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畑の幻

NO. 3001

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1904年3月24日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年3月5日、主日夜


「御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます」。――詩21:5


 この言葉は、パレスチナの山々に向かって語られた。この山々は、今は荒れ果てた不毛の地だが、やがてイスラエルが壮麗であった時代のように豊穣で地味の肥えた土地となる。神がこの山々を変え、そのとき、その頂きは葡萄で飾られ、山頂では再び収穫があるであろう。

 イスラエルの山々は、鏡でできた土壌であった。そこを一目見ただけで、その民の状態と性格が映し出されているのが分かった。イスラエル人が神に従順であったとき、この山々には新しい葡萄酒がしたたり、丘々は肥沃さに満ちているように思われた。蜜は岩からしたたり落ち、油は火打石からさえ引き出されるかに思われた。だが、民が罪を犯したとき、神は彼らをその敵に引き渡された。潅漑はないがしろにされ、土地を耕してももはや無益となり、山々はたちまち獣の吠える荒地ででもあるかのように、空虚で不毛なものとなった。それから再び、民が悔い改めて神に立ち返ったとき、土壌は山々を覆い始めた。民が勤勉にそこに運び上げた結果、丘々の山腹には段丘が設けられ、荒れ果てた場所にも花が咲き始めた。そして葡萄がもう一度、実の房で一杯になった。このようにして、この民の歴史は、彼らの丘々の外観に読みとることができた。

 私は、このイスラエルの丘々を、私たち自身の状態――私たち自身の心の状態――を表わすものとして受け取ろうと思う。この丘々が現実に古の民の状況を反映していた以上、この比喩はことのほか魅力的なものとなる。この主題は次のように区分したい。第一に、人の心は、生まれながらに荒れ果てた畑に似ている。第二に、その畑にとって唯一の希望は、神があわれみによってそこに向かってくださることしかない。第三に、神がそこに向かうとき、神はそれを耕さなくてはならない。そして最後に、耕された後まで、いかなる成功が望める種を蒔くこともできない

 I. 《人の心は、生まれながらに荒れ果てた畑に似ている》

 荒れ果てた畑は、何の収穫も生み出さない。刈る者よ。あなたは決して束を腕にかかえることはない。大荷車の車軸は決して収穫の荷の下できしむことはない。そして、牧夫たちは決して収穫祭で娘たちと踊ることはない。畑を荒れ果てたままにしておくとき、一世紀かけても、そこに生ずる実は、ただひとりの人を食べさせる分にも足りないであろう。

 私たちは云うが、そうしたものこそ、生まれながらの人である。人は何の実りも神にもたらさない。放置しておけば、自分のために生きようとする。ことによると、その人は体裁の良い罪人かもしれない。その場合、自分の人生のすべてを利己的に費やし、自分を――あるいは、自分の家族を――養おうとするであろう。家族とは、その人自身の一部でしかないからである。その人は、その誕生から墓所に至るまで、世の中を行き過ぎる間に、神について全く考えないであろう。神のためになることを何1つ行なわないであろう。その心が神への愛に高鳴ることは決してないであろう。時には純然たる利己心から、他の人々につき合って礼拝に行くであろう。だが、神を礼拝しようとはしない。外見上はどのような違いを示していようと関係ない。その人の心は、その人を造った神から完全に隔絶しているであろう。その人が生き、そして死んでいく姿は、世界の異様な奇観であろう。――自分の《創造主》を愛さずに生きる被造物である。

