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私たちの《代表戦士》

NO. 3009

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1906年10月11日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1861年


「しかしサムソンは真夜中まで寝て、真夜中に起き上がり、町の門のとびらと、二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、ヘブロンに面する山の頂へ運んで行った」。――士16:3


 あわれなサムソン! 私たちは、信仰者の模範としての彼については、大して多くを語れない。彼のことは2つの光に照らして掲げ上げなくてはならない。――1つの警告として、また、1つの偉観としてである。彼は、私たち全員にとって、1つの警告である。というのも、いかなる肉体の力であれ、人を精神の弱さから救い出すには足りないことを彼は示しているからである。ここにいる、ひとりの男を打ち負かすことは、その同胞たるいかなる男にもできなかったが、彼の両眼を失わせたのはひとりの女であった。――子山羊を引き裂くように獅子を引き裂けるだけの力を持っていながら[士14:6]、自分を獅子よりも強いと考えた彼は、やがて青銅の足枷をかけられ、つながれることとなった[士16:21]。サムソンが陥ったようなのぼせあがりについて考え、私たちが彼と同じような人間であることを思い出すとき、私としては、ただ、この祈りをささげることしかできない。「私をささえてください。そうすれば私は救われ……ることができましょう」[詩119:117]。また、あなたにも同じようにするよう促すだけである。

 また、サムソンは一個の偉観でもある。彼は、人間としての驚異というよりも、はるかに、一個の信仰者としての驚異である。ひとりの人が、生新しいろばのあご骨[士15:15]以上の武器を持たずに、何千人ものペリシテ人を打ち殺すことができたというのは驚嘆すべきことである。だが、それよりもずっと驚嘆すべきことは、サムソンが、これほどの罪人であるにもかかわらず、信仰によって救われた輝かしい人々の列に伍する一個の聖徒であるということである。使徒パウロは、彼をヘブル人への手紙11章の中の、あの有徳の人々の間に置いている。また、パウロは霊感によって書き記していた。それゆえ、サムソンが救われていたという事実には何の間違いもありえない。実際、彼の、子どものような信仰を見てとり、彼がこのペリシテ人に突進して行っては、彼らを取りひしいで激しく打った[士15:8]様子に注意するとき、――彼があらゆる計算だの確率だのを振り捨てて、自分の神に対する単純な信頼によって、この上もなく甚だしい武勲を成し遂げる様子に注意するとき、――こうしたことを見てとるとき、私は驚異に打たれ、賞賛することしかできない。

 旧約聖書の数々の伝記が書かれたのは、私たちが真似するためではなく、私たちを教えるためである。この一件において、いかに大きな力を込めて、そうした数々の教訓が示されていることか! 「見よ」、と神は云われる。「信仰に何ができるかを。ここには、ひとりの男がいる。数々の弱さに満ちた、可哀想な愚か者である。だが、その子どものような信仰によって彼は生きている。『義人は信仰によって生きる』[ロマ1:17]。彼には多くの悲しい欠点や失敗がある。だが、彼の心は自分の神に対して正しくある。彼は現実に主に信頼しており、自分の主への奉仕に聖別された者として現実に自分をささげている。それゆえ、彼は救われるのだ」、と。私はサムソンの場合を大いなる驚異とみなす。彼は、大いなる罪人たちを励ますために聖書の中に置かれているのである。

 もしサムソンのような人物が、それにもかかわらず、信仰によって天国に入ることができるとしたら、あなたや私もそうできるはずである。私たちの人格は、多くの悪徳によって汚損されており、私たちはおびただしい数の罪を犯してきたであろうが、キリストが自分を救ってくださると信頼できさえするなら、キリストは私たちをヒソプ[詩51:7]できよめ、私たちはきよくなるであろう。キリストは私たちを洗ってくださり、私たちは雪よりも白くなる。また、私たちが死ぬ際にも、主権のあわれみの御腕の中で眠りに落ち、キリストの似姿のうちに目覚めることになるはずである。

