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絹の綱

NO. 3005

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1906年9月13日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1864年


「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた」。――ホセ11:4


 いかなる人も、引かれない限り決して神のもとに行くことはない。人が全的に堕落していることを何にもまして証明するのは、有効召命を受ける必要があるということである。人は、あまりにも徹底的に「罪過と罪との中に死んで」[エペ2:1]いるため、《救い主》を供したのと同じ天来の力が、《救い主》を受け入れたいと思わせない限り、決して救われないのである。一隻の船が造船台の上に載っているとする。完成しており、艤装も終わっている。しかしながら、自分で海に出て行くことはできない。また、一本の木があるとする。それは生長している。枝も、葉も、実も生るが、自分で自分を船にすることはできない。さて、もしこの完成した船に何もできないとしたら、いわんや手もつけられていない丸太ん棒になど何もできない。また、もしその生きている木に何もできないとしたら、いわんや、とうの昔に樹液の涸れ果てた材木になど何もできない。キリストの宣告、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」[ヨハ15:5]は、信仰者にとって真実である。だが、それと同時に、また、いやまさる力をこめて真実なのは、いまだイエスを信じたことのない人々についてである。そうした人々は、引かれない限り、神のもとへは決して行かないであろう。

 しかし、多くの人々は、神に引かれることについて思い違いをしている。あたかも神が人々の髪の毛をつかんで、天国に引きずって行くとでも思い描いているかのようである。人が望むと望むまいと関係ない。また、時が来ると、人々が何らかの不可抗的な力によって、考えることも、筋道を立てて論ずることも全くなしに、強制的に救われると思っているようである。こうした人々は、人をも神をも理解していない。というのも、人はそうしたしかたで強制されるべきではないからである。人はそのように制御される存在ではない。

   「意志に反して うなずかさる
    人の意見は なおも変わらじ」。

古いことわざに云うように、「ひとりでも馬を水辺に連れて行くことはできるが、二十人がかりでも馬に水を飲ませることはできない」。そのように、ある人に悔い改めとはいかなることか知らせることはできるかもしれない。キリストが何をするお方かを理解させることはできるかもしれない。だが、いかなる人も別の人にキリストをつかませることはできない。しかり。神ご自身でさえ、強制的にそうすることはなさらない。神は、理性を有する被造物としての人に敬意を払われる。神は決して人を、棒切れだの、感覚のない石ころだのででもあるかのようには扱われない。人を人として造った神は、彼らの人間性を踏みにじることをなさらない。人によってご自分の栄光を現わすことを心に決めている神は、ご自分の栄光を明らかに示すような手段をお用いになる。――獣に、あるいは、自然界にある無生物にふさわしいような手段ではない。人の成り立ちに即した手段をお用いになる。本日の聖句は、そのことを語っているのである。「わたしは……綱……で彼らを引いた」。――雄牛にふさわしいような綱ではない。「人間の綱……で彼らを引いた」。――人々が荷車を引くだろうような荷綱ではない。むしろ、人が人を引くような綱である。そして、あたかもご自分のことばの意味を明らかにするかのように、こう云い表わしておられる。「わたしは……愛のきずなで彼らを引いた」。愛は、人に働きかける強大な力である。人の性質の様々に異なる部分に対する、愛に満ちた訴えがなくてはならない。そのようにして、人は、主権的な恵みによって動かされざるをえなくなるのである。

 つまり、こういうことである。確かに、いかなる人も、引かれない限り神のもとに行くことはない。だが、それと同じくらい真実なこととして、神はいかなる人をも、人としての成り立ちに反して引くことはなく、神が引く方法は、通常の精神的な働きに厳密に従ったものなのである。神は、人間の精神のあり方をわきまえ、物質に対するようにではなく、精神に対するように、それに働きを及ぼされる。神がお用いになる強制力、束縛、そして綱は、「人間の綱」なのである。神がお用いになる絆は、「愛のきずな」なのである。

