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二人の負債者

NO. 3015

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1906年11月22日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1867年7月14日、主日夜


「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」。――ルカ7:41、42


 人間同士、互いに比べ合うのは賢いことではない。それは、ある不正確な基準を、もう1つの不正確な基準と比べることであり、ごく往々にして誤り導くものとなる。それでも、人々がそうしがちである以上、また、彼らがこの航路を通って船を進めたがる以上、しばしの間、私たちも同じことを行ないつつ、彼らの間違いのいくつかを正すこととしよう。

 I. 私たちの前にある非常に短い《たとえ話》は、4つの思想を示唆しており、その4つについてしばらく詳述してみたい。第一のこととして、《私たちの罪人としてのあり方は、その程度に差がある》。――ある者たちには五百デナリの借りがあるが、別の者たちにはたった五十デナリしか借りがない。

 あらゆる人について、全員が同じように罪深いと云うのでは、非常に不正確であろう。人がみな咎を負っているということは正しい。だが、人がみな等しい咎を負っているというのは正しくない。一部の人々は、この区別を非常に熱心に云い立てようとする。なぜなら、自分は罪人たちの中でもましな部類に入ると主張しているからである。そうした人々の主張するところ、彼らは、自分の知っている多くの人よりも十分の一も咎がなく、もっと露骨な悪徳を身につけた人々と比べれば、ほとんど無罪も同然だという。私たちはそれを認めるであろう。私のこの上もなくすぐれた友よ。私たちは認めるであろう。――あなたが私たちに認めさせたいと思っていることすべてというわけではないかもしれないが、――ただちに、あなたが他の人々よりも重い咎を負ってはいないと認めるであろう。また、あらゆる罪が一様に下劣なものではないことも認めるであろう。ある種の悪徳、特にからだを汚す悪は、如実に人間を獣か、それ以下の水準に引き下げてしまう。そして私たちは、一瞬たりとも、こうあてこするつもりはない。敬虔さのただ中で育てられ、いかなる悪の染みからも守られてきた、私たちの若い友人たちが、酔いどれだの、愚連隊だの、神聖を汚す冒涜者だの、放蕩者だのと同じくらい下劣である、などと。

 さらに、私たちの確信するところ、罪には異なる罰があるであろう。あらゆる悪人が地獄に落とされることになるにもかかわらず、そうした失われた状態の苦悶には程度の差があるであろう。私たちの《主人》ご自身がこう告げておられる。「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます」[ルカ12:47-48]。重い犯罪人たちの刑罰は、そうでない者たちのそれよりもずっと耐えがたいものとなる。そして、他の者たちは、それと同じ程度には罪を犯したことがなく、――確かに正当に神の御怒りによって罰されるとはいえ、――よりどっぷりと不義に浸っていた者たちと同じ程度にそれを耐え忍ぶようなことにはならないであろう。

 こういうわけで、私たちはこう認めるにやぶさかではない。罪には差違があり、その結果生ずる罪人たちの下劣さには差違があり、罪に起因する刑罰には差違がある、と。私たち自身の良心も、良識も、正しい識別力もそう教えている。だが、そのように認めるにもかかわらず、私はいくつか平易な質問をあなたに投げかけたい。愛するあなたがた、自分は五十デナリの借りしかない者のひとりだと考え、五百デナリの借りがある者たちを馬鹿にしたように見下している人たち。まず最初に、あなたにこう問わせてほしい。――あなたは、自分がより軽い罪人であることを本当に確実だと思っているだろうか? あなたが五十デナリしか借りのない者のひとりであるとみなされるのは確実だろうか? 思い出すがいい。私たちは常に罪を、単にその外見によってだけでなく、それを犯す人の動機や性格、また、その違反が犯された際の状況によっても判断しなくてはならないのである。。