 しかしながら、ことによると、その人は名うての罪人かもしれない。その人は罪の中に生き、酩酊の中に、ことによると、情欲の中に、おそらくは不正直の中に自分の慰めを見いだしているであろう。だが、いずれにせよ、その人は神が受け入れることのできるような何ももたらさない。思うに、大いなる神は、農夫が自分の休耕田を見に来るのと同じように、その人を見にやって来られる気がする。神がご覧になれるようなものがあるだろうか? 祈りがあるだろうか? しかり。その人は、僅かな祈りの文言は唱える。だが、それは死んだ、いのちのない代物であり、神はそのようなものを受け入れることがおできにならない。何らかの賛美が見えるだろうか? ことによると、しなびた賛美歌がその畑の片隅に生えているかもしれない。だが、何の心も伴っていないために腐って枯れており、神はそれを忌み嫌われる。神はその畑を隅から隅までご覧になる。神のための思いは全くなく、神のため聖別された時間は全くなく、神を尊ぶ願いは全くなく、この世の中で清新な栄光を神に帰したいという切望は全くなく、神の御名をほめたたえる清新な声を上げようとする努力は全くない。その人は自分自身のために、あるいは、自分の同胞である人間たちのために生きている。そして、そのように生きてきて、そのように死んでいく。さて、あなたも知っての通り、非常に多くの人々は自分に向かってこう云っている。「よろしい。もしわれわれが自分の隣人に善を施すとしたら、もしわれわれが他者に親切にするとしたら、それで十分なのだ」。そして彼らは、そうすることゆえに何らかの報いが得られるものと期待する。しかし、よく聞くがいい。いかなる召使いも、その賃金は、自分の主人から得られるものと期待する。ならば、確かに、もしあなたが自分の同胞の人間たちに奉仕しているとしたら、彼らがあなたに報いるべきである。彼らにあなたの彫像を立てさせるがいい。あるいは、彼らにあなたの名前を、その名声の巻物の1つで美しく描かせるがいい。彼らに、あなたの功業を後世まで書き留めさせるがいい。それでも、あなたの貸借勘定は公正なものとしておくがいい。もしあなたが神への奉仕において、何事も明確に、また、公然と行なってこなかったとしたら、あなたが神から受け取ることを妥当に期待できる報酬は何もない。あなたはこれまで神に何をもたらしてきただろうか? 皆無である。それで私たちは真摯に云う。――というのも、それがいかに悲しいほど真実であるかを知っているからだが、――生まれながらの人の心は、神がご自分の誉れとしても栄光としても受け取ることができるようなものを、穀粒1つたりとも決して生じさせないし、生じさせることもできない、と。人間たちの中の天性の子らについて云えば、そのあらゆる世代において、――

   「獣(けもの)のごとく 生きて、死に行き、
    草のごと咲く。ついに汝が息(いき)
    そを永久(とわ)の死へ 枯らすときまで」

悲しいかな、彼らは! 大いなる神よ。彼らはあなたに、何の祈りも、何の賛美も、何の心に感じる愛も、何のうやうやしい崇敬もささげていません。彼らはこの世を、神などいないかのように過ごしています。

 それよりも悪いことに、耕されたり、種を蒔かれたりしたことが一度もないこの畑は、あるものを生じさせる。人間性には活動が伴う。生きていて行動しないことはありえない。自らを修道僧のように独房に閉じ込めるか、聖シメオン*1のように柱の上に住むかしない限り、完全に無為のまま――心に何の目的も持たず、手足を全く動かしもせず、情動を全くかきたてることなしに――人生を経て行くことはまずできない。そして、私が思うに、聖シメオンでさえ何らかの影響力は振るったであろう。他の人々を導いて、自分と同じような大馬鹿者にしたからである。また、修道僧たちでさえ、良い決算報告をするため与えられたタラントを元手に稼ぐべきであった利益を失い、有益な奉仕のために用いるべきであった時間を怠惰のうちに費やすことによって、何がしかの害悪を行なっている。「私たちの中でだれひとりとして、自分ひとりで生きている者は……ありません」*[ロマ14:7]。その土壌には、何の麦も生えていないだろうか? 何の大麦も、何の裸麦もないだろうか? よろしい。ならば、そこには鼠麦があり、麦仙翁があり、芝麦があり、ありとあらゆる種類の雑草があるであろう。更新されていない心もそれと同じである。それは、神についてひどい考えをいだき、《いと高き方》への敵意をいだく。それらは、熟するにつれて悪い言葉をもたらす。――無駄口、あるいは、もしかすると好色な言葉を、そして、ことによると、無神論的で、冒涜的な言葉をもたらすかもしれない。そして、これらが熟すると、種々の行動に至る。そして、その人は自分の行為によって、ことによると人間に対して、また、確実に神に対して罪を犯す者となる。その人の生き方は酸い葡萄を生じさせる。ゴモラの三個の林檎は、その人の上にたわわに実っている。