 これは、十分に明らかである。さて、私がこれからあなたに示そうとしているのは、――どうか主がそれを助け給わんことを!――こうした、主が罪人たちの心に固く巻きつけられる綱や絆のいくつかである。私は、主の御手の中にあって、そうした綱をあなたに巻きつける手段となるかもしれない。だが、そうした綱をかけた後で、私が引くことはできない。縄を何かにかけることと、全力をこめてその縄を引くこととは全く別物である。それで、こういうことになるであろう。私は種々の議論を紹介する。それから、今この場にいる忠実な人々の祈りによって、神がその無限のあわれみにより、その綱を引いてくださるであろう。そして、あなたの魂は甘やかに、心底からの同意とともに引かれていくであろう。あなたの意志は、来て、永遠のいのちをつかむことに、ほむべきしかたで屈することであろう。

 第一に、ある人々がキリストのもとに引かれて行くのは、真の信仰者たちの幸せさを見ることによってである。真の信仰者は、天国の外にいる者たちの中で、最も幸せな存在である。ある意味で、彼は御使いにもまさっている。智天使や熾天使が知ることのできるいかなるものよりも輝かしい希望、壮大な運命を有しているからである。彼は神の子どもであり、子とする御霊を内側に宿している。それを熾天使は決して有していない。あるキリスト者たちは、この幸せさを自分の生き方によって示している。彼らを見ると、常に朗らかにしていることに気づく。たとい、しばしの間、黒雲がそ
の眉宇を通り過ぎることはあっても、それはほんのしばしのことでしかなく、すぐに彼らは再び喜び出す。私はそうした人々を知っており、そうした人々と行き会えたことを嬉しく思う。彼らはどこへ行こうとその場を快活にする。誰と一緒になろうと、それは御使いがその翼を震わしたようである。時間があれば、彼らに口を利かせてみるがいい。それは常に他の人々を慰めるものとなる。多くの若い人は、このようなキリスト者たちを見て、こう云いたくなるものである。「私もこの人たちと同じくらい幸せになれればなあ。この人たちくらい喜びにあふれていられればなあ。この人たちの顔には、いつも微笑みがあるのだもの」。そして、疑いもなく、多くの人々がイエスをつかむよう導かれたのは、そうした愛の綱に引かれたからに違いない。

 そして、愛する方々。あなたに云わせてほしいのは、これは、あなたを引くのに最もふさわしい綱なのである。というのも、もしあなたが人生の甘美さを知りたければ、もしあなたが川のような平安[イザ66:12 <英欽定訳>]を持ちたければ、もしあなたが朝、自分とともにある平安、自分とともに仕事について来る平安――夜もあなたとともにあり、穏やかなまどろみの中であなたのまぶたを閉ざしてくれる平安――あなたを生かしてくれ、死を見越してもあなたを強めてくれる平安――をいだきたければ、キリスト者になるべきだからである。私は証しするが、たとい私が犬のように死ななくてはならず、たとい現世がすべてで、いかなる来世もなかったとしても、私はむしろキリスト者となりたいと思う。というのも、この今の世で敬虔に生きることには、この上もない喜びと平安が伴うからである。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」[Iテモ6:6]。そこには、今のこの世のための約束があり、来たるべき世のための約束がある。若者よ。あなたは幸せになりたいだろうか。ならば、あなたの幸いを殺してはならない。あなたは目を輝かしていたいだろうか。ならば、あらゆる行為に確実に悲しみがついて来るような場所に行ってはならない。幸せになりたいだろうか? イエスのもとに来るがいい。この愛の絆によって甘やかに引かれて行くがいい。

 もう一本の愛の絆は、――これは私を救い主のもとに導いたものだが、――神の民の安泰さを感じとり、彼らのように安泰になりたいという願いである。私は、自分がいかに特別な性分をしているかは分からないが、常に安全なものを愛してきた。私の知る限り、私にはひとかけらも投機家気質がない。安全なもの――岩でできており、時の試練に耐えると分かるもの――それを私は貪欲につかみとる。私は子ども心にもこう論じていた。――聖書は、キリストを信ずる者は決して滅びることがないと告げている。ならば、もし自分がイエスを信じるなら、自分はこの世においても永遠においても安全になるのだ。地獄に落ちる恐れは全くないのだ。永遠の状態について何の危険を冒すこともないのだ。それは永遠に安泰なのだ。自分は、この目を閉じて死ぬときもキリストの御顔を見て、その栄光の御姿を眺める確信を持てるのだ、と。聖徒の最終的堅忍という教理を聞くと、私は生唾を呑み込むのが常であった。そして、神の子どもになりたいと切望するのだった。私は、老いた聖徒たちがこの賛美歌を歌うのを聞くことがあった。――

