HOME | TOP | 目次

鮮やかな対比

NO. 3003

----

----

1906年8月30日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1864年11月17日、主日夜


「そして人々はそれぞれ家に帰った」。――ヨハ7:53

「イエスはオリーブ山に行かれた」。――ヨハ8:1


 この2つの節が著しいしかたで例証しているように、場合によって聖書の章区切りは、賢明なものでないことがある。聖書の多くの箇所は、もしも福音書や書簡が――そして預言書さえもが――何の区切りもない状態のままであったとしたら、その意味がずっと明らかであったであろう。本日の聖句として私が選んだ、この2つの文章は決して分割されるべきではなかったものである。そこで、私たちは正しくこう云えるであろう。「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」[マタ19:6]。それで、この二文は一緒に考察することにしたいと思う。そうすべきだからである。「そして人々はそれぞれ家に帰った。イエスはオリーブ山に行かれた」。

 I. 第一のこととして、ここには、《私たちが真剣に考察すべき1つの事実》が示されている。聖霊の恵み深い導きの下で、それを私たちの精神の中で思い巡らすことにしよう。キリストの友人や敵たちが、めいめい帰るべき自分の家を持っていた一方で、キリストはその夜を野外で過ごさなくてはならなかった。オリーブ山で目を覚まして、祈りながら過ごさなくてはならなかった。

 まず最初に注目すべきは、主の極度の貧しさである。この人々全員の中で――友人たちであれ、敵たちであれ――、家を持っていないのは主おひとりであった。否。それだけではない。ご自分の造られた、いくつかの最も卑しいものの中でさえ、隠れ家を持たないものは1つもなかった。狐は、根絶やしにされて当然のものであるとはいえ、隠れることのできる穴があった。また、空の鳥たちは、多くの者によって容赦なく滅ぼされようとしていたにもかかわらず、休むことのできる巣があった。だが、人の子には枕する所もなかった[マタ8:20]。もしかすると、ユダヤ中で家を持っていない者はこのお方しかしかいなかったかもしれない。いずれにせよ、主ほど自発的に家を持たずにいた者はいなかった。主は、御父の宮廷の幾多の栄光からも、御父とともに天国で統治する威光からも身を落とし、ご自分の弟子たちの施物に頼って日々の糧を得るようになられた。また、ご自分のものと呼べる家は何もなく、昼間の働きを終えた後で退くことのできる家庭は何もなかった。信仰者たち。このことにおける主の驚くばかりのへりくだりを賞賛するがいい。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」[IIコリ8:9]。もしあなたがたの中の誰かがこの世で貧しくあるとしても、慰められるがいい。あなたは、かつてあなたの《主人》がそうあられたよりも貧しくはないからである。思い出すがいい。真のキリスト者はみなキリストのかたちをしてはいるが、敬虔な貧者はキリストの完全なかたちであるということを。その人は、他のキリスト者たちが有している資質を越えた資質を1つ有している。それは、貧しさである。それが、その人を他にまさって自分の《主人》に似た者としているのである。馬小屋で生まれ、飼い葉桶を揺りかごとされたお方、パレスチナの百姓の素朴な衣――上から全部一つに織った、縫い目なしのもの[ヨハ19:23]――を着ていたお方、漁師たちを自分の親密な同伴者としていたお方こそは、貧者のキリストであり、あなたがたの中で最も貧しい者よりも貧しくあられた。それゆえ、貧窮があなたの上にもたらす一切の苦痛や悲嘆において、あなたに同情することがおできになる。そして、あなたがた、地上の有力者たち。無学な者や貧しい者を蔑んではならない。というのも、「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされた」[ヤコ2:5]からである。また、神は、「民の中から選ばれた者を高く上げた」[詩89:19]ではないだろうか。すなわち、その愛するひとり子の御子を高く挙げて、ご自分とともにその栄光の位に着かせたではないだろうか。