 私の描写しているのが、この場にいるある人々の姿であることは承知している。いかなるキリスト教の集会にも、そうした人々が大勢見いだされる。そうした人々は、自分の人生の中で何の善も施していない。神の基準で彼らの人生を測ると、彼らは何も行なっていない。その逆に、多くの悪を犯し、罪のために実を結んできている。また、それが最悪のことでもない。自分の畑を雑草だらけにしている悪い農夫は、隣の畑に対して悪を行なっている。ここに風が吹く。種を――見つけられるとしたら、良い種を――ふわりと別の土壌に運ぶ風である。それは花の種の綿毛をつかみ、求められるであろう庭へと連れて行く。あるいは、やむない場合は、薊の種を運んで行く。そのようにして、風がこの農夫のないがしろにされた畑をなぎ払って行くとき、近隣のあらゆる畑に害悪が及ぼされる。

 罪人もそれと同じである。「ひとりの罪人は多くの良いことを打ちこわす」[伝9:18]。その人は父親だろうか? その子どもたちは、その人自身と同じくらい不敬虔な者に育って行く。その人は主人だろうか? ならば、その人のしもべたちは、その人と同じように安息日を破り、神の道をないがしろにする。その人は職人だろうか? ならば、同僚の職人たち、中でもその人より若い者たちは、その人の悪い模範に励まされる。彼らは、その人の先例に盲目的にならう間に、罪に導かれてしまう。その人を人生のいかなる持ち場に就けようとも、その人は害をなす。その地位が高ければ高いほど、大きな害をもたらす。私は今、社会の法を大きく破っている者たちをほのめかしているのではない。私が念頭に置いているのは、善良で上品な人間でありながら、自分たちの目の前に神に対する恐れがない[ロマ3:18]人々である。そうした人々は、まさに大きな害悪をなしていると思う。悪魔の大目的は、そうした人々を自らの味方につけることによって体裁の良いものとなるからである。絶え間なく天来の法に違反しながら生きている人々、また、キリストのくびきに屈伏しない人々は、非常に愛すべき、非常に道徳的な、非常に衆にすぐれた者らでありえる。だとすると、ある意味で残念なことである。なぜなら、そうした人々は悪を行なう力を増すからである。他の人々は云うであろう。「もしあれほど良い人たちがキリスト教信仰なしに生きることができ、それを蔑みながら生きているとしたら、なぜ私たちもそうすべきでないだろうか?」 このようにして、もしも悪党どもしか味方していないとしたら、叱っ叱っと舞台から引っ込まされていたような悪いものが、こうした人物たちの加勢によって、今も白昼を大手を振って闊歩しているのである。私の愛する方々。願わくは神があなたを、他の人々に害悪を及ぼす畑のようになることから救ってくださるように! 用心するがいい。あなたがた、猛毒のウパス樹たち。あなたの有毒な影響力が地獄の火という報いを受けることがないように! 用心するがいい。あなたがた、土地をふさぎ、そこに立っては、土壌から養分を吸い上げ、葡萄畑の他の木々に災いしている樹木たち。鋭利な斧がじきにあなたを根元まで切り倒し、地面に横倒しにすることがないように。

 不毛の畑が人の心に似ているのは、そこに落ちるあらゆる良い影響力が無駄になる点においてである。日光がやって来るとする。だが、その休閑地には何の収穫も生じさせない。朝には、貴重な朝露がきらきら光っている。だが、それが麦の穂を生じさせることはない。また、そこには甘やかに微笑む雨が降り注ぐ。刈り取られたばかりの畑に良い香りをあふれさせる雨である。だが、この畑は、それによって何も益を受けない。あなたがた、今なお生まれながらの状態にある人たちも、それと同じである。あなたは摂理によって多々祝福を受けているが、それに感謝することはない。外的な恵みの手段すら受けているが、それで神への切望をかき立てられることはない。確かに、私の愛する方々。もしあなたが長いことこのような者であったとしたら、あなたはほとんど呪っているに等しい。