 しかし、いま私はサムソンのことは、ただこの一点を除いて放っておくことにする。すなわち、私たちの主イエス・キリストを描写するものとしての彼についてである。サムソンは、旧約聖書の他の多くの英雄たちのように、私たちの主の予型であった。この事件においては特にそうであり、私はサムソンよりはキリストを眺めるようあなたに勧めたい。第一に、来て、私たちの《代表戦士》がその働きを行なっているのを見るがいい。それから、彼がその働きを成し遂げたなら、行って、それを調べてみよう。そして第三に、彼が果たし終えたこの働きを私たちがどのように役立てることができるか尋ねてみよう

 I. では、兄弟たち。私とともに来て、《私たちの強大な代表戦士がその働きを行なっている》ところを眺めるがいい。

 あなたも覚えている通り、私たちのサムソン、私たちの主イエスは、この世というガザに下って来られた。主をそうさせたのは愛であった。最も価値のない対象に対する愛であった。というのも、主が愛したのは罪深い教会だったからである。それは、主のもとから何度も何度も迷い出た教会であった。それでも主は天から下り、ご自分の御父の王宮の安きと楽しみを捨てて、ペリシテ人たち――この下界に住む罪とサタンの子ら――の間に身を置かれた。

 人間たちの間では、栄光の主がこの世にいるという噂が流れ、たちまち彼らは、どのようにしたら主を殺せるだろうかと協議し合った。ヘロデは二歳以下の子どもたちをなで切りにした[マタ2:16]。生まれたばかりの《君主》を確実に殺すためである。その後、律法学者や祭司たち、法学者たちは主を追い回し、狩り立てた。サタンは荒野で主を誘惑し、公の場では主を挑発した。死も主を追い求めた。というのも、主を自分のえじきとして狙いをつけていたからである。とうとう時がやって来て、《救い主》の敵である三軍は全く主を取り囲み、封じ込めた。彼らは主をピラトの前に引きずり出した。敷石の上で主を鞭打った。「どくろ」と呼ばれている所に主を引き出す。その間、主の血はエルサレムの町通りにぽたぽたと落ちる。彼らは主の御手と御足を刺し貫く。主を掲げ上げて、あざけりと苦しみの見世物とする。そして、今、主が極度の苦痛の中で死につつあり、特にその目を閉じて、「完了した」[ヨハ19:30]、と大声で仰せになるとき、罪と、サタンと、死とは、自分たちがこの《代表戦士》をがっちり押さえて逃がすことがないと感じる。その墓の中に主は静かに横たわる。主は、――この、古き蛇の頭を踏み砕くべきお方は、――ご自分が噛みつかれてしまった[創3:15]。おゝ、世界の偉大な《解放者》である方よ。あなたはそこに、そこらの石ころのように横たわっておられる! 確かに、あなたの敵どもはあなたをとりこにしてしまったのだ。おゝ、強きサムソンよ!

