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きわめて異様

NO. 2995

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1906年7月5日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼は、……家を整理して、首をくくって死んだ」。――IIサム17:23 <英欽定訳>


 アヒトフェルは鋭い直感力の持ち主で、彼と相談した人が彼の助言に従うことは、彼が天から下った神託ででもあるかのようであった。彼は、外交術の達人で、権謀術数の手管を知悉していた。――先見の明があり、用心深く、深い洞察力があった。彼は、長年にわたりダビデの友であり顧問であったが、国民感情の側に立つ方が得策であると考え、旧主のもとを離れた。それは、他の多くの廷臣たちと同じように、上る朝日を礼拝し、アブシャロムの下で卓越した地位を保つためである。これは、外交用語を用いれば、単なる犯罪ではなく、間違いであった。アブシャロムは明察の警告に従う人物ではなく、アヒトフェルは自分が別の顧問に乗り換えられたことに気づいた。これに対して彼は激怒したあまり、アブシャロムから離れて急いで家に帰ると、個人的な問題を片づけた上で、全く困惑しきって首をくくった。

 彼の場合によって教えられるのは、いかにすぐれた世俗の知恵も、人をその究極的な愚かさから守ってくれはしないということである。ここにいるのは、熟慮の名判官とも称されるべき人物でありながら、その才覚によっては、自分の首を死の縄から免れさせることができなかった。多くの人々は、一時はこの上もない賢さを有していながら、長い目で見ると失敗者となってしまう。高名な君主が、しばらくの間は聡明であっても、じきにその全政権の遅鈍な過ちを明らかにする。こうした例は、手近にいくらでもある。輝かしい経歴が恥辱のうちに終わり、富裕な人生が貧窮のうちに幕を閉じ、帝国が崩壊して廃墟となる。この人生しか顧慮しない知恵は、自らの領域においてさえ破綻する。その計略はあまりにも浅く、その策略はあまりにもその場しのぎで、その全体は全く思いもよらない時にがらがらと瓦解する。何と悲しい事例を私たちは見てきたことか。政策においては賢明であったが、節義を欠いていたため完全に失敗してしまったのである! 信義と真実を重んずる心がないために、彼らの建造してきた氷の宮殿は、完成する前から溶けてしまったのである。私がこの聖句にあなたの注意を引きたいのは、その非常に尋常ならざる性格のためである。「彼は、……家を整理して、首をくくって死んだ」。自分の家を整理したことによって、彼が思慮深い人物であったことは分かる。首をくくって死んだことによって、彼が愚か者であったことが分かる。ここにあるのは、熟慮と短慮、正気と狂気の異様な組み合わせである。人が浮世の俗事を念入りに整えるだけの知恵を有していながら、その後で自ら命を絶つほど不幸であるなどいうことがあって良いだろうか? ホール主教が簡潔に述べている通り、「これがありえることだろうか? 自分の家を慎重に整理する人物が、自分の衝動的な情動を制することは顧みなかったというのである。自分の家を気遣っていた人物が自分のからだをも魂をも気遣わなかったというのである」。異様な不調和である。彼は自分の遺書を作り、それから、自分の意志を通せなかったといって死のうとするのである。これは、人の心に狂気がある[伝9:3]というもう1つの証拠である。この愚劣さの証しの1つに驚いてはならない。私は、これから示さなくてはならないからである。アヒトフェルのような事例は、それにもかかわらず、ほとんど万人に共通のあり方であることを。あなたがたの中の多くの人々は、私から自分のことを語られたかのように感じるであろう。何千もの人々は、自分の家を整理しはするが、自分の魂を滅ぼしている。彼らは自分の牛や羊については十分に気を遣うが、自分の心にとって最も得になることには気を遣わない。彼らは壊れた貝殻を倦まずたゆまず拾い集め続けながら、値もつけられないような金剛石をぽいと投げ捨てるのである。彼らはあらゆることについて深慮遠謀を巡らし、細心の注意を払うが、そうしたものが最も求められる場面ではそうしない。金銭は節約しても、自分の幸福は濫費する。自分の地所は守護するが、自分の魂には自殺させる。この愚かさは多くの形を取るが至る所に見られる。それを眺めるとき、キリスト者は、同胞である人間たちの狂気を思って泣くべきである。願わくは、今から私たちの前を通り過ぎる一連の肖像が、天性に対して鏡を突き出す一方で、私たちに恵みの道を教えてくれるように!

