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「悪魔の試みを受ける」

NO. 2997

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1906年7月19日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1864年


「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」。――マタ4:1


 何とすさまじい出来事であろう! こうした経験をするとき、私たちは恐怖でぞっとさせられ、背筋も凍る思いをして当然である。私たちの敵である悪魔は、吠え猛る獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている[Iペテ5:8]。私たちは、主イエスからこう祈るよう教えられている。「私たちを試みに会わせないで、悪いものからお救いください」[マタ6:13 <英欽定訳>]、と。祈りにおいて求めるか避けるかするよう教えられているものは、行動においても同じように追求するか遠ざけるべきである。それゆえ、私たちは非常な用心とともに誘惑を避けるように努力し、従順の通り道を歩くべきであって、決して自分を誘惑するよう悪魔を誘うという罪を犯してはならない。獅子を探して藪に入るべきではない。そうした増上慢は大きな代償を払うことになりかねない。獅子は私たちの通り道を横切るか、私たちの家にやって来ることがありえるし、疑いもなくそうするであろう。だが、私たちがこの獅子狩りをする筋合いはない。その獅子と出会う者は、たとい勝利を得るとしても、それが激越な務めであり、悲痛な格闘であることを悟るであろう。キリスト者は、そうした対決から免れることができるよう祈るがいい。私たちの《救い主》は、誘惑が何を意味しているかを経験されたがために、このように真剣にご自分の弟子たちに訓戒しておられるのである。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」[ルカ22:40]。

 しかし、どのように行なおうとも、私たちは誘惑される。神には罪を持たない御子がひとりおられたが、誘惑を受けない神の子どもはひとりもいた試しがない。人は、火花が上に飛ぶように、生まれると苦しみに会うものだが[ヨブ5:7]、キリスト者である人もそれと同じくらい確実に、逃れようもなく、誘惑に遭うよう生まれつくのである。私たちの義務は、常にサタンを警戒することにある。なぜなら、彼がいつやって来るか知れないからである。彼は盗人に似て、自分が来ようとしていることなどおくびにも出さない。暗殺者のように、ひそかに自分のえものに忍び寄る。もし彼が常に公明正大にふるまい、大胆で公然たる敵だったとしたら、私たちも彼に対処できるかもしれない。だが彼が知らぬまに私たちに相対し、道の途上の暗く泥深い場所で私たちに襲いかかるがゆえに、私たちは誘惑に陥らないよう祈る必要があるし、《救い主》のこの訓戒を聞く必要がある。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」[マコ13:37]。

 それでも、賢明な信仰者たち――サタンの種々のやり口について経験を積んできた者たち――は、彼の仕掛ける誘惑に一定の方式があることに気づいているであろう。彼は、ある特定の時や時期を選んで神の子どもを攻撃することが最も多いということである。これはしばしば起こることだが、キリスト者は自分が二倍の危険に直面すると思うときには、二倍の警戒を払う。すると、その危険は、その人がそれに当たろうと備えることによって、避けられることがある。予防は治療にまさる。そのように十分に武装を固め、悪魔に攻撃させない方が、戦闘の種々の危険に耐え忍ぶよりも良い。たとい、あなたが勝利者となるとしてもそうである。

 私たちが見知ってきたところ、――そして、少しでも霊的生活について知っている人なら誰でも知っているように、――あるキリスト者をサタンが最も攻撃する見込みが高いのは、その見込みが最も薄いとその人が思っているときである。肉的な安泰のうちにあるときが最も不安定である。あなたが思いもかけない折に、この世を支配する者はやって来る。あなたが人間的な云い方で、「私は安全だ」、と云うであろうまさにそのときこそ、あなたは危険に陥っている。かの安逸氏[バニヤン、『聖戦』]はこう云っていた。「私たちが不断に警戒している必要など何もない。明らかにインマヌエル王は私たちに微笑みかけておられるし、聖霊が私たちの内側には宿っている。私たちは神の子どもたちなのだ。食卓に着いて宴会しようではないか。食べて、飲んで、陽気になろう」。――そうする時には、こう仰せになる《お方》の声音が聞こえるであろう。「立てよ。われらはここから去って行こう。この心は汚れてしまったのだから。わたしは、もはやこの中に、わたしの臨在の意識的な喜びを注ぎ出しはすまい」、と。愛する方々。悪魔に用心するがいい。悪魔に用心する必要が最も少ないと思われるときこそ、最も悪魔に用心するがいい。