 それでも、この荒れ果てた畑は、目に麗しく、眺める値打ちのあるものを生じさせる。というのも、あなたは見たことがないだろうか? 毒々しい芥子や、見事な金鳳花が、決して耕されも、種を蒔かれもしたことのない畑に生えているのを。また、向こう側には欧羅巴野茨が、狐之手袋が、勿忘草が、咲き誇っており、麦のための畝があるべきところに咲き乱れている。そして、そのように、ある人も見栄えの良い様子をし、肉においては美しい姿をしていることがありえる。神に近く生きていないとしても関係ない。その性格と評判においては、多くの派手な花があるかもしれない。――左様。芥子のように赤く、けばけばしいものがあるかもしれない。その人は人々の間で輝いており、人々は大いにその人のことを取り沙汰するかもしれない。しかし、誓っても良いが、もし主の鋤が一度もその人を掘り返したことがないとしたら、いかに赤く輝いている雑草も、やはり雑草でしかない。農夫ならよく知っているように、厄介で迷惑なものでしかなく、恩恵でも慰めでもない。あなたがたの中の、そうした状態にある人々は、荒れ地のそばを通り過ぎるたびに、それが見事に自分を象徴していると思って云うがいい。「これこそ、まさに私たちの姿だ。では、私たちは、この人生の最後にはどうなるだろうか。神の恵みが介入して、私たちを無限の破滅から引き出してくれないとしたらどうなるだろうか」、と。

 II. 《この畑にとって唯一の希望は、神があわれみによってそこに向かってくださることしかない》

 そのように、主が人々のところに向かわない限り、いかなる善も決して彼らからは生じないであろう。この聖句は云う。「わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう」。人は決して自分から神に向かうことをせず、それには明々白々な理由がある。人が決してそうできないことは確実である。というのも、人は「罪過と罪との中に死んで」[エペ2:1]いるからである。確かに人は決してそれを望まないに違いない。というのも、生まれながらに、新しく生まれるようなことを憎んでいるからである。また、たとい人が自分を新しく造られた者にすることができるとしても、そうしたいとは思わないであろう。キリストははっきり仰せになったからである。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」[ヨハ5:40]。人は罪を捨てたがらない。あまりにも罪を愛している。聖くなりたがらない。霊的な事がらのための時間などないからである。ならば、神が人のところに向かわなくてはならない。というのも、いかにして人は、生まれながらに死んでいながら、また、生まれながらにそれを望まないのに、神のもとに来ることなどできるだろうか? 経験が私たちに告げるところ、人はそうしようとしない。神のもとにやって来た人々のうち、自分の生まれつきの性向によってやって来たのだなどと云おうとするような人を、あなたは一度でも見いだしたことがあっただろうか? 地上のあらゆる聖徒はこう告げるであろう。全能の恵みこそ、神の力の日に、私を喜んでそうさせた[詩110:3 <英欽定訳>]ものなのです、と。独力で神のもとに来たような人が誰かいるとしたら、私には云えるのはただ一言、私の知る限り、私はその人ではない、ということである。

   「イエスは探しぬ、縁(えにし)もなくし、
    神の牧場(おり)より さまようわれを」。

もしこの場にいる未回心の誰かが、自分はいつでも好きなときに神に立ち返れると云うとしたら、私は問いたい。なぜあなたは今、立ち返らないのか、と。いかに重い断罪をその人は当然受けなくてはならないことであろう。その人自身も告白している通り、その人には力があるのに、それを用いようとはしないのである! 罪人よ。自分に何ができるか空しい口を利いてはならない。人よ。あなたは地獄で焼かれることができる。また、自分をその炎にふさわしい者とすることができる。だが、あなたひとりの力で行なえることは、せいぜいそこまでである。あなたは自分で自分を滅ぼしてしまっている。しかし、神のうちにのみ、あなたの助けは見いだされる。このことゆえに、確信するがいい。あなたには能力もなければ技術もない。もしあなたが救われるようなことがあるとしたら、それはあなた自身の力とは別の力、私のちっぽけで邪悪な心に宿っている精神機能とは別の精神機能によらなくてはならない。神がそれを行なうのでなくてはならない。もしあなたが、自分の荒れ果てた畑が自らを耕すまで、あるいは、自ら収穫を生み出すまで待っているとしたら、この世の終わりまで待つことになるであろう。そして、もし私が、話をお聞きの方々が自らの魂を救い、自分の力で一心に神に立ち返るまで待つとしたら、この髪の毛が半白になるまで、あるいは、この骨が墓に持ち去られるまで待つことになるであろう。そして、その時でさえ、その人々は自分で自分を救ってはいないであろう。もしあなたが神に立ち返っているとしたら、私の愛する方々。主がそれを行なわれたと知っているであろう。では、主にその栄光を帰すがいい。もしあなたが回心していないとしたら、神があなたを助けて、今すぐ熱心に神に叫び求めさせてくださるように。「帰らせてください。私たちは帰りたいのです」[哀5:21]。高く上げられたお方を仰ぎ見るがいい。この方こそ「悔い改めと罪の赦しを与える」[使5:31]お方である。この方を見るがいい。そうすれば、あなたがたは生きる。おゝ、あなたがたが今、自分のみじめな苦境を見てとることができるとしたら、また、自分の差し迫る危難を感じとり、神の恵みの主権の働きを信ずることができるとしたら、どんなに良いことか! そのとき私はあえて預言しよう。救いはこの日あなたの家に来たのだ[ルカ19:9]、と。――左様。あなたの心そのものに来たのだ、と。