 あなたがたは全員こう認めるではないだろうか? 光と知識に逆らって犯された罪は、無知ゆえの罪よりもはるかに悪辣である、と。もしある人が国法に違反したとしても、その法律を知らなかった場合、その人の違反は、その法がいかなるものか知りながら、故意にそれを破る者よりも重くはならないであろう。もしかすると、神に五百デナリの借りがあるとあなたに見下されている者たちの中のある人々は、あなたがずっと有してきた光を持っていなかったかもしれない。おそらく、そうした人々のほとんどは、あなたがずっと享受してきたような特権を1つも有したことがないであろう。あなたの敬虔な母上は、あなたが生まれたその日からあなたのために祈りをささげていたではないだろうか? あなたのことを案じる父上は、熱心に救いの道をあなたに教えたではないだろうか? あなたは聖書を読んできた。何が良いことで何が悪いことか、相当はっきりとした観念を有している。だから、あなたは光の中で罪を犯してきたのである。罪と知りながら罪を犯してきたのである。それゆえ、あなたが小さな罪と考えているような、あなたのもろもろの罪は、実は神の御前では、他の人々が犯してきた、一見ずっと大きな罪よりもずっと憎むべきものなのである。他の人々は、あなたが有していたのと同じ程度には光と知識を有していなかったからである。

 さらに、罪は、それを犯す際に人が自分の良心にどれほど背いたかによっても、測られるべきではないだろうか? 疑いもなく、ある人々にとっては、その幼少期からの習慣により、また、その体質そのものからしてさえ、罪が必然的なものとなるとまでは云わずとも、確かに彼らはほとんど先天的に罪に滑り込んで行き、それを引き留めるものが何も意識されないか、ごく僅かしかないため、ほとんど感じられない。私は知っている。あなたがたの中のある人々が、幸いにも、くつわや馬勒を引っ張ったりぐいと引いたりしない限り罪人たちのように生きることはできないことを。良心があまりにも鋭くあなたを刺し、あなたの生き方を不安なものとするため、あなたは自分の敵を相手にするかのように、自分の良心と格闘してこざるをえなかった。自分の良心の喉笛を締め上げ、その息の根を止めざるをえなかった。そして、もしそうすることができていたとしたら、あなたは、自分を絶えずうるさがらせるようになっていた、あの警告の叫びをすっぱり窒息死させていたことであろう。あなたは他の人々と同じようには心楽しく罪を犯すことができなかった。あなたの良心が黙ってはいなかったからである。ならば、あなたのその些少な違反の数々は、あなたの怒れる良心の警報にもかかわらず犯されたものである以上、他の人々のもろもろの罪には付随していないようなおぞましさを含んでいるかもしれないではないだろうか? 他の人々は、罪に陥るときも、その内なる監視人と戦う必要がなかったのである。

 さらにまた、愛する方々。他人の模範は時として罪と大きな関わりがあるかもしれないではないだろうか? 私たちの若い人々が酔いどれじみた生き方に堕していくのを見るとき、私は非常に悲しくなり、彼らを非難する。だが、彼らのふるまいをどうして不思議に思うことができるだろうか? 私の目につく非常に多くの親たちは、酔いどれを作り出そうとでもいうかのようなしかたで自分の子どもたちを育てているのである。――酒を飲むよう彼らを誘惑し、彼らをつまずかせるもとになる最初の一杯を彼らに与えているのである。もしも一部の親たちが息子を酔いどれにすることを目的としているとしたら、その息子たちが今しているのと違った行ないがなぜできるのか、私には分からない。私は、ひとりの労働者が自分の息子に大杯の麦酒を回しながら、こう云っているのを聞いたことがある。「一杯やれや、坊主」。そして、その子がそれを一気に飲み干すと、彼は満悦至極といった様子になった。それから彼は息子をごてごて飾りたてた安酒場へと連れて行き、そうした場所に通常見いだされる悪い仲間と息子を自由に入り交じらせた。ならば、その少年が酔いどれになるとしても何の不思議があるだろうか? 父親は、自らがさんざん神を冒涜していながら、息子が悪態をつくようになるのを非難できるだろうか? 否。そして、私は云うが、このようにごく幼い頃から罪のただ中にいた人々は、結局、そうでない者らほど大罪人ではないであろう。それとは全く逆の模範を目の前に置かれていながら、そうした罪を犯してきた者たち、幼少の頃から続く一切の訓練に逆らってきた者たちとは違うであろう。私たちの中のある者らは、自分の両親が間違いを犯したことを1つも思い出せない。私は、正直に自分の父母の個人的な生活を振り返るとき、私が見習っては安全ではないような模範を何1つ思い起こすことができない。よろしい。ならば、もし私が罪を犯してきたとしたら、私は自分が従うべき親の模範に逆らって罪を犯してきたのである。そして、それゆえ、私の五十デナリの罪には、私のような模範を有していなかった他の人々の五百デナリの罪よりも大きな咎があるに違いない。

