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ヤコブの模範的祈り

NO. 3010

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1906年10月18日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1867年6月16日、主日夜


「そうしてヤコブは言った。『私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に「あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。」と仰せられた主よ。私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて「わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。」と仰せられました』」。――創32:9-12


 あなたもきっと気づいたことがあると思うが、愛する方々。神はいかに頻繁に、ある人の人生に、その人の人格を映し出させることであろう。外見上の経験が、その人の内なる品性をこだまさせているのである。

 アブラハムの生涯を眺めるがいい。彼は、実にこの上もないほど神に信頼した。神もまた、この上もないしかたでアブラハムを信頼されたと云っては不正確になるだろうか? 主は、人がその友と語り合うようにアブラハムと語り合われた。そして、ソドムとゴモラを滅ぼそうとしていたときには、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」[創18:17]、と仰せになった。そして、アブラハムがあれほど著しいしかたで神を信頼していたように、主もアブラハムの子孫に神の色々なおことばを託し[ロマ3:2]、神礼拝の外的な形式を託された。そのようにして、アブラハムの子孫を通して真理を世代から世代へと伝え渡し、ついに私たちの主イエス・キリストの時代に達させてくださったのである。

 それから次に、アブラハムの生涯とは対照的に、ヤコブの場合を取り上げてみるがいい。彼は、兄を騙すことによって人生を始めた。そして、いかにその騙し事をすら越えて、神の約束が果たされる働きがなされたのかもしれなくとも、それは全く正当化できないことであった。さて彼は、まずそうしたやり口でエサウを扱ったが、彼自身が同じようなしっぺ返しを受けることとなった。ラバンとともにいたとき、彼は何度も何度も騙されることになった。――自分に与えられた、あるいは、売り渡された妻についてさえそうであった。彼は、駆け引きに長じており、抜け目がなく、ずる賢く、細かいことに頓着しなかった。――まさしくユダヤ人の先祖である。だが、あなたも知っての通り、彼よりも常にラバンの方が上手であった。ラバンはラバンなりに利を求めて駆け引きできたのである。これは、何という駆け引き続きの一生であったことか。また、なおも神の恵みは受けていたとはいえ、何という悲しみの一生であったことか。彼の外見上の経験は、彼の内なる品性をこだまさせていた。彼が他人に対して行なったのと同じことが、彼に対して行なわれた。そして、彼のうちには私たちの主の宣言が――その当時はまだ発されていなかったが――成就したのである。「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる」[マタ7:2]。

 さらにモーセをも眺めるがいい。彼は、パロの娘の子と呼ばれることを拒むことによって、実質的にエジプトの王座を放棄した。キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトのあらゆる宝にまさる大きな富と思ったからである[ヘブ11:24-26]。だが、その後で彼はどうなっただろうか? 彼はエシュルンで王となったではないだろうか? 彼は、主の全集団の上に不思議で驚異的な力を振るい、彼がエジプトの支配者となり、パロの娘の子となっていた場合に従えることになったはずの王国にまさる王国を従わせた。それが、物事を正しく評価できる者すべての判断ではないだろうか?

 この事実を示す例証は他にいくらでも挙げられるが、むしろ、ヤコブの品性のもっと善良な面にあなたの注意を向けたいと思う。それを啓示しているのが、今回私たちが瞑想すべきものとして選んだ、この祈りである。

 本日の聖句を含む章によって、私たちは、この祈りをささげた際のヤコブが置かれていた状況を知らされる。彼は、ラバンとの揉め事から脱出したばかりで、「神の使いたち」[創32:1]に出迎えられるという言葉に尽くせない誉れを受けた。しかし、彼らによって示された啓示があまりにも素晴らしいからといって高ぶることのないように[IIコリ12:7]、矢継ぎ早に第二の危険が第一の危険に続いた。彼はじきに兄エサウに会うことになっていた。そして、そのときには、若年時代の大罪が彼に対して突きつけられるであろう。彼は老父イサクを欺いて、全く正当化できない陰険さによって長子の権利による祝福を手に入れた。そして、穏当に考えれば、自分の悪行の当然の報いを刈り取ることになるだろうと予想できた。