 今晩の私たちの瞑想の基本方針としたいのは、「そのとき」<英欽定訳> という、本日の聖句の冒頭にある言葉を取り上げることである。ここには、教訓となるものが見いだされると思う。特に、若い信仰者は、いつサタンが最も彼らを打ち負かす見込みが高いかを教えられることであろう。そして、おそらく自分の見いだしたことに驚くであろう。経験と、神のことばの数々の実例との判断によれば、サタンが彼らを攻撃する見込みが最も高いのは、サタンが最もそうする見込みが薄いと彼らには思われるだろう時なのである。私たちの《救い主》がいつ誘惑をお受けになったかに着目してほしい。――第一に、それに先立った種々の状況はいかなるものだっただろうか。また、それに続いた種々の状況はいかなるものだっただろうか。この2つの事がらに注意してから、私たちはこの出来事全体を取り上げて、そこから教えられることがないか見てとりたいと思う。

 I. 第一に、《私たちの救い主の荒野における誘惑に先立った、種々の状況に注目するがいい》

 イエスは、ことのほか敬神の念に富んだ心持ちを有する中で、荒野へと導かれた。ルカの記録するところ、私たちの《救い主》は、バプテスマを受けたとき、祈っておられた[ルカ3:21]。主は常に祈りの人であった。実際、このことは《救い主》の1つの特徴であった。もしも、キリストを他の人々と截然と区別するものが、その外的な聖潔と内的な聖別以外に何かあるかと問われたとしたら、私たちはこう云うべきである。「祈りの霊を常時行使しておられたことです」、と。イエスは、バプテスマを受ける際に祈っておられたと記されている。だがしかし、この祈りがささげられ後で、また、イエスがこのように御父の御座において礼拝した後で、誘惑がやって来たのである。そのように、あなたは自分の密室に入り、格別に清新にされる時にあずかっていたかもしれない。主は、あなたの個人的な静思の時に、この世に対しては現わさないようなしかたで[ヨハ14:22]、明らかにご自分をあなたに現わしてくださったかもしれない。だが、だからといって、あなたがサタンの誘惑を免れていると結論してはならない。もしかすると、その密室から一歩外に出るや否や、争闘せざるをえなくなるかもしれない。交わりはやみ、激闘が始まるであろう。サタンは知っているのである。あなたが、あなたの祈りによって彼の大目的に対して害を加え続けていたことを。あなたは、いと高き所から数々の祝福を下げおろしてきたではないだろうか? 霊的エリコの城壁を揺さぶってきたではないだろうか? ならば、それゆえに彼はあなたを憎まないだろうか? サタンは、悪人たちの中に見いだされるのと同じような、あなたに対する憎悪をいだいている。そして、私たちも知る通り、悪人という悪人は、善人がせっせと働けば働くほど常に怒りを燃やすものである。そのように、サタンは、あなたが神の宝物庫の鍵を開いて、彼が有したがっていた富者を貧者にしてきたことを知るとき、いやましてサタン的になる。何と、あなたの祈りは、――大胆きわまりない云い方をして良ければ、――盲目な目を開き、死んだ心を生かし、霊的な牢獄の扉の鍵を開け、ハデスの門を揺り動かす道具となっていたのである。ならば、サタンが今あなたを攻撃しようとするとは思わないだろうか? サタンが密室の扉に貼りついていると予期するがいい。そして、もし、あなたが静思の時をしまりなく行なうときに誘惑を受けないとしたら、こう確信するがいい。あなたが大いに祈りを積むときは常に、サタンがこの上もない激怒をあなたに対して燃やすことを予期して良いのだ、と。それは当然ではないだろうか? 愛する方々。あなたに祈りを行なわせ続けることはサタンの得にならないのである。彼は知っているのである。あなたが、あなたの《主人》に似た者となればなるほど、より大きく聖霊をあなたの内に宿すようになることを。それゆえ、この祈りの霊を害することはサタンに好都合であり、それで彼はあなたに立ち向かい、いわばその棍棒を手に持ってあなたを打ち倒そうとするのである。「祈るだと! お前が?」、と彼は云う。「否。そんなことをさせるものかよ。俺様がお前を誘惑してやろう。祈るだと! お前が?――これから強くなって、俺様をあざ笑おうというのか? 否。そんなことをさせるものかよ」、と彼は云う。そして、ありとあらゆる手段を尽くしては、あなたが天的で、魂を富ませるような密室の祈りに携わらないようにしようとする。さて、もしそうしたことがあなたに起こるとしたら、何か思いがけないことが起こったかのように[Iペテ4:12]驚いてはならない。同じことをあなたの主も経験したのである。主は祈っていたが、誘惑はやって来た。では、あなたは、祈った後で、悪魔に誘惑されることを予期して良い。

