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病める説教者による説教

NO. 3014

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1906年11月15日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1869年、主日夜


「したがって、信じているあなたがたには尊いものです」。――Iペテ2:7 <英欽定訳>


 私の兄弟たち! 今晩の私は、あなたがたに語りかけるには、まことに気分がすぐれない。からだの調子が非常に悪く、ことのほか心機が抑鬱しているのを感じる。だがしかし、あなたに僅かでも言葉をかけるべく努めるのを我慢することはできなかった。きょう取り上げた聖句を私は、眠っていても説教できると思う。そして、私の信ずるところ、たとい私が死につつあり、恵みのうちにかの古い行路へ導かれつつあるとしても、今回選んだ喜ばしい節については、今際の息で、心から言葉を発することができるであろう。たまたまこれは、私が最初に公の話をしようとした際に主題とした箇所である。そのときの私は十六歳の少年でしかなかった。そして、確かにここには、その日以来いまに至るまで私が常に講壇で教えてきたことの核心が含まれているに違いない。この言葉は、ペテロの手紙第一2章7節にある。「したがって、信じているあなたがたには尊いものです」。

 もしも私たちが、神また完璧な人としてあられるキリストの尊さについて詳しく話すことにするなら、「広大な余地と十分な範囲」を見いだすことができよう。その御父にとってのキリストの尊さ、聖霊にとってのキリストの尊さ、御使いおよび栄化された人間たちにとってのキリストの尊さについて語ることができるであろう。次に私たちは、そのみわざの尊さにおけるキリストについて語ることができるであろう。新しい契約の《仲保者》としての、また、地上においてその契約を伝える、受肉した《使者》としてのキリストの尊さについて語ることができるであろう。完璧な義を作り出すお方としての、また、完全な償いを行なうお方としてのキリストの尊さについて語ることができるであろう。また、《預言者》、《祭司》、《王》といういずれの職務におけるキリストの尊さについても、《友》、《兄弟》、《花婿》といういずれの関係におけるキリストの尊さについても、詳しく語ることができるであろう。実際、私たちの前にある主題は、神の川[詩65:9]のように尽きることなく、青玉のように明るく輝いている。もし私たちが、《愛する方》がいかに尊いかを示そうとし、あらゆる点でそれを完全に行なおうとするなら、その務めには永遠を要するはずである。

   「げに尊きは イェスの御名
    その価値(ね)半ばも 誰(た)ぞ説明(と)けん?
    天使(あま)つ賛歌(みうた)を 凌駕(なおこ)えり、
    金琴(たてごと)甘く ほむるとも。

   「尊き主、呻き カルバリに
    呪われし木を 支えたり。
    尊き主、死にて 贖えり、
    わがため罪を 終結(とど)めたり。

   「尊き主、鞭打(むち)の 血に染まり、
    神聖(きよ)き雫を 流したり。
    尊き主、御怒(いか)り 高まりて
    汚れなき魂(たま) 呑むときも。

   「尊き主、勝利(かち)を 死におさめ、
    地獄(よみ)の軍勢(つわもの) 打ち破れり。
    その復活(よみがえり) 栄え満ち
    萬敵(てき)を踏みしき 冠(かむり)受けん。

   「尊きかな、主よ! いや高く
    汝が麗しさ 照り映えて、
    栄光(さかえ)と誉れ、力と祝福(めぐみ)、
    これより永久(とわ)に 汝れがもの」。

 この聖句の言葉遣いによって、私たちの思念は1つの点に結びつけられる。「したがって、信じているあなたがたには尊いものです」。これはキリストがいかに尊くあられるかということよりは、むしろ、キリストがあなたにとっていかに尊くあられるかということである。もしあなたが信仰者であるなら、この聖句は確証しているのである。イエス・キリストは、いかなる限定的な形容詞も付属させずに、あなたにとって尊いお方である、と。