 さらに、「人々はそれぞれ家に帰った」が、キリストには帰るべき何の家もなかった。そして、これが意味しているのは、単に主の極度の貧しさだけでなく、主の友人たちの忘れっぽさと不親切である。私たちひとりひとりはこう云いがちである。「私がそこにいたなら、主はその夜をオリーブ山の冷たい露の中で過ごすようなことはなかったでしょうに。主は、私の家が差し出せる限りの供応を受けられたでしょう。私はいつだって主の預言者のために一部屋を用意しておいたことでしょう。あのシュネム人の女がしていたように、『寝台と机といすと燭台』[II列4:10]を備えて。そして私はこの《預言者の王》を、とびきりの喜びをもってもてなしたでしょう」、と。そうあなたは考える。だが、あなたがキリストの時代に生きていたとしても、ヨハネはやはりこう書いたかもしれない。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」[ヨハ1:11]。また、この預言者の嘆きは、またもや真実となっていたかもしれない。「彼は……さげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」[イザ53:3]。私たち、主ご自身の民、主に血で買い取られた民、主の愛する者でさえ、「彼を尊ばなかった」。確かに、主イエス・キリストほど、その友人や弟子たちからさえ薄情に扱われた《友》はひとりもいなかった。その頭は天の露に濡れ、髪の毛も夜の雫で濡れていた[雅5:2]に違いない。だが、誰ひとり主に宿り場を与えはしなかった。それでも、私たちは、自分の《主人》への軽視ゆえに主の弟子たちを非難してはならない。私たちが自分自身をも喜んで非難しようとするのでない限りそうである。主はしばしば私たちの戸の外に立って、叩かれた[黙3:20]。だが私たちは、何らかの形で、私たちの心の中に主を泊まらせようとはせず、主の場所に、自分のひいきの罪を何か喜んで保っていた。そして、そのようにして《救い主》は今なお外に立っていなくてはならないのである。主は、私たちの心の中に入って罪と平和に同居しようとはなさらないため、私たちが闖入者を追い出すか、主にそうしてくださるよう願うかするまで、外にとどまっていなくてはならないからである。

 また、キリストに帰るべき家がなかったという事実の中で、やはり注目すべきは、主の霊の孤独さである。もし主がその友人たちのひとりに、自分をもてなしてくれるよう頼んでいたとしたら、おそらく誰ひとり主の要請を拒まなかったであろう。主の母マリヤは今なお家を持っていたではないだろうか? 主の父と称せられていた大工のヨセフはどうなったのだろうか? 主の兄弟たちは主とともにいなかったのだろうか? その中のひとりも主をもてなそうとはしなかっただろうか? そこには、主の兄弟と呼ばれているヤコブがいた。彼は主のために宿り場を見つけられなかっただろうか? ペテロには妻がいた。彼のしゅうとめが熱病で床に着いていたところ、キリストによって治されたと記されているからである[マコ1:30-31]。彼は、自分の主を招くことのできる場所を持っていなかったのだろうか! 愛に満ちたヨハネには1つの家があった。彼は、あの十字架刑の後で、イエスの母を自分の家に引き取ったからである[ヨハ19:27]。それから、イエスにつき従い、自分の財産をもって仕えていた女たちがいた[マコ15:41; ルカ8:3]。また、マルタとマリヤとラザロたちは、キリストに宿り場を与えようとしなかっただろうか? おゝ、しかり。彼らは喜んでそうしようとしたであろう。だが、主は、そのときばかりは、試練のただ中におられた。主はパリサイ人たちに取り囲まれていた。彼らは主を四方八方から試みており、主が必要としておられたのは、人間相手の交際よりもすぐれたものであった。主には、休むことのできる場所が必要である。だが、主がご自分の頭をその胸にもたせかけることのできるような弟子はひとりもいない。ヨハネは自分の頭をキリストの胸にもたれさせることができても、キリストがご自分の頭をヨハネの胸にもたれさせることはおできにならない。それで、《救い主》はひとり離れてオリーブ山へと行かなくてはならない。主には孤独な霊があり、いかなる人間も主の悲嘆や苦悩の中に完全に入り込むことはできないからである。私たちは時として、似たような精神をしたキリスト教の教役者が、田舎の一寒村に暮らしているのを見ることがある。その人は、その場所で教育のあるただひとりの人である。その人にとって興味深い多くの主題について、その人が語り合える人はひとりもいない。そして、その人の精神はしばしば非常な孤独を感じる。その人の信徒たちが考えていることといえば、ただ、自分の農地や、乳しぼりや、耕作や、種蒔きといったことでしかないように思われる。その人は、こうした一切のことを越えたことに彼らを至らせることができない。それで、その人はそこに、ことによると、自分の疑いや、疑念や、天来の事がらに関する思想について論じ合うことにできる仲間を誰ひとり有していないかもしれない。異教国でキリスト教の働きに携わる宣教師になるのは、孤独なことである。その人の孤独さは、いま私が描写していた人の孤独にさえまさっているかもしれない。しかし、《救い主》の孤独さは、それよりも大きなものであった。地上に、主がいついかなる時も語ることのできる人はひとりもいなかった。その最も熾烈な争闘の時にさえ、キリストは、ご自分の選んだ弟子たちが、ひとりご自分を置き去りにするだろうと知っておられた。全員が主を見捨てて逃げ出すだろうことを。確かに、そのときでさえ、主はこう云うことがおできになった。「しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」[ヨハ16:32]。だが、御父の臨在を除けば、主の全生涯はこの2つの文章に凝縮できよう。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった」[イザ63:3]。それで、その夜、彼らはみなそれぞれの家に帰ってもが、神はオリーブ山に行かなくてはならない。孤独な人に違いないからである。