 主は眠っておられる。だが、起こりつつあることに主が気づかずにいると考えてはならない。主が眠っておられるのは、しかるべき瞬間が訪れるまでであり、そのときには私たちのサムソンは目を覚ます。では、いま何が起こるだろうか? 主は墓の中におり、主の敵どもは、主をそこに閉じ込めておくために番兵を置き、封印をしている。誰か今、主を助けて、彼らの縛めから抜け出させようとするだろうか? 誰か今、主を援助しようとするだろうか? 否、誰もいない! もしこの《代表戦士》が脱出するとしたら、それは彼自身の、人手を借りない勇武によらなくてはならない。主は独力で血路を開き、その敵どもの真中から出て来るだろうか? 私の兄弟たち。あなたは主がそうなさると知っている。というのも、三日目がやって来るや否や、主はあの石に触れ、するとそれは転がって行くからである。主は死を敗北させた。墓の門柱を引き抜き、その門と閂を持ち去る。罪について云えば、主はそれをご自分の足で踏みしめておられる。主は完全にそれを打倒しておられる。そしてサタンも、かつては噛みつかれた踵の下で砕かれて横たわっている。主はかの古き竜の頭を打ち砕き、その力を永遠に粉々に切り刻まれた。孤立無援のまま、主はご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義をご自分の支えとされた[イザ59:16]。今しも私は、ヘブロンに面する山――神の山――を登っていく主の姿が目に見える気がする。主はその両肩に高く掲げた死の門を負っておられる。――死と地獄に対する主の勝利のあかしである。扉も門柱も、閂もみな、主はそれを負って天国に行かれる。神聖な勝利のうちに、主はご自分の敵どもを後に引きずって行かれる。主をほめ歌え! 御使いたちよ。あなたがたの賛美歌によって主をほめたたえよ! 主をあがめよ、智天使、熾天使よ! 私たちのより強大なサムソンは自らに勝利をもたらし、ご自分のすべての民のため、天国と永遠のいのちに至る路の障害物を取り払われた。あなたはその物語を知っている。すでに私はそのすべてを告げてきている。だが、それは、いまだかつて告げられたことのある、あらゆる物語の中で最も壮麗なものである。「武具と人とを、われは歌う」*1、と古代の偉大な古典詩人のひとりは云ったが、私はこう云えよう。「十字架とキリストとを、われは歌う」、と。ご自分の民の大目的を自らのものとされたお方について告げるのは私の喜びとするところである。この方は、一時はとりことなられたが、緑の鎖と青銅の足枷を断ち切られた。そして、ご自分のための勝利を獲得されると、他の者らをも解放し、それから、その自由にされた民を率いて、ご自分の開かれた道に沿って進んで行かれた。――神の右の座へと主が先立って行かれる新しい道に。

 II. さて、愛する兄弟たち。行って静かに、《キリストが成し遂げた働きを調べてみよう》

 私たちは、古のガザの門に立ち、この代表戦士が何を行なったか見るであろう。それは重厚な蝶番であり、巨大な門扉を支持していたに違いない。私たちはその門扉を、また、その閂を眺めるであろう。何と、それは十人がかりでもまず持ち上げられないほど大きなものであり、この巨大な門扉を運ぶには、もう五十人も必要であろう。それは、蝶番についているときでさえ、十数人が努力しなければ小揺るぎもしなかった。だがしかし、このひとりの人は、そのすべてを運んで行ったのである。そして、どこにも彼の両肩がたわんだとか、彼が倦み疲れたとは記されていないのである。少なくとも、七哩、サムソンはこの途方もない荷重を運び、その間ずっと山に登り続けてもいたのである! それでも彼は、よろめくこともなくそのすべてを担って行った。また、以前にラマテ・レヒ[士15:17]でそうなったように疲労したとも書かれてはいない。

 私はこれ以上はサムソンの功業にかかずらわずに、むしろ、あなたの思念を、私たちの救いの大いなる《代表戦士》へと引き上げたいと思う。キリストが何を持ち去ったか見るがいい。キリストには3つの敵がいたと云った。その三者は主を取り囲んだが、主は彼らに対して三重の勝利を収められた。

 そこにはがあった。愛する方々。キリストは、最初は死に打ち負かされることによって、ご自分を死に対する《勝利者》とされた。また、私たちにもその勝利を与えてくださった。というのも、死については、私たちは真実にこう云ってかまわないからである。キリストは、単にその門を開いただけでなく、その扉を持ち去った。また、単に門だけでなく、二本の門柱そのものも、閂も、何もかをも持ち去られた。キリストは、「死を滅ぼし、……いのちと不滅を明らかに示されました」[IIテモ1:10]。