 それと同じように、私たちの《救い主》は、御父のみこころに公に従う行為に携わっておられた。主がバプテスマを受けた直後であったことを忘れまい。主はヨルダンの岸辺に赴き、ご自分を洗礼者の手におゆだねになり、ヨルダンの川面の下に沈められた。「このようにして」、と主は云われた。「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」[マタ3:15]。ある人々は、バプテスマの後で非常な喜びに恵まれる。あの宦官がそうであった。すなわち、彼は「喜びながら帰って行った」[使8:39]。だが、誰しもそうなるわけではない。こうしたことも、しばしば起こるものである。すなわち、公の誓いを行ない、公に自分の信仰を告白した後で、異様な葛藤と争闘の時が訪れるのである。愛する方々。あなたはこう云うべきではない。「私は、正しいことを行なったはずだ。今はこれほど幸いな気分なのだから」。神の命令を実行したならば、幸いに感じていようがいまいが、正しいことを行なったのである。ある儀式に対する御霊の証しは、その儀式を受けた後のあなたの幸いさではない。というのも、その儀式を受けた直後に幸いさが続く代わりに、暗闇の支配者とのすさまじい争闘に突入しなくてはならないということも、まま起こるからである。

 小さな子どもたちが、何か家の手伝いをするたびにちょっとしたご褒美をもらえるのは、まだ幼いうちだけである。十分に発達した息子たちや娘たちは、云いつけに従うたびに、いちいち甘いおやつをもらえると期待したりしない。しかり。その子たちは従順でありながら、父親から薬を受け取ることがありえる。そして、その苦い一服でさえ、幼い頃によくもらった甘いお菓子と同じくらい、自分が受け入れられている本物の証拠であると考えることができる。私たちは、いつまでも子どもであるべきではない。――いつまでも小さな幼子であるべきではない。あの宦官は、恵みにおいて幼子であったからこそ、喜びながら帰って行ったのである。だが、それよりも強い信仰者たちは、しばしばキリストのように試みを受けるであろう。そうした人々は、バプテスマの後でぽたぽた水滴を垂らしたながら上がってきては、やはりぽたぽた水滴を垂らしながら別の川に下っていく。深い誘惑と悲しみという流れである。主の晩餐によってさえ、常にあふれるほどの慰めが得られると期待してはならない。あるいは、たとい慰めが得られたとしても、サタンがその後すぐにあなたと対決すると予期して良い。ある儀式が、あなたの魂を豊かに富ませるものとなればなるほど、その後で誘惑される見込みは高くなる。海賊が海上にいるとしたら、いかなる船を襲うだろうか? 空っぽの船だろうか? 否、否。むしろ、宝の山に出かけては積み荷を満載して帰港しつつある船である。そのとき、海賊は云うであろう。「海賊旗を上げろい。さあ、戦利品をがっぽり頂こうじゃねえか」。そして、あなたがバプテスマか、主の晩餐か、祈りにあずかって、魂が主イエスとの交わりによって富まされたとき、サタンは云うのである。「さあ、俺様の出番だ。あの天的な積み荷を載せた船を襲って、思う存分に分捕ってやろう」、と。