 このようにして、この聖句によって3つのことが引き出される。――キリストの極度の貧しさ、その友人たちの不親切さ、そして、主の霊の孤独さである。

 しかし、主の行動にはもう1つの理由がある。――主の心の好意に満ちた決意である。なぜ主はオリーブ山に行き、他のどこにも行かないのだろうか? 主は、そこがやがて、ご自分の汗を血の雫のように地に落とすことになる、あの神聖な退隠場に近いことをご存知であった。それで主は、サタンとのすさまじい争闘の場面となるべき場所の近辺に馴染んでいようと決意されたのである。あなたはこう考えないだろうか? もしも国の命運がワーテルローの野で決されることになるとウェリントンが知っていたとしたら、彼は可能な限りそこを検分していたであろう、と。この偉大な軍人は、そこを眺めに行き、研究し、攻撃と防御のための最善の位置を観察したであろうと私は信ずる。そして《救い主》も、厳粛な関心とともに、ご自分がかの魂の大敵と白刃で相見えることになる場所を見に行かれたのである。もしあなたや私が、何らかの恐ろしい苦難を忍ばなくてはならなかったとしたら、私たちがそのことについて一切を忘れようと努める見込みは非常に高い(肉体はそれほど弱いのである)。だが、《救い主》はそうではなかった。主は、ご自分の贖罪の犠牲を絶えずその念頭に置いており、それを他の者たちにも何度となく語られた。ご自分の民に対する主の愛は、あまりにも強固であったため、主は彼らのため死に至るまで苦しみを受ける時のことを熱心に期待していたように思われる。主の尋常ならざる云い回しを思い出すがいい。「わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」[ルカ12:50]。何と、十字架上での主の死は、ある意味で、主にとって1つの解放だったのだろうか? しかり。まさにその通りであった。そして、主はそれが成し遂げられるまでは、「苦しむ」のであった。おゝ、何と驚くばかりの愛によって、《救い主》はゲツセマネへ、このオリーブの圧搾所へ前進すべく駆り立てられていたことか。そこで主は、エホバの御怒りという石臼に挟まれて圧搾され、粉砕されることになっていた。それは、私たちのそむきの罪のために下るべき罰を受けるためであった!

 私はこうした一連の思想を、あなたに代わって徹底的に論議するつもりはない。単に、あなたの敬虔な瞑想のために、それらを示唆するだけである。そして、この一言の中にはそうした瞑想を行なうべきおびただしい数の理由があると思う。「イエスはオリーブ山に行かれた」。