 では、見るがいい。あなたの前にある《心遣いの行き届いたしもべ》の肖像画を。彼は、自分の雇い主に対して忠実であり、自分が任命された職務を良く果たす。早起きをしては、一日中骨折り仕事に精を出し、務めを果たし終えるまで休まない。自分が義務を負っていることは何事もないがしろにしない。私には、群衆の中にいるその人が見える。その人を抜き出し、その人と語り合うことにしよう。

 あなたは何年もの間、農業に携わってきた。畑を耕し、種を蒔き、収穫を刈り取っては、倉に集めてきた。そして、あなたほどその仕事を立派に行なう者はいなかった。だがしかし、自分の仕事についてはそれほど注意深くしていながら、あなたは決して御霊のために蒔くことも、永遠のいのちを刈り取ろうとすることも[ガラ6:8]してこなかった。決して福音という鋤で心が耕されるよう求めることも、生ける種が蒔かれるよう求めることもしてこなかった。その結果、最後にはあなたは、雑草と茨のほか何の収穫も得ず、永遠の滅びに引き渡されるであろう。何が悪いからといってあなたは白詰草や蕪や牛や羊については気を遣いながら、決して自分自身を――最も真実な自分を――自分の永遠に存在する魂を――気遣ってこなかったのか? 何と! 畑にはこれほどの配慮をしていながら、自分の心には何の配慮もしないのだろうか? 飢えた者が食べ尽くすだろう収穫のために、これほどの骨折り仕事をしていながら、永遠に永続する収穫については全く何の気遣いもしないとは!

 あるいは、あなたは一生の間、庭師をしてきた。そして、そこで何という熱心さを示してきたことか。いかに気を遣って木々や花々を刈り整え、いかに勤勉に掘ったり、植えたり、除草したり、水をやったりしてきたことか! しばしばあなたの雇い主は、これほど几帳面なしもべを有していることを喜んできた。あなたは自分の仕事を楽しんでいるし、そうして当然である。というのも、エデンの記憶の名残が、庭園というものの回りには今なお消えずにとどまっているからである。だが、いかにしてあなたは、向こうの蕪のことはそれほど精選していながら、あなた自身の霊についてはそれほど無関心なのだろうか? 何と! それほどすみやかに枯れてしまうあわれな薔薇については気遣いながら、あなたの不滅の性質については全く何も考えないというのか? あなたは非常な気を遣って、冬には温室の熱を保つようにする。か弱い植物が霜で害を受けないようにするためである。だのにあなたは、誘惑から守られたり、すみやかに来ようとしている全能の御怒りというすさまじい嵐から守られることには、全く気を遣わないのか? あなたは、自分の主人の庭の遊歩道や、花壇や、植込みを整えることには勤勉でありながら、しかし自分の心の庭園については完全に無頓着であるなどということがありえようか? 心では、ずっと美しい花々が咲き、はるかに豊かな報いが産出されるというのに。あなたには驚かされる。あなたが、他の人々のためにはそれほど立派な働きをしていながら、自分自身については、はなはだ不満足な気遣いしかしないことは全く奇妙に思われる。「彼らは私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」[雅1:6 <英欽定訳>]。

 あなたがたの職業1つ1つについて詳しく述べるとしたら、それは、あまりにも長い務めとなるであろう。だが、それぞれの場合において、あなたは自分の仕事を徹底的に行なうようにし、確実に人からの承認を得られるように心がけているだろうと思う。馬は肥やされ、馬車は無謀に駆り立てられず、壁はぞんざいに建てられず、材木はざらざらにかんなをかけられない。――あなたは、注意の足りない職人だと呼ばれたら恥ずかしく思うであろう。ならば、それを自分自身に当てはめてみるがいい。あなたは、他人の益を見守りながら、あなた自身の最高の益のことは心にとめようとしないのだろうか? 何と! あなたは馬や、荷馬車や、小荷物や、ありとあらゆる種類の細々とした物事を気にかけていながら、太陽よりも長持ちし、星々がかすむ時にも生き続けるあなたの魂は、一顧だにされずに放っておかれるのだろうか? 何と! あなたは他の人々をそれほど愛していながら、自分自身をそれほど僅かしか愛さないのだろうか? 小さな物事があなたの思念のすべてを吸いつくし、あなた自身の永遠に関わる事がらはまるで無視されたままなのだろうか?