   「わが名は御手の 掌中にあり
    永遠すらも よく消すをえじ
    御心(みむね)に刻印(きざ)まれ、つゆ変わるまじ
    拭えぬ恵みの しるしぞあらば。

    しかり。われは すえまで 忍びうべし、
    その証しを堅く 受けたれば。
    幸い増せども 安泰(たしか)さ変わらじ。
    栄えを受けし 天つ霊らは」。――

そのとき私の心は、さながら、このからだから躍り上がるようであった。そして、神に向かってこう叫ぶのだった。「おゝ、私もそのような救いにあずかることがどんなに良いことでしょう!」 さて、若者よ。あなたはこの愛の絆についてどう思うだろうか? あなたは、そこに何か筋の通ったもの、力強いものがあると思わないだろうか?――あなたの身は永遠の破滅という一切の危険から守られることとなり、それも神の恵みによって一瞬のうちにそうされるのである。「御子を信じる者はさばかれない」[ヨハ3:18]。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」[ヨハ10:27-28]。これにあなたは何と云うだろうか? この真理はあなたの心を惹きつけないだろうか? この絆はあなたを引かないだろうか? 主よ。この安泰という甘やかな魅惑によって、罪人を引いてください。そして、その人にこう云わせてください。「私は今晩キリストをつかみます」、と。

 一部のキリスト者たちはあなたにこう告げるであろう。自分たちが最初にキリストに引かれたのは、敬虔な親族の聖さによってであった。――彼らの幸せさというよりは、彼らの聖さによってであった、と。東方に、1つの寓話がある。ひとりの人が、近所のあらゆる鳩小屋から自分の鳩小屋に鳩たちを惹きつけたいと願った。そこで、一羽の鳩を取り上げると、その翼に甘美な香水を塗りつけたという。その鳩が飛び去ると、その仲間の鳩たちがみな注目し、その甘やかな芳香に惹きつけられて後から後から飛んできたため、その鳩小屋はたちまち満杯になった。あるキリスト者たちはそうした種類の人々である。彼らの翼には、イエスの似姿という高価な軟膏が塗られており、どこへ行こうと、彼らの親切さと、裏表のない誠実さ、優しくありながら正直で、愛すべき、それでいながらイエスのためには大胆な心構えは、他の人々にこう悟らせざるをえない。彼らはイエスとともにいたのだ[使4:13]、と。そこで人々は云う。「どこにイエスは住んでおられるのですか。私もお会いして、愛したいのですが」、と。残念ながら、罪人よ。私は、そのように魅力的なしかたであなたを惹きつけることはできないのではないかと思う。だが、あなたには敬虔な人々の伝記を読んでほしい。ことによると、あなた自身の母上の行ないに注視してみるがいい。すでに亡くなっておられるだろうか? では、生前の母上がどれほど神にささげきった生き方をしていたか思い起こすがいい。そして私は、神の愛にかけて、また、母上の多くの祈りと涙にかけて、また、母上の魂のあなたに対する憐れみと、わななくほどの熱望にかけて、あなたに命ずる。母上の模範を、あなたが神に引かれる愛の絆の一本とするがいい。主よ。その綱を引き給え! 主よ。その綱を引き給え! もしその綱があなたに巻かれているとしたら、また、主がそれをお引きになるとしたら、私はあなたが今晩キリストに近づくだろうという大きな望みをいだくであろう。