 II. さて、この聖句を別のしかたで取り上げたいと思う。それが第二に私たちに提示しているのは、《自己吟味のための1つの鮮やかな対比》である。

 この最初の節は、私たち自身の普段のふるまいの何と真実な描写であろう! 「人々はそれぞれ家に帰った」。私たちひとりひとりが自分の家に帰るのは安らぎのためである。それは、ある程度までは全く正しいことだが、私たちはしばしば、私たちの主のための奉仕に携わっているべきときに、自分自身の安逸を求めてはいないだろうか? キリストが山に行かれたのは祈るためであった。だが、私たちは眠るために床に就く。あるいは、ご馳走を食べるために食卓に着く。退屈をまぎらわすため一時間も下らないお喋りをしに友人の所に行く。持て余した時間をつぶすために自分の種々の娯楽に向かう。疑いもなく、時間を浪費し、使徒のこの厳粛な命令に背いてきたという点では、私たちの間の最大の聖徒でさえ、自分を責めるべき何らかの理由があるに違いない。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」[エペ5:15-16]。私は、想像の中で、《救い主》が夜中の山上で、霊を苦悶させながら、両手を上げている姿が見える。その間、その弟子たちはみな自分の寝床でぬくぬくと眠っているのである。私たちの《救い主》がこのようにご自分の民のために祈り苦悶しているのを思えば、私たちは、私たちの中のほとんどの者らが普通そうしている以上の祈りのための時間を見つけられないだろうか? 霊においてより大きな得をするためとあらば、もう少々からだを抑制することは、私たちにとって益になるかもしれないではないだろうか? 残念ながら、私たちが祈りに費やしている時間を正直に申告するとしたら、非常に情けない証言しかできないのではないかと思う。だが、私たちがこの聖なる義務において遅々としていてよい弁解は何もない。これは束縛されることでも奴隷になることでもない。私たちの《天の父》への祈りに携わることは、信仰者の魂の最高の特権である。だが、私たちはしばしば、祈りによって神に近づく代わりに、自分の時間を無駄にするという破滅委的な安逸を好む。ある人がひとりの婦人にこう云うのを聞いたことがある。その婦人は回心していたが、その夫は居酒屋を営んでいた。「あなたの家には1つの部屋があります。それは、他のすべての部屋によってあなたの霊的いのちが害されないように守ってくれるでしょう。それは、あなたがひとり退いて密室の祈りを行なう部屋です。もしその部屋が正しく保たれるなら、それ以外の部屋があなたに害をもたらすことはとんどないでしょう」。キリスト者よ。あなたの主に見習うがいい。主はしばしば祈りのためにオリーブ山に退かれた。そして、それはあなたの魂にとって良いこととなるであろう。アフリカのとある宣教所で、兄弟たちのひとりが小さな灌木の木立に行って密室の祈りをするのを常としていた。そして、そこに行くには、丈の長い草むらをしばらく越えて行かなくてはならなかった。彼があまりにも頻繁に通ったために、彼が祈りに行っていた場所までは、はっきりと踏みならされた小道ができた。だが、しばらくしてから、この信仰告白者は、多くの点で締まりがなくなってしまった。かつてのようには奉仕を喜べなくなった。商売上の取引も、以前ほど厳格なものではなくなった。年長の兄弟が、この人に臨んだ変化の原因を彼に指摘した。彼はこの人をわきに呼んで、かつての小道へと連れて行くと、そこには草が伸びつつあった。それは、前のようには踏みしめられていなかったのである。そして彼は云った。「兄弟。そこにあらゆる故障の原因があるのです。君がかつて密室の祈りをしに行っていた小道に草が伸びているではありませんか」。もしあなたや私が、愛する方々。祈りのためにそのような場所に行かなくてはならなかったとしたら、残念ながら、その草は必ずしもよく踏みしめられることはなく、私たちはしばしばこう叫ぶべき理由があるのではないかと思う。「おゝ、主よ。私たちに真の祈りの霊を与えてください!」 この聖句が語る人々のように、私たちは安逸を求めて自分の家に帰る。だがキリストは寂しい孤独の中で祈るために山に行かれる。私たちは今なお主に対してこう云う必要がある。――

   「冷えし山々、夜闇の大気(いぶき)、
    見てとりぬ、汝が 熱き祈りを。
    砂漠(あれち)は知れり、汝が誘惑(まどわし)も
    汝が争闘(たたかい)も、また、汝が勝利(かち)も。

   「なり給え、わが 手本(かがみ)と。われに
    うつさせ給え、汝れがかたちを。
    さらば《審判主》(さばき)の 神はわが名を
    《小羊》に従(つ)く 者と認めん」。