 主が死を滅ぼされたというのは、このような意味においてである。――まず第一のこととして、死の呪いは消え去った。信仰者たちも死にはする。だが、自分たちのもろもろの罪ゆえに死ぬのではない。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」[Iコリ15:3]。私たちは死ぬ。だが、それはもはや罰としてではない。信仰者が死ぬのは、罪の実ではあるが、罪の呪いではない。他の人々にとって、死は1つの呪いである。信仰者にとって、それは、ほとんど主の契約の祝福の1つとも云えよう。というのも、イエス・キリストにあって眠ることは、主がその信仰を有する民に与えることのおできになる最大のあわれみの1つだからである。ならば、死の呪いが取り除かれている以上、その門柱は引き抜かれていると云って良いであろう。

 キリストは、また、死の後に続く結果――魂が第二の死[黙21:8]にさらされること――をも取り除かれた。キリストが私たちを贖われなかったとしたら、死は実際すさまじいものであったろう。というのも、それは大いなる火の池の岸辺となっていただろうからである。悪人が死ぬとき、彼らの罰は即座に始まる。そして、彼らが一般的な復活においてよみがえるとき、それは彼らのからだと、彼らの魂とにおいて、自分のもろもろの罪のしかるべき報いを受けるためでしかない。死のとげ[Iコリ15:56]は第二の死――後に来たるべきもの――である。

   「死んで、眠って、ただそれだけなら!
    眠って、いや、眠れば、夢も見よう。それがいやだ。
    ……永遠の眠りについて、ああ、それからどんな夢に悩まされるか!」*2

そう世の詩人は語った。――否。「夢」がやって来るのではない。むしろ、いかに実質的な苦痛が、いかに恐ろしい悲惨が、いかなる永遠の悲しみがやって来ることか! こうしたものは、キリスト者にはやって来ない。信仰者よ。あなたには何の地獄もない。キリストがその門柱も、閂も、何もかも取り除いてくださった。死はあなたにとって、もはや苦悶への門ではなく、パラダイスへの門である。

 さらに、キリストは単に呪いと、死の後に続く結果とを取り除いただけでなく、私たちの中の多くの者らから、死の恐れすら取り除いてくださった。主が来られたのは、意図的に、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださる」[ヘブ2:15]ためであった。この場にいる少なからぬ数の人々は、誠実に、自分は死を恐れてはいない、と云えるであろう。否、むしろ、喜ばしい期待とともに死を待ち望んでいるであろう。私たちは、自分の今際の時について考えることに慣れてしまったあまり、日ごとに死んでいるほどである。そして、その今際の時が来たときには、こう云うだけであろう。「われらが婚礼の日は来たりぬ」、と。

   「ようこそ、甘き 解放(やすみ)の時、
    憧(こが)るわが魂(たま) 自由とならん」。

私たちは喜ばしく歓迎するであろう。この災厄と嘆息と涙の国を越えて、私たちの神とともにいるようにとの召還を。死の恐れが取り除かれている以上、私たちは真に云えるであろう。キリストは門柱も、閂も、何もかも取り除かれた、と。

 それに、愛する方々。ある意味で、キリスト者たちは決して死なないとも云える。イエスはマルタに云われた。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」[ヨハ11:25-26]。聖徒たちは死なない。眠るにすぎない。――

   「イェスにて眠る 幸(さち)いかに」。

 しかし、キリストが死の門の門柱を引き抜かれたという中心的な意味は、主が栄光に富む復活をもたらしたことにある。おゝ、墓よ。お前は、お前の囚人たちを閉じ込めておけない。彼らはよみがえらざるをえない! おゝ、死よ。お前のうじ虫の軍団は、人間の血肉という麗しい国を壊滅させるかに見えるかもしれない。だが、そのからだは、それが眠りについたときにもまさる美しさとともに、花開いて再びよみがえる。それは、そのちりの寝床から、また、沈黙する土くれから、急に立ち上がり、永遠の日の領土に住むことになるであろう。できるものなら、その光景を思い描いてみるがいい! もしあなたに想像力があるなら、その場面を今あなたの眼前に現出させてみるがいい。キリストは、――この、より偉大なサムソンは、――死の領地の中で眠っている。死は自慢し、鼻高々にしている。今やいのちの《葡萄酒》を征服したからである。キリストが目を覚ます。その門へと大股で向かい、それを横殴りに叩き砕くと、その両肩に乗せて、運び去ってしまう。そして、天へと登りながらこう仰せになる。「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。墓よ。おまえの勝利はどこにあるのか」[Iコリ15:55 <英欽定訳>]。