 III. 《この畑が耕作に付されることになるとき、それは耕されなくてはならない》

 そのように、神がそのあわれみによっていずれかの人に向かわれるとき、そこには1つの働きがなくてはならない。その人の心の上で、耕作がなされなくてはならない。農夫は、馬鹿ででもない限り、決して、休耕地であったときのままの畑に自分の麦を蒔こうなどとは思わないであろう。まずそれを耕すはずである。私たちは、種をあらゆる所にばらまくべきである――良い地ばかりでなく道端にもそうすべきである――が、神は決してそうはなさらない。一般召命はあらゆる人に語りかけられるが、有効召命はただ準備された人々にのみやって来る。それは、神が「御力の日に喜んで仕える者とされる」*[詩110:3 <英欽定訳>]人々である。

 さて、その鋤は何のために求められるのだろうか? 何と、それが求められるのは、まず最初に、その土壌を砕き、ぼろぼろにするためである。それは硬くなっていた。ことによると、それは重い粘土かもしれない。そして、それがみな湿気によって凝り固まっており、その上に照りつける太陽によって、ことごとく焼き固められている。または、ことによると、それは軽い土壌かもしれない。よろしい。これは大して耕すことはいらないであろう。だが、それでも、それは私たちの小さな庭園においてさえ、誰しも分かるように、やはり再び固まってしまうであろう。雨が上がった後で、太陽が昇ると、すべてはもう一度固まり、種がその繊細な根を差し入れるような場所では全くなくなるであろう。麦が地に深く沈むためには、土壌が砕かれなくてはならない。徹底的に耕作されればされるほど、また、ちりが舞い上がれば舞い上がるほど、その種がしっかり根を張る希望は大きくなる。

 それと似たようなしかたで、人間の心は砕かれなくてはならない。「砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」[詩51:17]。心が徹底的に耕作されればされるほど良い。こういうわけで、律法という鋭利な鋤が心にまっすぐに突き立てられ、その外皮を砕き、その土塊を割らなくてはならない。それから、やって来なくてはならないのは、かのほむべき十字架という鋤である。それこそ、いまだかつて畑を掘り起こしたことのある鋤の中でも最上の鋤である。――このほむべき十字架という鋤は、畑を掘り返す中で、土壌を引っくり返し、その奥底までも掘り返し、罪人に自分の罪を感じさせ、憎ませもする。主キリスト・イエスによって注がれる神の愛ゆえである。このようにして、あなたは耕されて、心が砕かれなくてはならない。砕かれていない心には種が決して根付かないからである。