 また、あなたは、罪の比較上の大きさが、種々の状況に大きく左右されるとは思わないだろうか? ある盗人が一斤のパンを盗んだとしても、それがひもじさのため家で泣いている子どもたちのためだったとしたら、あなたは、本当のところ必要としてもいないものを盗む人間や、自分の憎む人間に欲得ずくで重傷を負わせるような人間に下すのと同じ刑罰を下そうとするだろうか? あなたは、様々な行動を促した動機を区別立てするであろう。もしその動機が一方の場合では、たとい正しくはなくとも、もう一方の場合よりも無理からぬものであったとしたら、前者にはずっと寛大な判決を下すであろう。話をお聞きのあなたがた、先週の主日に天来の恵みの招きを受けながら、それに反抗した人たち。どうしてあなたに分かるだろうか? その晩、この場におらず、自宅で酔っ払ってよろめいていた人間よりも、あなたの方がずっと重い咎を負っていないということが。あなたは、神のあわれみに直接に触れたのに、それに反抗したのである。それは、そのあわれな酔いどれが行なったことをしのいでいる。また、あなたがたの中のある方々、この教会の指定席を保持し、常にこの場にやって来る人たち。キリストをつかむように私たちから懇願されながらも、未回心のままであり続けている人たち。――私は、そう口にするつもりはないが、ほとんどこう考えたいと思う。恵みの招きがこれほど間断なしになされていながら、なおも続けられているあなたの反抗には、神の御前では、人々が牢獄に閉じ込められ、同胞から毛嫌いされるような一部の犯罪行為にまさって、道徳的な咎があるのかもしれない、と。多くの人々は、神に対する罪を、人間に対する犯罪ほど憎むべきものとみなしていないが、実ははるかに憎むべきものなのである。そして、私たちに共通する道徳的なよこしまさを示す目印の1つはこのこと、すなわち、人は罪人と呼ばれても大して腹を立てないが、犯罪者と呼ばれると非常に腹を立てるということにある。つまり、そのような人は、神を怒らせることは大きな誤りではないが、自分の同胞たる人間たちの法を破ることは恐ろしいことだろうと考えているのである。

 もしあなたがこうした事がらを真剣に突き詰めて考えるとしたら、あなたがたの中の誰かが、――最初は、「自分は五十デナリの借りがある方の者だ。神は感謝すべきかな、罪人たちの間には違いがあるのだ。私は他の人々ほど堕落してはいないのだ」、と云っていたとしても、――こう云い出しても不思議はない。「結局、こうしたことは、私にとって大した違いはないのだ。確かに私は一度も盗人になったことはないし、一度も不貞の罪を犯したことはない。私はこれまでずっと正直で、廉直で、尊敬すべき社会の一員だった。だが、私がイエスを信じておらず、罪に背を向けていない以上、私は見かけ上は先の者であっても、後になる者たちのひとりでありえるし、後の者のように見える人々が私よりもはるかに前に立つこともありえるのだ」、と。もしあなたがそのような点に達したとしたら、愛する方々。私は遺憾には思わない。実際、むしろ喜ぶであろう。というのも、あなたにとってはその方が、かつてあなたが自分の正当な場所と感じていたものよりも、ずっと望ましい立場となるだろうからである。

 II. このように、罪には程度の差があることを示した上で、次にあなたに示したいのは、《大きな罪人も小さな罪人も、その破産状態という点では等しい》ということである。

 この《たとえ話》に出てくる負債者たちは二人とも、自分の借金を返せる持ち金が全くなかった。そして、神がある魂を救おうとしているとき、神はその魂にこうお悟らせになるのである。自分には、神に対する自分の負債を払える持ち金が全くないのだ、と。もしあなたがたの中の誰かが、自分にも、自分で自分を救うことが少しはできるのだと考えているとしたら、行ってそれを行なうがいい。だが、キリストは、そうした条件ではあなたと全く関係を持とうとはされないであろう。あなたは、こう感じさせられなくてはならない。自分は、無力な、望みなき、失われ、破滅した、手の施しようのない者であり、自分自身を救うためには指一本持ち上げることさえできないのだ。むしろ、神の恵みが自分に代わって、最初から最後まで、一切のことを行なわなくてはならないのだ、と。そして、このようにあなたがむなしくされ、へりくだらされ、神の前でちりの中にうずくまらされない限り、神の御霊があなたの中で有効的に働いておられるしるしは私には全く見えない。

