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最上の場所にある最上のもの

NO. 3002

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1906年8月23日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1875年10月31日、主日夜


「心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない」。――詩37:31


 この節が出現する詩篇の中では、正しい者と悪者の対比がきわめて鮮やかなしかたで描き出されている。悪者はしばしば富み栄えている者として描かれているが、真に賢い者はひとりとして悪者と立場を取り替えたいとは願わないであろう。詩篇作者が非常に平易に指摘するように、悪者たちの繁栄は束の間であり、その究極的な運命は、彼らが新生せずにとどまる限り、確実であり、彼らが転覆する際の恐怖はすさまじいものである。それで私たちは、一瞬たりとも彼らをうらやむ気持ちにはならない。正しい者について云えば、ダビデは彼らが試みや迫害、憎しみその他を受けると何度となく暗示しているが、大いなる御父ご自身の御口から出た、きわめて甘やかな約束の数々を示している。それで私たちは、御父の子どもたちの受ける宿命にあずかることに完璧な満足を感じるのである。それがいかに苛酷なものとなりかねなくとも関係ない。正しい者の宿命にあずかりたければ、彼らのようにならなくてはならない。そして、他にもいくつかの事はあるが、この聖句も、彼らと同様、私たちが実地に経験するものとならなくてはならない。私たちの神のみおしえが私たちの心にあるため、私たちの歩みがよろけないものとならなくてはならない。

 思い起こせば、少年だった頃の私は、いま前にしている聖句とほとんど並行している聖句によってなされた説教を聞いたことがある。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」[詩119:11]。その講話の区分は、あまりにも卓越したもので、それが私の記憶に堅く焼きついてしまったため、今回は、その区分を借用したいと思う。私は、それ以上にすぐれたものを作れないからである。その説教者は云った。「ここには、最上のもの、『あなたのことば』が、最上の場所にある。『心にたくわえました』。それは、最上の目的のためである。『あなたに罪を犯さないため』」。これを多少変えたものが、本日の聖句の区分となる。――最上のもの、「神のみおしえが」、最上の場所、「心に……あり」、最上の結果をもたらすのである。「彼の歩みはよろけない」。

 I. それで、まず第一に、ほんのしばし、この《最上のもの》について語りたいと思う。「神のみおしえ」。

 今の福音時代には、この云い回しを、もともとダビデによって意図されていただろうことよりも広い意味で用いて、単なる道徳律法を大きく越えたものを意味しているものと受け取らなくてはならない。もし私たちがキリスト者だとしたら、私たちはその律法を喜びとする。また、断罪や審きの規則としてはその下にいないものの、それに従うことを喜ぶ。私たちは、それをより良くするような改良を何一つ示唆できないであろう。十戒は非常に簡潔であるが、それが意図された目的にとって絶対的に完璧である。それに何かをつけ足したり、そこから何かを差し引いたりすれば、全体を駄目にしてしまうであろう。私たちは、「内なる人としては、神の律法を喜んでいる」[ロマ7:22]。無律法主義者、すなわち、「律法に反対する」者たちがいかなる者であれ、私たちは彼らの間に数えられるべきではない。というのも、私たちはパウロとともにこう云えるからである。「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」[ロマ7:12]。また、確かに私たちは、肉的な者であり、しばしば自分が「売られて罪の下にある者」[ロマ7:14]であることを感じるが、それでも律法には何の過ちも見いだせない。もし永遠のいのちが何らかの律法からやって来ることがありえたとしたら、それはこの律法からやって来たことであろう。そして、確かにこの律法は、今は私たちを罪に定めること以外、何の恩恵も私たちに施さないとはいえ、それでもそのすさまじい宣告を聞くとき、私たちは律法が「聖であり、正しく、また良いもの」であると感じる。それで私たちは願うのである。道徳律法さえも、やはり私たちの心の中にあり、そこに書き記されることを。私たちの歩みがよろけないためである。