 また、鋤が求められるのは、雑草を滅ぼすためでもある。雑草は枯らさなくてはならない。それを伸ばし放題にしておくわけにはいかない。雑草を見のがせば、麦を刈らすことになる。だが鋤がやって来ると、一部の雑草を真っ二つに切り裂き、別の雑草を掘り起こしては、その上に重い土塊を投げ落とし、そのまま埋め込んでしまう。また、別の雑草の根を太陽にさらし、太陽は照りつけるその陽光でそれをしなびさせ、枯らしてしまう。ある土壌は十字式に耕される必要がある。それはこのように耕されてから、別の方に耕され、その後で別の者によって一方向に畝を作られ雑草を抜かれる必要がある。さもないと、そのすべてが土壌から根こそぎにはされない。そして、残念ながら、私たちの中の、すでに耕された多くの者らには、まだ種々雑多な雑草が残っているのではないかと思う。畑は単に耕されるだけであってはならない! 雑草が枯らされなくてはならない。話をお聞きの愛する方々。あなたがたもそれと同じである。もし主が本当にあなたをお救いになるとしたら、主はあなたの酩酊を枯らさなくてはならない。あなたの悪態を枯らさなくてはならない。あなたの密通を枯らさなくてはならない。あなたの虚言を枯らさなくてはならない。あなたの不正直を枯らさなくてはならない。そのすべてがなされなくてはならない。雑草は一本残らず引き裂かれなくてはならない。一本でも雑草が生きている限り、あなたには何の希望もない。

 確かに、私が意味しているのは、新生した者の中にもなおも存在しているような雑草のことではない。だが、そうしたものさえ今では、滅びる運命になくてはならない。フレンド派の一員であるジョン・ウェルマンは、自分について奇妙な話を語っている。ある夜、聖書を読んだ後で、目を覚ましたまま横たわっていると、ある声がこう云うのが聞こえたというのである。「ジョン・ウェルマンは死んだ」。クエーカー教徒であった彼は、そのことに愕然とし、自分が死んでいることなどいかにしてありえるのかと考え込んだ。彼が妻に自分の名前を聞くと、妻は答えた。「ジョン・ウェルマンだわよ」。そこで彼は、自分が生きているに違いないと悟った。とうとう彼が理解したのは、彼が世に対して死んだということであった。これ以後、彼はもはや以前あったような者ではない。むしろ、キリスト・イエスにあって新しく造られた者なのだった。そして、話をお聞きの愛する方々。同じようなことが、同じような意味であなたにとっても云えるとしたら、それはあなたにとってほむべきことである。「これこれの人は死んだ」。私には、かつて非常によく知っていた人がいる。――今も彼とこれほどの知り合いでなければ良いのにと思う。私は、何年か前には彼と毎日会うのが常であった。だが、私たちはつき合うのをやめた。彼は私とともにキリストのもとに行こうとしなかった。それで私は彼抜きに行った。私は新しい人となったが、彼は死んだ。おゝ、いかにしばしば私は彼が埋葬されることを願うことか。というのも、私は彼の死体をかかえ、それを引きずっていなくてはならないからである。そして、その腐敗臭が私の鼻腔に満ちるとき私はこう叫ばざるをえない。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか?」[ロマ7:23] この卑しい古い人は私と全く同じ名を持っており、かつては私自身の自己と一致していた。私は彼が埋葬されるとしたら手放しで喜ぶであろう。それと同じようなことがあなたにも起こればどんなに良いことか。あなたが肉に対して死に、今から後は、霊において神に対して生きるようになるのである! そして、確かにこの古い人はなおも腐敗しがちであるとはいえ、いかにほむべき一撃によってそのいのちが奪い去られていることか。もはや彼はあなたを支配できず、新しい人が至高の支配を振るっているのである!

 農夫たちが私たちに告げるところ、畑を耕している途中で鋤が跳ね上がると、その作業はうまく行かないという。畑は、隅から隅まで、畑のこちら側から向こう側まで、みな一様に耕されなくてはならない。もし鋤が跳ね上がると、それは一部の雑草か、木のこぶの上を通りながら、それを引き裂かないでしまう。私は常に、自分の鋤が跳ね上がらないように説教したいと思う。私が時として厳しい言葉を語るのは、自分の鋤を跳ね上がらせたくないためである。私はあらゆるこぶを引き裂き、地に1つも残しておかないことを願っている。もし1つでも罪を大目に見るなら、あるいは、1つでも悪い欲望を容赦するなら、神のいのちが私たちの中で完全には支配しないであろう。願わくは主があらゆる雑草を一掃し、そのすべてを枯らしてくださるように!