 I. 第一に、しばしここで語りたいと思う真理は、《イエス・キリストが今、信仰者たちにとって尊いお方である》ということである。

 よく注意するがいい。いかにイエスが個人的に尊いお方かを。この聖句には2つの人格が含まれている。「したがって、信じているあなたには《彼は》尊いものです」<英欽定訳>。「あなた」と「彼」である。あなたは現実の人格であり、自分がそうしたものであると感じている。あなた自身にとって、あなたはありとあらゆる存在の中で最も現実的なものであるに違いない。あなたは、自分のことを歴史の中で読む人物だとか、講話の中で聞く人物だとか、何年も前に窓から眺めた人物だとして考えはしない。あなたは、(他に代わる言葉がないため、醜い言葉を使えば)あなた自身を現実視してきた。あなたは、あなた自身の存在について全く明確である。さて、それと同じように、私は切に願う。もうひとりの《お方》をも努めて現実視してほしい! 「したがって、信じているあなたには彼は尊いものです」。イエスはあなたが存在しているのと全く同じくらい現実に存在している。そして、あなたはイエスを、千八百六十九年前に地上にいた人物だとか、話に聞いたことのある人だとか、詩的想像だとみなしてはならない。むしろ、現実のキリストがいま存在しているのである。この場に霊において存在しており、御父の右に現実の血肉をもって立っておられるのである。そして、この方とあなたの間には、もしあなたが信仰者だとしたら、1つの結びつきの絆が存在しているのである。目に見えないが、それにもかかわらず、最も事実に即した明確な絆である。あなたはこの方を信じ、この方はあなたを愛しておられる。あなたもこの方を愛し返し、この方はあなたの心にその愛の感覚を注いでくださる。あなたがた二人はしっかりと堅く結びつけられている。この方のうちにも、この方とあなたの結び合いのうちにも、全く神話だの夢だのはない。この方は存在しており、あなたは存在しており、この方はまぎれもなく、最もあなたにとって尊いお方である。

 また、やはり注意すべきは、この聖句が、こうした、鮮やかな個人的な雰囲気という光を放っている一方で、――そうした雰囲気のことをほとんどの信仰告白者は分かっていないが、――それは、この上もなく堅固な明確さによって重みあるものとなっているということである。「したがって、信じているあなたがたには尊いものです」。これは、主が尊くなるかもしれず、尊くならないかもしれない、というようには語っていない。むしろ、「尊いものです」、と語る。キリスト者としての私個人には、しばしば疑問の的となる問題がいくつかある。私は、自分が恵みにおいて成長しているかどうか、真剣に疑問視して良い。そして、このような疑念の下にあって、果たして自分が私の主をより良く愛しているか、あるいは、より十分に自分の罪に打ち勝つようになっているか、自分の心を調べて良い。だが、1つのことだけは疑えない。すなわち、この方を信じる信仰者として、イエス・キリストは言葉に尽くせないほど私の魂にとって尊いお方だということである。もしあなたが自分の信仰を疑っているとしたら、果たしてキリストがあなたにとって尊いお方かどうか疑っても良い。だが、もしあなたの信仰が確かであるとしたら、あなたの心にとってキリストが尊いお方であることは全く確実である。「尊いものです」。もし新しいいのちがあなたのうちにあるなら、あなたは魚が流れを愛すか、鳥が空中を愛すか、勇敢な人々が自由を愛すか、あらゆる人々が自分のいのちを愛するのと全く同じくらい確実に《救い主》を愛しているはずである。ここでは、いかなる不安も大目に見てはならない。この、あなたのキリスト教信仰の死活に関わる点については、いかなる論議も許してはならない。イエスはあなたにとって尊いお方でなくてはならない。もしイエスの尊さを見つめるあなたの視力を何らかのちりが曇らせているとしたら、あなたの目をきよめるがいい。そして、あの花嫁の言葉を借りれば、あなたがこう云えるまで満足してはならない。「私の愛する方は、万人よりすぐれています」*。「あの方のすべてがいとしい」[雅5:10、16]、と。

 さらに注目すべきは、この聖句の絶対性である。「したがって、信じているあなたがたには尊いものです」。いかにこの方が尊いかは記されていない。この聖句は、いかなる形の算定によっても、新生した魂がその胸の主を値踏みする代価を測ろうなどと試みていない。この方が、そこそこに尊いなどということは全くほのめかされていない。相当に、あるいは、比較的に尊いとさえ云っていない。それゆえ、私は自分が、できるものなら、この言葉、「最高に」を差し挟んで良いものと推論する。そして確かに、そうしたとしても何の誇張にもならないであろう。というのも、目にとっての光よりも貴重で、からだにとってのいのちよりも貴重なものが、聖化された心にとってのイエスだからである。聖徒たちはひとりひとりが真実にこう歌うことができる。――

   「おゝ、わが魂(たま)に汝れ 上なく尊く
    果てなき喜び わが身の頼り
    汝れに宝石(たから)は 華美(あだ)し玩具(なぐさみ)
    黄金(こがね)は卑しき ちりひじならん」。