 まぎれもない東方的な狡猾さと、相当な量の良識によって、彼は兄の憤りをなだめるための様々な計画を立てた。そして、賢明と思われることをなし終えた上で、祈りに専念した。兄弟たち。ヤコブの経験から私たちは、種々の苦難を予想することを学ぼうではないか。特に、苦難を身に招くようなことを以前に行なっているとしたらなおさらである。だが、やはりヤコブの行動から学びたいのは、確かに計画を立てることはしかるべき限度内にとどめておくならまことに正しくはあっても、祈りの方がはるかに重要だということである。私たちは、自分の計画を立てることにおいて、たやすく極端に走ってしまいかねない。肉の腕に頼りすぎ、私たち自身の計略に信頼を置きすぎるため、結局において、それが全くの愚かさとなることがありえる。私たちがよりかかる杖は、良くてせいぜい折れた葦でしかないことが分かるかもしれない。ことによると、それは槍であって私たちを突き刺し、傷つけるかもしれない。「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい」[詩118:8]。あるいは、私たち自身に信頼するよりも良い。というのも、たとい私たちに人間が達しうる限りの知恵があったとしても、それは被造物の知恵でしかないからである。これに反して、私たちがただちに私たちの神、主のもとに行くならば、無限の知恵のもとに行くのであり、途上のあらゆる困難を通して正しく導かれることを期待して良い。

 祈りは、私の兄弟たち。私たちの最初の頼みの綱でなくてはならない。あるいは、たといそれが最後の頼みでもあるとしても、最初の頼みにもしようではないか。単に、他のあらゆる人の戸を叩いて断られたからといって神の戸のもとに行くのではないようにしよう。単に、水ためが尽きたからというだけで泉のもとに行くのではないようにしよう。むしろ、何よりも真っ先に神のもとに行こう。そしてこう云おう。「地上の水ために水がたまっているとしても、だからといって私たちは私たちの神を捨てはすまい。そして、私たちの同胞のあらゆる力が、その告白通りに現実の、力強いものであるとしても、私たちは、なおも全宇宙を支えている腕によりかかろう。――忠実な《創造主》の見えざる御腕に」、と。

 私が今回この主題を私たちの瞑想のために選んだのは、それが私たちに、一種の、祈りはいかにあるべきかという模範を示しているように思われるからである。第一にそのような光に照らしてこの祈りを考察したいと思う。それから、そうした上で、ヤコブの最後の嘆願について多少語りたい。それが非常に示唆に富んでいるからである。そして、しめくくりに二言三言、この族長の模範的祈りに対する答えについて語ろうと思う。

 I. まず第一に、《ヤコブの模範的祈り》についてである。これは、聖書に記録された中でも最初期の祈りの1つである。少なくとも、これほど詳細に記録されたものとしてはそうである。

 私がこれを見習うようあなたに勧めるのは、愛する方々。まず、その語り口の率直さのためである。ヤコブは、長ったらしい遠回しな話をもって神の御前に来てはいない。自分がある種の苦難の中にあり、天来の力でそこから救い出されたいと願っているという事実を大まかな言葉で告げたりしていない。むしろ、彼は自分の陥っている危険な状況にはっきり言及している。彼は云う。「神よ。……どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください」。もちろん、神はヤコブの兄の名がエサウであることは知っておられた。それでもヤコブは、兄の名に言及し、自分の祈りを具体的で明確なものにする必要があると考えた。それで彼はこう嘆願したのである。「どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです」。おそらく彼はこのとき、自分の愛妻ラケルとその子ヨセフのことを暗に指していたのであろうが、一行の中の他の母親たちにも言及していたかもしれない。彼は優しい父親であり、自分の子どもたちを気遣っていたからである。それで彼らを自分の非常に大事な者たちとして語り、天来の守りを特に必要としているとしたのである。それで、見ての通り、ヤコブは自分が何を神に求めているか非常に明確であった。そして、私の兄弟たち。私はこの点で彼を見習うようあなたを促したいのである。