 キリストが打ち負かさなくてはならなかった、もう1つの軍勢は、罪という軍隊である。キリストが罪人たちの間にやって来るや、もろもろの罪がキリストを取り巻いた。あなたのもろもろの罪、私のもろもろの罪が《救い主》を包囲し、ついに主は彼らのとりことなってしまった。「キリストには何の罪もありませんでした」*[Iヨハ3:5]。だが、もろもろの罪は「蜂のように、彼を取り囲んだ」*[詩118:12]。罪は主に転嫁された。主の民全員のもろもろの罪が主の前に立ちはだかり、彼らと同様、主をも天国から閉め出そうとした。キリストが十字架上にあったとき、私の兄弟たち。主は神によって一個の罪人とみなされた。主は一度も罪人となったことがなかったが、そうみなされた。また、墓の中にいたとき、主は義と認められるまでよみがえることができなかった。キリストは、ご自分の民と同様、義と認められなくてはならなかった。主は、私たちのように義と認められたわけではないが、ご自分の行為によって義と認められた。私たちは、主のように自分自身の行為によって義と認められはしない。選民のあらゆる罪はキリストに負わされた。キリストは、その刑罰を完全にお受けになった。そして、そのようにして義と認められた。主の義認のあかしは、その復活にあった。キリストは死者の中からよみがえることによって義と認められた。そして、主にあって、その民全員もまた義と認められた。それゆえ、私はこう云えるであろう。私たちのもろもろの罪はみなキリストの復活の前に立ちはだかっていた、と。それらは、大きな鉄の門であった。また、主を天から閉め出していた青銅の閂であった。疑いもなく、私たちは、この罪の軍勢の下で、キリストが永遠に囚人になっているだろうと考えたことであろう。だが、おゝ、主を見るがいい! 私の兄弟たち。見るがいい。いかにこの強大な《勝利者》が、私たちのもろもろの罪を「十字架の上で……その身に負われ」[Iペテ2:24]、その骨を砕かれないまま、この巨大な荷の下に立って、忍んでおられることか。――

   「受肉(ひと)なる神の 力限(かぎり)を――
    十全(また)きちからもて、そをふりしぼりて」。

見るがいい。いかに主が、私たちのそうした罪をその両肩にかついで、ご自分の墓からことごとく運び出しては、忘却の深淵へと叩き込んでいるかを。その中では、たとい探しても永遠に見つからないのである。神の民全員のもろもろの罪について云えば、それは部分的に取り除かれているのではなく、ガザの門がきれいに――門柱も、門も、閂も、何もかも――取り去られたのと同じように取り去られている。すなわち、神の民の一切の罪は赦されているということである。

   「こは古き そむきの罪の赦しなり。
    いかに黒きも 消されたり。<
    わが魂、見るべし、驚きて。
    罪ある所に 赦しもあらば!」

選民全員がこれまで犯したことのある一切の罪、いま犯しつつある一切の罪、あるいは、これから犯すであろう一切の罪は、キリストによって取り除かれてしまった。その大いなる贖罪のいけにえにより、主の両肩でかつがれ、運び去られてしまった。神の書の中には、その民のいかなる者を責める罪も記されてはいない。神はヤコブの中に罪を見ず、イスラエルの中に不法を見ない[民23:21参照]。彼らはキリストにあって永遠に義と認められている。