 それ以外の何のために私たちは自分の家に帰るだろうか? 非常にしばしば、相談を行なうためである。ここで言及されている折に、キリストの敵たちが家に帰ったのは、いかにして主を罠にかけようかと語り合うためであった。そして、私たちも時として自分の家に帰っては、自分に関する事がらについて人と相談する[ガラ1:16]ことがある。私たちは、ひとりの友人に云う。「あなたは私がどうすべきだと思いますか?」 それから別の友人に云う。「私はこう確信していますが、私のような場合について、あなたならどう勧めてくださいますか?」 このようにして、あわれな、過ちを免れない、人間的な判断が、私たちの海図、また、私たちの手引とされ、私たちの船長、また、私たちの水先案内人とされるのである。「イエスはオリーブ山に行かれた」。そして、祈りのうちに、ご自分の問題を御父に持ち出された。主は人とは相談しなかったが、《永遠者》と相談された。そのお方の知恵は何の間違いも犯さず、そのお方の愛は決して過つことがありえないのである。愛する方々。私たちはこの点で非難に値するではないだろうか? あちこち巡り歩いては、自分の友人たちや同じ罪人たちを相手に無駄口を叩き、かの偉大な《大祭司》のもとに行くことをしないのである。この方こそウリムとトンミムをまとい、私たちのなすべきことを告げてくださるであろうに。このクーパーの詩句は今なお真実である。――

   「ことば出ざるや? あゝ、よく考(おも)え!
    汝れは流露(なが)るる 言葉で不平(かこ)ち、
    汝が煩悶(わずらい)の 悲し物語(こと)にて
    同胞(ひとばら)の耳 満たしおるなり、。

   「かく無益(あだ)に継ぐ 呼吸(いき)の半ばも
    願事(ねがい)によりて 天へ上せば、
    われらが朗歌(うた)も いや頻繁(しげ)からん、
    聞けや、わがため 主のなせしわざ」。

 また、私たちが自分の家に行くのは、非常に適切なこととして、同情を受けるためである。他のどこかで優しい同情が得られるとするなら、それはわが家においてであると私たちは感じる。そして、たとい外部の全世界が私たちを誤解し、でたらめを云うとしても、家の中では理解され、正しく認められるはずである。私たちの家の外にいる誰が私たちを中傷しようと、家の中では誰も私たちを偽って非難することはなく、そこではあらゆる心が私たちに対する同情で脈打っている。それで私たちはそれぞれ自分の家に帰るのである。だが、イエスはオリーブ山に行かれた。私がこう云うのは、家で同情を求めるあなたや私を非難するためではない。キリストご自身も同じことをされたからである。あの記憶されるべき晩、ゲツセマネで主が、血の雫のような汗を流されたとき、主は弟子たちにこう云われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか」[マタ26:40]。主は、その恐ろしい時に同情が必要であると感じたように思われる。だが、主は悟らなくてはならなかった。――そして、私たちもやはり悟らなくてはならない。――これ以上は人間の同情を得ることができないという点があることを。私たちは、イエスがしたように、「わが父よ」[マタ26:39、42]、と云わなくてはならない。御父の心の中にしか、真の同情は見つからないからである。それでも、何の無情さもなしに、こう云うことはできよう。愛する友人たちの同情を大切にしつつも、私たちは、祈りによって神のもとに行くことを忘れないようにしようではないか。私たちのあらゆる悲嘆という悲しい話を神の耳に告げ、私たちのあらゆる悲しみという物語をその御心に注ぎ出そうではないか。神には、私たちの涙をたくわえる皮袋[詩56:8]があり、私たちの不平を記す書がある。ご自分の民すべての悲嘆は(その死と同じように[詩116:15])主の目に尊い。主は星の数を数える[詩147:4]のと同じように、彼らの傷の数を数えてくださる。それで私たちは、家にいる自分の友人たちの同情を求めてもかまわないが、かのあわれみの蓋のもとに行くことを忘れないようにしようではないか。そうすれば、私たちの最上の《友》の同情と助けをも確実に手に入れることができるのである。