 私たちは祈るとき、時として非常に持って回った云い回しを用いる。本論に直接入ることをしない。まるで、恵みの御座で率直な語り方をするのは、一種の宗教的な礼法からして、禁じられていると想像しているかのようである。私の確信するところ、こうした考え方は全く間違っている。そして神は、こうした語り口を気に入る代わりに、むしろ、子どもが自分の地上の父親に語るようなしかたで語りかけられることを望まれる。――うやうやしく、畏敬の念をもって、また、神が天におられ私たちが地上にいることを忘れずに、だが、単純で率直に語ることである。というのも、私たちの《天の御父》は私たちの言葉に何の飾り物も必要とされないからである。そして、雄弁というあわれな、けばけばしい花々は、時として私たちの兄弟たちの中のある者らがその祈りを飾り立てるものだが、神に受け入れられるものというよりは、神にとって不愉快なものであるに違いない。特にあなたがた、まだ回心していない人たちは、この語り口の率直さという件でヤコブを見習わなくてはならない。祈るときには、決してどんな云い回しを用いるかなど気にしてはならない。むしろ、単刀直入に要点に入るがいい。主に告げるがいい。あなたがひどく主にそむいてきたことを。また、密室において、自分のもろもろの罪を名前をあげて主に申し上げるがいい。もしあなたの大きな罪が酩酊だとしたら、それをはっきり名指しで告げるがいい。主の前で云い繕おうとしてはならないし、すべてを見ておられるエホバの前であなたの罪を覆い隠そうとしてはならない。あなたは、主教たちがあなたに何と祈らせようとしているかを見てとるために、祈祷書を取りに手を伸ばす必要はない。また、誰かの『朝の祈り』を借りて、いかに特定の卓越した神学者が祈ったか見てとる必要はない。むしろ、真っ直ぐに神のもとに行き、こう云うがいい。「おゝ、主よ。あなたは私が何を欲しているかご存知です! 私はあわれな、咎ある罪人であり、同胞の人々を喜ばせるようなしかたで心のうちを表現することはできません。ですが、あなたは私がいかなる者か、また、何を必要としているかご存知です。あなたは恵み深くも私に罪の赦罪を与えてくださらないでしょうか? おゝ、あなただけが咎ある者をお赦しになることがおできになるのです。失われた者のほむべき《救い主》よ。私をあなたの御胸に受け入れてくださらないでしょうか?」 愛する方々。神には、云いたいことをはっきり云うがいい。腹蔵なく語るがいい。ある特定の宗教儀式を執り行なうだけのために祈っているかのように見えてはならない。むしろ、《いと高き方》とやり取りをする用事が本当にあるかのようにふるまうがいい。あなたは、自分の要求が何であるか知っている。そして、自分の要求がかなえられるまでは、贖いのふたのもとから立ち去るつもりはない。

 それで私がヤコブの祈りをあなたに進めるのは、その語り口の率直さのためである。

 次に、それが褒められるべきなのは、そのへりくだった精神のためである。特に、この族長の次のような言葉に注意するがいい。「私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです」。もしあなたが、自分自身のうちに何らかの価値があるとほのめかしでもするなら、あなたの祈りの力はたちまち台無しになってしまう。だが、もしあなたが自分の無価値さを申し立てるなら、そのときあなたは、あの取税人がこう叫んだときと同じ立場にあることになる。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]。そして、あなたも知る通り、「この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」[ルカ18:14]。このパリサイ人は、週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげていた。また、他の人々、ことにこの取税人のようではなかった! だが、そのように云うことで、自分の祈りが、そうでなければ有していたかもしれない、いかなる力をも台無しにしたのである。彼のうぬぼれは、自分の祈りから戦車の車輪をもぎ取り、それが進むのを困難にし[出14:25]、じきに1吋も動かせなくしてしまった。それとは逆に、深い罪意識を感じ、全くのふさわしくなさを痛感することによってあなたは、ヤコブのように、大いなる契約の《御使い》と格闘し、彼に勝つことができるようになる。もしかすると、あなたが云うことを神に聞いていただけずにいる理由は、あなたが御前で十分に低く沈んでいないからかもしれない。あなたがた、まだ回心していない人たちは特に、口をちりにつけ[哀3:29]るならば、それがあなたの取るべき最上の姿勢となるであろう。もしあなたが、なおも強さのなごりを少しでも有しているとしたら、天来の強さを受けることはないであろう。もしもあなたの心の中に、人間の功績という素朴な観念が何かしら残っているとしたら、キリストの義の衣があなたを包むことはないであろう。主に願って、自分を義とするあらゆる襤褸をあなたからはぎ取り、イエスだけに信頼し、肉に何の頼りも置かないでいられるようにしていただくがいい。あなたが経験する感情においても、あなたが行なうわざにおいてもそうである。あなたが高く引き上げられる直前には、あなたは地に平伏しているはずである。昼のあけぼのは、夜の最も深い時間の後に続く。だが、神に願って、自分をその暗い時に引き下ろしていただくがいい。夜が、人間の信頼から生ずるあらゆる希望を覆い隠す暗黒の時に。というのも、そのときに主はその輝きをもってあなたの前に現われてくださるからである。だから、ヤコブの祈りをそのへりくだった精神において見習うがいい。