 あなたがたの中のある人々は、家庭内の召使いをして働いており、自分の義務をきちんと果たそうと努力している。朝から晩まで、なすべきことがたくさんあり、誰かがこう云うなら恥ずかしく感じるであろう。「この部屋には箒がかけられていないし、壁には蜘蛛の巣が張っている。床は汚いし、料理ときたらお粗末なものだ。それもこれも、お前が悪い召使いだからだ」。しかり。むしろあなたは、職を得たときには、その勤め口を失わないようにし、自分の女主人を満足させていることを相当に誇りに思うであろう。ならば、どうかごく穏やかな口調で、こう尋ねさせてほしい。あなたの心は一度もきよめられていないではないだろうか? あなたのもろもろの罪がそれを常に汚していないだろうか? あなたは、あの、「人の手によらない、天にある永遠の家」[IIコリ5:1]について全く何も考えていないのだろうか? 神があなたを造られたのは、単に部屋に箒をかけたり、食事を料理したり、といった事を行なわせるためだけで、そうしたことしかあなたはすることになっていないのだろうか? それよりももっと高貴で、もっと良い生き方があなたにはあるに違いない。だのに、あなたはそれをまるでないがしろにしているのか! あなたは日に日に、別の人の家のことでへとへとになりながら、自分自身の魂については何の関心もいだいていないのだろうか? 自分の主人や女主人を喜ばせることに大きな気を遣いながら(そして、確かにあなたはそうすべきだが)、神と和解させられることには何の気も遣っていないのだろうか? あなたがそれほど理性を失った人であるとは思いたくない。

 もっと広い種別の人々に語りかけよう。おそらく、この場にいる多くの人々は、朝になると《市中》に出かけて、信用の置ける会計係としての義務を果たすであろう。あなたは決して帳簿が不正確にならないようにする。一円一銭に至るまで帳尻が合うようにする。もしも自分の手落ちのために、会社が六ペンスでも損をするしとしたら、あなたは大いに気に病むであろう。ことによると、あなたは長年の間、同じ雇い主の下にいて、盤石の信頼を受けているかもしれない。丁稚奉公時代から今日に至るまで、あなたはその会社に関係し続けている。私の知っている何人かの立派な人々は、非常な誠実さと徹底的な忠実さの持ち主で、その雇い主から値もつけられないほど大事にされている。というのも、彼らは雇い主の商売上の利益を増し加えるために身を粉にして働き、その会社の長がそうするよりもはるかに重労働に励んできたからである。その事業のすべてが、まるで自分のものででもあるかのように勤勉きわまりない働き方をしているのである。だがしかし、こうした当の人々は、自分自身が来世について有する個人的な利害については、全く念頭に置いていない。目にするも嘆かわしいことに、彼らの思いの中に神は全くなく、天国も、地獄も、彼ら自身の尊い魂も全くない。あなたがた、人間に仕える良い忠実なしもべたち。あなたは、神の不忠実なしもべとして滅びたいのだろうか? 何と! あなたは最後の大いなる清算の時を全く見越そうとしないのだろうか? 天来の正義に対して支払われるべき負債が未払いになっていることは、あなたにとって盗みだろうか? あなたは、万物の主の前に呼び出され、こう云われたいのだろうか? 「悪いなまけ者のしもべだ[マタ25:26]。わたしがお前に1タラントを与えたのに、お前はそれを風呂敷に包んでおいたのだ」。決して私は、あなたが世間で働いている際の勤勉さをひとかけらもおとしめるつもりはない。だが、あなたが職業につぎ込んでいる情熱そのものから、私はあなたに命ずる。もしあなたがたが道理の分かる人だとしたら、自分の魂を滅ぼさないように気をつけるがいい。アヒトフェルのようであってはならない。彼は自分の家を整理しておいて、首をくくって死んだ。あなたの主人の関心事を整えておきながら、あなた自身の魂を破滅させてはならない。というのも、あなたがこれほど素晴らしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができるだろうか?[ヘブ2:3]