 私たちの《救い主》は、単に敬神の念に富み、従順であっただけではない。主は、この上もなくへりくだった心持ちでもあられた。主はヨハネからバプテスマを授けられた。ヨハネは、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」、と云ったが、この《主人》はこう云い表わされた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」[マタ3:14-15]。何がふさわしいかを語られた! 神の御子が、何が正しいことかばかりでなく、何がふさわしく、都合の良いことかを語っておられる! 明らかに、主の思いは、神の御前におけるへりくだりに関して非常に聖いものであった。だがしかし、主は誘惑された。私たちは、高慢にしているときには、誘惑されると予期して良い。だが、むしろ、それは私たちがすでに誘惑を受けていたということである。というのも、悪魔は少なくとも自分の網の網目の一本は私たちにかけているからである。だが、私たちがへりくだっているとき、また、神がご自分の御座の足元に私たちを打ち伏させてくださるとき、ことによると、私たちは今は何の誘惑もやって来るまいと思うかもしれない。それほど自信を持たないようにしよう。[『天路歴程』の]基督者はどこでアポルオンと出会っただろうか? 覚えているだろうか? それは、《屈辱の谷》であった。山頂ではなく谷底であった。あの羊飼いの少年が、下にいる者は落ちる憂いはないと云った谷底であった*1。この少年は、ある意味では正しかったが、私たちの中のある者らは、別の意味で、そこで用心し、恐れる必要がある。サタンはへりくだりを憎んでやまないため、自分のあらゆる毒液をその上に吐き出す。この、神がその芳香を楽しまれる甘やかな花、へりくだった悔いた心からの祈りを、彼は徹底的に忌み嫌うため、彼の一切の悪意を注ぎ出すのである。もしあなたに打ち砕かれた心があるなら、サタンとあなたは決して友になれない。あなたは、この約束を成就させるからである。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」[創3:15]。神は、あなたの心の中に決して以前はなかったような敵意を、あなたとサタンとの間に置かれた。あなたの心が打ち砕かれているのは、神がその敵意をそこに置かれた証拠である。恵みからのみ、そうした経験はやって来る。あなたの敵手は、自分に対するその敵意を、あなたが神の前でへくりくだり、悔いているという事実のうちに見てとっては、全力を傾けてもあなたを誘惑し、できるものなら、あなたに罪を犯させようとする。

 また、見れば、私たちのほむべき主は、この折に、ご自分が御子であるという天来の証印としるしを授けられた。開かれた天から、御霊が鳩のように主の上に下られた。そして、いと高き栄光のもとから1つの声がした。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」[マタ3:17]。その主が、今、かの大悪鬼によって試みられるというのだろうか? 悪魔はそれを聞いたのだろうか? 彼は、それを聞かずにいるには、さとすぎる耳を持っている。それゆえ彼は、キリストが神の愛する御子であることを知ったに違いない。そして、厚かましくもこのお方に襲いかかったのである。しかり。悪魔はあまりにもはなはだしい馬鹿者であるため、自らの手を火に突っ込んでは、火傷するのである。彼は神の子どもを攻撃する。自分が打ち勝てないことは承知だが関係ない。あまりにも罪によって愚かにされた彼は、神の円盾の分厚い突起に突撃し、自分より無限に強く、偉大な霊と争闘し続けるのである。

 さて、愛する方々。あなたは、ことによると、自分が神から生まれていることを、あなたの霊とともに証しする[ロマ8:16]、何か非常に甘やかなものを有したことがあるかもしれない。「アバ、父」[ロマ8:15]との言葉が終日あなたの唇に上っている。あなたが膝まずいて祈るときには、主の祈りのあの甘やかな冒頭が、その一切の始めであり終わりであった。「天にいます私たちの父よ」[マタ6:9]。また、あなたは、自分の種々のあわれみを御父の御手から出たものとして受け取り、自分の様々な苦しみや懲らしめもまた、同じ父としての愛から受け取った。私があなたに望みたいのは、あなたが決してあぐらをかいて、こう云わないことである。「今や、私の戦いは終わった。私の勝利は永遠にかちとられた」。愛する方々。もしそうするなら、あなたは自分の敵を計算に入れていないのである。あなたは自分が港に入ったものと考えているが、実は大洋の中途に達したにすぎない。あなたは、甘やかな沃野について考えているが、まだあのあふれ流れる大水をほとんど渡りきっていない。さあ、賢くなるがいい。欺く者の親玉が、知らぬまにあなたを捕らえるといけない。もしあなたが自分は子とされたと希望しているとしても、なおも見張り台の上にいるがいい。サタンがあなたに襲いかかるといけない。私が神の子どもであると確信すればするほど、また、それが他の人々に対して明らかになればなるほど、悪魔は私をその矢の的とするであろう。今から私は、ひとりの愛する友人から多くの有益なたとえを借用しようと思う。彼はこの主題について、精密で大規模な本を著述したが、古い神学者を引用してこう云っている。「人は、自分の鳥を撃ちに出かけたりしない。彼が銃を持って外に出るとき、それは野鳥を撃つためである。そのように、悪魔は決して彼自身の子どもたちを誘惑しに出かけたりしない。そうする必要はない。彼らはすでに彼のものだからである。だが、ある人が神の子どもであると彼が知るとき、そして、いわば、彼にとって野鳥であるとき、そのとき、彼はその人を襲いに出て来るのである」。ならば、あなたが神の子どもであると確かに知られれば知られるほど、確実にサタンはあなたに襲いかかるであろう。