 見ての通り、私はあなたにその綱を示すだけとし、そのまま放っておくことにしている。ことによると、あれかこれかが力強く働くだろうと望んでいるからである。さて、別のこととして、私の信ずるところ、少なからぬ人々がキリストのもとに導かれたのは、受けた数々のあわれみに対する感謝によってである。その水夫は難破を免れたことがある。あるいは、テムズ川においてさえ、間一髪で命拾いしたことが何度となくあるかもしれない。その狩猟家は、手に持っていた猟銃が暴発したにもかかわらず、かすり傷1つ負わなかったことがある。その旅行者は恐ろしい鉄道事故から救われたことがある。大破した客車の残骸の中から無傷で引き出されたのである。その親は自分の子どもたちが次から次へと熱病の床に伏すのを見たが、ひとりも命を失わなかった。あるいは、自分自身、商売で次々に損失をこうむり、ついに破産を覚悟するまでとなった。だが、まさにそのとき、神が恵み深い摂理によって介入し、時を移さず見る間に商売が繁盛し始めた。ある人々はこうしたことを考え込んで、こう云ってきた。「神が私たちにこれほどいつくしみ深くあられるのに、私たちが神を愛さないでいて良いだろうか? これほど優しく私たちを見守り、恵み深く数々の必要を満たしてくださる神を、私たちが毎日蔑んでいて良いだろうか?」 おゝ、方々。思うにこの愛の絆はあなたがたの中のある人々の上に落ちるはずである! 話をお聞きの愛する方々。あなたに対して神はいかにいつくしみ深くあられたことか! 私は、あなたが陥っていた状況を公に語りはすまい。だが、あなたも友人と語り合ったときに、こう云ったことがあったはずである。「何と摂理は恵み深く私を扱ってくれたことか!」 あなたの心を神にささげるがいい。若者よ。確かにあなたは、神があなたに示されたようないつくしみに対して、それ以下のことはできないに違いない。母親よ。イエスにあなたの心をささげるがいい。この方はそうされる価値がある。この方は、あなたのその心が悲嘆で破れないように救ってくださったからである。婦人よ。聖別するがいい。――願わくは主があなたを助けてそうさせ給わんことを!――あなたの心の最も暖かな愛情をこの方のため聖別するがいい。この方はこれほどまで気前の良い摂理によってあなたを扱ってくださったのである。この方にはそれが値するではないだろうか? あなたは恩知らずの罪を犯そうというのだろうか? あなたの内側には、こう云うものがないだろうか? 「もはや、これほど親切な《友》に対して敵であり続けてはならない。むしろ、この方に和解させられるがいい。御子の死によって神に和解させられるがいい」。願わくはこの綱があなたがたの中のある人々をつかむように。そして、神がそれを引き、そのようにしてあなたをご自分に惹きつけてくださるように!

 愛することよりも思考することを特徴としている人々は、しばしば別の綱によってとらえられる。あなたがいかなる考え方をしている人か、私には分からない。だが、私にはこう思われる。かりに私が今キリストをつかんいなかったとして、誰かが私に面と向かってこう云ったとしよう。「キリスト教信仰は、世界中で最も筋の通った宗教ですよ」。その場合、私はしばしその人に耳を貸し、それを私に証明してくれるよう頼むはずである。私がしばしば旅行中の人々の耳をとらえて、一心に耳を傾けさせてきたのは、私が、救いの計画が全く筋の通ったものであることを示そうとするときであった。神が正しくあられること、それは当然のこととされている。神が正しくあられる以上、罪は罰されなくてはならない。それも明白である。では、いかにして神が正しくありながら、罪人を罰さずにいられるだろうか? それが問題であり、福音はその問題に答えるのである。それは、キリストが――神の御子が――人となられたと宣言する。キリストは、神によって救われるべく選ばれた人々の代理となり、身代わりとなり、成り代わって立たれたと告げる。誰がそうした人々かは、彼らがキリストを信じることによって分かるであろう。では、キリストは、私がいま信仰者と呼ぶだろう人々の代理となり、身代わりとして立たれたのである。キリストは神の御手から、彼らが当然神から受けなくてはならない一切の苦しみをお受けになった。否、それ以上のものを受けられた。彼らは神の律法を守る義務があったのに、そうすることができなかった。キリストは彼らに代わってそれを守られた。そして今や、キリストが行なわれたことは、信仰によって彼らのものとなる。彼らはキリストが自分たちを救ってくださると信頼する。キリストの苦しみは、彼らが地獄に送られる代わりになされた。そして彼らは自分たちのもろもろの罪から公明正大に救い出される。キリストの義は、彼らが神の律法を守る代わりになされた。そして彼らは、公明正大にパラダイスに行くという報いを受ける。あたかも彼ら自身が完璧に聖であったかのようにである。