 よろしい。さて、よく聞くがいい。このように耕す中には、異なった土壌がある。軽い土壌があり、重い土壌がある。それと同じく、個々の性分にも違いがある。ある人々は生まれつき繊細で感受性が強い。また、私たちの姉妹たちの多くは、ルデヤに似て、すぐにみことばを受け入れる[使16:14]。他の人々は、重い粘土質の土壌に似ている。そして、あなたも知っての通り、農夫は両方の土壌を同じように耕しはしない。さもないと、悲惨な失敗をすることになる。それと同じく神は、すべての人を同じようには扱われない。ある人は、いわば、最初に多少耕されてから、種を蒔かれて、すべてが終わる。だが、ある人は耕され、かつ、十字式に耕されなくてはならない。その上で、土かき具と、土塊粉砕器と、その他もろもろがやって来ては一切を引っくり返した上で、ようやく役に立つものとなる。そして、ことによると、結局において、それはごく僅かな実りしかもたらさないこともありえる。異なる性分には、異なる働き方が必要である。このことを、あなたがたの中のある人々の慰めとするがいい。あなたは、他の人々ほど大きな恐怖を感じることはなかった。だが、異なる土壌には異なる方法がなくてはならない。キリストは、その天的な耕作において、すべての人を寸分違わぬ同じしかたでは扱われない。

 農夫には、非常に多種多様な用具がある。手広く農業を営んでいる人の倉庫に入ってみると、いかに数多くの用具を目にすることであろう! たった今、私はそのいくつかについて言及したが、私には語りきれないほど、はるかに多くのものがあるのである。私たちの《天におられる御父》もそれと同じである。御父にはありとあらゆる種類の用具がある。時として、それは摂理的な試練である。ある人がひとりの子どもを亡くす。別の人は自分の父を葬らなくてはならない。そして、向こうの人は、自分の妻の葬送のため墓まで歩かなくてはならない。ある人は物質的な損失をこうむる。商売が不振になる。ことによると、失業し、なかば飢えているかもしれない。別の人々は病のため寝床の上で横たわる。他の人々は墓の間近まで至らされる。こうした種々の環境はみな、神が私たちの心の土壌を耕す、異なる種類の鋤なのである。

 主がお用いになる労働者たちも、その賜物の多彩さにおいて、同じように異なっている。教役者たちは、人によってはある種類、また、人によっては別の種類の働きをしており、同一の教役者でさえ常に同じ種類の働きをしているとは限らない。私も知る通り、ある日曜日、あなたがたの中のある人々は、私が恐ろしい土かき具であることに気づく。私の眉宇には主の恐怖がみながり、私が口にせざるをえない数々の厳粛な警告には、ごく僅かな慰めしかないからである。しかし、たとい私が、時として土塊粉砕器のようにあなたのもとに下ってくることがあるとしても、別のときには、真の恵みと堅固な希望を手にして、その種を叩き込み、福音の真髄そのものであなたの心を養うことが必要となる。忠実な伝道者は、自分の《主人》の働きを成し遂げるため、すべての人にはすべてのものとなる[Iコリ9:29]のでなくてはならない。しかし、あなたがたは耕されなくてはならない。まず地面がかき起こされなくては、決してそこに種は蒔けないからである。

 そして、知っての通り、農夫はその適切な時期に耕作を行なう。ある土壌は、1つの時期に耕すのが良く、別の土壌はもう1つの時期が良い。ある土壌は、雨上がりの後が最も適切だが、別の土壌はからからに乾いている時が最も良い。そのように、ある者たちは重く、――そして、これはほとんどすべての心がそうだと思うが、――それが最適に耕されるのは、天的な愛という雨が降り注いだ後である。彼らは、数々のあわれみを受けたため感謝に満ちた心持ちになっており、そのとき、死に給う《救い主》の物語が彼らのもとにやって来ると、まさに彼らの心の琴線に触れるものとなるであろう。いずれにせよ、愛する方々。私はこの質問を問うて回りたい。あなたは耕されているだろうか? あなたの心は耕されているだろうか? あなたの心の土壌は掘り返されているだろうか? あなたの心の隠れた性根は、鋤が蟻の巣を掘り起こすように暴かれ、白日の下にさらされているだろうか? あなたは自分自身の数々の腐敗を知らされているだろうか? あなたには、幾多の真っ直ぐな畝が作られ、こう叫べるようになっているだろうか? 「おゝ、神よ。あなたは私を粉々に砕かれました。私を助けに来てくださらないでしょうか?」 そうだとしたら、それを私は喜ぶ。あなたは、今しも自分に絶望している。だが私は、あなたのことを絶望するつもりはない。あなたは震えているが、私は励まされている。私は喜んでいる。あなたが悲しんでいるからではなく、あなたが神のみこころに添って悲しんで悔い改めたからである[IIコリ7:9]。神はあなたの心を砕かれた。ならば、私は神がそれを包んでくださると確信している。もし神があなたを耕したなら、あなたに種を蒔いてくださるであろう。イスラエルの山々にこう云われた通りに。「わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる」。

