ云っているとしたら、あなたは失望し、これからはあまり熱心にその子たちを喜ばせようとはしなくなるであろう。私たちの天の御父の賜物は、尊ばれ、喜ばれなくてはならない。もし御父が私たちの罪を赦してくださったとしたら、幸福になろうではないか。

 「子よ。しっかりしなさい」。外の世界のことを多少考慮するがいい。というのも、もし赦された者たちが陰気な顔つきをしているとしたら、人は、神の恵みには結局大した慰めなどないのだと推測するだろうからである。ある人は云うであろう。「俺の女房ときたら、自分の罪は赦されました、なんて大いばりで云うがね。誓って云うが、家の中で何かちょっとした問題でも起こると、女房の方が俺よりもずっとがっくり落ち込むぜ」。また、ある婦人は云うであろう。「宅の主人は、自分の罪が全部洗いきよめられたなんて云ってますけど、年中ぶつくさ愚痴や文句を云うばかりで、家中が辛気くさくなるんですのよ」。そのようにしていてはならない。もしあなたに背負うべき十字架があるとしたら、キリストゆえに朗らかに背負おうではないか。もしキリストのために行なうべき働きがあるとしたら、喜びをもってそれを行なおうではないか。歌いながら生きて行こう。楽しげな音色に合わせ、主を喜びながら天国へと行進して行こう。なぜなら、私たちの罪が赦されているからである。そして、ひとりひとりがこう云おう。――

   「われのひたすら なすべきは、
    愛して、歌い、待つのみぞ、
    御使いたちの 飛び来たり、
    われを《王》へと 連れ行くを」。

 


(訳注)

*1 チャールズ・ディケンズ、『ハード・タイムズ』(1854)、冒頭のグラッドグラインド氏の言葉。[本文に戻る]

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赦された罪ゆえの激励[了]

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