 あなたにヤコブの模範的祈りを真似てほしい三番目の点は、そこで用いられている議論にある。この祈り全体は、きわめて強固な議論を骨組みとしている。もし私が幾多の祈祷会で聞いてきたいくつかの祈りが、――とはいえ、この欠点を有しているのは、この場所よりは、私がこれまで知ってきた他のほとんどの場所の方が多いと云わなくてはならないが、――もしある祈祷会における祈りのいくつかが、もっと教理的でなくなり、もっと体験的でなくなり、もっと神を相手に議論する調子になるとしたら、それは、もっと真の祈りのしかるべきあり方に似たものとなるであろう。というのも、真の祈りとは、《いと高き方》にただ嘆願することであり、私たちの論理的立論を御前に広げ、自分に奮い起こせる限りの議論のすべてによって、しきりに嘆願することだからである。

 この族長のこの短い祈りには、少なくとも4つの議論が用いられている。最初は、契約からの議論である。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ」。神は、アブラハムとの契約関係に入り、彼とその子孫に厳粛な約束をされた。それでヤコブは祈るのである。「おゝ、主よ。あなたは、アブラハムの子孫、イサクの子孫の神となると誓約されました。私はその孫であり、その息子です。――ですから、今、あなたの契約の約束への誠実さによって、人生のこの暗い時にある私をお助けください!」 愛する方々。これこそ、私たちが主に対して用いることのできる種類の嘆願である。「おゝ、神よ。あなたは主イエス・キリストと契約を結ばれたではないでしょうか? その契約によって、あなたは、キリストに信頼するすべての者を救うと約束なさいました。あなたはこう仰せにならなかったでしょうか? 『見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした』[イザ55:4]、と。ならば、主よ。咎ある者ではあっても、私はあなたの愛する御子の功績により頼み、その大いなる贖罪のいけにえの功徳によって赦免を受けさせてくださいと願います。ご覧ください。土器が釘にぶらさがっているように、私は御子にわが身をゆだね、御子だけにゆだねます。さあ、あなたの恵みの契約、あの萬具(よろず)備りて鞏固なる[IIサム23:5 <文語訳>]契約によって、私はあなたに切に願います。あなたの愛を私に明らかにお示しください」。もしあなたがこのように恵みに満ちた嘆願を主に対して用いるなら、あなたは確実に主を説き伏せることができるであろう。私が同じことをするようにあなたを促したいのは、神の子どもたち。この永遠の契約が神にとって強大な嘆願だからである。――