いかにきらめく宝石も貴金属も、いかなる王家の宝器も、希有な宝石類の小箱も、イエスの価値と等しいことはあり得ない以上、そうした比較はむなしい。それゆえ、私たちはこの方を、全くの別格として扱い、この方が信仰者にとって絶対的に尊いと云うものである。黄金は尊いが、金剛石はそれよりも尊い。そして、金剛石に比べれば、黄金は大して重要ではない。金剛石は尊い。だが、最良品質の金剛石を詰め込んだ袋をある人に与えて、砂漠に放り出すか、荒れ狂う大海原に投げ出すがいい。その人は自分の金剛石をことごとく投げうっても、一口の真水を飲むか、パンの皮を食べようとするであろう。それで、ある場合には、最上の水晶でさえその価値を失うことがあるのである。事実、鉱物などは単に恣意的な価値のしるしであって、それ自体としてはほとんど価値を持たない。黄金は、それ自体では鉄よりも役に立たない。一個の金剛石は、一個の硝子玉とほとんど同じくらいつまらないものである。それらは、決して何も絶対的な――いかなる状況にあっても同じであり続けるような――本来的価値を有していない。しかし、キリストは絶対的に尊い。すなわち、何物もキリストに比肩することはできず、ましてキリストを越えることなどありえない。そして、キリストはいかなる状況にあっても尊い。いかなる時が訪れようとも、キリストの価値に不足があると告白せざるをえなくなったり、キリストに対する私たちの評価を切り下げざるをえなくなるようなことはない。キリストは無限に尊い。おゝ、わが魂よ。お前はキリストをそのように評価しているだろうか? わが心よ。お前はこのことを確信しているだろうか? お前にとって、キリストが比類なく尊いものであることを。明確に尊く、比較的尊いことを。天国そのものと比較されようとも最高に尊く、他の何にもまして、夢に見、想像されうるいかなるものをも越えていることを。キリストは、魂と心にとって本質的に尊いもの、あらゆる価値の基準そのものだろうか! そうあるべきである。この聖句はそれ以下のことを意味していない。「したがって、信じているあなたがたには尊いものです」。

 私が、ここでくっきり際立たせたいと願っている思想は、このことである。イエス・キリストは今日、ご自分の民にとって絶えず尊くあられる。ある魂がイエスを信ずる瞬間に、そのもろもろの罪は赦される。よろしい。ならば、あらゆる罪を洗い流すこの尊い血は、そのことで用済みにはならない。おゝ、しかり! 信じているあなたがたにとって、――確かにあなたは信じて自分の魂を救われてはいるが、――主は今なお尊い。というのも、あなたの咎意識はあなたの良心に舞い戻るし、あなたはこれからも罪を犯し、なおもからだの中にあるからである。だが、なおも血で満たされた泉はある。こういうわけで、あなたにとって、体験的に、きよめを与える贖罪は、あなたが最初にその償いの力に頼ったときと変わらず尊いものなのである。否。イエスは今のあなたにとって、最初あなたがその血で洗われ、雪のように白くされたときよりもずっと尊いお方であられる。というのも、あなたは、自らの数々の必要をずっと完全に知っており、主の救いに至る恵みがいかにあなたの必要を満たすものであるかをずっと数多く試してきたし、主のほむべき御手から一千も多くの賜物を受けとってきたからである。実に残念なことながら、一部のキリスト者たちは、信じた後ではすべての片がついたと想像しているのではないかと思う。だが、私の主イエス・キリストは、決して使い切られて、もう何の役にも立たなくなった古暦ではない。何箇月も前に私が服用した薬のように、そのときに私の病気を癒してくれて、今や、その残りは棚に置いておき、笑って話せるようなものではない。おゝ、否! 主は今なお私の天来の医薬である。今なお私は主を必要としており、今なお私は主を有している。もし私が主を信じているとしたら、私は自分が今まで以上にずっと主を必要としていると感じるし、主はこれまで以上に私にとって貴重なお方である。もし私が以前はあわれな咎ある罪人として主を必要としていたとしたら、私は全くそれと同じくらい、あわれな困窮する聖徒として主を必要としており、主の日ごとの恵み深さにすがりつき、主のいのちから絶え間なくいのちを引き出し、主の尊い血の効力から平安を引き出し、私に対してあふれ流れる主の愛から喜びを引き出しつつあるのである。キリストが信仰者にとって価値を失うどころか、この聖句の要点はここにある。――信仰者よ。あなたはキリストを得るとき、また、キリストがあなたにもたらしてくださるものを得るとき、決してキリストを、あなたによって最後の一滴まで飲み干された空っぽの器であるかのように思いみなしてはならない。むしろ、それまでのあなたがそうしてきた以上に、いや高くキリストを尊重するべきである。キリストは、決して掘り尽くされて空になった金山でも、収穫を刈り取られた畑でも、葡萄が取り尽くされた葡萄畑でもない。キリストは今なお朝露のような若さを有しており[詩110:3 <英欽定訳> 参照]、その力は満ち満ちており、その富は無限であり、その力に欠けるところはない。