 さらに、罪の咎が取り除かれたように、罪の罰も必然的に取り除かれた。キリスト者が神の怒れる御手によって打たれることは決してない。しかり。懲罰を行なう正義が渋面1つ見せることもない。信仰者が御父の御手によって懲らしめを受けることはありえる。だが神は、――万物の《審き主》は、キリスト者には、ただこう仰せになるだけである。「わたしは、あなたを赦免している。あなたは無罪放免されている」。キリスト者には、何の地獄も、何の刑罰としての死もない。ましてや第二の死などない。キリスト者は、罪の咎と同じく罪の一切の罰から完全に自由にされている。また、罪の力も取り除かれている。罪は私たちの前に立ちはだかり、私たちを不断の戦いに巻き込むかもしれない。だが、おゝ、私の兄弟たち。罪は私たちにとって、征服された敵なのである。キリスト者が打ち負かせない罪は1つもない。もしもキリスト者が、そうできる力を与えてくださると自分の神にだけより頼むならそうである。天国でその白い衣を着ている者たちは、《小羊》の血によって打ち勝った[黙12:11]。そして、あなたや私も同じことができるであろう。強大すぎる情欲、執拗に付きまといすぎる罪、からみつきすぎる罪などない。私たちはこうしたカナン人を追い出すことができる。彼らの町々に、天に聳えるほど高い城壁があろうと[申1:28]、そうした町々を引き倒し、キリストの力によって圧倒できる。キリスト者よ。強く信ずるがいい。あなたの罪は実質的に死に体である、と。それは蹴りつけたり、あがいたりするかもしれない。そうするだけの力は残っているが、それは死んだものである。神がその額に断罪を書き記しておられる。キリストがそれを十字架につけ、「十字架に釘づけに」[コロ2:14]しておられる。いま行って、それを永遠に葬るがいい。そして主があなたを助けて、あなたの生き方を、ご自分をほめたたえるものとしてくださるように! おゝ、その御名はほむべきかな。罪は、その咎も、力も、恥も、恐れも、恐怖も含めて消え去ってしまった。キリストが門柱も、閂も、何もかも山の上に運び上げてくださった。

 さらに第三の敵もいたが、それもやはり滅ぼされた。――それは、サタンであった。私たちの《救い主》の苦しみは、単に罪のための贖いではなく、サタンと争闘し、サタンを征服するものでもあった。サタンは、敗北した敵である。ハデスの門も、キリストの《教会》には打ち勝てない[マタ16:18]。むしろ、キリストがハデスの門に打ち勝っておられる。サタンについて云えば、そのも門柱も、閂も、何もかも、次のような意味では、彼の要塞から引き抜かれてしまっている。――すなわち、今やサタンは信仰者たちを統治する力が全くないのである。犬のように私たちに向かって吠え立てることはできよう。また、吠え猛る獅子のように歩き回ることはできよう[Iペテ5:8]。だが、私たちを引き裂き、むさぼり食らうことはできない。悪魔の首には鎖が巻きつけられており、彼は神がお望みになるだけの所までしか行けず、それ以上は行けないのである。彼は、神の許可がない限りヨブを誘惑できなかったし、あなたを誘惑するにも、まず神の許可を得なくてはならない。悪魔が信仰者をじろりと眺める前にさえ、許可が必要とされる。それで、天来の許可の下にある彼は、私たちが耐えられる限度を越えて私たちを誘惑することは許されないであろう。