   「暗く苦悩(なや)める 折の起こりて、
    罪と悪魔ぞ 手を結ぶとき」。

 それから、ヤコブが二番目に用いている議論に移ることにしよう。それは、神が彼と結ばれた約束に関わっている。あなたは、「かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられ」ました。もしあなたや私が、自分は義務の通り道を歩んでいると知っているとしたら、また、もし主から行くよう命ぜられた所にいるのだとしたら、私たちは常に、この天来の約束を主張できる。主は、ご自分のしもべたちが、主の命令に従う通り道にあるとき、彼らを保護する責務がある。もしあなたが独善的な考えで行動しているとしたら、自分で自分の面倒を見なくてはならない。だが、もしあなたが聖書と天来の摂理の明確な指示とによって導かれる所に行くとしたら、常にこうみなすことができる。あなたを遣わした《主人》は、途上の数々の危険がいかなるものであれ、その従順なしもべたちを保護してくださる、と。たとい神があなたに、この緑の地球の最果てまで行き、歌にも知られぬ川へと行くよう命令されるとしても、あるいは、マンゴー・パーク*1がアフリカの中央を旅したように、遠方の砂漠を越えて旅行するようお命じになるとしても、神はあなたのいのちを、ここ英国においてと同じくらいそこでも保つことがおできになるであろう。そして、神に遣わされてそこにいるときのあなたは、こう確信して良い。自分の背後には、自分の《主人》の足音が聞こえるか、他の取り違えようのない、神が自分とともにおられる証拠がある、と。

 そして、罪人よ。これはあなたが用いることのできる健全な嘆願である。あなたはこう云える。「主よ。あなたは私に、御子イエス・キリストを信ずるようお告げになりまた。ならば、御子のゆえに私を受け入れてくださらないでしょうか? 私はあなたが行なうよう命ぜられたことを行なったのです。あなたは云われました。『苦難の日にはわたしを呼び求めよ』[詩50:15]、と。主よ。きょうは私にとって苦難の日です。そこで、私はあなたを呼び求めます。では、私に答えてくださらないでしょうか?」 もしあなたがこのようなしかたで主と議論するなら、あなたは、こうした種類の嘆願が、全能なるお方に対しても強力な影響を及ぼすことを見いだすであろう。

 それから、さらにヤコブは、自分の過去の経歴から神と議論した。彼は、自分が神のあわれみの最も小さなものさえ受ける価値がないと云ったが、それでも、数多くのあわれみを受けてきていた。かつて家を離れてヨルダン川を渡ったときには、一本の杖を携えただけの悲しい、孤独なさすらい人だったのに、戻ってきたときには、妻たちと子どもたち、そしておびただしい数のしもべたち、また牛や、駱駝や、山羊や、羊や、驢馬を引き連れ、2つの宿営のようになっていたのである。「さあ、主よ」、と彼は云う。「あなたのこれまでの私に対する数々のあわれみの後で、私はあなたに切に願います。いま私を離れないでください。あなたは、あなたのしもべを今のこの時まで祝福してくださったのに、今、しもべからお離れになるなどということができるでしょうか?」 私が、数えきれないほどしばしば慰められてきたのは、ジョン・ニュートンのこの言葉に暗示された真理によってである。――

   「救いを決意(き)めし主、わが行路(みち)守りぬ。
    盲目(めしい)し悪奴(ぬひ)とて、われ死を弄(もと)めど。
    かく主は御名を 頼れと教え、
    われを遠来(つれ)しに、など恥辱(はじ)見すや?

   「過去(すぎ)し主の愛 つゆ思わせず、
    困難(なや)めるわれを 主、捨て沈めんとは。
    甘き碑群(かたみ)を 遥かに見れば、
    われを助くる みこころ堅し」。

それでヤコブは実質的にこう祈ったのである。「主よ。あなたは過去にしばしば私の《助け主》でした。それで、今も私を救い出してください。どうか私の兄、エサウの手から私を救ってください」、と。あなたがた、私の愛する未回心の人たちは、常にこうした形の嘆願を自分のものとして良い。あなたはこう云えるからである。「主よ。あなたは、私があなたを怒らせていたときも、何度となくこのいのちを救ってくださいました。あなたの寛容は今、私を悔い改めへと導いています。どうか同じ寛容によって、私の罪をお赦しください。私は、はるか昔の時代に、あなたがカルバリの上で罪人たちのために何をされたか覚えています。あなたは、あなたの愛するひとり子の御子を与えて、罪人たちのために死なせたではありませんか。それでは今、あなたのいつくしみを求めて震えているいかなる罪人をも受け入れてくださるではないでしょうか?」 これもやはり、神の恵みの門を開かせる種類の嘆願となるはずである。