 II. さて、愛する方々。もうほんの数分だけ、いかに《キリストが今日もあなたにとって尊いお方であるか》を考えてみよう。

 主が今日もあなたにとって尊くあられるのは、ただ主の血によってのみ、あなたは、今日の今もなお、神の御怒りにさらされ、罪に定められた罪人とされることから免れているからである。あなたの魂の上には、私の兄弟、私の姉妹よ。きょうのこの日でさえ、あなたを地獄に叩き込むのに十分なだけの罪がある。そうならずにいるのは、ひとえにあなたの保証人が、あなたと神の正義との間に立っておられるためにほかならない。あなたはきょう、罪深い人々とは全く仲間づき合いをしなかった。あなたは自分の《日曜学校》学級に出た。そして、私は講壇に立っていた。だが、あゝ! あの尊い血がなかったとしたら、私の講壇上でのもろもろの罪は、私をきょう罪に定めていたであろう。また、あの愛する《仲保者》があなたと神との間に立っておられなかったとしたら、あなたの《日曜学校》でのもろもろの罪は、あなたを地獄に閉じ込めていたであろう。見ての通り、主があなたにとって尊いのは、単にあなたが最初に信じた日だけではない。それ以来ずっと、あなたが罪人である限り、この《とりなし手》は立ってあなたのために弁護しており、常にあなたの罪を取り除いておられるのである。きのうも、きょうも、いつまでも、あなたの《救い主》、あなたの盾、あなたの守りであり、それゆえ、常に最高に尊いお方なのである。

 また覚えておくがいい。主が尊いのは、あなたの有する義が、今なお主の完璧な義のほかないからである。あなたを神に弁護するものは、あなたが何をしている者かではなく、《主が》何をなさるお方かである。あなたは今この瞬間にも受け入れられているが、単に「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]ているにすぎない。あなたが義と認められているのは、あなたが甘やかな心持ちを感じるからでも、あなたの心が神の御名を喜んでいるからでもない。おゝ、否! あなたが受け入れられているのは、ことごとく、あなたの大いなる《代理人》においてである。そして、もしこの方とその恵みの組立てすべてが引き込められてしまうことが可能だとしたら、また、契約の約定が撤回されることが可能だとしたら、あなたは、失われた霊たちも同然に受け入れられない者となり、彼らのように永遠に神の御顔といつくしみのもとから放逐されることであろう。ならば、主はあなたの受け入れられた《身代わり》として、今のこの時も、この上もなくあなたにとって尊いお方ではないだろうか?

 さらに、愛する方よ。イエス・キリストが今この瞬間もあなたにとって、可能な限り最大に尊いお方であられるのは、今からは、主の模範こそ、あなたが努めて見習うべきものだからである。主がその民にとって模範である限り、主の人格は常にあなたの評価においては最も賞賛されるべきものであり、この日、あなたは、主のご生涯の中に神の律法が次のように現われていることを知って喜んでいる。――

   「描かれおりぬ、生ける文字にて」。

あなたは今、主のようになりたいと熱望している。あなたは、主が現われる日に、完璧に主に似た者となることを期待している。さて、主があなたに、やがてあなたのなるべき姿を示しておられるからには、また、あなたをあなたの未来の姿に変える力が主のうちに宿っているからには、主は、あなたにとって日ごとに尊いお方ではないだろうか? あなたが罪と戦う度合に応じ、また、あなたが内なる切望と、崇高な慕いあえぎとによって聖潔を求めている度合に応じて、すべての完全さの典型であられるイエス・キリストは、あなたの評価において尊いお方なのである。愛する方々。あなたはキリストとともに十字架につけられるべきである。あなたの肉は、その腐敗と情欲とともに、主の十字架上で、主が死んだように死ななくてはならない。主の死の効力によってこそ、罪があなたの中で死ぬことになると信じるとき、主は尊いお方ではないだろうか? あなたは主にあってよみがえることになっている。否。あなたはすでに主にあって、よみがえっており、いのちにある新しい歩み[ロマ6:4]をするようになっているものと思う。私はあなたが、いやまして復活のいのちを慕いあえいでいるものと思いたい。あなたがもはやこの世の死んだ物事を重要視することなく、むしろ、永遠の物事のために生きるようになっていてほしい。そのいのちが「キリストとともに、神のうちに隠されてある」[コロ3:3]者としてである。もしそうだとしたら、私には分かる。あなたはよみがえられた《救い主》を尊ぶであろうし、このよみがえりのいのちの交わりをより深く吸い込むにつれて、このお方をありがたく思うことがいや増していくであろう。忘れてはならない。愛する方々。私たちの《贖い主》はすでに天へ上られたのであり、その昇天にあらゆる聖徒はあずかっているのである。私も、あなたがた全員がすでに十分にあずかっているとは云わない。だが、そうする度合に応じて、あなたはキリストを尊いお方とみなすであろう。というのも、主は私たちを「ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて」[エペ2:6]くださったからである。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」[ピリ3:20]。主の《再臨》こそ、私たちの霊的いのちの完成となり、その隠れた美しさが明かされ、神の子らが明らかに現われる時となる。あなたが、自分の王家の相続財産の中に入り、その中で生き、それを信じる度合に全く応じて、イエス・キリストはあなたにとって尊いお方となるであろう。