 しかし、私たちはダビデの云い回しをそうした限定された意味でのみ用いることはできない。それは、今では神の《書》全体を含んでいるに違いない。というのも、しばしばその意味で用いられているからである。「心に神のみおしえがあり」。この云い回しを聖書の全体に言及しているものとして受けとるならば、それは真実に最上のものと云えよう。おゝ、私の兄弟たち。心に悟りを与えるものとして、神のことばにまさるものがありえるだろうか? あなたは神を知りたいだろうか? 自分自身を知りたいだろうか? ならば、この《書》を調べるがいい。あなたは時を知り、それをいかに費やすべきか知りたいだろうか? 永遠を知り、それにいかに備えるべきか知りたいだろうか? ならば、この《書》を調べるがいい。あなたは罪の悪を知り、それからいかに救い出されるべきか知りたいだろうか? 救いの計画を知り、いかにそれにあずかることができるか知りたいだろうか? これこそ、こうしたすべての問題について、あなたを教えるだろう《書》である。人が自分の魂の問題について、地上と天国との間にあって知る必要のあることのうち、この《書》が告げてくれないことは何1つない。幸いなことよ。これを昼も夜も読む人は。そして、特に幸いなのは、《天来の御霊》によって開かれ、かつ、光を与えられた目でこれを読む人々である。もしあなたが知恵を与えられて、救いを受けたい[IIテモ3:15]と思うのなら、神のことばを選び、特に神の御霊をあなたの《教師》とするがいい。他の何にもまさって聖書こそは、魂のあらゆる情動を燃え立たせ、聖め、正しい方向に向けさせるのである。

 ことによると、あなたは、単に知るだけでは満足できないかもしれない。あなたは、何かを、あるいは、誰かを愛したいと欲している。あなたがた、広く大きな心を持っている人たちには、自分の愛情を堅く据えるに値する対象を得たいという1つの願望がある。神のことばに向かうがいい。この律法、神のこの福音に向かうがいい。そのとき、あなたはそこに見てとるであろう。いかに神が――神ご自身が――ご自分の被造物たちの愛の対象となっておられるか、また、いかにその御子というお方において、人間の目が見つめたことのある中でも最も麗しい対象をあなたが有しているかを。この方において、あなたが有しているのは、そのあまりの麗しさのために、そのまなざし1つであなたの魂がこのお方を欲するようになり、あなたの心が永遠に魅了されてしまうほどの《お方》である。あなたがた、自分の魂の中に大きな愛の泉がこんこんと湧き上がっている人たちは、ここへ来て、その泉をふんだんに流れ出させて良い。ここにおられる《お方》は、そのすべてに値するからである。そして、あなたは、自分のありったけの愛をこめてキリストを愛したときも、愛してしかるべき半分もキリストを愛してはいないことであろう。ここであなたの数々の情動は燃えて、燃え上がって、神聖な熱情をもって赤々と輝いて良い。そこには、偶像礼拝者となる何の恐れも、思い違いをする何の危険もない。

 そして、もしあなたが、悟りに光を与えられる以上の何か、満ち満ちた愛で心を満足させられる以上の何かを欲しているとしたら、――もしあなたが自分の日常生活における実際的な指針を必要としているとしたら、――この《書》はそれをあなたに供するであろう。人生という海の、人が存在しうるあらゆる部分において、もしこれが海図となっているなら、人はその航路を見失うことも、霊的に難破することもない。もしあなたが王なら、この中で自分の義務を学べるであろう。また、もしあなたが乞食か、乞食の中でも最も貧しい乞食だったとしたら、この中に慰めと教えを見いだせるであろう。父たちよ。あなたはここで、自分の家をいかに治めるべきかを学べるであろう。子どもたちよ。あなたはここで、様々な人との関係において自分が有する立場の義務を学べるであろう。しもべたち、主人たち、夫たち、妻たち、病んでいる人たち、強壮きわまりない人たち。あなたがた、貧しい人たち。また、あなたがた、富んでいる人たち。――主の《書》はあなたがた全員のためのものであり、あなたが正しい心でそれと相談するとき、それはあなたがた全員と語り合うであろう。あなたがいかなる状況に陥ろうと、この《書》はあなたについて行くであろう。この素晴らしい《書》は、ありとあらゆる種類の人々のいかなる状況にもうってつけのものである。これは、病者の枕頭でそっと囁く。また、しばしば、喇叭の音ででもあるかのように、荒れ狂う嵐の真中で大喝している。これは、あなたがまだ青春の盛りの中にあるときにも、あなたに対する指針を有しており、あなたが杖にすがり、自分の墓への道をよたよたと辿っているときにも、あなたのための約束を有している。これは、唯一無二の《本》であり、無類の《書》であり、日常生活のための本であり、一週間の、そして、一年間の毎日毎日のための知恵に満ちている。そして、人生という円環が果てるとき、あなたは見てとるであろう。いかにこの《書》が、いのちがまさに幕を閉じようとしている子どもたちにも老人にも、誂えたようにふさわしいものであるかを。