   「一銭(わずか)も己(おの)が ものと称(せ)ば、
    全(また)き免除(ゆるし)は、受けざらん」。

この負債者はどちらも、「返すことができな」いことを知っていた。ある人々は、非常に重い咎を自覚していながら、自分の悔い改めによってその負債を返済しようと申し出る。「おゝ!」、とそのような人は云う。「私は、自分の罪を非常に悲しんでいます。そして、その悲しみが確かにその埋め合わせとなるでしょう。私は涙をとめどなく流しましょう。そして、あの快楽や、この快楽を味わうことをやめましょう。確かにそうしさえすれば十分に違いありません」、と。しかし、神が救おうとしておられる人は、いくら悔い改めても自分の過去の咎を贖えないと知っている。もし私が借金をかかえているとしたら、それを悲しんでも何にもならない。その悲しみで、私の借金が支払われるわけではない。そして、私は測り知れないほどの負債を神に対して負っている以上、悔い改めの涙をいくら流しても、その負債が帳消しにはならない。

   「たぎつ涙も」

罪を贖いはしない。望むらくは、あなたがたがみな、いま私の語っている真理を悟ることができるように。それがあなたにとっては良いしるしとなるからである。

 他の一部の人々は、自分の負債の全額を支払うことはできないが、その一部は返済できるはずだと希望する。そうした人々は自分の全力を尽くした上で、その残りを主イエス・キリストに補っていただこうとする。神に完璧な従順をささげることはできないので、自分にできる限りの従順をささげ、それで神が満足してくださるものとあて込むのである。しかし、聖霊によって真に覚醒された魂は、「一部返済」など論外であると知っている。天来の宣告はこうである。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」[ガラ3:10]。一部は要求され、他の一部は大目に見られるなどということは一言も書かれていない。話をお聞きの愛する方々。私はあなたがこう確信しているものと思う。中途半端ないかなる従順をもってしても、決して神に受け入れられることはありえない、と。もしあなたが自分自身の行ないによって救われたければ、あなたは絶対に完璧でなくてはならない。思いと、言葉と、わざにおいて、生まれた瞬間から臨終の時に至るまで完璧でなくてはならない。完全無欠な水晶の花瓶に1つでもひびが入っていれば、それは傷物である。そして、あなたがた全員が知っているように、その花瓶は、ひびが入っているだけでなく、とうの昔に粉微塵に粉砕されているのである。自分自身の義を頼りにしてはならない。むしろ、自分は罪によってかかえこんだその巨額の負債を「返すことができな」い、と神の前で告白するがいい。

 ある人々は、その約束手形を差し出し、自分の負債を支払う約束をする。そうした人々は、自分が将来にはこれまでよりも善人になるだろうと希望する。だが、かりにそうなったとしても、彼らは自分たちが常にそうあってしかるべき状態になったにすぎない。では、そうした向上をしたからといって、いかにして彼らの過去の負債が支払われたことになるだろうか? 方々。自分の商売でそのような方策を実行してみるがいい。例えば、あなたが人に五十ポンドの負債を負っているとする。よろしい。ならば、その人の所に行ってこう云うがいい。「私には、あなたへの借金を支払えません。ですが、もう二度とあなたからは借金しませんから」。そう約束しさえすれば、あなたの名前は相手方の台帳から抹消されるだろうか? そうでないことは、あなたも知っている。そのように、たといあなたが今後は完璧に神にお仕えできたとしても、だからといって過去のあなたのもろもろの罪が取り除かれはしない。実は、あなたのそうした約束は、何の物上担保もない有価証券のようなもので、破産に至らせるものでしかない。あなたは、将来に行なうだろう数々の善行という約束で、一見は立派な建物を築くかもしれない。だが、それは、いずれことごとく崩壊することになる。しかもそれはひどい倒れ方[マタ7:27]となるであろう。