 さて、これは十分に筋の通ったことであると思われる。日常生活において、私たちは同じことがなされるのを見ている。ある人が民兵に徴募される。だが代理の者のために金を払うと、その人自身は自由になる。ある人が借金を負っている。友人のひとりが介入して、彼に代わって勘定を払ってやると、借金は帳消しになる。代償によって正義の目的は果たさせる。これは、私にとって無比のことと思われる。神が人の身代わりとなり、神が人のために人のかたちで苦しんで、正義が決して損なわれないようにするという事がらの全体は、無比のことである。私の理性はこの偉大な奥義の足元に膝まずいてこう叫ぶ。「私もその恩恵にあずかりたく思います。主よ。私を、イエスが死なれた人々のひとりとしてください。私が、イエス・キリストによって成し遂げられた完全な贖罪から湧き出している平和を持てるようにしてください」。

 私の兄弟よ。私は、この綱であなたを引くことができれば良いのにと思う。だが、そうはできない。私はただ人々にこの綱を示し、それがいかにうまくあなたを引くかを告げることしかできない。もしあなたがそれを拒絶するなら、あなたの血の責任はあなたの頭上に帰すであろう。私はあまりにも良く分かっている。あなたがそれを拒絶しないとしたら、それはひとえに、神の強大な御手がその愛の絆をぐいと引っ張り、イエスへと引き寄せ始めておられる場合でしかない、と。