 さて、別の絵像をも眺めてみるがいい。――《思慮深い商人》である。この人物を手短に素描しなくてはならない。彼は、商売のやり方を心得ており、市況を詳しく調べている。商機を見るに敏で、投機には用心深く、自分の得たものは確保し、今や一財産を手にしているか、手にしつつあるところである。彼は、自分が、その世俗的な取引を行なう思慮深さを心ひそかに誇りにしている。そして、愛する方よ。私は確かに、あなたが商売において思慮深くあることを嬉しく思う。というのも、無謀さと愚かさによって多くの悲惨があなた自身にも他の人々にももたらされるだろうからである。しかし、私はあなたに尋ねたい。もしあなたがキリスト教信仰について無思慮であるとしたら、いかにしてあなたは、それほど矛盾していられるのか。あなたは株の買い方を詳しく調べている。より良い株を買うことに通じている。だのに、真理は決して買おうとしないのだろうか? あなたは自分の得たすべてを安全な銀行に預けているのに、決して天に宝を積もうとはしないのだろうか? そこでは、虫もさびもつかないというのに[マタ6:20]。あなたは、自分の投機には細心の注意を払う。だが、これほど一か八かの運任せで、自分の魂を台無しにするようなばくちを打とうというのだろうか? あなたは何年もの間、早起きをしては夜遅くまで働き、注意深い食事を取ることに慣れていた。だが、早いうちに主を捜す[箴8:17 <英欽定訳>]ことは決して行なおうとしないのだろうか? 夜明けの見張りよりも先に目覚め[詩119:148]、《救い主》を見いだそうとは決してしないのだろうか? からだがすべてだろうか? 黄金があなたの神だろうか? 何と、あなたは知性と読書の人であって、そうしたことが、商売や貿易の状況よりもずっと高次の関心事であることを分かっている。あなたは、自分が滅ぶべき獣と同じ階梯にあるとは信じていない。ここには1つの《書》がある。人生がいかなるものとなるか、いかにそれが喜びのために形作られることができるか、あるいは、いかにそれが果てしない悲しみへと漂い流されていくかをあなたに告げる書物である。私の愛する方よ。私が自分の手をあなたの手の上に置き、こう云うとしたら私は狂信者になるだろうか? 「どうかお願いです。小さな事々をことごとく考えていながら、より大きな事を何も考えないようなことはしないでください。もしや、あなたが死ぬことになったとき、昔の金持ちについて云われたことが、あなたにも云われることになるといけないからです。あの金持ちも、あなたと同じくらい用心深く、慎重ではあったのですよ。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか』[ルカ12:20]。私は命じます。もしあなたが思慮ある人だとしたら、その証拠として、ありとあらゆる関心事の中でも最も重大なことについて思慮深くあるようにしてください。もしあなたが結局はただ思慮があるとほらを吹いているだけでも、下らない玩具に有頂天になっている小わっぱでもないとしたら、あなたの知恵を示すために、最も賢明な道に従ってください」、と。私はある人のことを聞いたことがある。とある米国の船の女性給仕だった彼女は、その船が沈没しかかっているとき、船室の床に金貨の山がちらばっているのを見たという。脱出する混乱の中で船客がぶちまけたのである。彼女は、その大量の金貨を集めると、自分の腰の回りに巻きつけて、水の中に飛び込んだ。彼女は石臼のように沈んでいったという。あたかも、せっせと自分を破滅のために準備したかのようであった。残念ながら、あなたがた、商人たちの多くは、自分の確実な滅びを保証するものを勤勉に集めつつあり、燦然と輝く貯蔵物の下に自分を埋葬しようと計画しているのではないかと思う。時間のあるうちに賢くなるがいい。私の声は、否、私の心は、あなたに嘆願している。あなたの魂のためにも、キリストのためにも、家を整理してから首をくくったアヒトフェルのようになってはならない。永続する幸福のための確実な債券を手に入れるがいい。疑う余地のない証券に投資するがいい。無限の危険とは訣別し、永遠のいのちを確かなものとするがいい。

 第三の写真を今から展示しよう。これは、ずっと小さな、だが、非常に価値ある種別の人々を描き出すこととなり、もしそうした人々が神から祝福されるとしたら、いかに私は嬉しく思うことであろう。――《勤勉な学生》である。彼は、自分の専攻する学問の分野で助けとなる最良の書物を探し出す。深夜まで精を出し、猛勉強を嫌がらない。頭がずきずき痛もうと、目が疲れようとかまいつけず、むしろ、先へ進み続け、記憶力を鍛え、識別力を訓練する。その一切は、学者の仲間入りしたいという希望のためである。彼の大学の数々の試験は、暦の中で、彼にとっては最も重要な時期である。彼の学位こそ、その高貴な召しの目的物である。知識は甘やかであり、学者たちと交際する誉れが渇望される。愛する若い方よ。私は一瞬たりともあなたの情熱に水を差すつもりはない。だが、ぜひ1つのことだけ考慮してほしい。今すぐに注意を払うに値することである。科学という科学の中で最上のものが、最後まで放置されるべきだろうか? 自分を知ること、そして神の知識を、二義的にしか重要でないものとすべきだろうか? 神のことばは、賢者の書斎の主たる書物となるべきではないだろうか? あなたが深夜まで精を出すのは、天来の指によって書かれた、無謬の頁を精読するためであるべきではないだろうか? あなたが何を得るにせよ、上から来る理解を、また、神の賜物である知識を、そして、あなたを、学者たちの間に伍させはしなくとも、恵みを受けた人々の間に伍させるものを得るべきではないだろうか? 学識豊富な人々の仲間入りすることはなくとも、その名を天に登録されている長子たちの教会[ヘブ12:23]に加わるべきではないだろうか? あなたの完全な人間性を訓練し、人としてあるべき身丈に全く満ちるように自分を教育したいという願いがあなたにはあるべきでないだろうか? 最も高貴な部分に、主立った配慮がなされるべきではないだろうか? 私は賢い人に語っている。その人が真に賢くなってほしいと思う。その人が自分の書斎を整理し、自分自身を鍛えていながら、永遠のいのちを忘れ、自分を待ち受けている運命を忘れてほしくはない。おゝ、学生たち。神の国とその義とをまず第一に求めるがいい[マタ6:33]。そうすれば、あなたの知恵の宮は、岩の上に立てられることになる!