 ことによると、愛する方々。あなたはこう云っているかもしれない。「私は自分が取るべき通り道を知っています。どなたのために生きるべきかを知っています。自分が何を信ずるべきか教えを受けているとも思っています。そうしたすべてによって、私は聖書を非常に高く尊重しています! ですが、私に本当に必要なのは、私の種々の確信を持ち続ける勇気なのです。正しいと分かっているこの道を踏み歩けるようにしてくれる芯の強さなのです」。しかり。あなたが何を云いたいかは分かる。だが、このほむべき《書》の頁にきらめいているほどの力を有する真理が、他のどこで見つかるだろうか? この《書》に含まれているものほど、たじろぐことない勇敢さで人々を燃え立たせる記録を、どこで読めるだろうか? 何にもまして、この《書》の要諦であられるお方、そのすべての頁が指し示しているお方の中に、あなたは利害を越えた愛と、神と人への完璧な聖別との手本を見ることができる。それは、聖霊によってあなたのために祝福されるとしたら、あなたが必要とする限りのあらゆる芯の強さと、霊の勇敢さを十分与えるものである。もし青年が自分の聖書をもっと読むならば、今しているように簡単には脇道へそらされないであろう。青年が自分の足を正道に置き、こう云うとする。「私は嘘をつくことができませんし、つこうとも思いません。また、商売で不正直な行為を行なうこと、また、きよい良心をもっては行くことができない娯楽の場所に出入りすることはできませんし、したいとも思いません」。そのとき、彼が自分の道を清廉なものとしているのは、神のことばに従って自分の生き方に注意を払っているからだと私は信ずる。私はここに聖なる勇気の宝庫を見てとる。これらの頁を読みながら、神と交わり、キリスト・イエスと交わり、聖徒たち、殉教者たち、使徒たちと交わっているならば、あなたは、自分自身、彼らの決心と決意の何がしか、また、正義と真実に対する彼らの熱心と精力の何がしかを吸収するであろう。ここにおいてこそ、真実の人は作られる。こうした頁を追って行くうちに、弱い者は強くなり、小人は巨人となる。左様。かりにあなたがこう云うとしよう。「私はよく不幸せになります。私の霊には空虚さがあり、それが痛むのです。何かが妨げとなって、私は完璧には満足できないのです。私の内側のどこかには、蛭のようなものがいて、『くれろ、くれろ』[箴30:15]、と叫び立てているのです。そして、私はその叫び声をやめさせる食物をまだ見いだしていないのです」。では、この《書》の中においてこそ、あなたは自分の霊が渇仰しているものを見いだすであろう。ここで、あらゆる悲嘆は軽くされ、あらゆる正しい願望は満ち足らわされ、すべての悪い欲望、悪しき情欲は霊から追い出される。聖霊がこの《書》を魂に適用してくださるとき、それは人の飢えにとって食物となり、人の病にとって医薬となる。それは、その手を、人のほてった額に乗せて、熱を冷まして健康にしてくれる。あるいは、人が寒さに震えている場合、暖めて聖なる精力に満たしてくれる。事実、この《書》から授かる祝福には限りがない。

   「この畑にぞ 隠れありしは
    価値(あたい)知られぬ 尊き真珠、
    神の知恵にて 満たさる商人(あきうど)
    この真珠(たま)取りて わがものとせん」。

これこそ最上の本である。クリストファー・ハーヴェイの云う通り、――

   「こは神の書なり。
    諸本の神と、われ云うを、
    不遜なりとぞ、怒り見る君、
    黙し忍べや。類書(たぐい)のなければ」。

そのあらゆる頁は、黄金の板である。否、むしろ、天国の銀行手形と云わせてほしい。それは、振り出してくださった神のもとにこれを持って行くだけの信仰を有する者たちによって現金化され、その魂はどの点から見ても至福で富まされることになるのである。