 また、この物語に戻ると、イエス・キリストは聖霊に満たされていた、とルカが記している[ルカ4:1]。主は聖霊に満ちておられたが、それでも誘惑された。なぜ? 聖霊は決して無駄に与えられることがなく、私たちに与えられるとしたら、それは争闘のための備えとして、私たちが必要に応じた力を得るためだからである。やはりまた、聖霊が与えられるところでは、先に言及した理由から、すぐさま悪の霊が働くことになる。すなわち、神の宝物がある所には、盗人が侵入しようとするものである。これは確か、私の前任者のひとりが云ったことだと思うが、バプテスト派の教役者の家に盗みに入った者はひとりもいた試しはない。そこには何も獲物がないと知れ渡っていたからである。だが、盗人たちは他の人々の家にはしばしば盗みに入った。そこに宝物があると知っていたからである。そのように、悪魔は恵みの欠けた人々をつけ狙いはしない。「何と」、と彼は云う。「そこには俺様の盗めるものが何もないではないか」。だが、もしあなたが恵みに満ちているとしたら、あなたはこの大敵がやって来て、あなたを襲うのを予期して良い。お百姓のジョーンズじいさんが金曜日の夜、家に帰ってきたとき、路上に出てきて彼を待ち受けていた者は誰もいなかった。だが、それは市場の立った日の夜で、じいさんは小麦を売ってきた帰りだった。それで何者かが《取引所》で代金を受け取るじいさんに目をつけていたのである。追いはぎがじいさんを呼び止めると、その金を奪い取った。悪魔は、あなたが豊かになり、聖霊に満たされているときを知っている。今や彼は、自分の手間暇をかけるだけのものがあると考え、それで竜の翼をかって、この神の富んだ子どものいる所へ急行すると、待ち伏せしては、その人に遅いかかり、打ち倒そうとする。よろしい。いついかなる時にもまして悪魔と戦うのに好適なのは、あなたが御霊に満たされている時である。それで、悪魔はそのときのあなたに余計な手出しをする愚か者なのである。悪魔ほどの愚か者はいた試しがない。彼は、私たちがそう云うのをいま聞いており、それを知っているが関係ない。彼は愚か者であり、永久に愚か者のままであり、ついに私の《主人》が彼の口にくつわをはませ、彼の顎に馬勒をつけて、彼が永遠に住まうことになる領域へと追い落とすことになるのである。

 さて、ここまでが、私たちの主の誘惑に先立った種々の状況についてである。私たちは警報を鳴らしていると思うし、これはあなたにとって警戒警報となりえるであろう。たといあなたが深い静思の時を有し、いかにへりくだった、受け入れられるしかたで従順に行なってきたとしても、また、子とされることの数々のしるしを受け取ったとしても、また、今や聖霊に満たされているとしても、関係ない。

 II. さて、話の趣旨を変えて、《これに続いた種々の状況は、あなたが真剣に熟考する値うちがある》

 イエス・キリストは、その公的な奉仕をまさに始めようとしておられるところであった。ある人が云うように、「イエス・キリストが、父親の大工仕事場の木屑のほか何にも手出しをしていなかった間は、悪魔は決して主を誘惑しなかったが、今や主が、貧しい人々に対する喜ばしい知らせを告げ知らせようとし始めるや否や、悪魔は主に襲いかかった」。私たちが神の御国の進展のために何事も行なっておらず、人目につかず、内に引きこもっている間は、私たちも免れることができるかもしれない。だが、常ならぬ誘惑が起こるのは、普通でない労苦に携わっている人に対してである。サタンは、神が並外れた奉仕を負わせておられる者たちを誘惑する、並外れた手段を見いだすものである。サタンは、1つを除くと、始まりという始まりを非常に恐れる。彼は罪の始まりは愛している。それは、水が吹き出すようなもの[箴17:14]だからである。だが、彼はキリスト者のうちに新しいいのちが始まることに耐えられない。「見よ。彼は祈っている!」[使9:11 <英欽定訳>] 「あゝ」、と悪魔は云う。「あの最初の祈りの憎らしいことよ」、と。悔い改めの始まりを悪魔は愛さない。それこそ、まさに水が吹き出すことである! 聖なる企ての始まり、あるキリスト教的奉仕の始まり、何らかの熱烈な宣教活動の始まり、何らかのキリスト教的労苦の新しい場の開始を悪魔は憎む。もしこうした事がらを芽のうちに摘み取ることができるとしたら、彼はそれらが完成の域に達さないことを知っている。それでイエスが福音を宣べ伝え始めると、それがゆえにサタンは主を攻撃するのである。こうした、最初期におけるサタンの攻撃は、いかなる原因によるものと考えられるだろうか?