 人が発すべき唯一安全な宣言はこうである。――「おゝ、神よ。私はあなたに非常に大きな負債があり、それを返すことができません! たといあなたが、悔い改めれば私を救おうとされても、そのときでさえ、あなたが私を助けて悔い改めさせてくださらない限り、私は悔い改めることができません。私の心は石のように硬いからです! 主よ。私の石の心を取り除き、私に肉の心を与えていただけないでしょうか! また、主よ。たとい私が将来に聖くなることがあるとしても、私をそのように変えるものはあなたの恵みに違いありません。そして、私はやはり知っています。聖さは聖霊によって私のうちに作り出されなくてはならないことを。それゆえ、それは全く私の手柄にはなりません。私は、この二人の負債者のようなものです。私は『返すことができ』ません。――全くできません。もしあなたが執達吏を私のもとに遣わし、私を逮捕させ、牢に入れ、最後の一コドラントを支払うまでそこから出て来られないと通達させなさるとしたら、私はそこに永遠に入ったままにならなくてはなりません。というのも、あなたの義なる要求の一万分の一さえ自力では果たせないことを私は知っているからです。もしあなたが公正を測りなわとし、正義をおもりとなさる[イザ28:17]としたら、私の永遠のための建物は、目方の足りないことが分かる[ダニ5:27]に違いありません。それを叩きつぶしてください、主よ。そして、あなたの望む通りに私を建て上げてください!」

 ここでは、私たちはみな同等である。「何の差別もありません」[ロマ3:22]。あなたがた、体裁の良い令夫人や紳士たちも、国中で一番の悪漢と同一水準にある。閣下よ。あなたは、この点では煙突掃除人に何らまさってはいない。陛下よ。この点にかけては、陛下でさえ、御領土内で最も貧しい女にも優先されることはない。もしあなたがたが救われるとしたら、――身分の高い者も低い者も、富者も貧者も、あなたがた、お偉い権力者も、あなたがた、蔑まれ見捨てられた者たちも、――すべての者が、ここではそろってひれ伏さなくてはならない。あなたがたが地中という共通の墓に横たわらなくてはならないのと同じく、あなたがたは、共通のへりくだった心をいだきつつ、あなたの神の前でひれ伏さなくてはならない。あなたがたはみな、この神に負債があるのであり、自分がそれを「返すことができな」いと告白しなくてはならない。――全人類の中には、錆ついた一銭銅貨のような善良さすらない。ユダヤ人も異邦人も、ともに神の前にひれ伏して、こう叫ばなくてはならない。「有罪です。有罪です。《有罪です!》 私たちは、ひとり残らず有罪です。そして、あなたの義なる律法の要求に答えて、何も申し立てることができません。この告白そのものさえ、私たちの唇から強いて絞り出されたものです。なぜなら、私たちはそれが、悲しいかな! あまりにも真実であると感じざるをえないからです。私たちはみなここでは同等です」、と。

 III. 次の点に目を向けて、主権のあわれみがこの二人の負債者――五十デナリの男と、五百デナリの男――を扱うのを見るとき、私たちが着目したいのはこのことである。――《それはやはり、この二人を同一水準に置いている》。というのも、彼らの債権者は寛大にも彼らを二人とも赦してやったからである。

 五百デナリの借りがあった男は、もうひとりの負債者の方を向いて、こう云うことができた。「兄弟、私の借金はなくなったよ」。そして、相手も彼に向かってこう云うことができた。「握手してくれ給え。私は、君の言葉以上のことは云えないが、神に栄光あれ! 君と同じ程度のことは云えるのだ。私の借金もなくなったのだからね。私は自分の五十デナリを返せなかった。それで債務者監獄に放り込まれなくてはならないところだったのだ。君も、君の五百デナリを返せなかったし、君も牢獄に閉じ込められていたことだろう。そして、私には君ほど多くの負債はなかったが、それでも、私は自分に支払える以上の恩義をこうむったのだ。だから、一緒に主の御名をほめたたえようではないか。主は寛大にも私たち二人を赦してくださったのだ。なぜなら、その愛するひとり子は、私たちが穴に下らずにすむよう、カルバリの十字架上で私たちの負債をことごとく支払い、私たちを贖ってくださったからだ」。