 では、これが最上のものである。「神のみおしえが」。

 II. さて、第二に、私たちはその最上のものを《最上の場所に》有している。「心に神のみおしえがあり」。これは何を意味しているだろうか?

 それが意味しているのは、まず最初に、その人がそれを愛しているということである。私たちが愛しているものは、常に私たちの心にあると云われる。そして、この人がそれを愛している理由は、この聖句で示されている。「彼の神のみおしえが」<英欽定訳>。――よく聞くがいい。ただ神のみおしえというだけではない。――「彼の神のみおしえ」なのである。人々が神のみおしえを愛するようになるには、神が自分たちの神であると知るほかない。まことにほむべきことに、神はまずご自分を私たちに与え、それから、そのみことばを私たちに与えてくださった。あなたがたはみな、親しい愛する友によって書かれた本を読むのを嬉しく思うではないだろうか? 赤の他人の著作が語る何物にもまして、それはあなたにとって興味深いものに違いない。あなたは、露店や売店に並んだ何百冊もの本を通り越すかもしれない。だが、あなたの幼なじみによって書かれた書物、あるいは、もしかすると、ずっとあなたにとって身近で親しい人によって書かれた書物に気づいたとしたら、たちまちその本に興味を引かれるはずである。このほむべき《書》についても、それと同じである。これは、私たちの天の御父によって書かれたのである。――この《書》は私たちに、私たちの《兄上》のことを教えてくれるのである。――この《書》には、《天来の御霊》がいのちの息吹を吹き込んでおられ、この《書》の上では御霊が常に大いなる《啓明者》として輝いておられるのである。――この《書》は常に言葉に尽くせぬほど私たちにとって愛しいものに違いない。過去の幾多の時代において、聖書はいかに神の聖徒たちにとって愛しいものであったことか! 彼らは、命を失う危険を冒しても聖書を手放そうとせず、その多くの者たちは現実に殉教者としての死を遂げた。これを翻訳し、その使信を他の人々に伝えようとしたからである。そして、この《書》は、私たちにとっても同じくらい愛しいものである。その霊感された教えの一点一画を手放すくらいなら、私たちは喜んで火刑柱へと赴くはずだと思う。私たちの勇敢な先祖たちが、残虐なメアリー女王時代にそうしたように。尊い聖書よ。お前が私たちの心にあるのは、私たちがお前を愛しているからである。

 しかし、ダビデはそれ以上のことを意味していた。神のみおしえが彼の心の中にあったのは、愛されるのと同じくらい、記憶されるためであった。私たちは、自分の頭だけで学んだことをすぐに忘れてしまう。それで私たちは自分の子どもたちに向かって、物事は「心で」覚える、つまり、暗記するように云うのである。頭に書かれていることは、消されることがありえる。だが、心に書かれていることは、そこにとどまっている。病気も、死も、悪魔そのひとも私たちの心にあるものを私たちから取り去ることはできない。私たちの知っているある人々は、重病にかかって、記憶を失うことがあった。それは非常に深刻な障害である。だが、私たちの知るところ、その人々は、自分の妻子さえ忘れても、霊的な事がらに関する記憶は損なわれることなく保っているのである。その精神か心は、奇妙なことに、そこに最も深く刻み込まれたものを、何よりも固くつかんでいるのである。もしあなたの心に神のことばがあるとしたら、それを誰があなたからもぎ取ろうとするかは大した問題ではないであろう。地獄の内外にいるイエズス会士が総掛かりになっても、ある人の心に記されている福音を奪い取ることはできないであろう。彼らは、ある種の人々なら容易にその信条を替えさせることができる。それは、その人たちの脳味噌の中に、しまりなく横たえられた信条でしかないからである。だが、ある人の心に本当に入り込んでいる真理は、サタンもその全軍も、その人から取り去ることができないであろう。ならば、あなたがたは、あなたの神のみおしえをあなたの心の中に入れて、それが深くあなたに感化を及ぼし、あなたを力強く動かすようにさせ、決してそれを手放すことがありえないほど、記憶の中に頑強にとどめておくようにするがいい。

 「心に神のみおしえがあり」、には、三番目の意味がある。すなわち、彼がそれに従うということである。というのも、心は、からだの中で最も影響力の大きな器官だからである。心の中でなされることは、人のあらゆる部分に感化を及ぼす。心の病気は、その人が全体として決して健康ではありえないことを意味する。もし心の情愛が神に向けられているなら、すべては良い。というのも、意図と動機は、人を左右するものだからである。「人は、心のうちで考えている通りの者だ」[箴23:7 <英欽定訳>]。もしあなたの心の目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いであろう[マタ6:22-23]。もし神のみおしえが心にあるなら、この知的器官のあらゆる脈動が全人に感化を及ぼすであろう。もしある人が悪い生活を送っているとしたら、その人はこのことによって全く変えられるであろう。また、神の抑制の恵みを通して、人が他の人々よりもそれなりに善良なあり方をしてきたとしたら、その人が有する神のみおしえは、その人がそれに服従するとき、その心と生活の中で働いて、その人が願ってかまわない正しいことをみな、その人のために行なうであろう。