 また、私たちが家に帰るのは、休息と元気回復のためである。私たちは仕事によってくたくたに疲れてしまう。私たちに必要なのは、より多くの安逸ではなく、本物の休養である。私たちが床に就くのは、怠惰のためではなく、明日の労働に備えるためである。時として、いかに強壮な人々もその骨折り仕事から脇へそれて、しばらく休息しなくてはならない。そして、私たちがその目的のために家に帰るのは正しいことである。だが、イエスは、あらゆる人が自分の家に帰ったときも、オリーブ山に行かれた。そして、このことで示唆されるところ、私たちは、肉体的健康よりは、魂の必要をないがしろにすることに気をつけるべきである。私たちはダビデとともにこう叫ばなくてはならない。「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」[詩51:10]。そして、祈りによって私たちの神のもとに行き、神の方法によって活気づけられることを希望しなくてはならない。神への祈りの方が、元気を回復される方法としては睡眠よりもまさっている。魂がからだにまさっているのと全く同じである。ある程度の量の睡眠はからだのために必要である。だが、祈りはそれと同じくらい魂にとって必要なのである。

 寝床は、疲れた手足に休息を与えるだろうが、あがないの蓋は霊の諸力と情熱との活気を回復させるであろう。私たちは、奉仕のための強さを、忍耐のための力を、争闘のための強さを得るために、《救い主》とともにオリーブ山に行き、《救い主》とともに目を覚まして祈っていようではないか。

 この対比という点については十分に述べたものと思う。私の思うところ、この2つの文章には、非常に示唆に富む思想が流れている。「人々はそれぞれ家に帰った。イエスはオリーブ山に行かれた」。

 III. 愛する方々。もうほんのしばし、私があなたに指摘したいのは、ここには、《私たちを教えるべき1つの比較》があるということである。

 こう云うと、あなたを吃驚させ、驚かせることになるかもしれないが、イエス・キリストは、ご自分の弟子たちや他の人々が行なったのと全く同じことをなさったのである。彼らは、自分たちの家に帰ったし、主もご自分の家に帰られた。彼らは家庭に帰り、主も家庭に帰られた。彼らは安らぎを求め、主も安らぎを求められた。彼らは相談し、主も相談された。彼らは同情を求め、主も同情を求められた。彼らは元気を回復させようとし、主も元気を回復させようとされた。このオリーブ山は、ありとあらゆる点から見て、キリストの家庭であった。そこでこそ、主はご自分の御父と会われた。そこでこそ、《人間》キリスト・イエスは、御父および聖霊という打ち解けた相手と出会われた。そこでこそ、主は一日の心労を投げ出し、疲れ切った息子が親の前でするように気を楽にした。そこでこそ、主は、ご自分を言葉で釣り込もうとして仕掛けられたあらゆる罠について、また、ご自分の敵たちが主を捕えようとしたあらゆる手口について物語られた。そこでこそ、主は知恵を求めて天に叫ばれた。そして、そこでこそ、御父との清新な接触によって強められた主は、悪い者の放つあらゆる矢を完全に防ぐ黄金の武具に身を固めて再び出陣された。キリストにある愛する兄弟姉妹。キリストにとって、そのオリーブ山上での祈りの時は、私たちにとって自分の家に行き、自分にとって愛する者たちのもとへ行くのと同じことであった。私たちは、主のみからだが夜露に濡れるのを嘆くが、それでも、霊において主と交わることができさえするなら、それと同じ露をいくらかでも自分たちのからだに喜んで受けたいと思う。私たちは、主の肉体の各器官には同情できる。なぜなら、それらは山上の冷気や、主の徹夜祈祷の孤独さによって試みられたからである。だが、望むらくは、私たちの魂もまた、主がオリーブ山の上で、あるいは、ゲツセマネの園の中でお受けになったのと同じ活力に似たもので強められてほしいと思う。しかり。この冷たい山は主の家庭であった。そこに主は、ご自分の頭をもたせかけ、安らぐことのできる場所を――ただ霊的な意味においてではあっても――有しておられたのである。