 特にあなたに注意してほしい言葉が1つある。「金貸しは寛大にもふたりとも赦してやった」<英欽定訳>。私の理解するところ、その意味は、彼が二人を赦してやったのは、彼がそうすることを意志したという以外のいかなる理由からでもない、ということである。決して彼がそうすべき理由が何か二人の中にあったからではない。金貸しは、すっぱり二人の負債をすべて全く帳消しにした。あたかも、二人が全く一度も借金などしたことがないかのようにそうした。彼は二人を借金ゆえに捕えることはできず、二人には彼がそうすることを恐れる理由は全くなかった。金貸しは、二人に対していかなる法的要求もできなくなったからである。彼自身が、好意によるはからいによって、二人のすべての借財を赦してやっており、それゆえに二人は晴れて自由の身となっていたからである。あゝ、話をお聞きの愛する方々。あなたは、神があなたの過去の罪をすべて赦してくださったと知れば、喜びに心踊るに違いない。時として、私たちが神から受けている完璧な赦罪について語っていると、ある人々がこう云う。「何と自分勝手なことか、何と増上慢なことか!」 よろしい。そういう意味では、私たちは自分勝手になり、増上慢になるであろう。そして、そうなればなるほど良いであろう。イエスを信ずる者は誰でも完全に赦される。もし私がイエスを信じているとしたら、私に対しては、――また、もしあなたがイエスを信じているとしたら、あなたに対しては、――不利になるような罪がただの1つも神の《記憶の書》[マラ3:16]の中に記載されてはいない。それらはみな拭い去られている。たといその頁をめくることができたとしても、そこには信仰者の罪が1つも記入されていないであろう。神の御前では、もし私がキリストを信頼しているとしたら、私は一度も罪を犯したことがないのと同じくらいきよいのである。というのも、私はキリストの尊い血によって洗われて、しみも傷も私の上に残っていないからである。そして、信仰者よ。あなたも中途半端に赦されているのではない。キリストは、私たちにとって中途半端な《救い主》ではなく、完全な《救い主》であられる。そして、神が私たちに賜る赦罪は、欠けることのない最終的な赦罪である。神は、私たちがこの世に舞い戻らないという条件つきで私たちをお赦しになるのではない。神はそのような条件を全く設けていないし、私たちを舞い戻らせもなさらない。神は私たちを無条件で赦し、私たちの罪のすべてを永遠に取り除かれる。神は放蕩息子をその御胸に抱いて受け入れては、食卓に着くがいい、音楽や踊りの音[ルカ15:25]で心を喜ばせながら大いに楽しむがいい、と命じてくださる。

 あなたは知っているだろうか? 話をお聞きの方々。あなたが赦されていることを。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「そうと知ることができさえするなら、何も惜しくはありません」、と。あなたは、それを知ることができる。もしあなたが主イエス・キリストを信頼するなら、それこそ、あなたが罪赦されているという確かな証拠である。あなたは、イエスの尊い血による完璧な赦罪を絶えず自覚しながら生きることができるし、生きるべきである。この場にやって来ているひとりの人は、自分の名前が知られたり、自分の性格が描写されるのを好まないかもしれない。その人は、悪という悪の中に深々とのめりこんでしまっている。だが、その人は今、十字架の根元に立っており、十字架につけられたキリストを仰ぎ見ている。そして、その人はこう云うことができる。「私は、イエスだけを頼りとします」、と。また、おそらく、この場には、ひとりの青年もいるであろう。幼少の頃から非常に優秀で、その社会的な性格には非の打ち所がなかった。その人も、イエスの御傷を仰ぎ見て、こう云うことができる。「私は、この方だけを頼りとします」、と。さて、この二人の人物は等しく赦される。あの大罪人は、ここで赦された優秀な青年と同じくらい、《神の書》の中で非難されることはない。「金貸しは寛大にもふたりとも赦してやった」。――ひとりだけを完全に赦し、もうひとりは部分的にしか赦さなかったのではなく、「ふたりとも赦してやった」。