 さらに、サタンの際立った恐怖もまた取り去られている。ひとりの《人》が生身でアポルオンと対決し、彼を打ち負かした。その《人》は死によってサタンに勝利を収めた。あなたや私もそれと同じである。この古き敵の威信は消え失せている。この竜の頭は砕かれており、あなたや私は、頭を粉砕された敵と戦うのを恐れる必要はない。ジョン・バニヤンの描くところの、基督者とアポルオンとの戦いを読むとき、私はその描写の美しさと真実さに打たれるが、こう考えないわけにはいかない。「基督者は、古の日にアポルオンが、自分の《主人》によっていかに徹底的に打ち負かされたか知っていさえしたなら、それを彼の面前に叩きつけて、彼をさっさと始末してしまっただろうに」、と。サタンと出会うときには、決してキリストが十字架上で成し遂げた大勝利のことを忘れてはならない。あなたの物見の塔に上り、彼を警戒しているがいい。彼と争うがいい。だが、彼を恐れてはならない。彼に抵抗するがいい。信仰によって大胆になるがいい。というのも、彼には、いかに弱い聖徒をも天国に入らせずにおける力すらないからである。彼が私たちの行進を邪魔するために立てたあらゆる門は、門柱も、閂も、何もかも取り除かれており、私たちの神である主が地獄の全軍勢に対して勝利を収めておられる。

 III. そこでいま見てとりたいのは、《いかにして私たちがこの勝利を役立てることができるか》ということである。

 確かに、ここには何がしかの慰めがある。――そちら側にいる、愛する方。あなたのための慰めがある。あなたには、救われたいという願いがある。神は、深い罪の感覚をあなたの肝に銘じさせておられる。あなたの魂の、まさに最も強い願いは、あなたが神との平和を有することである。しかし、あなたはその途上の困難が多すぎると思っている。サタン、あなたのもろもろの罪、その他の一切合財である。愛する方々。神の御名によって、あなたに告げさせてほしい。その途上には、あなた自身の心のほか何の困難もない。キリストはガザの門を――門柱も、閂も、何もかも――取り去っておられるからである。あの墓所に向かっているとき、マグダラのマリヤは他のマリヤに、あるいは、あの女たちは互いにこう云っていた。「あの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」[マコ16:3]。それこそ、あなたがいま云っていることである。そして、彼女たちがその場所に来てみると、その石は転がされていた。あなたの場合もそれと同じである。あわれな悩める良心よ。その石は転がされている。何と! そのようなことは信じられないと? ここに、神の証しがある。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」[イザ1:18]。あなたは、自分のもろもろの罪のための贖罪を欲しているではないだろうか。それは「完了した」[ヨハ19:30]。あなたは誰かに自分を弁護してもらいたがっている。「キリストは……完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」[ヘブ7:25]。あなたは、キリストにある神のあわれみを信じて、あなたのあわれな咎ある魂を、その行ないと、その死の効力とにより頼ませることができるではないだろうか? できるとしたら、神はあなたと和解させられる。あなたの神の間には大きな山々があったかもしれない。だが、それらはみな消え去っている。あなたとあなたの御父の間には、あなたのもろもろの罪という葦の海がうねっていたかもしれない。

 その葦の海は干上がってしまっている。魂よ。私はあなたに告げる。もしあなたがキリスト・イエスを信じるとしたら、あなたの魂と神との間には単に近づける道があるだけでなく、遮るもののない道がある。あなたも覚えている通り、キリストが死なれたとき、神殿の幕は真二つに裂けた[マタ27:51]。そこにあるのは、罪人がかいくぐれる細い隙間ではなかった。その幕は、上から下まで真二つに裂けたのである。それは、大きな罪人たちでも行けるためであった。サムソンが門も、門柱も、閂も、何もかも引き抜いたとき、その町に閉じ込められていた者全員が野に出て行ける、遮るものない道ができたのと全く同じである。囚人よ。牢獄の扉は開かれている。とらわれ人よ。あなたの首枷を外すがいい。自由になるがいい! 私はヨベルの年の角笛を吹き鳴らそう[レビ25:9-10]。奴隷たちよ。キリストはあなたを贖ってくださった。あなたがた、