 その主たる原因は、サタンの悪意である。キリストが、公然と聖霊に油注がれて、良い知らせを宣べ伝える者として認められるや否や、悪魔は云うのである。「俺様の矢を奴めがけて射かけてやろう。奴はあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ[マコ12:7]」。そのように、キリスト者生活の最初期に、また、特にキリスト教の教役者が働き始めたときに、サタンは云うのである。「またぞろ神に叙任された男がやって来やがった。ここにも俺様に反抗する者が立てられやがった」。それで、再びが矢が神の子どもに向けられるのである。それは、神がその熱心な魂を世に送り出される際の、悪魔からの挨拶の矢なのである。

 別の原因は、悪魔の狡猾さである。彼は、私たちには見通せない所まで見通すことができる。手近に良い企てがあるとき、多くの不信者は云う。「おゝ、そんなもの何にもならないさ。理想郷的な願望にすぎない。狂信者の立てた企てで、熱狂主義者たちがしばらくはそれを実行するが、すべては煙と消えてしまうのさ」、と。だが、悪魔の声が聞こえるだろうか? 彼は内心でこう云っている。「俺様には、この始まりに見込みがあることが分かる。これまでに、そうしたものを山ほど叩きつぶしてきたので、主の見かけをしたものはぴんと来るのだ」。「あゝ!」、と彼は云う。「もし奴を放っておけば、エルサレムとユダヤ中の人間が奴について行くだろう。すぐにも粉砕しなくてはならん」。サタンは、地獄的な勤勉さを身にまとっている。彼は、自分の王国がぐらつく土台の上に立っていることを承知している。それゆえ、常に心配しているのである。水漏れのする船で海に出ている人が、いかなる風が吹いても心配するように、悪魔はあらゆる新しいものを心配し、天来の恵みのいかなる新しい手立ても恐れる。それで、何らかの始まりを目にすると、こう思うのである。「俺様は初っ端を破壊しよう。土台を打ち壊してやろう。そうすれば、城壁は決して建つまい」、と。

 そういうわけで、キリスト者生活の最初期における誘惑の原因は、サタンの悪意と同じくらい、サタンの狡猾さにあるとして良いであろう。

 あなたがこのように誘惑され、試みられる、さらなる理由は、こうである。神は、その賢い摂理によって、今あなたを試し、果たしてあなたがご自分の働きのためにふさわしい人間かどうか見てとろうとしておられる。銃器は、売られる前に試し撃ち屋に持って行かれ、そこで、普通の狩猟家がかかえて行かなくてはならない数をはるかに越えた大量の実包を装填される。それから、その銃弾は発射される。たとい試し撃ちの間に銃身が破裂しても、大した被害はない。だが、それが未熟な人間の手にあるときに暴発すれば、この上もなく危険である。そのように神はご自分のしもべたちをお取り上げになる。神は、ある者らを特別の目的のため用いようとする場合、ことによると、彼らに普通耐えさせようとしているものより五倍も多くの誘惑を負わせなさる。それは、彼らが神の天来の奉仕にふさわしい人間であることをご自分が見てとり、はたで見ている者たちにも証明するためである。聞くところ、古の戦士たちは、自分の剣を用いる前にそれを膝で折り曲げるのを常としていたという。彼らは、それが正しい材質のものかどうかを、いざそれをかかえて戦いに乗り出す前に確認しなくてはならなかった。そして神も、ご自分のしもべたちに対して同じようにふるまわれる。マルチン・ルターが、あのマルチン・ルターになることができたのは、ひとえに悪魔がいたためであった。悪魔は、いわば、マルチン・ルターにとって試し撃ち屋だったのである。彼は、サタンの試みと誘惑を受けなくてはならなかった。そのようにして、《主人》の用向きにふさわしいものとなったのである。