 別の人格を取り上げることにしたい。大都市には非常に良く見受けられる人格である。――もしかすると、もっと多く見受けられて良いかもしれないが、――《改革的な政治家》である。私は、わが国の政治家たちを高く評価しているが、酒場や討議室で怒鳴り立てながら、自国の家庭を飢えさせているような人々をやたらと詰め込む必要はほとんどない。ある人々は、種々の政策を検討することに多大な時間を費やしていながら、自分が想像しているほどの益は国家にもたらしていない。かりに私が語りかけている人々の中に、国の内外の問題を自分の担当分野だと感じている人がいるとしよう。よろしい。愛する尊敬すべき方よ。あなたは、一般経済においては有益な立場を占めていると思う。だが、《改革派》の、あるいは、《保守派》の考察に十分値する問題を1つか2つあなたに発したい。あなたは数々の悪弊を調べてきた。あなた自身の生活の中には、矯正を必要とする悪弊が何もないだろうか? 《選挙法改正法》が必要とされていることは疑いもない。だが、あなたは、私たちの中のある者らが、自らの身裡で1つの《改正法》を必要としているとは思わないだろうか? 私たちの神、また、私たちの《救い主》に対する自分の関係についての《改正法》をである。思うに、自分自身について無知な者でもない限り、そのことを否定しないであろう。そして、身の裡で始めることは良いことではないだろうか。そして、これは立派なことではないだろうか? 私たちの家と、私たちの心との政策を全く正しいものとすること、それも、即座にそうすることは! あなたは、自分の頭の中に、《国家債務》を償却し、国を向上させ、海軍を作り直し、陸軍を改良し、植民地を管理し、仏蘭西を解放し、欧州に最上の形式の政府を確立するための完全な計画を有している。残念ながら、あなたの数々の構想は、あなたが願っているほど早くは実行できないのではないかと思う。だが、あなたにこう示唆することはできるではないだろうか? あなた自身の心は神の御霊によって更新される必要があり、あなたの多くの罪はイエスの贖罪によって取り除かれる必要があり、あなたの生き方全体は深く抜本的な変化を必要としている、と。そして、これは、いかなる貴族階級も反対せず、いかなる既得権集団も覆そうとせず、次の選挙や首相交代まで遅らせる必要のない実際的手段である、と。おそらくあなたは多くの反対に出会ってきただろうし、あなたの取り上げてきた重要問題を扇動する際にさらに多くの反対に出会うと予期しているであろう。だが、あゝ! 愛する方よ。あなたは、時として、あなたの良心を相手に問題を扇動するではないだろうか? あなたの内なる性質を相手取って、神が啓示された偉大な諸真理について討議するではないだろうか? ある程度の時間を費やして、あなたの内密の会議室で、あなた自身を相手に現在と過去と将来について考えること、――神、キリスト、天国、地獄、そして、これらすべてと関わり合うあなた自身について考察すること、――それは、結局において、価値あることとなるではないだろうか? 私はあなたに強く勧める。人が一国を導くことができると考えながら、自分自身の魂を失うことほど大きな矛盾は他にないと思われる。この世をパラダイスに変える構想があるという人が、自分自身はパラダイスを失うというのである。戦争や、ありとあらゆる種類の悪を声高に非難している人が、自分自身は神と戦争状態にあり、罪の奴隷なのである。自由について語る人が、自分の情欲や欲望に束縛されていて良いだろうか? 飲酒の奴隷となっている人が、自由の擁護者だというのである! 自由を説く人は、自分が自由であるべきである。見苦しいのは、他の人々のために戦っている人が自らとりことなっている姿である。国家の諸問題を整理しながら、あなた自身を滅ぼすといのは、家を整理してから首をくくったアヒトフェルと同じくらい愚かである。