 神のみおしえをあなたの心に有するとは、事実、あなたがそれによって生きることを意味する。――すなわち、福音をあなたの魂の食物として有し、福音のキリストをあなたの永遠のための希望として有するということである。心は私たちの生きるよすがである。それで、もし神のみおしえが私たちの心にあるなら、私たちはそれによって生き、そこから私たちの慰めも、私たちの支えも引き出すことになる。ひとりひとり判断しようではないか。このことが自分自身についてどれだけ真実となっているかを。私たちは完璧ではないが、そうありたいと思う。そして、このことは、神のみおしえが私たちの心にある証拠である。私たちは罪を犯すが、自分が罪を犯すことを嘆く。そして、このことは、私たちの内側に完璧な聖潔への切望がある証拠である。私たちは使徒パウロとともに云う。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。……私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているのです」[ロマ7:18、21]。だが、その願いは、私たちの心の内側に神のみおしえがある証拠である。愛する方々。神は大方、あなたがそうありたいと願っていることに従って、あなたを眺めてくださる。そして、もしあなたの魂の中に完璧なものを願う強い慕いあえぎがあるとしたら、神はそうした願いを受け入れ、御子キリスト・イエスによってあなたを祝福してくださる。ジョン・バニヤンは、その単純な寓話の1つの中で、そのことをこう云い表わすのが常であった。彼は云う。「かりに、あなたがある人に医者を呼びに行ってくれ、と云い、それも早く、と告げたとする。それで、その人は自分の馬に乗るが、それはあわれな痩せ馬で、足がびっこを引いているため、早くは進めない。だが、あなたは、相手ができるものなら空を飛んで行きたいと思っていることが分かる。渾身の力を込めてその馬に鞭と拍車を当てては進ませようとしているのが見えるからである。そのように」、とバニヤンは云う。「主はしばしば、霊が願っていること――鞭と拍車を当てていること、だが、肉が弱いこと――びっこの馬のようであることをご覧になる。ご自分のしもべたちが喜んで行ないたいと思っていることをご覧になり、彼らを、本当にそう行なっているかのように受け入れてくださるのである」。私たちの《主人》がこれほど恵み深いお方であるとは、ありがたいことである。主は、私たちの不完全な奉仕をいつくしみ深く眺めてくださる。神のみおしえがあなたの心の中にあるならば、私の兄弟たち。あなたは、きょうは愚かであっても、明日はそうした愚かさの一部に打ち勝つであろう。そして、神の恵みによって、さらにさらに打ち勝ち続け、ついには、あなたの心の上に記されたそのみおしえが、あなたのからだの全器官に書き記され、しみも傷もない者として、神の御座の前に立たされることになるであろう。

 III. さて、最後の点に移らなくてはならない。すなわち、《最上の結果》である。「彼の歩みはよろけない」。

 ここにいる人は、神のみおしえがその心にある。そして、注意すると分かるのは、彼が自分の歩みに気を配っているということである。一歩は非常に小さなものである。一哩歩くためには、何万歩もかかる。だが、善良な人々は小さなことに留意する。神のみおしえが心にある人は、言葉や行動と同じくらい、思念や想像についても几帳面で潔癖である。こういうわけで、この聖句の約束はそうした人に当てはまっている。それは、小さなことに関する約束だからである。「彼の歩みはよろけない」。思い起こせば、――否。今なおそうありたいと私は希望しているが、――思い起こせば、回心したばかりの頃の私は、間違った所に足を下ろしてはいけないと、片足を前に踏み出すことさえ、ほとんど恐れるのが常であった。そして、しばしば、話している途中でも、正しくないことを云ってはいけないと、口をつぐむものであった。そうした聖なる用心は、それを行なうすべての人々において、この上もなく褒めるに足るものである。もっと多くの人々がそれを行なっていれば良いのにと思う。一部の人々の生き方は、何という三段跳びであろう! 石橋を叩いて渡るどころか、渡った後の橋を見ようともしない。後先も見ず盲滅法に突き進み、祈っているべき場合に増上慢な思いをいだき、深い悔い改めをもって神の前でへりくだっているべき場合に自信満々である。わが国の古いことわざに云う。「銭厘を大切にすれば大金はおのずとたまる」、と。同じ規則は、私たちの1つ1つの行動にも当てはまる。もし私たちが自分の小さな行動に注意深くするなら、大きな行動は確実に正しいものとなるであろう。おゝ、私たちがみな、家の中でいかにふるまうかについて、ことのほか慎重になるとしたらどんなに良いことか! おゝ、私たちが茶卓の回りに座った際に自分が何を話すか注意深くあるとしたらどんなに良いことか! そのように小さなことによって、ほとんど無限の害悪が及ぼされるのである。私の信ずるところ、この世で最悪の悪は、小さな事がらから生ずる。害悪の種は、小魚の卵ほど小さいと云われる。その通りである。ならば、そうした小魚の卵に気を配るがいい。そこから、はるかに大きな悪が孵るといけないからである。