 愛する方々。あなたに1つ秘密を告げさせてほしい。あなたがたの中の多くの人々にとって、キリストの中には、あなたがすでに享受しているのと同じくらい、まだ発見されていないものがあるのである。あなたの信仰は、まだ単に、地獄に下っていくことから救ってくださるお方としてキリストをつかんだにすぎない。――キリストはそこまではあなたにとって尊いお方である。だが、もしも今、あなたがキリストと1つであり、そのからだの部分[エペ5:30]であり、その肉でありその骨である事実、また、神の相続人であり、キリストとの共同相続人である[ロマ8:17]事実を、あなたの信仰が把握するとしたら、あゝ、そのときには、あなたにとっていかにイエスは倍増しで尊くなることであろう! あなたの信仰がより多くをつかんで、ずっと広々としたもの、ずっと大きな内容をわがものとしたものとなるにつれて、確実にキリストはあなたにとって尊さを増していくことであろう。私の確信するところ、この言葉の中には、神の聖徒たちの中の誰ひとりとしてまだ発見することができないでいる1つの意味がある。イエスの深い神秘的な尊さである。キリストを密接かつ親密に知り、交わるという、ほとんどの人があずかることのない恵みである。「したがって、信じているあなたがたには」、――あなたが信じている度合にまさしく応じて、――あなたの信仰がより広く、より強く、より深く、より純粋に、より崇高に、より完全に成長したものとなるにつれて、――イエス・キリストはあなたに尊いお方となる。ならば、イエスをあなたにとってもっと尊いお方とするために、より大きな信仰を求めるがいい。願わくは神がそれをあなたに授け給わんことを。その御名のゆえに!

 III. その点についてはそこまでとし、今から別の点について少々語ることにする。《イエスは、信仰者たちにとって尊いお方であるため、彼らに対して有効に働いてくださる》。キリストの尊さは、ご自分の聖徒たちを聖さと義へと持ち上げる際の、いわば、てこの力なのである。

 それを示させてほしい。キリストを信頼する人はキリストを尊ぶ。私は自分が尊ぶものを堅く保つ。こういうわけで、私たちがキリストを尊ぶことは、私たちが誘惑の時に堅くとどまる助けとなるのである。この世はキリスト者に向かって、「わたしについて来なさい。そうすれば、あなたを富ませてあげましょう」、と云う。「いいや」、とキリスト者は云う。「お前が私を富ませることはできない。私にはキリストがある。私は十分に富んでいるのだ」。「わたしについて来なさい」、とこの世は云う。「そうすれば、あなたを祝福してあげましょう。あなたにあれこれの肉の楽しみを与えましょう」。「いいや」、と心は云う。「お前が私を祝福することはできない。こうした事がらは呪われており、楽しみではなく悲しみをもたらすからだ。イエス・キリストが私の楽しみであり、この方を愛し、この方のみこころを行なうことが私の喜びとなるのだ」。キリストを尊べば尊ぶほど、誘惑に対してあなたが力を増すことが分かるではないだろうか? 悪魔はあれやこれやであなたを誘惑するかもしれないが、イエス・キリストが他の一切にまして尊いお方であるとき、あなたは云うのである。「下がれ、サタン。キリストが私の霊にとって貴重なお方である限り、お前は私を誘惑できない」。おゝ、願わくはあなたがキリストに重きを置き、そのようにして誘惑の日にも堅く保たれることができるように!