 私たちの《救い主》自身、その種々の苦しみを通して完璧なものとなられた。お受けになった誘惑を通して、主は試みられている者たちを助けることがおできになるようになった[ヘブ2:18]。主も、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた[ヘブ4:15]からである。そして、キリスト者よ。あなたが神の《教会》において大きく役に立つ者となりたければ、誘惑を受けないわけには行かない。さもなければ、弱い者を強めることも、気落ちした者を慰めることもできないであろう。無知な者を教えたり、動揺する者に勇気を吹き込むには、まずあなた自身が経験という学び舎で教えられていなくてはならない。ジョン・バニヤンは、あらゆる時代の教師であり、私たちが《天の都》で会うまで私たちを教え続けるであろうが、彼自身、五年もの暗い絶望の長年月にわたり、被造物の災いと、無代価の恵みの栄光を教わらなくてはならなかった。神が著しく誉れをお与えになった、ほとんどの説教者について、同じことが云えるはずである。――事実、《教会》で大いに用いられてきたあらゆる説教者に関して云うと、荒野における、準備的な格闘があり、四十日の断食があって初めて、彼らは主への労苦のために世に出てきたと思う。

 「よろしい!」、と話をお聞きの方々のひとりは云うであろう。「私は今晩、何事かを見いだしたと思います。このタバナクルの中に入ったとき、私はそのような思いをいだいていました。私は、最近、ある新しい企画に着手したばかりです。そして、それについて考えを練り、それを開始して以来、それまで一度も味わったことがないような心の陰鬱さを味わっているのです」。私の愛する方よ。その理由については、すでに告げたと思う。それを、好ましい前兆とみなすがいい。サタンは、あなたの企てが自分の王国に深刻な損害を与えることになるのを知っているのである。だからこそ、彼はその全力を傾けて、そこからあなたを引き離そうとしているのである。確かに、あなたや私も、サタンと同じ争闘に携わっているとしたら、同じことをするであろう。そして、サタンには、私たちよりもはるかに大量の知覚力があるため、彼が何らかの手段を用いずにすます見込みは薄い。行ない続けるがいい。兄弟。行ない続けるがいい。彼は吠え立てるであろう。そして、請け合っても良いが、彼が吠え立てるときには、あなたが彼を踏みつけたということである。それで、あなたはサタンがあなたに向かって吠え猛り始めるとき、あなたが彼に害を及ぼしたことが分かるのである。行ない続けるがいい。彼にもっと吠え面をかかせるがいい。その吠え猛りを決して気に病んではならない。もう一度吠えさせるがいい。左様。あなたが神への奉仕を行なっているなら、彼を挑発し、唸り声を聞くときにはそれを勝利とみなすがいい。御使いたちが歌う一方で悪霊どもが吠えているのは、良いしるしである。サタンがあなたを打ち倒そうと努力しているとき、それはあなたが前進しているという良い兆しである。

 III. 《救い主》が誘惑を受けているこの出来事を全体として取り上げて、しめくくりにいくつか熟考すべき点を提示しよう。

 最初のこととして、聖なる人格も、誘惑を避けることはできない。完璧で、しみなく、罪に対するいかなる傾向もなかったのに、イエスは誘惑された。主のうちに、この世を支配する者は、自分の種々の誘惑になじむものを何1つ見いださなかった。サタンが私たちを誘惑するとき、それは、ほくちの上に火花を打ち出すようなものであるが、キリストの場合、悪魔が誘惑しても、水の上に火花を打ち出すようなものだった。それでも、彼は火花を打ち出し続けた。さて、もし悪魔が、それ以上に満足な結果が得られないときも火花を打ち出し続けるとしたら、いかにいやまして彼は、私たちに向かってそうすることであろう。彼は、私たちの心がごく引火しやすいものでできていると知っているのである! ならば、それを予期するがいい。たとい聖霊によってこの上もないほど聖化され、罪という罪、情欲という情欲を滅ぼすことがあるとしても、なおもこの地獄の猛犬はあなたに向かって吠え続けるであろう。

 この世からいかに遠く離れても、誘惑から安全になることはない。私たちは、この世と入り混じるとき、自分が誘惑を受けるのを知っている。自分の商売において、銀行において、農地において、船上にあって、町通りにあって、私たちはこう予期する。この世では誘惑を受ける、と。だが、たといあなたがこの世から逃れ出ることができたとしても、それでもあなたは誘惑されるであろう。イエス・キリストは、人間の社会を遠く離れ去り、荒野に出て行ったが、「そのとき」悪魔から誘惑された。孤独がサタンからの誘惑を予防することはない。孤独にはそれなりの魅力と利点があり、肉の欲を矯めるにも、また、確かに目の欲や暮らし向きの自慢[Iヨハ2:16]を矯めるにも有益なものとなりえる。だが、悪魔を負かすのは、それ以外の武器によるべきであって、孤独によるべきではない。人里離れた場所においてさえ、彼はあなたをなおも攻撃するであろう。ならば、ただ世俗的な思いをした者たちしか恐ろしい考えや冒涜的な誘惑を受けないのだと思ってはならない。というのも、霊的な思いをした人々でさえ、同じものに耐えなくてはならないことがありえるし、いかに大胆な性格をした、いかに聖なる立場に就いた人々にさえ、この上もなくどす黒い誘惑がやって来ることがなおもありえるからである。