 別の人格に移ろう。そして、これから口にしようとしていることのいかに多くが私自身に関わっているか、神が教えてくださるよう私は祈るものである。――《熱心な説教者》である。この人格は架空のものではない。恨みから示唆されたものでも、狂信によって色づけられたものでもなく、これまでこのような人はいたし、最後までい続けるのである。この人々は、聖書を研究し、神学の専門家であって、教理に通じ、律法に通暁している。自分の集めた教訓を教え、雄弁に力強く人々を教え、聴衆たちにその罪について警告し、その危険を指摘し、彼らに向かってキリストと永遠のいのちをつかむよう嘆願している。だがしかし、――これらすべてにもかかわらず、――その人自身は回心していないのである! こうした人々は自分が決して感じていないことを説教している。経験上は全く知らないことを教えている。同労の教役者たち。私は自分に対する以上にいかなる人をも暗に指してはいない。だが、生ある人間の中でも私たちほど目を覚ましているよう召されている者はいない。私たちの職務そのものが私たちを偽善者とする助けとなり、私たちの教師としての立場が私たちに二重の呪いをもたらすといけないからである。他の人々の水を求めながら、私たち自身の魂を 失わないようにしよう。キリストを宣べ伝えていながら、キリストを有していないこと、泉について告げながら、自分はその中で身を洗っていないこと、地獄について語り、人々にそれを逃れるよう警告しながら、しかし自分はそこに落ちていくこと、――願わくは、そうしたことが私たちの中の誰にも決して起こらないように!

 しかし、よく聞くがいい。この警告の点は、この場にいる全く教役者ではない多くの人々にも突きつけられている。あなたは説教者ではないが、《日曜学校》の教師、小冊子の配布者、聖書朗読婦人、市中宣教師である。ならば、同じ警告を聞くがいい。あなたは、そうした小冊子をかかえて、家から家へと巡り歩いている。だがしかし、あなた自身の家の中には何のキリスト教信仰もないのだろうか? おゝ、惨めな魂よ! 誰が、自分自身、神と和解させられていないようなあなたに、神について他人を教えてくれるよう求めるだろうか? あの《日曜学校》の子どもたちに、あなたが何を教えられるだろうか? 私は云うが、あなた自身が苦い胆汁と不義のきずなの中にいる[使8:23]とき、何をあなたがその子どもたちに教えられるだろうか? あなたがきょう、自分の学級で語った当の言葉が、最後の審判の日にはあなたに対抗して立ち上がり、あなたを罪に定めるのではないだろうか? 得々としてそうなってはならない。他人に正道を指し示しながら、自分は別の路を走ってはならない。他の人々を整えながら、自分自身を殺してはならない。

 別の絵像も眺めるべきである。――それが表わしているのは、《注意深い親》である。他の描写の下には含まれなかったかもしれない多くの人々が、ここでは言及されるであろう。あなたは自分の子どもたちをたいそう愛しており、賢明にそうしている。この世に関する限り、あなたは注意深く、思慮深い親である。あなたは、彼らが幼い頃には用心深い目を離さなかった。あれこれの幼児期の病気が彼らを墓に連れて行くのではないかと心配した。愛する母親たち。あなたは、その幼子を再び寝床から持ち上げて、抱きしめることができるようになったとき、また、神がその子に健康と力を回復しておられると思ったとき、いかに嬉しく思ったことか! あなたは自分の子どもたちのために非常に大きな自己犠牲を払ってきた。職を失い、貧困と戦っているときも、自分より子どもたちのためにそれを嘆いた。わが子がパンをほしがるのを見るのは忍びがたかった。あなたは喜んで子どもたちに服を着せ、その知性が開かれるのを見て嬉しがった。そして、あなたがたの中の多くの人々は、細心の注意を払って子どもたちが良い教育を受けられる場所を選択した。また、彼らの通り道に何か悪い影響が及ぼされると思ったときには、たちまち警戒心を高めた。あなたはわが子が美徳の鑑となり、善良な市民となることを願った。そして、こうしたすべてにおいてあなたは正しい。あらゆる人に、あなたが自分の家族について感じているようなことを感じてほしいと思う。また、いかなる者も町通りで野放しにされないでほしいと思う。そこは悪魔の学び舎だからである。さて、あなたが自分の子どもたちについてそれほど注意深くしてきた以上、私はあなたにこう問うても良いだろうか? あなた自身の魂にも、何がしかの考えが及ぼされ、何がしかの懸念がいだかれるべきではないだろうか? それもまた、天空のために教育されるべき子どもであり、上なる御父の家のために育まれるべき子どもなのである。赤ん坊の顔をのぞき込み、あなたが注いできた気遣いについて考えるがいい。それから、目を内側に向けて、あなたの魂を見て云うがいい。「わが魂よ。私はお前にどれだけ気を遣ってきただろうか? 私はお前を洗わず、服を着せず、家もないままにしてきた。キリストの血がお前に降りかかったことは一度もない。私のあわれな、あわれな魂よ。お前がこのからだを離れなくてはならないときには、何の天国もない。お前が希望できるのは、審きと、燃える憤りという恐ろしい見込みだけだ。わが魂よ。お前にこれほどひどい扱いをしてきたことで私を赦してくれ。私はこれからお前のことを考えよう。そして、膝まずいて、主に願おう。お前に対してあわれみ深くあられるようにと」。私は、あなたに個人的に要請し、この件をあなたに突きつけることができれば良いのにと思う。私がそうしていると考えるがいい。あなた家に着いたとき、私があなたの後について来ており、そこであなたにこう云っているものと考えるがいい。「もしあなたが自分の子どもたちに気を遣うというなら、自分の魂に気を遣いなさい」、と。今晩、その寝床で寝ている男の子や女の子たちを眺めて、もしあなたがまだ回心していないとしたら、自分に向かってこう云うがいい。「眠っているな。愛しい子どもたち。お前たちは私にとって小さな説教だ。お前たちを見ると、あの説教者が云ったことを私は思い出すだろう。私の神よ。私の御父よ。私はあなたに立ち返ります。私を立ち返らせてください。そうすれば、私は立ち返るでしょう」。