 また、キリスト者である人々が間違ったことをする際には常に、それは、彼らが全く安全であると思っていた何かに関してであると思う。あのギブオン人を相手にした際のイスラエル人がそれに当たる。この人々は、古びた着物を身に着け、繕った古い履き物を履き、乾いてぼろぼろになったパンを持って、ギルガルにやって来た[ヨシ9:5]。神の助言を求める必要などあるだろうか? 彼らが長い距離を旅してきたこと、神がご自分の民のため行なわれた数々の不思議ゆえにイスラエル人と同盟を結びたいと願っていることは、真昼の太陽のように明々白々だ。それで、ヨシュアでさえ、この件について祈ることをせず、彼は騙されてしまった。というのも、このギブオン人は近在の民であり、このようにしてイスラエル人を丸め込んで同盟に引き入れては、その軍事行動にとって常に障害となったからである。あなたに何の疑念もない所では常に疑いを持ち、あなたに何の心配もない所では常に心配するがいい。特に、私のことは全く心配する必要はありませんよ、とあなたに告げる人のことを心配するがいい。以前、私の友人にこう云った人がいた。「これこれの金額を貸していただきたいのですが。知っての通り、私には何の問題もありません。私は長年の間、あるキリスト教会の会員ですし、最近破産した誰それや何某のようではありません。私のことは信頼できますよね」。「いいや」、と私の友人は云った。「あなたのような手合こそ、私が贋金の半クラウンも預けたくない人間ですよ」。そして、彼は正しかった。というのも、その人を信頼した人々はすべてを失ってしまったからである。そのような場合には用心にも用心を重ねるがいい。悪漢として知られた者たちを相手にしているときは、警戒を固める必要などほとんどない。だが、正直者のふりをしている悪漢を相手にしている場合は、油断なく気を配らなくてはならない。さもないと、確実に食い物にされてしまうであろう。彼らは、羊の皮で自分たちの狼の本章を覆っているのである。その皮の下に何があるか見るに越したことはない。

 「心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない」、とダビデが云うとき、この最後の句で彼は何を意味していたのだろうか? それは、神が彼を導いてくださるという意味である。彼の心に神のみおしえがある以上、彼の歩みには神の導きがあるであろう。23節でダビデは云う。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる」。人が本当に神のみおしえを心にいだいているとき、神は、その人がそのみおしえをいかなる悪い場所にも持って行かないように気をつけてくださる。というのも、ダビデが続けて云うように、「主がその手をささえておられるからだ」[24節]。どこの何をしている人であろうと、誘惑に突然襲われることは必ずある。だが、神のみおしえがその人の心にあるなら、前もって警告されており、あらかじめ防備を固めていることであろう。また、長期にわたる誘惑の包囲戦も起こるであろう。そして、多くの人々は少しずつ堕落してきた。だが、神のみおしえがその人の心にあるなら、そうしたものにさえ耐えられるであろう。時として、孤独から生ずる誘惑がやって来ては、悪を行なうようサタンに促されることがあるであろう。人目はないのだ、悪を働いても良いではないか。しかし、心に神のみおしえがあるので、その人はいかなる悪も行なわない。決して誰からも尻尾を押さえられないかもしれなくとも関係ない。その人の心の内側にある、そのみおしえだけで、その人が悪から守られる十分な歯止めとなる。時として、その人は困惑させられるであろう。この場にいる、実業を営んでいる人々はみな、折にふれ、自分が何をすべきか思い惑うことがあるのではないかと思う。正しいことをしたいとは切望しているが、2つの方路のどちらが正しいか分からないのである。よろしい。その時こそ、あなたの心の中にある神のみおしえが、あなたにとって羅針盤のようになる時である。また、この約束を申し立てて、こう云うべき時である。「おゝ、主よ。あなたは云われました。あなたのみおしえが私の心にあるなら、私の歩みは決してよろけない、と。その御約束をあなたのしもべに果たしてください。あなたは私に、それに望みをかけるようにされたのですから」。