 IV. もう1つの点にだけ言及して、話を閉じることにしよう。ここには、《私たちの徳を高める1つの予型》がある。

 この礼拝式の後で、私たちは自分の家に帰るだろうと思う。だが、イエスは今もなお、ある意味で、オリーブ山の上で私たちのためにとりなしておられる。思うに、ある人々は、自宅の中で、神の御国の進展を妨げようという陰謀や計略を企てている。敵は自分の網を広げては、その多くの誘惑物によって不用心な者を誘惑しよう、バビロンの遊女の悪しき影響力を張り伸ばそうとしている。迫害者は、ここでひとりの聖徒をつまずかせ、向こうで別の聖徒を打ち倒そうと計画している。悪魔は、聖書の霊感に対抗する巧妙な議論や、若い信仰者たちを驚かせるような新しい難点や、主イエス・キリストの人格およびみわざに関する目新しい冒涜を無神論者や不信心者たちの精神に示唆しつつある。もしも、ロンドン中の家々の屋根を今晩、取り去ることができるとしたら、あるいは、この現代のバビロンに住む多くの邪悪な心をのぞき込むことができるとしたら、いかに多くの者たちが相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らっている[詩2:2]のを見ることであろう! 非常に多くの人々は今晩、自分の家に帰っては、ありとあらゆる種類の悪をもくろみ、計画し、想像するであろう。だが、たといそうだとしても、私たちは座り込んで恐れていて良いだろうか? 絶望に屈して良いだろうか? 全く否。キリストの真の《教会》にはまだ希望がある。希望以上のものがある。というのも、イエスはいと高き所のオリーブ山に行かれたからである。そこで主は、御父の右の座に着き、ご自分の《教会》の前進のために嘆願しておられる。教会の数々の困難を知り、その種々の危険を予知し、その敵どもや教会自身の心の中にあるすべてを読んでいる主は、その御手を大きく広げ、その御傷を指し示しては、シオンのために黙っておられない。エルサレムのために、黙り込むことはなさらない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは[イザ62:1]。神の《教会》よ。そこにあなたの希望の星がある。とりなしておられる《救い主》こそ、私たちの不断の守りであり、私たちの強固な防壁であり、私たちの軍需品である。恐れてはならない。おゝ、シオンよ。《救い主》が嘆願しておられる。天の御座に着いておられる方は敵どもを笑われる。主はその者どもを嘲られる[詩2:4]。

   「高きみかみの 御座(みくら)の前に
    われには強き 嘆願(ねがい)あり。
    その名《愛》てう 《大祭司》(ねぎみこと)
    永生(いき)て、わがため とりなせり。

   「わが名、刻印(きざ)まる、その御手に
    わが名、記さる、その御心(むね)に。
    われ知る、天(あめ)に 主(きみ)立たば、
    何ぴともわれ、離しえじ。

   「主(きみ)と合一(むす)ばる われ死なず、
    わが魂(たま)買わる、御血にて。
    いのちは隠(かく)る 天(あま)つ主に、
    救いの神に、キリストに」。

 しかし、ある人々は全く別の気持ちで家に帰るだろうと思う。ある人々は、罪を嘆くために家に帰るであろうと思いたい。私が望むのは、私がいま語りかけているこの集団の中の何人かの人々が、家に帰って祈ることである。あなたが寝床のかたわらで、自分の嘆願を、「天にましますわれらの父」に注ぎ出している間、忘れてはならない。イエスがオリーブ山に行って祈られたことを。また、思い出すがいい。主が今も御父の御前でご自分の民のために祈っておられることを。罪人よ。あなたが自分のために祈っている間には、2つの嘆願がなされるであろう。あなたがキリストとともに嘆願しているうちに、キリストはあなたのために嘆願してくださる。あなたが自分の事情を主の御手にゆだねるとき、あなたのあらゆる性質には主の尊い血が振りかけられ、あなたのあらゆる悔悟の涙は、キリストのいけにえを通して神に受け入れられるものとされる。たとい言葉が出てこなくとも、落胆してはならない。たといあなたの内側に云いようもない深いうめき[ロマ8:26]があろうと、たとい感涙にむせいで半ば言葉がつかえ、内側で真に感じていることを口に出せなくとも、気を挫かれてはならない。というのも、人間には決して語ることができないようなしかたで、あなたに代わって口を利いてくださる《お方》がおられるからである。このことについては、この恵み深い確証がある。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです」[Iヨハ2:1]。イエスは、かつてご自分の民のために祈ろうとオリーブ山に行かれたのと全く同じように、今は天に登って、彼らのための嘆願し続け、そむいた人たちのためにとりなしをしておられる[イザ53:12]。