 IV. 《神が心を耕されるまで、いかなる成功が望める種を蒔くこともできない》

 耕した後に来るのが種蒔きである。心の準備ができたとき、神はそこに種をお蒔きになる。――最良の麦の種を蒔かれる。賢い農夫は、かすのような麦を蒔きはしない。むしろ、イザヤが云うように、「第一の麦」[イザ28:25 <英欽定訳>]を蒔く。神がお蒔きになる種は、生きた種である。もしある農夫が、水煮して、生気を失った種を蒔くとしたら、それが何の役に立つだろうか? むしろ、彼は生きた種を蒔く。イエス・キリストが宣べ伝え、私たちに蒔きちらすよう命じておられる真理もそれと同じく生きた麦である。――生きた種である。そして、それが魂に落ちるとき、神はそれを見守ってくださる。虫がやって来るかもしれない。烏が来るかもしれない。だが、そのいずれも、この種に手をかけることは許されない。――

   「恵みが収穫(みのり) 確証(うけあ)わば」、――

そして、それは芽を生じさせる。――「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります」[マコ4:28]。それは生長するに違いない。神はそのためにこの土壌を準備されたからである。

 さて、私は一握りの、御国の良い種を蒔きちらしたいと思う。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。イエスを信頼するがいい。そうすれば、あなたは救われる。そら、――私には、その一握りの種が道端に落ちるのが見えた。また、もう一握りがあなたがた、茨でふさがれている人たちの中に落ちるのが見えた。だが、もしもこの場に打ち砕かれた心がいるとしたら、その種は良い地に落ちたのである。その打ち砕かれた心はこう云うからである。「何と! もし私がキリストを信頼するなら、救われるのですか?」 しかり。あなたは一瞬にして救われるであろう。あらゆる罪が一瞬にして許されるであろう。というのも、イエス・キリストはあなたの代理となり、あなたに成り代わって、あなたのもろもろの罪のためのあらゆる刑罰をお受けになったからである。それゆえ、神は、あなたに代わってキリストを罰することにおいて正義であられたため、あなたを自由にし、それでいながら、あなたを地獄に送り込んでいた場合と変わらず正しくあることがおできになる。もしあなたが信頼するなら、キリストの苦しみと功績と、キリストの義の美徳とは、今あなたのものとなる。あなたは喜びながら帰って行って良い。なぜなら、イエス・キリストによって神との平和[ロマ5:1]を持っているからである。罪人よ! あなたは信じるだろうか、信じないだろうか? 願わくは、この人々にキリストを信頼する恵みが与えられるように! いま信頼するがいい。そうするなら、私は神が、この種を蒔くようお命じになる前に、あなたを耕しておられたこと、あなたを準備しておられたことが分かる。私たちの中の、祈りの力を知っている者たちは、その砕土機をこの畑中にかけようではないか。というのも、ひとたびこの種が入ったなら、そこには砕土が必要だからである。このように私たちはみことばを宣べ伝えよう。そして、このように祈ることとしよう。その種が根を張り、芽を出し、生長し、百倍の実を結ぶように。そのようにして罪人たちが救われ、そのようにして神が栄光をお受けになるようにしよう。 

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(訳注)

*1 聖シメオン(390?-459)。柱の上に住んだというシリアの苦行者。[本文に戻る]

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「今しも備えあり!」[了]

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