 さらに注意すべきこととして、このようにキリストを尊ぶことによって信仰者は、犠牲を払うことを助けられる。犠牲を払うことは、いかなる高潔な人格においても大きな部分となる。自分のキリスト教信仰において全く何の犠牲も払わないという人は、抜け目なくこう思っているのかもしれない。キリスト教信仰には、自分自身の実際的評価を越えたものを与える価値はない、と。だが、ある人が非常に重要な文書を持っていて、そこに自分が財産を相続する資格がかかっているとしよう。その場合、泥棒がそれを彼から取り上げようとするなら、その人は、その泥棒から洋服をずたずたにされ、他の何を奪われようとも、自分のその宝物は手放さないであろう。北米土人の使者たちは、宝石類を託されたとき、盗賊から守るためにそれを呑み込んでしまうという。身に着ているあらゆる布きれを脱がされ裸にされても酋長から預かった宝石類を失わないためである。そのように、キリスト者はこの世に対して云うであろう。「私の富を取り去るがいい。私の生計の道を取り去るがいい。そうしたければ、おゝ、嘘つきの世よ、私の良い評判を取り去るがいい。だが、そのすべてにもかかわらず、私は私の《救い主》を保ち続けるであろう。主は尊いお方だからである!」。と。「皮の代わりには皮をもって」[ヨブ2:4]する。人はキリストのためには、すべての持ち物を与える。そして、その人にとってキリストが尊いお方であるならば、決してキリストを手放したいとは思わず、手放すこともできない。

 ならば、見るがいい。イエスを信じることによって、イエスは尊いお方になり、イエスが尊いお方であることによって、私たちはこの上もなく朗らかに愛する主のために犠牲を払うことが助けられるのである。

 さらに、兄弟たち。このようにキリストを尊ぶことによって、私たちは罪に対して油断なく警戒するようになる。私は云うであろう。何と、イエス・キリストが私の屋根の下に宿らなくてはならないというのか? ならば、主が私の心の中に住んでおられる限り、私は、主の耳障りとなるような鳴き声を上げ始めかねない、いかなる罪という汚れた鳥にも休み場を与えはしないであろう。しかり。お前たち。キリストの敵ども。すぐに失せ去れ、失せ去れ、失せ去れ! 私の《愛する方》には、私の霊の最上の部屋を与えるのだ。お前たちの不潔な足で汚されていない部屋を。私たちは、私たちの魂を愛する天的な《お方》を嘆かせるようなことを行なうのではないかと恐れる。このために私たちは、自分の衣を白く保ち、この泥まみれの世界を通り抜けるとき慎重に歩む。こういうわけで、キリストを正しく尊ぶ人は、この上もないほど聖化を極度に押し進められるのである。《贖い主》を愛する人は、自分自身を最上にきよめる。自分の主がきよくあられるのと全く同じようにである。

 それに加えて、愛する方々。キリストを高く尊ぶことによって、キリスト者は人生においていかなる人々とつき合うべきかを正しく選ばされる。もし私が《天来の主》を尊いお方と考えるなら、いかに私はこのお方を尊重しない者たちと交わっていられるだろうか? あなたは洗練された趣味と教養ある心をした人が、全くの田夫野人の間で幸せにしているのを見いだすことはないであろう。「類は友を呼ぶ」のである。労働者たち、また、商人たちは、それぞれの職業に従って仲間になる。キリストを愛する者たちは、キリストを愛する者たちを喜び、ともに集まることを楽しみとする。というのも、自分たちの一致する事がらについて互いに語り合えるからである。私があなたに勧めたいのは、自分が会員となるべき教会、また、自分が話を聞くことになる牧師を、この1つのことによって選ぶことである。その教会にはどれだけ多くキリストがおられ、その伝道牧会活動の中にはどれだけ多くキリストの香りがあるだろうか。神の子どもが、単なる美辞麗句に魅了されるのは良くない。さながら、食卓用小刀や肉叉のためだけのために、あるいは、赤褐色の食卓の光沢のためだけに、ご馳走の食卓を選ぶのが良くないのと全く同じである。あなたは魂のための食物を必要としており、長い目で見ればイエス・キリストのほか真の心を養うものはない。キリストこそ御民の飲み物であり、食物なのである。キリストへの愛があるとき、すぐにキリスト者は単なる雄弁術には満足できなくなる。イエスを抜きにした場合、最良の教理にも満足できない。「だれかが私の主を取って行きました」、とその人は云う。「どこに置いたのか、私にはわからないのです」[ヨハ20:13]。私はイエスについて聞かなくてはならない。そして、もしその銀の鐘が鳴らないとしたら、他のすべてがそれなりに鳴るとしても、私の耳は、その天界の音を聞くまで落ち着かないのである。