 私の最後の素描画は、多くの人に関係するものであり、それは《外側だけ宗教的な人》の絵である。それでいながら、その人は自分の魂には無頓着である。そのような人々がいるということは、何にもまして奇怪で奇妙なことである。私の出会ったことのある幾多のプロテスタント教徒――熱烈なプロテスタント教徒――さらに云えば、荒れ狂うようなプロテスタント教徒――たちは、それにもかかわらず、ヘシオドス*1の神学について知っている程度のことしかプロテスタント主義について知っていなかった。そして、宗教改革者たちが何を守らなくてはならなかったか尋ねられたとしたら、彼らはまるで見当違いな当て推量をしたことであろう。それでも、彼らは、わが国の《教会》と《国家》における、栄光に富む政体が「徹底的にプロテスタント的」であることに非常に関心を寄せるのである。――それで彼らに何の違いが生ずるのか、私にはどうしても分からないが関係ない。もし彼らが主イエス・キリストを信じる信仰を有していないとしたら、人がどのようにして美と認められるかなど彼らに何の関わりがあるだろうか? 他の人々は、「骨の髄まで非国教徒」であるが、芯の芯まで罪人である。不敬虔な人々に対して私は厳粛に云う。こうした事がらにおいてあなたの立場がいかなるものであろうと、それが何になるだろうか? あなたの支援を仰げる側は、そのことによって十中八九敗北するであろう。もしあなたが悪い生き方をしているとしたら、私はあなたが非国教徒であることを非常に遺憾に思う。というのも、あなたは1つの健全な大義を損なっているからである。あなたは何という愚か者に違いないことか。自分が何の関わりも持たない宗教について、これほど熱心になるとは!

 多くの人々は、やはり非常に正統的であり、硬直的なまでに厳格であるが、しかし不信者である。もし説教者が彼らの眼鏡にかなわないと、たちまち彼らはその人を公然と非難し、遠慮会釈なしに口汚く罵る。しかし今、愛する方よ。私はあなたが種々の教理や《教会》について考えていることを完全には遺憾に思わないが、あなたにこう尋ねさせてほしい。あなたは、自分が全くあずかっていない問題について裁判官を気取ることは賢明だろうか? あなたは《教会》を整えようとやかましく騒ぎ立てるが、自分自身の魂を滅ぼしつつあるのである! もしこうした事がらがあなたに属しているとしたら、私にも、そうしたことに関するあなたの熱心が理解できるであろう。だが、あなたがそれらと何の関係もない以上、(そして、信仰を持たない人はそれらと何の関係もないのである。)なぜあなたは他の人々の世話を焼きながら、自分自身の救いはほったらかしにしておくのか? デヴォンシア公爵がチェートワースの自分の地所をどう区画するかは、誰かにとっては非常に重要かもしれないが、確かにそれは私にとっては重要でない。というのも、私は全然、閣下の領地に住む地主などではないからである。それで、そのように、いかにこれこれの教理が教えられるべきかは、誰かにとっては非常に重要かもしれない。だが、なぜあなたがそのことにそれほど熱心なのだろうか? あなたは、イエス・キリストを信じない限り、全然そこに属する地主などではないのである。