 しかしながら、それよりもはるかに多くの人々は、疑いもなく、イエスのこの上もなく大きな愛を感じることによって、イエスに惹きつけられる。贖罪が筋の通ったものであることよりも、そこに輝いている神の愛こそ、多くの魂を惹きつけるものと思われる。かつてロンドンの市中に、ひとりの裕福な商人が住んでいた。非常に気前の良い精神をした、ロラード派*1の人で、真理のために罰金刑や、投獄、さらには死刑すら受けた人である。彼の近所に、ひとりのみじめな靴屋が住んでいた。――貧しく、浅ましく、見下げ果てた男である。その商人は、何か知られていない理由のために、この貧しい靴屋をことのほか気に入っており、彼にできる仕事はみな与え、彼を多くの友人たちに推薦するのを常としていた。そして、この男が必ずしもしかるべく働こうとしなかったために、彼の家族に何か必要があると分かったときには、自分自身の食卓から肉を送ってやり、彼の子どもたちの多くに服を着せてやった。よろしい。商人がそのように行ない、しばしば彼に賃金全額の前払いまでしてやったにもかかわらず、ロラード派を密告する者、あるいは、聖書を読んでいるような者たちを見つけて市当局に通報する者には報償が与えられることとなったとき、この靴屋はその報奨金を得るために、市当局に出向いて、その商人を密告した。しかしながら、神のみこころにより、ある巧みな弁護者を通してこの商人は罪を免れることができた。彼はこの靴屋を赦した。――無条件で赦してやり、そのことについて一言も云わなかった。だが、町通りでは、この靴屋は常に自分の頭を別の方にそらし、自分があれほどはなはだしくむごい仕打ちをした人を避けようとした。それでも、この商人は決して彼に対する扱いを変えなかった。むしろ、いつも通りに肉を送り、彼の妻子が病を得れば、以前と同じようにその世話をしてやった。だが、決してこの靴屋から柔らかな言葉を受けることはできなかった。彼が口を開くときには、それはこの商人を口汚くののしるためであった。ある日、町の非常に狭い路地で、――というのも、その頃の町通りは狭く、路地はそれよりも狭かったからである。――この商人は靴屋が自分の方に向かってくるのを見た。彼は思った。「今や好機だ。彼が私に向き合わずに通り過ぎることはできない」。もちろん、靴屋はその顔が非常に赤くなった。そして、心を決めた。もし商人が自分を厳しく批判し始めたら、自分もできる限り威勢良く口答えしてやろう、と。しかし、商人は彼に近づいたとき、こう云った。「あなたが私を避けて通っているのはとても残念なことです。私はあなたに何の悪意もいだいていません。あなたやご家族のためなら、何でもしたいと思っているのですよ。あなたと親しくすること以上に私にとって大きな喜びはないのですから」。靴屋は歩を止め、たちまち自分の目が潤むのを感じた。そして、じきに涙が頬を流れ落ち始め、彼は云った。「何て下司な野郎なんだ、このあっしは。旦那を逆恨みするなんて。あっしは旦那から二度と赦されねえと思っていやした。旦那とは、いつだって顔を合わせねえようにしていやした。だのに、そんなお言葉をかけていただくなんて。あっしは。もう旦那を目の敵にはしていられません。後生です、旦那。どうかお赦しくだせえ」。そう云うや否や、彼は土下座した。このように彼は、人間の綱、愛の絆で引かれたのである! そして、それより高貴な意味において、これこそまさにイエス・キリストが罪人たちのため行なっておられることである。主はあなたにあわれみを差し出しておられる。あなたに永遠のいのちをはっきり示しておられる。だのに、あなたはそれを拒絶している。日ごとに主はあなたに気前良く恵みを与え、ご自分の摂理の食卓で養い、惜しみなくあなたに衣服をまとわせておられる。だがしかし、そうしたすべてにもかかわらず、あなたがたの中のある人々は主を呪っている。主の安息日を破っている。主の御名を蔑んでいる。だが、主はあなたに何と仰せになるだろうか? それでもあなたを愛しておられる。あなたの後を追われる。叱責するためではなく、愛してほしいと云いより、みもとに来て、ご自分をあなたの《友》としてほしいと懇願するためである。あなたは、私の《主人》の数々の傷口に向かってかたくなでいられるだろうか? その血の汗に対して我を張れるだろうか? 主の受難に抵抗できるだろうか? おゝ! かの木の上で頭を垂れ、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]、と叫ばれたお方の御名にかけて、あなたはこの方に向かってかたくなでいられるだろうか? たとい主が私のためには死ななかったとしても、主が他の人々のために死なれたがゆえに、私は主を愛さずにはいられないと思う。しかし、主はあなたのために死なれたのである。もしも私が主にあなたの魂を、今のあなたのまま、おゆだねするとしたら、あなたにもそのことが分かるであろう。これこそ、主があなたのために死なれた証拠である。おゝ、願わくは神があなたに今イエスを信頼させてくださるように。この愛の絆、この人間の綱であなたを引いてくださるように!

 それ以外にも多くの綱があるが、私の力は尽きつつある。それゆえ、もう1つだけ言及しよう。キリスト者が享受している種々の特権は、あなたがたの中のある人々をキリストに引くはずである。あなたは今晩、もしも聖霊がひとりの罪人をキリストにお導きになるとしたら、この通路の間で何が起こることになるか知っているだろうか? そこにその人が立っている。この地上を歩いている者の中で誰にも負けないほど下劣な罪人である。それは、その人も分かっている。みじめな男である。1つの重荷を背負っている。だが、もしその人が今晩キリストを仰ぎ見るよう導かれるとしたら、その人のもろもろの罪は瞬時にその人から転がり落ちるであろう。イエスの墓所に転がり込み、埋められて、二度と復活しないであろう。一瞬にして、その人は頭の天辺から爪先まで白い衣をまとわされるであろう。御父の愛の口づけがその頬に与えられ、御霊の証しという証印がその額には押される。その人は今晩、神の子どもとして、イエス・キリストとの共同相続人[ロマ8:17]とされる。その人の足には平和の福音の備え[エペ6:15]が履かされる。その人にはイエスの義が着せられる。家に帰るときのその人は、みじめな男ではなく、喜びのあまり帰路をずっと踊って行けるほどである。そして、家に帰ったとき、それは決して荒れたぼろ家ではなくなる。それ以前のいかなるときにもまして輝かしい所となる。自分の子どもたちをその人は、かつて云っていたような穀潰しではなく、自分の世話にまかされた宝石のようにみなすであろう。数々の試練すら、その人は神に感謝するようになる。普段受けている多くのあわれみは、その甘やかさを増し、非常に尊いものとなる。その人は、地上の地獄のような人生を送る代わりに、下界の天国のような人生を送るようになる。そして、こうしたすべては、またたくまに生ずるのである。