 このようにして、キリストを崇高に尊ぶことが、キリスト者の全経歴を通じて働いていることは、それを辿る時間さえあれば、なおも見てとられるであろう。

 これ以上詳しく列挙する必要はほとんどないであろう。だが、次のことに言及せずにおくことはできない。すなわち、この贖い主の臨在を感じることによって、キリスト者は用いられる者となる。というのも、心の中に大きくかかっているものは、すぐに舌へと這い上るものであり、心から出た証しこそ福音を伝播させる著しい方法だからである。もしあなたがキリストを大いに愛しているとしたら、キリストについて語るであろう。口をつぐんでいれば、あなたの魂はほとんど窒息させられそうになり、沈黙を守っている間、あなたの心はあなたのうちで熱くなり[詩39:3]、とうとう、もはや隠しておけない骨の中の火のようになり、外に現われ出て、あなたは他の人々にこう云うことであろう。「私の《愛する方》は、あらゆる愛される者たちの中で最も美しく最も尊い方です。おゝ、あなたがたがみな、私のようにこの方を知り、この方を愛するようになればどんなに良いことでしょう! この方を見るなら、その御顔は太陽よりも強く照り輝いています。この方に聞くなら、その御声は天国の合唱よりも甘やかです。この方のもとに近づくなら、その着物は没薬、蘆薈、肉桂[詩45:8]の香りを放っています。そして、この方を信頼するなら、この方が忠実さと真実さそのものであることが分かるでしょう」。言葉は途切れ途切れであっても、文章は律動的な和音のように流れなくとも、キリストを本当に愛している者は、どうにかして口に出さざるをえない。このようにして、自分が《王》に触れて行なった事がらを、燃える心をもって告げ知らせることによって、他の人々はこの良い訪れを耳にし、こう問うであろう。「この《尊いお方》とは誰だろう?」 そしてその人々は、神のありがたい御霊によって、この方を求めるように導かれ、この方を見いだしもするであろう。だからキリスト者は、キリストを尊ぶことによって、人々の魂のため用いられる者となるのである。実際、先に述べたように、それはキリスト者である人の人間性全体を動かし、それを主に対して聖いものへと変えていくことであろう。

 IV. キリストがこのように尊いお方である以上、《その尊さは、私たちのキリスト教の試金石となる》

 このささやかな話をこれ以上引き延ばすことはすまい。だが、しめくくりに、1つの問いをあなたに発したいと思う。愛する兄弟姉妹たち。あなたがよくよく知っているように、私は健全な教理の価値を決してけなすような人間ではない。私は、私たちがみな、今しているよりも、はるかに聖書に親しむ者であってほしいと思う。また、恵みの諸教理がもっと私たちの心に焼きついて離れないようになってほしいと思う。だが、一部の人々は、一連の教理を愛しすぎるあまり、髪の毛一筋でもそこからそれる人のことを、骨の髄まで腐り果てているとして非難する。彼らは、「シボレテ」[士12:6]と云わない者、「あゝ」を非常に耳障りに発音するような者とつき合おうとしない。彼らは、自分たちと意見がぴったり一致しない、あらゆる神の民を切り捨て、糾弾する。さて、よく聞くがいい。聖書にこうは書かれていないのである。「一式の教理を信じているあなたには彼は尊いものです」。それは正しい。だが、この聖句にそうは書かれていない。この聖句は、「したがって、信じているあなたには彼は尊いものです」、である。キリストを尊いとみなすことの方が、正統信仰を尊いとみなすことよりもまさっている。ある信条を愛することではなく、イエスを愛することこそ、あなたがキリスト者である証拠なのである。あなたは、頑迷偏狭さのあまり、国法さえ妨げなければ、自分と意見を異にする者たちを平然と火刑に処すほどになることがありえる。それでいながら、あなたの心の中には神の恵みが全くないのである。私はプロテスタント主義を愛している。だが、私が恐怖を覚えるものがこの世に何か1つあるとしたら、それは同胞市民に対して冷笑と怒りだけを浴びせかけながら、真のプロテスタント主義については雌豚ほども知らないという政治的プロテスタント主義である。偉大なプロテスタント主義の諸真理――単に、プロテスタントの支配勢力ではないもの――、また、そうした真理の大いなる隠れた力こそ、それらの単なる文字をはるかに越えて、尊ばれるべきである。あなたは、自分が唯一まことの教会の一員であるという考えをあなたの頭に入れ、また、ありったけのうぬぼれで身を包んでいながら、それでも全く恵みを持たない者であることがありえる。キリストへの愛こそ、事の根幹である。私の兄弟よ。私は、あなたが何らかの点で不健全な見解をいだいているとしたら非常に遺憾に感じる。だが、もしイエスがあなたにとって尊いお方だとしたら、私は心の底からあなたを愛する。私は、信者のバプテスマを放棄しはしない。それは私の発明ではない。それゆえ、私は私の《主人》の定めた儀式を捨てはしない。それは聖書的であると私は確信している。私は選びの教理を放棄しはしない。それは、みことばの中に非常に平易に教えられていると私には思われる。だが、いかなる教理や儀式よりも上に、また、あらゆることを越えて、私の兄弟よ。もしあなたがイエスを信じているとしたら、また、もしイエスがあなたにとって尊いお方だとしたら、私はあなたを胸にかきいだくであろう。というのも、それこそ死活に関わる点だからである。こうしたことこそ、キリスト者を特徴づける事がらだからである。他の何も、これほど真実な試金石はない。もしあなたが、「イエスは私にとって尊いお方です」、と云えないとしたら、あなたがどの教会に属しているか、あなたがいかなる信条のために命をかけるかなどどうでも良い。あなたは、キリストがあなたにとって貴重なお方となっていない限り、神の真理を知ってはいないのである。