 ヤコブが用いた四番目の議論は、ことによると、何にもまして最上のものかもしれない。「あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせに……する。』と仰せられました」。あゝ、これは見事な腕前であった。そして、それと同じようなしかたであなたは、贖いのふたの所で成功したければ、約束という鎚を、祈りの釘の頭に振り下ろし、それから、それをしっかり固定しなくてはならない。ヤコブがしたように、主にこう申し上げなくてはならない。「あなたはかつて」、これこれと、また、これこれと「仰せられました」、と。ダビデはかつて祈りの中で神にこう云った。「あなたの約束どおりに行なってください」[IIサム7:25]。ある人があなたに、何か本当に必要としているものを与えると約束した場合、あなたはその人を問い詰めて、こう云う。「さあ、あなたは私にこのことを約束しましたよね」。そして、もし相手が正直な人間だとしたら、あなたはその人の言葉によってその人を捕まえるのである。では、真実の神が、ご自分の約束を果たさないなどということがあって良いだろうか! 否。それは神が行なえないことの1つである。神は偽ることができない。そして、ご自分の約束を撤回することはできず、撤回したいとも思われない。おゝ、キリスト者よ。もしあなたが神から何かを得たければ、神のことばの中に、そのことの約束を見いだすがいい。そうすればあなたは、そのことを受けとったも同然とみなして良い。財産家である人があなたにその小切手を与えるとき、あなたはそれを現金も同然とみなす。そして神の約束は、小切手や銀行手形よりもずっとすぐれている。私たちはそれを取り上げて、神の御前でそれを申し立てるだけで良い。そのとき私たちは、神がそれらを引き受けてくださるものと確信できる。

 II. このように私は、ヤコブの祈りが賞賛され、かつ、見習われて良いものである、いくつかの点をあなたの前に示してきた。さて私は、私たちの《最後の嘆願》に関して、いくつかのことを云いたいと思う。それは、私には非常に示唆に富んでいると思われる。「あなたはかつて……仰せられました」。

 主イエス・キリストを信ずる信仰者たち。私はこの件について、これ以上あなたに云う必要はない。あなたは神の約束の価値を知っており、それをいかに用いるべきか知っているからである。しかし、まだ回心していない人たちに対して、ことによると、私は二言三言、ヤコブの最後の嘆願によって示唆されていることを語れるかもしれない。「あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせに……する。』と仰せられました」。罪人よ。あなたにできる限り強く、神の約束をつかんで、それを神に申し立てるがいい。このために、私はこの場にいて、救いという価値もつけられない祝福を獲得したいと願っている、あらゆる未回心の人々に云いたい。――神のことばを精魂込めて学ぶがいい。そして常に、今のあなたの具体的な場合に適する約束を見つけることを目当てに読むがいい。そして、それを読むときには、それが神のことばであるという堅い確信とともに学ぶがいい。そして、それぞれの約束において神が、あたかも御使いを遣わして、その約束を個人的にあなたに当てはめようとされたかのように、あなたに対して真実に語りかけておられるのだと堅く確信するがいい。自分自身に当てはまることを見いだした聖句を取り上げて、云うがいい。「これは、主が私に語っておられることだ。それは、さながら、いま主が私の耳に語ったのと同じくらい確実なことだ」、と。