 非常に見込みが高いことだが、多くの人々が自分の家に帰るのは、単に眠るためである。私たちの《救い主》の時代の、ほとんどの人々がおそらくそうしたようにである。信仰を告白する多くのキリスト者は、神の家にやって来ては眠りこけ、自宅に帰っては眠りこける。眠りながら歩き回り、自分の目をあけたまま眠っている。ただの世俗の事がらについては、しっかり目が冴えているのに、霊的には眠りこけている。しかし、このことを知るのは慰めである。信仰告白者たちが眠り、子羊たちが眠っている間も、イエスはなおも、霊的な意味で、オリーブ山に行かれるのである。まどろんでいる《教会》にとっての唯一の希望は、寝ずに見張っておられる《救い主》である。地上の見張り人たちが眠っているとしても、あらゆる見張り人の中で最高のお方が、ご自分の植えた葡萄畑の番をしておられる。この方は云われる。「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」[イザ27:3]。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」[II歴16:9]。

 もしかすると、あなたがたの中のある人々は、これから家に帰って誘惑されることになるであろう。神の家から帰って誘惑に遭うとは悲しいことである。だが、それがあなたがたの中の多くの人々に起こる。あなたはここに安息日の日中か、平日の夜にやって来ては、自分の魂のための霊的食物を得ようとする。それから、自分の家の玄関をくぐり抜けるなり聞こえる最初の言葉は、神を汚す悪態かもしれない。イエスがオリーブ山に行ってあなたのために嘆願しておられるとは、何という慰めであろう。また、主は、あなたが直面しなくてはならなくなる誘惑を前もって正確に知っておられる。主がシモン・ペテロに云われたのと全く同じである。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」[ルカ22:31-32]。満足するがいい。おゝ、信仰者よ。キリストがご自分の黄金を炉の中に入れておいて、ご自分がその口の前に立ち、その精錬過程のすべてを見守っておられないことは決してない、ということに。主は、それが炉の中にある限り、決してその尊い金塊から御目を離すことをなさらない。そして、ご自分のかたちがその純粋な金属の上に反映されたときにだけ、それを火の中から取り出してくださるのである。このことを確信するがいい。悪魔が出て来てあなたを攻め、あなたを全くよろめかすようなしかたであなたに襲いかかるとしても、神はあなたを忘れてはおられず、イエスは高き所に上っており、あなたのために嘆願しておられる。この、あなたの極度の弱さと必要の時に、神の恵みがあなたにとって十分であり、あなたの一切の苦難と誘惑の中から脱出する道を作ってくれるように、と。

 この実り豊かな主題をさらにふくらませることもできるだろうが、そうはすまい。そして、しめくくりに次のような希望を表明しよう。あなたがたの中のある人々が、この日から始めて、これまでしてきたいかなるしかたよりも良く神に仕えようと意図することを。私は知っている。この《教会》の一部の会員たちが、これまで自分がキリストのためにしてきた以上のことを行ないたいという感情をかき立てられていることを。そして、結局において、私たちの教会員のほとんどは、キリストのために大したことを行なっていないのである。教会内の一部の人々は、キリストのためになされている一切のことに全く関与していない。多数の者ではなく、少数の者が本当に働きを行なっているのである。もしこの教会の会員全員が、一部の者たちの感じているようなキリストへの愛を感じ、全員が、一部の者たちのしているほどキリストの御国の前進のために熱烈に献身するとしたら、私たちがキリストのためにできないことなど見当もつかない。また、その御国が私たちによってどれほどすみやかに伸張するか分からない。かりに、私たちの中の誰かがこう厳粛に祈りながら家に帰るとしたらどうだろうか? この日から、自分は完全に主に身をささげ、全き心で主に仕えよう、と。その場合、確実に主は、同じような嘆願を御父の御顔の前でささげておられるはずである。主は祈っておられる。ご自分の民が聖くなること、幸福になること、心を尽くして主を愛すること、また、多くの実を結んで、主の聖なる御名がほめたたえられ、栄光を現わされるようになることを。それで、あなたが真に神に仕えたいと願うとき、キリストはあなたの願いを聞き、主の祈りとあなたの祈りはぴたりと一致する。それゆえ、このことを覚えながら家に帰ろうではないか。イエスはひとり退き、隠れた所でご自分の民のために祈っておられるのである。そして、私たちが自分の目を閉じる前に、かのあわれみの蓋の所にもう一度行こうではないか。そこでキリストはしばしば私たちと会ってくださる。そして、この礼拝式を閉じるに当たり、しばしの時、霊において、かのオリーブ山へと祈りによって行こうではないか。

----

鮮やかな対比[了]

----

HOME | TOP | 目次