 私の目は、そこここにいる、キリストにある私の兄弟姉妹たちの上にとまっている。それぞれの人が辿った人生の物語が私に思い起こさせるのは、この二人の間にあった、種々の異なる部分であり、恵みが二人の中に作り出した、よく似た部分でもある。この場にいるある人々の舌は、さほど遠くない昔には冒涜のために用いられていた。その唇には酔いどれの杯がしばしば押しつけられ、酔いどれの言葉遣いが彼らの普段の話し言葉であった。だが、彼らは洗われ、きよめられ、聖なる者とされたのである。そして、今や、彼らと、道徳の通り道からさまよい出ないように守られていた者たちとには何の差別もない。私は、「何の差別もない」、と云った。時として、この差別はあると思うことがある。――多くの罪を犯し、多くを赦された者たちは、私たちの中で最も暖かい心をしており、最も忠実で、最も熱心である、と。ということは、もし私たちが若年の頃にそうした人々よりも卓越していたように思われたとしても、今や彼らの方が私たちよりも卓越しているのであって、私はほとんど彼らの聖なる喜びを、また、彼らをその多くの罪から洗ってくださった主に対する彼らの熱心な愛をねたましく思うほどである。それでも、この2つの種別の間には等しいものがある。両者はどちらとも罪赦されている。どちらとも、同じ尊い血で洗われている。どちらとも、同じしみのない義を着せられている。どちらとも等しく神の家族の子とされている。どちらとも等しく永遠の契約によって安泰である。どちらとも等しく内住の聖霊を有している。そして、両者はどちらとも等しくキリストの右に立つことになる。白い衣をまとい、棕櫚の枝を振りながら、両者とも等しく主の勝利にあずかり、こう歌うことになる。「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン」[黙1:5-6]。

 IV. さて最後に、《そこには、もう1つ違う点がある》。「ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか?」

 一部のキリスト者たちが、他のキリスト者たちにまさって主イエス・キリストを愛していることは、全く確実である。ある者たちは主を大いに愛しているが、他の者たちは少ししか愛していない。ここで描写しても良いだろうか? いかなる者がキリストをほんの少ししか愛していないかを! そうした場合、あなたがたの中のある人々は、それが自分について云われていることを悟るであろう。彼らは、きわめて規則的に礼拝所にやって来る。彼らは賛美歌を歌うが、あまり大きな声ではそうしない。熱狂主義的になりすぎるのを恐れているからである。彼らはめったに祈祷会にやって来ないし、ごくまれにしか平日夜の集会に顔を出さない。彼らが摂取する霊的栄養は、かろうじていのちをつなぐだけのものである。彼らは摂取のしすぎを恐れているのではないかと思う。自分たちの霊的性質があまりにも旺盛になるといけないからである。彼らは家庭礼拝を行なう。――時たまには。実際、きちんと祈りをささげてはいるが、非常に短くである。それは甘やかなものかもしれないが、決して長くはならない。この世である程度の善を施してはいる。少なくとも、そうであってほしいと私たちは思う。だが、彼らがキリストに導いた魂の数は片手で数えることができる。そして、彼らが主イエス・キリストのためにこれまで行なってきた良いわざは、非常に小さな紙片の上に書き尽くすことができる。彼らの中のある人々は富んでいる。そして、ある人が彼らの収入の十分の一をキリストにささげるよう求めるのを聞いたことがある。彼らは、その人を狂信者だと考えた。彼らは、その人が促したようなことを行なおうとは夢にも思ったことがない。時には献金箱に小銭を投じるが関係ない。彼らは、他の人々が熱心なことは好む。それには反対しない。ただし、そうした人々が彼らにも熱心になるよう求めない限りはである。このように少ししか愛されていない人々もイエスを信じている。だがら天国に行くであろう。だが、そのとき生じる変化は、私たちに彼らの見分けがほとんどつかなくなるようなものであろう。

 私は、全会衆がこうした種類の人々で満ちているのを見たことがある! 私は、こうした人々に説教したことがある。――それがすさまじい務めであったことは請け合っても良い。私はその執事と連れ立って帰宅した。そして、彼もやはりこの種の人間であった。彼は、ロンドンで御国がいかに進展しているかについて何の関心もなかった。信仰復興について云えば、そうした兄弟たちの前でその一言を口にするや否や、彼らは云う。「そうしたものからは、何の良いものも出たことがありません」。こうした人々は少しだけ赦されており、それで少ししか愛さない。彼らは決して非常な大罪人だったことがなく、決して何かを非常に深く悔い改めたこともない。それで、彼ら自身の見きわめによると、彼らは決してイエス・キリストに大した恩義をこうむっていない。彼らは、一種の薄っぺらなキリスト者であり、「火の中をくぐるようにして助か」[Iコリ3:15]ることになる手合いである。