 次に私があなたに切に願いたいのは、神のことばが絶対に真実であることを思い出すことである。その事実をあなたの記憶にしっかり固定させ、それから自分に向かって云うがいい。この約束は、真実である以上、成就するに違いない、と。主イエス・キリストというお方に次いで大きな信仰の対象は、神の約束である。そして、もし私たちが神の数々の約束にずっと親しんでいるとしたら、私たちはずっとすみやかに、あの《落胆の沼》から抜け出るはずである。そこでは、私たちの中の多くの者らが長い間よろめき倒れている。バニヤンは云う。「立法者の指図によって、沼のちょうど真中に、堅固なよい礎石がおかれてあるのは事実ですが、……これらの礎石はほとんど見えません。たとえ見えても、人びとは頭がふらふらするために、踏みはずしてすっかり泥だらけになるのです」*2。約束というこの礎石を探すがいい。愛する方々。聖書の中には、あなたの場合にぴったり適する約束がある。だから、それを見つけるよう気をつけるがいい。あなたは、抽出の鍵をなくして開けられなくなったために錠前師を呼びにやったことが一度もないだろうか? 彼は、おびただしい数の錆びた鍵の束を下げてやって来る。――あなたが用いなかったために錆びつかせた、神の数々の約束にそっくりである。――そして、彼はまず1つの鍵を試し、それから別の鍵を試し、また別の鍵を試し、とうとう正しい鍵を探し当てると、あなたの抽出の中にあった宝物が、あなたの前に広げられることになるのである。神のあわれみという宝物についてもそれと同じである。聖書の中には、1つ特別な約束がある。あなたの経験という錠の合言葉に適合する約束である。そして、あなたは約束という約束を試してみて、とうとう最後に正しいものを見つける。そのとき、あなたは、ヤコブがしたように主に向かってこう云える。「あなたはかつて……仰せられました」、と。それが肝心な問題である。主が仰せになったことがである。私が何と云うかなどどうでも良い。神が仰せになっていることを私が語っているのでない限り、これっぽっちも意味はない。他の誰かが云ったことなど決して気にしてはならない。だが、あなたの唯一の関心事は、神が何と仰せになっているかにするがいい。

 かの善良なバースのウィリアム・ジェイは、この箇所について、4つの所見を述べている。「あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせに……する。』と仰せられました」。最初に、神には、あなたを幸せにする能力がある。あなたが必要としているのがいかなる幸せであろうと、神はそれをあなたに与えることがおできになる。罪の赦し、苦難の時の助け、苦悩する折の慰め、あなたが真に必要とするものは何でも、神はそれをあなたに与え、あなたを幸せにする力をお持ちである。二番目のこととして、神はあなたを幸せにしたいという意向をお持ちである。あなたは、まるで神があなたを祝福したがっていないかのように神に語りかける必要はない。恵み深くあることは、神のご性質にかなっている。愛は、神の主立った属性の1つであり、その恵みとあわれみは、豊富に満ちあふれている。神は、あわれみ深い人が貧者を欠乏から救ってやることを喜ぶのと同じくらい、困窮する者にいつくしみを示すことを喜ばれる。次のこととして、神にはあなたを幸せにすべき契約がある。「あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせに……する。』と仰せられました」。神は、求める罪人たちに1つの約束をお与えになった。彼らに見つけられるという約束である。また、悔い改めた罪人たちには、彼の罪を赦すと約束された。信じる罪人たちには、彼らが永遠のいのちを持つと約束された。それから、四番目のこととして、神はすでにあなたを幸せにしておられる。この事実は、あなたの信仰を強めるべきである。主にはあなたを幸せにする能力があり、意向があり、契約があり、また、すでにそうし始めておられる。私はあなたにこう云えよう。話をお聞きの方々。主は、すでにある程度あなたを幸せにしておられる。あなたをこの場に導き、福音を聞かせることによって、また、その福音をこれほどまでに甘やかで、気前の良いものとすることによってである。――疲れて、重荷を追っている人々、また、他のどこでも安息を見いだせない人々にとっての福音――パウロがテモテに向かって書いているように、罪人のかしらのための福音とすることによってである。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」[Iテモ1:15]。私は、あなたの手に、このヤコブの嘆願を握らせる。「あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせに……する。』と仰せられました」。行って、それを申し立てるがいい。そうすれば、主はあなたの信仰の通り、あなたに対して行なわれる!