 あなたがたの中のある人々について驚かされるのは、あなたが自分では全く信じてもいない福音を支援するために朗らかに寄付金を寄せることである。この場にいる人々の中には、キリストへの奉仕ゆえに私が感謝する人々がいる。あなたは、その手を自分のかくしに突っ込んでは、「主の御国の進展のために気前よく」する。いかにあなたは、こうしたことを行ないながら、それでもイエスにあなたに自分の心をささげることを拒むのだろうか? 私は、あなたが自分の金銭でイエスの好意を買えると考えているのではないと確信している。あなたは、それほど馬鹿ではない。だが、何のためにそうしているのだろうか? あなたは、あの、ノアが箱舟を建造するのを助けて、それから溺れた建築業者たちのようなのだろうか? あなたは救命艇を建造するのを助けつつも、自分自身、難船した身でありながら、その救命艇の支えを拒絶するのだろうか? あなたは奇妙に矛盾している。あなたは神の安息日を守っているが、神の安息には入ろうとしない。キリストへの賛美を歌いはするが、キリストに信頼しようとはしない。祈りの中で頭を垂れるが、祈りはしない。あなたも時には懸念するが、しかし一切の懸念を終わらせるもの、すなわち、キリストの福音に服従することはしようとしない。これはなぜだろうか? なぜこのように奇妙なふるまいをするのだろうか? あなたは他の人々を祝福しながら、自分自身を呪おうというのだろうか?

 私は、あなたがた、まだイエスを信じていない人々全員に語りかけ、こう問う。――何のためにあなたは自分の魂を滅ぼしつつあるのだろうか? あらゆる不信者は、永遠の自殺者である。自分の魂の望みを滅ぼしつつあるのである。何があなたの動機だろうか? ことによると、あなたがたの中のある人々は快適な罪にふけっていて、それを手放せないのかもしれない。私は切に願う。それを投げ捨てるがいい。それがあなたの右の目のように愛しいものであってもえぐり出し、それがあなたの右腕のように役に立つものであっても切り放して、打ち捨てるがいい。いかなる一時的な快楽によっても、永遠の破滅に至らされてはならない。いのちがけで逃げるがいい。甘やかな罪は苦々しい死を招くであろう。願わくは神があなたに、それを捨てる恵みを与え給わんことを!

 あるいは、何らかの致命的な過誤があなたの魂を滅ぼしつつあるのだろうか? あなたは、救われないままで死ぬことが些細なことだという考えをいだいているのだろうか?

 あなたは、いつの日か、それがすべて終わりになると想像しているのだろうか? 一時的な刑罰なら耐え忍べると思っているのだろうか? そのような夢を見てはならない! 無謬の神のことばはそのように語ってはいない。人間たちが自分の霊をそのように浮かばせておき、あなたの額を《いと高き方》に対して青銅のようにしようとしても関係ない。

 生ける神の手の中に陥ることはぞっとするほど恐ろしいことである[ヘブ10:31]。願わくはあなたがそのような危険を冒し、そうした運命に遭うことがないように!

 あるいは、ことによると、何らかの自分を義とする思いを頼りにしてあなたはキリストから遠ざかっているのかもしれない。あなたは、罪によってと同じくらいこのことによっても自滅することがありえる。私たち自身に信頼することは致命的である。ただイエスに信頼することだけが安全である。私はそれをあなたに説明して話を閉じることにしよう。私たちが神に罪を犯してきた以上、神は私たちを罰さなくてはならない。罪が罰されることは必要である。さもなければ、いかなる道徳的統治もありえないであろう。さて、その要請に答え、正義に合致したしかたで人々にあわれみを及ぼすために、神の御子イエス・キリストはこの世に来て、人となられたのである。そして、人としてキリストはご自分の民すべての罪をご自身の上に引き受け、そうした罪ゆえに罰された。そして、イエスに信頼する者は誰でも、イエスがその苦痛を耐え、その負債を支払ってくださった者たちのひとりなのである。もしあなたがイエスはキリストであると信じるなら、もしあなたが自分の魂をナザレのイエスにゆだねるなら、あなたのもろもろの罪は、いかに多くとも、すべて赦される。安心して行くがいい。――あなたの魂は救われている。しかし、かりにあなたがキリストを、このように仰せになるキリストを押しのけるとしよう。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。その場合、あなたは非常に賢いかもしれない。自分の仕事を非常に如才なく片づけているかもしれない。だが、そうしたすべてにもかかわらず、あなたはこの聖句にある大変な馬鹿者、家を整理して、首をくくって死んだ男なみに愚かなのである。願わくは神がこの説教を聞く人々、読む人々に賢くなることを教えてくださるように。手遅れになる前に! アーメン。

 


(訳注)

*1 ヘシオドス。紀元前8世紀ごろのギリシアの詩人。[本文に戻る]

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きわめて異様[了]

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