 これは、この場にいるひとりひとりにとって試金石として役に立つ。私の兄弟よ、私の姉妹よ。あなたは信じているだろうか? 神の御子でありながら、この地上で《処女》からお生まれになったお方を。あなたはより頼んでいるだろうか? 十字架の上でご自分の心血を注いで罪人たちを贖われたこのお方だけを。あなたは頼りにしているだろうか? 今ご自分の祭司服をまとって、無限の威光の御座の前に立ち、正しくない者がご自分によって生きられるように、彼らのためにとりなしておられるお方を。そうだとしたら、この問いに答えるがいい。あなたは今、イエスを愛しているだろうか? あなたの心と魂とで愛しているだろうか? イエスに仕えたいと思っているだろうか? 仕えているだろうか? これからもお仕えするだろうか? この日から先、この方のしもべとなると申し出るだろうか? 今あなたは宣言するだろうか? 唇をもってでなくても、あなたの魂によって正直に云うだろうか? 「この方は私にとって尊いお方です。私は、他のいかなるものを投げ出そうと、この方を投げ出したくはありません」、と。ならば、あなたは幸せである! 幸いな者となり、喜ぶがいい。主の食卓のもとに来て、その愛の饗宴で主とともに大いに楽しむがいい。

 そうでないとしたら、あなたはまだ岩の上に建てていないのである。もしあなたがキリストを愛していないとしたら、私は切に願う。自分を吟味し、自分がどこにいるか見てみるがいい。というのも、あなたと地獄との間にはただ一歩しかないからである。悔い改めよ! 願わくは神があなたを回心させ、今あなたの信頼をイエスに置かせ、あなたを救い、ご自分に栄光を帰す者としてくださるように! というのも、これまで主はあなたからは何の栄光も帰されていなかったからである! 信じていないあなたにとって、キリストは尊いお方ではなく、あなたは自分勝手な道を行き、キリストを蔑むであろう。おゝ、あなたが聖霊によって賢い者とされ、事を正しく考えることができるよう教えられたならどんなに良いことか! そのときキリストは真にあなたにとって尊いお方となるであろう。キリストは、必ず来る御怒りからあなたが逃れるべき唯一の道である。あなたが天国の門に入りうる唯一の希望である。キリストは、世界中が、すぐにもそうなるであろうように業火に包まれ、星々が木々から落ちる枯葉のように落ちるとき、また、被造世界全体がぐらぐらと揺れ動くとき、あなたの唯一の隠れ場でなくてはならない。そのとき、この方の御声は地と、天と、地獄で響きわたるのである。「目覚めよ、お前たち、死んだ者たち。審きへ出よ!」 その最後のすさまじい日に《救い主》をいだける唯一の希望は、イエスのうちに見いだされなくてはならない。おゝ、いま主を求めよ。お会いできる間に。いま近くにおられるうちに、呼び求めよ![イザ55:6] いまこの方に背をそむけて離れ去ってはならない。決定的に破滅へと向かうといけない。いま主のもとに行くがいい。いま主を信じるがいい。そのようにして、主に栄光を帰すがいい。アーメン。

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病める説教者による説教[了]

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