 III. 私の最後の言葉は、非常に僅かなものとしなくてはならない。――それは、《ヤコブの祈りが受けた答え》についてである。

 彼の祈りは答えられたが、それは彼が期待したようなしかたでは答えられなかった。彼は、祈り終えたときに、自分の一切の計画がぶち壊しにされたことを知った。それと同じく、あなたも、祈り終えたときに、同じことが起こることに気づいても驚く必要はない。話をお聞きの愛する方々。祈りによって神と語り終えたとき、自分の気分が以前よりもずっと悪くなるように思われても、驚きあわててはならない。ひとりの若い友人がいる。――おそらく、彼も今この場に来ていると思うが、――彼が私に告げたところ、彼は私の話をもう何箇月も聞きに来ており、外面的には改善され、自分でも良くなりつつあると思っていた。だが、ある主日の朝、1つの説教を聞いた。人間の心の腐敗に関するその説教は、彼の小綺麗な空中楼閣をことごとく粉砕し、彼の一切の希望を転覆させ、彼の自己信頼を全く台無しにしてしまったというのである。私は、そうなったことを非常に嬉しく思う。というのも、彼の希望や信頼はみな偽りのものだったからである。そして、後に、神の恵みによって、彼ははるかに堅固な土台の上に建て始めた。時として、あなたが救いを求めて祈っているとき、神はあなたの一切の希望を台無しにすることによってお答えになることがある。あなたは神にお救いくださいと願い、自分を幸せにするようなしかたで神がそうしてくださるものと思っていた。だが、そうする代わりに神は、あなたの見事な植物をことごとく根こそぎにし、あなたの小綺麗な庭園を砂漠にされた。なぜなら、あなたが育てていた花々がみな有毒のものであること、それらを一掃しない限り、そこにご自分の右の手で植える植物を植えることはできないことを知っておられたからである。

 神は、ヤコブにお答えになったとき、彼の《友》としてではなく、彼と格闘する《敵手》として彼とお会いになった。ヤコブはヤボクの渡しで、激しい決闘を一晩中続けた。そして、もし神が本当にあなたの前に現われるとしたら、最初は敵のようにやって来られても驚くべきではない。たといあなたが神に、ヨブが云ったようなことを云わなくてはならないとしてもそうである。「あなたはたける獅子のように、私を駆り立て」る[ヨブ10:16]、と。神のえり抜きのあわれみは、しばしば逆境という装いの下で私たちのもとにやって来る。神が私たちに送る恋文は、黒い縁取りのついた封筒に入っており、時として私たちはそれを開けることが恐ろしくなる。だが、開けさえすれば、すぐに主のあわれみが分かるはずである。ヤコブは自分の祈りへの答えを受け取ることになった。だが、その答えがやって来る前に、格闘しなくてはならなかった。否、それよりも悪い。ヤコブは、完全に救い出される前に、びっこにされなくてはならなかった。そして、その後の一生の間、びっこを引いて暮らした。あなたがた、あわれな罪人たちは、自分の罪深さを痛感させられるあまり、ほとんど絶望へと駆り立てられることがありえる。そして、あなたがた、信仰者たちは、もしかするとこのからだの中にとどまり続ける限り、サタンと戦わなくてはなくてはならないであろう。

 ヤコブ自身の計画は脇へ押しやられ、神はまるで彼の敵ででもあるかのように彼と対決し、このあわれな族長はペヌエルの上に太陽が上ったとき、びっこを引いていた。だが、そうしたすべてにもかかわらず、彼の祈りはかなえられた。彼の兄、「エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし……た」[創33:4]。そのように、愛する方々。主に信頼し、忍耐強く主を待つがいい。そうすれば、あなたの敵たちはあなたの友となり、あなたの疑いは喜びとなり、あなたの患難は栄光の中で溶け去り、あなたには分かるであろう。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことが働いて益となる」[ロマ8:28 <新改訳聖書欄外訳>]、と。

 兄弟たち。この件全体の要点はこうである。「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから」[イザ26:4]。あなたがた、主を知らない人たちについて云えば、私は切に願う。どうか神の愛する御子イエス・キリストのいけにえに信頼してほしい。鳩が岩の裂け目に身を隠すように、イエスの贖罪のいけにえに信頼することによって、イエスの御傷の中に身を隠すがいい。そして、あなたがた、主の聖徒たちについて云えば、あなたの全き憩いに戻るがいい。主はあなたに、良くしてくださったからである[詩116:7]。それゆえ、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」[詩37:7]。このことを思い出しつつ、そうするがいい。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」[イザ40:31]。

 願わくは主が、恵み深く、私たち全員にその祝福と恩恵を与え給わんことを。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 


(訳注)

*1 マンゴー・パーク(1771-1806)。スコットランドのアフリカ探検家。[本文に戻る]

*2 ジョン・バニヤン、『天路歴程』、p.52、(池谷敏雄訳)、新教出版社、1976。[本文に戻る]

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ヤコブの模範的祈り[了]

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