 否。それですべてではない。今晩なされたみわざの効果は、その人の全生涯に及ぼされる。その人はキリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]となる。それで、やがて時が来て、その髪が半白になり、その寝床に横たわり、息絶えようとしているときも、その人は、その最後の数箇月の間に、神の恵みに照らし出されてきた通り道を振り返り、かの黒い河を越えて永遠に至ることを待ち望む。そこでは、被造物には耐えられないほど満ち満ちた神の栄光が燦然と輝いているのである。確かにこれは、罪人をイエスのもとに行こうという気にさせるに十分である。これは、強靭な綱に違いない! 近づくがいい。おゝ、人よ。イエスはあなたを受け入れてくださる。今あなたを、ありのままで受け入れてくださる! 主は、すでにあなたのような者らを何百万人も受け入れてこられた。天の音楽にその事実を証言させよう。あなたのような何百万もの者たちを、主は今なお喜んで受け入れようとしておられる。私たちの中のある者らは、その証言ができる。ならば、来て、迎(い)れらるがいい。来て、迎(い)れらるがいい。放蕩息子よ。決してあなたの襤褸服のことなど気にしてはならない。御父の御手がそれを取り去るであろう。あなたの不潔さのことなど決して気にしてはならない。豚を飼っていたことなど決して気にしてはならない。ありのままのあなたで来るがいい。まさに今、来るがいい。

 ある人がこう云っているような気がする。「よろしい。私も行きたいと思います。ですが、キリストのもに行くとはどういことか分かりません」。キリストのもとに行くとは、キリストを信頼することである。あなたはこれまで自分で自分を救おうとしてきた。もはやそうしてはならない。あなたはこれまで教会に、あるいは、会堂に努めて通ってきた。また、種々の戒めを守ろうとしてきた。だが、それを守ることはできなかった。いかなる人もそれを守ったことはなく、これからも守ることはないであろう。事実、あなたは、重労働の宣告を受けた囚人のようであった。踏み車を踏みながら星々に達そうとしてきたが、一吋たりとも高く上ってはいない。あなたが何を行なってきたにせよ、以前と変わらない状態にある。さて、こうしたことはやめるがいい。すっぱり手を切るがいい。キリストは、完全に律法を守られた。あなたが律法を守るのではなく、キリストが律法を守られたことを代わりとするがいい。キリストは神の怒りを完全にお受けになった。あなたがそれを受けるのではなく、キリストがお受けになったことを代わりとするがいい。ありのままのあなたでキリストを受け入れ、キリストがあなたをお救いになれると信じるがいい。――否、あなたをお救いになると信じ、そうしてくださると信頼するがいい。これが、私の宣べ伝えなくてはならない福音のすべてである。私が説教を終える前に、このキリストに信頼するという単純なことを繰り返し語らないことは、めったにない。ことによると、ある人々は何か新しいことを探求しているかもしれないが、私はそのようなものを示すことができない。私は何も新しいものを持っていない。ただ、同じ古い物語を何度も何度も告げるだけである。キリストを信頼するがいい。そうすれば、あなたは救われる。