 キリストを大いに愛している人々を描写する必要はほとんどないであろう。――彼らが喜びを感じるのは主を賛美し、主の御名によって祈り、その全力をあげて主を他の人々に知らせることである。――彼らは、御国の進展のために、通常では考えられないほどの額を献金し、私たちがサタンと戦うための助けを、通常では考えられないほど行ない、キリストの福音の伝播を、普通はありえないようなしかたで助ける。先週、私たちの中のある者らがある集会に出たとき、そこにはひとりの愛する同労者が出席していた。その両眼の炎だけで、私たち全員を火と燃え立たせるように思われた。そして、彼がこの演壇から語るのを聞いたとき、この場所そのものが、真理を熱烈に告げ知らせる彼の力と、その熱情のこもった祈りの下で揺れ動き始めた。このように魂と心のありったけを注ぎ出す人が生気のない、鈍重な、もごもごした説教を語ることはありえないし、彼は活気のない、冷えきった、心の沈んだ信徒たちを有することに耐えられない。彼は多く赦されたと感じており、それゆえ、彼は多く愛するのである。また、あなたがたには何人かの敬虔な姉妹たちのことを告げることができよう。神の御国の進展のために、その生活費のほとんどすべてをささげてきた人々である。また、他の、神への奉仕のために自分の全時間をささげてきた人々、キリストの御国のために専念しようと、他のすべてを犠牲にしてきた人々のことを告げることができよう。こうした人々こそ多く愛する人である。

 伝道牧会の場においてさえ違いはある。ある兄弟たちは一週間に二度も説教すると疲れ果ててしまい、休暇を取ってはどこかへ出かけてしまう。だが、他の人々は、一週間に十回も説教することができる。あるいは、たとい説教していなくとも、一軒一軒、自分の信徒たちを訪問している。だがしかし、彼らは死ぬことがなく、このように神に仕える力を有していることで神をほめたたえる。講壇がそうであるように、《日曜学校》も同じであり、あらゆる種別のキリスト者たちについてそうである。――そこには違いがある。ある人々は心のありったけを注ぎ出し、他の人々には全く心が欠けているように思われる。ある人々は、魂のすべてを注ぎ出して主に仕えており、他の人々は自分の時間と力の半端物しか与えない。願わくは神が、私たちの間に、その恵みとキリストへの献身とにおいて卓越した兄弟姉妹を数多く起こしてくださるように。

 この点に達するための最上の道は何だろうか? 大罪人となることではなく、自分が大罪人であると感じること、自分自身の罪深さを深く実感することである。もしあなたが決して公然たる悪徳にどっぷり漬かったことがないとしたら、自分がそうならなかったことを感謝するがいい。だが、この説教の前半で云い表わそうと努めてきたようなしかたで自分の罪を考えるがいい。その明確な姿を見据えて、心をへりくだらされ、打ち砕かれ、その巨大な重みの下で粉砕されるまでとなるがいい。それから、この罪の重荷をかかえてイエス・キリストのもとに行き、キリストを信頼して、自分がその贖いの犠牲によって赦されていることを知るがいい。そうすれば、あなたの内側には、あなたの全生涯に力を授けるだろう強力な動機があることであろう。それが、あなたのキリスト教に筋肉を、神経を、腱を、骨を生じさせるであろう。そして、あなたはこう歌うであろう。

   「多く愛すや? われ多く赦さる
    恵みの奇跡ぞ」。

願わくは神が、罪ゆえの負債に深く陥って震えているあわれな魂たちのために、この使信を祝福してくださるように。そして、彼らが神の道を見てとることができるように。神の愛する御子、イエス・キリストの功績と死とによって赦される道を。また、多くを赦されている者たちがイエスを多く愛するようになるように。願わくは神があなたがた全員を祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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二人の負債者[了]

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