   「汝れが相続財産(ゆずり)を 丸損売却(うり)し者等(もの)、
    汝れは回復(え)るなり、買わずとも、
    イエスの愛の 贈物(おくり)とて」。

主がご自分の御子イエスに油を注がれたのは、「捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ」[イザ61:1]るためである。主を信頼するがいい。願わくは、そのあわれみがあなたを導き、いま主を信頼させてくださるように。私は云うが、あなたの魂と神との間には、いかなる隔ての壁もない。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、……来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました」[エペ2:14、17]。願わくは、この尊い言葉が、それを必要としている人々によって大切にしまっておかれるように! あなたがたの中のある人々はそれを必要としている。願わくは、神の御霊がそれをあなたの心に収めて、そこに積み上げ、あなたがキリストのうちに慰めを見いだせるようになるように!

 しかし、ここには、何か別のこともないだろうか? ここには、キリスト者たちに対する勧告の根拠がないだろうか? 兄弟たち。あなたがたの中のある人々は、何らかの罪を大目に見ていないだろうか?――何らかのからみつく罪、自分には打ち勝てないと思っている罪を許容していないだろうか? あなたはもっと聖くなりたいと思うが、自分がそれに打ち勝てないという考えによって、あなたの腕は自分自身の罪に対して無力になってしまう。それではあなたは、キリストが門柱を残して行かれたと思うのだろうか。私は云うが、そのようことはない。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません」[Iヨハ3:9]。神から生まれた者は、気兼ねせずに罪を犯すことがない。定常不変に罪を犯すことがない。そして、聖霊の援助さえあれば、自分の罪に打ち勝つことができる。また、自分の有する腐敗の中で最も手強いものに戦いを挑み、ついには足で踏みにじるようになることは、その人の特権であると同じく義務である。さて、兄弟たち。あなたはキリストの血を、また、主の御脇からあふれ流れる水を信じるだろうか? そこにはあなたのもろもろの罪を殺す主権の効力があるのである。あなたと、あなたのもろもろの罪の赦罪との間には、あなたの不信仰のほか何も立ってはいない。そして、もしあなたがそれを振り落とそうとしさえするなら、あなたは栄光の門を通って勝利に満ちて行進することであろう。

 もう一言だけ云って話を終えよう。これは、キリストのしもべであると告白する私たちにとって、出て行って、この世と戦い、キリストのためにそれに打ち勝つべき誘因ではないだろうか? 兄弟たち。イエスが私たちを導いておられるところでは、それに従うのに大した勇気は必要ない。「地とそれに満ちているもの……は主のものである」[詩24:1]。行って、それを主のために征服しようではないか! 暗やみの中に座っている民は偉大な光を見る[マタ4:16]。サタンはこの世を頑迷固陋で、偶像礼拝で、迷信で、あたかも門柱や閂をもってするかのように閉じ込めてきたかもしれない。だが、王権は主のもの[詩22:28]である。もし私たちが奮起してみことばを宣べ伝えさえするなら、私たちは気づくであろう。《打ち破る者》が、私たちの前にすでに進んで行き[ミカ2:13]、門を壊し、門柱も、閂も、何もかももぎ取ってしまっていることに。そして、私たちにすべきことは、ただすみやかに勝利することだけである。願わくは神が私たちを助けてそうさせてくださるように!

 そして今、私たちは、主の食卓に来ようとしているとき、自分たちの前に、この、私たちの栄光に富むサムソンが、その力強い勝利を成し遂げている幻を置こうではないか。そして、罪のために泣く間も、このような驚異を私たちのために作り出してくださった主の無比の力と愛とをほめたたえようではないか。願わくは主が、私たちに、その食卓においてご臨在を享受させてくださるように。また、その賛美をお受けになるように! アーメン。

 


(訳注)

*1 ウェルギリウス、『アイネーイス』、第一巻冒頭部。[本文に戻る]

*2 シェイクスピア、『ハムレット』、第三幕第一場(新潮文庫版、福田恆存訳、1967、p.82)[本文に戻る]

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私たちの《代表戦士》[了]

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