 というのも、あなたの足がよろけるとは、あなたが自分の品性に不名誉をもたらすことだからである。いかに多くの人々が、一時の間は、キリスト教会において、あるいは、実業生活において堅く立っていたのに、このようにしてよろけてきたことか! 何年か前に、こうした類の悲しい失敗が続けて起こった際に、次のような文章を読んだことを覚えている。「エクセター公会堂の白い首巻も、ロンバード街*1の鼠色の上着も、ある人々が大悪党になるのを妨げることはできないであろう」。そして、時として、そう云われてもまことに無理のない場合があるのは事実である。しかし、心の中にある神のみおしえの方が、首に巻かれた白い首巻や、背中に羽織った鼠色の上着よりもまさっている。それは人々の歩みをよろけさせず、彼らが自分の神に不名誉をもたらさないようにするからである。神の間近に生きている人々にも幾多の試練がやって来ることはある。――もしかすると、神の近くに生きていればこそ、いやが上にもやって来るかもしれない。だが、その品性に汚れがつくことや、誠実さから落ちて、多くの悲しみがもたらされることはないであろう。真のキリスト者は、そうしたことが起こるくらいなら死を選ぶであろう。そして、その人々はこう確信して自らを慰めることができる。すなわち、もし神のみおしえが自分の心にあるなら、自分の「歩みはよろけない」、と。

 また、その人は絶望に陥ることもない。その人は震えるかもしれない。動揺するかもしれない。ほとんど倒れそうになるかもしれない。だが、神のみおしえが心の中にあるので、起き上がって、なおも進み続けることができる。信仰の戦いを勇敢に戦い、天国への巡礼として旅をしなくてはならない、あなたがたの中のすべての人々には、この聖句から引き出せる限りの慰めをことごとく取り上げてほしいと思う。あなたは、自分の心に神のみおしえがあるように努めてきたし、それはそこにある。よろしい。ならば、あなたは支えられ続けるであろう。青年よ。あなたは、他にキリスト者がひとりもいない所で暮らすことになっている。だが、あなたの歩みはよろけない。神のみおしえがあなたの心にあるからである。私の兄弟よ。あなたは、大勢の人々を部下に持つ立場を占めることになっており、彼らをどう管理して良いかほとんど分からない。だが、神のみおしえがあなたの心にあるので、決してあなたはよろけない。私の若い姉妹よ。あなたは不敬虔な親戚たちと暮らすことになっており、そこではほとんど密室の祈りの機会を持てないであろう。だが、神のみおしえがあなたの心になるので、あなたはの歩みは決してよろけない。私の若い兄弟よ。あなたは大教会の牧師になろうとしており、自分が何か大失敗をしでかすのではないか、そして神に不名誉をもたらすのではないかと震えている。だが、もし神のみおしえがあなたの心にあるなら、あなたの歩みは決してよろけない。神のみおしえがあなたの心にあるなら、道の滑りやすさを案じる必要はない。多くの人々は、滑りやすくもない路でよろける。また、多くの人は、立っていることが奇蹟と思われるような所でも、神の恵みによって堅く立っている。人々が危険になるのは、その立場に応じてではない。人々が危険になったり安全になったりするのは、その恵みの量りに応じてである。もし神のみおしえがあなたの心にあるなら、あなたは武装した全世界にも立ち向かって恐れずにいることができる。たとい神があなたを、白馬に乗った天の軍勢一千大隊の司令官とされるとしても、あなたの心に神のみおしえがあり、自分を全く神にゆだねているとしたら、あなたはそのすべてを指揮することができるであろう。