 霊がいかに聖別されきっていても、サタンの誘惑から不可侵なものとされることはない。キリストは徹底的に聖別されていた。主のバプテスマは真実であった。主は真に世に対して死んでおられた。ただ御父のみわざを行なうためにだけ生きておられた。ご自分を遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、主の食べ物であり飲み物であった[ヨハ4:34]。それでも、主は誘惑された。あなたの心は、熾天使的な、あるいは、智天使的な、イエスに対する愛の炎で明々と輝くかもしれない。だがしかし、悪魔はそれに冷水を浴びせて、あなたをラオデキヤ的ななまぬるさ[黙3:16]に引き下ろそうと努めるであろう。

 また、いかに高い形の恵みも、いかに大きく成長した霊的思いも、私たちが誘惑されないようにすることはできない。しかり。いかに卓越した公の奉仕も、いかに恵まれた個人的交わりも、私たちが襲われないように守ることはない! ある人は云うであろう。「いつになれば、キリスト者はその武具を脱げるのですか?」 もしもあなたが、いつ神はキリスト者にその武具を脇に置くことを許しておられるか教えてくれるなら、私もあなたに、いつサタンが誘惑しなくなるかを告げることにしよう。だが、私たちは、古の騎士たちが戦時中にしていたように、兜と胸当てを身につけたまま寝るべきである限り、そこには十分な必要があるのだと確信して良い。私たちが思いもかけない時に、かの大悪魔は私たちをえじきにしようと虎視眈々と狙っているのである。願わくは主が私たちをいついかなる折にも用心深くさせ、この獅子の顎から、また、この熊の前脚から、私たちを最終的に逃れさせてくださるように!

 悲しいかな! この場にいるある人々は、まだこのように誘惑されておらず、ことによると、ひとり得意がって、こう云っているかもしれない。「われわれは、そのように誘惑されたことが一度もないぞ!」 あゝ! あなたは器から器へあけられたことがなく、葡萄酒の滓の上にじっと溜まっていた[エレ48:11]。だが、なぜあなたは、それほど静かに放っておかれたのだろうか? それは、あなたの内側に何の霊的いのちもないからではないだろうか? あなたは、罪過と罪との中に死んで[エペ2:1]いるのである。悪魔の持ち物なのである。それゆえ、なぜ彼があなたを狩り立てることがあろうか? 人が投げ縄を持って出て行くのは、自分の厩舎に入っていて、馬勒も鞍もつけられており、どこでも好きな所へ乗り回していける馬を捕まえるためではない。人が出て行くのは、自由な野生馬を狩り立てるためである。そのように、悪魔はあなたが馬勒と鞍をつけられていること、自分の好きな所にあなたを乗り回せることを知っているのである。それで彼はあなたを狩る必要がない。だが、彼は自由なキリスト者を狩り立てるであろう。その背中の上に鞍をおくことができず、その口にくつわをはませることができないからである。私は、あなたが誘惑を受けてほしいと思う。あなたの中に、何か悪魔が努力するに値するものがあってほしいと思う。だが、それはない。願わくは神があなたの心を更新し、あなたにゆるがない霊を与え給わんことを! 覚えておくがいい。救いの道はイエスを信頼することだということを。そうするなら、あなたは救われる。信じてバプテスマを受ける者は救われる[マコ16:16]。もしあなたがイエスを信じているとしたら、――イエスだけを全く、心を尽くして信頼しているとしたら、――あなたは救われている。そのとき、あなたは地獄の力にも挑みかかり、圧倒的な勝利者として出てくることができるであろう。願わくは《主人》がこうした言葉を祝福し、多くの人々にとっての警告、また、ある人々にとっての慰めとし給わんことを。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

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(訳注)

*1 ジョン・バニヤン、『天路歴程 続編』、p.128、(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985。[本文に戻る]

 

「悪魔の試みを受ける」[了]

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