 私たちの数々の教会集会で聞かれたことだが、ある場合には、説教のしめくくりに私がそうしたことを口にしただけで、罪人たちをいのちと平安に導くのに十分であったという。それゆえ、私は口を酸っぱくして云い続ける。私の心は、あなたがたの中の何人かを今晩キリストのもとに至らせたいと切望している。だが、いかなる議論をあなたに対して用いるべきか知らない。確かにあなたは地獄に堕ちたいとは思うまい。確かに、この世におけるはかない快楽の方が、永遠の苦悶より価値があるなどと計算するはずはない。だが、キリストをつかまない限り、あなたは地獄に堕ちるのである。この綱はあなたを引くだろうか? 確かにあなたは天国に入ることを望むであろう。あなたには、死後の領土における良い方の国に行きたいという何がしかの願いがある。この愛の綱は、あなたを引くではないだろうか? 確かに恐れも、焦燥も、疑いも、不安も取り除かれることは良いことに違いないであろう。自分の頭を枕に載せて、「このまま目覚めなくとも大したことではない」、と云えることは良いことであろう。海に出て、陸地に着こうと着くまいと全くどうでも良いことだとみなせるのは、良いことに違いない。否。時として私たちが感じる、世を去りたいとの願いは、ここにとどまりたいという願いを上回ることがある。あなたはそう願わないだろうか? しかし、あなたがそれを得るには、キリストをつかまなくてはならない。このことは、あなたを引くではないだろうか?

 愛する人よ。あなたがた、私が安息日ごとに顔を見、このあわれな、しわがれた声で何百回となくその耳に語りかけている人たち。私たちは別れたくないと思う。あなたがたの中のある人々にとって、ここが、これまであなたが占めたことのある中で最も幸福であると同時に、最も聖なる場所であることは私に分かっている。あなたはこの場所にいることを愛している。私はあなたがそうしていることを嬉しく思うし、あなたに会えることを嬉しく思う。私はあなたから引き離されたくない。あなたがたの中の誰かが別の町に引っ越すとき、あなたの顔を見られなくなるのは心の痛みとなる。私は、来たるべき世であなたから引き離されないことを望む。回りにいる私の愛する方々。この長年の間キリストのうちにあった人たち。あなたもまた彼らを愛している。私たちは引き裂かれたくない。この船の乗組員全員が、向こう岸で出会いたいと私は願う。私は、あなたがたの誰ひとりいなくて良いとは思わない。あなたがたの中の最も若い人も、最も老いた人もそうである。よろしい。だが、私たちが天国で再会するには、イエス・キリストにあって会うのでなくてはならない。私たちが父と、母と、牧師と、また友人たちと会いたければ、私たちの主イエス・キリストによる堅固な希望をいだいていなくてはならない。この愛の絆はあなたを引かないだろうか? 母親よ。天国の狭間胸壁から、小さな天使のような子どもが今晩見下ろしており、その指で招いている。その子は、あなたを見下ろして、こう云っている。「お母さん。あなたの赤ん坊の後を追って天国に来てください」。父親よ。あなたの娘は、その死の間際に、あなたに命じた。あなたの心をキリストにささげるようにと。そして、天国にある彼女の座席から、彼女の命令は、その病床から来たのと同じくらい強い力をもってあなたのもとに下ってきていると思う。「私の後について来て。私の後について天国へ来て頂戴」。先に世を去った友人たち――イエスにあって眠った敬虔な人々――は、声をそろえてあなたに云っている。「ここに上ってきてください。ここに上ってきてください。私たちは、あなたがいなければ完璧にはなれないのですから」。この愛の絆はあなたを引かないだろうか? おゝ、この人間の綱はあなたをつかみ、あなたを《救い主》の足元に連れて行かないだろうか! 願わくは主がそうしてくださるように。だが、私はそう云いながらも、ただあなたにこうした綱を示すことしかできない。それを引くのは神のみわざである。そして、それは聖徒たちが熱心に祈りを合わせて、罪人たちのための祝福を祈願するならば引かれるであろう。主がそれを与え給わんことを。その愛のゆえに! アーメン。。

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(訳注)

*1 ロラード派。十四-十五世紀におけるウィクリフ派。宗教改革の先駆となった。[本文に戻る]

絹の綱[了]

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