 さらに注意するがいい。もしあなたの心に神のみおしえがあるとしたら、これは、その《律法賦与者》をそこに擁していることを暗示している。というのも、《天来の律法賦与者》をその律法から切り離すことはできないからである。あなたはこの方を愛しているだろうか? この方を信頼しているだろうか? その御名はあなたの耳にとって妙なる調べだろうか? その甘やかさのため、あなたの霊にとって、注がれる香油のよう[雅1:3]だろうか? このみおしえをお与えになったお方を愛しているとしたら、あなたは、与えられたみおしえを愛しているに違いない。私たちは律法の下にあって、――恵みの律法の下にあって、――イエス・キリストの律法を守る者である[Iコリ9:21]。主を信頼し、愛する者たちにとって、主のくびきは負いやすく、主の荷は軽い[マタ11:30]。もしあなたが本当に主を信頼し、愛しているとしたら、それは、主のみおしえがあなたの心にある証拠である。

 また、もしあなたの神のみおしえがあなたの心にあるとしたら、そこには、そのみおしえの大いなる《教師》、すなわち、聖霊もおられる。あなたは、御霊の慰めを意識しており、時にはその叱責を、また、しばしばその励ましを意識する。この点で、あなたはどうだろうか? あなたは、自分の心の中における聖霊の働きについて何か知っているだろうか? 悲しいかな、多くの人々は、聖霊がおられることすら知らない。その御力を一度も感じたことがないからである。だが、神のみおしえが心の中にあるとしたら、聖霊がそれをそこに置かれたに違いなく、御霊は、そのみおしえを入れた所に、そのみおしえとともに住み、私たちが聖書を受け入れることができるように私たちの心を開き、私たちの心が聖書を受け入れることができるように、聖書を開いてくださる。

 あなたは御子なる神について何を知っているだろうか? 御子はあなたの《救い主》だろうか? 聖霊についてあなたは何を知っているだろうか? 御霊はあなたの《生かし主》また《慰め主》だろうか? もしそうだとしたら、元気を出すがいい。あなたの歩みは決してよろけないからである。しかし、もしそうでないとしたら、もしあなたがこの神のみおしえを拒否するとしたら、この厳粛な聖句を思い出すがいい。「彼らの足は、時が来ればよろめく」[申32:35 <英欽定訳>]。彼らは、富み栄えている時には立っている。彼らは偉大で、有名で、幸福で、陽気さに満ちている。そして、私たちは、彼らが高い所にいるのを見て、うらやましく思いがちになる。だが、見ているがいい! 彼らは氷のアルプスの上にいる。彼らが踏みしめている小道は非常に狭い。そして、一瞬のうちに、彼らが思いもよらないときに、その足はよろめき、滑り落ちていく。底なしの深淵へと! 彼らは落ちて行き、失われ、失われ、失われる! かつて彼らが占めていた高い所は、単に彼らの転落の深さを増すだけでしかない。葡萄酒を杯になみなみと注いでいた彼らは、自分の炙られた舌を冷やす一滴の水を渇仰するようになる。あの金持ちの珍味佳肴の食卓から、地獄のどん底の災いへと落ちて行く。ラザロはかつては彼らのパン屑を乞い求めたが、今や彼らが喜んで乞食となり、ラザロ自身に物乞いをするのである。彼らの昼は夜となり、彼らの栄光は恥辱となり、彼らの宴会は悲惨となり、彼らの栄誉は永遠の恥辱と侮蔑となる。あなたがたは賢くなるがいい。そして、今あなたの《救い主》を求めるがいい。夢から人が覚めるように、現在のあなたの、美しい定命の人生がことごとく過ぎ去り、後に残るのはただ、浪費された人生の物凄い抜け殻だけとなり、永遠にエホバのすさまじい御怒りに打たれ続けることになるといけないからである。

   「罪人、求めよ、御恵みを、
    汝れは御怒(いかり)に よく耐えじ。
    飛べよ、十字架(き)の上(え)の 逃れ場へ、
    そこにて得よや、救いをば。

   「さらば呪いは 除かれん、
    救主(きみ)の流せし 血潮にて。
    恐怖(まが)つ最後(すえ)の日、降り注がん、
    主の祝福(みめぐみ)を 汝が頭上(うえ)に」。

神があなたがた全員を祝福し給わんことを。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 


(訳注)

*1 ロンバード街。ロンドンの銀行街で、広くは金融界を指す。[本文に戻る]

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最上の場所にある最上のもの[了]

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